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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第五章 波紋
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五十九 立身国射手矢郷・刀称匡七郎 友の友

「いつお戻りになるのだろうな」

「正直おれは、もう戻って来られぬほうがいいと思う」

 午後の訓練に参加するため〈西の城〉と呼ばれる副廓へ向けて小走りに駆けていると、そんな会話が耳に入ってきた。

 そこは勾配のきつい曲がりくねった山道で、周囲は昼なお暗い原生林に囲まれており、先の見通しがまったく利かない。だが、どうやら話し手たちは同じ道の上におり、自分よりもやや先行しているようだ。そう当たりをつけて、彼らに追いつかないよう刀称(とね)匡七郎(きょうしちろう)は歩調をゆるめた。

 話されている内容に興味があったのだ。

「まあ、戻らぬほうが角は立たぬだろうな。しかし、あの御仁は恐ろしいほどに強い。戦ではまこと頼りになるぞ」

「戦は終わった」ひとりがそう言い、鼻を鳴らした。「遺恨(いこん)を生むほど強い剣術使いなど、もう当分は出番もあるまいよ」

「そもそも雇い兵が隊長を務めていること自体、おかしかったのだ。ほかに人がいないわけではなし、博武(ひろたけ)さまもいくらご友人とはいえ――」

 匡七郎の胃の()が不快に収縮した。先ほど陣屋の広間で食ったばかりの昼飯を嘔吐(もど)しそうだ。

 話しているのは第一隊の隊士たち。話題は六車(むぐるま)兵庫(ひょうご)について。それは予想どおりだった。会話の内容も想定の範囲内だが、だからといって平気で聞いていられるわけではない。

 鷹啄(たかはし)寅三郎(とらさぶろう)の一件が片付いて鉢呂(はちろ)砦へ戻ったあと、匡七郎は周囲の空気が少し変わったことにすぐに気づいた。

 砦にはここ数年、第一と第五の二隊が駐留している。片や家格が高めの上士が中心、片や下士や雇い兵が多めの隊士構成で毛色こそ異なっているものの、戦では連携して作戦に当たることも多く、両者の関係は決して悪くはない。少なくとも、あの事件の前まではそうだった。

 だが寅三郎に引っかき回されたことで、それに大きなひびが入ってしまったように思える。

 寅三郎は砦を襲撃した際に十人、逃走中に二十人、目的地の七草(さえくさ)(ごう)でふたり、合わせて三十二人を殺害した。その内訳は、立天隊(りってんたい)の関係者十四人と一般人十八人だ。

 隊では番士六人と隊士見習い三人、療師(りょうじ)ひとり、そして傷病棟にいた負傷者ふたりを含む第一隊の隊士三人と、隊長の由解(ゆげ)虎嗣(とらつぐ)が命を落とした。つまり寅三郎の蛮行の犠牲となった隊士は、()しくもすべて第一隊に所属する者だったのだ。

 そうなったのはむろん偶然だが、仲間三人と隊長までをも(うしな)った第一隊はやり場のない鬱憤を抱えており、それを要領よく無傷で――と、彼らには見えていると思われる――あの騒ぎを切り抜けた第五隊に向けることを選ぶ者も少なくなかった。寅三郎という(わざわい)を引き寄せる元となったのは六車兵庫、その彼が率いているのは第五隊ということで、親が憎ければ子も憎いの心理が働いているようだ。

 以前は第一と第五で合同訓練を行うことも多かったが、最近ではまったく誘いがかからない。こちらから誘うと、見え透いた言い訳をして断られるか、適当な返答でかわされる。食事の時にもよそよそしく離れて座るし、訓練後に一緒に酒を酌み交わすこともなくなった。

 もしこれが戦の最中であれば、どんなわだかまりがあろうとそれを押し殺し、敗北や死を避けるために連携して戦うだろう。そして共に死線を越えるうちに、心のしこりもいつしか消えていくだろう。だが無理にも手を携える機会すらない今は、どうやってほころびを修復すればいいのか見当もつかない。

 暴力沙汰はまだ起きていないが、こそこそ陰口を叩かれたり、冷ややかな視線を浴びたりし続けて、第五隊の面々もさすがにいらだってきている。寄ると触ると角突(つのつ)き合わせるようになるのも、そう遠くはないかもしれない。

「おい」

 太い声が背後からして、匡七郎は文字通り飛び上がった。

「邪魔だぞ」

 物思いに(ふけ)っていたため、背後からも人が来ていることにまったく気づかなかった。

「し、失礼――を」

 匡七郎は半身になって道を譲りながら振り向き、声をかけた人物を見た。

 唇の右側に目立つ長い傷のある、三十歳ぐらいのがっしりした男。まだ若いのに(びん)のあたりに少し白髪が交じっている。顔は知っているが名前はわからない。つまり第一隊の隊士だ。彼はふたり連れで、うしろにいる人物のほうは匡七郎にも誰なのかすぐにわかった。

 亡き由解虎嗣に代わって、第一隊の隊長に就任した玉県(たまかね)綱正(つなまさ)だ。すらりとしていて目は切れ長、ちょっと見は良い男の彼はほんの数日前に鉢呂砦へやって来たばかりだが、その時点で初対面だった者たちにも今はすでに顔が売れている。黒葛(つづら)家支族というのはそれだけで注目されるし、本人がそもそも一刻もじっとしておらず、砦じゅうを隅々まで覗いて回って積極的に注目を集めていたからだ。

 匡七郎は彼のことを何も知らないが、宿舎で同室の野添(のぞえ)保武(やすたけ)の話によると、玉県分家の安須白玉(あずしろ)県家当主輝綱(てるつな)の弟らしい。輝綱といえば、兵庫と共に七草城へ赴いて黒葛貴之(たかゆき)公に拝謁した際に〈隼人(はやと)〉を(くさ)すような物言いをしてきた、あのいけ好かない人物だ。

 それをまだ引きずっている匡七郎には玉県家というだけで印象が悪いが、綱正はこれまでは立州(りっしゅう)中部にある調月(つかつき)砦で第三隊の副長を務めていたというから、ただ家柄がいいだけではなく実力もそれなりにあるのだろう。あの由解虎嗣の後を任されたのだから、大将石動(いするぎ)博武の信任も厚いに違いない。

「見ない顔だ。第五隊の者か」

 綱正がさほど興味もなさそうに訊いた。

「はい。刀称匡七郎と申します」

「彼は雇いの新参で、第五隊の――」連れの隊士が横から教える。「隊長の六車兵庫さまの相方です」

「ほう」

 少し関心を持った顔で、綱正はまじまじと匡七郎を見つめた。

「六車兵庫とは二、三度、同じ作戦に従事したことがある。何やら大騒ぎを起こして、部隊を放り出して逐電(ちくでん)したそうだな。次の隊長はもう決まったのか」

 悪意を感じる物言いに、いら立ちをおぼえた。が、ここで腹を立ててはいけない。

「兵庫さまは戻られます」

「そうなのか。いつ」

「それは……」

 言いよどむ匡七郎を前に、綱正が苦笑をもらす。

「いつとも知れぬのなら、早く代わりの者を立てるべきだろう。統率者を欠いた部隊は荒れる。第五隊はもともと士分の割合が少ない、寄せ集めのような部隊だというし、好き勝手にさせていたらいずれ問題を起こすに違いない。おぬしにしても、兵庫が戻る確信がないなら次の相方を見つけるか、それが(いや)なら立天隊を去ることだ。斬り手と乗り手は、ふたりひと組で初めて価値が出るのだからな。そもそも――」

 決して暴論を吐いているわけではない。彼はただ率直に真実を述べているだけで、特に悪気もないのかもしれない。だが頭に血が(のぼ)るのを止めるのは難しかった。

 駄目だ。我慢しろ。怒りに任せて動くな。ほかのことを考えるんだ。

 匡七郎は自らに言い聞かせて、おとなしく話を聞いているふりをしながら心をよそへ飛ばした。

 兵庫さまはなんとおっしゃっていたっけ。しゃべっている者には隙が生じやすい――そう、そうだった。だからよく観察して、斬り込む隙を探るのだと。

 上目づかいに、匡七郎はまだ調子よくしゃべり続けている綱正をそっと見た。

 間合いが近いな。抜くなら脇差しだ。半歩退()きながら抜いて、軸足を動かさずに前へ出ながら袈裟にひと太刀。いや、むしろ空手(からて)のまま、いきなり間合いを詰めるか。そちらのほうが兵庫さまっぽい。そして相手の腰の物を奪い抜き、腹にひと突き入れる。いずれにせよ、動き出すのは相手が次の息を吸おうとする瞬間だ。

 想像の中で綱正に何度か斬りかかると溜飲(りゅういん)が下がり、腹立ちがすっと静まった。

 これはいい。次から、かっとなりそうな時はこの手を使おう。

 思わずにんまりしかけたのを歯を食いしばって(こら)えたが、ふと気づくと綱正が厳しい表情をしていた。

「わたしの話は聞くに値せぬと言わんばかりの態度だな」

 しまった。上の空なのを見抜かれた。兵庫さまの真似をするのは、ほんとうに斬る時だけにするべきだったか。

「いえ、まさか」

 殊勝な顔で(かしこ)まったが、もはや後の祭りの感がある。

「さすがにふてぶてしい」

 綱正が(けん)のある目つきをしながら、皮肉な笑みを浮かべた。

「相方同士は似るものらしいな。兵庫も慇懃と見せて、その実は傲然とした不敵な男だとわたしはいつも感じていた。どうやら、おぬしも同類のようだ。大切な役目を放棄して雲隠れするような、無責任なところも似ているのか」

 これは怒ってもいいのではないだろうか――。

 両手がゆっくりと拳を握り、次の動作に備えるように右の踵がわずかに浮いた。

 無意識に攻撃態勢を取っていることに気づかないまま、匡七郎は息を詰めてあとひと押しを待っていた。

 綱正の唇に一閃する嘲笑。兵庫を(おとし)める、さらなる雑言(ぞうごん)。それがあれば、頭を空っぽにして殴りかかっていただろう。

 だが唐突に逆上(のぼ)せが冷めた。

 綱正と連れの背後に、見慣れた一団が現れたからだ。

 がやがや騒ぎながらやって来たのは、第五隊の四つの班を預かる班長たちだった。彼らは出自も性格も違うが仲が良く、日ごろから班長同士でよくつるんでいる。

「また棋八郎(きはちろう)が大げさなことを」

「気絶するほど臭いわけがあるか」

「いやいや、嘘ではないぞ。疑うなら一度あのにおいを嗅がせて――お? なんだ匡七郎じゃないか」

 第二班の班長怡田(いだ)棋八郎が匡七郎を見つけて破顔したあと、その場の険悪な雰囲気を感じ取ったように、ちょっと居住まいを正してから玉県綱正に会釈をした。

「これは綱正さま。もしやうちの火の玉小僧が、なんぞご無礼をいたしましたか」

 綱正の眉間に皺が寄る。

「なに小僧だと?」

「ちょいと可愛い(つら)をしておりますがね――」そう言いながら、棋八郎は匡七郎の腕を掴んで自分たちのほうへ引き寄せた。「これが顔に似合わぬ短気者でして。やたらに噛みつかぬよう、兵庫さまが(しつ)けている最中なのです。じき仕込み終わるので、それまではあまり(いら)わんでやってください」

 いたずらっぽく眉を上げ、綱正をまっすぐに見てにやりとする。

「こんなものに(かかずら)って、時を無駄になさることはありませんよ。どうぞ先へお行きください。わたしどものほうで、ようく叱っておきますから」

 行け。行っちまえ。匡七郎は無の表情で念じた。おれが本当に殴りかかって、その格好いい鼻の形を台無しにする前に。

 そんな願いが通じたかは定かではないが、綱正はまだ何か言いたげにしながらも(きびす)を返した。

 やれやれ――と安堵しかけたのもつかの間、離れて行こうとした背中がくるりと振り向く。

「雇いの者を、相方のないまま遊ばせておくのは感心せぬ」

 不機嫌そうな声音だった。棋八郎は綱正をうまく言いくるめたが、いささか上手にあしらいすぎたようだ。

「事によると、わたしが使いどころを見つけてやるのが良いかもしれぬな」

 そう言い捨てて、彼は連れと共に歩き去った。

「まずいな」

 ぼんやり突っ立っている匡七郎の隣で、第四班の門伝(もんでん)丈彰(たけあき)がぽつりとつぶやいた。

「ああ、まずい」第三班の秦野(はだの)義明(よしあき)も同意してうなずく。

 匡七郎はにわかに不安が胸に渦巻くのを感じた。班長たちは、いったい何を懸念しているのだろう。

「なんです。何がまずいんですか」

「おまえ、第一隊に引き抜かれるかもしれないぞ」

 匡七郎が所属する第一班の班長、伍香(ごこう)享祐(きょうすけ)が端正な瓜実(うりざね)顔に憂慮の面持(おもも)ちを浮かべて言った。

「兵員調整のための部隊間異動は過去にも例のあることだしな」

「そんな……」

 愕然として、匡七郎はわずかによろめいた。急に脚が二本の棒きれになってしまったようだ。

「でも、おれは兵庫さまの――」

「そりゃあ、兵庫さまがいれば相方を手放したりはせんだろう」棋八郎がよく響く太い声で言った。「だが、今はいらっしゃらない。いつお戻りかもわからない。綱正さまが断固そうすると言えば、そうなってしまうだろうよ」

「気に入らぬ者を敢えて配下にするのは、うまいやり方と言えなくもない。どうとでも自分の好きなように扱えるからな」

 そうつぶやく丈彰の口調には同情がにじみ出ていた。

「あっちへ行ったら、毎日ねちねちいびられるぞ」棋八郎が脅すように言って、匡七郎の目を覗き込んだ。「そんな話が出る前に、(しか)るべき人を味方につけておけよ」

「味方?」

 玉県綱正に対抗できるほどの強力な立場を持つ〝然るべき人〟などいるだろうか。もしいるとしても、どうすれば味方になってもらえるのか。

 戸惑い顔の匡七郎を横目に見て、丈彰が肩をすくめる。

「こやつ、わかっておらんな」

真境名(まきな)(りょう)さまのことだよ」享祐が真面目な顔で言った。「おまえ〝(とら)退治〟以来、あのかたに可愛がっていただいているだろう。先手を打って加勢をお願いしておけば、もし異動を命じられても断れるはずだ」

 可愛がってもらっている――のだろうか。たしかに、彼女の負傷療養中に同宿して世話をしたあと、以前と比べてよくかまわれるようにはなった。しかし、だからといって個人的に便宜を図ってもらえるとは限らない気がする。

「はあ、燎さまですか」

 曖昧な返事をする匡七郎の頭を、棋八郎が大きく分厚い手で無造作になでた。

「しかしおまえ、よく我慢をしたもんだ。あれだけ好き放題に言われて、癇癪(かんしゃく)を起こさなかったとは驚いたぞ。もう火の玉小僧とは呼べんなあ」

 いちおう褒められているのだが、入隊間もないころに些細(ささい)なことで逆上して棋八郎らを殴ったことがある匡七郎にとっては、なんとも気まずい話題だった。

「いったい、いつから隠れて話を聞いていたんですか」

「うちの隊が烏合の衆扱いされていたあたりだな」

「じゃあ、ほとんど最初からだ。もっと早く割って入ってくださってもよかったのに」

「いい機会なので、あのかたのご存念をこっそり聞いておこうかと」いつも冷静な丈彰が、意味深に片眉を上げながら言った。盗み聞きを提案したのはこの人かもしれない。「今後の第一隊とのつき合い方にもかかわってくることだからな」

「ま、綱正さまがおまえを連れて行きそうになったら、そいつはうちの隊で飼うのがいちばんだと抗議してやるよ」

 棋八郎がにこにこしながら言って、匡七郎の眉をしかめさせる。

「飼うだの(しつ)けだのと……人を犬扱いしないでください」

「おまえは兵庫さまの忠犬シチ公だろう」

「また、そんなことを」

 からかい言葉にむっとしながらも、少し嬉しさを感じてしまったのが悔しかった。


 翌日は夜明け前から霧のような雨が降り始めた。東の空に日は出ているが、淡い灰色の雲がかかって遠くぼんやりと霞んで見える。気温が高いので、蒸し暑い一日になりそうだ。

 陣屋の出口で空を眺めたあと、兵舎のある東の副郭へ向かおうとした匡七郎(きょうしちろう)を、うしろから誰かが呼び止めた。

「おい、待て待て」

 振り向いて見れば、班長の伍香(ごこう)享祐(きょうすけ)だ。

「もう朝飯は食ったのか」

「はい。今すませて、これから居室の清掃をしに戻ろうとしていたところです」

「なら、ちょうどよかった。石動(いするぎ)博武(ひろたけ)さまが奥でおまえをお呼びだ。すぐに行け」

 ぎくりとした。めったにはない(さむらい)大将からの名指し。(いや)な予感がする。

 もしや、あの件か? まさか昨日の今日で?

「あのう、なんのご用で……」

「行けばわかるよ。ぐずぐずするな」

 享祐に追い立てられ、匡七郎は廊下を引き返して〈二ノ(むね)〉へと急いだ。しかし行きたくない気持ちが(かせ)となって、進むほどに足取りが重くなる。

 今日から第一隊へ移り、今後は玉県(たまかね)綱正(つなまさ)に従えと――もしそんなことを言い渡されたら、どうすればいいんだろう。味方を作っておくよう忠告されたが、今から(りょう)さまにお願いしに行くわけにもいかない。棋八郎(きはちろう)どのは約束どおり抗議してくれるだろうか。 

 ぐるぐると考えながら歩くうちに、気づけばもう〈二ノ棟〉の南側の小書院前まで来ていた。部屋を囲む葦戸(よしど)や仕切りの(ふすま)はすべて開け放たれており、室内の様子が廊下から見通せる。

 ふた間続きの部屋の奥側には、石動博武と真境名(まきな)燎が打ちそろって座っていた。これは予想外だ。

刀称(とね)匡七郎、まいりました」

 声をかけると、小声で何か話し合っていたふたりが同時に顔を上げた。

「待っていたぞ」博武が微笑みながら差し招く。「まあ入って、そこへ座れ」

 匡七郎は警戒しつつ次の間を横切り、小書院の入り口に近い場所へ腰を下ろした。

「なんだ、叱られに来たような顔をして」

 燎がからかうように言って、ふふふと笑う。

「叱られることをしたのか」

「していません」

 落ち着かない気分だった。ふたりの態度が妙に優しく感じられる。最悪の知らせを伝える前に、心をほぐそうとでもいうのだろうか。

 異動ですか、と訊ねたい気持ちを必死に抑えつけ、博武の言葉をじっと待つ。

「刀称匡七郎」

 燎と一緒に見ていた絵図のようなものを畳んで懐にしまいながら、博武は快活な口調で言った。

「おぬしに頼みたいことがある」

 異動ではなかった――匡七郎は安堵で全身の力が抜けるのを感じた。それ以外なら何を言われてもいい。どんな頼みでも喜んで聞こう。

「は。何なりと」

「おれを乗せて(とり)を飛ばせて欲しい。今日、これからすぐだ。所属の班長にはもう話を通してある」

 承知と即答すべきだが、あまりにも意外だったため、すぐには声が出なかった。

「何なりとと言ったわりに、(いや)そうだな」

 博武が茶化すように言う。

「い、厭ではありません。わたしでよろしければ、乗り手を務めさせていただきます」

 あわてて取り繕いながら、匡七郎はちらりと燎を見た。本来ならば、博武を乗せて飛ぶ役目は相方である彼女のものだ。しかし鷹啄(たかはし)寅三郎(とらさぶろう)との戦いで上腕骨を折る重傷を負ってから、ひと月しか経っていない。すでに固定具を外し、機能回復のための訓練にも励んでいるようだが、操禽(そうきん)をするにはまだ支障があるということだろうか。

「わたしに遠慮はいらんぞ」

 彼の視線に気づくと、燎は口角をきゅっと上げながら言った。

「折れていた骨はもうくっついたし、禽の手綱を取るぐらいはできなくもないが、腕の力が戻りきっていないので長い飛行には耐えられない。そこで、代役としておまえを()した。一度乗せてもらったからわかるが、いい乗り手だと思うし、大事な相方を安心して預けることができる」

「恐れ入ります」

 立天隊(りってんたい)最高の乗り手と言われる真境名燎の代役を務めるなど、実際(おそ)れ多いことだと思う。

「それでは乗騎を引き出すよう籠番(ろうばん)に頼んでから、一度兵舎に戻って身支度をしてまいります」

 第一練兵場で落ち合う約束を博武と交わしたあと、匡七郎は燎と一緒に小書院を出ると、そのまま連れ立って〈一ノ棟〉まで歩いた。先ほどまで彼女は呑気そうな様子をしていたが、今は少し気を張り詰めているように見える。やはり心配しているのだろうか。

「安全に飛ぶよう心がけますので」

 思わず言うと、燎ははっとしたようにこちらを見て、それから小さく苦笑をもらした。

「おまえが下手(へた)を打つとは思っていないよ」

 彼女の口調は穏やかだ。

「遠乗りの支度で行け。日帰りできない想定で、普段よりも念入りにな」

 陣屋の玄関で燎はそう伝え、奇妙に真剣な眼差しで見つめた。

「博武どのを頼んだぞ」

 ずいぶん大げさなのだなと思いつつも、匡七郎は「お任せください」と答えて彼女と別れ、灰色の雲が頭上に重くのしかかる戸外へと出ていった。

 遠乗り……そういえばさっき〝長い飛行〟と言っていた。どこへ行く予定なのか、あの時に訊いておくんだったな。

 主郭と副郭をつなぐ階段道で、頭に浮かんだのはそのことだった。

 禽で日帰りできないというと、かなりの距離だぞ。今は戦の最中ではないとはいえ、そんな遠くまで何をしに行くのだろう。いや、行った先での用事に時間を取られるだけで、距離的にはさほどでもないのかもしれない。案外、ちょっと七草まで行って甥御さまに会ってきたいとか、その程度のことなのかもな。

 あれこれ想像しながら階段を駆け下り、隊士用の兵舎が整然と建ち並ぶ東の副郭に下り立つと、そこはがらんとしていて人けがなかった。皆すでに朝の支度を終え、それぞれ当番や訓練に出払ったあとなのだ。

 匡七郎は兵舎の前を通り過ぎて、副郭の北半分を占める天隼(てんしゅん)の飼育場〈禽籠(とりかご)〉へ向かった。木立を抜けた先に大きな沼があり、天隼を飼う禽舎(きんしゃ)群はそれをぐるりと囲むように建てられている。ちょうど今その水辺で、三羽の(とり)飛沫(しぶき)を上げながら翼を羽ばたかせていた。個体差はあるものの、基本的に禽は水浴びをするのが大好きで、天候や気温にかかわりなく毎日でも水に入りたがる。

 そちらへ近づいてみると、禽の世話をする籠番(ろうばん)がひとり、豪快な水浴びを岸から見守っていた。自らも水滴を浴びせられてびしょ濡れになっているが、さほど気にしていないようだ。

 彼は足音に気づくと、すぐにこちらへ駆け寄ってきた。

「ご用を承ります」

「第五隊、六車(むぐるま)組の乗騎を出してもらいたい」

「承知いたしました」

 若い籠番はさっと頭を下げると、禽舎のほうへ戻っていった。こうして頼んでおけば、手綱や鞍、腹帯などの装具をつけ、あとは飛ぶだけという状態にして離発着用の広場へ引き出してくれる。

 匡七郎は兵舎のほうへ引き返すと、まず(かわや)で用便を済ませてから、自室に入って手早く身支度を整えた。

 禽に騎乗する際は小袖と袴を着用して、革籠手(ごて)(すね)当てで腕と下肢を覆い、革足袋(たび)草鞋(わらじ)を履く。乗騎に負担をかけないため、重量のある具足は身につけない。

 遠乗りの場合はたいてい小袖の下に下着を二枚重ね着して、袴の下にも厚めの股引(ももひき)を履くが、これは防寒のためだ。たとえ真夏でも、高高度を高速で飛行していると想像をはるかに超えて体は冷える。匡七郎はしっかり着ぶくれしたあと、少し考えてから使い古しの手ぬぐいを出して首元に巻き、最後に上帯を締めて二刀を差した。彼の本来の得物は槍だが、飛行中に風の抵抗を受けすぎて危険なため、長物の武器は帯びない決まりになっている。

 黒絹の長袍(ちょうほう)をつけて兵舎を出るころには、もう背中が汗で湿り始めていた。重ね着のせいで蒸し暑さがいっそう耐えがたく感じられる。だが飛び始めてしまえば一刻と経たないうちに、着込んでおいてよかったと思うのは経験上わかっている。

 匡七郎は山腹を回り込む旧道を通り、第一練兵場のある北の副郭へ上がっていった。森を切り開いて平らに(なら)した広場には、先ほどの籠番がすでに来て乗騎を待機させている。彼に礼を述べてから禽の傍でしばらく待っていると、博武が袍の裾を(ひるがえ)しながらやって来た。そのうしろに粛然と付き従う、とぼけた澄まし顔の四十男は久喜(ひさき)伝兵衛(でんべえ)だ。従者のくせに主人にずけずけ物を言うことで知られている彼は、匡七郎の前までまっすぐに歩いて来ると、腰を低くして腕に抱えていた小荷物を手渡した。

水筒(みずづつ)と三日分の食料です。この時期ですので、握り飯は傷みだす前に早めにお召し上がりください」

 ありがたく受け取ったものの、頭には疑問が湧いた。西峽(せいかい)南部には天翔隊(てんしょうたい)の偵察分隊である〈天眼(てんがん)組〉の拠点や、黒葛(つづら)家支配下の山城、砦などが各地に点在している。てっきり遠乗り中はそれらを利用して食事や休息を取るものと思っていたが、立ち寄らないつもりなのだろうか。

 持てるだけの食料を携えて行くなど、当てのない旅にでも出るかのようだ。

「よし、行こう」

 博武は歯切れよく言うと、さっと後鞍(あとぐら)に跳び乗った。

 あわてて匡七郎も前鞍にまたがり、手綱を調整して離陸準備をしていると、主郭のほうから玉県(たまかね)綱正(つなまさ)がぶらぶらとやって来た。昨日と同じ、顔に傷のある隊士を腰巾着よろしく従えている。

「やあ大将どの」

 彼は禽の脇まで来て足を止めると、愛想よく微笑んで見せた。

「お出かけかな。どちらへ」

 ついでなので訊いておこうといった口調だが、匡七郎には彼が詮索がましい目をしているように感じられた。

江州(こうしゅう)だ」博武がこだわりなく答える。「御屋形さまの新たな知行(ちぎょう)地に、近々(ちかぢか)立天隊の第四の拠点を設けようと思っている。すでにいくつか候補地が上がっているので、この機会に実際に禽で行って見てこようかと」

 なあんだ、そういうことかと匡七郎は思い、綱正も同様に思ったようだった。

「ああ視察か。それはご苦労さま」

「数か所まとめて回ってくるので二、三日かかる。不在中は万事、真境名燎の指図に従ってくれ」

 匡七郎はまたからまれない用心のため綱正のほうは極力見ないようにして、博武から合図があるとすぐに禽を離陸させた。

「北東へ向かえばよろしいですか」

 問いかけると、博武は後鞍に尻を下ろして居心地よくしながら答えた。

「とりあえず北へ直進でいい」

 直進では七草(さえくさ)家の領空から外れるのではないかと思ったが、匡七郎は黙って従った。江州内は現在すべて黒葛家の支配下にあるので、少々外れて他領に侵入したところで問題にはならないのだろう。

 しかし、しばらく飛んで鉢呂(はちろ)砦から視認できなくなったと思われるあたりへ来ると、博武は急に(いぬい)――北西の方角へ方向転換を命じた。これでは領空を外れるどころではなく、完全に真逆へ行くことになる。

 つまり彼は、綱正に対して飛行の目的を(いつわ)ったのだ。

 ただの視察のお供などおもしろくもないと思ったが、俄然謎めいてきた。これが兵庫ならば目的を明かしてくれるまで質問攻めにするところだが、相手が博武ではさすがにそんな真似はできない。匡七郎は破裂しそうな好奇心を必死になだめ、努めて平静を装いながら操禽(そうきん)に集中した。

「疲労が溜まったら、いつでも交代するぞ」

 どこかのはげ山の頂上で一度目の休息を取った時に、博武は塩昆布を混ぜてある握り飯を頬張りながら言った。

「遠乗りは通常の飛行の何倍も疲れるからな。日ごろ乗り手をやっているおぬしほどではないが、おれも禽を操るのは下手(へた)なほうではない。少なくとも兵庫よりは上手(うま)いはずだ」

 匡七郎は興味を引かれ、口の中の飯粒を急いで呑み込んだ。

「兵庫さまは下手ですか」

「下手だし、雑だ」博武が言下に断言する。「あいつは操禽を技術的にしか理解していないし、そもそも(とり)()じけさせる。隊士候補だった時分から、兵庫に乗られた禽は借りてきた猫のようになるのが常だった」

 言われてみれば、兵庫を乗せているといつも禽は少しおとなしく、行儀よくなる。その点は自分も同じだが、べつに兵庫を恐れているわけではない。

「何が怖いのでしょう」

「さあ、何だろう。あの強面(こわもて)(いか)つい雰囲気のせいで、雷獣か何かを乗せている気分にさせられるのかもしれない」

 博武が真面目くさって言い、匡七郎は思わず吹き出した。

「怪物扱いはひどいですよ」

 はげ山を飛び立ったあとも、さらに北西へ向けて進み続けた。

 出発当初からずっと、左手方向の眼下には巨大な竜のような山脈が長々と横たわっている。立州(りっしゅう)三州(さんしゅう)、江州、王州(おうしゅう)の四州にまたがる津々路(つづろ)連峰だ。その尾根を見下ろしながら飛んでいるあいだは現在位置を把握できていたが、途中から次第に南へ遠ざかってゆき、ついに見えなくなったところで自分がどこにいるのかまったくわからなくなった。あとはただ、地理が頭に入っているらしい博武の指示通りに飛ぶのみだ。

 その日は長短の休息を挟みながら日暮れまで飛んで距離をかなり稼ぎ、地形を目視できなくなったところで古い砦跡がある小山に降り立った。楕円形に整地された頂上には樹木や下草が乱雑に生い茂っているが、半壊した木造の陣屋や物見(やぐら)砦柵(さいさく)などが残っており、まだ曲輪(くるわ)の雰囲気をわずかに留めている。使われなくなって二十年といったところだろうか。

 陣屋は倒壊の危険があるので、博武と匡七郎は曲輪の南側の井戸跡付近で露営をすることにした。さしあたり雨の気配はなく、夏の盛りなので夜になってもほどよく暖かい。焚き火を囲めば心地よくひと晩過ごすことができるだろう。

 薪を取って草を刈り、火の支度を終えるころには、空に満天の星が輝いていた。

「博武さまは、兵庫(ひょうご)さまといつ知り合われたのですか」

 残しておいた握り飯と梅干し、(ふき)の煮付けで晩飯を済ませたあと、焚き火に枝をくべながら匡七郎がふと訊ねると、博武は鷹揚に微笑んで教えてくれた。

皇暦(こうれき)四一〇年。黒葛家が立州に版図(はんと)を広げ、守笹貫(かみささぬき)家との戦が勃発(ぼっぱつ)したあの年だ。七草城下で兵庫と出会ったのは、たしか五月の半ばだったな」

「わたしも同じころです」

 そこから話を突き合わせていくと、ふたりが兵庫と初めて出会ったのは完全に同じ日だったことが判明した。まず匡七郎が道場の前で彼に声をかけられ、その半刻後に博武が城下で声をかけたという流れだ。

「友人とは聞いていたが、そんなに長いつき合いなのか」

 博武は愉快そうに笑った。

「当時、おぬしは七つぐらいか?」

「八歳でした」あのころを思い出すと、懐かしさが胸にこみ上げる。「いま思うと、よくあんな生意気な洟垂(はなた)れを友人扱いしてくださったものです」

「兵庫は年齢になど頓着せぬだろう」

「たしかに……。博武さまは、なぜ見知らぬ相手にお声をかけられたのですか」

 博武は水筒の水を口に含んでちょっと考え、それを飲み下してからゆっくりと答えた。

「何か気になったから――かな。城下で見かけた時、兵庫は外堀にかかる木橋のたもとから山上の天守を見上げていた。異国ふうの風貌に、あの体躯と上背だから、正直かなり目立っていたな。それを別にしても、あいつには何か独特の雰囲気を感じたし、このまま見過ごせないという気持ちにさせられた」

「警戒したということでしょうか」

「いや、警戒ではない。悪人だとはまったく思わなかった。ただ直感的に、かかわりを持っておくべき者だと感じたんだ。それで話しかけてみたら、おもしろいやつだとわかったのでさらに興味を引かれた」

「おもしろい、ですか」

「自分で言うのもなんだが、おれは南部ではよく知られた旧家のせがれだ。初対面の相手に石動(いするぎ)と名乗れば、たいていの者は機嫌を取り、己を売り込もうとしてくる。黒葛家支族と(よしみ)を通じておいて損はなかろうという計算が働くからだ。まして我が家は今、主家と姻戚関係にもあることだしな。だが兵庫はそれと知ってもまったく(おもね)る様子がなく、おれが話せば熱心な聞き手となるが、自身のことはほとんど語ろうともしなかった。そこが変わっていて、おもしろいと思ったんだ」

 博武は兵庫とは違って、水を向ければいくらでも昔語りをしてくれる。初めは身分を考えていくぶん遠慮をしていたが、途中からそれも忘れて、あれもこれもと兵庫との思い出話をねだってしまった。そこからわかったのは、ふたりの親交は表面に見えているよりもずっと深かったということだ。

 その夜は見張りを交代しながら睡眠を取り、翌朝は日の出る前に起き出して砦跡を飛び立った。

「進路は、まだ(いぬい)のままですか」

 早朝の空気にかじかむ手で手綱を取りながら訊くと、博武は「そうだ」と短く答えた。

 相変わらず現在位置は把握できていないが、ここまでの飛行時間と航路から考えれば、そろそろ江州(こうしゅう)を出ようかというあたりまで来ているのはわかる。匡七郎はあらためて、この遠乗りの目的は何なのだろうと考え始めた。

 そんな彼の心を読んだように、後鞍にうずくまった博武がつぶやく。

「どこを目指しているのかと、一度も訊ねないな」

 どきりとした。

「もう近いから明かすが、じきに国境(くにざかい)を越えて王生(いくるみ)国へ入る。そのあと一刻ほど進路を維持したまま飛ぶと——どこへ着くかは言わずともわかるな」

天山(てんざん)、ですか」

 予想はできたが、まさかと思っていた。

王州(おうしゅう)の領空に侵入して、その……問題はないのですか」

「問題はある」博武はあっけらかんと言った。「だから王州内では高めに飛んで、下から姿を見られぬようにしたい。国境を越えたら、念のために袍も脱ごう。これをつけていると立天隊の者だと宣伝するようなものだからな」

 彼が落ち着き払っているのとは逆に、匡七郎は心が乱れるのを感じた。

 大皇(たいこう)――現在は三廻部(みくるべ)勝元(かつもと)――の領国である王州は敵国でこそないが、だからといって外様(とざま)の黒葛家が許可も得ず無遠慮に踏み込んでいい場所でもない。立天隊とばれてはまずいと言うからには、博武もよくわかっているはずだ。にもかかわらず、なぜこんな危険を冒すのだろう。

「心配するな。単騎で天山に戦を仕掛けたりはしない」博武は含み笑いをして、強張(こわば)った匡七郎の背中を優しく叩いた。「ただ、ちょっと見てきたいだけだ」

 ちょっと見てきたい? そんなことのために、こんな途方もない遠乗りをしてはるばる王州まで?

 訊き返したい気持ちをぐっと(こら)えて、匡七郎は神妙に口をつぐんでいた。

「ひとりで来ればいいようなものだが、単独でこれほどの距離を遠乗りするのはおれには無理だ。個人的な用向きにつき合わせて、おぬしにはすまないと思う。しかし、この件はほかの者には頼めなかった」

 博武は匡七郎の背に手を触れたまま、誠実さを感じさせる低く穏やかな声で言った。

「兵庫と燎が信ずるに足ると認めたおぬしを、おれも信頼している」

 ずるい人だと思った。その名を出されたら逆らえないではないか。

 ともかく、これでひとつはっきりした。博武は、この遠乗りで実際はどこに行き何をしたのか、現時点では立天隊の仲間にすら知られたくないということだ。おそらく新参雇い兵ごときには窺い知れない、政治的な事情がからんでいるのだろう。

 何も知らないまま利用されたことに不満を感じなくもないが、口止めなどされなくともこの件を誰かに話したりする気はなかった。彼には兵庫の話をいろいろ聞かせてもらった恩もある。

「あそこに国境の関が見える」

 しばらくして博武に教えられ、禽の首の脇から下を覗いてみると、街道と(おぼ)しき太い道と川が交差した場所に堅牢そうな関所の建物群を望むことができた。地表は遠く、少し黒ずんだ色をして見える。昨夜のうちに、このあたりに雨が降ったのかもしれない。

 そこから高度を上げて一刻近く飛び続けると、たおやかに起伏する広大な緑野の中に大陸最高峰〈天山〉がその威容を現した。

 均整の取れた美しい円錐形の輪郭。どこまでもなだらかに広がる裾野。見る人に畏怖の念すら抱かせる桁外れの雄大さ。何もかも、幼いころから話に聞いていた通りだ。

 匡七郎は我知らず感動をおぼえながら、手綱を絞って禽を上昇させた。天山の上空には少し雲が出ており、その中にうまく姿を隠せそうだ。

「ご覧になれますか」雲に入ってから背後を窺うと、博武は鞍の上に片膝立ちをして眼下の風景に見入っていた。「もう少し下げたほうが……」

「いや、見える。このまま、頂上の曲輪(くるわ)の上を大きく旋回してくれ」

 匡七郎は言われたとおりにして、(いただき)に建つ大皇の居城を自分も眺めたいという欲求に抗いながら、抜かりなく周囲の警戒に努めた。見えにくい場所にいるとはいえ、曲輪の外周に何基も建つ物見(やぐら)から誰かに発見されない保証はない。もし見つかったら大ごとになるのは間違いないだろう。

 兵庫とふたりでの単独騎行では、あまり感じたことのない心許(こころもと)なさを感じた。博武を信用していないわけではないが、一度も戦闘や訓練を共にしていないにわか仕立ての相方とでは、万一の時に連携できないのではという不安がある。

 気の張る時間は実際よりも長く感じるもので、ようやく博武から「よし、もう行こう」と声がかかった時には、半刻ほども緊張を強いられ続けていたような気分になっていた。

「江州へ向けて戻ればよろしいですか」

「その前に、山の南側に見えるあの川に沿って、少し低く飛んでくれ」

「承知」

 すぐに応じて禽首(きんしゅ)を南へ向けたものの、彼の意図が読めずに戸惑いを感じた。何の変哲もない川に、いったいどんな用事があるというのだろう。

 天山の大外堀(おおそとぼり)を眼下に見ながら通り過ぎ、指定された川の上空に位置取って滑空していると、ある地点で博武が鋭く声を上げた。

「そこだ」

 これまでに聞いたことのない、(きし)むような声音だった。

「川(みなと)が見えるか。もっと下げて、あれの上を何周かしてもらいたい。できるだけゆっくりとな」

 見下ろすと、たしかに川湊らしき桟橋が見えた。いま係留されているのは小舟が一(そう)だけで、あたりに人影らしきものはない。船着場から上っていった土手には、淡紅(たんこう)色の花をつけた背の高い木がずらりと並んでいる。

 匡七郎は注文どおり禽をゆるやかに旋回させて、二周目に入った時にようやく〝それ〟に気づいた。

 草がびっしりと生い茂った土手の一角に、土の色が見えている場所がある。そこには小さな塚が築かれ、大きさのそろった石できれいに囲まれていた。天門(てんもん)神教(しんきょう)の流儀で埋葬された、誰かの墓のようだ。

 博武さまのお知り合いの墓が、王州のこんな場所に? しかもまだ新しい。

 不思議に思いながら目をやると、博武はまるで別人のような陰りのある表情をしていた。(まばた)きひとつすらもせずに、質素ではあるが美しく整えられた墓所を凝視している。

 彼にとって特別に思い入れの深い誰かがあそこに眠っていることは、訊ねるまでもなく明らかだった。

 声をかけるのも(はばか)られて、匡七郎は何も言わずにもう二周した。そうして、さらに周回を重ねるか思案しかけたところで、博武の手がそっと肩に触れるのを感じた。

「もう充分だ」静かな声だが、聞くだけで胸が詰まるような切ない響きがある。「人に見られて騒ぎになる前に行こう」

「よろしいのですか」

 思わず訊いた。本心では、まだまだ名残惜しいのではないだろうか。

「いいんだ。行ってくれ」

 肩に置かれた手に少し力が入る。

「承知」

 すかさず禽首を上げ、一瞬で高く舞い上がった。しかしそのまま行かず、最後にもう一度だけ塚の真上を大きく回る。余計なことかもしれないが、そうせずにはいられなかった。

「では江州へ向かいます」

 一周し終えると、自分も少し後ろ髪を引かれる思いでその場を後にしながら、匡七郎は肩越しにちらりと博武を見た。彼は鞍から身を乗り出して、まだあの塚の方向を食い入るように見つめている。

 その横顔は悲しげだったが、瞳には何か決意を新たにしたかのような強い光が宿っていた。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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