五十八 王生国天山・白須美緒 蛇
また月が替わり、観月となった。
天山は短い夏の盛りにあり、例年にない厳しい暑さが続いている。風を通す薄く軽い衣装を着ていても、少し歩いたり動いたりするだけで汗が出て布が背に貼りつくほどだ。
空は今日も朝から晴れていたが、二の曲輪御殿の別邸〈芳松館〉の一室で縫い物をする白須美緒の心は鬱々として晴れなかった。
寝ても覚めてもその身を案じ続けている最愛の人、石動元博から未だに音沙汰がない。
美緒は彼が水月十六日の早朝に天山の外へ逃れたことを知っており、その足で故郷の三皷国狩集郷へ向かったものと考えていた。距離にして二百里以上はあると聞くので、何の問題もなく旅をできたとしても到達までに二十日あまりはかかる。重い傷を負って、衰弱していたという元博には耐えがたいほど過酷な旅路となり、さらに日数を要したことだろう。それでも、あれからもう五十日が経過しており、今ごろは実家へ帰り着いて心身の回復に努めているに違いない。
すぐには無理でも、少し落ち着けば必ず連絡をくれるはず。その確信を心の拠り所にして、美緒はつらく寂しい日々をなんとかやり過ごしてきた。しかし最近では、ただ待つだけの身があまりにもどかしく、自分からも何かできればいいのにと繰り返し考えてしまう。
輝きの季節である夏が、これほど暗く重苦しく感じられるのは初めてのことだ。
彼女は小袖の裾縫いを続けていた手を止め、ふっと息をついて部屋の外へ目をやった。
庭先の植え込みの一角にクチナシの木があり、日を受けて白く輝く花が甘い芳香を漂わせている。前に元博が好きだと言っていた花だ。花はみな好きだが、クチナシは可憐で特に好ましく思うと。その香りを胸いっぱいに吸い込んで、美緒は視線を上へと転じた。
目にしみるような紺碧の空。
人と人とがどれほど遠く隔たっていても、頭上にはひと続きの同じ空が広がっている。そのことにわずかながら慰めを感じる。
あのかたもいま、この空を見上げていらっしゃるかしら。そして、ほんの少しでもわたしのことを思ってくださっているかしら。一夜で王生国の端まで飛ぶという天隼のように、わたしも大きな翼を広げてあのかたのところまでまっすぐ飛んで行けるならいいのに。
「寂しいですね」
ふいに声がして我に返ると、侍女仲間の織恵香穂と目が合った。彼女は桔流家の主席家老である織恵國房の孫娘で、美緒よりも三つ年下の二十三歳。十九で夫と死別して実家へ戻されたあと、しばらくは主家の奥方に仕えていたが、三年前に桔流和智公の推薦で慶城の奥御殿へ上がった。沙弥姫の侍女になったのは、つい最近のことだ。
立ち居振る舞いの上品な女性で、勤めぶりは真面目のひと言に尽きる。いつもひとり黙々と働き、あまり笑顔を見せることもないので、同僚の中には〝つき合いづらい〟と言って煙たがっている者もいるが、美緒は彼女に対して悪印象は抱いていない。ただ自身が内気な質なので、これまでうまく話しかけることができずにいた。
彼女のほうから会話を振られて嬉しいが、やや緊張も感じてしまう。
「ほんとうに寂しいものですね。恒例の行事が何もない夏というのは」
香穂は普段どおりの静かな口調で、そっとつぶやくように言った。
〝寂しい〟は自分の心を見透かされたわけではなく、彼女自身の気持ちを表した言葉だったようだ。つき合いの浅い人にまで察せられてしまうほど、内心の思いが外に出てしまっていなくてよかった、と美緒はひそかに胸をなで下ろした。
「そうですね」
行事などどうでもいいが、それはおくびにも出さず無難に同意を示す。
「あの恐ろしい事件以来、御殿の中も火が消えたようですし」香穂は器用な手で針と糸を操りながら言った。「行事どころではありませんけれど、姫さまや大皇妃陛下のお気持ちが少しでも上向くようなことが何かないものかと……つい、そんなことを思ってしまいます」
真名妃は貴昌君の死の衝撃からまだ完全に立ち直ってはいないものの、一時期に比べるとかなり気力を取り戻している。相変わらず本御殿には戻らず、夫の大皇にも会おうとしないが、奉公人や訪問客を遠ざけることはもうしなくなっていた。
しかし沙弥姫は今もまだ人と会うことを嫌い、この〈芳松館〉に引きこもっている。いつも悲しげで食欲がなく、近ごろはどことなく影まで薄い。そんな彼女を元気づけたいのは、美緒も同じだった。
「あの……じつは今日、午後に桔流さまのお屋敷へ伺おうと思っているのです。姫さまが、貴昌君の可愛がっておられた猫を譲り受けたいとおっしゃるので」
美緒が打ち明けると、香穂はふっと目元をなごませた。
「それはよろしいですね。小さい生き物がそばにいると心が慰められますもの。白雪はもう老猫ですから、そこは少し気がかりですけれど、細やかにお世話をして長生きしてもらいましょう」
貴昌の愛猫の名を自然に口にした彼女に、美緒は前から気になっていたことを訊いてみたくなった。
「香穂さんは南部衆と、ご生前に面識がおありでしたか?」
「はい。わたしは泉妻国の織恵家本家で産まれましたが、十歳になると祖父の計らいで桔流さまの天山屋敷へ行儀見習いに上がりました。その翌年に黒葛家のかたがたがおいでになり、十六歳で嫁ぐまでの五年間は同じ敷地内に住み暮らしておりましたから、南部の皆さまのことはよく存じております」
香穂は声に懐かしさをにじませながら話した。
「お目にかかるのは主屋へおいでになられた時ぐらいでしたが、貴昌さまはわたしを織恵の孫とご存じで、廊下などで見かけるといつも優しくお声をかけてくださいました。随員の皆さまもそうです。ほんとうに気さくなかたばかりで」
元博さまも――かしら。
そんな心のつぶやきが聞こえたかのように、香穂が少しいたずらっぽい目になる。
「石動元博さまも、ですよ」
思わずはにかんだ美緒を微笑みながら見つめたあと、彼女はふと物思わしげな表情になった。
「わたしなどが申し上げるのも失礼かとは存じますが、ご無事でいらっしゃることを願っております」
美緒ははっとなり、膝の上で両手を握り合わせた。
「お気に懸けてくださり、ありがとうございます」
「先月末に祖父を見舞ったところ、やはり元博さまのお身をたいそう案じておりました」
「お見舞いというと、國房さまはどこかお加減でも?」
「いえ、そういうわけでは。大皇妃陛下や沙弥さまと同じで、気鬱の病とでも申しましょうか。祖父は貴昌さまのお人柄をとても愛しておりましたので、亡くなられたことを知って以来すっかり気落ちしてしまいまして」
美緒から見た織恵國房は厳格そうで近寄りがたく、挨拶を交わすのにも緊張せずにはいられない老人だ。しかし貴昌が幼いころから彼に囲碁や将棋を教わり、〝わたしの盤上の遊の師匠〟と呼んで慕っていたことも知っている。人質とその預け先の家老という立場上、遠慮がちではありながらも、ふたりは温かな友情を築いていたようだった。
今日までそこには思い至らなかったが、考えてみれば國房老が貴昌の悲惨な末路に心を痛めていないわけがない。
「桔流家の皆さまは、十二年間も黒葛家のかたがたを預かっておいでだったのですものね」
美緒のため息まじりの言葉に、香穂がこくりとうなずく。
「和智公も、このたびのことはずいぶん堪えておいでのようだと祖父が申しておりました。きっと椹木彰久どののように、お役目がら南部の皆さまとかかわりの深かった人たちも同じでしょう」
南部衆の筆頭世話役とでもいうべき椹木彰久のことは、美緒も当然知っていた。個人的なつき合いはないが、名前を聞けばすぐにもあの理知的な顔つきが目に浮かぶ。彼は物腰がやわらかく穏やかで、いつもかすかな笑みを唇に湛えており、美緒を臆させる類いの男臭さとは無縁の人物だった。にもかかわらず、彼女は昔から彰久のことがなんとなく苦手だと感じている。
そして元博も、実のところは彼をあまり好いておらず、いくらか警戒心さえ抱いているように見えることがあった。
元博が誰かを好きな時はすぐにわかる。彼は好意を隠せない性分で、その人を語る際の目の輝きに、笑みを形作る唇に、言葉だけでは表現し足りないかのように動く両手に、いつだって気持ちがあふれ出てしまうのだ。
美緒は出会って間もなくそのことに気づき、貴昌や随員仲間へ向ける彼の愛情を知ると同時に、それらの人々ほどには愛や信頼を寄せてはいないと思われる人もいることを自ずと悟った。
そのひとりが椹木彰久だ。
思えば元博は会話の中で彼に触れる時、どこか用心深い口ぶりになるのが常だった。
そういえば、あの時も――。
事件の前に最後に三の曲輪で会った日、彼は何かの話のついでのように美緒に奇妙な質問をした。
彰久どのは亜矢姫とも親しくなさっておられるのでしょうか、と。
決して問い詰めるような口調ではなかったが、なぜか慎重に言葉を選んでいる気配があり、普段の彼の話し方とは異なっていたので印象に残っている。
元博はあの時、亜矢姫の取り巻きのひとりである杵築正毅が彰久と会っているところを偶然見かけたと話し、さして深いつながりはなさそうな三者の関係性を気にしている様子だった。
わからないのは、なぜ彼がそのことを美緒に訊ね、彰久に直接訊こうとしなかったのかということだ。そうできないほど無遠慮な質問とは思えない。訊かれた相手が困惑したり、答えあぐねたりするような内容でもない。
しかし元博は、敢えて彰久に質問することを避けた。三人の掛かり合いに自分が関心を持っていると、当人たちに知られることを嫌うかのように。
あのあと求婚されて舞い上がり、質問のことはすっかり意識の片隅に追いやってしまっていたが、今日まで忘れずにいたということは当時から何か違和感をおぼえていたのだろう。
もしかすると、彼は貴昌の身に何かが起こりそうだと予見して、それを回避できるようにひそかに情報を集めていたのかもしれない。
そこまで考えて、この暑さにもかかわらず悪寒が走るのを感じた。
もし想像どおりであるならば、元博は事件が起こるよりもずっと前から亜矢姫や彰久、杵築正毅に疑いの目を向けていたことになる。貴昌に危害を及ぼす、あるいはそれに加担する可能性のある人物として。
ならばやはり、当初から城内で臆測されていたことは事実なのだろうか。父親の決めた結婚を嫌う亜矢が貴昌を亡き者にしようと、あの襲撃を企てたというのは。そして杵築正毅も、襲撃の場にいなかったというのは虚偽の証言で、実際はかかわっていたのか。
でも、だとすると――美緒は頭の中で、誰にともなく問いかけた。椹木彰久どのは? あのかたは何のために、どんな形で事件に関与したというのかしら。長年にわたり黒葛家のご一行を、誰よりも親身になってお世話なさっていたのはあのかたなのに。
ぬるい汗が額にひと筋流れ、無意識にそれをぬぐいながらふと顔を上げると、香穂が目に不安を湛えてこちらを見ていた。
いけない。話の途中だというのに、物思いに耽って黙り込んでいたわ。
「し、失礼しました。彰久どののお名前が出たので、そこからつい元博さまのことに思い及んでしまい――」
彼女があわてて謝ると、香穂は鷹揚にうなずいて理解を示した。
「大切な人の安否が気にかかっている時は、誰しもそうなるものですわ」
「あの、先ほどのお話……椹木彰久どのも、やはり今回のことでは心痛なさっておられるのでしょうか」
おかしな質問をすると訝られたかもしれない。言ったあとで一瞬ひやりとしたが、香穂は何も感じてはいないようだ。
「ご本人から伺ったわけではありませんが、そうだと思います。これは、昔わたしが見聞きしたことなのですが――」
そう前置きして、彼女は黒葛家の一行が天山に来たばかりのころに起きたことを美緒に話して聞かせた。
南部州の後見役となった和智公は、貴昌らを住まわせるために自邸の庭園内にある離れ家〈賞月邸〉を念入りに整備させ、女手が必要だろうと配慮して主屋から女中を何人か行かせていた。そうした女たちが、到着した一行の飾り気のない装いを見て垢抜けない田舎者と見下し、何か心ない陰口を叩いたらしい。
それをたまたま耳にした彰久は、不作法な女中たちを主屋の厨に呼びつけると、ほかの奉公人が見ている前で叱責した。
「ただ叱っただけではなく、顔を殴りつけたのです。それも倒れ込んでしまうほどに激しく」
「そんな」
美緒は動揺のあまり、思わず絶句してしまった。
「わたしは配膳の手伝いをしながら板間から見ていたのですが、それはもう驚きました。日ごろあんなに穏やかで物静かな人が、まさか女を殴るだなんて思いませんもの。でも彰久どのは烈火の如く怒っていて、厨じゅうが静まりかえってしまったことにも気づいていないようでした」
その時に彼が言ったことを、香穂は今もはっきり覚えているという。
「彰久どのは居合わせた全員に対して、離れ家においでの高貴なかたがたは、御屋形さまの大切なお客人であると心得よと厳しい口調で命じました。我ら奉公人の非礼が憎悪を招く元となり、のちのち当家が黒葛家より怨恨を抱かれるようなことは断じてあってはならぬのだと」
「のちのち……」
なんだろう。なぜか妙に気にかかる言葉だ。
「その後も彰久どのは陰になり日向になり、ご一行が心地よく暮らせるよう心を尽くしてお世話をしていました。主家の立場を第一に考えてのことでしょうけれど、ご一行への好意も、それは間違いなくあったとわたしは思います」
黒葛家から人質を取ったのは大皇。桔流家は下命あって預かっただけ。だから、ひとくくりにして敵視されたくないという理屈はわかる。
でも、のちのち――とは。
美緒は引っかかりを感じながらも、言語化できないそれをひとまず心の中に留めておき、話を聞かせてくれた香穂に礼を述べてからまた仕事を再開した。
久しぶりに訪れた三の曲輪では、頭がくらくらするほどの暑さに出迎えられた。道の両脇に建ち並ぶ家々の外塀は容赦ない昼の日差しに炙られて、それ自体も熱を放っているようだ。白く乾いた曲輪道に吹く風は老女の吐息のようにか細く、涼をもたらすどころか、わずかな砂塵を巻き上げる力すらもない。
下男が引く馬の背に揺られ、美緒は日射を遮るために深くかぶった被衣の下からじっと道を見つめていた。
もうすぐ〝あの場所〟。
そう思っただけで、暑さとは無関係な汗が肌の上ににじみ出た。
黒葛家のご一行も〝あの夜〟ここを通られた。曲輪門を抜けて、行き交う人の姿もない深夜の曲輪道に下り立ち、すぐ先に見えている桔流邸へ向けてまっすぐに。
そして雑木林の前に差しかかった時――。
左手に鬱蒼と暗い木立が現れると、そこを通り過ぎるまでのあいだ、彼女は顔を伏せて目を閉じていた。道にはもうわずかな痕跡すらも残されてはいないだろうが、交誼を結んだ人々が無慈悲な蛮行の犠牲となった場所など、とてもまともには見られない。
「お嬢さま」
下男に声をかけられて瞼を開けると、もう桔流家天山屋敷の門前まで来ていた。
猫を引き取る件は和智公から直に許可を得ており、本日訪問することも事前に伝えてある。そのため番士も心得ていたようで、名前を名乗るとすぐに取り次いでもらえて邸内の一室へ通された。あとは、奥向きを取り仕切っている侍女頭の衣恵という人が来て対応してくれるという話だ。
ところが、部屋へ現れたのはその女性ではなく椹木彰久だった。
まあ、どうしましょう。
にわかに戸惑いと緊張に支配され、美緒は口の中がからからになるのを感じた。
元博さまが疑いの目を向けていたかもしれない人。あの恐ろしい事件に、何らかのかかわりを持ったかもしれない人。たまたまそんなことを考えた日に、まさか当人と顔を合わせることになるなんて。
「暑い中を、わざわざお運びいただき痛み入ります」
彰久は彼女の前に腰を下ろすと、そう言って微笑みを浮かべた。暑さを口にしながら、自身は涼風に吹かれているような顔をしている。
「ご多用中のところ、お邪魔をいたしまして申し訳ありません」
どうにか吃らずに言えたが、もともと男性を前にすると気後れしてしまう性質でもあり、無意識に表情が硬くなるのは如何ともしがたい。
「本日は猫を……」
「はい。白雪はじきに、衣恵どのが連れてまいります。あいにく少し取り込んでいるようですので、お待たせしているあいだにひと言ご挨拶をと思いまして」
「それは恐れ入ります」
「しかし、お申しつけくだされば当方よりお届けに上がりましたものを」
どきりとした。親切心から出た何気ない言葉なのかもしれないが、ある思惑があって自ら足を運んだことを見抜かれている気がする。
「じつは、あの――少々お伺い……いえ、お願いしたいことが」
このぐらいのことで、おたおたしては駄目。しっかりしなければ。
「猫の引き取り以外にも、何か当家にご用がおありだったのですね。わたしでよろしければ伺いましょう」
にこやかに申し出られて、美緒の心は揺れた。
本音を言えば、この件はほかの誰かに――もっと気持ちを落ち着けて話せる人に頼みたい。だが、ほんとうは彰久に頼むのが最善であることもわかっている。この屋敷の中で、彼以上に南部衆に関することを把握している人物はいないに違いないからだ。
美緒は何度も唾を飲み込み、意を決して顔を上げた。
「不躾な質問で恐縮ですが、黒葛貴昌さまや随員のかたがたが遺された……お荷物が、今どうなっているのかを教えていただけないでしょうか」
「それでしたら、すべて蔵に保管してありますよ」
彰久は笑顔のまま、あっさりと答えた。
「亡くなられたかたのお持ち物はご遺族に、元博どののものはご本人にお返しできるよう、整理した上で個人別に目録も作成しました。いずれ時がまいりましたら、紙一枚たりとも欠くことなくご返還いたします」
それを聞いて、美緒は悲しくなると同時にほっとするのを感じた。
悲しいのは、それらの品をもう二度と使うことのない人々に思いを馳せずにはいられないから。安堵したのは彰久が元博を生者として語ったから。
美緒は漠然と、彼が元博をすでに死んだものと考えているのではないかと思っていた。もしそうであれば、言葉の端や眼差しからにじみ出るものが何かしらあるだろうと。しかし、それは感じ取れなかった。
つまり彰久は、天山から逃れたあとに元博がどうなったかを知らない。少なくとも、追っ手に捕まって殺害されたなどといった情報は得ていないということだ。
それとも、わたしにそう思わせようとしているだけなのかしら――。
疑い始めると、何もかもが疑わしく思えてくる。
「ご質問はそれだけですか?」
彰久は美緒の表情を窺いながら、静かに問いかけた。
「もし、元博どののお荷物をご覧になりたいなら……あなたはご婚約者でいらっしゃいますから、配慮させていただくこともできますよ。もちろん主の許しを得てからのことになりますが」
見たくないと言えば嘘になる。できれば、彼のものはすべて手元に引き取りたいぐらいだ。しかし今のところは、ずっと気がかりだったことが聞けただけで満足すべきだろう。
「いえ、それはご遠慮します。きちんと保管していただいているとわかり、安心いたしました」
「ならばよかった。ほかにも何かご要望があればおっしゃってください」
そう促されたとたん、胸が早鐘を打ち出した。次の頼みごとに、彰久がどんな反応をするかまったく読めない。
「黒葛さまのご家中が……貴昌さまとご一緒に天山へまいられたかたがたが、まだこちらのお屋敷内に残っておられると思います」
貴昌は人質として天山へ上がる際に、大皇から帯同を許された家臣七人と奉公人十五人、足軽二十人を伴って来た。その後の十二年間で家臣と奉公人、足軽それぞれひとりずつが病により亡くなっており、事件前の一行の総勢は四十人となっていた。そして襲撃で貴昌と家臣五人、足軽十人が命を落とし、元博がひとり逃れて、残ったのは二十三人。彼らの身柄は、依然として桔流家の預かりになっていると聞いている。
仕える主人を失い、しかもそのことを知らされないまま、敵地同然の場所に取り残されてしまった人々。誰からも気に懸けられていないであろう人々。彼らがどのような扱いを受けているのか、美緒は黒葛家家臣団のひとりである元博の関係者として、どうしても確認しておきたいと思っていた。
「もし、できるのであれば、そのかたたちに――ひと目だけでも会わせていただけないでしょうか」
なんとか最後まで言うことができたが、動悸はますます激しくなった。
無礼な要求だと言われるだろうか。身の程を弁えろと。
厳しい拒否の言葉を予期して身構えたが、かなり間を空けてから口を開いた彰久の表情は穏やかだった。
「よろしいですよ。衣恵どのもまだ来られないようですし、今のうちに行ってきましょうか」
美緒を面食らわせるほどさらりと言って、彼は身軽に腰を上げた。
「請け合っておいて条件を申し上げるのは恐縮ですが」
彰久は美緒を連れて主屋を出ると、今は緑の隧道となっている桜並木の道を歩きながら言った。
「さすがに、全員に会っていただくわけにはまいりません。誰かひとりに短い時間だけ、ということでご了承ください」
「は、はい。もちろんです」
彼の斜め後ろに従いながら、美緒は急いで謝った。
「ご面倒をおかけして、申し訳ありません」
「あなたは元博どのが大切にされているかたですし、貴昌君もご生前に親しんでおられましたから」
そうつぶやいた彰久の横顔は、どこか憂愁を帯びて見えた。彼は南部衆に好意を持っていたと織恵香穂は話していたが、実際それはあったのかもしれない。もし、あの襲撃にかかわっていたのだとしても、その動機は単純な憎しみや厭悪の情などではないように思える。
「彰久どのも、このたびのことではさぞお心を痛めておいででしょうね」
美緒の言葉に虚を突かれたように、彰久がはっとこちらを見た。いつも唇に貼りついているような、あの笑みが消えている。
「誰よりも身近に――あのかたがたと接してまいりましたからね」
やや低くなった声音に、彼の心情が表れているように感じられる。だが次の瞬間、本音の読めない微笑が戻ってきた。
「ご家老のように寝込んでしまったりはしませんでしたが」
「そのことは、お孫さまの香穂さんから伺っています。國房さまのご様子はいかがですか」
「まだお元気はありませんが、出仕はされていますよ」
彰久はそう言って、手で口元を隠しながら含み笑いをした。
「十二年前に南部衆をお預かりすることになった時、もっとも強い抵抗感を示されたのはあのかたでした。〝大皇陛下が人質を欲するなら好きになさればよろしい。しかし年端もいかぬ子供を親元から引き離すなどという、人道に悖る行為の片棒を当家に担がせるとは言語道断である〟と、たいそうお怒りでしたね。ご一行がいよいよご到着という日になってもまだ反発しておられて、曲輪門までお出迎えにあがるのすら厭がっておいででした。〝迎えがないことに腹を立てて、いっそ引き返してはくれまいか〟などとおっしゃって。結局あきらめてお迎えには行かれましたが、良心の呵責に堪えなかったようで、若君とはお顔も合わされないまま早々に引き揚げられました。代わりにご一行の案内役を仰せつかったのが、このわたしなのです」
「まあ」そんな話は初耳だった。「ですが國房さまはその後、貴昌君とずいぶん親しくなさっておられたようでしたが」
「一度、屋敷内にお迎えしてご対面されたあとは、まさに骨抜きといったご様子でしたね。幼いころの貴昌君の健気さと愛くるしさは、真名さまも夢中になってしまわれるほどでしたから」
大皇妃のことに触れたあと、彰久は少し優しい表情になった。彼女が三廻部家へ嫁いでからずいぶん経つが、今も主家の姫君として敬愛しているのだろう。
「さあ、着きましたよ」
彰久が足を止めたのは、庭園の奥まった場所にある六棟の長屋の前だった。それは、かつて和智公が南部衆を迎えるにあたり新築させたもので、屋敷の敷地を囲む土塀に沿って建てられている。ひと棟に独立した住戸が五つあり、貴昌と随員衆の奉公人たちは一戸に原則ひとり、足軽衆はひとりかふたりで生活していた。
現在は六棟すべてが、太い竹を束ねた背の高い鉄砲垣でぐるりと囲われている。南部衆の逃亡を防ぐため、事件のあとで急造したのだろう。
一か所だけ設けられた出入り口の扉の脇には、桔流家の番士がふたり立って見張りに就いていた。
「どなたとお会いになりたいですか」
彰久は美緒のほうを振り返って訊いた。彼女の心はもう決まっている。
「小酒部孫六どのを――お願いします」
元博と共に天山へ来た、彼の幼いころからの従者。美緒とも互いによく見知っている。
「承知しました。では中へ」
彰久が開けてくれた扉から、美緒は囲いの内に入った。見れば竹垣は長屋の間際ではなく、周囲にいくらか余裕を残して立てられている。囚われの人々をたまに外へ出して、陽を浴びさせる場所を確保するためかもしれない。
案内されるまま右端の棟へ行き、外から眺めたことしかなかった住戸の中へ足を踏み入れると、閉めきられていた屋内のこもったにおいが鼻をついた。
「ここがちょうど空いているので、孫六どのをお連れしましょう。その前に、ひとつだけお約束いただけますか」
彰久は戸口で美緒と向かい合い、表情を改めた。
「あの事件のことは、決してお話しにならないでください。ここにいるかたがたに知られてしまうと、大きな騒ぎが起きかねません。いずれは伝える時が来るでしょうが、今はまだその時期ではないのです」
瞬ぎもしない眼差しの迫力に気圧され、美緒は声を呑んだままうなずいた。彰久が満足げに、にっこりする。
「では、しばしお待ちください」
彼が出て行くと力が抜けて、美緒は上がり框に座り込んだ。意識していた以上に気が張り詰めていたようだ。
ゆるんでは駄目よ。まだ気を確かに持っていなければ。
自らを鼓舞して立ち上がり、履き物を脱いで板間に上がった。使われていなくとも定期的に清掃はされているようで、什器類や床の隅にも埃などは落ちていない。
暑い室内に外の風を呼び入れるため、跳ね上げの窓を開けようとしていると、彰久に伴われて小酒部孫六がやって来た。
「美緒さま?」
誰が待っているかを知らされていなかったのか、かなり驚いている顔だ。
「戸を閉めていきますので、おふたりで気兼ねなくお話しください」
彰久は気を利かせたつもりかもしれないが、美緒はとっさに〝いけない〟と思った。戸を閉められてしまったら、もしその向こうで誰かが立ち聞きをしていたとしても気づくことができない。
「あ、いえ――彰久どの、戸はそのままになさってください」
自分でも意外なほどに大きな声が出た。振り返った彰久が怪訝な表情をしている。
「部屋の中がとても暑いですから」
言い訳がましく聞こえてしまったかしら。いいえ、きっとだいじょうぶ。暑いのは嘘ではないもの。
「そうですか。ではわたしは、見える範囲で少し離れていましょう」
踵を返す間際、彼の目に冷たい光が一瞬閃いたように感じられたが、ただの気のせいだろうか。
美緒は彰久が長屋から離れて鉄砲垣のそばまで歩いていき、それを背に佇むのを見守ってから、改めて孫六のほうを向いた。彼は本来、歳よりも若く見られる丸顔だが、少し会わないあいだにだいぶ面やつれしたようだ。きっと心労が重なったせいだろう。
「孫六どの、いろいろあって戸惑っておいででしょうね」
彼も男性、それも元博より五歳年上なだけの男盛りなので、座って間近に向き合うとやはりいつもの癖で体が硬くなってしまう。しかし美緒はそれを押し隠すよう努めた。
「体調を崩したりはしていませんか? ほかの皆さんのご様子は?」
「今のところはみな元気ですが、わけもわからずここへ押し込められて不安がっております。桔流さまからは未だ何のご説明もありませんし」
孫六はそう言って唇を噛んだあと、すがるような目で美緒を見つめた。
「ですが、わたしどものことはいいのです。ただ、〈賞月邸〉におられるかたがたのことが気がかりでなりません。美緒さま、どうかお聞かせください。若殿はご無事なのでしょうか。それに随員の皆さまは――元博さまは」
急き込むように訊ねる彼の口から、元博の名を聞くのはつらかった。これほど心配しているのに何も教えてあげられないなんて。
「ごめんなさい、それはわたしの口からは言えません」
美緒はさり気なく視線を左へやり、戸口の向こうの彰久の姿にしばし留めてから、また孫六のほうへ戻した。
これだけ距離があれば、声をひそめれば何も聞こえないはずだ。
「ああ、孫六どの」
彼女は腰を浮かせて膝を進めると、孫六の肩をかばうように抱きながら顔を覗き込んだ。
「そんなに落胆なさらないでください」
ぎょっと目を瞠った孫六が、それでも美緒の意図を探りながら調子を合わせ始める。
「も、申し訳ありません。こんな不甲斐ない様子をお見せしてしまって」
とっさの演技とは思えない涙声だ。美緒は彼の機転に感心しながら、さらに顔を寄せて小声で訊いた。
「孫六どの、南部とひそかに連絡を取る方法をご存じありませんか」
「それは……つまり元博さまと、ですか」
「そう思っていただいてかまいません」
これで、元博がすでに天山にいないと彼に察せられてしまうだろう。だが事件には触れていないので、彰久との約束を破ったことにはならないはずだ。
「実は今、外への通信が厳しく制限されていて、家の奉公人を文使いに出せないのです」
それは貴昌の死を黒葛家に伝える算段がつくまで、外部に情報をもらさないために講じられた措置だった。
「確証はありませんが……」孫六は低い囁き声で早口に話した。「わたしは天山の中に、黒葛家に協力する者がいると考えています」
その人物はおそらく五の曲輪の職人町におり、以前から元博は貴昌の外使いを装って外出しては定期的に接触していた。そういう時、きまって彼は孫六を曲輪の入り口にある茶屋などに置いていったので、誰と会っていたのかはっきりとはわからない。ただ今年の始めごろに、元博はその人物に頼んで職人をひとり紹介してもらったようだ。自分がその男を迎えに行って桔流邸まで案内したので、彼の名前なら教えることができる。
「裏店街に住む、善七という扇職人です」
その男に訊ねれば、元博との間を取り持った人物が誰なのかわかるのではないだろうかと彼は言った。
「実際に協力者であれば、南部への密書も託すことができると思います」
「わたしは黒葛さまのご家中ではありませんが、手を貸してもらえるでしょうか」
「正直なところ、それはなんとも言えません。しかし元博さまと会っていたなら、ご婚約されたことも承知しているでしょう。美緒さまが我々のお味方であると納得させれば、力を借りられるはずです」
「ありがとう。やってみます」
でも、わたしにできるかしら。いいえ、できなくともやらなければ。これ以上、元博さまからのご連絡をただ待ってはいられないもの。あのかたがいま安全な場所にいらっしゃるのか、お体は回復なさったのか、それだけはどうしても早くたしかめたい。
美緒は孫六を労るように背をなでさすってから、ゆっくりと体を離した。
後頭部に錐で刺すような痛みを感じる。これは慣れない振る舞いをした緊張と不安の反動だろうか。それとも息苦しいほどの暑さのためか。
「あなたがたの処遇が少しでも良くなるよう、働きかけをするとお約束します。どうか希望を失わず、前向きに過ごしていてください」
孫六は彼女の言葉にうなずくと、手の甲で目元を何度もぬぐってから顔を上げた。ほんとうに泣いたかのように、目の縁が真っ赤になっている。
「わざわざおいでくださり、かたじけなく存じます。お会いできて勇気づけられました。ほかのみなにも、お言葉を伝えます」
よかった。孫六どのが頭のいい、芝居気のある人で。美緒は心の中で胸をなで下ろし、予想以上にうまく運んだ対面に満足しながら腰を上げた。
長屋の中は茹だるようだったが、外へ出てもそれはたいして変わらない。彼女は手ぬぐいを出して首筋の汗を押さえると、彰久が立っている場所へ近づいていった。
「お待たせしてしまい、申し訳ありません」
「さほど待ちはしませんでしたよ。とはいえ――」彰久が意味深な笑みを浮かべる。「ずいぶんと熱心に語らっておいででしたね」
「女に向かって弱音や愚痴をもらすのには抵抗があったようです。それでも少しずつ心を開いて、気持ちを打ち明けてくれました」
顔を寄せてひそひそ囁き合っていた理由としては、それなりに筋が通っているのではないだろうか。
「それは、よかった」
彰久は事もなげに言うと、外囲いの扉へ歩き出した。
「そろそろ戻りませんと。もう、すぐに衣恵どのから猫をお受け取りになれますよ」
あわてて彼のあとを追い、垣根の外へ出ると、左手の奥まったところに建つ〈賞月邸〉が見えた。前庭の一角には南部衆が丹精していた花壇があり、今も誰かが世話をしているのか、色とりどりに夏の花を咲かせている。
その花壇の端に、背の高いタチアオイが群れ咲いているのを見つけて、美緒は旧懐の情がこみ上げるのを感じた。
元博さまに初めていただいた花。遠慮がちに手渡されて、胸が弾むのを感じた優しい贈り物。あのかたも、今でもあの日のことを覚えていらっしゃるかしら。
「美緒さま」
呼びかけられて甘やかな思いから醒めると、彰久が足を止めて振り向いていた。
「元博どのから、ご連絡がありましたか」
不意打ちに問いを投げたあと、彼はそれがもたらした効果を賞味するようにじっと美緒を見つめた。
訳知り顔の狡猾そうな笑み。
魂の奥底まで覗き込んでくる貪欲な瞳。
怖い——。
美緒は背筋に冷たいものを感じて、思わず半歩退いてしまった。
ああ、そうだわ。わたしは……。
彼女はその時、自分が椹木彰久を苦手と感じる理由に初めて思い至った。
この人は時々、こんなふうに怖くなる。声を荒らげるわけでも、粗暴な振る舞いをするわけでも、威嚇の表情を見せるわけでもないのに、傍にいるのが耐えがたいほど恐ろしい存在に思えることがある。
それは彼がたまに、獲物を前に舌なめずりする蛇のようになるからなのだわ。笑顔の裏に悪意を隠して、人の心を見透かそうとする時に。
美緒は一瞬恐怖に呑まれそうになったが、冷静に分析したことで気持ちをうまく立て直すことができた。
「ご連絡は……ありません。ずっとお待ちしているのですが」
彼女が落ち着いて答えると、彰久は少し当てが外れたような顔をした。
「そうですか。わたしも元博どののことは心にかけておりますので、もしお便りでもありましたらお教えくださいますか」
「はい。もちろんです」
親しげに微笑んで再び歩き出した彰久のうしろに続きながら、美緒は自分が今後、この人物の前で気をゆるめることは決してないだろうと感じていた。
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