六十五 立身国七草郷・黒葛佳貴 耳の壁
この人は自分を好きか。それとも嫌いか。
誰かといる時、黒葛佳貴はいつもそのことを考える。そして自分がその人物を好きか嫌いかということも。
たいていの人は嫌いではなかった。城ではみなが彼を大切にして、優しく接してくれる。邪険にされたり、虐められたりすることはめったにない。なにしろ佳貴は七草黒葛家の若君、御屋形の子、そして現在は御屋形の長弟なのだから。その肩書きが通用しない場所には、幸いまだ行ったことがない。
しかし人から顧みられることと、好かれることは同じようでいて違っている。より重要なのは、好かれたり気に入られたりすることのほうだと思っていた。肩書きがあるから傍にいてくれる人は、それがなくなれば去ってしまうだろう。
だから佳貴は、相手が自分を好いているかどうかを常に意識する。なるべく多くの人から好かれたいし、できればその人物の〝いちばん好きな人〟になりたかった。誰かのほんとうに特別な存在になれたら、どれほど嬉しいだろうか。自分にとって特別な人が、向こうも同じように思ってくれたら。
残念ながら、今のところその願いは叶っていない。彼が特別に思う人はたいてい、みんな別の誰かを――兄の貴之のことを〝いちばん好き〟だからだ。
兄が大勢から特別に思われること、それ自体は不思議でも何でもなかった。彼は勇敢で賢くて優しい。明るい前向きな力を備えていて、灯火のように周りを惹きつける。やると言ったことは絶対にやり遂げるし、何ごとにも物怖じせず、つらいことがあってもめそめそしない。
どれも佳貴には欠けている資質だった。兄のように堂々とした人になりたいと常日頃思っているが、世の中は彼にとって怖いものだらけで、いつもびくびくしながら過ごしている。
夜の闇と、そこに潜むものが怖い。人から嫌われるのが怖い。病気が怖い。死ぬのが怖い。大きな音が怖い。炎が怖い。飛ぶ虫が怖い。人形が怖い。仮面が怖い。古い本が怖い。誰もいない廊下が怖い。甲冑を着た武者が怖い。西瓜の縞模様と中の赤い色が怖い。挙げていけばきりがなかった。
「子供のころに怖いもののほとんどは、年齢が上がると平気になっていくのよ」
母の真木がそう教えてくれたが、自分は一生臆病なままなのではないかと不安に思っている。
兄は佳貴が怖いものの大半を気に留めもしないし、ふたつ年下の妹葉奈も同様だった。彼女はまだ八歳で女の子のくせに、時に兄以上に肝の太いところを見せることすらある。
佳貴は父の亡骸が七草に戻ってきて、しばらく御殿内に安置されていたあいだ、どうしても遺骨を直視することができなかった。大好きだった父にきちんとお別れを言いたかったが、棺に近づくと決まって足が震え出し、怖くて泣いてしまうのだから仕方がない。横たえられた亡骸はとてもきれいだと母は感動していたが、佳貴は不快なものを想像してしまうのを止められなかった。城山の麓の森でたまに出くわす動物の死骸のような、崩れた肉や鼻をつく腐ったにおい。這い回り、蠢く虫。
しかし、そんなふうにびくびくしていたのは自分ひとりだけだ。妹などは「ずっと会えなかったから、お話しすることがいっぱいあるの」と無邪気に言い、埋葬まで毎日のように安置所の蘇鉄の間に足を運んで遺骨を相手に独り語りしていた。
三人きょうだいで、どうして自分だけこんなにも気質が違ってしまったのだろう。
母は「わたしが臆病だから似たのでしょう」と言う。母に似ていることは厭ではないが、できるなら他のふたりのようになりたかった。しかし生まれ持ったものは、そう簡単には変えられない。
むろん、兄に欠点がないわけではなかった。彼にはちょっと気の短いところがあって、何かを待つのも待たせるのも辛抱ならない質だ。あまり怒らないけれど、たまに腹を立てた時はかなり荒っぽい。頭が回るぶん何でもひとりで決めてすぐさま行動するから、周りはついていくのに苦労することがある。
それでも最近は短所を自覚して、改善すべく努力をしているようだ。実際、以前に比べるとずいぶん我慢強くなり、人を置いてけぼりにすることもなくなった。自分だけで結論を出さずに、周りの意見も聞くよう努めているのも知っている。
佳貴はそういう兄の姿勢を尊敬しており、彼に倣って自分も欠点を克服したいと思っていた。
だが課題はあまりに多い。怖がりや弱虫はどうやったら治るのだろう。甘えん坊は。寂しがり屋は。いつも考えているが、これという答えは見つかっていない。
さしあたり、何か起こった時にすぐ狼狽える癖だけでもどうにかしたかった。これについては兄に一家言があり、先日悩みを打ち明けたところ親身になって相談に乗ってくれた。
「まずい状況になった時に動揺するのは、動揺してはいけないと思うせいだ。気持ちに抗おうとすると、反動でその感情が余計に強くなる」
佳貴が呑み込めない顔をしていると、彼は易しい言葉で説明し直した。
「失敗しちゃ駄目だと思うと頭がそのことでいっぱいになって、かえって失敗をやらかすものだろう?」
わかりやすい喩えだった。佳貴にも覚えのあることだ。
「みんなが見てるから絶対に転んじゃ駄目だって思うと、どうしてだか足がもつれて転びます」
正直に話すと、兄は朗らかに笑った。
「おれも同じだよ。だから大事な場面では、失敗してもかまわないと開き直るようにしているんだ。それでも失敗することはあるが、そういう時は〝失敗してしまった、どうしよう〟じゃなくて〝よし、次は違うやり方を試そう〟と考えると落ち着く」
気持ちの切り替え。兄の言いたいことはわかるが、佳貴はそれが苦手だった。
「わたしは、うまくできそうにないです」
肩を落としてうつむくと、兄は佳貴の顔を覗き込んでにっこりした。彼は弟の不甲斐なさを決して責めない。
「まだ、ほかにもやれることはあるぞ。失敗した時に、焦りを顔に出さないようにするんだ。表情を変えると周りがそれに反応するから、余計にしくじりが目立つ気がして慌てるだろう。だから涼しい顔をして、何ごともなかったみたいに振る舞うといい。これは普段から意識していたらできるようになる」
ほんとうだろうか。
初めは半信半疑だったが、兄の教えを実践し始めて間もなく、佳貴は思いがけず自分がそれをうまくやれることを知った。心の制御は苦手だが、表情を制御することならできる。しばらく続けていると、鼓動の音が外に聞こえそうなほど心乱れた時でも、あまり表情を変えずにいられるようになった。
しかし家族が傍にいるとまったく駄目だ。甘えが先に立って、思っていることを全部顔に出してしまう。
それでも他人の前で動揺をある程度隠し、体面を保てるようになったことは彼にささやかな自信をもたらした。こうやって少しずつ向上していけば、いつかは兄のようにみんなから好かれ、敬われ、特別な存在だと思ってもらえるようになれるかもしれない――と期待している。
「兄上は今どこかなあ」
文机の上に頰づえをつき、佳貴は開け放した障子の向こうに広がる明るい庭を眺めながらつぶやいた。
今日は朝からずっと御殿中奥の風通しのいい一室にいるが、日が高くなるにつれて暑さが増し、ただ座っているだけでも汗が噴き出してくる。視察の旅に出ている兄たちは炎天下でばてていないだろうか。
佳貴は上体を起こしながら、ちらりと横を見た。続き間との境目近くに、従者の達月栄祐が目を伏せて座っている。上背のある体を目立つまいとするかのように小さく折りたたんで、見るからに窮屈そうだ。
先ほどの独り言は半分彼に向けたものでもあったが、そうと気づいた様子はなかった。
いや、聞こえてはいるのだ。だが彼はさしたる反応を示さない。むろん、これが「水が欲しい」といった要望であれば話は別だ。「はい、ただいま」と言って立ち、すぐに運んでくるだろう。従者としてすべき仕事は、彼はきちんとこなす。そのために聞くべきことは、ちゃんと聞いている。
しかし佳貴が暇を持て余している時に、とりとめのない雑談につき合ったりはしなかった。彼は常に一線を引き、どこまでも〝役目〟として主人に接する。そこが兄の従者の戸来慎吾とは違うところで、佳貴は少し物足りなさを感じていた。
兄と慎吾の絆は深い。ふたりが主従になった経緯は詳しくは知らないが、父が選んだのではなく兄自身が彼を従者として雇い入れ、俸禄もずっと自分の小遣い金から払ってきたと聞いている。慎吾はそのことで兄に大変な恩義を感じているとも。
慎吾と栄祐にはいくつか共通点があった。ふたりとも鉄砲足軽の子で、歳も同じ十八歳。性格は生真面目で控え目。唖かと思うほど無口なので少しばかり陰気に見える。
だが主人への接しかたはというと、まるで異なっていた。栄祐が与えられた役目を過不足なく淡々と実行しているだけなのに対し、慎吾は熱狂的に、全身全霊で兄に仕えている。貴之の傍にいる時、慎吾は片時も彼から目を離さない。体じゅうを耳にして彼の言葉を聞いている。兄が話すことは無駄話であれ独り言であれ、ひとつも聞き逃したくないと思っているようだ。
兄のほうでも、そんな慎吾に対してはかなり強い思い入れがあるに違いない。その証拠に、家を継いで奉公人を大勢抱える身となっても相変わらず慎吾をいちばん近くに置いているし、体に直接触れるような世話はたいてい彼に任せている。それだけ慎吾を信頼し、心を許しているのだ。
いつだったか、兄は冗談交じりにこんなことを言っていた。「この先おれがいつどこで死ぬとしても、その時はきっと慎吾が一緒だろうな」と。彼がそう言ったことを慎吾が知っているかは定かではないが、実際にそうなりそうだと佳貴も思う。もし兄が道を踏み誤ったとしても、慎吾は自ら進んで最後まで彼についていくだろう。
ふたりの関係に佳貴は憧れを抱いているが、自分と栄祐があんなふうになれるとはまったく思えなかった。
「ちょっと歩いてくる」
じっとしているのに飽き飽きして立ち上がると、栄祐も追従すべく腰を浮かせた。
「ひとりでいい。厠に行って戻るだけだもの」
それは嘘だが、気晴らしの散歩に付いて来られたくなかった。愉快な同行者なら歓迎するが、物も言わず影のように付き従うだけの相手と一緒では息が詰まる。
栄祐は熱のない声で「はい」と言い、従順に座り直した。置いて行かれることをどう思っているのか、その表情から読み取ることはできない。
佳貴は部屋を横切って廊下へ出ると、表御殿の方角へ歩き出した。足を進めるにつれて、膝の裏に汗で貼りついていた着物が剥がれていく。袖からは風が入り込んで肌の熱を冷まし、それでだいぶ気分がすっきりした。
今日は城主が留守をしているので、御殿内の人出は少なめだ。事務方や番士、下男下女は普段通りに働いているが、馬廻や小姓、家老衆などは必要最低限しか出仕していない。そのためか、内廊下ではほとんど誰にも出会わなかった。各部屋で作業している奉公人をときどき見かける程度で、通路も室内も閑散としている。
特に目的があって歩いているわけではなかったが、中奥と表をつなぐ渡り廊下に差しかかったあたりで、ある場所がふと思い浮かんだ。
人が多い時には行きにくいところ。
栄祐が付いている時には行きたくないところ。
佳貴はにんまりして、表の殿舎に入るとすぐに左へ曲がり、広大な表御殿の北西へ足を向けた。そちらには〈家老詰〉と呼ばれる一角があって、呼称通り家老衆の詰め所となっている。主殿から突き出るように付設され、内廊下でつながっているのでわかりづらいが、実態は独立した大きな殿舎だ。
迷宮のように入り組んだ廊下をどんどん進み、ようやく〈家老詰〉の入り口にたどり着いたころには、佳貴の息は少し上がっていた。体力がないので、さほど激しい動きをしていなくてもすぐに疲れてしまう。
彼はそこから縁側へ出て足を止めると、建物の南側に広がる松と岩と白砂で構成された庭を眺めながら体を休めた。
庭に面する大きな部屋は家老衆が協議などの際に集まる広間だが、障子戸がすべて閉じられているので今は誰もいないのだろう。その広間を取り囲むように、現在七人いる家老衆の部屋が配されている。筆頭と次席の二家老の部屋は三間続き、そのほかは二間続き。
〈家老詰〉には中心となる広間、家老の間以外にも部屋がたくさんあり、それらのほとんどは建物の東に集まっている。半分は空き部屋で、残りは道具部屋などだ。
しばらく休んで元気を取り戻した佳貴はその東側を目指し、縁側の端から〈家老詰〉の内部に入って廊下を歩いていった。主殿と同じくここにも今日はあまり人がいないようで、何度か角を曲がっても誰にも出くわさない。それはそれで好都合なのだが、人の気配がまったくない廊下は彼にうっすらと怖さを感じさせた。何人かの家老衆やその家来たちは間違いなく出仕しているはずなのに、どうして誰も出入りをしないのだろう。午も過ぎた今時分は特に急ぐような仕事がなく、みんな部屋でくつろいでいるのだろうか。
やがて内廊下の突き当たりにたどり着き、佳貴は再び足を止めた。そこは〈家老詰〉の東の外れ、いわば殿舎のどん詰まりだ。右手は明かり取りの小窓が等間隔に並ぶ壁、左手には襖で仕切られた空き室があるばかり。見るものといって特になく、まして子供が面白がるようなものなどありはしない。だから誰も、彼がひとりでこんなところに来ているなどとは思いもしないだろう。
佳貴は三歩進んで突き当たりの壁の間際まで行った。それは漆喰塗りの白い壁で、小窓はなく、ここまでに見た壁がすべてそうだったようにヒノキの腰板が下部に張られている。彼は反転して壁に背をつけると、眼前の長い廊下をじっと見ながら耳を澄ませた。
誰もいない。
誰かが来そうな足音もしない。
そのままゆっくり腰を下ろし、床に尻がついたところで左肩に体重を預けると、彼の体は背後の壁の中に吸い込まれた。
その場所を発見したのは三年前、佳貴が七歳の時だった。
今日と同じぐらい暑い盛夏のある日、彼は表御殿の北の殿舎群で隠れん坊をして遊んでいた。戸来慎吾や唐木田智次など、兄の貴之が〝郎党〟と呼ぶ年長の友人らも参加しており、総勢二十人ほどもいただろうか。
大事な評定や軍議、来客などがなく、外が暑すぎたり雨模様だったりする時に限るが、子供たちはしばしば御殿の中で遊ぶことを許される。そのためによく提供される場所は主殿の北端の納戸が集まる一角と、中庭を挟んで建つ客殿〈松籟館〉の南半分、そして〈家老詰〉の東半分だ。
隠れる範囲が広く、この日は参加人数も多かったので鬼役はふたりと決められた。出発地点で百数えてから隠れ役を探しに行き、見つけた者を中庭の中央まで連行する。全員捕らえれば鬼役の勝ち、ひとりでも取りこぼせば隠れ役の勝ち。
実を言うと、佳貴は隠れん坊があまり得意ではない。鬼になると隠れている者を見つけ出すために歩き回らなければならず、すぐに足がくたびれてしまう。反対に隠れるほうをやっていると、うまい隠れ場所はたいてい静かで暗く、そこにひとりでじっとしていると怖くなる。
だが、この日の彼はいつになくやる気を出していた。久しぶりに兄が一緒だったからだ。十一歳になった貴之は名家の嫡子としての勉強がますます忙しくなり、最近は前ほど頻繁に遊んでくれなくなっている。めったにない機会なので、誰よりも上手に隠れて兄を感心させたかった。そのためのとっておきの場所も、すでに見つけてある。
しかし運悪く初回は鬼役が当たり、隠れ役を探して三つの殿舎を行き来するあいだに早くもへとへとになってしまった。それほど奮闘したにもかかわらず、自分が発見できたのはたったの五人。相方の唐木田智次が有能な狩り犬のように次々と隠れ役を捕らえたお陰で鬼側が勝利できたものの、佳貴にはあまり喜べない結果となった。
貴之は敵の裏をかいて鬼の陣地である中庭に留まり、いちばん大きいクスノキに登って葉陰にうまく身を隠していたそうだが、智次はそれすらも見事に見つけ出した。彼には優れた観察力があり、人が見落とすようなことをいつも目敏く見つけるのだ。
智次が兄に称賛されているのを羨ましく眺めながら、佳貴は「次こそ」と心に期した。あの隠れ場所は誰も目をつけていないはずだし、あそこに潜んでいれば智次のような者でも簡単には見つけられないに違いない。鬼が「もう降参する」と音を上げるまで辛抱強く隠れ続けて、みんなをあっと言わせるのだ。
二回目は兄が鬼役のひとりになったので、佳貴は隠れ場所に向かう前に彼に近寄って話しかけた。
「兄上、探しに来てくださいね。でもきっと、見つけられっこないですよ」
いつになく挑発的な弟の言葉に、貴之は優しい笑顔で応えた。
「ようし、絶対に見つけてやるぞ」
佳貴はくすくす笑い、兄ともうひとりの鬼役が目を閉じて数を数え始めると、足音を忍ばせながら〈家老詰〉へ向かった。とっておきの隠れ場所というのは、前回遊んだ時にたまたま目に留めた大きな陶製の壺だ。それは〈家老詰〉の道具部屋のひとつに、長持ちや家具類と一緒に置かれている。表面が美しく絵付けされていたので装飾用か、樹木などを活ける花器なのかもしれない。
彼はその中に隠れるだけでなく、周囲にある小箱のどれかをうまく上に載せて蓋代わりにするつもりだった。そうすれば、わざわざ箱をどけない限り佳貴を発見することはできない。鬼役は道具部屋もくまなく見回るだろうが、積まれている箱を一つひとつ取りのけてまで捜索することはしないだろう。
殿舎に入って壺のある部屋へ向かいながら、佳貴は頭の中で楽しい想像を巡らせた。
〝すごいじゃないか佳貴。部屋は見たけど、ぜんぜん気づかなかったぞ〟
〝こんなうまい隠れ場所をいつから知っていたんだ?〟
兄の声が実際に聞こえてくるようで、つい笑みがもれる。しかし、にこにこしながら目当ての部屋への板戸を開けたところで、彼は表情を凍らせて立ちすくんだ。
見覚えのある八畳間。見覚えのある木箱や飾り棚や長持ち。だが肝心の壺だけがない。入る部屋を間違えたかと思い、一度廊下に出て再確認したが、そこは紛れもなく目星をつけてあった部屋だった。
最後に見た時から現在までのあいだに、誰かがあの壺を移動させたのだ。もしかすると今ごろ夏の花樹でもあしらって、表御殿のどこかに飾られているのかもしれない。
壺があったはずの場所を未練がましく見つめていると、失望のあまり目に涙がにじんだ。
いつもこれだ。何をやってもうまくいかない。こんな遊びですらも。
絶対の自信を持っていた隠れ場所を失い、佳貴は次の行動を思いつけないまま、ただべそをかいていた。別の場所を見つけて今すぐに身を隠さなければ、やがて探しに来た兄になすすべもなく捕まることはわかっている。あんなに大見得を切っておきながら、隠れもせずに見つかるような情けない結果になったら、きっと兄も今度こそ弟に愛想を尽かすだろう。そう想像しただけで顔がかっと熱くなり、さらに大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
あの壺。どうして……誰が持って行ったんだ。あの壺さえあれば。
ないものをどうこう言っても仕方ないのに、どうしてもそのことが頭から離れない。
一歩も動けないまま、部屋の入り口でどれぐらい立っていただろうか。思いのほか早く鬼が探しに来た気配がして、佳貴ははっと我に返った。
「そら、そこだ!」
兄のよく通る声が、殿舎のどこかから響いてきた。
「その衝立の陰。いま尻が見えたぞ。親真だな?」
父の小姓の平城親真が捕まった。衝立と言っているから、場所は主殿とつながる廊下の端あたりだ。そこから兄が〈家老詰〉に踏み入り、内廊下を歩いてきたらほどなくここにたどり着いてしまう。
佳貴は急におろおろとなって、道具部屋を飛び出した。隣接する部屋を順繰りに見てみたが、これと思う隠れ場所はどこにもない。あの壺にまさる場所など、あるはずがないのだ。
止めどなく流れる涙を手でぬぐいながら、彼は鷹に狙われた子スズメのように逃げ回り、やがて廊下の突き当たりに行き着いた。左手に並ぶのは調度のひとつも置かれていない空き部屋だけ。右手には何もない。ここで発見されるまで突っ立っていたら、話にならない愚か者だと兄に呆れられてしまうだろう。
佳貴は小さくしゃくり上げ、突き当たりの壁によろよろと近づくと、背中を向けて寄りかかった。疲労と落胆で体が岩のように重い。足もずきずき痛んでいる。もう歩ける気がしないし、立っているだけでもつらくてたまらない。
彼は何もかもあきらめて、その場にへたり込んだ。そして壁の下部の腰板にもたれた瞬間、ふいに背中を支えるものがなくなって頭から闇の中に滑り落ちた。
――食われた。
真っ先に思ったのはそれで、たちまち全身が恐怖に総毛立った。
うしろに。ばけもの。まちぶせ。まるのみ。
光が明滅するように、切れ切れの思考が浮かんでは消えていく。佳貴は完全に我を失い、何も見えない空間で闇雲にもがいた。頭の中では悲鳴を上げているのに、息もできないほど詰まった喉からはまったく声が出てこない。
父上。母上。助けて。兄上。助けて兄上。助けて助けて助けて助けて——。
声が出せれば、近くに兄上がいるのに。必死に呼べば化け物の巣にだって、きっと助けに飛び込んできてくれるのに。
その時、振り回していた手が何かに軽く当たり、佳貴はぎくりとして動きを止めた。化け物の口や腹の中とは思えない感触だった気がする。それに、小さくコツンと音がした。板壁を指の節で叩いた時のような。
胸の鼓動はまだ跳ね狂っていたが、少しだけ頭が冷えて、今いるのが自分の考えているような場所ではないことがわかってきた。下で体を支えているのは木の床に思える。おそるおそる手を伸ばすと、指先が再び板壁に触った。どうやら、恐ろしいほど狭い通路か何かに入り込んでしまっているらしい。
佳貴は大きく息をつき、顔を両手でこすった。涙と汗と鼻水でぐしゃぐしゃだ。
化け物に食われたわけではなかったと知ってほっとしたが、それでもすぐに動き出す勇気は出なかった。動いた途端にまた床が抜けるかどうかして、次は地の底まで転落しそうな気がする。そうはならないにしても、動こうとしてみて動けなかったらと思うと怖かった。調度と壁の隙間などに挟まって出られなくなる猫がたまにいるが、今の自分は似たような状況なのではないだろうか。
何もできないままじっとしているうちに、佳貴は体の輪郭がぼんやり見えてきたことに気づいた。壁の継ぎ目かどこかからわずかに光が入っていて、ようやく暗さに目が慣れたのかもしれない。
それで少し元気が出て、彼は慎重にゆっくりと体を起こした。肩を壁に擦りながら完全に立ち上がってみたが、頭頂が天井に当たる感じはしない。ということは、幅は狭いが高さはそれなりにある空間なのだろう。
御殿にこんなとこがあるなんて知らなかった。父上とか、ほかの人は知ってるのかな……。
佳貴はまだ怖がっていたが、どうしようもなく好奇心がうずくのも感じていた。誰も知らない通路を発見したのだとしたら、それは子供の遊びで勝つよりもずっと素晴らしいことに思える。みんなに話して聞かせたら驚かれ、よく見つけたと感心されるだろう。いや、誰にも内緒にして自分だけの特別な場所にするべきかもしれない。
でも、ここから出られなかったらどうしよう。
高揚感がすうっとしぼんでいった。危険な場所でなかったのは幸いだが、入った方法も外へ出る方法もまだわかっていない。もし入ったきり出られない通路なのだとしたら、この暗く狭く埃っぽい場所で飢えて渇いて死ぬことになるだろう。
隙間の猫がまた頭に浮かび、思わず泣きそうになって佳貴はみじめに鼻を鳴らした。
気分は最悪だったが、目は先ほどよりもさらに慣れて、自分の周囲だけは見分けられるようになっている。彼はこの場所をもっとよく把握するため、汗でべたべたする手で辺りを探ってみた。
通路の幅は、おそらく一尺あまり。子供の佳貴は壁の間を難なく歩けるが、大人なら体を横にしなければ移動できないし、肥って腹の出た者はつっかえるだろう。壁と床は硬い木でできており、指を這わせると表面がすべすべしているのがわかった。
謎めいた通路は入り口からゆるく傾斜して下ったあと平坦になり、少し先で左へ曲がってずっと向こうまで続いているようだ。佳貴は〈家老詰〉の外観と内部の構造を思い浮かべてみたが、通路との位置関係はよくわからなかった。どこへたどり着くのかをたしかめたければ、実際に歩いてみるしかないだろう。
知りたい気持ちはあった。だが、今はそれよりも早くここから出たい。もうずいぶん長く閉じ込められており、さんざん怖い思いをしたので心身共に疲れ果てていた。泣きすぎたせいで喉がからからだし、少し前から頭に鈍い痛みもある。
佳貴は通路の端へ戻ると、低くしゃがんで壁の下のほうを手探りした。そこから入って来たのだから、絶対に扉か何かがあるはずだ。しかしいくらなで回しても、わずかな段差や亀裂すら感じ取れない。もっと明かりがあって、はっきり見ることができれば仕掛けのようなものを見つけられるのだろうか。
こうなったら大声で叫んだり、壁を叩いてみたりするべきかもしれない。それはわかっているのに、どこかで〝そうしたくない〟と考えている自分がいた。人に助けられたら通路の存在も知られてしまい、ここがひとりだけの特別な場所ではなくなってしまう。せっかく手に入れた秘密を惜しむ気持ちが、外へ出たい欲求と激しくせめぎ合っていた。
「あっ」
漫然と動かしていた手がふと何かに触れ、思わず声が出た。
入り口の壁と接する床の際に、長さも幅も小指一本分ぐらいの切り込みがある。それを指先でなでたり引っ掻いたりしているうちに、たまたま端のほうの一点を押し込んだところ、カチリと音がして眼前に細い亀裂が生じた。扉が開いたのだ。
佳貴は無我夢中で亀裂に指を差し込み、広がった隙間に体をねじ込むようにして外へ這い出た。
廊下には人けがなく、静まりかえっている。明かり取りの小窓からは真昼の白い光が差し込み、それまで暗いところにいた佳貴の目を眩ませた。通路で何刻も過ごした気分になっていたが、外はまだ日が傾いてすらいないらしい。
四つん這いのまま床に汗を滴らせている彼の背後で、かすかな物音がした。振り向いて見れば、通路への入り口が消え失せている。
軽い驚きをおぼえながら、佳貴は這い戻って壁の下部をそっとなでた。同じ幅、同じ色合いの腰板が隙間なく張られており、外見や感触が異なっている部分は見当たらない。最初から知っているのでなければ、そこに通路への入り口があるなどとは誰も気づかないだろう。自分がこれを発見できたのは、疲れてこんな場所に座り込んでしまうようなとびきりの軟弱者だったからだ。そんな情けない子供も大人もこれまでほかにはいなかったし、きっと今後も現れないに違いない。
右手の手のひらを腰板に押し当て、ぐっと押してみると隠し扉が内側へ開いた。軽く押し返してくるような抵抗を感じるので、力を加えていないと勝手に閉まる仕掛けになっているらしい。
先ほどまでのことが夢ではなかったと確認できて、佳貴は心底ほっとした。恐怖を味わいはしたが、それに見合うだけの発見をしたのだ。誰もがあっと驚く大発見を。誇らしい気持ちがむくむくと湧き上がってくる。
佳貴はすっくと立ち上がり、胸を膨らませて歩き出した。くたびれてはいたが足取りは軽い。そして勝手口から殿舎を出ようとしたところで、中庭から来た唐木田智次に出くわした。
「ああよかった、ご無事でしたか」彼は佳貴の姿を認めると、振り向いて大声で呼んだ。「若! こちらにいらっしゃいました」
智次が最後まで言う前に、押しのけるようにして兄が戸口に駆け込んできた。今までに見たことのない表情をしている。
「どこを探してもいないし、呼んでも出てこないから心配したぞ」
彼の声は心痛にかすれていて、佳貴を申し訳ない気持ちにさせた。
「それにしてもひどいお姿ですねえ。すぐに洗わないと」
智次の言葉で、初めて佳貴は自分が埃まみれであることに気づいた。汗で濡れた肌に汚れがまとわりついて、手も足も泥をなすったように真っ黒になっている。きっと顔もだろう。
「いったい、どちらに隠れておいでだったのですか」
好奇心旺盛な智次は詮索したがっていたが、貴之が割って入ったお陰で答えなくてすんだ。
「怪我がないなら、それでいい」
それから兄は野良犬のように汚れていることなど気にもせず、佳貴をぎゅっと抱きしめてくれた。
「なかなか見つけてやれなくてすまなかったな」
いたわるように背中をさすられた瞬間、佳貴の両目に熱い涙がほとばしった。あの暗闇の恐怖と心細さと絶望感が一気に蘇り、人知れず大冒険をした興奮も特大の秘密を手にした得意さも押し流していく。彼はただの甘ったれな弟に戻って、兄にしがみつきながらわんわん泣いた。
発見を独り占めしようなんて、どうして思ったんだろう。兄上なら何かいいものを見つけたら、きっとわたしにも教えてくれるのに。いつだって気にかけてくれる兄上。大好きな兄上。そうだ、兄上にだけはあの通路のことを話そう。そして、ふたりで一緒にあそこを探検するんだ。
腹の底からこみ上げてきた、かつてないほどの兄への愛情にくらくらするのを感じながら、佳貴はそう決意した。
「井戸で汚れを落としましょう」
佳貴の大泣きがようやく治まると、智次が彼の手を引いて中庭へ連れていった。井戸の近くには白い花をいっぱいに咲かせている大きなエンジュがあり、その下に隠れん坊のほかの参加者が集まっている。彼らに泣きっ面を見られるのは決まりが悪かったが、思いがけず称賛の眼差しに迎えられた。
「〈家老詰〉におられたのですか」
声をかけてきたのは平城親真だ。
「わたしもあそこに隠れていましたが、早々と若に捕まえられてしまいました。こんなにも見つかりにくい隠れ場所があるとは知りませんでしたよ」
彼は明るい笑顔で、感心したように言った。
「佳貴さまは隠れん坊名人ですね」
智次に手足を洗われながら佳貴は曖昧に微笑んだ。褒め言葉がくすぐったい。
隠れん坊名人と呼ばれるのはなかなか悪くないと思った。実際あの場所さえあれば、二度とこの遊びで負けることはないだろう。もちろん、知っているのが自分だけではなくなったら、もう使うことはできないが。
そのあとさらに遊ぶ元気は残っていなかったので、佳貴は次の一戦が始まる前に「疲れたから」と言って抜けた。いつもなら自分の弱さに落ち込むところだが、昼寝をしに部屋へ戻るあいだも浮き立つ気持ちはまだ続いていた。
通路のことを兄に話そうと決意したことは忘れていなかったが、彼は結局その秘密を貴之にも誰にも打ち明けることはしなかった。
隠された扉から〈家老詰〉の通路に入り、佳貴は暗がりの中で膝を抱えて静かに座っていた。すっかり身に馴染んだ闇に、もはや恐怖は感じない。
あの衝撃的な発見をした日から、彼は人に怪しまれないよう慎重に通路への再訪を繰り返し、そのたびに探索の距離を少しずつ伸ばしていった。生来臆病な質なので、さほど危険はないようだとわかってからも一度に長く留まっていることはできず、この場所を完全に把握したと思えるようになるまで数か月もかかっただろうか。
その甲斐あって、今では何ら不安をおぼえることなく、ここでくつろいでいることができる。自分で定期的に掃除をしているので居心地も悪くない。
この三年間、佳貴は通路の存在を周りに隠し通した。兄に、あるいは父貴昭に話そうと思ったことは何度もある。そうすべきだとわかってもいる。しかし秘密を惜しむ気持ちが強すぎて、どうしても実行できなかった。
彼が秘匿している一本以外にも、七草城には隠し通路が存在している。そういったものは、どこの城郭にも必ずあるらしい。父は七草に封じられた際に城全体の調査を命じて、三本を見つけ出したと聞いている。この春に代替わりした兄貴之も同じことをして、御殿内でさらに新たな通路を一本発見していた。中奥の城主寝間から城外まで通じていたそれは避難通路として現在も維持されているが、鍵付きの扉が新たに取り付けられ、出口に番人も置かれていて簡単には通行できなくなっているという。
もし〈家老詰〉の通路がそういった城の外に続く類いのものであれば、さすがに佳貴も物惜しみすることなく報告しただろう。だが念入りな探索の結果、彼はそれが通路というより、むしろ部屋と呼ぶべきものであると結論づけていた。なぜなら、この細長い空間はどこにも通じていない。端に出口はなく、行き止まりになっている。
それは〈家老詰〉の北側の外壁と内壁との間に、誰かが意図して――おそらくは秘密裏に――造作した部屋だった。彼がそう思うのは、単なる壁の隙間にしては広すぎるし、内側の壁と床がきちんと板張りされているからだ。人がその中で移動したり、しばらく過ごしたりできるようにしてあると感じる。
何の用途で造られたものかは想像の域を出ないが、佳貴は盗み聞きのための部屋に違いないと考えていた。彼が〈耳の壁〉と名づけたその場所は家老衆が使う主室すべてに隣接しており、そこで交わされる話の内容を誰にも悟られずに聞くことができたのだ。
最初にそれに気づいた時は、ただただ怖かった。幼くとも、人の話を盗み聞いていいかどうかぐらいの判断はつく。もし、そんなことをしているとばれたら父に叱られ、母からは軽蔑されるだろう。しかし、それでも〈耳の壁〉に通うことはやめられなかった。
家老たちとその家来たちも、彼らがいない時に室内を整える奉公人たちも、奥まった主室でじつにさまざまなことを囁き交わす。開口部のない分厚く堅牢な壁の向こうで、誰かが聞き耳を立てているなどとは思いもしないからだ。その明け透けな会話が佳貴を無性に惹きつけた。
むろん大人が話すことなので、聞いたからといってすべてが理解できるわけではない。それでも彼の興味を引く話題はたくさんあった。
家老の誰かが別の家老の悪口を言い、側近たちが「おっしゃるとおりです」と追従する。その側近たちが、評定に出かけていった家老の悪口を言い合う。彼らがみな部屋を空けている時に、奉公人が掃除をしながら俸給の安さを愚痴り、主人や上役への不平をもらす。一緒になって文句を言っていた同僚が、あとで上役にこっそり告げ口をする。そうしたやり取りに耳を傾けているのが、たまらなく楽しかった。
時には城主である父や自分たち家族の悪口を聞いてしまうこともある。初めのうちはそれで気落ちしたりもしたが、今ではほとんど気にならなくなった。人は誰しも、本人が聞いていないと思えば好き勝手なことを言うものなのだ。
「ご門前御屋敷の普請は進んでいるのか」
壁の向こうから声がして、佳貴は耳をそばだてた。
「はい、滞りなく。俊宗さまのご到着までには仕上がります」
「作庭がどうのと言っていたのは」
「あれも片付きました。柳浦重益どのから良い職人を紹介していただいたので」
佳貴が今いるのは、筆頭家老花巌義和の部屋裏だ。ここから室内は見えないが、会話をしているのがその義和と息子の花巌利正であることはわかる。
盗み聞きもだいぶ年季が入った最近では、彼は城内の主要な人物の声をかなりの精度で聞き分けられるようになっていた。家老衆はもちろん、その家来や奉公人たちも、声と会話の内容を聞けば大半の人物を特定することができる。
壁の向こうの義和父子は、近々やって来る丹部黒葛家の嫡男俊宗のことを話していた。佳貴にとっていとこ伯父にあたる俊宗はこれから五年間、若くして立州国主代になった兄貴之の目付役として七草に滞在する。利正はその世話役に決まったので、城下に迎えるための準備に奔走しているのだ。
ふたりの会話はまだ続いていたが、佳貴はそっと立ち上がって移動を始めた。花巌家の人々は品行方正すぎて、下世話なおもしろい話は期待できそうもない。
体が三年分成長して〈耳の壁〉はやや窮屈になったものの、もともと痩せ型の彼はまだ壁の間を易々と歩くことができた。
花巌義和の隣は真栄城修資だが、現在は東部へ戦に出ているので部屋には誰もいない。その隣で日ごろ修資と仲のいい由解正虎と、さらに隣の新納久澄は本日非番のようだ。次の八武崎東悟は出仕しているが、今朝がた旅装で城を出ていくところを見かけていた。兄から何か仕事を命じられているのだろう。
それらの空き室を素通りしたあと、佳貴は玉県輝綱の部屋裏で足を止めた。彼は代替わり後に家老衆に加わった〈家老詰〉の新参で、元は父の筆頭警護役だった人物だ。城内の剣術道場で指南役を長年務めており、佳貴も八歳から剣を教わっている。いつもにこにこして優しげだが、人の気を逆なでするような言葉を吐きがちな師範で、弟子の中にはひそかに彼を嫌っている者も多い。しかし佳貴は昔から輝綱が何となく好きだった。
たしかに彼は無神経なことをしばしば言うが、人を見て態度を変えることはしない。相手が自分の主君や、その子供であってもだ。そういう輝綱を、佳貴はある意味とても公平で正直な人間なのではないかと思っている。
室内はしんとしていて咳払いひとつ聞こえず、これは外れかなと思いかけたところで襖の開く音がして誰かが入って来た。
「殿」
それだけで声の主がわかった。輝綱の側近の表井忠兵衛だ。佳貴も何度か言葉を交わしたことがあるので、目と目が離れて鼻の低い、鯉に似た顔がすぐに思い浮かぶ。
「ただいま家のほうから使いが参りまして、これを」
紙を開くようなかさかさという音に続き、輝綱が深く嘆息するのが聞こえた。
「例の件、今日明日にも実行するそうだ」
「首尾良くいきましょうか」
「いや、十中八九はし損じるな。あまりに強引で雑なやり方だ。本家にそう忠告しようかとも思ったが――」輝綱の声に皮肉っぽい響きが混じる。「分家の口出しなど無用だろう。頭の冴えた綱保どののことだ、わしには思いも寄らぬ優れた策を講じておられるに違いない」
小馬鹿にしたように鼻を鳴らす音がして、佳貴は輝綱が当てこすりを言っているのだと気づいた。話に出てきた綱保は黒葛宗家の家老衆のひとりで、たまに名前を耳にすることがある。輝綱は彼とはいとこ同士のはずだが、仲が悪いのだろうか。
「誰が家にこれを届けてきた」
「殿がいつも嫌われる、あの――」
「羽積か」吐き捨てるような言い方に、輝綱の心情が表れている。「では例の件は、あの男に仕切らせているのだな」
佳貴にとっては初めて聞く名前だった。
「昔から綱保はあの者を気に入っていてやたらと使いたがるが、わしには何が良いのかさっぱりわからぬ」
「こう申してはなんですが、あの見た目がどうにも薄気味悪うございます。そら、頭の傷が……」
辺りを憚るように忠兵衛が声をひそめたので、佳貴は思わず身を乗り出して内壁に耳をつけた。
「凄まじい有様でございましょう。おまけにひどいやぶにらみで、向き合っていてもどこを見ているか皆目わからず、居たたまれない気持ちにさせられます」
「まったく綱保は風変わりな趣味をしていることだ。あんな悪目立ちする卑しげな男をどこで拾ってきたのやら」
玉県本家が使っている家人なのだろうに、ずいぶん遠慮のない悪口を言うものだ。そこまで悪し様に言われる〝うつみ〟を佳貴は気の毒に思ったが、大人が他人をこき下ろす様子には興味と可笑しみをおぼえずにいられなかった。
〈耳の壁〉にいると、時に誰が誰を好きで、誰と誰が仲が悪いかといったことも知ることができる。ここまでの会話から察するに、輝綱はいとこの綱保をほんとうに嫌っており、少し馬鹿にしてもいるようだ。一門の絆が強い黒葛家とは違って、玉県家は本家と分家が結束していないのかもしれない。
「まあ、あの件が失敗しても、こちらが用意したほうは成果を得るやもしれん」
「若さまが、きっとうまくおやりになるでしょう」
忠兵衛が持ち上げるように言ったのに対し、輝綱が熱のこもらない調子で生返事をする。
うまくやるとは思ってないんだな――と佳貴は感じ、壁から耳を離して座り直した。
忠兵衛が若さまと呼ぶ人は、佳貴が知る限りひとりしかいない。輝綱の嫡子である玉県景綱だ。目元の涼しい二十歳の青年で、二年ほど前から兄の貴之に近習のひとりとして仕えている。
彼はいま兄に従って視察旅行に出ているが、いったい何をすることになっているのだろう。それも気になるし、〝例の件〟も同じぐらい気になる。もっと詳しく話してくれないだろうか。
先が聞けるのを期待してしばらく粘ったが、結局ふたりはそれ以上のことを話さなかった。
わかったのは玉県本家と分家が、それぞれ何かをしようとしていること。そして頭に傷のある〝うつみ〟という男と、玉県景綱がかかわっていること。つまり何もわかっていないに等しい。
秘密めいたことを洩れ聞いたという満足感はあるが、それだけだ。
心残りはあったものの、佳貴はそこで切り上げて〈耳の壁〉を出ることにした。もうすでにかなり長居をしており、栄祐に行方を捜されているかもしれない。
少し疲れを感じながら中奥へ戻る彼の胸には、自分があまりにも子供で、大人の会話を表面的にしか理解できないことへの悔しさが燻っていた。
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