五十五 別役国龍康殿・伊都 逢瀬
別役国最大の湊町である龍康殿は水運の発達した〝水の街〟であり、大小の河川と網の目のように張り巡らされた掘割が市中の至るところで絡み合っている。
それらの水路は荷運びだけでなく、人の運搬にも日ごろから盛んに活用されていた。水上交通の主要路となる天然河川は、本川の瑠璃川から分岐した歌代川、嘉手川、鈎川の三本で、いずれも北から市中へ流れ込み、南で海へと至っている。
その三本のうちでもっとも川幅が広いのが、街の東にある第一の河川、鈎川だ。河床が複雑な形状で水深もかなりあるため、技術的な難しさから架橋はされておらず、随所に渡し場が設けられている。長大な川縁の土地は念入りな護岸工事によって整えられており、この街で財をなした豪商の蔵屋敷が数多く建ち並んでいた。
酒保商〈川渡屋〉の元店も、そうした川沿いの蔵屋敷のひとつだ。
店の主人である鉄次はひとつの場所に居着くのを嫌う男で、当初は店を持たずに船で諸国を気ままに巡りながら商売をしていた。しかし事業が成長してくると、そんな適当なやり方を続けてはいられない。やがて陸に拠点を持つ必要に迫られるようになり、五年ほど前についに観念した彼は、廃業を決めて屋敷を手放したがっていた老商人からそこを買い取って本店とした。
金満家だった元の持ち主が、長年にわたって金に糸目をつけず手を入れ続けてきた蔵屋敷はかなり贅沢な作りになっている。
漆喰仕上げの厚い土塀が取り囲む広大な敷地内には、鉄板で補強された堅牢な蔵が八棟、長屋が三棟、庭のついた約三百坪の屋敷が一棟。屋敷は母屋と三つの離れが回廊でつながっており、御殿のように表向きと奥向きに分けられている。さらに、船ごと敷地に入って積み荷を搬入出できる溜め池状の大きな船入もあり、川からの進入路には水門が設けられていた。
鉄次が「無駄に広すぎる」と難色を示しつつもここを買う気になったのは、主船の〈大豪丸〉が通過可能な、特別に幅の広い進入路を備えていたからだ。それから数年も経たずして事業がさらに拡大すると、彼は持て余し気味だった蔵屋敷をようやく良い買い物だったと認めるようになった。
梅雨が明け、からりと暑くなった巧月十九日。
西峽諸国を巡る旅に出ていた〈川渡屋〉の船団が、二年二か月ぶりに本店へ戻ってきた。留守のあいだに溜まった諸々を片付けるため、今回はしばらく陸に腰を落ち着けることになっている。
大番頭の萬作と吉次郎を筆頭とする留守居の〝陸組〟は、長らく出払っていた〝川組〟の無事の帰還を祝って二昼夜にわたる大祝宴を催した。幹部の大半はかつて鉄次に拾われた龍康殿の孤児たちであり、事業立ち上げの前から家族同然の仲だったので、日ごろ離れている〝陸組〟と〝川組〟がたまに顔を合わせるといつも大変な盛り上がりになる。
乱痴気騒ぎの宴が果てた翌朝、鉄次は〝川組〟の約半数に一時金と十五日間の暇を与えて解散させた。もらった金を携えて家族がいる故郷へ帰る者、街へ繰り出して派手に遊ぶ者、休みの過ごし方は人それぞれだ。彼らが戻ってくると、次は残りの半数が交替で休暇に入る。
船守の頭領を務める伊都や番頭の佐吉らも同様に暇をもらったが、帰る故郷もない孤児上がりの幹部たちはみな街に留まった。船入に着けている〈大豪丸〉と蔵船の〈猩々丸〉は船大工の弥五七が人足を集めて総点検と整備に取りかかっており、終わるまでは中に立ち入ることが許されないので、娼楼や賭場旅籠などへ泊まりで遊びに繰り出す者以外は屋敷内や長屋の適当な部屋で寝起きをしている。
伊都は以前から、屋敷の奥向きに自分専用の部屋をひとつもらっていた。東の離れの南側にある座敷飾りのついた八畳間で、蒔絵が施された漆塗りの調度類がいくつか置いてあり、濡れ縁からは端正な石庭を望むことができる。元は主人の居間だったのだろう。
屋敷の現在の持ち主である鉄次はその主室をこだわりなく彼女に譲り、同じ離れの中庭に面した何の変哲もない六畳間を自室と決めていた。もっとも彼はその部屋で寝るよりも、陸に滞在中は知り合いの居宅や旅籠などを泊まり歩いていることのほうが多い。
船団の帰還から七日が経った朝、特別な予定を控えている伊都は夜の明け初めるころに起き出した。今日は鉄次と外で落ち合い、ふたりきりで食事に行く約束をしているのだ。彼のほうは玉越町に見世を構える問屋の招きで接待されに出かけており、ここ二日は顔を合わせていない。
本当は護衛のためについて行きたかったが、当日まで同じ場所にいたのでは落ち合う楽しみがなくなってしまうので、今回は警護役を剣の師である南浮傳次郎にしぶしぶ譲った。師匠は「旨いものが食えるなら行く」と呑気な顔をして出かけていったが、彼ならたとえ何が起ころうとも必ず鉄次を守ってくれるはずだ。
伊都は寝床の上に起き上がると、両腕を上げて大きく伸びをした。頭が少し重いのは、夕べ気持ちがそわそわして寝付きが悪かったせいだろうか。待ち合わせは夕七つなので、これから二度寝を決め込んだとしてもまったく問題はない。しかし体はもうすっかり目覚めており、すぐにも動き出したがっているのが感じられた。ずっと待ちわびていた日がようやく来たというのに、いつまでも寝床でだらけてなどいられない。
簡単に身支度をしてから母屋へ行くと、台所ではすでに奉公人たちが立ち働いていた。居残っている大勢の〝川組〟に食事を提供しなければならないので、彼らは普段よりもずっと忙しいのだ。
お菜はまだ下ごしらえの最中だったが、早々と起きてきた伊都のために女中のひとりが握り飯を作ってくれた。炊きたての飯に塩昆布が混ぜ込んであり、表面にまぶされた煎りごまの風味がとても香ばしい。
腹ごしらえを済ませたあとは、外回りの下働きをする下男に午ごろ風呂の支度をするよう頼んでから、西の離れにいる音弥の元へ向かった。彼も少年のころに鉄次に拾われた孤児で、伊都が初めて出会った時には嘉手川沿いの芝居小屋〈三人兄弟座〉で役者をしていたが、今は自分の一座を率いて戯場船〈月笛丸〉に乗り組んでいる。
龍康殿に着いた日、〈大豪〉〈猩々〉以外の三隻は船団からいったん離脱して、それぞれ別の場所に碇を下ろした。博徒の為一が仕切る賭場船〈白雲丸〉は、嘉手川上流に停泊して船内で賭場を開帳している。娼妓上がりの千鶴が楼主を務める娼楼船〈玉桜丸〉は鈎川から海へ出て湊に着け、主に湾内にいる沖待ちの商船から客を迎えているそうだ。そして音弥は〈月笛丸〉を歌代川の河口付近に泊めており、五日前から〝月笛一座凱旋公演〟と大々的に銘打って新たな演目を上演していた。聞くところによると、今回の芝居はかなり好評を博しているらしい。
その間、彼は座員と共にずっと船に留まっていたが、今日は興行の中日に当たるため、骨休めをしに夕べから本店へ戻ってきている。
伊都は曲がりくねった回廊を通って、外回りに音弥の部屋へ近づいた。障子戸が開け放たれているので、予想通り彼はもう起きているようだ。
「音弥さん、おはよう。いま、ちょっといいかしら」
廊下から挨拶をすると、物憂げな声が応えた。
「やあ、おはよう。遠慮せずにおはいりよ」
伊都が障子戸の陰から顔を出すと、まだ敷いたままの寝床の上に寝そべりながら音弥がにっこりした。
「早起きだねえ」
「音弥さんこそ」中に入り、畳の上に腰を下ろす。「お邪魔じゃなかった?」
「ちっとも邪魔じゃないよ。次にやる演目の台本を見ながら、役の気持ちを作ってたのさ」
ふと見れば、彼の片手が開いたままの本を押さえていた。
「今度は何の役をするの」
「お化け――幽霊だよ」
音弥はそう言うと、陽炎が立つようにゆらりと上体を起こした。ふっと吐息をもらし、しどけなく横座りをしながら首を傾げてうなだれる。それだけで雰囲気ががらりと変わるのは、さすが役者といったところだろう。
乱れ髪がはらりと頬にかかると、彼はその隙間からじっと虚空を見据えた。
儚げで恨めしげで、心をかき乱されるような眼差しだ。
「女性の幽霊ね」
ご名答、と言って彼は破顔した。
「古巣の〈三人兄弟座〉と〈月笛一座〉で共同公演を打つことになったんだ。いちばん上の座頭が去年死んだから、今は二人兄弟だけどさ。仲吉兄貴が若い中間、太蔵兄貴が遊び人の悪党、おれが幽霊を演るんだよ」
「どんなお芝居?」
「人けのない堀へ釣りに出かけた中間が、古びた柳の木の下で女の幽霊に出くわす。幽霊は中間に、ある男をここへ連れてこい、でないと家まで追っかけてって、あんたに取り憑いてやると脅すんだ。その女は悪い男にさんざん貢がされた挙げ句、柳の傍で無残に斬り殺されたのさ」
「かわいそう」
「うん。中間も同じで、取り憑かれるのは怖いけど、それ以上に女を気の毒に思う。で、男を連れてきてやると約束するんだ」
伊都はその場景を思い浮かべ、ちょっと考えてから訊いた。
「幽霊は、どうして直接その男のところへ行って取り憑かないの?」
音弥が含み笑いをする。
「そこだよ。実は幽霊は、死んだその場所から離れることができないのさ。だから憎い男を取り殺してやりたいのに、自分からはそいつのとこへ行けないんだ。男のほうも、悪事を働いた場所は験が悪いってんで寄りつこうとしない。それで、幽霊は誰かを騙して手先に使おうと考えたってわけだよ」
「中間は騙されたことに気づかないのかしら」
「じきに気づいて、もうあの堀へは行くまいと思ったりもする。でもやっぱり幽霊がかわいそうで、なんとか力になってやりたくて、黙って知らないふりをするんだ。そして男に近づいて、飲ませたり煽てたり賺したり、あの手この手で取り入って柳のある堀端へ誘い出そうとするのさ。でもうまくいきかけると、そのたびに邪魔が入るんだ。ここはちょっと笑える場面だよ」
「まじめで優しい人ね。そんな人を騙すなんて心が痛みそう」
「そうだねえ。そのうち幽霊もつらくなってくる。人の好い中間のことが、だんだん好きになっちまうのさ。でも男への仕返しもあきらめられない。恋か復讐か――これはそういう話なんだよ」
聞いていると、何か胸が詰まるような心持ちになった。
「両方を取ることはできないの?」
「駄目なんだ。恋を選べば復讐は果たせない。復讐を選んで思いが叶えば、魂が天門をくぐっちまうから中間とはお別れなのさ」
「幽霊はどうするの。どちらを選ぶの?」
思わず前のめりになって訊くと、音弥はにやりとしながら人差し指を立てた。
「おっと、ここから先は教えないよ。結末を知りたいなら芝居を見てくれなきゃ」
言われてみればもっともだが、話の行方が気になった。たとえ恋を選んで、中間にその気持ちが届いたとしても、幽霊と人間とでは添い遂げられないのではないだろうか。
伊都はため息をついて座り直した。
「必ず見に行くわ」
「ものすごく怖くて別嬪の幽霊に化けるから、楽しみにしてておくれよ」
音弥は自信ありげに言うと、床の上に胡座をかいた。
「ところで、何か用事があるんじゃないのかい。おれは芝居の話ができて楽しいけど、それが目当てじゃないんだろう」
伊都は気持ちを切り替え、ここへ来た理由を話した。
「今日、鉄次さんとふたりでお食事に行く約束をしているの。でも何日も前から考えているのに着ていくものがちっとも決まらないから、音弥さんに助けてもらえたらと思って」
「伊都ちゃんの着物はみんな鉄次さんの見立てだから、どれを着たって感じよく仕上がる。でも、それじゃいつもと同じになっちまうからつまらない。せっかくの機会だから、普段とは違う姿であの人をはっとさせたい――と、そんなとこかな」
彼は正確に言い当てて、伊都がちょっと恥ずかしそうにするのを見ながら微笑んだ。
「いい考えだよ。男女のあいだってのは、そういうのが大事だからね」
音弥は身軽に立ち上がると、部屋の端に置いてあるいくつかの長櫃を開けて漁り始めた。
「おれの着物を貸そう」
「音弥さんの……って、女役の衣装?」
不思議に思いながら訊ねると、彼は背中を向けたままで答えた。
「違うよ。おれが若いころに着てたやつさ。美人が男物を着ると艶っぽいんだ。伊都ちゃんは背が高いから、たぶんいけるだろう」
櫃の中をしばらくごそごそやってから、音弥は明るい色味の小袖を三着抱えて戻ってきた。畳の上に広げたそれらと伊都を交互に見ながら、慎重に吟味する。
彼が最終的に選び出したのは、薄く軽い杢保上布の夏着物だった。
爽やかな白地に、錫色できりりと織り出された文様は〈波紋〉。水の上に波が広がるさまを、太さが変わっていく直線の連なりで表現した模様で、凜とした風情が感じられる。
いかにも――と伊都は思った。音弥さんが好んで身につけそうな着物だわ。鉄次さんにも似合いそう。でも、こんなに粋な柄行きをわたしに着こなせるかしら。
不安が顔に出ていたのか、音弥が力づけるようにうなずいて見せる。
「普段よりも、さらに垢抜けた感じになるはずだよ。そら、立って」
促されるままに腰を上げると、彼は小袖を広げて彼女の肩に着せかけた。
「うん、丈もぴったりだ。それに顔立ちが華やかだから、こういうはっきり大きい柄が好く映る。騙されたと思って着てってごらんよ。鉄次さんは、きっと気に入るはずさ」
「どんな帯を合わせたらいいかしら」
「柄が渋めだから、帯は遊び心のあるのがいい。たしか黒地に赤い金魚の刺繍のやつを持ってなかったかい」
頭の中でその組み合わせを想像してみた。たしかに洒落っ気がある。
「すごいわ、音弥さん。わたしだったら絶対に思いつかない」
「役に立てて嬉しいよ」
やはりここへ相談に来てよかった。苦手なことは人の知恵を借りるに限る。
伊都は着物を貸してもらい、音弥に礼を言って退出しかけたところで、肝心なことを聞き忘れているのを思い出した。
「幽霊のお芝居はいつ始まるの」
「観月十日からだよ。一等いい桟敷席を用意するから、鉄次さんと見においで」
そう言って、音弥はいたずらっぽく笑って見せた。
昼八つの刻鐘が遠くから聞こえてくると、伊都は読んでいた本を閉じて母屋の玄関へ向かった。約束の場所へ行くにはまだ早すぎるが、身支度はもうすっかり整っている。時が経つのを部屋でじっと待つよりも、街の中をぶらついているほうが気が紛れるはずだ。
玄関の上がり框で履き物をどれにするか考えていると、ちょうど通りかかった佐吉が声をかけてきた。
佐吉は伊都が龍康殿に来てから何かと世話を焼いてくれた孤児仲間で、今日までずっと寝食を共にしてきた兄のような存在だ。子どものころ、彼は手先の器用さを活かして掏摸を生業としていたが、堅気の商売に鞍替えした鉄次についていくために死に物狂いで勉強をして根本から生き方を変えた。二十五歳になった今は〈川渡屋〉の船番頭を務め、旅先での商取引のほとんどを立派に取り仕切っている。
「なんだ、おまえか。見慣れねえ格好してんな。一瞬わかんなかったよ」
伊都は振り向き、よれよれの棒縞の単衣を着た彼に苦笑を投げた。
「それ寝間着でしょう。いま起きたの?」
「休暇中なんだ、別にいいだろ」
佐吉は胸元を掻きながら、大口を開けて欠伸をした。
「出かけんのか」
「鉄次さんとお食事に」
「ああ」思い出したと言うようにうなずく。「なんか、そんなこと言ってたっけ。今日だったんだな。どこへ食いに行くんだ」
「知らないの。鉄次さんに決めてもらったから」
「ま、それが正解だよ。あの人に任せときゃ、間違いなく旨いものにありつけるさ」
「行き先がわからないから、帰りの見当がつかないわ。もしかすると少し遅くなるかも――」
「なに言ってんだ、馬鹿」佐吉が強い口調で彼女の言葉を遮った。あきれ顔をしている。「今夜は帰らねえつもりで気合い入れてけ」
伊都が目を丸くすると、彼はふんと鼻を鳴らした。
「素足に下駄を履きな」
土間に並んだ履き物のひとつを指差し、また欠伸をしながらすたすたと歩き去る。その後ろ姿を見送ってから戸口のほうへ向き直り、伊都は両手でそっと顔を挟んだ。頬が熱い。
佐吉っちゃんたら……。
つき合いが長いというのも難儀なもので、佐吉には何も隠すことができない。
気恥ずかしさを感じながらも、伊都は彼に言われた通り足袋を脱ぎ、前歯が斜めになった〝のめり下駄〟を選んで履いた。木地の柾目が出るように仕上げた黒漆塗りで、前壺は白、鼻緒は深紅。たしかに、草履よりもこちらのほうが今日の装いには合っている。
表門から蔵屋敷を出た彼女は、鈎川と嘉手川に挟まれた〈更町〉と呼ばれる東区の中を西へ向けてゆっくり歩いた。住居地域であるこのあたりには普通の民家や長屋しかないため、別州一の遊興地として知られる龍康殿らしい雰囲気はほとんどない。
ありふれた家々の連なりに、どこか心なごむものを感じながらしばらく歩いていくと、幅三間ほどの水路に行き当たった。右手に桟橋があり、〝チョイ舟〟と呼ばれる屋根なしの小舟が一艘舫われている。それを雇って西区の〈宛町〉まで行こうと思い、桟橋のほうへ足を向けると、ふいに裏道から目と鼻の先へ人が飛び出してきた。
一瞬早く足音に気づき、手前で踏みとどまったのでぶつかりはしない。しかし相手は肝を冷やしたようで、身をひねりながら悲鳴混じりの大声を上げた。
「なっ……嘘だろ!」
ずいぶん大げさねと思いながら顔を上げた伊都は、夏の陽の下で濃い影を落としながら立ち尽くしているその人物を見て唖然となった。
恐怖の――。「〈鉄馬〉一味」
あの襲撃以来〈川渡屋〉の仲間内では、〝恐怖の鉄馬一味〟が流行言葉のようになっていた。伊都が率いる船守たちも、よく鍛錬中に「そんな打ち込みじゃ、恐怖の鉄馬一味に負けちまうぞ」などと言い合って笑ったりしている。
鉄馬の松造は動揺から立ち直ると、急いで後ずさって距離を取った。その目がさっと右下へ動く。伊都の腰を見て得物の有無をたしかめたのだ。
今日は長刀は携えていないが、懐に小刀を入れている。だが、きっと彼にはわからないだろう。
「ど、どうして、あんたがここに」
興奮のせいなのか、松造の長い顔はほんのり赤らんでいた。
「なんてこった……まさかとは思うがあんた、このおれのことが忘れられずに後を――」
「それは違います」
ぴしゃりと言ったが、もう少しで吹き出すところだった。鉄次も前に剽軽と評していたが、ほんとうにこの男には悪党とは思えない滑稽なところがある。
「あなたのほうこそ、わたしたちに仕返しするために追ってきたのでは」
「あんたらがこの街にいるなんて知らなかったよ」
彼に嘘をついている様子はない。
「ここに来てるのはおれだけだ。ほかの連中は街の外にいる。なにしろ船はぼろぼろ、子分どもも半分はぼろぼろで動きようがねえからな。なんとか立て直すために、このへんに住んでる知り合いにちょっくら便宜を図ってもらおうと、恥を忍んでまかり越したのよ」
「あの人……〝二番手〟の人の具合はどうですか」
伊都は船上で剣を交えた男を思い出しながら訊いた。命は取らなかったが、脚にそれなりの深手を負わせたので、まだ当分は歩き回れないはずだ。
「三、四日は熱だしてうんうん唸ってたが、まあだいぶ落ち着いてきてるよ。ひでえ傷だが、すぱっときれいに斬られてるから死にやしねえ。あいつもけっこう使うんだが、あんたは桁が違ったな」
〝二番手〟の剣は伊都には脅威ではなかったが、きちんとした師について学んだ太刀筋だと感じていた。
「あの人は元は武士ですか」
「お、おう。まあな」
言い当てられて驚いたのか、松造がわずかにたじろぐ。
「うちの連中は大半が、前は城勤めをしてたんだ。といってもお目見え以下だし、武士でございなんぞと威張れるようなもんじゃなかったけどよ。おれがいちおう上役で御門番組頭、子分どもはその組子だった。たかが門番といったらそれまでだが、城でいちばん大きい南面正門の番士だったんだぜ。切妻屋根が乗っててよ、装飾もそらあ隅から隅まで見事だった。垂木の下には黄金の飾り金具があって、梁の上の彫刻はたしか何かの物語になってたな。飛仙から大矛を授かった武将が、虎を従えて鬼を退治に行くとか、そんなやつさ」
まるで自分の持ち物を自慢するように得々と話すのを微笑ましく聞いていたが、最後の部分で頭を横殴りされたような衝撃に襲われた。
自分はその彫刻を知っている。かつて見た覚えがある。
朔秋門――大光明城だわ。
頭の中で言葉にすると、幼い日の記憶がどっと蘇ってきた。
父に手を引かれて訪れた主家の居城。聳え立つ門の荘厳さ。陽光を受けて煌めいていた黄金の装飾金具。精緻に彫り込まれた華麗な彫刻の数々。その意味を一つひとつ教えてくれる父の声、優しい笑顔。懐かしさに胸が詰まる。
伊都はまだ何か喋っている松造の声を聞き流しながら、懐から手ぬぐいを出して額を押さえた。肌は汗ばんでいるのに、体の芯は凍ったように冷たく感じられる。
思いも寄らなかったことだが、鉄馬の松造とその手下たちは志鷹家の本城である大光明城の番士だったようだ。つまり彼女が復讐を誓った仇敵、志鷹頼英に仕えていたことになる。
故郷の天勝国を離れてから十二年、その間で同国人とまったく遭遇しなかったわけではないが、城勤めをしていた人物と出会ったのはこれが初めてだった。この邂逅は、あるいは僥倖となるかもしれない。調べてもなかなか有益な情報を得られない頼英とその周辺のことを、この男の口から何かしら聞き出せないだろうか。
期待で気持ちが上ずるのを感じたが、伊都はそれを急いで押しとどめた。
今そんなことに囚われては駄目。今日、心を向けるべき大切なものは、ほかにあるでしょう。
〝恋か復讐か――これはそういう話なんだよ〟
今朝聞いた音弥の言葉が脳裏に浮かんだ。
違う、あれはわたしの物語じゃないわ。わたしは、ひとつ得てひとつを失う悲しい幽霊になったりしない……。
伊都は手ぬぐいを仕舞いながら心を静めて、まだ独白を続けている松造に微笑みかけた。それに気づいた彼の喋る速度が落ち、やがてのろのろと止まる。
「な、なんだい」
伊都の冷や汗は引いたが、今度は彼が汗をかいていた。
「何を笑ってんだい」
「あなたとこんなところで立ち話をしているのが、なんだか可笑しく思えて」
「まあ、そりゃそうだな。凶暴な賊の頭なんかと出くわしたら、普通は逃げ出すもんさ。でも、あんたは篦棒に強えからなあ。殺られる前に、おれのほうが逃げ出すべきかもしれん」
決まり悪そうにしながら、松造が大きな鷲鼻を指でこする。
「立派なお城に勤めていたのに、どうして今は船を襲っているんですか」
「好きでこうなったわけじゃなくて、いろいろあったんだ。話せば長え話よ。あんたにとっては聞いてもつまんねえ、しょぼくれた事情さ」
「そんなことないわ。興味があります。でも今は、あまりのんびりしていられないの。あなたも、どこかへ急いでいらしたのでは」
松造が残念そうな顔になる。
「別嬪と話してたいのは山々だけどよ」
「引き留めてごめんなさい。お話の続きは、次に会ったら聞かせてください」
「次って……」彼は困惑気味に言った。「次なんかねえだろ」
「わたしは、また会うような気がします」
目を見つめながらにっこりすると、松造は鋭く息を吸い込んで頭を仰け反らせた。鳩尾を蹴られたかのように、頼りない足取りでよろよろと後ずさる。
「も、もう行く」持ち前のしっかりした声が、へろへろになって掠れていた。「これ以上は身が持たねえ」
あばよ、と言い残して水路沿いに南のほうへ行きかけたが、彼は少し先で立ち止まって名残惜しそうに振り向いた。
「なあ、やっぱりあんた、もしかしておれのことを――」
「違いますよ」
「だよなあ」
松造は大げさに嘆息すると、しょんぼり肩を落として歩いて行った。
鉄馬の松造と別れたあと、伊都は道を一本挟んでひそかに彼をつけた。会いに来たという人物が「このへんに住んでる」と言っていたので、目的地はそう遠くはないはずだ。
案の定、彼は十町も行かずに足を止めると、辻角に建つ一軒家に入っていった。大きくはないが立派な門構えの家で、庭木も手入れをされており、商家の別宅か何かのように見える。誰の持ち物かは、あとで簡単に調べられるだろう。
場所の確認を終えると、彼女は龍康殿の水路を縦横に行き来する〝チョイ舟〟を雇って待ち合わせ場所へ向かった。
船頭ひとり、客ひとりなので船脚は速い。
水路から水路へと渡り、橋をひとつ潜るたびに胸がそわついて、背筋が伸びるような快い緊張感が増すのを感じた。これほど長く同じ時を過ごしていても、今も鉄次に会えると思うだけでこんなにも心が高揚してしまう。
やがて舟は更町を抜け、商業地域の宛町との境界である嘉手川の流れに入った。落ち合う約束の俤橋は、ここから少し上にのぼったところだ。船頭が力強く櫓を漕ぎだすと、ほどなくして見覚えのある橋が近づいてきた。
その中ほどにひとり佇む、杖を持った長身の人影。まだ早いが、鉄次がもう来て待っている。
彼はこちらに背を向けて、軽く欄干にもたれていた。待ち人が下流から舟で来るとは思っていないのだろう。
伊都は船頭に声をかけ、橋のすぐ下にある船着場に寄せてもらって舟を降りた。逸る気持ちを抑えて石垣の土手に築かれた階段をゆっくり上りながら、髪や襟元が見苦しくないように念入りに整える。これでよしと思った時には、ちょうど橋のたもとに着いていた。
まるで気配を察したように鉄次がこちらを向き、軽く目を瞠る。いつもとは違う出で立ちで彼をはっとさせるという目論見は、どうやら成功したようだ。
しかし同時に、伊都のほうもどきりとさせられた。鉄次は今日、日ごろあまり纏わない黒を着ている。それは涼しげな絽織りの小袖で、漆黒の地に蔓草の図が鳥の子色で大きく伸びやかに描かれていた。
黒で装った彼はどこか謎めいていて、いつにも増して色気を感じさせる。
「お待たせしてごめんなさい」
胸の高鳴りを感じながら近寄って謝ると、鉄次はふっと微笑んだ。
「いくらも待っちゃいねえよ」
そう言って身を起こし、彼女を上から下までじっくりと眺める。
「男物とは、また洒落てるじゃないか。おまえの顔立ちをよく引き立ててるぜ。そいつは音弥が十八ぐらいまで着てたやつだな。おれの好みの柄だったんで、よく覚えてる」
「好みじゃなくても、鉄次さんは覚えているでしょう」
伊都はくすくす笑って、上目づかいに彼を見た。
「その絽も、とっても素敵です。新しく誂えたの?」
「いや、もらったんだ。夕べ一緒に飲んでた種物問屋がたいした伊達男でな、この手の作家物をごまんと持ってるのさ。で、今朝別れる時に、おれに合うから着てけって言われたんだよ」
「いい見立てだわ。もっと黒を着ればいいのに。見慣れないから、ちょっと別の人みたいに思えるけど、ほんとうによく似合ってます」
「お互い、たまにはこういうのも目新しくていいな」
じゃあ、わたしたち、今日だけは違う誰かに――出会ったばかりの見知らぬ者同士になって過ごしませんか。
一瞬、そんなことを言いそうになった。
何もかも失って流離っていた子供と、それに手を差し伸べた大人だった過去などなく、これまでに築いてきた結びつきもなく、ただここで行き会ってふと心が動くのを感じただけのふたりに。
今夜どこへも帰らなくていい男と女に。
もしそうなれたら、何かが変わるかもしれない。
「鉄次さん」
しかし、口を開いて出てきたのは違う言葉だった。
「何をご馳走してくださるの?」
意気地なし。恋心を自覚した十三、四のころから、わたしは少しも成長していないわ。
「今日をとても楽しみにしていました」
「とびきりの趣向を用意してるぜ。だが、まだちょいと早いから、五番町のあたりでも歩こうか。おまえ戻ってきてから、まだ街をぶらついてないだろう」
「鉄次さんと一緒にゆっくり街歩きするなんて、久しぶりで嬉しいわ。俤橋も――今日ここで待ち合わせようって言われて、すごく懐かしく思ったんです」
「この橋で会ってたのは、ちょっとのあいだだけだったけどな」
嘉手川にかかる俤橋は、龍康殿に来たばかりのころの伊都と鉄次の落ち合い場所だった。だがそのうち、毎日必ず同じ刻限に現れる彼女を見に男たちが集まり始め、心配した鉄次は会う場所を日ごとに変えるようになってしまった。
それでも伊都にとってこの橋はやはり特別で、彼との絆が深まっていった日々の記憶と強く結びついている。
「前にはなかった見世がいくつもあるな」
思い出深い橋を渡って宛町に入り、繁華な五番町の目抜き通りを歩きながら鉄次がつぶやいた。彼は以前来た時に見た店構えをすべて正確に覚えているので、何か変化があればすぐにわかるのだ。
「ほんとね。このあたりは入れ替わりが激しいから……」
何気なく横を向いた伊都の目に、鮮やかな色彩が飛び込んできた。足運びがわずかに遅くなり、鉄次が目敏くそれに気づく。
「ああ、いい色並びの陳列だな。そこの見世、覗いてみるか」
ふたりは人波を縫って道を横切り、土産物屋と団子屋のあいだで暖簾を出している間口三軒の小間物屋に入った。軒下の床几の上には、さまざまな模様の組紐や髪飾り、根付、櫛などがきれいに色分けして置かれている。中でも組紐は丸組、平組、角組に分類した上で淡色から濃色へ推移するように並べられており、先ほど伊都の目を引いたのもそれだった。
「こんなふうにしてあると、全部欲しくなってしまうわ」
つぶやいた彼女の背後から、肩越しに鉄次が台の上を覗き込む。
「端から端まで買ってやろうか」
思いがけず近くから彼の声がして、背筋がしびれるような感覚に襲われた。
もう――油断のならない人。
伊都はひと呼吸置いてから、ゆっくり振り返った。
「鉄次さん、わたしはちゃんとお給金をいただいているから、欲しいものがあれば買えるんです」
「そりゃ知ってるさ。支払ってる当人だからな。おまえを甘やかすのは、おれの道楽みたいなもんだよ」
彼は事もなげに言って、快活に笑った。
「端から端ってのは冗談だが、気に入ったものがあるなら言うといい」
伊都は陳列を見渡し、あるものにふと目を留めた。顔を上げて視線を送ると、見世の奥にいた若い店者が待ち構えていたように大急ぎで駆け寄ってくる。
「はい、何がご入り用でしょう」
伊都は鉄次のほうを見た。
「お買い物していいですか」
「もちろん」
財布を出そうと懐に入れた彼の手を、上からそっと押さえる。
「自分で」
不満そうな顔が返ってきたが、伊都はかまわず店者に品物を示して代金を渡し、小さな木箱を受け取って見世を出た。そのうしろに続きながら鉄次がぼやく。
「何を買ったか、見せてもくれねえのかい」
伊都は箱を開けると、中身を彼の掌の上にころんと落とした。
「根付か」
それはツゲの木で鬼灯を彫った精巧な細工物だった。葉脈まで再現された花被が一枚めくれており、中から橙色の果実が覗いている。
「こいつはよくできてる。けっこう値が張っただろう」
鉄次は手の上でそれを転がしながらじっくり鑑賞して、感心したように言った。
「いい買い物をしたな」
「それは差し上げます」
根付を返しかけた彼の手が止まる。
「鬼灯は無病息災のお守りだし、厄を除けるというでしょう。わたしが傍にいて守れない時でも、鉄次さんに無事でいて欲しいの」
伊都は彼の瞳を見つめながら、木箱を両手で差し出した。
「持っていてくれますか」
鉄次は箱を受け取って懐に入れると、代わりに出した煙草入れの提げ紐に根付を取り付け、帯に通しながら優しく微笑んだ。
「こうして、いつも身につけとくよ」
それからふたりは漫ろ歩きをさらに続け、途中で茶屋に入って冷やし飴を飲んだあと、三番町と二番町を経由して嘉手川のほとりにまた戻ってきた。そろそろ夕暮れが近づいており、低くたなびく雲が薄く茜色に染まっているが、高い空はまだ昼の青さをとどめている。
厳しい暑さがようやく和らぎ、涼風が吹き始めた川沿いの道は、夜の遊びに繰り出そうと集まってきた人々でごった返していた。
「さて、ぼちぼち向かうか」
鉄次は伊都をつれて人の流れに入り、河口のほうへ歩き出した。魚河岸が近いこのあたりには酒食を提供する見世が集まっており、川岸には数多くの水茶屋、道を挟んだ反対側には料理茶屋や舟宿が軒を連ねている。
どこのお見世を予約しているのかしら。
伊都は彼のあとに従いながら、考えを巡らせた。
凝ったものを食べさせる料理茶屋? 落ち着いた味わいのある舟宿? それとも坪庭のついた離れがあって、襖を開ければ次の間に床が取ってあるような――ううん、それは期待しすぎね。
「そこを下りるぜ」
鉄次が道を逸れ、幅の広い土手階段を下り始めた。その先には嘉手川沿いでもっとも大きな船着場がある。彼はそこで客待ちをしている屋根舟を素通りしていき、いちばん端に舫われている中型の屋形船に伊都をいざなった。
「え……まさか鉄次さん、今夜のために屋形船をわざわざ仕立てたの」
乗客ふたりで屋形船を一艘借り切るなんて、贅沢すぎないかしら。
「暑い時季なんで屋根舟でもよかったが、あんな素通しのやつにおまえを乗せてると、ほかの舟の男客にじろじろ見られて落ち着かねえからな」
鉄次が合図を送ると、桟橋で待っていた藍染めの半纏の男が船に板を渡し、伊都の手を引いて乗船させてくれた。
それは清しい木の香が漂う新造船で、甲板にもまだ汚れひとつついてはいない。窓障子に囲まれた屋形の内部は九畳と三畳の十二畳敷きで広々としており、料理の入った重箱や小皿、箸、酒器などが運び込まれて青畳の上にきちんと並べられていた。煙草盆や団扇も用意され、行灯にもすでに火が入っている。
「出してくれ」
鉄次は船頭に声をかけてから屋形に入ってきて、窓際に腰を落ち着けた。少し疲れているように見える。足の悪い彼にとって、長時間の歩行は時に大きな負担となるのだ。
「歩きすぎた?」
気づかう伊都に、彼は屈託のない笑みを返した。
「ちょいとな。おまえと一緒だったから、傷が疼くのをつい忘れて楽しんじまったよ」
窓障子の外に、ぽっと明かりが灯った。屋形の屋根に提灯がいくつか下げてあり、船頭がそれに火を入れて回っているのだ。すべて灯し終えると、彼は舫い綱を解いて船の艫に行き、ゆっくりと櫓を操り始めた。
屋形船がかすかに揺れて、岸を離れていく。
「お料理を取り分けましょうか」
伊都は四つある重箱のふたを端から開け、その中身を見て感嘆の声を上げた。旬の食材を使った、手の込んだ料理の数々が彩りも鮮やかにぎっしりと詰められている。
茶巾絞りのごま豆腐に、茄子と茗荷の三杯酢和え、山椒が香るアワビと車海老の煮物、スズキの酒蒸し。香辛料を利かせた合鴨の焼き物やハモの子の琥珀寄せ、キンメダイの白扇揚げなどもあった。
「きれいな盛り付けだわ。鉄次さん、どれから召し上がる?」
「任せるよ」
鉄次はすっかりくつろいだ様子で、白い小斉平焼の酒杯に酒を注いでいる。
「今日の酒は、前におまえが名づけたやつだ」
「〈恋華〉ね。飲むのは久しぶりです」
「今じゃ人気の銘柄になってるぜ。朝から川で冷やしてもらってたから、きっと旨いはずだ」
差し出された杯を受け取り、伊都は彼とちょっと視線を交わし合ってから口をつけた。ひんやりした酒が舌の火照りを冷ましながら流れ、喉をするりと滑り落ちていく。そのあとから甘く芳醇な香りが立ちのぼってきた。
「ああ美味しい」
「おまえも、いける口になったな」
鉄次がにやりとして、小皿に取り分けられた琥珀寄せを口に運ぶ。
伊都も同じ料理を味わってみた。八方出汁で炊いたハモの子の煮こごりで、塩ゆでして柚子を振った枝豆が添えてある。
「とっても上品な味ね。見た目も涼しげで、今の季節にぴったりだわ。鉄次さん、これ――仕出しはひょっとして〈辰田屋〉さん?」
嘉手川沿いの舟宿〈辰田屋〉は鉄次が共同経営者になっている見世で、伊都の孤児仲間の千太郎が庖丁人を務めている。
「わかるかい」
「小さいころ、いつも千太さんのお料理をいただいていたから」
「今日腕を振るったのは、じつは弟子の百太郎なんだ」
「お出汁の利かせ方とか、ちょっとしたところまで千太さんにそっくりだと思います」
「おまえがそう感じるほどなら、百太に及第点をやってもいいだろう。しかし〝千〟の弟子が〝百〟とは、可笑しな巡り合わせだよな」
鉄次が伊都を笑わせて、双方の杯に酒を注ぎ足す。
そうして日の入りを過ぎ、窓の外がすっかり暗くなるまでのあいだ、ふたりは上等な料理と酒を味わいながら気の置けない会話に興じた。伊都は鉄次の話をどれだけ聞いても飽きることがなく、自分が彼に話したいこともいくらでも思いつく。
「それで欣五郎が言うには――」
鉄次がこの二日ずっと一緒にいたという種物問屋の若旦那の話をしていると、ふいに窓の外の明かりがひとつ消えた。船頭が左舷側の提灯を消灯して歩いており、その影が障子に淡く浮かんでいる。
「どうしたのかしら」
訝る彼女を見て、鉄次が微笑んだ。
「始まるのさ」
何がと問う前に上空で爆発音が響き、伊都は目を輝かせた。
「花火ね」
「こっち来な」
差し招かれて傍に行くと、鉄次は行灯を消して窓障子を一枚開けた。船縁の向こうに広がる暗い川面には、空に大きく開いた花火の鮮やかな赤い光と、ほかの涼み舟が灯す提灯の明かりが無数に映って揺らめいている。それはどこか幻想的で、情趣を感じさせる眺めだった。
「きれい……」
「こんな見物の仕方もいいもんだろう」
ふたりはそこに横並びで座り、水に映る花火を肴にしながら残りの酒をゆっくりと味わった。
「俤橋の上で初めて一緒に花火を見た時、おまえは空に花が咲いたようだと言ってたな」
鉄次の感慨深げなつぶやきを最後に何となく会話が途切れたが、伊都は彼と過ごしていて間が持てずに困るということはない。沈黙はまったく苦にならず、むしろ居心地のよさと心の安らぎを感じた。
この夜がいつまでも続いたら、どんなにいいかしら。でも水面の花が咲き終わったら、わたしたちは当然のように帰っていくんだわ。帰るべきところへ、ふたり一緒に。
それが嬉しくて――少し寂しい。
伊都は杯を置くと、その手を横に伸ばした。鉄次のほうを見ないまま、畳の上に置かれた彼の手を探り当てて、指先だけをそっと絡ませる。
やがて打ち止めの花火が上がり、その光が静かに散り消えてしまうまで、鉄次は何も言わずに片手を預けていてくれた。
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