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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第五章 波紋
155/161

六十三 別役国龍康殿・〈川渡屋〉鉄次 家族

 龍康殿(りゅうこうでん)に腰を落ち着けてから二十日あまりが経った。先に暇をやった半数の店者(たなもの)はすでに戻り、交代して残り半数が休みを取っている。

 鉄次(てつじ)は方々への挨拶回りがようやく終わって、昨夜から〈川渡(かわと)屋〉の元店(もとだな)を兼ねている蔵屋敷に滞在していた。しかしべったり居着くつもりはなく、先延ばしになっていた大番頭たちとの打ち合わせを済ませたあとは、また街へ出て宿や知人宅を泊まり歩くつもりでいる。

 同じ場所で三晩(みばん)とは寝ない――それは若い時分からの個人的な決め事だった。

 かつて売り出し中の博徒(ばくちうち)だったころに、鉄次は新規出店したばかりの賭場(とば)旅籠(はたご)を廃業に追い込んだことがある。ちょうど今と同時期の真夏のある日、札勝負で前代未聞の大勝ちをして、ひと晩で見世(みせ)を破産させたのだ。

 龍康殿には暗黙の掟があり、〝老舗(しにせ)〟と呼ばれる五軒の賭場旅籠の正面と両隣に同種の見世は出店しないことになっている。そうと知りながら、ふてぶてしい新参店主は街いちばんの老舗賭場旅籠〈紅鶴(べにづる)〉の真正面で看板を上げるという暴挙に出た。

 そして〈紅鶴〉の持ち主で、街の大差配〈三龍(みつりゅう)〉のひとりでもある〈但見(たじみ)屋〉幸右衛門(こうえもん)は、それを決して許しはしなかった。

 もし新参つぶしを幸右衛門から直接依頼されたなら、おそらく断っていただろう。かかわると確実に恨みを買う損な役回りだ。だが当時の自分の雇い主であり、博打(ばくち)を仕込んでくれた師匠の〈梧桐(ごとう)屋〉峰助(みねすけ)を介して話が来たため逃げるに逃げられなかった。

 鉄次は首尾良く依頼を成し遂げて株を上げ、幸右衛門に大いに恩を売ったものの、その一方で恐ろしい敵も作ってしまった。

 老舗の一角に食い入るつもりで野心満々に街へ乗り込んで来ながら、看板を上げてふた月も経たずに商売をつぶされたのだから、それは筆舌に尽くしがたいほど腹が立ったに違いない。〈新地(あらち)屋〉惣吉(そうきち)というその新参店主は無宿者(むしゅくもの)が吹き溜まっている川向こうの細民窟(さいみんくつ)に潜伏して、手元に残ったなけなしの金で破落戸(ごろつき)を雇い、それからしばらくのあいだ引っ切りなしに鉄次を襲撃させた。

 最初に襲われた時の記憶は、常よりもなお鮮明に残っている。当時住んでいた長屋で寝ていると、夜半に表の戸を蹴り破って入って来た男たちに拉致(らち)されたのだ。鉄次は目隠しに猿ぐつわで運ばれてどこかの小屋に監禁され、それから三日三晩にわたって袋叩きの目に遭った。

 暴行が終わるのは殺される時。そう確信し、半ば観念していたので、小屋から連れ出されて解放された時には心底驚いた。

「また会おうや」

 去り際に、男たちのひとりが耳元で囁いた。その声は今も折に触れて思い出す。

 そして言葉どおり、彼らは何度も現れた。賭場の帰り道。飯を食いに行く道すがら。避難させてもらった知人宅の玄関先。どこにいてもおかまいなしに襲われ、そのたびに足腰立たなくなるほど痛めつけられる。朝も夕も一刻も気の休まることはなく、(しま)いにはいっそ殺されたほうがましかと思い始めたほどだった。

〈新地屋〉惣吉がほんとうに痛めつけたいのは〈但見屋〉幸右衛門のはずだが、龍康殿の中で〈三龍〉に手出しなどすればただではすまない。それがわかっているので、彼は燃えたぎる復讐心をすべて鉄次に振り向け、執拗に襲撃を繰り返させた。

 そして鉄次も、報復なら〈但見屋〉に直接しろとは一度も言わなかった。

 大差配は新参つぶしなどしないし、この件には一切かかわっていない。あくまで若い博徒(ばくと)が向こう見ずな真似をして、〈新地屋〉とのあいだに遺恨(いこん)が生じただけのこと――という(てい)で押し通す。これはそういう仕事だった。

 だから鉄次は幸右衛門や峰助に助けを求めたりはせず、少なくはない報酬を受け取ったあとは完全に接触を断っていた。

 ひとりきりで耐えるしかない悪夢そのものの日々は、いつ終わるとも知れず続く。一年にも思えるひと月がじりじりと過ぎ、ついにたまりかねた彼は龍康殿を離れることにした。さすがに街の外でまで襲ってはこないだろう。しばらく各地の博打場でも訪ね歩き、ほとぼりが冷めたと思われるころにまた帰ってくればいい。

 しかし半年後に街へ舞い戻り、湊の外れにある貧乏くさい旅籠(はたご)に泊まって様子見をしていたところ、三日目の夜にまたしても襲撃を受けた。〈新地屋〉の怒りはまだ鎮火していなかったのだ。

 その時には面相が変わるほど殴られた上に肋骨(あばらぼね)を三本折る重傷を負い、事が終わるとぼろ雑巾を捨てるように路地裏へ放り出された。

「また会おうや」

 破落戸(ごろつき)のひとりがいつものように囁き、仲間と忍び笑いをしながら遠ざかっていくのを(うつ)ろに見送りながら、鉄次は龍康殿での暮らしも人脈もすべて捨てる時が来たと考えていた。この悪縁を断ち切りたいなら、どこか余所(よそ)へ――〈新地屋〉が追ってこられないほど遠くへ行って、また一からやり直すしかなさそうだ。

 そこへ(から)魚籠(びく)を提げてぶらりと通りかかり、「どうした」と訊ねたのが南浮(なんぶ)傳次郎(でんじろう)だった。

 彼はこの年の初めごろから街をうろつくようになった(ひと)り者の中年で、年のころは三十代半ば。つるつるに剃り上げた黒光りする禿頭(はげあたま)と、威圧感のあるぎょろ目が印象的な牢人(ろうにん)ふうの男だ。彼とは友人ではないが、行動範囲が重なっているようで、以前からの顔見知りではあった。浜で釣りをしているのを見かければ「今日は釣れてるかい」と声をかけるし、行きつけの見世(みせ)でたまたま相席して一緒に飲んだこともある。かなり歳が離れているのに、顔を合わせればいつも会話は際限なく弾んだ。不思議と気が合うのだ。

 向こうもそう思っていたようで、傳次郎は動けない鉄次を軽々と背負(しょ)い上げて自分の(ねぐら)に運び込むと、手慣れた様子で手当をしてくれた。

「誰を怒らせたのだ」

 傷を洗いながら問われ、鉄次は幸右衛門のことは伏せて、おおまかに事の次第を話した。他人に私的な事情を明かすなどめったにないことだ。よほど気が弱っていたのだろう。

「そりゃあ仕方ないのう」

 話を聞き終えた傳次郎は、大きな目をぐりぐりさせながら悪びれもせずに言った。

「千金積んで建てた賭場旅籠を一夜でぶっつぶされたら、徳の高い祭主(さいしゅ)宗司(そうし)とて金切り声を上げて殴りかかるだろうよ」

 可笑(おか)しな(たと)えに思わず笑うと、悶絶するほど(あばら)が痛んだ。

「ま、誰に頼まれたにせよ――」人に頼まれたとはひと言もいっていないのに、傳次郎は既知の事実のように言う。「なんだその(つら)は。おまえが雇われてやったことなど火を見るよりも明らかだろうが。相当な元手がなければ、見世を破産させるほどの大勝負をふっかけることなどできはせん。その軍資金を用意したやつが黒幕だ。どういう(しがらみ)で引き受けたかは知らんが、えらく貧乏くじを引いたものだな」

 後半は少し同情的な口調だった。

「それで、これからどうする」

「街を去ろうかと」

「ふむ、それもよかろう。やせ我慢をして、若い身空で死んじまったら元も子もない。だいたい一度離れたのに、なんでそのまま逃げずに戻ってきた。何か未練があるのか」

「未練てほどのものはない。おれみたいなのが住みやすい街ってだけのことさ」

 それだけだろうか。ここで暮らした五年間に築き上げたものや人とのつながりを、ほんとうに少しも惜しくないと言えるのか。

 鉄次の脳裏をちらりとよぎった思いに、傳次郎が気づいたかどうかは定かではない。だが彼は何か了解したというようにうなずいた。

「今日はここで寝ていけ。いや、いっそ二、三日いろ。遠慮はいらんぞ。誰か襲ってきたらわしは風を食らってとんずらする」

 そうは言っても、巻き込まれて怪我をするかもしれない。鉄次は固辞したが、立ち去ろうにも体が動かず、半ば強引に留め置かれてしまった。

「ところでおまえ、歳はいくつだ。見た感じ十七、八というところか?」

 翌朝、ふと思い出したように傳次郎が訊ねた。

「さあ」

「さあとはなんだ。己の歳を知らんのか」

「そうなんだ」

 傳次郎はふうんと鼻で相槌(あいづち)を打ったのみで、何か察したようにそれ以上は聞かなかった。

「わしはちょっと出かける」

 (ひる)になる前に、傳次郎は鉄次を置いて長屋を出た。ひとりになると途端に心細くなったが、居候(いそうろう)の身で我が(まま)は言えない。釜に残っていた冷や飯で適当に昼餉を済ませ、そのあとはずっと横になって養生に努めた。

 それが三日間繰り返され、そろそろ立ち歩けそうだと感じ始めた四日目。

 朝から外へ出ていた傳次郎が二刻ほどで戻り、囲炉裏端(いろりばた)胡座(あぐら)をかくなり、何ごともなさそうな顔をして言った。

「全部終わった。もう好きに出歩いてよいぞ」

 鉄次はぽかんとなり、困惑に眉根を寄せた。

「終わった、ってなんだい」

「すべて片付いたのだ。〈新地(あらち)屋〉惣吉(そうきち)は街を出ていった。雇われていた破落戸(ごろつき)どもも(しか)るべく処された。賭場(とば)旅籠(はたご)の一件で、今後おまえが誰かに痛めつけられることはない」

 仰天するあまり言葉が出ない。かろうじて言えたのは「どうやって」のひと言だった。

大店(おおだな)を失って川向こうでしみったれた暮らしをしておるような男に、そういつまでも人を雇い続ける余裕があるとは思えん。ぼちぼち本気で懐も寂しくなったころだろうと見越して、(じか)に談判しに行ったのだ」

 会いに行ったと聞いてさらに唖然とする鉄次に、傳次郎はにやりと笑って見せた。

「惣吉の腹の虫はまだ治まってはおらん。だが、この上おまえをどうこうするよりも、際限なくたかろうとしてくる破落戸連中と手を切りたい気持ちのほうが強かった。あの男、手下として飼っていたはずのやつらに、すっかり食い物にされておってなあ。だから、その問題をわしが引き受けてやったのだ。惣吉が街を去り、二度とおまえに手を出さないことを条件にな」

 気軽そうに話しているが、鉄次は気になることがあって落ち着かなかった。

「然るべく――と言ったな。破落戸どもをどうしたんだい。殺したのか」

「阿呆、殺すわけがあるか」

 傳次郎が目を()きながらあきれたように言い、鉄次を心からほっとさせた。

「いやまあ、ちょいと痛い目に遭わせはした。うむ。それは仕方ない。穏便に話そうとしたのに突っかかってきおったからな」

「あんた強いのかい」

 それまで彼が戦えるかどうかなど考えたこともなかった。

「おう、わしは強い」

 あっさりとした言い方だからこそ、余計に凄みを感じる。

「あやつらを全員殺すのもわけはない。だから殺さずにやっつけることもできるのだ。少々強めに()してふん縛って、元は博打(ばくち)がらみのごたごたということで、賭場(とば)の元締めの〈梧桐(ごとう)屋〉に引き渡した。暴力沙汰(ざた)を起こした浮浪人(ふろうにん)として、郷庁(ごうちょう)に送り込んで仕置きさせるそうだ。どうせ叩けばいくらでも(ほこり)の出る連中だからな。まとめて(はがね)島の銀鉱送りにでもなるだろうよ」

 大皇(たいこう)領の銀島にある巨大銀鉱山では、大勢の罪人たちが労役に服している。一度入れば二度とは出られないと噂される場所だ。

 傷を(かば)いながら寝ていたあいだに、すべての面倒に片が付いた。嬉しくないわけではないが、予想外すぎてまだ信じられない思いだった。

「なんで、おれのためにそんな……骨を折ってくれたんだい」

 訊ねずにはいられなかった。

「なんでって、そりゃ」

 傳次郎は少し決まりが悪そうに身を揺すり、頑丈そうな大きな手で禿頭をつるりとなでた。

「おまえは己の身も守れんへなちょこだが、死なすには惜しい若さだし、話せば愉快なやつだからな」

 意外な人物によって絶体絶命の窮地から救い出され、鉄次は一度あきらめかけた元の暮らしに戻ることができた。

 とはいえ変化がなかったわけではない。彼はそれ以来、ひと(ところ)に三日以上留まるのを避けるようになった。市中に(ねぐら)をいくつも持ち、頻繁に移動を繰り返す。二度続けて同じ場所には足を運ばない。立ち寄り先に顔を出す間隔も一定にはせず毎回変える。

 その決め事を初めて破ったのは四年後、旅先で拾ってきた可愛らしい娘と(おもかげ)橋で毎日会う約束をした時だった。


 また会おうや。

 耳元で囁く声がした気がして、鉄次(てつじ)ははっと目を開けた。

「うわ、びっくりした」

 ちょうど上から顔を覗き込んでいた吉次郎(きちじろう)が、大げさな声を出して飛び退()く。

 鉄次はゆっくり体を起こし、汗ばんだ手で顔を(ぬぐ)った。こめかみのあたりが熱っぽく感じられて頭が重い。

「ちょっとうなされてたぞ」

 体格のいい吉次郎が大きな犬のように()い戻ってきて、心配そうに表情を窺う。

「昔の夢を見てたのさ」

 鉄次は傍にあった土瓶からぬるい白湯(さゆ)(じか)に飲んだ。喉がからからに渇いている。

「だいぶ、おっかない夢だったんだな」

「記憶にある限りで、いちばんしんどかった夏のな。今の時期になるとよく見る悪夢だ」

「こんなとこでうたた寝なんかしてるからだよ」

 こんなとこというのは、屋敷の北のあまり使われていない離れの縁側だ。小規模な奥庭に面しており、幅の広い屋根(びさし)の下から竹林と()り水を望むことができる。

「なんで自分の部屋で寝ないんだい」

「ここが家でいちばん涼しいからだよ」

 鉄次の言葉に吉次郎が笑った。

「猫みたいな人だな」

 来年三十路(みそじ)を迎える吉次郎は、鉄次がかつて拾って世話をした孤児(みなしご)のひとりだった。ひとつ年上の仲間の萬作(まんさく)と共に、今は〈川渡(かわと)屋〉の大番頭として元店(もとだな)を切り盛りしている。ふたりは十三の歳から道具屋と両替商にそれぞれ奉公に入って商売を学び、鉄次が〈川渡屋〉を立ち上げると手伝いに戻ってきた、いわば()え抜きの店者(たなもの)だった。

 威勢が良くて喧嘩(けんか)っ早いが、まめな性格で誰とでもすぐに打ち解ける吉次郎は折衝役をうまくこなす。一方の萬作は仲間内でもっとも頭が切れるが、人付き合いが悪く、縦のものを横にもしない物臭(ものぐさ)な男だ。

「なんか用かい」

 鉄次が訊くと、吉次郎は太い眉を上げて不満そうに口を尖らせた。

「なんか用かはないだろ。今日、おれらと打ち合わせするって言ってたじゃねえか。なかなか姿見せないから、萬作が呼んでこいってうるさくてよ」

 相方にいいように使われているのだが、それを気にしている様子はない。

「わかった。行くよ」

 鉄次は吉次郎と連れ立って建物を取り巻く回廊を歩き、屋敷表に回って母屋へ入った。大番頭たちは日ごろ、玄関近くにある八畳間を執務部屋としている。隣に二十畳敷きの広間があるが、そちらで仕事をしていると萬作が好き放題に書類などを広げ出して散らかすので、敢えて狭いほうの部屋を使っているらしい。

 ふたりが八畳間に入っていくと、文机(ふづくえ)に屈み込むようにして帳簿を見ていた萬作が頭を上げた。その隣には、船団の船番頭を務めている佐吉(さきち)が神妙な面持(おもも)ちで座っている。

 鉄次が畳に腰を下ろすと、萬作は長芋のような白くのっぺりした顔にかすかな笑みを浮かべて会釈した。

「旦那さま。お呼びだてしてすみません」

 奉公先の両替商で出世して、最終的に役付きの手代までいった萬作は仲間内でもっとも丁寧な言葉づかいをする。

「いや、約束してたのに遅くなったおれが悪いよ」鉄次はそう言って苦笑をもらした。「離れで涼んでたら、つい寝ちまってな」

「今日は暑いですからね」

 萬作が手を打ち鳴らすと、廊下から十一、二歳ぐらいの小僧がやって来た。

「旦那さまに何か冷たいものをお持ちしておくれ」

「気を遣わなくていいんだぜ。客じゃないんだ」

「たまに本店にいる時ぐらい、お世話させてくださってもいいでしょう。みんなそう思っていますよ」

「言えてる」窓の近くにどっかり座った吉次郎がすかさず同意する。「旦那は街にいても、ちっとも屋敷に居着かねえからな」

「ずっとはいねえが、ちょこちょこ顔は出してるだろう」

 雲行きが怪しくなりそうなので、鉄次は話題を変えることにした。

「その帳簿、船のやつかい」

「はい」萬作が手元に視線を落とす。「いちおう確認をと。佐吉は船番頭として、抜かりなくやっているようですよ」

 仕事に厳しい萬作に褒められて、少し緊張気味の顔をしていた佐吉がほっと小さく息をついた。

「字もたいそう上手になった」

 子供のころから掏摸(すり)で食ってきた佐吉は、十六歳ぐらいまで読み書きがほとんどできなかった。彼が年下の伊都(いと)に頭を下げて学文を教わり、同時に吉次郎の奉公先で下働きをして商売の経験を積み始めたのは、鉄次が〈川渡屋〉を立ち上げようと動き出した時からだ。二年後に船団を仕立てて旅に出るころには、佐吉は平手代が務まるぐらいまで仕上がっており、商売の仲間に加えて欲しいと真剣な顔で頼みに来た。

 彼の気性を考えると龍康殿で気ままに暮らさせたいとも思ったが、そこまで本気を見せられてはとても断れない。

 船に乗り組んで一年も経つころには、もう佐吉は鉄次の補佐役として申し分のない働きをしていたし、さらに一年後には商取引を半分がた引き受けてそつなくこなす頼もしい存在となっていた。現在は船番頭に昇格させて、商売で表に出る役目をほとんど任せている。

「今じゃ、こいつがいなきゃ船は回らねえよ」

 佐吉は鉄次の言葉を聞いていないかのようにそっぽを向いているが、その口元がひくひくしていた。にんまりしたいのを(こら)えているようだ。

 そこへ先ほどの小僧が戻ってきて、丸盆に載せた冷や水を置いていった。涼感を呼ぶ(すず)の茶碗に、井戸から()み上げたばかりの冷水、砂糖、白玉粉の団子が入っている。この季節ならではの飲み物だ。

「しかし、そうは言っても」

 萬作が帳簿を閉じながら話を再開し、冷や水を口に運ぶ鉄次に少し非難がましい視線を投げた。

「佐吉の負担が大きすぎやしませんか。そろそろ船の会計や川湊とのやり取りなどは、専門の知工(ちく)を雇ってやらせてはどうです」

 それは以前から考えていたことではあった。佐吉はいま〈川渡屋〉の商売に加えて船団の事務方としての仕事まで一手に引き受けており、たしかに多忙極まりない。

「これと思う知工が見つかりゃいいんだが」

「おれ、平気だよ」佐吉がやや硬い声音で言った。「やれるさ」

「やれるのはわかってるし、実際やってるよ。だが抱え込ませすぎてるってのは、おれも前から気になってたことなんだ」

 鉄次が噛んで含めるように言うと、佐吉は渋い顔をしたが反論はしなかった。自分が過剰労働気味なのは、誰よりも本人がいちばんよくわかっているのだ。

「知工が見つかるまで、ひとり手伝いをつけてもいいんじゃねえか」

 吉次郎が手を伸ばし、萬作が床に広げていた帳面などをほとんど無意識のように片付けながら言った。

「適当なのが〝川組〟のほうにいなきゃ、〝陸組〟から誰か連れて行きなよ。船に乗りたがってる仲間はいっぱいいるぜ。おれだって、なんなら佐吉と交代したいぐらいだ」

 冗談とも本気ともつかない口調だが、横目に鉄次を見る眼差(まなざ)しには期待がこもっているように感じられた。

「おまえと萬作が手堅く元店(もとだな)を取り仕切ってくれてるから、おれら〝川組〟は安心して外で商売できるんだよ」

 なだめるために言っているわけではなく、それは真実だった。大きく成長した〈川渡屋〉の屋台骨を任せられるのは、このふたりを置いてほかにはいない。

「手伝いのことは次の旅に出るまでに考えておく。佐吉、それでいいな」

 念を押すと、佐吉は軽く肩をすくめて「いいよ」と言った。

「よし。次はなんだ」

 鉄次が問いかけると、萬作は表情を改めて一冊の帳面を差し出した。

「前に手紙で指示された、金銀の買い付けですが」

「買ったかい」

「はい。相場が下がっているところを見計らって、蔵に余っていた米で買えるだけ買いました。いま、少しずつ値が上がってきています」

「これから、まだ上がるだろう」

 帳面の数字を確認しながら鉄次がつぶやくと、萬作は吉次郎と目を見交わした。

「どこからそう予想を?」

「去年の暮れぐらいから西峽(せいかい)北部で刺繍が流行(はや)り始めて、大きい街へ行くと商家の囲われ者っぽい娘なんかが、金糸銀糸の豪奢な総刺繍をぞろりと着て歩く姿を見かけるようになってた。ああいう流行はだいたい天山(てんざん)から始まって北部全体にじわっと広がり、そのあとさらに半年ぐらいかけて南部まで行く。十年ほど前に空前の刺繍流行(ばや)りになった時もそうだったが、南部では着物が派手になると武具も蒔絵(まきえ)やら金細工やらで派手にしていく傾向があるんだ。南部でそれをやり始めると、ちょいと遅れて今度は北部に流行が移る。ってことで、おれは今後しばらく装飾用の金銀の需要が高まるに違いないと見てるのさ」

「ふうむ」萬作が顎をなでながら唸り声をもらす。「洒落者(しゃれもの)の旦那さまらしい分析ですね」

「相場に目配りして、上がりきったとこでうまく売り抜けな」

 帳面を返しながら指示して、鉄次は吉次郎のほうを見た。

「ところで金は用意できてるかい。是枝(これえだ)村に渡すやつだ」

「七千九百六十四金」吉次郎がゆっくりと、どこか(おごそ)かに言う。「できてるよ。(かのえ)の蔵にでかい金箱八つ、ばっちりだ。壮観な眺めだぜ」

 鉄次は小首を傾げた。

「八千金のはずだぞ。鉄砲一挺八金、それを千挺買うって取り決めだっただろう。三十六金はどこへいったんだ」

「あー、それだけど」

 佐吉が片手をちょっと挙げ、横から口を挟んだ。

「売り手との交渉で、運搬警護費を割り引かせたんだ」

「なに費だって?」

「運搬警護――まあ、どんな呼び方だっていいよ。村から鉄砲を船まで運ぶのも、船から金を村まで運ぶのも何かと物騒だから、どうしたって武装した警護をつけなきゃならないだろ。是枝十郎兵衛(じゅうろうべえ)と話し合って、それをうちで引き受けることにしたんだ。船守(ふなもり)ひとり当たり二金の計算で、十八人貸し出すことになってる」

 すらすら説明したあと、佐吉はどんなもんだいと言いたげな顔で鉄次を見た。

「ひとり頭二金とは吹っかけたもんだ。おまえ、ほんとにやり手になったなあ」

 彼が感心してみせると、佐吉は照れくさそうに微笑んだ。

「じゃ、鉄砲の件はそれでよしと。ほかには何かあるかい」

 鉄次の問いに萬作が答える。

玉薬(たまぐすり)の大口の仕入れ先だった、歳州(さいしゅう)の薬種問屋〈(かぞえ)屋〉さんが見世(みせ)を畳むそうですよ」

「あそこは老舗(しにせ)なのに、どうしたんだ」

「近ごろ東峽(とうかい)では御山(みやま)の御用商になった〈大嵩崎(おおつき)屋〉がにわかに()してきて、どうにも太刀打ちできなくなったとか」

「あれも大店(おおだな)だが――」鉄次は記憶を思い起こしながらつぶやいた。「廻船問屋じゃなかったか」

「元は廻船だが、呉服、両替、小間物と次々に手を広げて、今じゃもう何でもありの天下の大豪商だよ」

 窓際の吉次郎が、珍しくむすっとした顔で言った。

「どうも最近、武器弾薬まで扱いだしたらしい」

「商売繁盛で結構なことだが、御山の御用商に武器弾薬はしっくりこねえな」

「結構なもんかい」

 吉次郎が声を尖らせる。〈大嵩崎屋〉に何か思うところがあるらしい。

「得意先のいくつかから聞いてるが、だいぶ強引な商売をするって噂だ。うちと取り扱いがかぶってきてて(いや)な感じだぜ。こっちはこれから、もっと東での商売にも力入れてこうってとこなのによ」

「ちょっと情報を集めてみるか」

 鉄次は冷や水を飲み干し、冷たい汗をかいている錫茶碗を盆の上に戻しながら言った。

「玉薬の仕入れ先は、もうひとつふたつ見つけておいたほうがいいかもな。とりあえず秋までに大きめのをひとつは確保したい」

 黙って話を聞いていた萬作が、意味ありげに眉を上げる。

「何か、掴んでいるネタでもあるのですか」

 思わずにやりとしかけたが、鉄次は真顔を保って(そら)とぼけた。

「何の話だい」

「千挺もの鉄砲をいきなり買い付けたかと思ったら、次は玉薬ですからね。しかも〝秋までに〟とおっしゃる。この冬あたりに、どこかでまた戦でも始まるのかと」

 勘のいいやつだ。だが黒葛(つづら)家と天山の一件は微妙な事柄だし、まだ大っぴらに話す段階ではない。

「いつ入り用になるかわからねえから、備えておこうってだけのことさ」

 得心したかはわからないが、萬作はさらに追及しようとはしなかった。

「なるほど、わかりました。仕入れ先は探しておきます」

 そこからまた次の懸案事項に移り、四人は夕暮れ近くまで打ち合わせを続けた。主人と事務方の幹部全員がこうして顔を揃える機会はたまにしかないので、いくら語り合っても話題は尽きない。

 やがて日が落ちかけ、部屋に入る風が少し涼味を帯びてきたところで、鉄次は頃合いを見て散会を告げた。

「今日のとこは、ここまでにしとこうぜ」

「そうしましょう」

 萬作がうなずいて帳面を閉じると、吉次郎と佐吉はそろって気の抜けた声を上げながら畳に寝転がった。ふたりとも長時間の会合にくたびれきった様子だ。

「旦那さまは、これからまたお出かけで?」

「いいや」

 鉄次は(かぶり)を振って立ち上がり、窓の向こうに広がる夏の夕空を眺めながら伸びをした。腰のあたりから骨が軋むような怪しい音がする。少し同じ姿勢を続けすぎたようだ。充分に体をほぐし終えてから、彼は三人のほうを振り向いた。

「今夜はおまえらと一杯やりてえな」

「いいですね」

 萬作が微笑み、そのうしろで吉次郎が勢いよく跳ね起きた。目が輝いている。

「よしきた。おれが台所に(さかな)を頼んで、合う酒を見繕(みつくろ)ってくるぜ。おい佐吉、ここじゃあれだから、離れのどっかに適当に場所つくっとけよ」

「うん」

 佐吉は身軽に腰を上げると、「あとで呼びにくる」と告げて吉次郎と共に部屋を出て行った。

「鉄次さん」

 ふたりの足音が遠ざかるのを背中で聞いていると、萬作がすっと横に立った。彼は吹けば飛ぶような細身だが、背丈は鉄次と同じぐらいある。

「やっぱり、いてくださると何かと話が早くて助かりますよ」

「そうだよな」

 鉄次は静かに言い、横目に彼と視線を合わせた。

「本店のことを任せっきりで、すまねえと思ってるんだ」

「まあ、それはいいんです。吉次郎もいますから。でも正直に言うと、わたしもあいつと同じで、一緒に船に乗って行けたらと思わない日はありません。鉄次さんや孤児(みなしご)仲間はきょうだいも同然の大切な人たちですし、家族と離れているのが寂しいんです」

 日ごろ淡泊で合理的な男が、これほど率直に心情を吐露するのは珍しい。

「おれにどうして欲しい」

「ずっといてくださいとは言いません。ですが、今回みたいなのはもうやめにしてもらいたいですね。南部の戦をべったり追って――もちろんたいそう儲かりはしましたが、二年半も戻らないのはひどいでしょう」

「ああ」

「今後は、最低でも年に一度はここに顔を出すようにしてください」

「ああ、わかった」

 鉄次はうなずき、ちょっと考えてから訊いた。

「おれは熱心に稼ぎすぎかな。商売を控えたほうがいいか」

「まさか。商売を控えるだなんて」萬作がふっと笑う。「我々はみな、元はこの龍康殿の路地裏で物乞(ものご)いやかっぱらいをしていたような、食うや食わずの身の上だったはみ出し者です。見捨てられ、見下げられ、誰からも気にかけられずにいた子供だった。それが鉄次さんに拾われて、今ではこれほどの大店(おおだな)の一員となり、目も眩むような額の金を思うままに動かしている」

 彼は幸せそうにため息をつき、鉄次を見て目をきらめかせた。

「こんなに小気味いいことはありませんよ」

 ふたりで笑みを交わしていると、廊下から軽い足音が近づいてきた。佐吉が呼びに来たのかと振り返ってみれば、(ふすま)から顔を覗かせたのはさっきのあの小僧だ。

「〈但見(たじみ)屋〉さまのお使いのかたがお見えです。旦那さまにこれをお渡しして欲しいと」

 誰に仕込まれたのか、はきはきと口上を述べて小僧は結び文を差し出した。

昔の〈但見屋〉がらみの一件を夢に見た日に、その当人から文が届けられる。そんな奇妙な偶然に驚きながら受け取って開いてみたが、送り主は幸右衛門(こうえもん)ではなかった。

喜兵衛(きへえ)の旦那からだ。おれに会いたいとさ」

 鉄次が文面に目を落としながらつぶやくと、隣で萬作が怪訝(けげん)な顔をした。

「でも、ほんの何日か前に〈表会(おもてかい)〉に顔を出して、ご挨拶なさったばかりでは」

 三年前、幸右衛門は七十歳を機に引退し、次男の喜兵衛に〈但見屋〉を継がせた。長子は早くに亡くなっており、幸右衛門が三十近くなってようやくできたふたり目の子供が喜兵衛だ。彼は享楽的で金遣いが荒いが、商売に関してはなかなか抜け目がない男らしく、代替わり後は三男の助九郎(すけくろう)と二人三脚でしっかり見世(みせ)を切り盛りしているという。

 喜兵衛は〈三龍(みつりゅう)〉だった幸右衛門の後釜にも座り、現在の一の龍となっていた。本来〝龍〟は世襲制ではなかったはずだが、〈但見屋〉ほど強い(たな)の跡取りを、残りのふたりはおいそれと外すことができなかったのだろう。

 鉄次はこの月の九日に開かれた定例会合〈三龍会〉の〈表会〉に足を運び、三人の龍に会って(なが)無沙汰(ぶさた)を詫びていた。とはいえ叱られることもなく、商売や旅の話を聞かれ、諸国の土産物を渡し、終始和やかな対面だったと思う。

 喜兵衛とは父親の幸右衛門ほどつき合いが深くないので、一度会ってきちんと筋を通したのに、改めて呼び出される理由は見当がつかなかった。あまりいい話が待っているとも思えない。

「いま、お返事をいただきたいそうです」

 小僧から遠慮がちに声をかけられ、鉄次は文を懐に突っ込みながら言った。

「承知したと伝えてくれ」

 少年が引っ込むと、萬作が訊いた。

「いつ行くんです」

「七日後の十九日だ」

 ひとつ(ところ)に留まっていると、やはり(わずら)わしいことが湧いてくる。

 街に長居しすぎたな――と鉄次は思った。じきに陸での用は済み、休暇中の店者(たなもの)が戻ってくるころには船の整備も終わる。そうしたらすぐにも(いかり)を上げて、さっさと逃げ出してしまおう。

 しかし、萬作の気持ちを傷つけるかもしれないその言葉を口に出すことはしなかった。

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[良い点] 感想欄にはご無沙汰しておりましたが、毎回とても楽しみにしております。 鉄次さんにも若いころがあったんだなあ、ととても新鮮な思いがした回でした。未熟なころから経験を積み、時に助けられて今があ…
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