六十七 立身国射手矢郷・真境名燎 秘中の秘
黒葛家の第二分家、七草黒葛家が擁する立州天翔隊は立身国内に三か所の拠点を設けている。その中でもっとも古いのが、江蒲国との国境に近い州北西部の射手矢郷にある鉢呂砦だ。
前国主黒葛貴昭の命により、立州で初めての天翔隊が新設されたのは皇暦四一〇年。その年の水月に、天隼の飼育場である〈禽籠〉や隊士のための陣屋、宿所などの建造が鉢呂山で始まった。その後、戦時中に州中部の調月山と州東部の刈敷山に拠点を増やしたが、施設の規模や地理的重要度から鉢呂砦は現在も立天隊の第一拠点と見なされている。
駐留する第一隊と第五隊はいずれも精兵揃いであり、江州役では緊密に連携していくつもの作戦で大きな成果を上げた。しかし鷹啄寅三郎の起こした事件以来、ふたつの部隊は傍目にもはっきりわかるほど険悪な関係になっている。
第一隊はあの事件で隊士三人と部隊長を失ったが、第五隊は負傷者のみで死者はひとりも出なかった。命運が分かれたのは誰のせいでもないが、そう簡単には割り切れないのが人間というものだ。第一隊の隊士たちは、寅三郎の恨みを買って惨事のきっかけを作った第五隊の隊長六車兵庫に複雑な思いを抱いており、それが彼の配下の者たちへの当たりの強さとなって表れていた。第五隊の隊士からすればとんだ災難だが、彼らは相手の心情に理解を示し、よく我慢している——と真境名燎は思っている。
しかし、さすがにそろそろ堪忍袋の緒が切れかけているようだ。このところ双方のあいだで小競り合いが散発しており、幸いまだ暴力沙汰には至っていないものの、隊士同士で殴り合うようになるのも遠い先の話ではないかもしれない。
そうなる前に歯止めをかけなければ、とは思っている。だが具体的に何をすればいいのだろう。第一隊に「八つ当たりはやめておけ」などと言ったところで、彼ら自身の意識が変わらないかぎり問題は解決しない。
一方、立天隊を率いる士大将の石動博武は、副将の燎ほどにはこの件を案じていないようだった。
「もう少し時が経てば自ずとけりがつくだろう。誰しも、そういつまでも怒り続けてはいられない。第一隊の連中も直に不毛なことをやっていると気づくはずだ」
昨夜、夕餉を共にしながら相談を持ちかけた燎に、彼はそんなことを呑気そうに言った。
「兵庫が戻ればもっと話は早いが」
「そもそも、彼は戻ってくるのですか」
「さあ、どうだろう」
人ごとのような口ぶりだ。燎は内心むっとしながら軽く睨んだ。
「戻ってこなくていいと思っているみたいですね」
「そんなことはないぞ。戻るに越したことはない。戦場では頼りになるし、あれで隊士にも慕われているしな」
博武は箸を揃えて膳に置き、珍しく生真面目な表情になった。
「だが戻らなくても、あいつが友人であることに変わりはない。たまに会って酒を飲むような、ふつうの友達づきあいを続けていくだけのことだ」
本音ではあるのだろう。だが半分だけだと燎は感じた。残りの半分を見せていない。
「わたしは騙されませんよ。あれだけ戦えて作戦も立案できる上に、部隊長まで務められるような人材はどこにでも転がっているわけではない。ほんとうは帰ってもらわないと困ると思っているのでしょう」
目をまっすぐに見据えながら追及すると、博武はあやふやな表情でとぼけようとした。
「相方にまで本心を隠すのですか」逃げを許さず、さらに追い詰める。「困るとおっしゃい」
少し間を置いて、博武が小さく苦笑をもらした。
「適わんな、おぬしには」
言い負かして大いに溜飲を下げ、燎は自分の飯椀におかわりをこんもりとよそった。
「迎えをやったらどうです。どこにいるかご存じなのですか」
「だいたい目星はついている。だが、いったい誰があいつを連れ戻せる?」
「わたしが行って、引っ張ってきましょうか」
「しかし無理やりではな」
「なら刀称匡七郎に行かせて、情に訴えるというのはどうです。あるいは……そうだ、兵庫の右腕みたいな男がいるでしょう」
「伊勢木正信か」
燎は寅三郎の討伐中に、四十竹宿で正信に会った時のことを思い出していた。匡七郎と共に七草へ先回りした兵庫に代わり、第五隊を事実上率いていた彼の働きぶりを見て、すべてに目配りの行き届いた有能な男だと感じたことを覚えている。
普段さほどつき合いはないので、出自などはよく知らない。漠然と武門の出だと思っている。歳は兵庫と同じか、少し上ぐらいだろう。骨が太いというよりは筋の厚い体つきで、かなり上背もあるが、戦う時には素早い足さばきでくるくるとよく動き回る。燎は訓練で初めて彼と打ち合った時、見た目に騙されて鈍重な剣だろうと高をくくっていたら痛い目に遭わされた。膂力に優れ、恐ろしく重い斬撃を繰り出してくる一方で、ふっと眼前から消えたと思うと側面から低く振り抜いて下肢を狙ってきたりもする。
「彼は兵庫と一緒に入隊しましたよね」
「そうだ。ふたりとも最初はうちの——石動家の備の雇い兵で、兵庫を立天隊に勧誘しに行ったらあいつもついてきた」
「ついてきたというのは、彼らが友人同士だったからですか」
「友人同士だし、当時は一緒に暮らしてもいた」
その話は初耳だ。
「どういう関係なのです」
「伊勢木正信は、元は守笹貫方の兵士だった男だ」
とんでもないことをさらりと言って、博武は食後の茶をゆっくりと啜った。
「彼らが初めて顔を合わせたのは乱戦のただ中で、正信のほうから仕掛けて斬り合ったと聞いている。そのまま続ければ兵庫が勝っていたが、彼の腕に感じ入るものがあり、殺すのがもったいなくなったので黒葛方につくよう誘ったらしい」
いったいどんな誘いかたをしたら、殺し合いの最中に敵を寝返らせることができるのだろう。
「正信は共に入軍した親友だか幼馴染みだかを亡くしたばかりでいささか自棄になっていたのと、長の戦陣暮らしに倦み疲れていたこともあり、その日の戦場で出会った最強の使い手に斬られて終いにするつもりだったそうだ。それを兵庫が例の調子でたらし込んで、まんまと味方に引き入れた。そうなったからには責任があるので別の人間として生き直せるよう新しい名前をつけてやり、しばらく面倒を見るつもりで同居させたら、自分よりずっと如才ない男だったので、気づくと逆に世話を焼かれる側になっていた——というような話だ」
興味深い。しかしいろいろ端折られていて、肝心なところがわかっていないようなもどかしい気分だ。とはいえ、ここで根掘り葉掘り訊くわけにもいかない。
「副長だった家久来金晴が戦死したあと、兵庫が正信を後釜に据えなかったのは、彼がそういうわけありの男だったからですか」
「それもあるし、隊長副長が揃って雇い兵ではまずいと判断したようだ」
「正信は腕が立つし頭も切れるようですが、どういう出自なのでしょう」
「さあ、詳しくは聞いていないな。ただ剣は幼少からやっていて、十代のころに短いあいだだが達人に指南されたと言っていた。同門の仲間にも恐ろしく強いやつがいて影響を受けたとか」
本人もそうとうに使う正信が〝達人〟と呼ぶ師匠や、強いと認める仲間。好奇心をそそられる話が次々と出てくる。
「思った以上に深い間柄のようですし、彼なら兵庫を連れ戻せるのでは」
「黙って消えられて腹を立てているから、迎えには行くまい」
「腹を立てている……のですか」
蕗の煮付けを口に運びかけたまま箸を止め、燎はぽかんとなった。
「匡七郎がへそを曲げたというならわかりますが」
「正信は兵庫と約束を取り交わしているんだ。この先、彼が死合いを申し入れたら、いつ何時であろうと兵庫はそれに応じることになっている」
「試合を?」
「為し合いの試合ではなく、殺死合うほうだ。正信は剣士としての兵庫に信服しているから、いよいよ死ぬとなった時は是が非でもあいつに斬られて命を終えたいらしい」
世間は愚かと思うだろうが、燎には彼の気持ちがわからなくもなかった。同じ死ぬなら自分が認めた使い手から引導を渡されたいというのは、剣に専心してきた者なら誰でも多少は考えることだ。
「まあそんなわけで、断りもなく行方をくらますというのは約束を反故にするのも同然だと言って怒っている」
「兵庫という男は、とかく人から執着されるやつですね」
半ばあきれたように燎が言い、そこで話はひとまず終わった。問題を解決する妙案のひとつも出ず、何となく消化不良な気分だったが、昼餉のあとすぐ博武が代理の相方の刀祢匡七郎と出かけてしまったのでどうしようもない。
彼が向かったのは第二拠点の調月砦で、何か調べたいことがあるという話だった。詳しいことは戻ってきたら聞かせてもらえるだろう。
博武の不在中に砦を預かるのはいつものことだが、燎は今回、普段とは少し違う仕事もするつもりだった。
鷹啄寅三郎との一騎討ちで骨折した燎の右腕は、療師も舌を巻く早さで回復した。とはいえ負傷してからまだふた月だ。戦闘への復帰は少なくとも四か月、できれば半年ほど様子を見るよう言われている。
「そんな悠長にしていられるか。腕が鈍る」
生来気の短い質の燎は、腕の吊り包帯が取れるなり素振り稽古を始めた。周りは心配したが、何もしないでいるほうが精神的に堪えるとわかっている。実際、療養中の彼女をもっとも苦しめたのは敗戦の悔しさでも傷の痛みでもなく、以前と同じように剣を使い、禽を操れるまでには回復しないのではないかという不安だった。戦えない自分には価値がなく、ここにいる意味もなくなってしまう。
屈託を晴らすには実践してみるに限ると腹をくくり、表面上は平気そうに、内心おっかなびっくりで剣を振り始めて今日で十日。幸い今のところ、傷の痛みがぶり返したりはしていない。右腕の動きにやや違和感をおぼえることもあるが、必要以上に意識しているせいで、ささいなことまで気になるだけなのだろう。
負傷部位をかばい過ぎると、体のほかの部分に負担をかけて傷めることがある。あまり神経質にならないよう気をつけなければならない。
燎が身体の機能回復に集中する一方で、老従僕の利助は女主人の左顔面に刻まれた傷を癒そうと苦心惨憺していた。茶葉の粉末と小麦粉を練ったひんやりする湿布や、上士の奥方に人気の高価な美容水〈花露の雫〉に似たものなど、いろいろ工夫しては肌に良さそうなものを手ずから作ってくれる。燎自身は顔の傷などさして気に留めていないが、かいがいしい従僕の気持ちを傷つけたくなかったので、彼が強いる日に三度の肌養生と傷薬の塗布を黙って受け入れていた。その甲斐あって傷跡が少しずつ薄く、目立たなくなってきている──と言って利助は喜んでいる。
今日も宿所を出て朝稽古に向かう前、いつものように美容水と膏薬を塗りたくられた。化粧に馴染みがないので、顔に何かつけていると気恥ずかしく感じられて少し落ち着かない。滑稽芝居の役者にでもなったような気分だ。
手入れされたばかりのてらてらした顔を人に見られたくなかったので、屋内稽古場がある第二練兵場ではなく、禽の離発着場を兼ねた第一練兵場のある北東の副郭へ向かうことにした。その敷地の半分は深い森で、奥に入り込んでしまえば誰かに煩わされることはない。
早朝の副郭は明るく静かで、吹き抜ける風はまだひんやりとしており、少し肌寒いほどだった。隊士の姿はないが、陣屋の奉公人が数人いて掃き掃除などをしている。彼らと挨拶を交わしながら大股に郭を横切り、木立のあいだを流れる川に沿って森に分け入っていくと、行く手に落差三十間の滝が現れた。その落ち口の手前は短い草の生えた広い平地で、ひとり稽古をするにはもってこいの場所だ。
燎は履き物を脱いで裸足になり、足の裏に下草を感じながら剣を振り始めた。まずは基本の型をなぞる。右腕の調子は良さそうだ。しばらく無心に続けていると手足の指先まで温かくなり、全身の肌が汗ばんできた。ひと振りごとに、ゆるゆると心身がほぐれていくのがわかる。思い切り体を動かすのは、やはり気持ちがいい。
心楽しくなり、型に没入しきっていたせいで、この場に近づく者があることを察知するのが遅れた。
「やあ、燎どの。おはよう」
名を呼ばれて振り向くと、木立の中に玉県綱正の姿が見えた。声をかけるまで存在を気取られなかったのが意外らしく、ちょっと驚いたような表情をしている。
「綱正どの」
燎は剣を下げて軽く会釈をした。いつもならそれで終わりだが、ふと思いついて微笑もつけ加える。自分が男に愛想を振りまいていると思うと何やら気持ち悪いが、ここは綱正をいい気分にさせておかなければならない。
「おぬしも早朝稽古か」
思わぬ好機——。
気安く話しかけながら、燎は手ぬぐいを出して首元の汗をぬぐった。綱正がさらに意表を突かれた顔になる。邪険にあしらわれるのを予想していたのだろう。だったら近づいてこなければよさそうなものだが、今回に限っては彼の図々しさも許すことができる。むしろ渡りに船といったところだ。
昨日から調月砦に出かけたまま戻らない石動博武を待つあいだに、燎は綱正とゆっくり話す機会を持とうと思っていた。その目的は、玉県家の陰謀に関する情報を引き出すことだ。
ちょっとした雑談から始めて、昇進したばかりの彼の自慢話につき合ってやり、気を良くしたところを見計らって揺さぶりをかける。そう簡単に話すとは思えないが、うまく誘導すれば何かしら漏らす可能性はあるだろう。
「ただの散歩だよ」綱正が軽く肩をすくめる。「病み上がりで鍛錬している燎どのに言うのは気恥ずかしいけど」
「なに、朝の散歩は気持ちがいいものだ。わたしもよくやっている」
「そう?」
綱正が木陰から出てきて燎の脇を通り過ぎ、滝の落ち口へと近づいていく。高所を怖がっているかのような、妙に慎重な足取りだ。
「着任してから、毎日滝を見に来ているんだ。なんだかやけに懐かしくてね」
「〈隼人〉の適性試験を通過したあと、みなでここから飛んだな」
「隊士候補の中で、先陣を切って飛んだのは燎どのだった」
彼は崖の端までは行かずに足を止め、肩越しに燎のほうを見た。
「試験の時にも、いきなり禽を飛ばせて指南役を慌てさせた。颯爽と空を舞う、あの姿が今も目に焼きついているよ」
そんなことを綱正が覚えていたとは驚きだ。
「いつも真っ直ぐに前を見て、誰よりも先を行こうとする燎どのを尊敬している。これからわたしも第一隊を率いる隊長として力を尽くし、及ばずながら支えになれたらと思っているんだ」
意外な言葉ばかり出てくる。女好きで見栄っ張りでぺらぺらな男だと思っていたが、江州役の激戦を経験し、歳も三十路に差しかかって、彼も多少は変わったのかもしれない。
「その気持ち、嬉しく思う」
ちょっと硬すぎるか。
「わたしたちは立天隊の〈隼人〉になった最初の四十人だ。同期の絆で結ばれていると思っているし、おぬしのことは頼りにしているよ」
そんな彼女の言葉を綱正が信じたかどうかはわからないが、彼は素直に喜んでいるように見えた。
「久しぶりに古巣に戻った気分はどうだ」
「やっぱり鉢呂砦は特別だね。ここでは自分が最前線にいるのだと感じられる。戦時中はほとんど第三隊所属で調月砦に駐留していたから、主要な戦場で活躍できないことがもどかしかったんだ」
主要な戦場で活躍して、散っていった者たちが大勢いる——と燎は思った。綱正は自分がそのひとりにならなかったことを喜ぶべきだ。
しかし頭に浮かんだ辛辣な言葉をぐっと呑み込み、さも関心のあるふうを装う。
「そうなのか」
「まあ戦が終わったから、今はもう前線というわけではないけれどね。それでも誰もが認める最重要拠点ではある」
綱正は谷底から吹き上げる風が乱した髪を慣れた手つきでなでつけ、燎に向かってにっこりして見せた。
「どうせなら物事の中心にいたいよ。辺境の砦で地味に哨戒ばかりしているのは、正直なところ退屈で仕方なかった」
なんだ。やっぱりたいして変わっていないのか。
いろいろ言っているが、結局はより目立つ場所にいて派手なことをしたいだけなのだ。年を取っても相も変わらず見栄っ張りの、ぺらぺら男のままらしい。少し見直しかけて馬鹿を見た。
燎は気持ちを切り替え、綱正に気持ちよくしゃべらせながら探りを入れることに集中した。自分のことを訊かれるのは好きらしく、熱心な聞き手を装えば彼は何でも話す。もっと警戒するかと思ったが、そういう様子はまったく見られない。
口ではどう言おうと、綱正は内心ではわたしを軽んじていて、何を聞かせても己の不利益にはなるまいと考えているのかもしれないな。
そう思っても、べつに腹は立たなかった。むしろ見くびってくれるなら好都合だ。侮って油断すれば、うっかり口を滑らせるかもしれない。
しかしそう単純に事は運ばなかった。小半刻ほど立ち話をして、燎は綱正の妻子のことを聞き、第三隊時代の働きを聞き、微塵も興味をおぼえない彼の信念やら小さな野心やらにも耳を傾けたが、聞けて良かったと思うような話はひとつも引き出せなかった。
黒葛家への叛意を示す何かを掴めたらと期待していたが、それとなく誘いかけても、彼の口からは主家に対して忠誠を誓う言葉しか出てこない。
それもそうか——ふたりでこんなにじっくり会話をしたのは、かつて彼に求婚されて断った時以来だ。それでいきなり、おいそれとは口にできないような秘密を打ち明けてくるはずもない。今日のところは焦らずに、話ができる仲になったという印象だけを残すことにしよう。勝負をかけるのは、もっと関係性を深めてからだ。
燎は綱正の話をひととおり聞き終えたところで、さも残念そうに言った。
「もっと話したいが、そろそろ朝餉じゃないか」
「そうだね」綱正が少し申し訳なさそうな表情になる。「すっかり稽古の邪魔をしてしまった」
「そんなことはない。一緒に陣屋へ行こう」
綱正が微笑みながら近づいてくるのを見て、そこで初めて燎は彼がずっと距離を取ったまま話していたことに気づいた。以前はもっと馴れ馴れしく、いちいち傍に寄ろうとするのでこちらが逃げていたものだが。そうされた記憶が残っていて、いちおう遠慮をしていたのかもしれない。
彼が間近に来て横並びに歩き始めた時、奇妙なことが起きた。
「それ……」
にわかに息を呑む気配。掠れ声。
振り向けば、綱正が少し後ろで立ちすくんでいる。
「どうした、綱正どの」
本気でわからない。彼の顔がくすんで見えるのは、樹冠の下に入って日光が遮られたせいだろうか。それとも、何か発作でも起こして倒れる寸前なのか。
「具合が悪いのか」
綱正が唾を飲み、喉仏が上下するのが見えた。
「燎どの、そのにおいは——」
「におい? ああ」
ようやく合点がいった。
「顔の傷につけている膏薬のことか。この傷面を少しでもましにしたいと言って、従僕が毎日塗ってくれるんだ。わたしはもう慣れてしまったが、ひどいにおいだろう。だが、そんな気絶しそうな顔になるほどか?」
燎は笑いながら敢えて軽い口調で言ったが、綱正は真顔のままだ。
「その薬はどこで……手に入れたものかな」
「どこでって」
何だろう。自分も欲しいとでも言い出すのか。
「これは御屋形さま——貴之公からいただいたものだ。寅三郎の討伐後に四十竹宿の旅籠で養生していた時に、わざわざ使者を寄越して届けてくださった。なんでもご自身がお顔に戦傷を受けられた際に塗ってもらったら、痕が少しも残らずきれいに治ってしまったとかで」
説明しながら、燎はにわかに鼓動が速くなるのを感じた。この会話に呼び起こされた遠い記憶が頭の片隅にあり、ぼんやりとしたその輪郭をもう少しで掴みかけている。何なのかはまだわからないが、逃してはならない。それだけはたしかだ。
「つい先日も、そろそろ使い切るころだろうと追加を送ってくださった。ありがたいことだ」
「そう……だね」
うなずいてはいるが、綱正は上の空だ。上辺は平静を装っているものの、こちらを窺う瞳に心の焦りが表れている。つまり先ほどの質問に対して、彼は充分な答えを得られていない。燎が薬を誰から受け取ったかではなく、その出処を是が非でも知りたいのだ。
どうしてそこにこだわる。薬が何なのだ。
「この奇妙なにおいには閉口するが、実際によく効いているし、つけていると傷が引き攣れない。次に戦場に出る時にはぜひ持っていきたいから、今度御屋形さまにお礼かたがた、どこの薬師に作らせたものかお訊きしようと思っているんだ」
「自家製では」
綱正が口の中でぼそりとつぶやく。その直後、彼ははっと我に返って、漏れ出た言葉を隠そうとするように軽く咳払いをした。しかし燎の耳ははっきりと捉えている。
自家製。薬。玉県家。
いくつかの欠片と古い記憶が、頭の中でぴたりとはまった。
石動博武が調月砦から戻ってきたのは、その日の夜遅くのことだった。
燎は事前に陣屋の奉公人に頼んでおいて、帰還の知らせが届くとすぐ彼の部屋に乗り込んで行った。いつにも増して鼻息荒く登場した彼女に驚いたとしても、博武はそんな様子はまったく見せない。
「何があった」
従者の久喜伝兵衛が着替えの手伝いを終えて出て行くと、彼は畳の上に胡座をかきながら穏やかに問いかけた。
「今日、玉県綱正と話しました」
燎は彼の向かいに腰を下ろし、朝方の会話を、つまらない部分も含めて細大漏らさず報告した。博武は口を挟まず、じっと耳を傾けている。そして話が薬のことに及ぶと、彼の瞳に小さく光が瞬いた。
「わかりますか、わたしが何を思ったか」
「いや、まだわからん。だが綱正の食いつきぶりが気になるな」
「彼が薬にこだわる様子を見せた時、昔のことがふと頭をよぎったのです。あなたはきっと覚えておいでのはずですが、十二年前、貴昌君が天山へ上がられたあの年に、随行家臣団から急な病没者が出たでしょう」
「柳浦重晴どのだな」
打てば響くような返答。
「元博は毒殺を疑っていた」
亡き弟の名を口にしながら、博武の目つきが少し変わってくる。
「天山へ向かう道中も頻繁に体調を崩していたので、随行衆の誰かが彼に毒を盛っていたのではないかと。それで天山にいた忍びを通して、空閑衆頭目の空閑宗兵衛に調査を要請したらしい。どんな調べがあって何が判明したのか、おれは詳しくは知らないが」
「わたしは知っています。というのも、我が家が手厳しい調べを受けましたので」
「真境名家が、か」
意外そうな顔をする博武に、燎は当時のことをできるだけ詳細に話して聞かせた。
空閑忍びによる調査は随行家臣団に加わった七家のうち、柳浦家を除く六家に対して重点的に行われた。すなわち黒葛家分家の三貫納黒葛家、石動家、玉県家、真栄城家、由解家、朴木家だ。調査の趣旨はそれらの中に毒や薬の扱いに精通した家がないかどうかを探り出すことで、直接的間接的な聞き取りはもちろん、各家の主城や居館の捜索なども実施された。
「随員を出していないわたしの家が調査対象になったのは、父が趣味で薬を作る人で、そのことが周囲にもよく知られていたからです」
燎の父義家は、若いころから暇さえあれば山で薬草などを採取して、見よう見まねに煎じ薬を作ったりすることを楽しんでいた。むろん素人の道楽に過ぎず、大したものを作れるわけではない。それでも父が煎じてくれる歯痛止めなどはまあまあ効き目があり、燎も子供のころにはよく使っていた。
「調剤の道具もひととおりは揃っているので、宗兵衛自身が来てかなり念入りに調べていったそうです。まあ父の薬に関する知識はさほどでもなく、疑いはすぐに晴れましたが。ほかにいくつか引っかかった家も同様で、毒殺が事実であるとしても天山側のしたことだろうと最終的に結論づけられたようです」
「引っかかった中には玉県家もあったのか」
「いいえ。彼らは薬にかかわりありとはされなかった。そこがこの話の肝です」
そろそろ博武も気づくだろうか。いや、まだ理解が及んだ表情にはなっていない。
「その時も、それ以外でも、玉県家が薬作りに明るいなどという話は一度も表沙汰になっていないと思います。わたしも耳にした覚えがありません。しかし、綱正が今朝見せたあの反応——明らかに彼はあの膏薬を知っているし、独特のにおいを嗅いだだけですぐにわかったほど馴染んでいます。そして彼が知るかぎり、あれはわたしには入手できないはずのものだったのでしょう。なぜなら〝自家製〟の秘蔵薬であり、自分の家の者しか持ち得ないからです」
「だから驚き、どこで手に入れたのかを知りたがった……」
つぶやく博武の声が低くなり、燎は背中がぞくりとするのを感じた。核心に迫ってきている。
「貴之からもらったという、そのよく効く膏薬、おぬしは玉県家がひそかに作っていると思うのだな」
「はい」
「つまり彼らは薬作りに詳しい。のみならず効能のたしかなものを作り出す高い技術も持っている」
「それほどなら家伝来の技として誇ってもよさそうなものです。しかし空閑忍びの調べでも出てこなかったほど完璧に隠している——と考えると、何やらきな臭くありませんか」
「たしかに。疚しいところがありそうだ」
博武は胸の前で腕を組み、鋭い目をして言った。
「黒葛家に服従する以前から、人には言えないような薬を秘密裏に作り、時にそれで邪魔者を消したりしてきたのかもしれないな。毒薬を用いる家だと思われると忌避されるから、良薬を作れることも含めて、ずっと外部には知られないようにしてきたのだろう」
彼が集中していることを示すように、声に重みが増した。
「玉県家にとって調薬は、いわば秘中の秘。決して外に漏らしてはならなかった」
「でも誰かが御屋形さまに漏らし、あまつさえ薬そのものを渡してしまったわけですよね。そんな軽率な真似をしたのは誰でしょう」
「むろん玉県景綱だ」
言下に言い放ち、博武は困惑顔の燎を見て小さく笑った。
「誰だそれはと言いたげだな」
「は——いえ、ぼんやりとはわかります。御屋形さまの側近で、まだ年若いのでは? 話をしたことはありませんが、ご城内や陣中で何度か姿は見かけました。少し綱正に似た顔立ちだったように思います」
「景綱は家老の玉県輝綱どのの長男で、安須白玉県家の跡取りだ。綱正から見れば兄の子、甥だな」
博武の説明を聞きながら、燎はふと不可解さをおぼえた。
「変ですね。いま気づきましたが、わたしは輝綱どのに息子が産まれたという噂を聞いたことがありません。いえ、それ以前に、そもそも彼はいつ妻帯したのでしょう」
景綱という若者が貴之公に仕えていることは知るともなく知っていたが、改めて考えると彼はどこからともなく忽然と現れたようにすら思える。自分が玉県家に興味がなさすぎて、いることに気づかなかっただけなのだろうか。
「わたしが七草城で奧番方を務めていたころ、ご先代さまの馬廻だった輝綱どのは女嫌いの変わり者だと言われていました。二十代半ばを過ぎても妻を迎える様子がなく、同僚の女遊びにもまったくつき合おうとしなかったからです」
「その通りだが、十代の終わりごろに子供を作っていたんだ。相手は安須白家家中の娘かなにかで、身分は低いらしい。景綱はその婚外子として産まれ、ずっと母方の家で育てられていたから、周りにほとんど存在を知られていなかった。それが表に出てきたのは、最近になって両親がようやく婚姻関係になり、景綱が安須白家の嫡子と決まったからだ」
「なぜ、そうも事情に通じているのです」
いささか面食らいながら訊くと、博武は片眉を上げてにやりとした。
「おぬしが綱正に接触している時に、図らずもおれも彼について詮索して回っていたからだ。やつの古巣の調月砦でな」
出かけていたのはそのためだったのか。示し合わせたわけでもないのに、同時に同じことをやっていたとは面白いものだ。
「情報源は誰です」
「何人かに当たってみたが、いちばん多く話を聞けたのは綱正の元相方の木賀沢京介からだ。彼を覚えているか」
「ええ。同期ですからね」
それだけではない。燎は隊士候補として訓練を受けていたころ、副郭の森で夜にそぞろ歩きをしていたところを京介と仲間ふたりに襲われたことがあった。彼らは精神を高揚させる〈月想蘭〉という薬を吸って昂ぶっており、抵抗しなければ手込めにされていただろう。
もちろんされるがままにするはずもなく、燎は三人組のうち丹路久繁の睾丸を握りつぶし、京介は激しく殴打して昏倒させ、最後に残った山折且行の手指を三本折ってやった。
彼らの所業を上に報告してもよかったが、久繁と且行はその夜が明ける前に鉢呂砦を去り、二度と戻ってこなかったので捨て置くことにした。あとで聞いた話によると、ふたりとも江州役が始まっていくらも経たないころに逐電したらしく、その後の行方は杳として知れないという。
しかし京介だけは事件の翌朝早く、腫れ上がった顔で訪ねて来て燎に謝罪した。彼は深く悔いており、自分もここを去ってけじめをつけるべきとは思うが、どうしても隊士になりたいのだと言って慈悲を請うた。〈隼人〉になることを切望する気持ちは燎も同じなので、それを持ち出されるとどうも弱い。彼女は二度と薬に手を出さないことと、今後は訓練だけに専念することを約束させて京介を許した。
彼は約束を守ったし、隊士になって黒葛家のために今も働き続けているのだから、それでよかったのだろう。だが愉快な記憶ではないので、この話は博武にもしたことがない。
「そういえば、綱正は相方を伴わずに自分だけ転任してきたのですね」
「だから、きっと京介は彼に対してわだかまりを募らせているだろうと思ったんだ。綱正と一緒に鉢呂砦へ来て、自分も第一隊の副長に昇格できる腹づもりでいたはずだからな」
「実際にそうでしたか」
「それはもう不満たらたらだった。酒を二、三杯飲ませたら話すわ話すわ」博武が声を上げて笑う。「愚痴をたっぷり聞いてやったあと、それとなく水を向けて、六年ほど相方でいたあいだに知った綱正に関することを思い出せるだけしゃべらせた。誰しも相方に対しては口が軽くなりがちだが、綱正もその点はご多分に漏れずだったようだな。さっきの景綱の生まれ育ちや、降って湧いた甥のせいで安須白家を継ぐ目がなくなって遺恨を抱いていることなども、京介は彼からたびたび聞かされていた」
安須白家長男の輝綱が独り身のままで子供も作らなければ、たしかに弟の綱正が彼の後継となった可能性は高い。女嫌いだという兄の噂を鵜呑みにして、自分に都合のいい将来を思い描いていたのだろう。
「それでもさすがに、主家への謀反の企みを漏らすようなことはしていなかった。薬のこともいっさい話題に上らなかったから同様だろう。玉県家はそのあたりに関しては、一門全体で箝口結舌を徹底しているとみえる」
「……なるほど」
ようやく、先ほどまでのところと話がつながった。
「あなたが御屋形さまの薬の入手元を景綱だと断言したのは、彼が最近まで疎外されていて、玉県一門衆としての教育を受けずに育ったと思うからですね」
「おそらくな。今は嫡子として当然いろいろ教えられているだろうが、産まれた時からそれらを叩き込まれてきた者たちと同じだけの心構えがそう易々と身につくとも思えん。だから貴之が顔に傷をつけているのを見た景綱は情に流され、よく効くと知っている秘伝薬をつい使ってしまった。おれはそう考えている」
「それに、わたしに送りたいからと頼まれて、薬をさらに二度提供しています」
「長いあいだ公に息子として認めてくれなかった父親より、いま身近に置いて重用してくれる主人のほうに義理立てしたくなったとしてもおかしくはない」
博武は言葉を切り、上目づかいに燎をじっと見つめた。その瞳に、すぐ近くの灯明皿で燃える火が映ってゆらめいている。室内にゆっくりと沈黙が満ち、いつの間にか深まっていた夜の静寂と溶け合うかに思えたころ、彼はようやく再び口を開いた。
「ことによると景綱は——いずれ玉県家の牙城を崩す切り札となるかもしれんな」
燎は博武の眼差しに引き込まれるのを感じながらうなずいた。
「そうですね。うまく手なずけられればですが。懐柔策はありますか」
「いや、今はまだない。これから慎重に考えよう」
景綱を内通者にするという案は魅力的だ。もし実現できれば、謀反の証拠集めがしやすくなるのは間違いない。そして、いよいよ玉県家を弾劾するその時が来たら、彼はもっとも重要な証人のひとりになるだろう。
だが博武が言う通り、この工作は慎重にも慎重を期して行わねばならない。景綱に接触するのは、確実にこちらに引き込める算段がついてからだ。もし失敗しようものなら、たちまち我が身が危うくなる。
「おぬしが薬のことに気づいたお陰で、玉県家の具体的な怪しさの論拠がひとつ見つかった。少しだが前に進めた気がするな」
「しかし推測の域を出ません。玉県家が薬を作る家だと証明できて初めて、それを空閑忍びの調べに際して隠蔽したのは怪しいと主張することも可能になります」
「そうだな。そこをきっちりやって、柳浦重晴どのの不審死に家中の関心をもう一度向けるところまで持っていきたい。玉県家の謀反の企みは、思えばあの時点から始まっていたのだろう」
まあ、言うほど簡単ではないが——とつぶやく博武に、燎は常になく自信満々の笑顔を見せた。それについては腹案がある。
「薬に関しては、わたしが裏を取ります」
博武の表情から彼を驚かせたことがわかって、ちょっといい気分だった。
「綱正のことは任せてください」
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