六十六 別役国楠城郷・青藍 嘘の味
あと半日も歩けば国境を越える。
夜斗がそう言ったのは、別役国楠城郷の西の端に位置する箭田村に差しかかった時だった。三方を小高い山に囲まれた盆地の小集落で、入り口から見える範囲に田圃はほとんどない。その代わりに多くの家が、家屋の周囲の畑で果樹や野菜などを育てているようだ。
「正面の山」
夜斗が指さす道の先には、剣のように尖った尾根の夏山が佇んでいた。
「あれを越えたら、もう天勝国だ」
聳城国は地峡でつながったふたつの陸塊から成り、陸地のくびれの東側は〈東峽〉、西側は〈西峽〉と呼ばれている。天勝国は西峽の東端の国だ。
幼いころに生き別れになった夜斗の両親を見つけるため、山の者が多く住むという西峽北部に向かおうとふたりで決めてから、そろそろひと月が経とうとしている。夜斗は道々で人に訊ねておおよその現在位置を把握しており、出発地点からすでに三百里ほどは西へ移動して来ていると話していた。そう教えられても土地勘のない青藍にはぴんと来ないが、御山から遠く離れたことだけは実感している。
そしてこれからも一歩進むごとに、もう帰れない故郷との隔たりは大きくなっていくのだ。
彼女はともすれば追いつかれそうな未練を振り切るため、余計なことを考えるのはやめて道中はせっせと足を動かすことに専念した。関所を避けたい夜斗は山中や深い谷間を通る荒れた道を選ぶことが多く、怪我をしないよう足運びに集中しなければならないのがむしろありがたい。
そんな道沿いにも小さな集落は点在しており、ふたりはしばしば食料と一夜の宿を求めて足を止めた。
大きな町は「なにかと金がかかる」そうで、夜斗はあまり行きたがらない。人で賑わう町にはこれまでに三度だけ立ち寄ったが、それは特別な買い物をするためだった。三つの町で夜斗は古物を売る見世を見つける端から覗いて回り、目当てのものを探し当てるまでに八軒ほども巡っただろうか。
そこで何を購入したのか、青藍は箭田村に入る手前で小休止をした時に初めて知ることができた。
「着替えろ」
集落へ入っていく道から少し南へ逸れ、小さい池のほとりの竹藪で休んでいた時に、夜斗はずっと風呂敷包みにしたまま背負っていた荷物を投げてよこした。
「え。着替え――るの?」
きょとんとして問い返す青藍に、夜斗が「愚図」と言いたげな険しい視線を向ける。彼がこういう目つきをした時には、あれこれ訊かずに従ったほうがいい。
あわてて包みを開くと、中には畳まれた着物が入っていた。色はわずかに緑みを帯びた冴えた青色。生地の素材はよくわからないが、手触りから絹でないことはたしかだ。
慎重に広げた瞬間、青藍は胸がどきりと音を立てた気がした。
ゆったりと大きく長い袖。着用の時は半分に折ることが多い幅広な襟。右の腰から下に施された複数の脇襞。
それは彼女にとってあまりにも見慣れた天門神教の法衣だった。下位奉職者の小祭宜は色法衣を身につけないし、祭主や若巫女、若巫子、宗司なら絹をまとう。ということは、これは大祭宜のものに違いない。
「ど、どうし……どこで――」
何から訊けばいいのかわからず、青藍はもごもごと舌をもつれさせた。
「どこって、古着屋に決まってらあ」
突っ慳貪な口調だが、笹の落ち葉が厚く積もった地面に胡座をかく夜斗はどことなく得意げだ。
「そいつを見つけるまで、何軒も回って難儀させられたぜ。ま、でも間違いなく売りに出てるだろうとは思ってたんだ。宗教をやめて山を下りたら、誰だって銭貨がいるからな」
大祭宜まで昇った誰かが還俗し、降山して法衣を売り払った。にわかには信じられないが、そういうこともあるのだろう。割り切るべきだとわかっているが、青藍は心を乱されずにはいられなかった。
「おい、またなんかつまんねえこと考えてやがるな。たかが着物一枚のことで、しょぼくれんじゃねえ」
彼女の悄気た様子に目敏く気づき、夜斗が鋭く警告を発する。
「さっさと着替えねえと、おいらが裸に剥くぞ」
青藍はぎょっとして、大急ぎで色法衣に着替えた。まだ少し動揺しているが、御山で慣れ親しんだ衣類に再び袖を通すのは悪くない気分だ。だが元が大人のものなので体にはまったく合っていない。身幅がかなり大きく、裄は長すぎるし裾も引きずっている。
気難しげな表情で見張っていた夜斗が、すっと立ち上がって近づいてきた。
「みっともねえな。直すからじっとしてろ」
彼が両脇の余った布と下前を折り込んで体に添うよう身幅を縮め、腰のところで端折り上げて丈を調整すると、借り着の不格好さはほとんど感じられなくなった。こういうことに慣れているのか、驚くほど巧みな手つきだ。
「袖はどうにもならねえ。繕いにも出せるが、肩上げなんかすると余計に餓鬼っぽくなるから、長いままで我慢しな」
それから彼は自分自身も手早く着替えをした。こちらは下位奉職者がよく着用する黒い木綿の法衣だ。形は色法衣とほとんど同じだが丈だけ短めで、下に着た白衣の裾を見せるようになっている。脇襞の数もふたつと少なく、華やかさはいっさいない。
そんな姿をすると、夜斗も小祭宜に見えなくはなかった。俗っぽさが薄まって端正な印象になったせいか、生来の美貌がより際立っている。
「わたしたち、こんな恰好をして――どうするの?」
おそるおそる訊ねると、彼は長い髪を首のうしろでひとつにまとめながら答えた。
「前に、おめえにぴったりな仕事を思いついたって言ったろ。覚えてるか」
「はい」
どんな仕事なのか、ようやく教えてもらえるのだろうか。夜斗が相変わらずひとりで〝商売〟をして、ふたりの旅に必要な金を稼いでくれていることに青藍はずっと罪悪感を抱いていた。これからはやっと自分も助けになれると思うと嬉しかったが、そこはかとなく厭な予感もする。
「難しい仕事?」
不安げな彼女の問いに、夜斗はいかにも何か企んでいそうな悪い笑顔を返した。
「若巫女さまあ」
青藍が箭田村の農道をひとりで歩いていると、近くの畑から誰かに呼び止められた。振り向いて見れば果樹の周りに三人の若い女がおり、満面の笑顔で手を振っている。
「いま捥いだばかりの梨を食べてお行きなさいよ」
「あたしらもひと休みするとこだから、ご一緒に」
口々に言いながら近づいてきた彼女らに取り巻かれ、青藍は断る間もなく道端の木の下に座らされてしまった。それを囲むように自分らも腰を下ろした女たちは炎天下の労働でたっぷりと汗をかき、濃厚な体臭を振りまいている。
「今年のは甘いですよう」
ひとりが小刀で器用にくるくると梨の皮をむき、小さく切り分けて全員に配った。
「い、いただきます」
遠慮がちに口にした果実は暑さに渇いた喉を潤してくれたが、歯触りがごりごりと硬く、言われたほど甘いとも感じられなかった。それは自分が、御山に献上された中からさらに選り分けて宮殿の住人に供される、ほんとうに上等な甘い梨しか食べたことがないせいだろう。
「どうです?」
期待を込めて問いかけられたので、青藍はこくりとうなずいた。
「とっても美味しいです」
また嘘をついちゃった。どうして御山にいたころみたいに正直でいられないのかな。
そんな青藍の苦悩をよそに、感想を聞いて嬉しげにしていた女たちが、ふと目を見交わしたかと思うといきなり詰め寄ってきた。
「ねえねえ、若巫女さま」
「あたしら知りたいんです」
「あの人のこと」
勢いに圧されて縮こまりながら、青藍はこわごわ問い返した。
「あの人……?」
「若巫女さまの侍祭さんですよう」
ああ、なんだ。そのことね。
一気に緊張が解けた。彼女らが言う〝侍祭さん〟とは夜斗のことだ。〈侍祭〉は本来、祭祓や儀式の際に祭主などを補佐する者を指す言葉なのだが、彼は勝手に肩書きのように名乗っている。
青藍は村に来てからもう何度も、〝侍祭さん〟についてあれこれ訊かれていた。男性も女性も、みな同じように夜斗に興味を示す。彼は人の好奇心をかき立てずにはおかない存在らしい。
「夜斗さんが、何ですか」
「あの人って男、それとも女?」
この問いはもう四度目だ。
「あたしらは男だと思うんです。でも、うちのきょうだいとか隣の家の権太とかは、あのきれいさは絶対に女だって」
「男に決まってるさあ。声が低いもの」
「ほっそりしてるけど、ちゃんと男っぽいもんねえ。あの腰とか」
「足首とか」
それから彼女たちは、きゃあきゃあと嬌声を張り上げた。
「歳はいくつなんです。二十歳ぐらい?」
年齢についての質問は三度目。
「あれはどう見たって二十歳はいってないよう」
「十八かそこらでしょ。ね、若巫女さま?」
青藍は曖昧に微笑むだけで、何も答えなかった。夜斗から「余計なことをしゃべるな」と命じられているのだ。「村の連中には好きに考えさせとけ」と彼は言った。「そのほうが都合がいい」と。どう都合がいいのかは教えてくれなかったが、何か思うところがあるのだろう。
「夜斗さんのことは、わたしからは話せないんです。ごめんなさい」
女たちが一斉に落胆の呻きをもらす。
「奉職者って口が堅いんだねえ」
「侍祭さんも、いろいろ訊いたって何にも教えてくんないしさ」
「でも、あのつれないとこが――」
いいよねえ、と彼女らはため息交じりにつぶやいた。みんな湯上がりのように顔を上気させている。
色恋に疎い青藍にも、三人が夜斗を素敵だと思っていることはわかった。きっと男の人たちもそうなのだろう。女性は彼を男と思って惹かれ、男性は女と思って惹かれるのだ。でも〈二頭団〉にいた〈賽〉という乱暴者は男だと知っても夜斗に執着していたから、ほんとうに魅力的であれば男女の別はあまり関係ないのかもしれない。
「ちょっとォ」畑の向こう方から、少し尖った声が飛んできた。「あんたら、いつまでさぼってんだい」
三人の母親ぐらいの年ごろの女性が遠くの梨の木の傍にいて、いらいらとこちらを睨んでいる。
「まずい、戻んなきゃ」
あわてて腰を上げた女たちのひとりが、去り際に青藍に身を寄せて訊いた。
「占いって、してもらえますよね?」
「あ、はい。いつでもどうぞ」
きれいな目鼻立ちをした彼女は唇をほころばせ、尖った犬歯をちらりと覗かせた。
「うちの村に若巫女さまが来てくれてよかったあ。仕事がすんだら行きますね」
弾むような足取りで仲間の後を駆けて行く背中を見送りながら、青藍は気持ちがずしりと重くなるのを感じた。
これは間違っている――という思いが、ずっと胸の中にある。あんなふうに喜んでくれる顔を見てしまうと、それがことさらに強くなる。
梨を食べたばかりなのに、口の中は奇妙に苦い味がしていた。
箭田村に滞在するあいだの宿所として借りている納屋では、夜斗が機嫌の良さそうな顔で青藍を待っていた。
「頼み事がいろいろ来てるぞ。昼飯を食ったら順に片付けてくからな」
「わたしも、さっき占いを頼まれました」
床に敷かれた筵に腰を下ろしながら報告すると、夜斗は口角を上げて含み笑いをした。
「たいした人気じゃねえか。おいらの目論見が当たったな」
青藍がここである種の人気を得ているのはほんとうだ。
村に入る前に教えてもらった彼女に〝ぴったりな仕事〟とは、天門神教の若巫女を装い、近くに祭堂のない集落を巡って術や儀式を行うことだった。
たしかにそれは、ほかの仕事よりはうまくこなすことができるだろう。なにしろ御山で生まれ落ちて以来十二年間、実際に若巫女として教育されてきたのだ。物心がついたころにはすでに祈唱の文言をすらすら暗唱していたし、占術や封霊術などの主要な術も十歳になるより早く習得した。修行半ばの身ではあるが、大人の小祭宜にも引けを取らないぐらいの技術と知識は備えていると思う。
しかし自分はもう若巫女ではない。奉職者ですらない。そこが最大の問題だった。降山した者が奉職者を名乗って儀式を行ったり、その対価として金銭を得たりするなど許されるはずがない。
青藍の心中は複雑だった。御山の者ではなくなったことを受け入れようと懸命に努力し、ようやく折り合いをつけられそうになってきた今になって、また〝若巫女さま〟と呼ばれている。なんと皮肉なことだろう。
「野術師とは違います」
集落に入って真っ先に向かった名主の家で、夜斗はそう強調しながら青藍を売り込んだ。
「若巫女さまは次代の祭主となるべきお立場でありながら、神の御技をより広く人々にもたらすため降山なさいました。若年ながら霊力鴻大にして慈悲の心深く、あらゆる術儀を極めておられます。御山で少々習い覚えただけの半可な術で祭宜の真似事をするような輩と同じには思われませぬよう」
旅の道々に青藍との会話から得た、ほんのわずかな宗教知識しか持ち合わせないにもかかわらず、夜斗は堂々たる態度でもっともらしく話した。名主はそれを信じ、彼が信じたことで村の人々も信じ、結果として青藍は再び〝若巫女さま〟になってしまった。夜斗は狙い通りになって満足そうだが、彼女は胃の腑にしこりができたように感じている。
「夜斗さん、いつまでこの村にいるの」
「客がいて稼げるうちはいる」
御山で信徒や参拝者と呼ばれる人々を彼は〝客〟と呼び、それもまた青藍を落ち着かなくさせる。
「頼まれ事が減ったら出てくさ」
「それでまた別の村に行って、こういうことをするの?」
夜斗が片眉をちょっと上げる。
「なんだ、気に入らねえってのか。仕事したいと言ったのはおめえだろ」
「そうだけど、そうじゃなくて……こういうのじゃなくて、もっと――」
「ほかにどんな取り柄があるってんだ。宗教以外でなんとか売りになりそうなのは、歳の若い娘ってことぐらいじゃねえか。おめえ、男のあれを股に咥え込んで腰振れんのかよ」
意味不明だが、自分にはできないことなのだろうというのは想像がつく。
「む、無理です」
「だったら、ぐだぐだ吐かさずに得意なことをやってろ」
「でも人を騙すのは悪いことで……」
いけない。しつこくしすぎた。言ったそばから後悔したが、もう遅い。
「悪いことってのはな、おめえやおいらなんかを好き勝手に売り飛ばすことだ」
夜斗が気色ばみ、それからふいに真顔になった。
「人を殺して金を奪ったり、女や餓鬼を痛めつけて犯すことだ。そういうのと比べて、これがどれだけ悪いってんだよ」
彼の怒りを感じる。それは青藍に向けられたものではなかったが、低い声でゆっくり話す夜斗は凄みがあって怖かった。
「それに騙してるなんて大仰に言われるほどのことはしちゃいねえや。おめえはまじで若巫女だったし、死人の魂送りも占いもできる。村の連中は何も損してねえだろうが」
彼が言うことの半分は間違っておらず、そこが何とも悩ましかった。しかし〈不欺〉は天門神教における掟戒のひとつで、人を欺くことを厳しく戒めている。それを幼いころから教え込まれて育った青藍は、どうしても自分の行いを都合よく解釈することができなかった。
そのくせ、最近は時に物事を単純にするため、時に他人の気分を損ねないため、気づけば掟戒を思い出す前に嘘をついている。御山を離れて一年も経たずにそうなってしまった。
これからわたし、どんなふうになっていくんだろう。平気で人を欺くようになって、人のものを盗むのも、人を虐めるのも平気になって、そして——いつか人を殺すのも平気になってしまうの? そんなわたしを見たら、祭主さまはどう思うのかな。
どこまでも清廉だった老人の穏やかな眼差しを思い浮かべると、いたたまれないほどの恥ずかしさを感じた。
「藍」
呼びかける夜斗の声の調子が変わり、青藍ははっとなって顔を上げた。
「どうする。やめるのか」
「やめて、いい……の」
驚きと困惑を感じながら問い返すと、彼は「好きにしろ」と素っ気なく言い、立てた片膝に頬杖をついた。
「もともと、おめえが働きたいなんて言わなきゃ始めなかったことだ。うまくやれば儲かると思ったが、べつにやめたってすぐ食うに困るわけじゃねえ。おいらのこの面と体がありゃ、ふたりぶんの旅暮らしぐらいどうとでもならあ」
それではまた彼にひとりで背負わせてしまうことになる。それに、青藍にはずっと気になっていることがあった。
「夜斗さんがしているのって、〈ふぶき屋〉でしていたのと同じ仕事?」
そうに決まってんだろ、と言いたげに夜斗が軽く肩をすくめる。
「それって——その仕事って、あの……厭じゃないの?」
「なんだと」
「だって……あのね、わたしこれまでに二回、そういうところを見たことがあるの」
「ああ、割床がどうとか言ってたな」夜斗は記憶を呼び起こすように、上のほうをちらりと見て言った。「二回とも見世でか」
「二回目は——洞穴です。〈二頭団〉の、あの〈賽〉って人の寝床で」
彼の表情は変わらなかったが、薄暗い室内でもくっきりと際立って見える双眸に冷たい輝きが加わったように思えた。
「いつ」
「逃げ出した夜」
しばらく沈黙を漂わせたあと、夜斗はふっと笑みをこぼした。
「あん時か」
「どっちの時も、楽しそうには見えませんでした。千早さんも、夜斗さんも」
「下手くその相手はうんざりなんだよ。おまけにおいらなんか、打たれるわ絞められるわで散々だったからな」
「上手とか下手とかあるの」
「もちろんあるさ」
「夜斗さんは上手?」無遠慮に訊くべきではないことかもしれないが、好奇心には抗えない。
「知りたいなら試してみるか。なんなら、体で稼げるように仕込んでやってもいいぜ。そういうのも得意だからな」
仕込んでもらったら自分にもできるようになる——と思うと少し心が揺れたが、彼の目を見るとからかわれているのだとわかった。
「見た目だけで、見世で評判取ってたんじゃねえってこった」
夜斗は男でありながら〝〈ふぶき屋〉二大美人〟と呼ばれ、見世でいちばん多くの贔屓客を抱える上級娼妓の白露に次ぐ人気を誇っていた。それは青藍も知っている。
「おいらはあの見世の稼ぎ頭だった」
「白露さんじゃなくて?」
「いちばん人気だったのは白露だが、いちばん稼いでたのはおいらさ」
どうしてそうなるのだろう。いちばん人気があっていちばん贔屓客がついていた白露よりも、彼のほうが稼げる絡繰りがわからない。
眉根を寄せて考えていると、夜斗がにやりとした。
「おい、わからねえって面だな」
「はい」青藍は素直にうなずき、彼をじっと見つめた。「どうやって、そんなに稼いでいたの?」
「簡単さ。楼主は夜には旦那衆においらを売って、昼間は奥方衆に売ってたんだ」
「娼楼のお客って、男の人だけじゃないんですか」
「男が女を買うように、女だって金を持ってりゃ男を買う。でも人に知られたら世間体が悪いから見世には来ねえ。楼主の手引きで、おいらが水茶屋とかに出張ってって相手してたんだ」
つまり夜斗はほかの娼妓の二倍働いていたことになる。楽しくはない、時にうんざりするような仕事を昼も夜も。そしてこれからも、ふたり旅の費えを賄うために続けると言っている。そう思うと、青藍は彼に対してさらに申し訳ない気分になった。
「とっても疲れるし、大変だったでしょう?」
彼女の声に気づかいを感じると、夜斗は急に冷淡な態度になった。
「そうでもねえ。苦手な仕事を無理にさせられるよりは、ずっとましさ。少なくとも、おいらはあれが得意なんだ」
彼は木で鼻をくくるように言い、なめらかな動作で立ち上がった。
「で、結局どうすんだ。とっとと決めろ。店終いして村を出てくのか」
急かされて焦りを感じながら少し考え、青藍はのろのろと首を振った。
「ううん。やります」
ただ不満を垂れただけに終わったことを皮肉られると思ったが、夜斗はつぶやくように「そうか」と言っただけだった。
名主の徳兵衞が奉公人に届けさせてくれた、握り飯と漬物と青菜の入った味噌汁で昼餉をすませたあと、ふたりは村の住民からの頼まれ事をひとつずつ片付けていった。
新しい井戸を掘るための水源探し。
収穫が近い果樹園の虫祓い。
穀物倉を建てる土地の清めの儀式。
櫛や巾着など、いくつかの失せ物探し。
気がかりな夢を見た人のための〈夢占〉。
青藍はどれもそつなくこなしたが、「厭味ばかり言う姑が怪我をするようにして欲しい」と言ってきた女性の依頼だけは丁寧に断った。人に害を与えるような術儀は持ち合わせていない。
犬歯が目立つあの若い女性は名前を豊といい、日暮れが近くなってから納屋を訪ねてきた。青藍は敷物を勧めたが、すぐには腰を下ろそうとせず、戸口から興味津々の面持ちで室内を見渡している。
「あらまあ。こんな狭いとこで、ふたりっきりで寝泊まりしてるの」
少し驚いたように言ったあと、彼女は意味ありげに含み笑いをした。
「あたしだったら、悶々としちゃって眠れやしないよう」
唇をすぼめながら首を曲げ、背後にいる夜斗のほうにちらりと視線を投げる。彼は壁際に退いて伏し目がちにしており、それに気づいた様子はわずかも示さなかった。
「占い——でしたよね?」
青藍が昼間の会話を思い出しながら訊くと、豊はこちらに注意を戻してにっこりした。
「近いうちに伝道の祭宜さまか野術師でも来たらいいなあって、ずっと思ってたんです。でも若巫女さまに占ってもらえるなら、そっちのほうがずっとありがたいわ」
無邪気に言って敷物にぺたりと座り、彼女は正面から青藍と向き合った。
「あたし、縁談があるんです。相手はひとつ年上の幼馴染みの常吉で、親同士も友達だから、いつかそういう話が出るだろうってことはお互いにわかってたの。で、常吉と夫婦になるってのはまあ、べつに悪くはないんです」
豊は淡々とそこまで一気にしゃべったあと、急に辺りを憚るように声を落とした。
「だけど、じつは今ちょっとほかに気になってる人がいて。小間物なんかを商ってる旅回りの商人なんですけどね。名前は——」
さらに声が小さくなったので、青藍は思わず前に身を乗り出した。
「彌七です。いい名でしょ」
囁くように明かしたあと、彼女は両手でぱっと頬を覆った。目の周りの肌が紅潮している。
その人のことが好きなのだろうというのは青藍にもすぐにわかった。しかし、それでいて常吉との結婚もまんざらではなく、さらに夜斗にも気持ちが向いていそうな彼女の心中は、あまりにも複雑すぎてどうにも量りがたい。
「彌七さんは、あたしはこんなしみったれた村なんかで終わっていい女じゃないから、街に連れて行きたいって言ってくれてるんです。龍康殿あたりへ出て、でっかく稼いで、ふたり一緒に愉快にやっていこうって」
「豊さんは、そうしたいんですか?」
「そりゃ、したいですよう」豊は息を吸って、胸を大きく膨らませた。「土やら肥やしやらにまみれてあくせく働き続けて、はっと気づいたらもう婆さんになってたなんてぞっとしちゃう。一生に一度ぐらい、木の数より人の数のほうが多いとこで面白おかしく暮らしてみたいわ」
それから彼女はふいに視線を落とし、右手で左手の指先を弄りながらぼそりと言った。
「でも、そんなの親は反対するに決まってるし、逆らって家を出たら、もし失敗しても帰るとこがないでしょ。だから言われたとおりに常吉のとこに嫁いだほうがいいのかなって思うけど、死にたくなるぐらい退屈だったらどうしようとか、あとで後悔するかもとか、いろいろ考えちゃって」
豊は口をつぐみ、ふっとため息をついた。
「自分じゃ決められそうにないから、若巫女さまに占って欲しいんです。どっちの男を選べば、いい人生を送れるか」
言い終えたあと少し間を置いてから、彼女は毅然と顔を上げて青藍を見た。
「あたし、幸せになりたいんです」
そのまっすぐな言葉に、青藍ははっと胸を衝かれたように感じた。
「わかりました」
普段にも増して気持ちを引き締めながら、床に手をついて体を前にすべらせる。
「じゃあ、視てみますね」
御山の奉職者が執り行う術儀にはそれぞれに異なる手順があり、神に意を伝えるために用いる祭具も厳格に定められている。しかし〈占〉だけは、どんなやり方をするのも術者の自由とされていた。
香を焚く者もいれば、火を灯す者もいる。黒い布を敷く者。水を入れた器を置く者。暗い部屋にこもる者。墨を含ませた筆を持って白紙の前に座る者。祭具の笛を奏する者。振鈴などの鳴り物を使う者。各自がもっとも集中しやすい方法をとることが重要とされており、形式に囚われる必要はない。
そうした環境作りを要しない占師もまれにいて、青藍はそのひとりだった。
「お顔を触ってもいいですか」
互いの膝頭が触れるぐらいまで近づいて訊くと、豊は微笑みながら首を前に伸ばした。
「目をつむったほうがいい?」
「どっちでも、だいじょうぶです」
彼女が笑みを留めたまま瞼を閉じると、青藍は左右の手でそっと顔を挟み込み、自分自身も目を伏せた。
「男の人たちのことを心に思い浮かべてください。常吉さんと、彌七さんと」
占う相手の肌に触れて、その心の内に意識を集中することで〝それ〟は来る。青藍の場合は、いつも明瞭な像が脳裏に浮かんだ。動かない一枚絵だが、鮮やかに色づいており、矢継ぎ早に何枚も現れる。
最初に視えたのは、現在とほとんど変わらない姿の豊だった。着物だけ違っていて、少し華やかなものを身につけている。彼女の隣には、同じく晴れ着をまとった若い男がいた。ふたりとも幸せそうに笑っている。
しかし次の像では、豊は別人のようになっていた。肌は乾いて荒れ、髪には艶がない。痩せて元気がなく、顔にはいくつも赤黒い痣ができており、左目は腫れ上がってほとんどふさがっている。
次の像に切り替わると、最初に登場した時とはまるで違う鬼のような顔をした男が豊に馬乗りになっていた。左手で彼女を床に押しつけ、拳を握った右手を大きく振り上げている。
青藍が小さく息を呑んだ瞬間、また新たな像が現れた。豊の意識がもうひとりの男のほうに移ったのだ。
今度の像では、豊は旅姿になっていた。草深い山中にいて、すぐ前を背の高い男が歩いている。彼は鼻筋が通っていて、身の軽そうな体つきをしており、豊よりも十歳ほど年上に見えた。笑顔を見交わすふたりは、とても仲が良さそうだ。
しかし次に現れた像に男はおらず、派手な色柄の下着を胸元をゆるめてだらしなく着た豊がひとりいるだけだった。そういう姿の女性には見覚えがあり、ある種の職業が連想される。疲れ切った顔の彼女は横座りして鏡を覗き込みながら、小指を使って唇に紅を載せていた。その双眸はどんよりとして、ほんのわずかな生気すらも感じ取れない。
青藍は目を開き、長々と豊の顔を見つめた。
占術で脳裏に結ばれる像は、時に読み解きがたい場合もある。しかし今の像の意味は考えるまでもなく明らかだった。こんなにも詳細ではっきりとした像が現れたのは、占う前に豊に対して共感を抱いたからに違いない。奉職者のあいだでは、これを〝共鳴りする〟と言う。
共鳴りには良い面と悪い面があり、より深遠な予見をもたらす一方で、相手と響き合いすぎて虚像を結んでしまうことがある。
先ほど視えた悪い像は現実に起こることかもしれないが、豊の心の片隅にある不安——〝こうなったらどうしよう〟という漠然とした恐れ——を感じ取っただけかもしれない。
虚実を見極めるため、青藍は深くひと呼吸して気持ちを静めた。
共鳴りの最たる対象は自分自身であり、だから占師は自らを占わない。何が視えたとしても、それは自分の心が生み出した期待や恐怖に過ぎない場合が多いからだ。
御山で占術を教わった大祭宜からは「己として視るな。他者の目であれ」と繰り返し言われていた。共感し過ぎてはいけない。自分を重ねてはいけない。肩入れしてはいけない。相手でもなく、己でもなく、第三の目となって先を見通すのが占術だ。
違うもの——もっと良いもの、希望を持てるものが視たいという思いが、胸の奥で熾火のようにちらちらと明滅している。青藍はそれに蓋をして閉じ込め、新たに結ばれた像を冷厳たる第三の目で凝視した。
暴力。失意。そして絶望。先ほど視たものと何も変わらない。共鳴りしていても、自分は正しく予見したのだとわかった。だが、それが慰めになるわけではない。
青藍はゆっくり顔を上げ、豊のうしろに座っている夜斗を見た。
彼との取り決めで、占術で視えた悪い結果は告げることができない。「金を払って、がっかりする話を聞きたいやつはいねえ」というのが夜斗の考えであり、この仕事を始めた時に「依頼人が嬉しくなって、見料を弾みたくなるようなことを言うんだ」と厳しく命じられている。
となると、どちらも悪いとわかっている男たちから、多少でも良いと思えるほうを選んで豊に勧めなければならないのだろうか。「幸せになりたい」と言った彼女を、間違いなく幸せから遠ざけてしまうと知りながら。
そんなことはできない。したくない。
青藍は唇を噛み締め、すがるように夜斗を見つめた。いったん豊に外してもらって、ふたりで相談できないだろうか。
冷めた目でこちらを見返していた夜斗が、指で自分の頭を二度つついた。その意味するところは明白だ。
〝考えろ〟
青藍は急いで頭を働かせながら、豊に触れていた手を離して座り直した。
「ふう」ぱっちり目を開けた豊が小さく息をつき、両手でぱたぱたと顔を扇ぐ。「すごく長くかかるから、ドキドキしちゃった。何もわからなかったり、碌でもない運勢だったらどうしようって」
「そんなことは、ないです」
青藍は慎重に言葉を選びながら言った。
「でも、急いでどちらかの人を選ぼうとしないほうがいいと思います」
「それってどういうこと」
豊が不思議そうに小首を傾げる。
「ふたりとも良くないの?」
「良くないんじゃなくて」難しい。どう言えばいいんだろう。「あの、もっと良い……」
「あ、そっか」
彼女の顔が明るく輝き、あの犬歯が覗いた。
「常吉よりも彌七さんよりも好い人と、そのうち会えるのね? だからあわてて決めずに、待ってたほうがいいってこと?」
「そ、そうです」
ああ、また——。
「焦ったら、小さい幸せしか掴めません」
また嘘をついてしまった。
「大きい幸せが来るっていうなら、いくらだって待てますよう」豊は自信ありげに言ったあと、いたずらっぽい目でにやりとした。「でも薹が立つ前に来てくれなきゃ困るけど」
彼女は何度も青藍に礼を言い、夜斗に見料を支払ってから、満足そうに納屋を出て行った。
「うまくやったな。客も喜んでたし、上々だ」
夜斗が受け取った銭貨を巾着に仕舞いながら言うのを、青藍は座ってうなだれたまま、ぼんやりと聞いていた。めったに褒めない彼が褒めてくれたのに、重苦しい気持ちは少しも晴れない。
「おい」
間近で声がして顔を上げると、夜斗がすぐ傍にしゃがみ込んでいた。
「さっき、ほんとは何が視えたんだよ」
「男の人のひとりは殴る人で——」
「もうひとりは女を売る、か」
まるで同じ像を視たかのように、あっさりと言い当てる。
「え、どうしてわかったの」
「あんなのは女衒の使い古された手口じゃねえか。世間を知らねえ田舎の女に近づいて、うまいこと言っていい気にさせて街へ連れ出す。どっぷり深い仲になってから、借金を返すのを手伝ってくれたらおまえと所帯が持てるとか何とか言いくるめて、娼楼に売り飛ばしちまうのさ」
「ひどい、そんなの……」
「ま、おめえの占いを信じて待ってりゃ、そいつらよりはましな男がそのうち現れるかもな。嘘から真が出るなんて言うだろ」
そう、なのかもしれない。
だが嘘をつくたび、ついたことを自覚するたびに口は毒を含んだように苦くなり、体のどこかがどろりと濁る気がする。
青藍は豊に幸せになって欲しかったが、偽りの予見を告げた自分は、彼女を不幸にする男たちと同じぐらい罪深いと感じずにはいられなかった。
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