六十 泉妻国明里郷・祥介 まやかし
泉妻国を治める桔流家の本拠采華郷から北西に六十里ほどの明里郷は、取り立てて見るところもない内陸の小集落だった。
五か村千五百人あまりが暮らす崖錐の土地の西側に、巨大な衝立のように聳え立つのは泉州を南北に貫く二王頭山脈。東側には暴れ川として知られる明空川が流れている。
山河の狭間に押し込められて肩をすぼめているようなこの郷の住人は、その大半が海など一度も目にすることのないまま生涯を終えるのだろう。
そんなことをとりとめなく考えながら、空閑忍びの祥介は桑畑に囲まれた脇道を通り抜けて広い農道に出た。背丈よりも大きい桑の木に遮られていた視界が急に開けて一面の野田となり、左右どちらにも取っかかりのない景色に一瞬頭がくらっとなる。
彼は商売道具が入っている背中の背負子を軽くゆすり、肩に食い込む連尺をずらせてから歩き出した。
小さな白い花が咲いて穂が出始めた稲田の土手道は、真夏の容赦ない日差しにさらされて埃っぽく乾いていた。風が時折わずかに巻き上げる砂塵の中を、稲の花粉を集めるミツバチが飛び交っている。
その眠たげな羽音を聞きながら鼻歌交じりに歩いていると、左手のほうから鼻を鳴らすような音がした。道の脇に寄って覗いてみれば、草の生い茂った斜面に三人の若い農夫がいて思い思いの格好で休んでいる。土手の向こう方は草が刈られたばかりで、青臭いにおいがここまで漂ってきた。
「やあ。暑い中、草刈りかい」
愛想良く話しかけたが、返ってきたのは冷ややかな視線と沈黙だった。郷に入ってからというもの、道すがら出くわして声をかけた人にはことごとく同様の対応をされている。どうも余所者を嫌う土地柄のようだ。
祥介は足を止め、目だけ動かして三人の男を観察した。
だいぶ紺色が褪せた絣の着物の小男は仲間内でいちばん年を食っており、賢そうな顔つきをしている。頭が肩に埋もれたような猪首の男は、警戒しつつも目には好奇の色を浮かべていた。そして長い馬面の男は、手作りらしい粗末な煙草入れを腰に下げている。
「兄さんたち」祥介は草むらに足を踏み入れながら言った。「おれのおごりで煙草でもどうだい」
煙草という言葉に、絣の小男と馬面がぴくりとした。ふたりとも嗜むようだ。だが彼らの身形からして、値の張る上物を吸っているとは思えない。
「おれは煙草売りを生業にしてる者だ。良さげな葉煙草が仕入れられたらと思って足を伸ばしたんだが、このへんで栽培やってる人を誰か知らねえかな。よかったら一服しながら、ちょっと話を聞かせてくれよ」
「どうせ、終いに高えやつを売りつけようって魂胆だろう」
絣の男がぶっきらぼうに言って、ふんと鼻を鳴らした。先ほどの音を立てたのも、この男だったに違いない。手ごわそうな相手だが、祥介は口を開かせた時点で勝ち目があると踏んだ。
「そんな、つまんねえ商売するもんかい」
瞬時に笑顔を消して声を尖らせる。
「おれはな、欲しがらねえ相手に無理に売りつける代物なんざ持ち合わせちゃいねえんだ。あんたらが気が乗らねえってんなら、それまでの話よ。邪魔して悪かったな」
きっと絣の男が引き留める――そう見込んで、駆け引きに出た。三人組にきっぱりと背を向け、大股に斜面を登り始める。そうして土手道の際に爪先をかけようとした時、予想通りの声が背後から呼んだ。
「おい、まあ待ちな」
相変わらずぶっきらぼうな口調だが、声音はだいぶ和らいでいる。
「田舎者だと見下して、悪どい商売するようなやつも世間にゃ少なくねえ。用心するに越したことはねえのだ」
振り向いて見ると、絣の男が少し気まずそうな顔をしていた。
「機嫌を直してこっち来な。座って休んでけよ」
祥介はむっつりとして、考え迷うふうを見せてから、慎重な足取りで斜面を下って彼らに近づいていった。
「どっから来たんだい」
彼が背負子を下ろして草の上に座ると、絣の男が手ぬぐいで胸元の汗をぬぐいながら訊いた。その横で猪首は無関心を装っているが、聞き耳を立てているのは明らかだ。馬面は気難しげに眉根を寄せてそっぽを向いている。
「生まれは王州だよ」
祥介は荷の一部を解きながら言った。王州と聞いた絣の男が、目をきらりとさせる。こうした北部の田舎では、大皇の御座す地に漠然とした憧れを抱く者は珍しくない。
「じゃあよう、天山にも行ったことあんのか」
「得意客の七割ぐらいは天山住まいだ。この二、三年は月に一度は必ず足を運んでるな」
銘柄ごとに小分けしてある中から、祥介は印をつけてある包みをひとつ取り出した。三種の銘柄を独自の割合で調合して刻み、あとは煙管に詰めて吸うだけにした〝お試し〟用だ。比較的安価な二級、三級葉を使い、万人受けする味に仕上げてある。
「煙管は持ってるか」
「ある」
絣の男が懐から出したのは、これも手作りと思われる素朴な竹製の煙管だった。彼がそれに〝お試し〟を詰めているあいだに、祥介は燧袋から火口をつまみ出して手早く着火した。
器用とは言えない手つきで煙草を詰め終えた絣の男は、祥介が差し出す火口の小さな火で吸い付け、胸いっぱいに吸い込んでから長々と紫煙を吐き出した。
ううむ――と唸り声をもらす彼を、仲間ふたりがじっと見つめている。
「こりゃあ旨え」
絣の男のため息交じりの感想を聞いて、馬面の喉仏がごくりと上下した。
「初めて味わったぜ、こんなのは」
「いつもは、どんなのを吸ってるんだい。あんたらは?」
ここまでひと言も喋っていないふたりに水を向けると、馬面が口をゆがめながらぼそりと言った。
「そこらの草……」
祥介は驚かなかった。煙草を買う余裕のない者が、干して刻んだ雑草を代用品として吸う話は聞かなくもない。
「きついのや、えぐいのが多いだろう」
「まあな」馬面の返答は素っ気ない。
絣の男に目をやると、彼は肩をすくめて見せた。
「煙草なんて贅沢なもんは祝いごとや祭りでもなきゃ手に入らねえ。おれは普段はナスの葉とかカキの葉とかだな。家の裏手に生えてる何かしらだ」
雑草よりはそちらのほうが気が利いていると思ったが、特に見解は述べなかった。代わりに、愛想のないふたりにも気前よく煙草を勧める。
「よかったら、やってくれ」
彼らはにこりともしなかったが、煙草を断りもしなかった。そして祥介のことは気に入らないが、彼の商品はすこぶる気に入ったようだった。
「こいつあ、どこの煙草なんだ」
猪首がじっくり三服したあとで訊いた。
「北部産の阿天坊と瑞樹、南部産の調を、三対五対二の割合で葉組みしてある」
銘柄など聞いてもわからないだろうに、猪首は訳知り顔にうなずいている。
「なるほどな。で、値段は?」
「一匁が鉄九枚だよ。日に十回吸うとして二、三日分てとこだな」
高い――全員の顔に、そう浮かんでいた。煙管の火皿に一回詰める量で吸えるのは、せいぜい三、四服といったところだ。愛煙家ならば五日で三匁か、それ以上の葉煙草を消費することも珍しくはない。三人に試させたものは安い部類だが、それでも毎日ケチらずに吸おうとすれば、ひと月で二銀一銅ほどはかかるだろう。
「そんな高えわけがあるかい」
馬面が少し声を高め、疑わしげに言った。
「前に北の村のやつが市に持って来てたのをちょろっと買ってみたが、せいぜい鉄六枚かそこらだったぜ」
「処の産を地元で買うなら、そんなもんだろうな」祥介は解いた荷を元通りにしながら、噛んで含めるように説明した。「だが余所の土地の珍しい銘柄を喫もうとなったら、税のほかに運び賃やら何やらが余計にかかって高くなるんだ」
馬面も猪首も、納得しかねる表情をしている。日ごろ無料で手に入る雑草を吸っているような者なら当然の反応と言えるだろう。
「まあ、単品でもいける銘柄はいろいろあるよ。でもな、葉組みでもっと旨くなったやつをあれこれと試しながら、味も香りも口当たりも自分の好みにぴったり合うやつを見つけていくのが煙草喫みの醍醐味ってもんだ。そういう愉しみ方をしたい向きには、聞いたこともねえ他国の銘柄を取り揃えて持ってくる、おれみたいな煙草売りが欠かせねえのさ」
「講釈はもういいや」
話の途中から明らかに気を散らしていた猪首が、ハエを追い払うように手を振った。
「なあ、よう、その煙草なかなか悪くねえぜ。おれにいくらで売る?」
たったいま値段を訊ねたことなど忘れたかのように、彼はとぼけ顔をして訊いた。
「今ここで、そうさなあ――十匁ばかし置いてくとしたら、いくらになるのかって話だ」
「一銀五銅二鉄」祥介は即座に答えた。「買うなら鉄二枚は負けとくぜ」
「いや、いや、いや」
猪首は首を振り、にやつきながら祥介の目をじっと覗き込んだ。
「そんな杓子定規な台詞が聞きたいんじゃねえ。友達には融通を利かせるもんだ。そうだろうが」
たかろうとしている。その場の全員が気づき、それぞれ違う表情をした。
内心うんざりしながらも、祥介は顔には出さない。絣の男は不愉快そうに眉をしかめ、鼻を膨らませている。そして馬面は半笑いで狡そうな目つきをしていた。猪首のごり押しに、あわよくば自分も乗ろうと考えているのだろう。
「友達と言うには、まだつき合いが足りねえやい」
祥介は軽くいなして、さっと立ち上がった。すでに馬面の言葉から、煙草の栽培者が北の村にいるらしいことは目星がついている。ここでの収穫としては充分で、そろそろ引き揚げどきだ。
「もう行くよ。話せてよかった」
「そう急ぐこたあねえ」
猪首が呻くように言って、のそりと腰を上げた。瞳を暗く陰らせて、腰帯に差した草刈り鎌に軽く手をかけている。
「まだ話し足りねえだろ。もうちょっとここにいな。そしたら、おれらが友達だと思えるようになるぜ」
「ああ、その通りだ」
馬面も中腰になった。ふたりとも祥介にひたと視線を据えている。
右手に馬面。正面に猪首。左手には絣の男が渋面のまま座っている。彼らの位置関係を確認したあと、祥介は背負子をぐいと摑み上げながら、馬面と猪首のあいだの幅三尺ほどの隙間に目を向けた。それに引っかかった馬面が進路を塞ごうとする動きの逆を突いて、彼の左脇を風のようにすり抜ける。
そのまま息もつかせず斜面を登り切り、土手道にたどり着いたところで改めて背負子を背負うと、振り返ることなく歩き出した。
「おい」
呼んでいるが無視した。まさか追いかけてはこないだろう。
「待ちな。おい。待てって」
背後に足音が聞こえる。くそ――腹の中で悪態をついて首をうしろへねじると、絣の男が小走りに追ってくるのが見えた。
「なんだよ」
足を止めて突き放すように訊くと、男は目を伏せて祥介の視線を避けた。仲間の振る舞いを恥じているようだ。肩を落として背を丸めているせいで、もともと小作りな体がひと回り余計に縮んで見える。
「さっきおめえが訊いた、煙草を作ってるやつだがな」
彼は咳払いをしたあと、仲間に聞かれるのを厭がるかのように低い声でぼそぼそと言った。
「おれの知り合いにはいねえが、お館に行って訊けばたぶん名前を教えてもらえるぜ」
「お館? 名主の家ってことか」
「いや、この郷の領主の館だ。こっから東に半里ばかり行った丘の上にある」
「領主ってのはあれだ、つまり殿さまだろ」祥介は不信感も露わに片眉を上げた。「殿さまのお館におれなんぞが行って、誰が相手してくれるってんだよ。門前で追い返されるか、番人に痛い目に遭わされるのが関の山に決まってら。おれを鴨にし損ねたから、意趣返ししてやろうって腹だろう」
「そんなんじゃねえ」
絣の男が憮然たる面持ちになる。
「行ってみりゃわかるが、領主の館と聞いて思い浮かべるような大層なもんじゃねえんだ。せいぜい名主の家に毛が生えた程度だし、用がありゃ誰だって庭先まで入って行ける」
祥介は胡散臭そうな顔のまま腕組みをして、少し考えてから口を開いた。
「それで、殿さまに会って話を聞けってのかい。どんな口を利きゃいいのかもわかんねえよ」
「殿さまはいねえ。たぶんな。もうずっと、いた試しがねえんだ。でも代わりにお留守居役さまがいる。年寄りで見た目は偏屈そうだが、わりにしゃべり好きだし悪い人じゃねえ。大方、今時分はお館の裏で畑仕事をしてんじゃねえかな」
「お留守居役さまが畑仕事ねえ」
口の中でつぶやき、祥介は絣の男に背を向けた。
「ま、行ってみるよ」
肩越しに手をひと振りして、足早に歩き去る。男がまだこちらを見ているのを感じたが、彼の罪悪感を軽くしてやるためにもう一度振り向いたりはしなかった。
偏屈そうな年寄りという、絣の着物の男の評は正しかった。裏で畑仕事をしているだろうという推測も当たっていた。そして庄屋の家に毛が生えた程度という、領主の住まいの描写もまた完全に彼の言葉通りだった。
郷の大外堀のような明空川が氾濫しても、ここだけは水没を免れるだろうと思われる小高い丘の上。段畑の中の曲がりくねった坂道を上り詰めた先に、雑木林を背にして明里郷の領主の館は建っていた。
入り口に門はあるものの門番はおらず、扉は開け放しになっている。祥介は手前で立ち止まり、中の様子を少し窺ってから、遠慮がちに門の内へと足を踏み入れた。
あまり手入れをされていない前庭があり、その向こうに茅葺き屋根を乗せた古めかしい母屋と土壁の蔵が二棟。左のほうには物置小屋らしきものがちらりと見えている。敷地内にある建物はそれで全部らしかった。たしかにこれは館などと大層に呼ぶほどのものではない。
入ってもよろしいですかと訊ねようにも、目の届く範囲には人っ子一人いなかった。おそらく使用人の数も多くはないのだろう。
咎められたらその時のことだと割り切って物置小屋のほうへ行ってみると、壁沿いに大量の薪が積まれており、その陰に母屋の裏手へ続く小さな木戸が隠れていた。
「ご免くだせえやし」
腰までの高さしかない木戸越しに声をかけてみたが、予想通り応えはない。施錠されていない戸を開けて奥へ進み、竹藪の中の荒れた細道を通り抜けると、木立に囲まれた奥庭にたどり着いた。
庭とは言うものの、それらしい設えはどこにもない。そこは母屋の建坪とほぼ同じぐらいの広さと思われる、何の特徴もない畑に過ぎなかった。等間隔に長い畝を作り、その七割ほどでナスやキュウリなどの野菜類、残りの三割で薬種類を育てているようだ。
畑の端のほうに葉ネギが青々と伸びている一角があり、手ぬぐいで頬被りをした小柄な老爺がひとりいた。ちょっと見は百姓のようだが股立ちを取った袴を着けており、畝をまたいで黙々と収穫に励んでいる。
「ご精が出やすね」
祥介が声をかけると彼は顔を上げて周囲を見回し、くわっと口を開いた。
「これっ、ずかずか入ってきおって、図々しいやつめ。どこの悪童か」
体つきに似ず、太く大きな声だ。頭ごなしに叱られて驚いたが、祥介は怯まず言葉を返した。
「どうかお許しを。悪さしに来たんじゃありやせん」
「なんだ、村の子ではないのか」老爺は拍子抜けしたように言い、抜いたばかりの葉ネギを持つ手で差し招いた。「もそっと近くへ来い。よう見えぬ。近ごろは遠くも近くも見えにくうなっていかんのだ」
呼ばれるままに近づいていく祥介を、口をへの字に曲げた老武士が頬被りを取りながらじっと見つめる。彼の低く束ねた頭髪は生え際と鬢がかなり薄くなっており、額には泥のこすり跡がついていた。
「ふむ。見かけぬ顔のようだな。何者だ。どこから来た」
「王州から参りやした」祥介は葉ネギの畝に沿って奥まで入り、老人の脇で腰を低くした。「しがねえ連尺商いの煙草売りでございやす」
「遠くまではるばると、無駄足を踏んだものだな。このあたりでは煙草など売れやせぬよ。国庁のある采華郷か、街道沿いの大きい宿場へでも行くがよかろう。あるいは大なり小なり城があり、城下町が賑わう郷へな」
「実はこの度は売るより買うほうが目当てでして、葉煙草の作り手を探しておりやす。さっき、ちょっとそこらの人に聞いたら、お留守居役さまに伺えば誰かご紹介いただけようと」
「お留守居役さまなどと呼ぶな。村の者どもが勝手に言うておることだ。わしが当家主の留守を預かって久しいゆえにな」老爺は手ぬぐいで汗を拭きながら、むっつりと名乗った。「梁井義重と申す」
取っつきにくい雰囲気はあるが、絣の着物の男が話していた通り、さほど口は重くないようだ。
「お名をお聞かせいただき、恐れ入りやす」祥介は彼に屈託のない笑みを向けた。「村の子供らは、いつもこんな奥まで入って参りやすか」
「うむ。遠慮のない者どもで、奥庭へは来るなと申しても一向に聞かぬ。それというのも親がな、田畑へ手伝いに出られるほど大きくないが、子守が要るほど小さくもない年ごろの子らを、よく館へ連れてきて置いてゆくのだ。外で勝手に遊ばせておると怪我をしたりさらわれたりするやもしれぬが、館の敷地内にいればそうそう危ない目に遭うこともなかろうと言うてな」
「それを許しておいでとは、お優しゅうございやすね」
感心したように言う祥介を、義重は憂鬱そうに見た。
「許してなどおらぬ。追い出すのが手間というだけのことよ。下男などは仕事の邪魔をすると言うて、たまにつまみ出しておる。それでもいっかな懲りずに、またやって来おるのだ」
うんざりした口調だ。煩わしいと言いつつ、内心で子供の相手を楽しむ老人はいるものだが、彼はそのうちには入らないらしい。
「まあ殿が屋敷においでならば、わしも本腰を入れて追い出すが」
独り言のような低いつぶやきだったが、祥介は聞き逃さなかった。
「お殿さまは、あんまし家にいらっしゃらねえんですかい」
義重がしかめ面になる。
「戻っておいでになるのは、数年に一度といったところであろうかな。前回お目にかかったのは、たしか四年前であった」
「四年は、ちょっと長すぎやしませんか。産まれて四年も経つころにゃ赤子は歩き回ってるし、モモの木だって実をつけるようになりまさあ。そんなにも里帰りが間遠じゃ、殿さまあってのご家来衆はさぞお寂しいこってしょう。全体、普段はどちらに行っておいでなさるので?」
「天山だ。お仕えしている主家の大殿さまが、もうずっとあちらのお屋敷におられるのでな。たしかに主の傍で働けぬのはまこと張り合いがないが、致し方ない。我が殿は昔から、お役目一途なおかたなのだ」
少し遠い眼差しで言ったあと、義重は祥介のほうを向いて目をぱちくりさせた。
「おぬし、人なつこいやつだのう。いらぬことまでしゃべらされてしまうわい」
小言めいてはいるが、決して不快ではなさそうな口調だ。老人は少し腰を逸らせて体をほぐし、頭上に輝く太陽を眩しそうに見上げたあと、まだ手に持ったままだったネギを籠にぽいと投げ入れた。
「ここは暑うてかなわん。続きは向こうで話そう」
彼は土が崩れた収穫後の畝をまたぎ越え、すたすた歩き出した。畑の端は膝ぐらいの高さの木柵で仕切られており、境目を過ぎた先には井戸がある。義重はそこで足を止めると、振り返って祥介を見た。
「水汲みを頼めるか。井戸車が古うて、ちと重いが」
「造作もねえこって」
祥介は小走りに近づくと、かなり深そうな井戸の中に釣瓶を落とした。縄をたぐって桶を引き揚げ、中に満たされた水を老人が足元に指し示す盥にざあっと空ける。
「もう一杯汲んで、おぬしも使うがよい」
義重は盥に屈み込み、汚れた顔と足、ネギ臭くなった手を洗いながら言った。
「その腰に提げておる水筒も満たしてゆけ。二王頭山脈から下りてくる湧き水だ。これといって良い作物も取れぬ郷だが、昔から水の味だけは自慢できる」
「ありがたく、ちょうだいいたしやす」
井戸水は澄んでいて冷たく、舌に甘かった。手ぬぐいを濡らして汗でべとつく肌を拭けば、心持ちまですっと爽やかになる。
「おっしゃる通り、良い水でございやすね」
「そうであろう」義重が初めて、唇にかすかな笑みを浮かべた。「これで作ると、実の少ない汁も乙な味になる」
洗い立てのすっきりした顔で、彼は井戸端を離れて母屋のほうへ歩いていった。
暑い時期とあって奥庭に面した部屋の戸はすべて開け放たれており、屋内の様子が素通しになっている。唯一畳が敷いてある十畳ほどのひと間は、おそらく主人の居間だろう。ほかの部屋はみな板張りで、調度などはほとんど置かれていない。
離れて見ても冴えない建物だった母屋は、近くで見るとなおみすぼらしく感じられた。全体的に古びており、壁や柱にも傷みが目立っている。茅葺き屋根もかなり黒ずんでおり、疾うに葺き替えの時期を過ぎているようだ。
有り体に言えば、貧しげな住まいだった。領主からしてこの家なのだから、領民が気安く嗜好品を購えないのも腑に落ちるというものだ。
日差しから逃れて軒下に入った義重は、疲れた様子で縁側に腰を下ろした。
「おぬしも座って休むがよい」
「そんな、滅相もねえ」
あわてて断ったが、老人は真顔だ。祥介は少し迷ったあと、縁側ではなくその下の沓脱ぎ石に軽く尻を乗せた。
「勝手に奥まで入ってくる図々しい物売りかと思うたが」義重が横目に見ながらにやりとする。「存外、遠慮を知る者のようだ」
「どうぞご勘弁を」
「さて、葉煙草がどうのと言うておったな。郷内で栽培に携わる家は二軒あるが、教えてやったらおぬしはどうするつもりだ」
「とりあえず訪ねて行って、どんな味わいかひとつ試させてもらいやす。よさげなら仕入れの交渉を」
「では、気に入らねばそれこそ無駄足になるわけか。待っておれ」
義重は大儀そうに腰を上げて板間のひとつに入っていくと、ほどなく煙草盆を持って戻ってきた。何の装飾もない文字通りの丸盆の上に、煙草入れと火入れ、竹製の灰吹き、煙管を一本載せただけの質素なものだ。おそらく私物なのだろう。彼はそれを祥介の近くに置き、再び縁先に座って足を垂らした。
「その煙草入れの中にあるのが、郷の北の田苅という村で作っておる煙草だ。ここで味を見て、仕入れる価値ありと思えば農家を訪ねればよかろう」
「そりゃあ、手間が省けてありがてえや。よろしいので」
「かまわん、かまわん」
手を振りながら鷹揚に言ったあと、義重は何か意味深な目つきをした。
「ただし、あまり期待はするな。眼鏡にかなうとは限らぬぞ」
「へい。そんじゃ、お言葉に甘えまして」
祥介はひょこりと頭を下げ、盆の上の煙草入れを取った。紙を貼り合わせて作った蓋付きの角筒だ。中に半分ほど入っている刻み煙草はやや古くなっており、砕けた粉が底にいっぱい溜まっていた。加湿用らしい、新しいヨモギの葉も一緒に収めてある。
自分の煙管を出して一服してみると、「期待するな」と言われた意味がわかった。味も風味も弱く、何とも捉えどころがない。
「どうだ、寝ぼけた味であろう」
義重が様子を窺いながら、むしろ愉快そうに言った。
「地場のものを貶したくはないが、旨くも深くもない。爽やかかというとそうでもない。ほかに吸うものがあればこんなのは歯牙にもかけぬが、近場で手に入るのがこれしかないゆえ仕方なく吸っているのだ。たまに市で別のを見かけることもあるが、たいていは不心得者が安い茶葉など刻んで作ったひどい味のまやかし物でな」
「寝ぼけたとおっしゃるが、品の良いお味でございやすよ」
祥介は慎重に言葉を選びながら言った。
「たしかに印象はちと薄いが、鼻に抜ける柔らかい風味は悪くねえ。それに香りがいいじゃありやせんか。ちょっと甘酸っぱい……干したブドウのような」
「しかし売れはせぬだろう」
「こういうのは売り方次第でさ」身軽に立ち上がり、背負ったままだった背負子を脇に下ろす。「葉組みを試させていただいても、よろしゅうございやすか」
「やってみるがよい」
祥介はいくつかの銘柄を取り出すと、手早く葉組みを行った。どういう味にするかさえしっかり思い描けていれば、何を組み合わせるべきかは自ずとわかるので調合に迷うことはない。確信に満ちて淀みなく動く彼の手を、義重が興味深げに見守っている。
「さ、どうぞお試しを」
出来上がった刻み煙草を紙に載せて差し出すと、義重は勧められるまま煙管に詰めた。
「なんと」
吸ったあとの第一声はそれだった。目が覚めたような顔つきをしている。
「何をどうすれば、こうも変わるものか」
「お気に召しやしたか」
祥介は微笑み、自分も同じように一服してみた。想定通りの味にうまく仕上がっている。
「南部の特級葉赫を三、北部の一級葉羽海野を二、それからこちらの産を五の割合で組み合わせてみやした。赫は旨味が濃厚で吸い心地がだいぶ重い。羽海野は苦みの立った、ハッカのようなスッとする感じが持ち味の銘柄で、まあどっちもかなりの曲者でさ。そこへこちらの葉を多めに入れるってえと、尖った味をくるっとまとめて喉ごしよくなり、玄妙複雑な後引く香りに仕上がると踏んだってわけで」
説明を聞いた義重が腹の底から長々と唸った。皺に埋もれた小粒な目にきらりと輝きが灯っている。祥介の仕事ぶりに心を掴まれたようだ。
「鮮やかな手並みだ。柄にもなく感心させられたわい」
「そう言っていただけると、なお張り合いが出るってもんでさ」
「これは売れそうだな」
義重は最後の一服を名残惜しそうにゆっくり吸って、顔の周りに薄く煙を漂わせながらしみじみとつぶやいた。
「農家とはどう取引する。仕入れの度に当地まで自ら足を運ぶのか」
「それをやってちゃ、売る暇がなくなっちまう。新しい銘柄を探しに旅するのは、せいぜい年に三、四回でさあ。取引の約束さえできたら、あとは手紙でやり取りしやす」
「ううむ、それはどうかな」
義重が眉を曇らせる。
「おぬしは町育ちでわからぬのやもしれぬが、このあたりの百姓は読み書きなどできぬ者がほとんどだ。売るも買うも郷の中、せいぜい村同士の行き来だけでほそぼそとやっておる。外へ作物を出荷したことも、銭以外で代金の受け渡しをしたこともまずなかろう。となると、そのあたりに明るい者を間に誰か――おそらくは村の顔役あたりを介してということになる」
「そうなると、うまくねえですかい?」
「人を介すると、その分だけ農家の取り分は減るのだ。気づけば二、三人も間に入っていて、物を作っている当人の実入りが半分以下になっていたなどというのも聞かぬ話ではない」
「そりゃ業腹だ」祥介は鼻に皺を寄せて声を強めた。「汗水流してる人が、いちばんに儲かる仕組みでなきゃおかしいや」
「貧しい土地ゆえ、な」義重がため息交じりに言う。「何とか人を出し抜いて利を得ようと考える者も多いのだ」
つい先ほど村人に鴨られそうになったことを思い出しながら、祥介は葉組みした煙草の残りをさり気なく老人に勧めた。それに気づいた義重が表情をなごませ、いそいそと煙管に追加を詰め始める。その手元を見つめながら、祥介は遠慮がちに切り出した。
「つまらねえ思いつきを――申し上げてもよろしゅうございやすか」
「聞こう」
「もし梁井さまが……いや」言いかけて怯み、そっと視線をそらす。「やっぱし、やめておきやす。身の程知らずのけちな了見をお聞かせするなんざ烏滸がましいや」
「聞くと言うておるだろう」
まるで自分のほうからそう言い出したかのように、義重は熱心に話の先を促した。いつの間にかすっかり態度がくだけている。
「かまわぬから申してみよ」
「へい。じつは、さっきおっしゃった利に群がるような輩に代わって、もしや梁井さまが間に入ってくださりはしねえかと――ふとそんなことを思いやしたもんで」
「なに、わしがか」
意表を突かれた顔で、義重は口からもわっと大きく煙を吐いた。
「梁井さまのように真っ当なおかたなら、埒外の上前をはねるような真似は絶対なさらねえ。とはいえ、損をおさせするつもりは毛頭ございやせん。お骨折りいただく分のお礼金込みで、きっちりと払わせていただきやす」
「いや、しかし、わしは主持ちゆえ」
「お侍さまは、小遣い稼ぎしちゃいけねえんですかい」
きょとんとして訊くと、義重は口元に拳を当てて空咳をした。
「いかんというわけでは……や、しかしな」
「銭では体裁が悪いってことなら、煙草でというのはいかがでやしょう」
老人の肩がぴくりとして、目が素早くこちらへ向いた。興味をそそられているのは明らかだ。
「葉煙草一斤の取引ごとに売値の五分、一銀二銅を手間賃としてお支払いするとして、煙草にすると八匁でさ」
悪くない――と、義重の眼差しが語っている。
「あとでもっとよくお好みを伺って、念入りに葉組みしたものを注文と一緒に先渡しでお送りいたしやすよ」
この駄目押しのひと言が効いた。
「そこまで申すなら、ひとつ仲介の労を執るとしようかの」
いちおう勿体をつけて言いながらも、義重の口元はほころんでいる。
「ありがてえ。恩に着やす」
「まあ、土地のものを余所で扱ってもらえるのは、わしとしても嬉しくはあるのだ」
「おれも来月から、こちらのお殿さまと同じく天山住まいなんで、家移りし終えたらお得意さまにどんどんお勧めしていきやすよ。この郷の名も、煙草好きな人らのあいだで遠からず売れるこってしょう」
「郷の名が?」老人が小首を傾げる。
「煙草は栽培された土地の名を銘柄としやす。その点〝明里〟は文句なしだ。上品で歯切れのいい、たいそう良い名じゃありやせんか」
「銘柄……そうなのか」
義重の表情が少し曇った。
「では、いずれ殿のお耳にも入るやもしれぬ」
「まずいですかい」
「まずくはないが、彼の地で期せずしてご領地の名に遭遇したら、いったい何ごとかと訝られるだろう。売り始める前に、ひと言お伝えしておくべきだろうな」
「なんでしたら、おれからお殿さまにご挨拶申し上げやしょうか」
義重は、はっとしたように祥介を見た。
「おぬしが」
「へい。月が替われば、曲輪は違えど同じ天山の中だから訳もねえや。もし梁井さまが、おれごときをお殿さまに紹介してもいいとおっしゃるならの話ですがね。そしたら特別上物の煙草を手土産にどこへなりと馳せ参じ、手前これこれと申す者、縁あってご領地の煙草をば扱わせていただく次第と相成りました、どうぞよしなにお取り計らいくださいませ……とまあ、精一杯の口上を述べさせていただきやすよ」
祥介の言葉を聞き終えた老人は口を閉じ、半分上の空な手つきで煙管の吸い殻を灰吹きにぽんと落とした。視線を畑の仕切り柵のあたりに向け、黙然と考え込んでいる。
話が主人に及んだことで侍らしい用心深さが頭をもたげ、今さらながらこの成り行きに戸惑いをおぼえ始めたようだ。
ほんの小半刻前に出会ったばかりの、まだ名前すらも知らぬ一介の物売りを、なぜ自分はこれほどまでに気に入ったのだろう。このまま流されて、主人に引き合わせてしまってよいものか、などと思い巡らせているに違いない。
ここが肝要――と、煙草売りの祥介の薄皮一枚下に潜む忍びが囁いた。
「本音を申しやすと、ちょっと下心もございやして」
気まずそうに頭を掻きながら言うと、義重はくるりとこちらに向き直った。瞳にわずかに警戒の色が浮かんでいる。
「なに、下心だと」
「へい。おれら町人はお武家さまに喚ばれるか、どこぞのお家から御用商の認許をいただくかしねえ限り、天山の上の曲輪には入れやせん。曲輪門を抜けるにゃ手形か切手が要るが、どっちもまあ容易くは手に入らねえ。でも武家町で商いしたいのはみな同じで、そこはおれもご多分に漏れずなんでさ」
なんだ、そんなことかと言いたげに老人が小さく息を吐いた。
「ふむ。つまり我が殿と顔なじみになり、あわよくば武家町への出入りを許されたいと」
「つい高望みを……」
首をすくめながらぼそぼそ言い、上目づかいに顔色を窺う。義重は厳めしげに祥介を睨んでいたが、そのうち堪えきれなくなったようにふっと笑みをもらした。
「自ら企みを白状してしまうとは律儀な男よな」
その表情にもう戸惑いはなかった。敢えて少し不安材料を与え、それをすぐに取り除いてやったことで、彼の中にあった迷いをも消し去れたようだ。
「これからお世話になろうっておかたに、隠しごとはできませんや」
「そういうことなら、殿にお目にかかれるよう計らってやろう。ただし、おぬしの思い通りになる保証はないぞ。お気に召すように、せいぜい努めることだ」
「精進いたしやす」祥介はぱっと顔を輝かせて、深々と頭を下げた。「まったく何から何までご厄介になっちまって、どうお礼を申し上げればいいものやら」
「ああ、よいよい。大げさにするな。それより、まだおぬしの名を聞いておらぬぞ」
「こいつは失礼いたしやした。生まれは王州御縁郷、木匠作太のせがれで祥介と申しやす」
「ほう、父は木匠か。なぜ跡を継がなんだのだ」
「早くに死んじまいやしたもんで」
「それは悪いことを訊いたな」
「もう昔の話でさ。おれにも、お殿さまのお名をお聞かせ願えやすか」
「おお、そうだな」
義重は形を改め、少し重々しい口調で告げた。
「泉州国主桔流和智公が直臣、椹木彰久さまだ」
「椹木、彰久さま」
祥介はその名を味わうように口の中で繰り返し、義重を見上げてにっこりした。
「天山でお目にかかるのが待ち遠しいや」
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