六十二 御守国御山・八雲 狼を見た日
夏の最大の催しである大祭礼から十日以上が過ぎたが、御山は未だにそわそわと落ち着かなかった。祭祓を締めくくる〈門柱焚き〉の儀式後に、就任間もない新祭主の紅がとんでもない火種を投げ入れたためだ。
祭主が祭祓で担う数多くの役割の中に、御山の高位奉職者である十二人の宗司の新たな序列を決める仕事がある。とはいえそれはあくまで形式的なものに過ぎず、よほどのことがなければ前年と大きく変更されることはない。ところが紅は慣例をあっさりと無視し、誰も予想だにしなかったほどの大鉈を振るってのけたのだった。
蓮水宮中の院の大会議所前には、金細工で縁取りした焼き杉板の名札掛けがある。大祭礼のすべての儀式が終了したあと、侍従長の八雲は祭主から新しい序列を受け取り、人けのなくなった中の院の殿舎へ向かった。夜のうちに、新たな序列に従って十二宗司の名札を掛け替えておくためだ。
一日続いたさまざまな儀式の間じゅう、ずっと紅に付き添って補佐していた八雲は綿のように疲れ切っており、この日最後の仕事にかける熱意や関心は薄かった。どうせ前年と同じ札順であることを確認するだけの退屈な作業だ。さっさとすませて、とにかく一刻も早く寝床に潜り込みたい。腹も減っているが、飯よりもまずは睡眠だ。今すぐ寝れば、朝の祈唱の刻限までほんの二刻足らずではあるが、へとへとの体を休めることができる。
そんなことを考えながら重い足取りで大会議所まで行き、名札掛けが設置されている壁の前にたどり着いた。紅から預かった序列一覧は懐に入っている。それを取り出す前に、彼は脚つきの手燭を床に置いた。そうしておいたのは正解だったと言えるだろう。もし手に持ったままだったなら、一覧表を開いて見た瞬間に取り落としていたに違いない。
「おいおい、嘘だろ……」
八雲は序列一覧をまじまじと見て、壁の名札掛けに目をやり、それから再び一覧へ視線を戻した。念のために同じ動作をもう一度繰り返したが、目に映っているものに変化はない。
紅からの指示書では、九位の明石宗司を除く全員の序列が入れ替わっていた。中でも目を引くのは、序列筆頭から三位に降格となった空木宗司の名だ。筆頭まで上り詰めた宗司が、目立った落ち度もないのに二階位格下げされたなどという話はこれまで聞いたことがない。
「なんでだよ」
途方に暮れたような自分の声が暗い廊下に響いた。
夜が明けたら宗司たちは、大祭堂へ赴く前に序列を確認するためここへ立ち寄るだろう。そして予想外のものを見いだし、驚愕して――なんだろう、何が起こるだろうか。八雲には予想もつかなかった。
眠気はすっかりどこかへ飛んでしまったが、名札掛けの前にずっと立ち尽くしているわけにもいかない。
彼は重苦しい気持ちで序列筆頭の名札を外し、別の名札に掛け替えた。空木宗司に取って代わったのは、三位から筆頭に大昇格した天城宗司だ。
なぜこんな序列になったのか。それは、続く二位以下の名札を掛け替えるうちに自ずと知れた。
那岐宗司、四位から二位。
稲叢宗司、六位から五位。
明石宗司、九位。
八幡宗司、十一位から十位。
白根宗司、十二位から十一位。
昇格、据え置き組のこの五人は、紅を次代祭主として認めるか否かの議論が起きた際に、天城宗司と共に最初から容認を表明していた人々だ。
そして否認派や中立だった人々は、途中で容認派に鞍替えした者も含め、空木を筆頭にことごとく降格の憂き目を見ていた。
雲居宗司、二位から四位。
野分宗司、五位から六位
摩耶宗司、七位から八位。
葛木宗司、十位から十二位。
例外として、最後まで中立を貫いた九重宗司が八位から七位に昇格しているが、それは彼がこの一年間に記録所の改革に尽力し、大きな成果を挙げたことをみなに認められているからだろう。
それ以外の人々を、紅は功績にも能力にも関係なく自分に味方したかどうかだけで区別し、好き放題に序列をかき乱していた。
くそ、依怙贔屓じゃねえか。
掛け替えたばかりの十二枚の名札を睨み上げながら、八雲はやり場のないいら立ちを感じた。
祭主に就任以来、紅は大手を振ってやりたいことをやっている。若巫女時代からの取り巻きたちを周りに侍らせて私室にまで出入りさせたり、高価な飾り物や衣装を次々と新調して日常的に着飾ったり、巡礼者との接見の儀式や蓮水宮で長く守られてきた習慣を簡素化させたりと、その放埒ぶりは枚挙に遑がない。しかし、いくらなんでも人事を私物化するのはやりすぎだろう。
八雲は胃がむかむかし始め、名札掛けを見ているとそれがよりいっそうひどくなることに気づいた。
ここに突っ立って怒ってたって、どうにもなりゃしねえよ――。
あきらめ混じりのため息をつき、彼はますます重みを増したように思える足を引きずりながら奥の院にある居室へ戻った。真っ暗な執務室を素通りして奥の寝室への襖を開ければ、敷きっぱなしの寝床が早く休めと誘惑してくる。そこへ倒れ込む前に、祭祓用の絹地の法衣だけはどうにか脱ぐことができた。
横にはなったものの、さまざまな思いが渦巻く頭の中は火がついたようになっている。眠りはすぐには訪れないだろう。だが、そう思った次の瞬間には彼はもう夢の中にいた。
実際に眠ったのはどれぐらいだったのか。よくわからないが、目覚めた時には背に岩が載ったようで、両の瞼には何かがぶら下がっている感じがした。誰かに名前を呼ばれているが、顔が寝床に糊づけされていて頭を持ち上げることができない。頬の下の敷布は少し湿っていて臭かった。うつ伏せに寝ているあいだに大量の涎をしみ込ませたようだ。
「八雲侍従長」
遠くからまた呼ばれ、ようやく侍従次長の志賀祭宜の声だと気づいた。居室の戸を叩きながら大声で何度も呼んでいる。
「侍従長。すみません、起きてください。八雲侍従長」
「わかった……起きた。起きたよ!」
寝ぼけ声を張り上げて応えると、若い次長は騒ぐのをやめた。
「すぐにおいでください。お待ちです。皆さまが――」
遠慮がちに囁いているのを聞きながら、八雲は寝室からのろのろと這い出た。
「説明を……あの、皆さまが……」
どうにか入り口までたどり着き、百貫目ぐらいありそうに思える板戸を引き開けると、憂慮に曇った下ぶくれのなすび顔が見えた。
「どなたさまが、どこでお待ちだって?」
問いかける舌がもつれた。口を開けたとたんに欠伸がこみ上げてくる。
「いま何時だ」
「暁七つほどです」
「よし」
洗面と整髪を省略すれば、あと小半刻は眠れる。
「おれはもう一回寝る。そこらをひと回りしてから、また呼びに来てくれ」
「ええっ」志賀が愕然となる。「駄目ですよ、そんなの。皆さまお待ちなんですから」
「だって――」八雲はこらえきれずに大欠伸をした。「だっておれは、まだいくらも眠っちゃいねえんだ。頭が動いてないし、目も開かないし、人前になんか出られねえよ」
「水を汲んできています」
志賀は床に置いていた盥を持ち上げると、戸口をふさいでいる八雲を避けて室内に入ってきた。
「さあ、顔を洗ってさっぱりなさってください。わたしはそのあいだに、着替えの用意をしますから」
急き立てられながらぬるい水に顔を沈め、しばらくぶくぶくやっていると、少し頭がはっきりしてきた。
「誰が――どなたがおれを待ってるんだ?」
濡れた顔を拭い、法衣を着せかけられながら訊ねると、志賀はもごもごと口ごもりながら言った。
「宗司がたです。雲居宗司、摩耶宗司、葛木宗司……」
ああ、やっぱり。そうだろうとは思ったが、あらためて聞くと胃の腑が縮んだ気がした。理不尽な仕打ちを受け、怒りに燃えているに違いない人々に何を語る言葉も自分は持ち合わせていない。彼らに最初に槍玉に挙げられるのが、どうしておれでなきゃならないんだろう。
貧乏くじを引いた感が強いが、高位奉職者に呼ばれているのに無視するわけにもいかない。
どうにか見られなくはないぐらいに身支度をすると、八雲は覚悟を決めて中の院に出向いた。名札掛けの前のまだ薄暗い廊下では宗司たちが待ち構えており、ひげ剃りを省いた彼のむさ苦しい顔を見るなり、口々にしゃべりながら詰め寄ってきた。
「侍従長、あの序列はどうしたことだ」
「何か間違えたのではなかろうな」
「ほんとうに祭主さまのご意向なのか」
一度にわあわあ言われて頭が真っ白になる。助けを求めて振り返ったが、うしろにいる志賀も自分と同様の様子だ。
「ええと……」八雲は二歩下がって宗司たちと距離を取り、小さく咳払いをした。「名札は祭主さまのご指示通りに掛け替えました」
宗司たちが一斉に呻き声をもらす。
「そんな馬鹿な」
四人いる女性宗司のひとりで、まだ四十歳と若い摩耶宗司が半ばあきれたように言った。彼女は紅が祭主位継承の要件のうち「秘術の相伝」を満たしていないことを理由に、最後の総会議でも反対票を投じたとされる人物だ。
「降格されたわたしたちに、どんな落ち度があったというのです」
「侍従長は祭主さまから、この件について何か伺っているのか」
静かに訊ねたのは葛木宗司だった。小柄で優しい目をしているが、手抜き仕事をする者を決して許さない厳しい老女だ。
「いえ、夕べお休みになる前に、新しい序列一覧をいただいただけです」
体格のいい雲居宗司が、少し威圧的な口調で訊く。
「深夜に眠気を堪えながらの作業で、掛け違えたということは?」
「まさか、滅相もない」
疑われるのは心外だ。
「わたし自身も驚いたので、慎重にも慎重を期して掛け替えました」
「つまり――」
摩耶宗司らのうしろのほうから、威厳に満ちた声がした。みながはっと振り向き、人垣が自然にほどけて分かれていく。その向こうに、細身だが堂々とした空木宗司の立ち姿が見えた。
「この序列は紛れもなく祭主さまのご意向、すなわち我らへの評価である」
彼はしゃべりながら前へ進み出てくると、壁の名札掛けをしばし眺めたあと、鋭い視線を八雲に向けた。
「そういうことだな」
「は、はい」
いたたまれない気持ちになった。厳正で隙のない空木宗司にはいつも緊張させられるが、尊敬と親しみも感じている。そんな彼が蔑ろにされた事実を認めるのは心苦しい。
「よくわかった。呼びつけてすまなかったな、八雲侍従長」
空木は事務的な口調で言うと、指が細く長い、老人とは思えない優美な手で八雲の背を軽く叩いた。
「じきに祈唱の刻限だ。大祭堂へ急ごう。方々も」
ほかの宗司たちに声をかけ、彼は先に立って歩き出した。大股に悠々と、普段通りに。
八雲はそのうしろに続きながら、空木の法衣の袖からわずかに覗く拳――爪が掌に食い込むほど固く握り締められたそれを、息を凝らして見つめていた。
あの日もその後も、宗司たちは新たな序列について騒ぎ立てることは二度としなかった。降格組の先鋒ともいえる空木宗司が、ほかの人々の不満を抑え込んでいるのかもしれない。
だが極端な人事に動揺させられたのは彼らだけではなく、山内で奉職する者たちは誰もがその件についてあれこれ取り沙汰せずにはいられないようだった。祭主の侍従長である八雲は消息筋と見なされており、何か新しい話が聞けるのではないかと期待する人々に行く先々で取り巻かれるので、正直かなりうんざりしている。
「そりゃ仕方ないでしょ。序列筆頭が入れ替わったと聞いて、あたしだって事の次第が知りたいと思ったもの」
久しぶりに会った玖実が、愚痴をこぼす八雲にぴしりと言った。
「実際のとこ、どうなのよ。序列を変えたことについて、祭主さまは何かおっしゃってないの」
ふたりがいるのは、八ノ上弦道の林縁に近い場所に建てられた小さな四阿だった。静かな木立の中の格好の休憩所だが、立ち寄る人はほとんどいないので内緒話にはもってこいだ。以前は山腹の伐採跡にあるくぼ地でたまに会っていたが、暑い時期に木陰もない場所で長話はできないので、今回初めてこちらを使うことになった。
茹だるような午後、その四阿の床に胡座をかき、玖実が衛士寮の厨から調達してきた塩ゆでの枝豆を食べながら八雲は陰気な声で言った。
「何も聞いてねえよ。聞かなくたってわかるじゃねえか。依怙贔屓だよ、依怙贔屓」
玖実が生意気そうな高い鼻をつんと上げて見せる。
「相変わらず鈍いわね、あんた。祭主さまが宗司がたの序列を変えた理由が、贔屓だけだと本気で思ってるわけ?」
「どうせおれは鈍いよ」
豆を皮から押し出しながら、八雲はぶつぶつ言った。
「そう貶すからには、何かぴりっとした見解を聞かせてくれるんだろうな」
彼の皮肉を意に介する様子もなく、玖実は空にした豆の皮を外の草むらにぽいと投げた。
「あたしが思うに」もったいぶって、少し間を置く。「祭主さまは対立構造を作ろうとなさってるわね」
八雲はきょとんとしたあと、眉根に皺を寄せた。
「対立――何だって?」
「対立構造よ。これまでは空木宗司を筆頭に、よくまとまっていた宗司がたを分断しようってわけ。一部の人があからさまに贔屓されたら、当然ほかの人は面白くないでしょ。そうやって不満が募っていくと、最後には敵対するようになるもんだわ」
「宗司がたを敵対させて、祭主さまに何の得があるってんだよ」
「一枚岩の十二宗司は手ごわいけど、分裂したら扱いやすくなるじゃない」
穿ったことを言っていると感じたが、案外これは正鵠を射ているのかもしれない。口から出かけた反論を呑み込み、八雲はしばし考え込んだ。
たしかに、十二宗司の意見が一致している時は、たとえ最高位の祭主であろうとそれを覆すのは容易ではない。神の代理人である紅の意思はほとんどの場合に於いてもっとも尊重されるが、実務を差配する宗司たちもまた絶大な権力を握っており、彼らが全会一致で「否」と言えば要求が通らないこともあり得るのだ。
しかしその半数を贔屓し、地位を上げて味方につければ話は変わってくる。紅はそれを狙っているのだろうか。
「おまえ、冴えてるな」
しぶしぶ感心してみせると、玖実は得意げににやりとした。
「知恵を貸して欲しかったら、いつでも言ってくるといいわ」
「じゃあ、これについてはどう思う? ちょっと前に三方祭宜の侍従日誌を読んだんだが――」
三方祭宜は前代の祭主に仕えた侍従長で、今は伝道に出ていて御山にはいないが、在職中に書いた膨大な量の日誌が記録所に保管されている。八雲はそれを紐解き、前代が亡くなる前日の記述に気になる内容を見つけていた。祭祓やら何やらで機を逸していたが、ずっと玖実に話そうと思っていたことだ。
「白藤さまは晦日に〈尋聴〉の儀で神告を得たあと、青藍さまを呼び出そうとなさったらしい。もう寝たと聞いてあきらめたそうだけど」
「なんで青藍さま? 神告で告げられた次代の祭主は紅さまでしょ」
「当夜の侍祭を務めた天城宗司はそう言ってるな。でも白藤さまは譲位するはずの紅さまじゃなくて、青藍さまに会いたかったんだ」
それってどういうことだろうと訊いた八雲に、玖実はあっけらかんと答えた。
「あんたが想像してる通りなんじゃない。神に告げられた次代の名前は〝紅〟じゃなくて〝青藍〟だったのよ。でなきゃ真夜中に若巫女を呼んだりなさらないわ。きっと後継が決まったのが嬉しくて、少しでも早く伝えたかったんでしょうね」
自分の考えを看破された上に完全肯定されて、八雲は逆に不安になった。
「ほんとにそう思うか?」
「まあね、いちばんしっくりくるじゃない。何よ、自信がなかったの?」
「おれの考えすぎかと……」
玖実がふふんと鼻で笑う。
「この件に関しては、いい線いってると思うわよ」
彼女の言葉に勇気づけられ、八雲はこれまでに考えてきたことを一気に打ち明けた。
前祭主を殺害する企ては急ごしらえではなく、かなり前から準備されていたと思うこと。天城宗司、紅、一眞の三人は確実に陰謀にかかわっていると思われること。青藍が殺害の下手人に仕立て上げられたのは、年改めの挨拶をしに祭主の寝間へ一番乗りするのが恒例になっており、当日の行動が読みやすかったからだったこと。
「それから、おれも……いま思うと偶然あの場に居合わせたんじゃないと思うんだ。祭祓の朝で人手が足りなかったとはいえ、おれが祭主さまの私室にひとりで配置されるなんて絶対におかしいだろ。侍従になって、まだふた月足らずだったんだぜ」
寝所の外の廊下に、歩哨が一眞しかいなかった点にも作為を感じる。
「おれを内宮に推薦したのは一眞だった。あいつが推挙状を書いたんだ。〝物事をありのまま見る生まれつきの正直者で、全幅の信頼を寄せるに足る〟とか何とか言って持ち上げてたけど、要するにそれはおれが単純で、あいつの思惑から外れることがないって意味だよ」
一眞はおれをよく理解していた。見ていないことを見たとは言えない、融通の利かない人間だと。見せたいものだけ見せれば、それを事実として馬鹿正直に語らせることができると。だから事件の目撃者に選び、内宮に入れ、陰謀に巻き込んだのだ。
「でも一眞も結局、裏切られたんだと思う。あいつは青藍さまを外へ連れ出して、始末してから戻ってきたけど――」
「ふたり殺して逃げた。衛士寮古参の文七と、宮士の許斐宗二郎だっけ。一眞は口封じされそうになって反撃したのかもね」
玖実はつぶやきながら立ち上がると、四阿の柱にもたれかかった。考え深げな目をしている。
「ねえ、それで……詰まるところ誰が黒幕だと思ってるわけ。天城宗司、それとも紅さま?」
「わからねえ」
ずっと考えているが、ほんとうにわからない。紅は祭主になり、天城は筆頭宗司になり、この一件でそれぞれ得をしたと言える。ふたりがぐるになって仕組んだのだとしたら、いったいいつから結託していたのだろう。ほかにかかわった者は何人いるのだろうか。
「とにかく、これから御山は住みづらくなるわね」
玖実の言葉に、八雲は小首を傾げた。
「なんでだよ。神が告げたのとは違う祭主が立ったからか?」
彼女が片方の眉を高く上げ、目の表情だけでまた「鈍い」と語る。
「宗司がたの分裂は、天門神教の分裂につながるからよ。まあ見てなさい、そう遠くないうちに奉職者全員がどっちの陣営につくか決めなきゃならなくなるわ」
言えてる、と八雲は思った。
天門神教は過去にも何度か分裂したことがある。中でも特筆すべきは、御山が開山する前の黎明時代に起きた大分裂だ。その時は現在の衛士の前身ともいえる武闘派が教団から分かれて西峽へ流れ、土着化したのちに武家へと発展していった。それと同じようなことが、これからまた起きるのだろうか。
「大祭礼でどたばたしてたわりに、けっこう調べが進んだわね。いろいろ見えてきたじゃない」
「まだ全然、確証はないけどな」
「証言や証拠を集めないと。白藤さまを手に掛けた者の目星はついてるの」
「いや、まったく。一眞か紅さまだろうとは思うけど」
ふうんと曖昧な相槌を打ち、玖実は寄りかかっていた柱から身を起こした。
「そろそろ調練に行くわ。新参の下手くそどもに鉄砲を仕込まなきゃ」
鍛え上げられ、引き締まった玖実の背中を床から見上げながら、八雲は四阿を出ようとする彼女に問いかけた。
「なあ、おまえはどうするんだ。どっちの陣営につく?」
「そんなの考えるまでもないでしょ」
玖実は短く切りそろえた髪の先を揺らして振り向き、いたずらっぽく笑ってみせた。
「景英さま――衛士長がつく側よ」
玖実と別れたあと、八雲は八ノ上弦道を東へぶらぶら歩いて衛士寮を目指した。特別な用があるわけではないが、ここまで来たのだから千手景英に挨拶をせず帰る手はない。
道の突き当たりに建つ衛士寮は役所と宿所のふたつの建物から成り、衛士として奉職する者たちの仕事場と住まいを兼ねている。衛士長の景英は、役所の北側に突き出した小書院ふうの部屋を執務室として使っていた。厩の脇から林道に入って通り抜けると、まっすぐそこへ行くことができる。
八雲は小道に入りかけて、ふと足を止めた。すぐ近くの立ち木に一本の木杖が立てかけてある。
彼の目を引いたのは、その長さだった。伝道の祭宜が携える杖に似ているが、丈はほぼ二倍で六尺ほどもある。色合いから察するに、素材は高価な黒檀だろうか。よく見ると厚い金属製の石突きが両端につけられており、それには唐草模様に似た精緻な装飾まで施されていた。明らかに特注品だ。
思わず近づき、感触をたしかめたくなって手を触れかけた瞬間、背後から凄味のある唸り声がした。
「人のものに触るな」
ぎくりとして振り向くと、藪に囲まれた馬用の水場の傍に黒い獣がうずくまっていた。
狼だ――。
一瞬、本気でそう思って身構えた。しかし獣は素早く立ち上がり、小柄な人間の姿になった。落ち着いて見れば何のことはない、自分と同じ黒い法衣をまとった若い男の祭宜だ。旅暮らしの伝道者の多くがそうしているように、彼も髪をかなり短く切っている。
「いやあ、悪かった」八雲は急いで手を引っ込め、その場を取り繕おうと微笑んだ。「珍しいものに見えたんで、ちょっと触ってみたくなったんだ。伝道者の杖にしては拵えが変わってるな」
伝道の祭宜は何も言わず、八雲の横を通り過ぎて杖のところへ行った。頭がずぶ濡れなのは、水場で埃を落としていたからだろう。伝道の旅から戻ったばかりで、これから上役に報告をしに行くのかもしれない。
「長旅をしてきたのか?」
その質問にも祭宜は答えなかった。用心深く間合いを取ったまま、少し上目づかいに八雲をじっと睨んでいる。警戒心に満ちたその佇まいが、余計に彼を人に馴れない獣のように見せていた。
顔つきや背丈からは十代の少年にも思えるが、目尻の長い炯々たる双眸は老熟しており、どう見ても子供のものではない。
こいつ、一眞に似てる。
不意にそんな考えが頭をよぎった。小作りな体に不似合いなほどの存在感。油断のない物腰。いざとなれば一歩も引かないだろうと想像できるふてぶてしさ。共通する部分が多い気がする。だが一眞は愛想は決して悪くなかった。対するこちらは一級品の無愛想だ。
どうも会話をしてもらえる見込みは薄そうなので、八雲は「じゃあ、また」と適当な挨拶をして先へ進んだ。途中で振り返って見れば、小道の入り口にもうあの祭宜の姿はない。物の怪に化かされでもした気分だ。
そのあと衛士寮で千手景英と会い、少し雑談をしてから辞去する前に彼のことを訊いてみた。
「衛士長、先ほど外で伝道の祭宜を見かけたのですが――」
「ああ、伊吹祭宜だろう」
八雲と向かい合って座る景英は少し痩せて、どことなく疲れた顔をしていたが、打てば響くように答えた。
「証札の更新をしに山へ戻ったついでに、わたしの師からの手紙を届けに寄ってくれた」
「師というと剣術の?」
「わたしが昇山したころに衛士寮で剣術指南役を務めておられたかただ。後期修行に入った十五歳から十年間にわたってご指導を賜った。三十代半ばで還俗され、今は下界で釣り三昧の気ままな暮らしを送っておいでらしい」
この話は初めて聞いた。
「おれが昇山したのは皇暦四一〇年ですが、まだご在職でしたかね」
「いや。降山なさったのは、その四年ほど前だった。わたしはあのかたの最後の弟子のひとりだ。昇山前も武芸を学んではいたが、この衛士寮へ来て師に出会わなければ、剣の神髄を体得することはできなかっただろう」
静かに語る景英の眼差しには、その人への尊愛の念があふれていた。
「あの伊吹祭宜は、お師匠さまと何か関係があるんですか? だいぶ若いようですが」
「たまたま同じ街に住んでいたとかで、共通の知り合いがいるそうだ。その人物から勧められて昇山し、伝道の祭宜になった。若く見えるが、あれでもう二十七歳になる」
景英は話しながら、面白いことを思い出したように微笑んだ。
「彼は模範的な奉職者とは言えないかもしれないが、霊力が強い上に腕も立ち、おまけにたいそう声がいい。前期修行を終えてどの職寮の行堂に入るかとなった時には、三つの寮で奪い合いが起きたものだ。わたしの前の堂長だった門倉逸郎どのも衛士寮に欲しがって、たびたび誘いに出向いていたな。だが彼は端から伝道の祭宜になると決めていて、修了後はさっさと祭宜寮に入って後期修行を始めてしまった」
「はあ、なるほど。伊吹祭宜は、何というか――我が道を行くという雰囲気ですよね。さっき会った時に話をしようとしましたが、まったく相手にされませんでした」
「他人が苦手で、無口なのだ」景英が快活に笑う。「わたしのところへ来ても、いつもほんの三、四語ほどしか言葉は発しない」
「それで伝道者が務まりますか」
「不思議と務まっているな。実際、伝導の成績はかなりいいと聞いている」
「だったら、断固としてその道に進んだのは正解だったわけですね」
衛士になるのをあきらめて祭宜になったものの、これでよかったのかと未だに考えちまう半端なおれとは大違いだ。
八雲は自嘲気味にそう思い、同世代の逸材への羨望とも妬みともつかぬものをかすかに感じた。
上弦道を縦断する参道まで戻って八ノ門に入ろうとした時、八雲は誰かに声をかけられて足を止めた。
「祭宜さま」
道の端にひとりの中年男が膝を抱えて座り込み、悲しげな目でこちらを見上げている。参道を上っていく参拝者たちと同様の旅姿をしているが、ここまで石でも担いで来たかのように疲れ切って見えた。歩くどころか、もう立ち上がることすらできなそうだ。
「どうなさいました。具合が悪くなりましたか」
心配になって傍に行き、屈み込んでさらによく見てみると、男がひどく面やつれしていることがわかった。これはそうとう重い病にでも罹っているのかもしれない。
「この道の先に薬療院があります。お連れしましょう」
八雲が手を差し出すと、男はうなだれて頭を振った。
「いんや、体は悪くねえです。悪いのはこっちのほうで」力ない手で、弱々しく胸を叩く。「こないだ、女房が死んじまいました」
「それはお気の毒に」
「だから、おれも早く死にてえと思うんです。大祭堂に参拝して神さまにご挨拶してから、帰りに川にでも飛び込もうかと」
冗談を言っているわけではなさそうだ。憔悴で落ちくぼんだ彼の目は、完全に希望を失って暗く濁っている。
「それでお訊ねしますが、すぐ死んであっちに行けば、女房はおれを待っててくれますかね」
おっと。苦手な分野だ。祭宜としてどう答えるべきかはわかっているが、八雲は自分が熱烈に信じているわけでもない教義に沿った言葉を、さももっともらしく語るのが昔から苦手だった。
「女房は待ってなぞいねえ」
どう話すか迷っていると、誰かがふたりの頭の上から切りつけるように言った。はっとするほど深い響きを持つ低音の美声だ。驚いて振り仰げば逆光の中に小柄な人影が見えて、すぐにあの伊吹祭宜だとわかった。しかし選りに選って、何という言いようだろう。
そんな言い方――と諫めようとした八雲を横に押しのけ、伊吹は道端の参拝者に歩み寄った。
「天門をくぐった魂はすぐに浄化されて、次に宿る器の元へ旅立つんだ。その時にはもう、おまえの女房じゃなくなってる」
なるほど教義的には正しいことを言っている。にしても、もう少し言葉を選べないものだろうか。参拝者の目に涙が浮かぶのを、八雲は唖然となりながら見つめた。
「じ、じゃあ……女房とはもう……ほんとにもう二度と会えないんで」
終わりのほうは聞こえないほど小さかった。涙に曇った声が震えている。哀れさと申し訳なさでいたたまれなくなり、八雲はいよいよ無遠慮な同輩にひと言いってやりたくなった。偉そうにもの申せる立場ではないが、とても黙って見てはいられない。
しかし口を挟む前に、伊吹が再び話しだした。
「会えないなんて、ひと言もいってねえ。親子だの夫婦だの、友達だの敵だの、人と人がそういう間柄になるのは前世からの縁があるからだ。おまえと女房も、宿縁があったから夫婦になった。死ねば器は滅びるが、宿縁は不滅の魂に刻み込まれて、絶対に消えてなくなることはねえ。何十年、何百年経ってもだ」
彼はそこで少し間を置き、参拝者の目を覗き込みながら言った。
「宿縁で結ばれた相手とは魂が引かれ合って、繰り返しまた巡り会う。先の世の、どこかの人生でな」
恐ろしいほどぶっきらぼうな口調だが、いつしか八雲は彼の話に引き込まれていた。修業時代から耳に胼胝ができるほど聞かされた天門神教の基本的な教えなのに、なぜ今これほど胸に響くのだろう。
ややあって、彼はその理由に思い至った。伊吹は一片の迷いもなく、これが真理だという絶対の確信を持って語っている。彼の言葉には曖昧さや嘘がない。だから聞く者の心にまっすぐ届くのだ。
確信を持つというのは信仰におけるもっとも難しい部分だと考え、それを実践できていないことを日々痛感している八雲は、伊吹の確信の揺るぎなさに思わず感動してしまった。
妻を失った参拝者がどう感じているかはわからないが、話を聞く前と比べると、目に浮かんでいた絶望感が少し薄れたように見える。
「どこかの人生で……」
男は口の中でつぶやき、言うべきことを言い終えた伊吹が今にも去ろうとしているのに気づくと、急いでその法衣の袖にすがった。
「どうしたら、早くまた巡り会えますか」
「それは、おれも知らねえ。確実に会う方法ならわかる」
「お、教えてください」
ますます強くしがみつく男を、伊吹は片手で引き剥がした。優しい手つきとは言えないが、参拝者は気づいてもいないようだ。
「何をすればいいですか。言われた通りにします」
「なら途中で投げ出さずに今の人生を全うしろ。そして、いずれこの世を去る時に迷わず天門をくぐれ」
伊吹は強い口調で言い切り、木杖を右肩に預けて参道の石段を下り始めた。それ以上しゃべらされるのは真っ平と言わんばかりの、逃げるような足取りだ。
霧が晴れたような顔でその背中を見ている参拝者に軽く会釈し、八雲は彼の後を追った。
「伊吹祭宜」
短髪頭が訝しげに振り向いた。眉間に皺が寄っている。駆け下りて隣に並ぶと、伊吹は不機嫌な顔をして、病気のネズミでも避けるように距離を取った。
「話してくれて助かったよ。いい説教だった」
「べつに助けたわけじゃねえ」
呻くように言う。いかにも迷惑そうだが、少なくとも今回は無視されなかった。
「どこでおれの名を」
「さっき衛士長からな。証札の更新はすませたのか?」
「もうすんだ。これから山を下りる」
言い捨ててすぐに行こうとするのを、あわてて引き留める。
「おい、大祭堂に寄って行かないのか」
御山の外で奉職する者たちは、山へ来れば必ず大祭堂で参拝し、山内の宿堂にしばらくとどまって英気を養っていく。決まりというわけではないが、そうするのが普通だ。
「行かねえ」伊吹は怒ったように言って、ふいと横を向いた。「ここより上には上がりたくねえ」
奇妙なことを言う。
「どうして」
答えないだろうと思ったが、彼は少し考え迷ってから口を開いた。
「頂上の神域が何か変だ。前に来た時はこんなじゃなかった。おまえは感じねえのか」
「変って、どんなふうに」
「感じねえやつには説明できねえ」
伊吹は八ノ門から上をちらりと見たあと、視界が曇ったかのように片手で目元を覆って乱暴にこすった。
「何か起きてるはずだ。体とか頭の調子が悪くなってるやつもいるだろう。原因を突き止めねえと、そのうち死人がでるぞ」
ぞっとするような予言をすると、彼は八雲にきっぱり背を向けて再び参道を下っていった。もっとよく聞きたい気もするが、これ以上しつこくすると、さすがに噛みつかれそうだ。
八雲はしばらく伊吹を見送ったあと、黙然としながら長い石段を上った。
神域が変なはずはない。大祭堂と蓮水宮が鎮座するそこは、御山でもっとも清浄な場所のはずだ。現におれはずっと宮殿で暮らしているが、どこも悪くなっていない。
だが――そういえばこのところ、侍従の中に何人か風邪気味だとか腹痛だとか言っているやつがいなかったか。祭主の体調管理を任せている青葉祭宜が「紅さまの食が進まない」とこぼしていたし、今日会った衛士長もちょっと冴えない顔色をしていた気がする。若巫子の誰かが熱を出したとも……それを聞いたのはいつだっただろう。
考えるうちに、不安が腹の中に凝っていくように思えた。
ああ、失敗したな。やっぱりもっと食い下がって話を聞くべきだった。
後悔しつつ振り返ったが、石段を上り下りする参拝者たちが見えるだけで、伊吹はもうどこにもいない。
自分の要領の悪さにあきれながら、八雲はすごすごと宮殿へ戻っていった。だいぶ油を売ってしまったので、本腰を入れて勤めに励まなければ。仕事は山積みだし、時は待ってくれない。どんな気がかりがあろうともだ。
決意に違わず彼はよく働き、夜半になってやっと床に就いた。
ひとりの幼い若巫女が蓮水宮から忽然と消えたのは、その翌日未明のことだった。
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