六十四 立身国南部・黒葛貴之 虎口を越えて
ちょっとそこまでの身軽な小旅行。
出かける前はそう思っていた。随員は四人ほどで、警護も二、三人いれば充分だと。
しかし蓋を開けてみれば杣友郷への視察団は随員十五人、馬廻衆十人、さらに中間や槍持ち箱持ちなどの小者も加えて、かなり仰々しい大所帯に膨れ上がっていた。
「こんなに必要だったのか」
自国内を移動するだけの、ほんの数日間の旅だというのに。強い日差しの下、馬の背に揺られながら供衆を見渡して渋い顔をする貴之に、人員の手配をした馬廻筆頭の柳浦重益が平然と答える。
「これでも減らしたのですよ。あまり多いと、視察先の領主の有部達昌が厭がるでしょうから」
大げさすぎるとは思うが、黒葛分家の御屋形になったからには仕方ないとあきらめるほかないのだろう。
貴之は小さく嘆息して、水筒の水で喉を潤した。かなり前に七草城下を出たので、眼前の景色は農地と山野ばかりになってどこまでも広がり、目路の端まで青畳を敷き詰めたような田圃では少し色づいて頭を垂れ始めた稲穂が風にそよいでいる。その向こうに見える夏の山々は黒と見まがうほどの濃緑をまとい、青い空にくっきりと稜線を際立たせていた。暑さは厄介だが好天に恵まれ、きっと気持ちのいい旅になるだろう。
目的地の杣友郷までは、七草郷からまっすぐに行けば二日半ほどの距離だ。しかし今回は敢えて行きと帰りとで道を変え、全体で七日かけてゆっくり巡ることにしていた。
往路はまず立州街道を北上し、途中で鹿鳴街道に入って真西へ進路を変える。馬郡、若嶋、不死川、大邨の四郷を経由して杣友郷へと至る、やや大回りの経路だ。
復路は古い書物に〈絹の道〉と書かれた西国道で東へ戻り、鈴久名、前旬、荷軽部の三郷を経由して七草に帰り着く。
往復で二度の渡河と山越えがひとつあるものの、全体的にはのんびり気楽そうな行程であり、よほどの不運に出くわさない限り難儀する気づかいはないだろう。そう目算してのことか、重益は貴之に臣従したばかりで経験の浅い新参馬廻も何人か一行に加えていた。
そのひとり、三十歳の癸生川惣一は江州役が終わる一年ほど前から黒葛方に雇い兵として与力していた元牢人だ。彼は短いあいだではあるものの、故儲口守恒公の小姓を務めたという興味深い経歴の持ち主でもある。しかし政に熱意を示さない主人に愛想を尽かし、十五歳の時に主従関係を断って浪々の身となった。それから諸国を巡ってひたすら研鑽を積んできたという剣の腕はたしかなものであり、百武城での最終決戦では敵の士大将をふたり討ち取る殊勲を立てている。
さらに彼は、耶岐島の戦いで黒葛貴昭が凶刃に倒れた際、駆けつけて刺客にひと太刀浴びせたひとりでもあった。貴之が組織した別働隊にも自ら進んで加わり、敵総大将守笹貫信康の本陣を急襲する作戦に尽力している。
戦後の論功行賞でその働きに報いようとした貴之に、惣一は金銭ではなく七草家への仕官を乞い願った。
「あの困難な局面で迷わず戦の続行を決断された、若殿の並々ならぬ胆力に感じ入りました」
再び主持ちになる決意をした理由を訊ねると彼はそう語った。しかし、そのあとにつけ加えた「わたしには糟糠の妻があり、せがれも産まれておりますので、その者らに人並みの暮らしをさせてやりたいという思いもあります」という言葉のほうがより真情に近いのではないだろうか。
一時的にでも名家の当主の側仕えをしたのなら、惣一も元はそれなりの家柄だったはずだ。しかし彼を召し抱えるまで、癸生川という家名は耳にしたこともなかった。ということは、儲口家で出世するはずだった跡取り息子が出奔し、数年後に主家そのものが滅亡したことで癸生川家もまた没落したのだろう。惣一は黒葛家に仕えることで家を立て直して、将来息子に継がせてやりたいと考えているに違いない。
一度は主人を見限った男か。おれも愛想を尽かされないようにしないとな。
そんなことを思いながら、貴之は馬上で首を巡らせた。惣一は馬の尻を追うように歩いており、隣にいる馬廻仲間の佐々道朝と何やら盛んに言葉を交わしている。
「それで廊下を間違えて、うっかり御殿奥に入りかけてな」
惣一の話を聞いていた道朝が低く唸った。
「粗忽な。もし入っていたら、ただではすまんぞ」
「うむ。奧番衆の日馬弘惠どのに、鬼の形相で追い返されてしまった」
「ああ弘惠か。彼女はおれの幼馴染みだ」
「そうなのか」
「日馬の屋敷はうちの筋向かいにあって、子供のころは弘惠の兄らも一緒によく遊んだものだよ。男きょうだいに囲まれて育ったせいか、あいつは昔から男勝りでな。嫁にも行かずに奧番衆になると聞いても、まったく意外とは思わなかった」
道朝の口調には、家族に対するような情愛がにじんでいる。貴之はほのぼのと聞いていたが、惣一は別のことを感じたようだ。
「道朝どの、もしや弘惠どのに――」
「惚れてはおらん」道朝がすかさず遮り、あきれたように言った。「まったくおぬしは、隙あらば何でもそっちに結びつけようとするな」
「そうは言うが、幼いころ共に遊んだふたりが将来を誓い合ったり、誓い合ったのに引き裂かれたりするのは劇的だし、とても美しくて心揺さぶられる。物語として、じつに良いと思わんか」
「引き裂かれるのは、良くはないだろう」
貴之が思わず吹き出しながら言うと、ふたりは驚いたように顔を上げた。
癸生川惣一は精悍な顔立ちをした、物堅い男に見える。いつもまっすぐに背筋を伸ばし、身形は野暮臭くはないが控え目、角張った顎と真一文字の口は少し頑固そうだ。しかし貴之の言葉に相好を崩した彼は、にわかに若返って親しみやすい印象になった。
「今のは芝居の話です」
彼は穏やかに微笑みながら説明した。
「わたしは昔から芝居が好きで、特に男女の色恋を描いた演目には目がありません。好き同士が結ばれて終わる話はいつ見ても楽しいですし、切ない余韻を残す悲恋や情死物の味わいも、それはそれで良いものですよ。御屋形さまは、芝居をご覧になったことは」
「たぶん、ない。郡楽城の年改めの催しに呼ばれた演芸の一座が、何かそれらしいことをやっているのはちょっと見たかもな」
その時、貴之はふと後方に何か動きがあるのを見て取った。
「止まれ」
隊列を止めて待っていると、最後尾にいた近習の玉県景綱が駆けてきた。
「奈良田村地頭、堂坂二郎右衛門らがご挨拶にまいっております」
立州街道沿いの奈良田村は七草郷のすぐ北の小村で、江州役に出陣する際の行軍でも通ったのを覚えている。喋っているあいだに郷境を越えて、ひとつ目の経由地である馬郡郷に入ったようだ。ここは支族の真栄城家所領で、街道沿いに砦と支城がひとつずつ配置されている。
「会おう」
貴之は馬を下り、景綱に案内されてきた二郎右衛門と奈良田衆から丁寧な挨拶を受けた。経路の確認を兼ねた先触れの使者から貴之の到来を聞き、早朝から支度をして待っていたらしい。彼らは手土産として、新鮮な川魚や山菜の料理を詰め込んだ食籠と酒を持参していた。
「そこまでお送りさせてください」
二郎右衛門が言うので同行を許し、しばらく一緒に歩いていると、今度は道の反対側から別の一団が現れた。こちらは平砂衆と米五目衆を名乗り、やはり食籠や進物を山ほど持って来ている。それを受け取ったり礼を述べたりしているうちに、せっかくだからみなで軽く一献という流れになってしまった。
「城を出て、まだふた刻と経っていないのにな」
すぐそばの河原に一席設けようと立ち働く者たちを眺めながら、貴之は小姓頭の唐木田智次に小声で言った。
「こんなところで足止めを食うとは思いもしなかった」
訳知り顔の智次がくすくす笑う。
「面倒な手続き抜きに御屋形さまにお目にかかれる機会など、めったにあるものじゃないですからね。このあとも、きっと何度もこんな場面がありますよ」
いくらも待たないうちに即席の宴会場が出来上がり、貴之は河原に腰を下ろして少し飲み食いしながら、挨拶の者たちと言葉を交わした。
何か直訴されたり、厄介なことを頼まれたりするかもしれないと幾分警戒していたが、誰にもそういう下心はなさそうだ。黒葛分家の新当主に敬意を表しに来ただけであり、智次が言ったとおり、貴之に会えたことを純粋に喜んでいるように見える。
彼らの顔には温かさがあった。そして好意が。しかし好意が少しもなければ、そもそも表敬訪問などしないだろう。
歓談の中で、貴之は二郎右衛門に訊ねた。
「近ごろの暮らし向きはどうだ」
「お陰さまで、無事どうにかやっております」彼の返答は慎ましいものだった。
「戦が長らく続いて、苦労をかけたな」
貴之の言葉に二郎右衛門がはっとなり、ほかの者たちもにわかに注目した。
「なんの、あれしき!」
少しの間が空いたあと、奈良田衆のひとりが威勢良く言った。
「立州人は少々のことではへこたれません」
そうだ、そうだと同意の声が上がる。
「おれは尻を槍で刺されましたが、その日のうちに戦場へ戻って江州兵を四人やっつけてやりました」
平砂衆の中でいちばん若い男が誇ると、隣にいた年配が混ぜ返した。
「なんと、では今は尻の穴がふたつか」
「おう。三つめをこしらえに、次の戦も行くぞ!」
若者が昂然と言い返し、年配が「参った」と肩をすくめる。そのやり取りを聞きながら人々は笑い、自分たちも口々に「おれも行くぞ」「次はもっと手柄を立てる」と宣言した。
生き生きとした顔。明るい声。
それを黙って見つめる貴之の胸に、ふいに彼らへの慈しみがあふれた。
「また戦が始まったら、今度は若殿が我ら立身勢の総大将じゃ!」
先ほどの年配が大声で言い、わっと歓声が上がった。
次の戦など、ないに越したことはない。宿敵守笹貫家を討ち滅ぼし、黒葛家は島嶼部も含めた西峽南部最大の勢力となった。樹神家や雷土家とは同盟を結んでおり、当分は誰かが戦を仕掛けてくることもないだろうし、民には安んじて平穏な暮らしを送って欲しい。
だが、彼らが聞きたいのはそれではないとわかっている。だから貴之は不敵に笑み、期待されている通りの言葉を言った。
「そうだ。みなの働きを期待しているぞ」
旅の一日目は、ふたつ目の経由地である若嶋郷に入ったところで暮れた。宿泊先は貴之の家臣である伊海豊氏方。一行がそこに落ち着いたあともまだ続々と進物が届けられ、帰城後に返礼品の手配をする唐木田智次は夜遅くまでその記録と整理に追われた。
二日目は豊氏の案内で郷を見て回り、名産の藍染めの作業場と蓼藍の畑を見学した。畑はちょうど収穫の最盛期を迎えており、どの畝の蓼藍も大きく育って濃い緑色の葉をいっぱいに茂らせている。染色の作業場では、刈り取ったばかりの生葉を使って絹糸を染める様子を見せてもらった。
若嶋郷で生産される藍染めの糸は、〝若嶋碧〟と呼ばれる独特の清々しい空色で人気が高い。貴之の母真木もこの糸で織った布を好み、家族や自身の衣類を過去に何着か仕立てている。
「母に、いい土産話ができた」
見学後にそう言うと豊氏はたいそう喜び、母君さまにと言って〝若嶋碧〟の反物を贈ってくれた。
ありがたいことではあるが、まだ道半ばにも達していないというのに、こうも荷物が増えてしまってはじきに手に負えなくなりそうだ。そこで智次と相談して、すぐに消費できる酒や食べ物以外の進物を小者に託し、先に七草へ持ち帰らせることにした。この分だと旅のあいだに、あと何人か帰すことになるかもしれない。
その日は若嶋郷の次の経由地である不死川郷まで行き、郷の東を流れる来海川を渡った少し先で一泊した。宿を提供したのは亡き父の元側近で、今は隠居している野々部鑑盛だ。貴之は小さいころ彼に素朴な遊びをたくさん教えてもらい、〝爺や〟と呼んで慕っていた。
「お父君に、なんと似ておられることか」
久しぶりの再会を喜んで涙に噎ぶ爺やは、記憶にあるよりもずっと老け込んでいる。体もふた回りほど小さくなったように見えた。
「鑑盛、そう遠くはないのだから、たまには七草に遊びに来い」
貴之が言うと鑑盛はまた感傷的になり、目に涙をにじませた。城にいたころは大きな声で笑う豪快な男だったのに。少しほろ苦く思いながら、彼は「父の話を聞きたい」とねだり、この日は夜が更けるまで思い出話に花を咲かせた。
「よくお休みになれましたか」
翌三日目、貴之の朝の身支度を手伝いながら玉県景綱が気づかった。そう訊ねる当人のほうが、あまり眠れなかったような顔をしている。
「山登りをするので、元気を出していただかねば」
「大げさだな。たいして高い山じゃないんだろう」
今日は旅程で唯一の山越えがあるが、鹿草山は七草城の城山よりやや低いぐらいだと聞いている。登りに半刻、下りに半刻。その程度の登山なら、特に気負う必要もないだろう。
野々部鑑盛と近々の再会を約束して別れ、鹿鳴街道をさらに西へ進んでいくと、ほどなく鹿草山が見えてきた。飯椀を伏せたような、きれいな形をした山だ。その山腹は木々にびっしり覆われているが、山頂付近はところどころ巨岩が剥き出しになっている。話によるとこの山には古来より鹿が多く住んでおり、歴代の立身国主はこのあたりでよく鹿狩りを催したらしい。
麓を取り巻く小さな林を抜けて山を登り始めると、思いのほかきつい勾配に出迎えられた。しかし厚い樹冠に太陽が遮られているので、平地を進んでいる時よりもずっと過ごしやすい。登山道はひんやりと涼しく、どこか近くを流れる水音と鳥の鳴き声が楽しげで、湿り気を帯びた樹木の香りが心地よかった。
街道が通っている山なので、行き交う人の姿は多い。馬を下りて歩きながら、貴之は何度も旅装の男女とすれ違った。あまり広い道ではないので人との距離が近く、馬廻衆が少し気を張っているのが感じられる。
やがて木が少なくなり、くねくねした峠道を上り詰めると、山の鞍部を見上げる狭く細長い平地に出た。道沿いに茶屋が一軒建っており、その先は岩壁に挟まれた切り通しになっている。通行しやすいよう、山頂を四間半ほど掘り下げて人工的に造った道だ。
一行は休憩を取るため、ここでいったん隊列を止めた。まだ午には早いが、飲み食いしながら足を休めるには恰好の場所だ。今朝、出発する直前まで続々と宿所に届けられた進物がほぼ手つかずなので、全員が腹を満たせるだけの食料はある。しかし飲み物は茶屋に注文して、多少でも地元に金を落とすことにした。
「御屋形さまは、あちらへどうぞ」
茶屋の主人とやり取りをしてから戻ってきた唐木田智次に案内され、貴之は店の軒下に斜めに置かれた床几に腰を下ろした。同じような腰掛けが横並びに五台あり、その半分ぐらいが旅姿の人々で埋まっている。すぐ隣では青年ふたりと中年男ひとりの三人連れが甘酒をすすりながら楽しそうに話していたが、彼らは貴之の身形に気づくと恐縮の態でそそくさ席を立ってしまった。
追い払うつもりなどなかったが、大勢の供衆を引き連れた身分ありげな武家が近くにいては落ち着かないのだろう。
彼らが茶代を置いて立ち去る間際、貴之の頭のうしろから聞き覚えのある〝声〟がした。
「切り通しを抜けた先で襲われる。右手の竹林から八人だ」
年齢性別の判断がつきづらい奇妙で不可思議な〝声〟。囁きに近い小声でありながら、なぜか言葉は明瞭に聞き取れる。
貴之ははっとなり、横目に三人連れを見た。彼らはこちらに背を向けており、すでに軒下を離れかけている。喋っているのは、その中の誰かだろうか。そうだとしても、まったくそれらしい気配を感じさせない。
「用心しろ、小僧」
呼気を感じないのが不思議なほど近くで再び〝声〟が囁き、貴之はそれが誰のものであるかを確信した。
この謎めいた〝声〟に深夜の訪問を受けたのはいつだっただろう。あれはたしかふた月前、水月の半ばごろだ。次に来るのは気が向いた時――と言っていた。それが今なのか。
顔を上げると、少し離れて立つ柳浦重益が怪訝そうに見ていた。
「御屋形さま、いま誰かに話しかけられましたか」
彼に聞こえていたはずはないが、主人の表情から何か感じ取ったのだろう。
「いや。隣の三人が会話していただけだ」
なぜごまかしたのか、自分でもよくわからなかった。重益に隠しごとなどめったにしないのに。
貴之は智次が運んできた緑茶と食べ物を上の空で口に運びながら、〝声〟が告げた内容を思い返した。
切り通しを抜けた先で、竹林に潜む八人が襲撃してくる。
おれの命を狙うのは、いったい何者なのか。いや、いま考えるべきはそれではない。この件を馬廻衆に伝え、備えさせるかどうかだ。みなに話すとしたら、当然あの〝声〟のことから具に打ち明けねばならないだろう。それを躊躇う気持ちが自分の中にある。
事前に知らなかったとしても、精強無比の馬廻衆は数で劣る相手に後れを取ることはないはずだ。そこは完全に信頼しているが、情報を伏せて味方を不利にするのは道理に適った行為とは言えない。
敵は寡兵だが、装備は調っているのか。もし鉄砲を持っていたら――と考えるとひやりとなったが、そうであれば〝声〟はそのことも伝えたはずだ。雇用を求めている相手に死なれては、情報を届けに来た甲斐がないだろう。
貴之は店の軒から下げられた青簾が風に揺れるのを見ながら、黙って考えを巡らせた。誰にも情報の出どころを詮索されることなく、待ち受ける危険について警告する方法はないだろうか。
視線を下げると、従者の戸来慎吾が邪魔にならない隅のほうに控えているのが目に留まり、その瞬間に妙案が閃いた。
「あの切り通し」
木の根に覆われ、割れ目からシダを生やした岩壁が囲む道を見ながら独り言をつぶやく。
「出口が見えないな。途中で曲がっているのか」
聞こえる範囲にいる家臣が、みな耳をそばだてているのは承知の上だ。
「長さはどれぐらいだろう。硬い岩盤をよくあれだけ穿ったものだ」今度は独り言ではなく、重益のほうを向いて言った。「切り通しを抜けたあたりで大邨郷に入ると聞いたが、そこからすぐ下りかな」
重益は何気ない雑談と思っているようだ。
「ええ、おそらく。誰かに見て来させましょうか」
そこで貴之は慎吾に目をやった。
「ちょっと行って見てこい」
若い従者は短くうなずくと、小走りに駆け出した。先を急ぐ旅人たちの間を縫って切り通しに入っていき、いくらも経たずにまた戻ってくる。
貴之は目顔で知らせて傍に寄せると、自分だけに聞こえるよう耳打ちさせた。なぜなのかと不思議に思ったとしても、慎吾は貴之がすることに決して疑問を差し挟まない。
「切り通しは八間ほど長さがあります。左手の岩壁は出口の向こうまで伸びて、少し先で登山道が下り始めるあたりまで続いておりました。道の右手の壁が切れた先は、密生した広い竹藪です」
慎吾が気づかなかったということは、敵は道からは見えないところにうまく隠れているらしい。
「重益」
表情を改めて呼びかけると、重益はすぐに異変を察知して近づいてきた。
「いかがなさいました」
「切り通しの出口の先に、武装した者たちが潜んでいる。道の右手の竹林に七、八人だ」
思いがけない貴之の言葉に驚いたはずだが、重益も慎吾もそれぞれの流儀で動揺は見せなかった。重益はすでに、めまぐるしく頭を働かせている時の顔つきになっている。
「狙いはおれかな」
貴之の問いに、彼は厳しい目をしてうなずいた。
「そう考えて備えましょう」
重益は古参の馬廻喜来延人を呼んで情報を共有し、このあとの対応を検討したあと、決定事項をほかの者たちに伝えて回らせた。
「竹林以外にも伏兵がいる可能性を考えて、隊は分けずに行きます」
彼は貴之の傍に寄り、低い声で言った。
「引き返して難を避ける手もありますが、御屋形さまが目当てならばどうせ追ってくるでしょう。ここで始末をつけるのが上策かと」
「おれもそう思う」
貴之は同意して腰を上げた。待ち伏せに敢えて飛び込むというのは、いかにも恐れ知らずの黒葛家らしいやり方といえる。
重益は道の端に全員を集めると、隊列を組み直した。右一列に馬廻衆を置き、騎乗した貴之の位置は左列やや後方。馬の前後を玉県景綱ら近習が固め、左右には唐木田智次と重益自身がつく。万一、馬廻衆から切り離されたとしても、残る者たちで貴之を守りながら下山できる布陣だ。
「よし、行こう」
号令をかけて踏み入った切り通しは、谷底のように薄暗かった。岩壁に生えた木々が枝を張り出し、頭上に天蓋を作っている。外部から入る音はほとんどなく、ただ落ち葉を踏みしめる足音と、道を吹き抜ける風の音だけがやけに耳についた。
「おれならもっと人数を揃えて、ここで前後から挟撃するな」
貴之のつぶやきを聞いた智次はくるりと振り返り、後ろ歩きしながら後方を確認した。
「そういう気配はなさそうです。慎吾が見た人数だけで仕掛けてくるとしたら、蛮勇というよりはやけくそに思えますねえ」
呑気そうに言って、にやりとする。もともと楽観的な男ではあるが、これから戦闘があるかもしれないというのに少しも緊張している様子がない。
「自棄になった人間は怖いよ。気を抜くな」
振り向いて苦言を呈したのは、馬のすぐ前を歩く玉県景綱だった。智次とは対照的に、神経質そうに眉を曇らせている。思えばこの近習は旅に出てからずっと、どことなく冴えない顔をしていた。何か気にかかっていることでもあるのだろうか。
貴之がそんなことを考えているうちに一行は切り通しの出口を抜け、夏の日が差す明るい街道に出た。少し先の道沿いに、大邨郷との境を示す境界石が見える。
その瞬間、右手の竹林から「来たぞ!」と声が上がり、すでに抜刀している男たちが喚きながら飛び出してきた。近くを歩いていた旅人たちが悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。
敵はくたびれた旅姿の男が六人。携える得物は刀だけのようだ。馬廻衆がすぐさま迎え撃ち、たちまち激しい斬り合いが始まった。相手は奮戦しているものの、不意打ちの目論見が外れた時点で勝敗はほぼ決している。
左の壁際に退いて馬上から見守る貴之の眼前で、癸生川惣一が敵のひとりを鮮やかに斬り伏せた。噂に聞く通りの見事な太刀筋だ。続いて喜来延人も得意の突き技でひとり仕留める。
敵側の戦いぶりは、智次が評した〝やけくそ〟そのものに思えた。策も何もあったものではなく、横合いから一斉に突撃してただ闇雲に斬り暴れ、あわよくば誰かひとりでも標的に到達できればと考えているようだ。
だが待て――貴之はふと思った。人数が足りない。残りのふたりはどこにいる?
周囲を見回そうとした時、いくつかのことが一度に起こった。
智次がいきなり貴之に飛びつき、襟と左腕を掴んで横へ引き倒した。寸前まで頭があった場所を、何かが唸りを上げて通過していく。横の岩に半分刺さって落ちたのは人の背丈の半分ほどの長さの手槍だ。と同時に、岩壁の上部に生い茂る藪の中から刀を振りかぶった男が飛び出した。
貴之は馬上で体勢を崩している。殺意のこもった刃が迫るのは見えているが、回避するだけの暇がない。
策なしだと思ったのは間違いだった。六人が捨て石となって馬廻衆を引きつけ、残るふたりが別方向からの二段攻撃で標的を仕留める作戦だったのだ。
それは柳浦重益が守りに就いていなければ、あるいは成功していたかもしれない。
重益は降ってくる敵めがけて猛然と十文字槍を繰り出し、水面に跳ねた魚を突くようにして鋭い穂先に捉えた。そして雄叫びを上げながら太い両腕に満身の力を込め、そのまま槍ごと遠くへ投げ飛ばした。
脇腹を串刺しにされた男が槍ともつれ合って地面にどっと落ち、土煙がもうもうと舞い上がる。
木々の梢から鳥が飛び立ち、蝉が鳴きやみ、戦いが一瞬だけ制止した。敵も味方も唖然となっている。
「御屋形さま!」
真っ先に玉県景綱が我に返り、血相を変えて飛んできた。
「お怪我は。どこか……」
いったん馬から下りた貴之に取りすがって、彼は傷の有無を忙しなく確かめた。よほど衝撃を受けたのか、体に触れる手が震えている。彼があまりに取り乱しているせいで貴之のほうはかえって心の乱れが静まった。
「怪我はない」
蒼白な近習をやんわり押しのけて、彼は再開された斬り合いを見渡した。
敵はすでに五人倒れている。残る三人のうち、ひとりは複数の傷を受けていて半死半生。まだ戦えそうなのは十代にも見える若者と、貴之に手槍を投げたあと戦列に加わったとおぼしき男のふたりだけだ。
「ひとりは生かしておけ」
「御意」
命令に即座に応えたのは、今まさに若者に斬りかかろうとしていた癸生川惣一だった。彼は直前で剣の軌道を変えると、素早い足さばきで前に出ながら敵の顔面に刀の柄頭を叩き込んだ。
若者は大きく仰け反り、酔漢のような足取りで二、三歩よたよた後退ったあと、仰向けにばたりと倒れて動かなくなった。額の左側がぱっくり割れて血が流れ出している。
惣一は屈み込んで様子を確認すると、貴之にうなずいて見せた。
「息はあります」
その時には、戦いはもう終わっていた。敵はひとりを残して仕留められ、馬廻衆は早くも後始末を始めようとしている。
「みな無事か」
貴之が大声で問うと、即座にいくつもの返答があった。
「味方は全員無事です」
「負傷者がふたり」
「ほんのかすり傷です」
死者も重症者も出なかったことに安堵の息をつく彼の横で、まだ青い顔をしている景綱が呻くようにつぶやいた。
「気を抜くな、などと……」その目は智次を遠慮がちに見ている。「無用の口出しだったな。あの槍が飛んでくるのに気づいたとは驚きだよ」
素直に感心する彼に、智次はいたずらっぽく微笑んだ。
「襲撃者の人数が聞いていたよりも少なかったから、残りがどこにいるのか探していたんです。そうしたらちょうど、あっちのほうで竹藪が変な動き方をするのが見えたので、これは何かあると直感しました」
手柄顔をするでもなく、あっさりしたものだ。
「しかし崖の上から敵が降ってきたのは予想外でしたねえ。わたしなら絶対に飛ばない高さなので、まったく注意していませんでした。いま思うと槍はぎりぎり当たらなかった気もするけど、あれはほんとうに危なかったですよ。重益どのが近くにいてくださってよかった」
それを聞いた重益が振り向き、智次に称賛の眼差しを向けた。
「よく御屋形さまをお守りしたな。おまえがあれほど機敏に動けるとは知らなかった。さすがは使い手として知られる唐木田直次どのの子だ」
「でもなんと言っても、一番手柄は慎吾のものです」
智次はにこにこしながら、死骸の片付けを手伝っている戸来慎吾を見た。
「あいつが待ち伏せに気づいたお陰で、こちらはうまく立ち回れたわけですから」
「たしかに大手柄だな」
朗らかに話すふたりの脇で、貴之は何食わぬ顔をして黙っていた。この件でみなに褒められて慎吾は戸惑うだろうが、そこは我慢してもらうしかない。
小半刻ほどして支度が整い、一行は改めて山道を下り始めた。
襲撃者たちの死骸は、竹林の下生えの中に隠して残していく。あとで大邨郷の郷庁に知らせれば、役人が引き取りに来て適宜の処理をするだろう。身元がわかるような物は誰も何も持っていなかったが、それは生き残った者の口から知れるに違いない。
ひとり死に損なった若者は、もう意識を取り戻していた。額の傷を手当てしてから縄をかけて拘束し、今は隊列の中ほどを歩かせている。旅のあいだ連れ回すわけにもいかないので、重益と話し合って山を下りたら七草へ運ばせることに決めた。城の地下牢に入れて厳しい責問にかければ、この襲撃が仕組まれた経緯などもいずれ話すだろう。
貴之はつづら折りの道に馬を進めながら、捕らわれた若者をちらりと見た。魂が抜けてしまったかのような、茫然自失の顔で足を運んでいる。襲撃の失敗と負傷がだいぶ堪えているようだ。
それよりも気になるのは、捕囚の近くを黙然と歩く玉県景綱の様子だった。足取りに元気がなく、思い詰めた表情をしている。大らかでのんびりしている日ごろの彼とは別人のようだ。
何が心にかかっているんだろうな、と貴之は胸の内でつぶやいた。
景綱の父親の玉県輝綱は食えない男で、冗談とも本心ともつかない辛辣な言葉にいつも真意を隠すが、息子のほうは親に似ず腹芸ができない。彼が憂い顔をしていれば、それは憂うべきことがあるのだ。
例えばだが――この暗殺劇に玉県家が関与した――そんなこともあり得るだろうか。
脳裏を過った考えに、つかの間ぞっとなった。身近な者を信じられないというのは恐ろしいものだ。
しかし、さっきは本気でおれの身を案じていた。もし暗殺の企てを知っていたなら、あんな態度は取れないだろう。
次に景綱とふたりきりになったら少し話をして、憂いごとの正体を探ってみようと彼は思った。旅のあいだに必ず機会があるはずだ。そしてあの〝声〟も、必ずどこかでもう一度接触してくるに違いない。捕囚が口を割るよりも先に、おそらく暗殺の真相を部分的にでも聞くことができるだろう。
知りたくないことを知るはめになるのかもしれないが。
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