五十七 別役国男虎郷・街風一眞 慈愛の家
ささげとゴボウの白和え。オクラの味噌汁と、たっぷりの冷や飯。小皿の上には梅干しがふたつ。
一眞は箱膳から目を上げ、向かいで食事をしている老夫婦の膳を見た。そちらの小皿には、どちらも梅干しはひとつしか載っていない。
彼は身を乗り出すと、自分と善三郎の小皿をさっと交換した。
「あれ」善三郎の隣で、妻のきねが声を上げる。「一眞さまは、梅干しはお嫌いかえ」
一眞は眉間に皺を寄せた。たしかに自分は武家の生まれではあるが、今は主君も持たぬ浪々の身。そこらの破落戸と大差はない。何度そう言ってやっても、この夫婦は〝一眞さま〟という仰々しい呼び方を一向に改めようとしない。
「嫌いじゃないが、善さんの好物だろう。食ってくれ」
彼はぶっきらぼうな口調で言うと、それ以上あれこれ言われる前に箸を取った。飯に汁をかけてすすり込み、擂ったゴマの風味が際立つ白和えを黙々と口へ運ぶ。乏しい明かりの中で食べる貧しい食事だが、それは温かみのある味がした。
「一眞さまはお優しいなあ」
彼が食べる様子を嬉しげに見守りながら、善三郎が高齢者特有の枯れた声で言う。
「でも遠慮なさらんで、たくさん食べておくんなさいよう」
「遠慮などしていない。これだけ食わせてもらえれば充分だ。おれはもともと食が太いほうじゃない」
それはほんとうだった。御山で粗食に慣らされたせいもあるが、食べることにはさほど関心も持っていない。旨いものを食うのは人並みに好きだが、体調を維持できる程度に過不足なく食えることが第一で、食事の内容は二の次と考えている。
「あんたがたは人が好いな。無駄飯食いに居着かれて、迷惑じゃないのか」
「何をおっしゃるやら」善三郎が真面目くさって言う。「お引き留めしたのは、わしらのほうじゃ。こんなとこでよければ、いくらでも骨を休めてってくだせえよ。なあ」
なあ、と振られた老妻は、夫の横でにこやかにうなずいている。それと目を合わせて、善三郎もにっこりする。
彼らは一眞がこれまでに出会った中で、もっとも仲睦まじい夫婦だった。餅のつき手と返し手のような関係で、いつも何をするにもぴったり息が合っており、行動や意見が食い違うということがない。のんびり穏やかな人柄も、団子っ鼻が愛嬌のある皺顔もなぜかよく似ていて、まるでひとつの莢の中に並ぶ豆のようだ。
そんなふたりが静かに慎ましく暮らす家は一眞にとってひどく居心地が良く、同時に耐えがたいほど居心地が悪かった。良いと感じるのは完全に気をゆるめてくつろぐことができ、ずっと腰を落ち着けたくなるから。悪いと感じるのは、自分が場違いなところへ入り込んでしまった異物のように思えるから。
しかし老夫婦はこの異物を難なく受け入れたばかりか、好きなだけゆっくりしていけと事あるごとに勧めてくる。一眞はここにいて何かの役に立っているわけではないし、彼らに穀潰しを飼う余裕などあるとも思えないのにだ。
ただの気まぐれか。それとも、赤の他人でもいいから居て欲しいほど寂しいのか。考えてみても一眞にはよくわからない。
食事を終えると、老夫婦はいつものように手仕事を始めた。善三郎は器用な手つきで草鞋を編む。きねは老眼に難儀しながら裁縫をする。何も持たないのに満ち足りた優しい顔が、行灯の中で燃える魚油のほのかな光に浮かぶ。
一眞は手枕をして横になり、ふたりが働く様子を見るともなく眺めていた。
ひょんなことから、この家で過ごすようになって五日。こんな身も心もぬるま湯に浸かったような生活は、三十年近く生きてきて一度も経験したことがなかった。誰かに暴力を振るわれる気づかいもなく、信用ならない連中を警戒する必要もない。ただ居るだけで喜ばれて大切にされ、飯は足りているか、よく眠れているかと常に気に懸けられ、ふと視線が合えばいつでも底意のない笑顔が返ってくる。
真っ当な家庭とはこうか。真っ当な家族とは。
彼の頭に繰り返し、軽い驚きを伴って浮かぶのはそのことだった。
おれはこんな家庭を知らない。こんな家族を知らない。知りたいと思ったこともない。まして自分がその中に入ろうなどと。
薄暗い明かりの中で老夫婦の手の動きを見ながら、藁がかさこそ擦れる音を聞いていると、いつしか眠気がさしてきた。少しずつ瞼が重くなる。
そんな一眞の様子に気づいたのか、夫婦が揃って「ふふ」と笑みをもらした。彼を起こさないよう、吐く息だけで「しぃーっ」と小さく言ったのはきねのほうだろうか。ひとりが立ち上がり、ゆっくり近づいてくる気配がして、体の上に柔らかい布か何かがそっとかけられる。
子を慈しむ親がするようなことをされて、一眞の眠気はたちまち消し飛んだ。だが目は開けずに狸寝入りを続ける。胸の内には苛立ちと気詰まりとが入り交じった、複雑な思いがもやもやと渦巻いていた。
ああ、くそ。たまらなく――居心地が悪い。
善三郎ときねの夫婦は、別役国北部の男虎郷で長年にわたり茶屋を営んでいる。彼らの小さな見世がある篠木街道沿いの間の宿は、宿場間に自然発生した立場が発展して現在の形になった小憩処だ。立場だったころは茶屋と売店が一軒ずつしかなかったが、今では九軒の商店が寄り集まって小集落を形成していた。間の宿に旅籠を置くことは禁じられているので宿泊施設こそないが、篠木街道を行く旅人は必ず足を止めて必需品を買い求めたり腹ごしらえをしたりするので、日中はなかなかの賑わいを見せる。
善三郎らの見世では甘酒と、番茶、ほうじ茶の二種の茶のほか、きねが毎日手作りするちょっとした食べ物を売っていた。芋の時期には焼き芋。大根があれば出汁煮。よもぎ団子や玉こんにゃく。先を急ぐ旅人が歩きながらでも食べられるよう、たいていのものは串に刺して提供する。
老夫婦は毎日早朝から食べ物の仕込みを一緒に行い、見世を開けると善三郎が茶を沸かして、きねが接客を担当した。ふたりは家の裏にささやかな畑を持っており、善三郎は合間にそこで育てている野菜などの世話もする。
そうして彼がちょっと外し、きねがひとりで店番をしていたある日、質の悪い客にからまれたことがあった。額の中央に目立つ黒子がある悪人面の男客で、武士には見えないが脇差しを携えており、さんざん飲み食いしておいてから急に味に難癖をつけだして代金を払おうとしない。そればかりか必死に追いすがるきねに凄みを利かせ、なおも引き下がらないとみるや暴力を振るおうとした。
それを止めたのが、見世の外の床几で番茶を飲みながら、こんにゃく田楽を食べていた一眞だ。
彼は茶碗に残っていた茶を男の目に浴びせてやり、相手が怯んだところで顔面を殴打した。男はよろよろとなったが、踏みとどまって顔を拭うと、刀の鯉口を切ってがむしゃらに斬りかかってきた。技も何もあったものではないが、豪腕に物を言わせてやたらぶん回すので危なっかしくて仕方がない。その切っ先を一度だけ避け損ねて右の腿に浅く傷を負ったところで、一眞は自分も腰のものを抜いた。
「おい、食ったぶんは払っていけ」
男は構えを取った一眞を見たとたんに、勝てない相手に喧嘩を売ってしまったことを悟り、傍から見てもわかるほどはっきりと戦意を喪失した。
「も、も、もうお代は……」
壁際で身を縮めていたきねが消え入りそうな声で言い、一眞がそちらに気を取られた瞬間、男は捨て台詞さえ残さずに猛然とその場から逃げ出した。追う気も失せるほどに足が速い。
「すまん、逃がした。あいつのぶんもおれが払う」
刀を納めた一眞が振り向くと、きねは目に涙を浮かべながら必死の面持ちで首を振った。
「滅相もございません、お武家さま。お助けくださり、ありがとう存じました」
そこへちょうど善三郎が戻ってきて、妻から事の成り行きを聞いた彼は、地に額をつけんばかりにして一眞に感謝した。
「どうぞ奥でお休みを」
「せめて傷の手当てを」
夫婦ふたりがかりで引き留められ、酒を出してもてなされ、次の宿場は遠いから今夜は泊まって欲しいと懇願され、一眞はこの家の客となった。それが六日前のことだ。
ずるずると辞去を先延ばしにするあいだに、一眞は彼らのことを知り、彼らも一眞のことを知った。
善三郎ときねは同じ村で生まれ育った幼馴染みであり、将来は一緒になるだろうと本人らも周囲も早くから見越していたという。その予測通りに所帯を持ち、四十年以上も仲良く過ごしてきたが、残念ながら子宝にだけは恵まれなかった。二度身ごもったものの、無事に産み落とすことはできなかったらしい。
一眞のほうは、以前は御山の奉職者だったことや、最近まで柄の悪い連中とつるんでいた事実を正直に話した。
「あの食い逃げと同等のならず者どもさ。だが連中の首領と女のことでもめて、折り合いが悪くなったから塒を出てきたんだ。そのまま道なりに来て篠木街道に入ったからここを通りかかっただけで、別に目的地があって旅をしているわけじゃない」
悪党の仲間だったと打ち明けられて怖がるかと思ったが、老夫婦に一眞を恐れる様子は見られなかった。生来、人を疑うことのできない性分なのだろう。
そうして日々は過ぎ、逗留七日目の午後遅く。
暇を持て余した一眞は、散歩がてら間の宿の中をぶらぶらした。善三郎ときねは見世に出て働いているが、彼らは一眞に茶屋の仕事を手伝わせたがらないので、ほかにすることもない。
別州の夏は過ごしやすいことで知られているが、今日は空気がどんよりしていて蒸し暑かった。日差しはさほど強くはないが、ただ歩いているだけで背中や首筋に汗がにじみ出てくる。
「先生、散歩ですかい」
声をかけてきたのは、茶屋のはす向かいで小間物屋を営んでいる助八だった。一眞と同じ年ごろの元気のいい男で、年上の妻と腕白盛りの三人の息子と賑やかに暮らしている。
「今日は暑いですなあ」
軒下の台に並べられた袋物や煙草入れなどの日用品を挟んで、彼は一眞に微笑みかけた。
「風がぬるいや」
「先生なんて呼ぶのはよしてくれ」
不満げに言ってやっても、助八はどこ吹く風だ。
「善さんとこの、用心棒の〝先生〟だからね」
「用心棒じゃない。ただの――居候だ」
「でもよう、きねさんを殴ろうとした食い逃げ野郎をぶっ飛ばして助けたんだ。やっぱり用心棒の先生で間違っちゃいませんや」
よく動く太い眉尻を下げながら、朗らかに言う。
一眞が老夫婦の茶屋で狼藉者を撃退した話は、半日も経たずに近隣の者みなが知るところとなっていた。なにしろ小さな集落の中のことだ。何か変わったことが起これば、瞬く間に話は隅々にまで伝わってしまう。
善三郎らはこの間の宿の古株であり、夫婦ともに働き者で温厚なことから住人たちに敬愛されていた。そんなふたりの救い主だというので、今のところ一眞には概ね好意的な眼差しが向けられている。
「先生は、酒はいける口ですかい」
「そこそこ飲める」
「だったら、こんど一杯飲りに行きやしょうよ。一里ほど向こうにね、五のつく日に大きい賭場の立つとこがあるんだ。その近くで酒を飲めるし、何なら女とだって遊べまさあ」
女……の部分から先は小声で言って、彼はあたりを憚るふうを見せた。しっかり者の女房どのに聞かれていないか不安になったのだろう。
「どうせ夜は善さんらにつき合って早寝だろ。次の五の日に声かけやすよ」
「ああ、そうだな」
一眞は生返事をして、ちょうど袋物を買い求める客が来たのを機に小間物屋の前を離れた。助八の見世の隣の小さな空き地には神祠が建てられており、住人が持ち回りで管理をしている。その前を素通りして修繕屋の店先を通りかかった彼に、見世の奥まったところで繕い物をしている肥えた女が声をかけてきた。
「先生、先生!」
また先生か――一眞はうんざりしながらも、そちらを見て軽く会釈をした。
「ねえ先生。先生は読み書きができなさるんでしょうねえ?」
無視して行くわけにもいかず、足を止める。
「まあ一通りには」
「ほら。ほらね。だからあたしがそう言ったじゃないの」
女――修繕屋の女房のぶが、土間で背負子を修理している亭主の謙吉に向かって得々と言った。人なつこい妻とは正反対の、むっつりと気難しそうな夫が鼻を鳴らす。
「しばらくここにいなさるんなら、うちのちびたちに読み書きを教えてやっておくんなさいよう。そりゃ、読むの書くのができなくたって死にやしませんけどね、こんな田舎暮らしをしてたって、そういうのができるに越したことはないでしょ。もちろん、手習い所に納める束脩とはいかないまでも、ちゃあんとお礼はさしてもらうつもりですよ。ねえ、あんた」
ぺらぺらとまくし立てて、のぶは最後に夫を見た。謙吉は眉根に深く皺を刻み、うつむいたまま黙々と手を動かしている。
「もう、いやだ。すみませんねえ、先生。うちの人ったら無愛想で」
笑顔で取りなす妻をよそに、謙吉はちらりと一眞を見た。上目づかいの眼差しには刺々しいものがある。
じつは彼はこの集落における、一眞にあまり好意的ではない少数派の筆頭だった。善三郎から聞いた話によると、以前は南のほうにある街の盛り場でちょっと知られた地回りだったらしい。所帯を持ってすっかり落ち着いたが、今でも腕っ節と度胸は衰えておらず、近隣で喧嘩沙汰があるとたいてい彼が仲裁に入って事を収めるという。あの食い逃げ男も、もし一眞が対処していなければ謙吉が駆けつけて排除したことだろう。
集落にはもうひとり腕自慢の拓平という中年男がいて、宿場の西の端で煮売り屋を営んでいる。こちらは仲裁するよりも、むしろ自分が争いの元を作りがちな喧嘩っ早い人物だ。若いころに剣術道場へ通っていて、嘘か本当かは知らないが師範代を務めるところまでいったらしい。
彼は謙吉と仲がいいが、友人とは裏腹に一眞に対しては友好的だった。ぜひ一度じっくり剣談でも、と誘われたこともある。集落には剣の話をできる者などいないので、格好の相手が現れたと思っているのだろう。
「ね、先生、どうかしら。いつから教えてもらえます?」
愛嬌たっぷりにえくぼを浮かべて、のぶが訊いた。夫の不快そうな素振りには気づいていないか、気にもしていないようだ。
「考えておくよ」
一眞は曖昧に言って、それ以上引き留められないうちに退散した。そのうしろから、のぶの明るい声がさらに追ってくる。
「じゃあ、決まったら言ってくださいよう。あの、上の子と下の子と、ふたりお願いいたしますね。上はちょっと根気がないけど素直で……あら、いらっしゃいまし。はい、はい。袖の繕いですか。ええ、これなら小半刻もいただければ――」
彼女の注意が客のほうへ向いた隙に、足を速めて見世から遠ざかった。
こうしてちょっと外を出歩いただけで、いちいち人から構われるのが煩わしくないと言えば嘘になるが、新参者の宿命と思って受け入れるしかないだろう。集落の人々は余所者の一眞に興味を持ったり怪しんだりしており、各々のやり方で接触して、どのような人間かを推し量ろうとしているのだ。そうされるのが厭だというなら、居着く気のない場所にいつまでも留まったりするものではない。
居着く――と考えると、決まって胸の中がざわざわする。
たとえばこんな小集落に腰を据えたとしたら、その先どんなふうに生きていけばいいのだろう。どこかの店に雇われて働くのか、あるいは自分で何か商売でも始めるのか。土地の女と懇ろになって所帯を持ち、子供なぞ作ったりするのか。剣を捨て、過去を捨て、平凡な日々の営みを繰り返していれば、千手景英への未練がましい執着心もいつかは消えて楽になれるのだろうか。
景英を思うと、同時に青藍が頭に浮かんだ。なぜかは知らないが、最近このふたりは一眞の思考の中でつながりがちだ。
祭主暗殺の濡れ衣を着せられ、娼楼に売られ、盗賊にさらわれ、さんざんな目に遭い続けているあの娘が今どんな境遇にいるのか想像もつかない。夜斗とかいう男女郎と一緒に消えたと聞いたが、またどこかへ売り飛ばされて、いよいよ進退窮まっているのではないだろうか。それでも生き延びているのであれば、死んでいるよりはましなのかもしれないが。
考えに耽りながら間の宿を通り抜けた一眞は、そのままさらに歩いて篠木街道が分岐する場所までやって来た。そこはまばらに樹木が生えた小高い丘で、街道の分かれ目には道しるべの石柱が据えられている。その苔むした大きな土台部分に尻を乗せると、彼は手ぬぐいを取り出して汗ばんだ首筋を拭った。日暮れが近づくにつれて、さらに蒸し暑さが増してきている。
今夜は雨になる――か。
一眞は足元の草むらに転がる小石をふたつ拾い上げ、片手でお手玉をしながら空を見上げた。陰鬱な灰色をした厚い雲が頭上を走っている。その速さに目を奪われていると、湿り気を帯びた生温かい風が南から吹きつけてきて袂をはためかせた。
遠雷が聞こえる。もう今にも雨粒が落ちてきそうだ。
彼は弄んでいた石を石柱の土台に並べて置くと、強風に髪をかき乱されながら間の宿へ引き返していった。
少々の悪天候なら蓑でも被って旅を続ける者は多いが、嵐がくるとなるとそうもいかない。夕七つごろから降り出した雨が地面を泥濘に変え、家を揺らすほどの風が吹きすさび始めたころには、さすがに街道から旅人の姿は完全に消えていた。間の宿に立ち寄る者など当然いないので、どこの店も早仕舞いをしてひっそりしている。
善三郎ときねの茶屋も、この日は早々と暖簾を下ろして戸締まりをした。冬瓜の煮物で飯を食い、あとは寝るまでいつものように手仕事だ。そこで一眞が、家へ戻る前に拓平の煮売り屋で買い求めてきた酒徳利を取り出した。
「善さん、飲まないか。見世でいちばんいい酒を買ってきたんだ。きねさんも一緒に」
老夫婦は思いがけない誘いに驚き、喜びのあまり飲む前から顔を紅潮させた。
「あれ嬉しや」きねがいそいそと腰を上げる。「なんぞ肴を見繕いましょう」
彼女が土間に下りてごそごそやっているあいだに、一眞は三つの茶碗に酒を注いだ。さほど新鮮とは言えず香りも立たないおり酒だが、こんな片田舎で手に入る上物といえばこれぐらいが関の山だろう。
ほどなく、きねが肴を持って板間に上がってきた。今日見世で出していた里芋煮の残りと、焙烙で煎った調味用の焼き塩だ。
家の外で雷鳴が轟き、豪雨と暴風が荒れ狂う中、三人は車座になってささやかな宴を楽しんだ。徳利は一眞が手元に置き、老夫婦の茶碗が空にならないよう気を配る。ふたりは飲み始めてすぐほろ酔いになったが乱れることはなく、普段通りに穏やかなままでただ陽気になった。
飲むほどに、芋と塩だけの素朴な肴が不思議なほど旨く感じられ、酒がさらに進む。会話が弾み、誰かが何か言うたびに笑い声が上がる。ごうごうと唸る風のせいで話が聞こえづらくなると、互いに顔を寄せながら大声でしゃべり続け、その状況が妙に可笑しくてまた笑い合った。
「ああ、楽しいなあ」
やがて酒がすっかりまわったころ、善三郎が少し舌をもつれさせながらしみじみと言った。
「ほんとうに楽しいなあ」
彼は隣で半分眠りそうになっている妻に目をやり、その手を優しく握った。きねが微笑みながらうなずいて、夢うつつでつぶやく。
「かずまさまが……いてくださるから……」
一眞は善三郎の茶碗に酒を注ぎ足そうとして、徳利の軽さに気づいた。飲み尽くしてしまったようだ。彼は徳利を置いたその手で床の上の太刀を取ると、鞘を払って善三郎の薄い胸板を正面から刺し貫いた。
狙い澄まして正確に心の臓をひと突き。老人がはっと目を瞠り、かすかに吐息をもらして首をうなだれる。
一眞は刀身を引き抜くと、間髪を入れずきねにも同じことをした。彼女は刃を受ける瞬間も目を開くことはなく、笑みを唇に留めて事切れた。
生前そうであったように絶命してもなお仲の良い老夫婦が、寄り添ったまま折り重なってゆっくりと横へ倒れる。ぱたりと音を立てたかもしれないが、風の音がうるさくて何も聞こえない。
一眞は血に濡れた刀を床板に突き立てると、まず善三郎、次にきねの遺体を抱き上げて部屋の奥へと運び、並べて寝かせてから一枚の夜着で覆った。血が流れ出していることに気づかなければ、隣り合って眠っているようにしか見えない。
それから彼は行灯を持って戸口へ行き、突っ支い棒を外して引き戸を細く開けた。たちまちその隙間から、猛烈な風と激しさを増した雨が吹き込んでくる。それに火を消されないよう用心しながら、隙間の前で行灯を左右に振った。
左、右、左。少し間を置いてから再び、左、右、左。
板間に戻り、先ほどの刀を抜いて血汚れを拭っていると、乱暴に戸を開けてずぶ濡れの男九人が飛び込んできた。
「まったく、この雨ときたら!」
土足で部屋に上がり、犬のように体をぶるぶるさせて水滴をまき散らしながら、〈二頭団〉の目下唯一の頭目である〈飯綱〉が叫ぶ。
「女が濡れりゃ具合がいいってもんだが、野郎が濡れたって惨めったらしいだけだよな」
彼のあまりおもしろくもない戯れ言に、手下たちが追従笑いをもらした。みな闇に溶け込む黒っぽい出で立ちをしており、それぞれ使い慣れた得物を携えている。
「もう爺さん婆さんを片付けたのか。さすが手際がいいな」
飯綱は老夫婦の死骸を見下ろしながら、感心したように言った。
「だが、決行までえらく待たされたぜ」
「新月か雨の夜にすると、前もって言っておいただろう」
淡々とした一眞の言葉に、飯綱がにやりと唇をゆがめる。
「まあ、そういう段取りなのはわかってたさ。それでもなかなか合図をよこさねえから、裏切るつもりじゃねえかと心配になったのよ。例の石を確認しに行かせてた〈赤髭〉が、ちょいと街道を歩きがてら様子を窺ってみたら、おまえはすっかり集落に馴染んでたと言ってたしな」
「だからこそ、いろいろ調べがついたんだ。これから説明する」
一眞は懐から絵図を取り出し、床の上に広げた。前もって用意しておいたもので、この間の宿にある九軒の家の位置関係を記してある。
「まずは五軒、ふたりずつで一斉に押し入る。場所は黒い丸印がつけてある五か所だ。済んだら一度この家に戻れ。そのあと三人組ふたつと四人組ひとつに分かれて、手ごわそうな住人がいる残りの三軒を襲う。金目のものを物色するのは、全員を始末したあとだ」
盗賊たちが無言でうなずいた。彼らは事前に飯綱から、今夜は一眞の指示に従うよう言い含められている。
「音はあまり気にしなくていい。雨音と雷鳴がかき消してくれる。だが住人は絶対に外へ逃がすな。ほかの家に駆け込まれると厄介だからな」
一眞は男たちを縦一列に並ばせると、自分は絵図を持って戸口に立った。
「よし、始めるぞ。〈蛤〉と〈大山〉は東の端のこの家だ。七十近い婆さんと、年増の娘がひとりいる。行け」
先頭にいた無口な若者と、そのうしろの体の大きな男に絵図を確認させて、風雨の中へと送り出す。
「次、〈老骨〉と〈酒樽〉は空き地を挟んで隣。中年夫婦だけで、夫のほうは足が少し悪い」
一味でいちばん年長の元武士と、肥り気味の酒豪が飛び出していく。
「飯綱と〈三ツ目〉はこの向かいへ。若い夫婦と幼い娘と赤ん坊がいる」
額に大きな黒子のある中年男をつれて、飯綱が小走りに行った。
「赤髭と〈鉄腕〉は西寄りのこの家だ。母親と小さい息子がふたり」
赤茶けた髭面の小男と、腕っ節の強い若者が駆け出す。
一眞はひとり残った〈百中〉を見た。彼は以前は〈門番〉の子分だったが、仲間割れの際に寝返って飯綱につき、うまく生き延びたらしい。弓の名人で普段は大きな弓と矢筒を背負っているが、今夜は短めの打刀を腰に差して来ている。
「おれたちが行く家にいるのは、歳のいった主人と若い女房、寝たきりの爺さんの三人だ」
彼に教えてから、意を決して勢いよく外へ出た。そうでもしなければ、たちまち気が萎えて引き返してしまいそうな凄まじい天候だ。
一歩踏み出したとたんに、凶悪な暴風雨になぎ倒されかけた。瞬く間に全身がずぶ濡れになり、足がずしりと重くなる。一眞は片腕で目の上に庇を作りながら、一目散に駆けて目的の家にたどり着いた。すぐうしろにぴたりとついてきた百中が戸口を挟んで陣取り、顎先から雫をぽたぽた垂らしながらうなずいて見せる。
ここまでの移動こそ難儀だったが、家に押し入ったあとはすんなりと運んだ。抵抗される前に制圧してしまえば、あとは息の根を止めるだけだ。一眞はまず五十代の家長を仕留めてから、床の中で呻いていた老人も喉へのひと突きであの世に送った。
若い女房を任せた百中は、と目を転じれば、そちらもすでに仕事を片付けている。だが彼は女を斬殺したあと、死体を無駄に切り刻んで遊んでいた。弓の巧者には冷静な者が多いが、この男は興奮しやすい質なのかもしれない。
篠突く雨の中をまた走って茶屋へ引き返すと、飯綱を含む三組が先着しており、ほどなく最後のひと組も首尾良く終わらせて戻ってきた。討ちもらした住人はなく、一味の中に負傷した者もいないという。前半は上々の出来といえるだろう。
「残り三軒をやるぞ」
一眞は再び絵図を出し、位置を指し示しながら説明した。
「この小間物屋には大山、蛤、酒樽が行け。助八という三十手前の屈強な主人がいる。気の優しい男だが身体頑健で力も強いから、抵抗されたら手こずるだろう。真っ先にそいつの息の根を止めろ。家族は女房と息子が三人。下のふたりはまだ小さいが、十二歳の長男は親父に似て大柄だから暴れさせるな」
名指しされた三人がうなずく。
「こっちの修繕屋は飯綱、赤髭、百中、老骨の四人で行け。主人の謙吉は用心深いし、地回り上がりで腕が立つ。押し入られたことを悟ったら、仕事道具を武器にして立ち向かってくるだろう。甘く見ずに、ふたり以上でかかったほうがいい。残りは主人の五十代の父親、女房と十歳以下の子供がふたりだ」
飯綱が満足げな顔をしながら「よし」と言った。
「最後の煮売り屋にはおれと三ツ目、鉄腕で行く。主人の拓平は剣術の心得があるらしい。おそらく刀を持ち出してきて刃向かうだろうから、おれが相手をする。家には拓平の弟と、いとこだという男もいて、どちらも三十代半ばだ。ほかの家はもう寝静まっているころだが、拓平らは日ごろ遅寝だから、まだ起きて酒でも飲んでいるかもな」
「さあ野郎ども、もうひと働きするぞ!」
飯綱が景気よく言って気勢を高め、子分たちを再び雨の中へ送り出した。自分もそれに続いて行きながら、一眞をちらりと見る。
「鮮やかなもんだ。おまえはこの稼業にむいてるよ」
少しも嬉しくない褒め言葉だが、といって腹が立つわけでもない。一眞はちょっと肩をすくめて見せて、彼と共に家を出た。
容赦なく降り続く雨で、街道はもはや川と化している。しぶきを跳ね上げながら駆けていると空を切り裂いて稲光が走り、一瞬生じた昼間のような明るさの中で、煮売り屋の前で待つ三ツ目と鉄腕の姿が確認できた。
「おれは裏の勝手口から入る」
家の庇の下で顔を寄せ合い、一眞はふたりに指示を出した。
「おまえたちは、おれが行ったあと三十数えてから表を破れ」
三ツ目たちとうなずき交わして別れ、外壁沿いに裏へと回り込む。その途中にあった跳ね上げ窓は閉まっていたが、隙間からかすかに明かりがもれていた。やはり拓平らは起きているようだ。
一眞は勝手口にたどり着くと、呼吸を少し整えてから板戸を蹴り破った。
入ってすぐに土間、一段上がって八畳ほどの板間があり、三人の男が囲炉裏を囲んで座っている。
拓平は奥側におり、ひどく驚いた顔をしたものの取り乱しはしなかった。胡座を崩して立て膝にしながら一眞の顔、腰の刀、背後へ順に目をやり、素早く状況を把握していく。
「酒を買い足しに……来たわけじゃなさそうだな」
彼は両手を伸ばして弟といとこの肩を掴むと、一眞から目を離さないままで鋭く命じた。
「おまえら奥へ行け」
「で、でもよう」
弟が抗弁しようとした時、店側の戸が打ち破られた音が聞こえてきた。
「くそっ」
拓平は舌打ちして横へ飛び、部屋の隅にあった蓋のない行李から刀を取った。鞘が傷んだまま手入れされておらず、かなり古いものに見える。だが抜き放たれた刀身は研ぎ上げられて輝いていた。
「来いッ、おれが相手になる」
彼が吠えたところへ、三ツ目と鉄腕が飛び込んできた。一方が弟、もう一方がいとこを受け持ち、組み付いて奥の部屋へ引きずっていく。
「待て――」
拓平がそちらへ気を取られた隙に、一眞は抜刀して部屋へ駆け上がった。囲炉裏を跳び越え、中段の構えから振りかぶって背中にひと太刀。しかし身をよじって逃げられ、その刃は空を斬った。
機敏な動きで立ち位置を入れ替えた拓平が、正眼に構えたままじりじりと戸口のほうへ下がっていく。それを追って前へ出ていき、ついに家の外へ出た一眞は土砂降りの中で彼と対峙した。
わざわざ広いところへ誘い出したな――。
こいつの得意技はなんだ。壁と天井に阻まれない場所で繰り出したい必殺の一手は。大上段からの斬り下ろしか。横一線の胴薙ぎ斬りか。
見れば、拓平は左足のつま先を泥の地面に深くめり込ませている。彼はその軸足のひと蹴りで体を前へ撃ち出し、瞬時に間合いを半分以下に縮めた。
押し迫ってくる拓平の肘が上がり、伸びきった腕と剣が一直線になる。
諸手突きか――一眞が悟るのと同時に、その喉笛目がけて切っ先がするすると伸びてきた。半歩下がりながら弾けば、即座に二段目が襲ってくる。一段目とまったく軌道が同じだ。再び下がって弾いたが、途切れず次がくるのは確実で、これ以上下がると壁際に追い詰められる。
とはいえ、こんな局面は初めてではない。斬り合いの場数を踏んできた一眞には、すでに勝ち筋が見えていた。
風雨を切り裂いて三段目の刺突が襲い来る。彼はそれを、下がるのではなく前へ出ながら足をさばいて右へかわした。そのまま大胆に間合いを詰めて相手の懐へ入り、片手斬りに腹部を刺し貫く。
「え……」
まさかと言いたげにつぶやいた拓平が一眞を見つめながら膝から崩れ、ゆっくりと泥土の中に倒れ伏した。
「すげえ」
一眞の背後で感嘆の声を上げたのは三ツ目だった。弟らの始末を終えて、こちらの様子を見に来たようだ。
「あんたは躱しの達人だな。あれだけ突かれて、傷ひとつもらってねえとは」
嵐に負けない大声で言って、彼はうしろにいる鉄腕を振り返った。
「やっぱ剣術使いは怖えや。おれらだけだったら、返り討ちに遭ってたんじゃねえか」
「そんなわけがあるか」一味の中でも腕の立つ鉄腕が不機嫌に言う。「おまえはそうでも、おれはあの程度のやつに殺られやしねえ」
茶屋に戻ったのは一眞らの組が最後で、雨に洗われてもなお血なまぐさい男たちの浮かれ騒ぎに出迎えられた。修繕屋と小間物屋で激しい抵抗を受けて三人が負傷していたが、いずれもさほど重い傷ではない。少々の怪我など気にもならないほど、彼らは今夜の仕事の首尾に満足し、酒にでも酔ったように高揚していた。
「何もかも恐ろしいほどうまくいったなあ」
「ほんの半刻で……何人だ、二十六人か?」
「違う違う、二十七人だ。それに、まだ半刻も経っちゃいねえよ」
口々に言い合う子分たちを、板間の奥で胡座をかいている飯綱が見渡す。
「二十九人だ。一眞が先に殺った爺婆を忘れるな」
彼は人数を訂正すると、喉の奥で低く笑って腰を上げた。
「さて、ぼちぼちお宝探しといこうか。ちっぽけな宿のわりに、どの店もだいぶ繁盛してたらしいからな。家じゅうひっくり返して、持てるもんは洗いざらい持ってくぞ」
その言葉を待ちかねていた子分たちが、一斉に沸き立って目をぎらつかせる。まずは今いる場所から取りかかろうとした彼らを、飯綱は冷静に押しとどめた。
「おっと待て待て、手を出すんじゃねえ。この家のもんは一眞の総取りとする。こいつは客分だし、今回の仕切りは見事だったから当然の役得だ。てめえら、文句はねえな」
誰も文句は言わなかった。なにしろ蹂躙すべき家はほかに八軒もあるのだ。
「よし行け」
わっと歓声を上げて男たちが飛び出して行く。飯綱はそれを見届けたあと、足元に横たわる老夫婦の死骸に視線を落とし、その目を土間に立ったままの一眞に向けた。
「しばらく一緒に暮らしてたんだ。こいつらが何をどこに溜め込んでるか、全部わかってんだろ」
にやにやしながら近づいてきて、馴れ馴れしげに肩を叩く。
「ま、ゆっくり漁んな」
そう言い残して彼が外へ出て行くと、一眞はどっと疲れを感じて土の上に腰を下ろした。先ほどまでの喧噪が消えた屋内には、獣の唸り声のような風の音と、横殴りに壁を叩く雨音だけが響いている。
彼はその音に耳を傾けながら、部屋へ上がることも家財に手を触れることもなく、飯綱らが戻ってくるまでただじっと座っていた。
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