五十四 天勝国大光明郷・久渡阿紀 魔獣の巣
息子が悩んでいるとすぐわかる。伊達に二十五年も育ててきたわけではない。
久渡阿紀は慣れた手つきで縫い物を続けながら、上目づかいに縁側のほうを見た。そこにはひとり息子の久渡泰俊が室内に背を向けて座り、さして面白味があるわけでもない前栽をぼんやり眺めている。彼は幼いころから何か懸念があると母親の居間へ来て、こうして縁先で黙然と考え込むのが常だった。甘え心から「どうしたのか」と訊ねられるのを待っているわけではなく、彼にとってはそこが家の中でいちばん落ち着いて物事を考えられる場所であるらしい。
心ゆくまで思索にふけったあと、泰俊は母にその内容を打ち明けることもあれば、胸に秘したままにすることもあった。阿紀は彼が話したければ聞くし、助言を求められれば与えもするが、自分のほうから「話せ」と促しはしない。その点、亡き夫は息子に対して妻よりもずっと過保護だった。泰俊が少しでも冴えない顔をしていると放っておけず、必ず理由を詮索してはあれこれと世話を焼いていたものだ。
阿紀は視線を手元に戻すと、縫い終わりで玉留めをして糸を切った。
パチンと鳴った鋏の音で我に返ったように、泰俊が背筋を伸ばしてゆっくりと振り向く。まだ想念に決着がついていないのか、瞳にはかすかな陰りが窺えた。
「母上」
我が子ながら惚れ惚れする、強く深く響く芯のある声。彼の心がどれほど乱れている時でも、これだけは決して変わらない。
「話があります」
「はい、聞きますよ」
阿紀はうなずき、縫い上がった夏物の小袖を膝に置いた。泰俊が立ち上がり、室内に入ってきて対面に腰を下ろす。
「じつは御屋形さまより、表使いの侍女とする女を当家から差し出すようにとのご下命がありました」
息子は深刻な表情をしているが、阿紀はきょとんとなった。
「表使いの侍女とは、また奇妙なことを。表向きで殿のお世話をする人は、お小姓なり何なりが大勢おられるでしょうに」
「はい、ですが女もひとり置きたいと。男は女に比べると気の細やかさに欠けるし、図体が大きく目立つので、そういう者ばかりに取り囲まれていると息が詰まるそうです」
「では奥向きの中から、適当な侍女を表へ出されればすむことでは」
泰俊が畳の目を見つめ、小さくため息をもらす。
「奥向きの者たちは、もう見飽きた――と」
なんとわがままな。阿紀は内心あきれたが、それを顔には出さなかった。
「そういうことならば、ご下命に従うよりありますまい。さて誰がよいか……櫟井の分家に、先ごろ後家になったそなたのいとこが――」
「母上」
泰俊が阿紀の言葉をそっと遮る。
「御屋形さまは、人の好みが甚だ難しいのです」
「どのように」
「まず容姿が整っておらねば、身の回りに置くことをお認めにはなりません。男も女もです。女の場合は若いことも重要で、二十歳も半ばを過ぎたような者にはたいてい目もくれようとなさいません」
「ふむ」阿紀は低く唸り、小首を傾げた。「それでは、櫟井の嘉はお気に召さぬやもしれませぬな。あの子は気立てはよいが、顔貌は少し素朴にすぎる。しかし我が家の親戚筋で美人というと――」
「母上」
泰俊が再び遮った。切羽詰まった目つきをしている。
「問題は、そこではないのです」
阿紀は口をつぐみ、少し間を置いてから静かに問いかけた。
「何が問題なのですか」
「御屋形さまのお気に召して、お側に上がることを許されると……お手がつくことがあります」
ああ、なるほど。腑に落ちた。
侍女と言ってはいるが、その実は新しい〝女〟を所望しているというわけだ。奥衆のうちでめぼしい者にはもうひととおり手をつけ終え、今は新味を求めているといったところなのだろう。
城主が気に入った侍女や女中に手を出す――それ自体は、別に珍しい話ではない。側女にでも取り立てられれば女にとっては大変な出世だし、もし運よく男子のひとりも産めば一生安泰なので、そうなることを自ら望む者も少なくないはずだ。
息子が事を妙に大仰に捉えているらしいのが、阿紀には不思議に思えた。
「許婚や夫のある者でさえなければ、殿のお情けを受けたとて障りはありますまい。むしろ家の誉れなのでは」
泰俊が暗い眼差しを阿紀に注ぐ。
「これは城内で、みなが見ぬふり聞かぬふりをしている秘めごとですが……」
盗み聞く者などいるはずもないのに、辺りを憚るように声をひそめて前置きしてから、彼は重々しい調子で語った。
「お手がついた女は初めのうちこそ可愛がられますが、やがては犬畜生のような扱いを受けることとなります。例外なく、必ずです。少しでも意に染まぬことをすれば躾と称して打たれ、気まぐれにいたぶられ、時に柱につながれ、水や火や――虫などを使って責められることも。そうしていずれ御屋形さまの飽きがくれば……病や事故を装って始末されます」
ぞっとなった。
いささか現実味に欠ける話だが、それでも絶対にないとは言い切れない。主家の当主はもともと、あまり評判の良くない人物でもある。しかし、こんな陰惨な秘話が耳に入ってきたことはこれまでに一度もなかった。もっとも、簡単には外に流出しないからこそ〝秘話〟なのだが。
「泰俊どの、見てきたように語っておられるが、そなたはそれらのことを己が目でご覧になられたのか」
母の問いに答えようとした泰俊の顔から、すうっと血の気が引いた。彼が目の当たりにしてきたさまざまな出来事が、今まさに脳裏に去来しているのだろう。
蒼白になった息子を見て、阿紀は彼の語ったことがすべて事実なのだと確信し、悍ましさのあまり軽く悪心を催した。三年前に他界した夫と、一粒種の総領息子が長年仕えてきた人物が、よもやそのような人道に悖る悪辣非道の輩であったとは。なぜこれまで打ち明けてくれなかったのか――と、多少不満も感じたが、むろん 箝口令が敷かれているのだろうし、侍として主君の恥はたとえ相手が家族であろうとももらせなかったのだろう。父子は似た者同士で、両者ともに生真面目なのだ。
「これまでに何人」
阿紀が訊ねると、うつむいていた泰俊がのろのろと顔を上げた。
「わたしが知るだけで……六人です」
常軌を逸している。そんなものは、もはや人の皮を被った獣ではないか。
「城内に、殿をお諫めする人はおられぬのですか」
息子がぶるっと身震いする。
「過去には何度か……しかし――」
諫言など聞き入れるはずもないか。そういうものに耳を貸す人物なら、加虐趣味で六人も殺めるような真似など、そもそもしないだろう。
「諭そうとした人々は、閑職に追いやられでもしましたか」
「それならば、まだ良いほうで……」
殺された者もいるのか。
阿紀は身を固くし、ごくりと唾を飲んだ。ふと視線を下げれば、知らぬ間に両手を握り締め、縫い上げたばかりの小袖の襟を引きちぎらんばかりにしている。彼女は強張った指を無理に広げると、努めて平静を装いながらゆっくり着物を畳み始めた。こういう慣れ親しんだ、そして必ず思い通りの結果につながる動作をしていると心が落ち着くものだ。
きれいに畳み終えると「ふむ」と軽く鼻を鳴らし、阿紀は悄然としている息子を見た。
「つまりはこうですか。侍女に出す者は、若く美しくなければ殿はお気に入られぬ。しかしあまり気に入るような娘を渡せばお手がつき、やがて虐め殺されるやもしれぬ。ゆえに、そなたは苦慮しておられると」
泰俊がこくりとうなずく。
死なせる前提で親戚筋から生け贄を選ぶのだから、それはいくら頭を悩ませたところで結論など出せぬだろう。
「ほとほと困り果て、母上のお知恵をお借りいたしたく――」
「お貸ししましょう」
阿紀はきっぱりと言った。真に追い込まれた時に息子が頼ってくれるなど、親としてこれにまさる喜びはない。
「もはやご案じなさいますな。大光明のお城へは、わたしがまいります」
彼女の言葉に泰俊がはっとなり、それから眉根に皺を寄せる。
「しかし母上、先ほども申し上げましたが、御屋形さまは――」
「若い美人でなければいらぬというのでしょう。なるほど、たしかにわたしは若くも美しくもありませぬ。だが泰俊どの、殿はそなたにはっきりとそうおおせられましたのか。久渡家より年若い美女をば差し出せ、と」
息子はじっと目を凝らして考え込み、ゆっくり頭を振った。
「いえ……表使いの侍女が務まる、気の利きたる者をと」
「では美女云々の条件は、あくまでそなたの当て推量にすぎぬこと。主君の心を推し量るのは肝要なれど、たまさか量り損ねたからとて、殿もそう厳しくお咎めにはなりますまい」
少し混乱気味の表情をしている泰俊に、阿紀はにこやかに畳みかけた。
「気が利く者をとのお申し付けなら、この母はまさに適任。幼きころより見知るそなたも、さように思われましょう。それにわたしであれば、万が一にも殿のお手がつくようなこともない。すなわち身に危険は及ばぬというわけです」
彼は説得されかけたように見えたが、それは一瞬だけだった。
「いえ、お待ちを。御屋形さまは、そう容易く他者の思惑にはまるようなおかたではありません」
これまでに城内で命を落とした者は、お手つきの女や諫言した人々ばかりに留まらぬ。もし不興を買えば、どんな立場の誰であろうとも等しくその身は危うい。それに主君は不可測な性質なので、何をすれば勘気を被るかはその場になってみなければ誰にもわからぬのだ。何かの評議のさなか、たまたま目が合った時に鼻を掻いていたという理由で、側仕えの鼻先を切り落としたことさえある。泰俊は身を乗り出しながら、そう切々と語った。
「城になど上がって、母上に――」額に汗が光っている。必死の面持ちだ。「もし母上の身に何かあったら」
「泰俊どの」
阿紀は穏やかに言い、前に膝を進めて息子の手を取った。両手でやんわり包み込み、力強く握る。
そなたさえ、無事で健やかならば――。
「母は何も怖くはありませぬ。事に先んじて気をもむのはおやめなされ。御屋形さまが難しいおかたでも、わたしは年の功でうまくつき合ってみせますよ」
天勝国東部の楽々浦郷を領する久渡家は、名家志鷹家に仕えて三百年余。現在の当主である泰俊の祖父の代より、志鷹家支族の一角に名を連ねている。
鏑木家や都志見家といった有力支族に比べると家格は低く、立場的にも地味な新参ではあるものの、幸いにも歴代当主がその時々の主君に目をかけられて取り立てられてきた。
久渡泰俊の今の主人は、十二年前に謀反を起こして実兄の朋房公から当主の座を奪い取った志鷹頼英だ。当時十四歳だった泰俊は事件から間もなく城に上がり、幼少時より通っている城内道場で顔見知りになっていた頼英に小姓として仕えることとなった。
その一方で、泰俊の父泰典が頼英を新たな主と認め、臣従を誓うまでには少し時がかかっている。朋房公が十代のころから側仕えをしていた彼と一部の同輩たちは、頼英の反逆を快く思っていなかったのだ。しかし、代替わり後にそれを公然と表明した者たちが家ごと排除されていくのを見た泰典は生き残りを図り、頼英の幕下に属することで粛清の嵐を切り抜けた。
その後は淡々と城勤めを続けていたが、三年前に病を得て五十歳で亡くなるその日まで、頼英に信服することはついになかったようだ。
阿紀は夫が新しい主人の下で勤めに就いて以来、鬱々として心晴れぬらしい様子に気づいていたが、彼が家で語ろうとしない部分には敢えて踏み込まないようにしていた。よしんば強引に胸の内を暴こうとしたところで、彼は妻に泣き言など決して聞かせはしなかっただろう。だが同じ城勤めをする息子の泰俊とは、阿紀の知らぬところで憂さを共有していたのかもしれない。
身内が語らない志鷹頼英の評判は、城下の噂話でたまにちらほらと耳にする程度だった。
〝今度の殿さまは若くて色男だが、だいぶ気難しいらしい〟〝些細なしくじりも決して見過ごさず、逆らう者にはいっさい容赦しないそうだ〟――と、そういった話が小声で囁かれていたように思う。しかし為政者とは大概そういうものだろうと、当時はさほど気にも留めていなかった。
泰俊から頼英の度し難い乱行について聞かされた今では、あれらの噂話の苛烈な側面をまざまざと思い描くことができる。代替わり以降、足を運ぶ機会もなかった主家の居城は、知らぬうちに伏魔殿と化していたようだ。
息子さえ無事なら何も怖くないというのは嘘ではないが、阿紀は魔物の塒に無手で飛び込むような愚かな真似をするつもりもなかった。凶暴な魔獣と対峙するからには、それなりの武器がいる。
息子を生かし、かつ己をも生かすつもりならば、せいぜい賢明に立ち回らねばならない。
阿紀は初出仕までの日々を、無駄に恐れたり思い悩んだりするのではなく、生き残る確率を増やすための下準備に費やした。
大光明城表御殿、家老の間〈翠〉。
侍女としての出仕初日、久渡阿紀は登城したその足で次席家老来栖篤之の部屋へ出向いた。彼は志鷹家支族の中でも最高の門閥家である来栖家の当主で、年齢は奇しくも阿紀と同じ五十五歳。信心深く清廉な人柄で知られている。
「泰典どのが亡くなって、もう――三年になるか」
篤之は阿紀を部屋に迎えると、生前に親交のあった彼女の亡夫にまず触れた。端厳とした風貌に似合いの太く低い声だが、問いかける口調は優しく穏やかだ。
「はい。その節は魂送りの儀に足をお運びいただきまして、まことにかたじけのうございました」
「惜しい人物であったな」
形式的な言葉ではなく、本心から言っているように聞こえる。
「このたびのこと、あらましは智穂から聞いている」
話が本題に入った。智穂というのは篤之の妻で、阿紀とは旧知の間柄だ。娘時代に同じ師匠から字を習っていたのが縁となり、それぞれ嫁いだあともずっと親しく文のやり取りを続けている。
今回、阿紀は彼女を通して、篤之に城内での後ろ盾となってくれるよう申し入れていた。次席家老の推薦という形で城に入れば、志鷹頼英も顔を見ただけで追い返しはしないだろうと踏んでのことだ。気に入られるかどうかは後のこととして、ひとまず奉公を許されないことには何も始まらない。こうして出張ってきたからには、是が非でも侍女の座に収まるつもりだった。そうでなければ、またぞろ息子が頭を抱える羽目になる。
「御屋形さまが泰俊に所望しておられた表使いの侍女に、わしがかねてより昵懇の阿紀どのを推す――という形でよろしいか」
「そう、お願いできればと」
古い友は夫に、阿紀の要望を正確に伝えてくれたようだ。
阿紀は篤之自身とは昵懇といえるほどの仲ではないが、昔から夫を介して多少のつき合いはあった。また来栖家の嫡男篤人は城内剣術道場での泰俊の先輩で、日ごろなにかと息子に目をかけてくれている。両家の関係は傍目にも良好で、篤之が阿紀を推挙したとしても決して不自然ではないはずだ。
「ときに今日、泰俊は」
「家におります。ついてくると申しましたが、よくよく言い含めて留まらせました」
阿紀は初出仕の日を、敢えて息子の非番日に被せた。自分の身に何かが起こるとしたら、もっとも危険なのは頼英公と初めて顔を合わせる今日だと考えている。よもやいきなり命を取られることはあるまいと思うが、彼の期待に背く老婦が厚かましくもしゃしゃり出るからには、何かしら非情な仕打ちを受ける覚悟はしておいたほうがいいだろう。しかし、それを泰俊に見せたくはなかった。親思いの彼は、母親がいたぶられるさまを黙って見ていられないかもしれない。
「わたくしが殿にお目見えする場に、あれはおらぬほうがよろしいかと」
「うむ、わしもそう思う」
篤之は阿紀の意図を読んでいるようだ。
「今後も城内では、あまり親子の親密なところを見せぬほうがよかろうな」
互いが互いの弱みとならぬよう――。
阿紀は彼と目を見交わし、同じことを考えているのを悟った。
「そのつもりでおります」
「では推挙の件は引き受けた。まずは御屋形さまに拝謁して、ご挨拶をなされよ。わしは必ずその場におり、口添えをいたすゆえ」
「なにとぞ、よろしくお願い申し上げます」
阿紀が深く低頭すると、篤之は襖を隔てた次の間に声をかけた。
「維織は来ておるか」
「はい、ここに」
音もなく襖が開くと、その向こうに小柄な少年が控えていた。歳は十歳ぐらいだろうか。
「これは先年亡くなった、わしの末弟維央の遺児で来栖維織と申す。十一の歳から二年半ほど御屋形さまの小姓を務め、城内のことはひととおり弁えておるので、あなたのお役に立つことと思う」
親切にも、事前に案内役を手配してくれていたらしい。篤之は阿紀に甥を紹介してから、あらためて彼のほうを見た。
「維織、こちらが昨日話しておいた久渡泰俊の母御の阿紀どのだ。本日より御屋形さまにお仕えすることとなるゆえ、臨機にお手助けするように」
「承りました」
きびきびと応えた少年は可愛い顔立ちで、子犬のような黒目がちの目をしていた。かなりの童顔で十三歳にしては幼く見える。
家老の間を辞去したあと、阿紀は維織に殿舎内を案内された。
「玄関の間の奥側に小姓の詰め所がありますが、そこへ女人に入っていただくわけにもいかないので、物置部屋のひとつをあなたの控えの間として空けておきました」
最初に連れて行かれたのは、玄関の間の左手にある四畳ほどの板間だった。中はがらんと殺風景で窓もなく、有明行灯がひとつある以外には何も置かれていない。それでも、仕事が手空きの時に身を休められる場所があるのはありがたいことだ。
座布団を調達すること――阿紀は部屋を見回したあと、襖を閉めてから雑記帳に覚え書きを記した。
「お心配りいただき、かたじけのう存じます」
阿紀が礼を述べると、維織は少し居心地が悪そうに目を逸らせた。愛らしい見た目とは裏腹に愛想のない少年で、先ほどからにこりともしない。
「玄関の右手には近習目付の部屋と、御殿付きの療師の部屋があります。その脇をまっすぐ進むと御膳所と台所、渡り廊下の先にある殿舎は役所です」
流れるように説明しながら足早に歩く彼について行くだけで大変だが、阿紀は教えられたことは細大漏らさず帳面に書き入れた。同じことを何度も訊ねるような真似をして、役立たずの年寄りと思われたくはない。
「ここから始まる大廊下は――」
維織はいくつかの小部屋を経由したあと、殿舎を南北に貫く廊下に阿紀をいざなった。
「表御殿でいちばん長い廊下で、五十二間あります。左手に四間続きの大広間、右手には各詰め所と呉服の間、風呂の間。馬廻組の詰め所もあり、泰俊どのもそこにおられることが多いです」
おや、と阿紀は意外に思った。不本意そうに案内をしているくせに、わざわざ息子のことを教えてくれたりするのか――と。きっと根が真面目なのだろう。
「廊下の突き当たりは表御座之間で、御屋形さまは毎日だいたい朝四つ半ごろに中奥よりお出ましになります。阿紀どのは出仕日には朝四つから先ほどの部屋でお待ちになり、ご出座の知らせがあったらすぐ表御座之間へ行って、次の間に控えているようにしてください」
「承知いたしました」
大光明城の御殿は広いが、構造はあまり入り組んでいないのでわかりやすい。これなら城内で迷う心配はあまりしなくていいだろう。
そんなことを考えながら指示の内容を書き記していると、いつの間にか維織が近くに来て手元を覗きたそうにしていた。
「先ほどから何を書いていらっしゃるのですか」眉間に皺が寄っている。不審に思っているようだ。「失礼ですが、拝見しても?」
阿紀は微笑み、雑記帳を彼に手渡した。別に見られて困るようなことは書いていない。
「わたしは何でも書いて覚える質なのです。維織どのは?」
少年がぱらぱらと紙をめくり、記述に目を通しながら半分上の空で答える。
「わたしは……重要なことは頭の中で何度も反復して忘れないようにします」
「殿のお側付きをなさっていると、覚えねばならぬことがたくさんあって、さぞご苦労でしょうね」
何気ない言葉だったが、維織は急に警戒するような表情になって阿紀に帳面を突き返した。
「御屋形さまにお仕えできるだけで幸せですから、苦労などと思ったことはありません」
声音が硬い。雑談と思わせて口車に乗せ、勤めや主君への不平不満を言わせようとしていると感じたのかもしれない。うっかりつられて余計なことをもらさないよう、日ごろから用心しているのだろう。
城内に味方を作るためにも、彼とはぜひ仲良くしたいところだが、これはなかなかに手ごわそうだ。
「一度に何もかもお教えしても混乱するだけでしょうから、今のところはここまでにしておきましょう。今後はわからないことがあれば、その都度わたしに訊ねてください」
維織はそう言って案内を切り上げると、阿紀を伴って最初の部屋まで戻った。
「御屋形さまから拝謁のお許しがあるまで、しばらく中でお待ちを」
「丁寧にご説明くださり、かたじけのうございました」
阿紀は彼と目を合わせて、笑顔で礼を述べた。しかし相手から笑みは返ってこない。
維織は会釈だけして立ち去りかけたが、踏み出した足をすぐ止めると、ちょっと考えてから振り返った。
「阿紀どの、申し上げておきたいことがあります」
ひどく真面目くさった表情をしている。阿紀は居住まいを正し、自らも神妙な面持ちでうなずいた。
「はい、何なりと」
「伯父に命じられたことですから、できるだけあなたの手助けはします。しかし本音を申し上げれば、とんだ面倒ごとを押しつけられたと思っています。わたしにも小姓としての務めがありますし、決して暇を持て余しているわけではありません。それを踏まえ、なるべく手を煩わせぬように願いたいものです」
早口に、取りつく島もないほど冷たく言い放つと、彼は阿紀の返答を待つことなく大股に廊下を歩き去った。
風通しの悪い小部屋で、何もすることのないまま待つこと一刻あまり。
そろそろ午がこようかという時分になって、ようやく迎えがやって来た。二十歳ぐらいと思われる優男だが、何が気に入らないのかひどい仏頂面をしている。どうもこの城内には、笑顔というものが欠落しているようだ。
「ご案内します。どうぞこちらへ」
阿紀はすっかり待ちくたびれ、すでに少々疲れてもいたが、それを見破られないよう表情を引き締めて彼の後に続いた。
「広間には筆頭家老の鏑木祐充さまとご子息の崇充さま、次席家老の来栖篤之さま、小姓組の来栖維織、馬廻組頭の高牟礼顕祐さまがおられます」
部屋へ入る前に、迎えの男は彼女にそう教えた。彼が挙げたのはどれもよく知っている名前だったが、篤之以外とは過去に挨拶を交わした程度の面識しかない。それらの人からの、いざという時の助太刀は期待しないほうがいいだろう。
初めて足を踏み入れた大広間は、想像とはだいぶ異なっていた。こうした御殿によく見られる華麗な金碧障壁画ではなく、無骨な水墨画で全壁面が飾られている。それに合わせて、城主着座の間の格式高い二重折り上げ格天井も、すべての材が黒一色に塗られていた。
障壁画の題材は荒々しくも幻想的な龍だ。西側の壁には逆巻く大波をくぐる龍。東側の壁には稲光が走る雷雲をまとう龍。いずれも大胆な筆致で勢いよく描かれており、押し迫ってくるような迫力がある。睨みつける眼は眼光鋭く、阿紀は下段の間の中ほどまで進み出ていきながら、その視線が体に突き刺さるような錯覚をおぼえていた。
部屋の左手に来栖篤之と維織、右手にはそれ以外の三人が座っており、彼らもまた一様に彼女に注目している。
総じて風采の良い人々だが、筆頭家老の鏑木祐充だけは別だった。彼は小賢しい狐のような顔をしており、くぼんだ小さな目はどこか卑しげで、着物がだぶついて見えるほど痩せた体は枯れ果てた老木を連想させる。その薄い唇には、笑う人のいない城内で阿紀が今日初めて目にする笑みがうっすらと浮かんでいた。この状況を楽しんでいるのだろうか。
重苦しい気分で平伏したまま待っていると、しばらくして回廊のほうから足音が近づき、志鷹頼英が上段の間に入って来た。
「その婆は何者か」
着座した彼が訊ねる声を耳にした途端、背筋がひやりとした。
普通は声にも何かしらの表情がある。冷ややかだったり温かかったりと、体温のようなものも感じる。
だが頼英のそれには何もなかった。
美声だが、奇妙に平板で抑揚に欠ける声。もし石に口が生えてしゃべったなら、斯くもあらんと思われる人間味に欠けた声。それには阿紀を思わず萎縮させるような、曰く言いがたい不気味さがあった。
「御屋形さまは、久渡家に侍女を所望されたことを覚えておいでか」
来栖篤之が静かに訊いた。
「むろん覚えている」
木で鼻をくくるように頼英が答える。
「まさか、これがそうだとは申すまいな」
ねっとり皮肉られても篤之は動じない。
「表御殿の侍女ともなれば、生半な者を置くわけにはまいりませぬ。他国の客人の前にも出せるだけの品位を備えた人物でなければ。そこでわたしから、久渡泰俊の母御の阿紀どのを推挙いたします」
怒るか笑い出すか、何かするだろうと思ったが、頼英はまったく反応を示さずに沈黙した。床しか見えていない阿紀には、彼が今どんな顔をしているのかすらわからない。次に話がどう転ぶか予想がつかず、落ち着かない気持ちの中でじりじりと時だけが過ぎていく。
もしや頼英公は去ってしまったのでは――そう思われ始めたころ、ようやくまたあの虚無的な声が聞こえてきた。
「婆、顔を上げよ」
動悸が速くなる。緊張で喉が張り付くのを感じたが、阿紀は己を鼓舞して毅然と頭をもたげた。
心理的な影響なのか視界が薄暗く、上段の間が先ほど見た時よりもさらに遠くに感じられる。その中央に、白の装束をまとった志鷹頼英が一輪の百合の花のように座していた。
ひと目見れば誰もがはっと目を瞠らずにいられない、水際立ったその男ぶり。彼は若いころから大変な美青年だったが、御年三十三歳になった今も容色はまったく衰えていないようだ。鼻筋がまっすぐに通り、目の形が完璧に左右対称で、腕のいい職人が手がけた工芸品のように整っている。
だが表情は乏しく、瞳は凍りついた沼のようで、生き生きとしたところが少しもなかった。これではせっかくの美貌も宝の持ち腐れというものだ。
おやまあ、もったいないこと……。
なにやら残念な気持ちが湧いてきて、そのことが阿紀の心身のこわばりをわずかにほぐしたようだった。
「殿の麗しきご尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じまする」
口上を述べる声も震えない。出だしは上々――と思えたが、頼英の次の言葉で再び体に力が入る。
「近くへまいれ」
だいじょうぶ。近寄ったからといって、頭から食われるわけではない。阿紀は自分にそう言い聞かせて、控えめに前へ膝行った。
「よく見えぬ。もっと寄れ」
再度促す声に首根っ子を押さえられるような圧迫感をおぼえながら、再び前にそっと膝をすべらせる。
「もっとだ」
さらに前へ。
「まだ遠い」
執拗な指図に従って少しずつ前へと進んでいき、気づけば上段の間までもう二間もないところまで来ていた。いくらなんでも、この距離で見えていないはずはない。
嬲っているのだ――と阿紀は思った。猫が遊びで鼠を弄うように。それでいて楽しんでいる様子がまったくないとは、なんと底気味の悪い男なのだろう。
ここで立ち上がって上段の間にずかずか踏み入り、頼英公と顔を突き合わせて「さ、篤と御覧じろ」と凄んでやれたら、どんなに胸がすっとすることか。
幸い頼英はそれ以上前へ来いとは命じず、値踏みするような眼差しをしばらく彼女に注いだあと、ため息交じりに言った。
「醜い」
若さの絶頂にあったころですら、人に「美しい」と言われたことはない。だから見た目を褒められないことには慣れている。にもかかわらず、頼英の身もふたもない感想に阿紀の心は傷ついた。
「美男の泰俊がおまえのような者から産まれたとは、にわかには信じがたい」
こんな場面でも、息子を思うと力が湧いてくる。阿紀は喉の奥に澱んでいた息を吐き出し、まっすぐに頼英を見た。
「ありがたいことに、せがれは父親に似てくれました。まだ殿もご記憶と存じますが、先年亡くなりました我が夫はたいそう好い男でございましたゆえ」
ぬけぬけと惚気て、にっこりする。
生意気と思われそうで少し危うい綱渡りではあるが、阿紀は頼英の前で意気消沈したり、まごついて見せたりしたくはなかった。
「わしは美しいものを好む」
阿紀の言葉を気に留めるふうもなく聞き流し、頼英は脇息に寄りかかりながら言った。
「美しさのないものは見るに堪えぬ。ここで側仕えをしたいなら、おまえの美しい部分を何かひとつでも見せてみよ」
美しい部分。
あまりに予想外の要求に、阿紀の頭は一瞬真っ白になった。
見せて納得してもらえるような美しい部分――そんなものが、わたしにあるだろうか。魅力に乏しいことを自覚しているこの顔に。年を取って肝心なところの肉が落ち、いらぬところに肉がつき、水気も脂気もなくなったこの体に。
沈黙が長くなりすぎている。早く答えなければ。でも何も思いつかない。
焦燥感で頭がかっと熱くなり、首のうしろに汗が噴き出した。それが背骨の上をたらたらと流れ落ち、虫が這っているように全身がむずがゆくなる。
「どうした」
物憂げに頼英が訊く。
「なぜ黙っている。見せよと命じたのが聞こえなかったか。それとも美しい部分は何ひとつないというのか。そのような者に生きる価値があるとは思えぬな」
淡々とした彼の言葉に、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
参りました、と言って引き下がるべきだろうか。いや、この場を切り抜ける手立てはあるはず。考えろ。何か思いつけ。早く早く。
「僭越ながら、御屋形さま――」
左手から誰かが言った。涼やかな声だが、少し上ずっている。
「わたしからひと言、申し上げてもよろしゅうございますか」
阿紀はそちらに目を向け、声の主が来栖維織であることを知った。彼は上段の間に視線を据え、息を凝らして主人の許可を待っている。
頼英はたっぷり間を置いてから、退屈そうに言った。
「申せ」
「久渡阿紀どのは、ご右筆衆と比べても遜色ない美事な文字を書かれます。美しい字を――美しいものを生み出す手と才をお持ちです」
彼の言葉に意表を突かれ、阿紀はぽかんとなった。
いつわたしの手蹟を……ああ、そうだ、帳面を見せろと言われたのだった。しかし、まさか彼がここで字のことなど持ち出すとは。
「美しい字」
頼英が低くつぶやく。
「それは果たして、この婆の美しい部分か」
「はい」維織は間髪を入れず答えた。「麗しい筆跡は、すなわち阿紀どのの内より出でる美しさであると存じます」
詭弁に近い。しかし妙に説得力がある。
ふ――と、かすかに頼英が笑ったように見えた。それは阿紀がこれまで見た中で、もっとも恐ろしく禍々しい笑みだった。
「では見よう。誰ぞ支度せよ」
上段の間の奥に控えていた十四、五歳の小姓が弾かれたように立ち上がり、阿紀の前に蒔絵の文箱が載った文机を運んできた。
「維織」
阿紀が墨を磨り始めると、頼英は少年に訊ねた。
「見る価値はあるのだな」
維織が小さくはっと息を呑み、膝の上で固く拳を握る。
「ございます」
「違ったら如何する」
厭な男――。阿紀は硯の陸に水を差しながら思った。年若い者をそんなふうに追い詰めずともよかろうに。
維織は少し顔色を悪くしながらも、声に動揺を表すことなくきっぱりと答えた。
「如何様にも」
「では鑑賞に堪えるほどのものでなかった時は、おまえがその婆の指を切れ。利き手の小指と薬指の二本でよかろう。流れ出た血が色鮮やかに赤く美しければ、それに免じてわしの時を無駄にしたおまえたちを許す」
戯れ言を言っているわけではない。目を見ればわかる。阿紀の書いた字が気に入らなければ、彼はほんとうに彼女の指を切らせるだろう。
図らずも維織を巻き込む形になってしまった。この上は、是が非でも失敗するわけにはいかない。いや、そんなことを考えて固くなるな。今は心を静めて、書くことだけに集中しろ。
墨を磨り終えて、阿紀は頼英を見た。
「殿、何を書いてご覧に入れましょう」
「ありきたりの詩歌などではつまらぬ。おまえにも何か、身の回りに〝美しい〟と感じるものがあろう。それを文字に表してみよ」
難題と思えたが、考え始めるより先に題材が脳裏に閃いた。全体の釣り合いを取るのが少し難しいが、書き甲斐のある四つの文字。正解かどうかはわからないが、この場においてはこれしかないと感じる。
すかさず筆を取って、たっぷりと墨を含ませた。大きくひと呼吸して背筋を伸ばし、ためらうことなく四文字を一気に書き上げる。
出来上がった書は、我ながら会心の作と思えた。
どうぞご覧くださりませ――そう言おうとした時、あの無温の声が頭上から降ってきた。
「何を書いた」
見上げた先に頼英の顔があり、心の臓が縮み上がった。
音もなく、いつの間に忍び寄ったのか。まるで蛇のような男だ。
阿紀は努めて手の震えを抑えながら、まだ墨が乾ききらない紙の天地を返して慎重に捧げ持った。それを頼英が片手で受け取って一瞥する。
長い長い間を空けて、彼の唇がまたあの禍々しい笑みを形作った。
「おや、御屋形さまはお気に召されたか」
主人の様子を見た鏑木祐充が、どこかわざとらしい陽気な声を上げた。
「わしも拝見いたしとうございますな」
頼英から紙を渡された祐充が、阿紀の書いた文字を見て目を丸くし、次いでからからと笑い出す。
「なるほど、なるほど。いや、まさに」
彼はひとりでしきりに納得したあと、紙を広げてほかの人々にも阿紀の字を見せた。
志 鷹 頼 英
彼女が書いたのは、その四文字だった。誰にとっても予想外だったらしく、来栖家のふたりも驚いた顔をしている。
頼英はみなの反応を眺め、それから阿紀に視線を落とした。
「それが、おまえの思う美しいものか」
「殿は本日ご城内でわたくしが目にした、もっとも美しいおかたでございます。ゆえに、まことに畏れ多いこととは存じますが、その御名をば揮毫いたしました」
字の善し悪しは別として、少なくともこれなら誰からも「それのどこが美しいのか」などと因縁をつけられることはないはずだ。
「いやはや、阿紀どのはなかなかに知恵が回る」
また祐充が口を挟んだ。この場で彼だけが主君にさして遠慮もせず、気楽に振る舞っているように見える。それだけ城内で力を持っているということだろうか。
「御屋形さま」
次に口を開いたのは来栖篤之だった。彼のほうは明らかに、祐充よりもずっと気を張っている雰囲気だ。
「阿紀どのの字、如何思し召されましたか」
鑑賞に堪えるものであったのか、なかったのか。〝美しい部分〟を見せたものと認めて侍女に任じるのか、それとも指を切って追い払うのか。
なかなか答えない主人を見つめながら、伯父の斜めうしろで維織も固唾を呑んでいる。
しばらくして、頼英はつぶやくように言った。
「維織の申した通り、美事な字であった」
「では、ご奉公をお許しいただけましょうや」
阿紀の問いに、意外にも彼はすぐ言葉を返した。
「許す」
ああ、よかった。冷や汗をかかされたけれど、どうにか最後には目論見通りに――。
ほっと安堵しかけたが、頼英の言葉はまだ続いていた。
「奉公を許すのは、おまえが容易に物事に動じぬことがわかったゆえだ」
熱のない調子でそう言い、彼はゆらりと歩き出した。
「些細なことにもびくつく者、何か起こるとすぐ取り乱す者……そういう者どもには、わしは我慢がならぬ」
衣擦れの音を立てながらゆっくりと足を運び、阿紀を中心に円を描いていく。
「おまえは醜いが、女にしては肝が太いようだ。強かすぎていささか鼻につくが、腑抜けよりは役に立つだろう」
一周し終えると、彼は阿紀の右側面へ回り込んで足を止め、小腰を屈めて彼女の顔を覗き込んだ。
「今日この場でそうしたように、今後も何があろうと平静を失わず粛々と務めをこなせ。世の女どものように、つまらぬことで怯え騒ぐな。泣くな。狼狽えるな。努々わしを不快にさせるなよ」
頬に息がかかるほどの距離から、鱶の目のように表情のない瞳が瞬ぎもせず見つめている。
なんという怖い目だろう。見られていると底冷えがしてくる。こんな怖さは、これまで感じたことがない。
阿紀は身震いしそうになるのを堪えて床に手をつき、体をぐっと押し下げてから深々と頭を下げた。
「御意のままに」
心の乱れが声に出ないよう、短く言った。
「明日より出仕せよ。下がれ」
退出の許可が出たからには、尻に帆をかけて逃げるに限る。阿紀は上段の間へ戻ろうとしている頼英の背に向けてもう一度低頭すると、腰を上げてすり足でうしろへ下がった。
だいぶ前のほうまで来ていたので、出口が遠い。
慎重に後ずさりしながら、ちらと上げた目が維織の視線とぶつかった。
先ほど彼が助け船を出してくれたのは阿紀のためというより、彼女を推挙した伯父の面目をつぶさせないためだったのだろうが、それでも救われたことに変わりはない。
お礼はまたあらためて――と思いながら感謝を込めて軽く会釈したが、相手から返ってきたのは険のある眼差しだけだった。
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