五十三 別役国中部・青藍 遠くへ
病から回復して再び放浪に戻ったあと、夜斗はもう青藍を置いてきぼりにしようとはしなかった。
一緒に来ていいとは言わないが、ついてくるなとも言わない。追い払うような素振りを見せることもない。だから青藍は同行を許されたものと解釈して、彼の行くところへ黙ってついていった。
行くところと言っても、特に何か当てがあるわけではない。そのことは早い段階で互いに確認し合っていた。
夜斗は郷里に義理のふた親と五人の兄弟がいるという話だが、人買いに拐かされた幼い自分を労働力として買い取り、成長すると再び女衒に売った人々のことを家族とは思っておらず、「やつらの面相なぞ二度と見たかねえ」と言っている。家へ戻る気はさらさらなく、また戻ったところで居場所はないということだった。
青藍は御山に帰りたいが、それは叶わぬ夢だとわかっている。そして御山のほかには行きたい場所などひとつもありはしない。
下界に母親がいるはずで、会えるものなら会ってみたい気持ちはあるものの、彼女の現在の居場所はもちろん本名すらもわからないのではどうしようもなかった。青藍が母について知っているのは〝若菜〟という祝名を授かった若巫女であったことと、修行仲間の若巫子と過ちを犯して御山から追放されたこと、ただそれだけだ。父親の若巫子に至っては祝名すらも知らされていなかった。彼は若菜との密通が発覚して降山が決まると激しく落胆し、いよいよ山を下りるという当日に世を儚んで自ら命を絶ってしまったらしい。
ふたりは掟戒破りの大罪人であり、蓮水宮では語ることすらも憚られる存在だった。
その罪の果実である娘の青藍も〝罪果〟〝忌み子〟などと陰口を叩かれて育ち、宮殿には味方をしてくれる人も少なかったが、それを苦に思ったことは実はあまりない。彼女のことを常に心にかけ、温かく見守ってくれる祭主という大きな存在が身近にあったからだ。その彼がいなくなった今となっては、たとえ御山に帰れたとしても、夜斗と同じくあの場所に青藍の居場所はもうないのかもしれない。
そう考えると寂しかったが、これも神によって定められた運命なのだろう。
彼女はただひとつ確かなものである信仰を縁として、浮き草のように頼りない今の境遇を受け入れようと努めていた。
「何してるのかな……」
土手の上に立つ大木の下に座り、青藍は木陰の涼を感じながらぽつりとつぶやいた。ひとりきりで暇を持て余しているのは、夜斗が最前よりどこかへ出かけているからだ。
「ここで待ってろ」彼は立ち去る前、いつものようにそう言った。「おいらが戻るまで動くな。人に声かけられても、ほいほいついてくんじゃねえぞ」と。
小さい子にでも教え諭すような言い方をされるのは、実際に青藍が彼の留守中に何度かふらふらといなくなったせいだ。たいがいは重い荷物に難儀していた老人を手助けしたり、年下の子に誘われてちょっと遊んだりしていただけで、それほど遠くへ離れたわけでもなかったが、探し物を手伝って欲しいと声をかけてきた中年男に応じたところ、どこかの小屋へ引っ張り込まれそうになったことが一度だけあった。その男の真の目的はわからなかったものの、戸口を入る前に漠然と不安になって抗うと激しく怒鳴られ、かなり荒っぽい扱いを受けて怖い思いをしたので、考えなしについて行ったことを今は反省している。すんでのところで夜斗が駆けつけてくれたが、もし彼が来なかったらきっと何かひどいことをされていたに違いない。
「この世間知らず! おたんこなすの箱入り饅頭娘!」
救出後に夜斗はかんかんに怒っていたが、青藍は〝饅頭娘〟と言われたのが可笑しかったので罵られながらつい笑ってしまい、さらにがみがみ叱られる羽目になった。
あれ以来、夜斗は彼女を置いてどこかへ行く時、しつこいぐらい「動くな」と念を押していく。「次に消えたらもう捜さねえ」と脅しもする。青藍には警戒心が足りておらず、軽率なので目が離せないと思っているようだ。
彼に見放されるのも怖いが、それ以上に、そんなふうに自分の身の安全を気づかってくれることが心底ありがたく嬉しかったので、青藍は人と接する時にはなるべく用心するようになった。こうしてひとりで置いて行かれても、もう勝手に元の場所から離れたりはしない。誰かに無闇に話しかけられないよう、目立たずじっとしていることも覚えた。
夜斗が戻るのを待つ時間は以前よりも長く感じられるようになったが、それぐらいのことは我慢すべきだろう。
退屈で、少し不安なその時間を、彼女は祈ることと考えることに使った。考えるのは、もっぱら夜斗のことだ。
彼が青藍を置いて出かけるのは、たいてい手持ちの銭貨が心許なくなってきたと思われる頃合いなので、何か仕事をしに行っているのではないか――と推測している。彼女は相変わらず金のことには疎いが、与えられる食事が目減りするのは先立つものがない時だろうというのは何となく想像がついた。ふたりは決して贅沢な旅をしているわけではなく、宿代を節約して野宿ですませることも多かったが、それでも日々生きていれば何やかやで金は出て行ってしまうものらしい。盗賊の塒から脱出する際に、夜斗は自分が殺した〈賽〉の持ち金を抜け目なく奪ってきていたが、それは半月あまりですっかりなくなってしまったようだった。
金は何もしなければ手に入らない。今も旅を続けられているのは、彼が一定期間ごとに何かしらの手段を用いて、当座をしのげるだけの銭貨を得てくれているからだ。
青藍はここ最近、そのことがずっと気になって仕方なかった。ふたりぶんの食い扶持を得るために夜斗ひとりを働かせるなど、あってはならないと思う。
「何してる……のかな」
また同じ言葉をつぶやき、青藍はふうっとため息をついた。
夜斗が働いているなら、自分も働きたい。できれば一緒に、同じ仕事をしたいと思う。だが、彼が何をやって稼いでいるのか青藍にはさっぱりわからないし、そのことを訊いてもいつもはぐらかされて、はっきりとは教えてもらえなかった。
子供にはできないような、難しい仕事なのかしら。せめて手伝いだけでもさせてもらえたらいいのに――。
青藍はぼんやり考えながら、木陰からはみ出て陽にさらされていた足先を引き寄せ、膝を抱えて座り直した。手を伸ばして触れてみると、土汚れのついた足指がすっかり温もっている。つと見上げれば、頭上に広がる枝のあいだから抜けるような青空が見えて、木漏れ日がまばらに差し込んできた。盗賊の塒を逃げ出したのは水月半ばの湿っぽいころだったが、あれからひと月以上が経ち、季節は夏の盛りに近づいている。下界の夏は、御山で経験してきた夏よりもずっと暑いように感じられた。
お風呂に――。
「入りたいなあ」
汗でべとつく額を袖で拭きながら、彼女は小声で独りごちた。御山を出て以来、熱い湯には一度も浸かっていない。それでも〈ふぶき屋〉にいたころはぬるま湯を張った盥で数日ごとに行水をさせてもらえていたが、〈二頭団〉の塒では濡らした布でたまに肌を拭うぐらいがせいぜいだった。放浪を始めてからは川や池で折々に体を洗い、以前よりは清潔を保てていると思うし、汚れていること自体にかなり慣れてきてもいるが、たっぷりした湯で全身くまなく洗い清めたいという欲求は依然として強いままだ。それに川での沐浴は今の時期にはいいが、寒くなってくるとできなくなるだろう。
街中には〝湯屋〟と呼ばれる、誰でも入れる風呂があるという。だが利用するには当然ながら金が必要で、寝食すらもままならないことが多い今、夜斗にそんなことをせがむなどできるはずもなかった。
「……お金を」
稼ごう――と思う。たとえ半人前の稼ぎでも、ひとりだけの分しかないよりは多少なりとも楽になるだろうし、そうしていつか余裕ができたら、湯屋に行きたいと言ってみてもいいかもしれない。とにかく今日こそ、夜斗が戻って来たら仕事のことをきちんと教えてもらうのだ。まずはそこから始めよう。
青藍が決心したところへ、示し合わせたように夜斗が戻って来た。
彼が出かけている時間は、いつもたいして長くはない。早ければ四半刻ほどで戻ることも多かった。今日は半刻近くもいなかったので、比較的長い部類に入ると言える。
夜斗は風が砂埃を巻き上げている乾いた道をぶらぶら歩いてくると、木陰に入ってきて青藍の隣に腰を下ろした。つい今しがた顔を洗ったようで、頬の下あたりがまだ少し濡れている。
「昼飯だ」
彼はそう言って、青藍の膝の上に何か置いた。正方形をした平べったい竹皮の包みで、そこそこ重量感がある。結わえてある紐を解いてみると、中には茶褐色の餡がかかった、ぽってり白い串団子が入っていた。
「わあ、美味しそう」
喜ぶ青藍に、夜斗がちらと視線を寄越す。
「おめえ、食い物は何でも嬉しがるな」
暗に食い意地が張っていると非難しているのかもしれないが、青藍は悪いほうには取らないことにした。
「だって食べ物があるのって、ほんとに嬉しいもの。御山を出るまでは、そんなふうには思わなかったけど」
夜斗は軽く鼻を鳴らすと、木の根方へ仰向けに寝転がった。
「さっさと食っちまえ。済んだら行くぞ」
「五本あるから二本ずつ分けて、残りの一本は半分こにしましょう?」
「おいらはいらねえ」
あっさり言って、目を閉じてしまう。
「でも夜斗さん、朝ご飯もちょっぴりしか食べなかったわ」
夜斗は青藍がこれまでに出会った、どんな男よりも食が細かった。だからとても痩せている。そもそも食べ物に興味がなく、食事という行為自体も面倒くさいものだと思っているようだ。それでいて子育てに熱心な親鳥のように、青藍には不足なく食物を与えようとする。彼の性格にはそぐわない気もするが、何か年長者としての責任のようなものでも感じているのだろうか。
考え込んでいると、夜斗がふいに片目を開けて睨めつけた。
「食わねえなら捨てちまうぞ」
「た、食べます」
青藍はあわてて串に齧りついた。夜斗はしばしば脅しを実行する。
団子を覆っている餡は、ほんのり甘い味噌の味がした。中には砕いた木の実のようなものがたくさん入っている。それはカリカリとした食感で、噛むと香ばしい香りが口いっぱいに広がった。
「これ……とっても……」
美味しい。初めての味だった。
「この木の実、何かしら。わたし大好き」
「胡桃だろ」
「くるみ? こんな味だったのね」
名前は知っているが、食べたことはなかったように思う。
「おめえってやつは、ものを知らねえよな」
夜斗の口調は批判的ではなかったが、青藍は少し恥ずかしくなった。自分が無知だというのは、下界に降りてからずっと感じていることだ。
「わたし、御山で……宮殿の中で見たり教わったりしたことしか知らないの。天門神教の教義とか、儀式のこととか、そういうのはたくさん知ってるけど、降山したらぜんぜん役に立たなかった」
「ぜんぜんってこたねえだろ」
彼女が悄気た顔をしたせいか、珍しく夜斗が気づかうような素振りを見せる。
「前にあれをしたじゃねえか。そら、洞窟で死にかけてたやつが漂魄になった時に」
「封霊のこと?」
「あの時、おめえがあれをしなかったら〈門番〉のやつは死人に殺られてただろうよ」
「でも、封霊ってそんなに難しくないのよ。あんまり霊力もいらないし、やろうと思えば誰でも――」
「誰でも」夜斗がわずかに関心を示す。「おいらでもか」
「修行すればできるようになります」
そのとたんに、彼は興味を失ったようだった。
「けっ、誰が修行なんか。一銭にもなりゃしねえ」
ぼやいたあと、夜斗はまた両目を閉じた。その顔にちらちらと木漏れ日が落ち、たっぷりした長いまつげの影を頬に踊らせている。青藍は団子を味わいながら、彼の繊細な顎の線や弓なりの濃い眉、やや高飛車な印象の高い鼻などをじっと見つめた。御山では身近に紅という飛び抜けた美人がいたし、下界へ降りてからもきれいな顔はいくつも見たが、夜斗の美貌はそれらとはどこか異なっているように感じる。
前に彼は、自分は〝山の者〟だったと話していた。それは天門神教や聳城国の成立以前からこの国にいた、とても古い民族の子孫を指す言葉らしい。その人々は今では西峽北部を中心に、各地の山々で数家族単位の小さな集落を形成して、ひっそり住み暮らしているという話だった。
夜斗の顔立ちがほかの人と少し違って見えるのは、海の外の国から来たと言っていた娼妓の初音と同様に、彼が異なる民族に属する者だからなのかもしれない。
いずれにしても美しい顔であることは間違いなく、青藍はいくら眺めていても飽きることがなかった。しかし調子に乗ってじろじろ見すぎると、いつも気づかれて不興を買う。今も、ふいに目を開けた夜斗と視線が合い、漆黒の縁取りがある力強い瞳で睨まれてしまった。
「よさねえか。顔に穴があいちまわあ」
見つめると穴が開くという理屈は解せないが、青藍は「ごめんなさい」と謝ってすぐに目を逸らせた。
「おめえ、なんだっておいらの面をそうしげしげ見んだよ」
「それは、あの、きれいだから……。きれいなものを見るのって楽しいでしょう」
夜斗がふんと鼻を鳴らす。
「惚れんなよ」
折に触れて発せられる警告だが、これまで青藍はなんとなくわかった気で聞き流していた。しかし、このあたりで一度きちんと真意を問うておくべきかもしれない。
「夜斗さん、あの――〝ほれる〟って、好きになるってこと?」
今さら何を言っているんだ、と言いたげに夜斗が眉を上げる。青藍は急に不安になってきた。
「わたし、夜斗さんを好きになっちゃ駄目なの?」
「そうに決まってんだろ」
「え、でも、でも……どうしよう、もう好きになっちゃったのはどうしたらいいの」
夜斗が上体を起こし、何とも言えない表情になった。
「おめえ、おいらが好きなのか」
「はい」
どきどきしながらうなずくと、夜斗がますます複雑な顔をする。
「乳臭え餓鬼だと思ってたが、存外ませていやがるな。じゃ、あれか、交合ってみてえとか思ってんのかよ」
下界に降りてからたくさんの新しい言葉を覚えたが、これはわからない。
「まぐわ……どういう意味?」
「おいらと寝たいのか」
放浪を始めてからはいつも夜は同じ場所で寝ているので、これも質問の意図をうまく汲み取れなかった。
「ひとりだと怖いし、寝る時は夜斗さんと一緒にいたいです」
何か的外れなことを言ってしまったらしく、彼女の返事を聞いた夜斗が深々とため息をもらす。
「これだから餓鬼の相手は厭なんだ」
彼は低く呻いて胡座をかくと、首を伸ばしながら青藍の目を覗き込んだ。
「いいか、交合うってのはな、男が女にハメることだ。男の股に何がついてるかぐらい、おめえも知ってんだろ。そいつをおっ立てて、女の穴ぼこに突っ込むんだよ。だいたいおめえ〈ふぶき屋〉に半年もいたくせに、今ごろこんな話を――」
「お見世にいたのは、半月とちょっとぐらいです」
彼の言葉を遮って訂正すると、険のある目を向けられた。
「うるせえ。半月も六月もたいして変わりゃしねえや。あんな見世で働いてりゃ、娼妓が客とヤってるとこぐらい見てるはずだって言ってんだよ」
そこで初めて、彼の言わんとしていることに思い至った。
「割床……」
青藍のつぶやきを聞いた夜斗が、ようやく溜飲が下がったという顔をする。
「知ってんじゃねえか」
「一度だけ、男衆の三太さんが見せてくれたの。女の人たちがしている仕事がどんなものか知りたいって、わたしがお願いしたから」
しかし見るには見たものの、実はあそこで起きていることを理解できたわけではなかった。いま思い返してみても、あれは裸体の男女が敷物の上でただ絡み合っていただけのように思える。とは言えあの時、覗き穴の向こうの一種異様な雰囲気に呑まれて逆上せ上がり、無様に卒倒してしまったのも事実だが。
「夜斗さんが言ってる〝寝る〟って、ああいうこと? ふたりで裸になって――」
想像すると気恥ずかしくなり、頬がぽっと熱くなった。いくら好きでも、あんなことを彼とするなど絶対にあり得ないと思う。それにあらためて考えると、あの行為はもしや天門神教が定める掟戒に抵触するのではないだろうか。顔も知らない両親がかつて破り、禁じられた子供を産むに至ったという第四の戒、すなわち〈不犯〉に。
御山では若巫女と若巫子は宮殿に入った日から掟と戒めを厳しく教えられて育つが、五つの掟戒のうち不犯だけは「男女の交わりを禁ずる戒め」であると聞かされるだけで、幼少のうちに詳細な内容を伝えられることはない。その交わりがどういう種類の行為であるかを教わるのは、十二歳を迎えてからと決められていた。青藍は教えを得るはずだった十二歳の年改めの日に山を下りてしまったので、第四の戒の解釈は依然として曖昧なままだ。
だが下界で半年以上も過ごし、世間というものも多少は知った今なら、〈ふぶき屋〉で見たあれこそまさに〝男女の交わり〟だったのではと推量することぐらいできる。むしろ、今日までそれを結びつけて考えなかったのが不思議なほどだ。
「好きになったらあれをするの?」
「惚れたらするのさ」
夜斗は素っ気ない口調で言い、自分の股ぐらをぎゅっと握って見せた。
「あとは、こいつがむらむらして辛抱たまらねえ時と、赤んぼが欲しい時にな」
むらむら。それもいまひとつわからない言葉だが、あまり一度にあれこれ訊かないほうがいいかもしれない。
「夜斗さんのことは好きだけど、まぐわうのはしたくないです」
真剣に言ったのに、夜斗がげらげら笑い出す。
「おいらを袖にするとは、おめえもたいした玉だぜ」
なんとなく馬鹿にされているように感じたが、彼の笑顔は珍しいので、そちらのほうに気を取られてしまった。普段の夜斗は少年と少女の中間ぐらいに見えるが、こうして開けっぴろげに笑うとずっと男っぽくなる。
また青藍が見とれているのに気づくと、彼はすぐに笑顔を消して不機嫌そうになった。
「飯を済ませろ、愚図」
彼のこういう物言いにはもう慣れているので、いちいち落ち込んだりはしない。
「はあい」
軽く相槌を打って、青藍は残りの団子を大急ぎでぱくぱくと食べた。そうしながら、仕事について訊ねるつもりだったのに機を逸してしまったことを残念に思う。
次の休憩の時には、きっと話をしよう。そう考えながらこっそり夜斗を盗み見ると、例に漏れず敏感に視線を悟った彼はふいと顔を背けてしまった。
午後は長閑な田園風景の中をのんびりと歩いた。夜斗はひとりで行ってしまおうとした時には猛烈な早足だったが、今は青藍の歩調に大方は合わせてくれる。街道を使うとしばしば関所にぶつかって厄介なので、ふたりは往来の多い広い道はなるべく避け、夜斗が〝裏道〟と呼ぶくねくねした田舎道や山中を抜ける細い獣道などをよく利用した。決して歩きやすくはなく道がはかどるとは言えないが、目的地のない旅なので別に急ぐ必要もない。
もう別役国北部の出発地点からはかなり離れ、今は〈ふぶき屋〉があった小浦方郷に近いあたりまで南下してきている――と、夜斗は言っている。青藍にはまったく土地勘がないので、彼の言葉をただ素直に信じるのみだ。
ここへきて、夜斗はその先どこへ向かうか悩み始めたようだった。
「佛田宿に舞い戻っても、見世はもうねえ」
まばらに草の生えた畦道を歩きながら、彼は淡々と言った。
「火を掛けられて、燃えちまったからな。楼主もお内所も殺られるとこは見てねえけど、あの晩たぶん一緒にくたばっただろ。まあ、あいつらが生きてたって、また会いてえとは思わねえが」
たしかに、また会いたいと思えるほど優しく扱われたわけではなかったが、青藍は旧知の人々と再会できるものならそうしたかった。御山を出てから知り合う人とはことごとく別れてゆく定めのようで、それはとても寂しいことに思える。
「おめえ、どっか行きてえとこはねえのかよ」
もう何度目かになる問いを投げられ、青藍はないですと即座に答えた。
「ほんとに、ひとっつもか」
「だってわたし……知ってるのは御山と〈ふぶき屋〉と、あの洞穴だけなんだもの」
「前に人から聞いて、行ってみてえと思った場所とかあんじゃねえのか」
ちょっと考えてみたが、まったく思いつかない。黙って頭を振ると、夜斗が不満そうに呻いて砂利を蹴り飛ばした。
「夜斗さんは、どこか行きたいところはないの?」
反対に訊ねると、彼は長く伸びた髪をうるさげに掻き上げてから青藍を横目に見た。
「もっとずっと南へ下って、海沿いの龍康殿って街へ行ってみようかと思ってたんだ――おいらひとりだったら」
つけ加えられた言葉が、青藍の胸に暗い影を落とす。
「でかくて活気のある湊町で、破落戸も異人もなんでもござれらしいから、そういう半端連中に紛れ込んでうまく立ち回りゃあ何とか生きてけるだろうってな。だが、おめえも込みでとなると簡単じゃねえ」
自分の存在が彼の邪魔になっているのではないかという恐れは、一緒に行動するようになってからもずっと心の中にあった。しつこく食い下がったので、いったんは折れてこうして同行させてくれているが、お荷物の青藍がいないほうが彼はよほど面倒もなく気楽にやっていけるに違いないのだ。
申し訳ないとは思っているが、だからといってここで別れたりしたくはない。
「あの、わたし、迷惑にならないように何でも頑張るから……夜斗さんが行きたいその街に、ついて行かせて欲しいです」
勇気を振り絞って頼んでみたが、夜斗の返事は意外なものだった。
「龍康殿には行かねえよ。最初にちょっとそう思っただけだし、気が変わったんだ」
「どうして?」
「〈二頭団〉の連中が、獄に残してた女どもをあの街に売りに行く話をしてたからさ。そんなとこへうかつに寄りついて、盗賊の生き残りとかあの糞女とどっかで顔を突き合わすはめになったら散々じゃねえか」
あの糞女――とは、おそらく娼妓の此糸のことだろう。ふたりは〈ふぶき屋〉にいたころから仲が悪く、何かと言っては喧嘩ばかりしていた。
夜斗が自分を置いていくつもりではないとわかってほっとしたが、そうなるとまた話は当初の問題に立ち返る。
寄る辺なき身のふたりは、この先どこへ向かうべきなのか。
青藍はちょっと足を止め、手を庇にして雲ひとつない夏空を振り仰いだ。中天高く昇った太陽がぎらりと輝き、光の矢が指の隙間からまっすぐに降り注ぐ。
その煌めきに目を射られ、思わずくらりとなった刹那、ふいに眉間のあたりから何かが入って来たような感覚にとらわれた。
温かくもなく、冷たくもないもの。それでいて頭の芯を温め、同時に冷やすもの。
奇妙で不可思議なその感覚は一瞬で過ぎ去り、無意識に喉の奥に詰めていた息を吐き出した時には、どこから湧いてきたとも知れない新しい考えが頭の中にあった。
「夜斗さんの産まれたところを探しに行きましょう」
何も疑問に思わず、そのまま言葉にした。これが正しいのだという、絶対的な確信めいたものを感じる。視界全体が急に明るく晴れたようで、自分たちの懸案は完全に解決したと思えた。だが夜斗にそれを喜ぶ様子はなく、少し離れたところから警戒するような眼差しを向けている。
「おめえ、今――」
言いかけて口ごもった彼の表情に、うっすらと怯えが見て取れるように思えて青藍はどきりとした。いつも強気で大胆不敵な夜斗が、何かを怖がることなどあるのだろうか。
「さっき、ちょっと変な……なんか――気色悪かったぞ」
これまでにもいろいろ言われたが、〝気色悪い〟は初めてだ。
「わたし、何か変だった?」
「ぼけっと間抜け面してるかと思ったら、いきなり目をぎらぎらさせやがってよ」
そんなふうだったという自覚はない。自分も何となく怖くなったが、青藍が戸惑ううちに夜斗は気持ちを切り替えたようだった。
「まあいいや。それより、なんだって? おいらの産まれ故郷を探すだと?」
心底あきれたような口調だ。
「そんなもん、見つかるわきゃねえだろ。だいたい、なんだって探す必要があんだよ」
「ほんとのお父さんやお母さんに、会ってみたくない? 小さかった夜斗さんを誰かに連れて行かれちゃって、すごく悲しんで、一生懸命に捜したかも。戻って来たら、ぜったい喜ぶと思うんだけど……」
夜斗は曖昧に口を開きかけ、何も言わずにまた閉じると、くるりと踵を返して歩き出した。もしかして悪いことを言っただろうかと心配になりながら、青藍があわてて後を追う。追いついて横に並び、おずおず見上げてみると、彼は思案げな表情をしていた。
「ごめんなさい、あの――厭だった?」
話しかけると、夜斗ははっとしたようにこちらを見た。
「別に厭じゃねえ。でも、そんなの考えてみたこともねえや。探すったって、何か当てがあるわけじゃなし」
「山の人たちは西峽の北のほうにたくさんいるって、前に言ってたでしょう」
「北部だけでも山がいくつあると思ってんだよ」
それはむろん、たくさんあるのだろう。さすがに青藍も、行けばすぐ見つかるなどとは考えていない。
「下界の祭堂に奉職する祭宜たちと同じで、住んでる山が別々でも、山の人同士にはきっとつながりがあると思うの。だから、とにかくどこかの山でその人たちの村を見つけて、みんなにどんどん話を訊いていくのはどうかしら。ヤトって名前の男の子をさらわれたお母さんを知ってる人に、いつかぶつかるんじゃないかな」
当を得たことを言ったつもりだったが、夜斗には「餓鬼の浅知恵だ」と笑われた。しかし、彼の表情に心なしか変化の兆しが見える。少し気持ちが動いているのかもしれない。
「おいらの親を知ってるやつがいるって保証はねえし、たとえ見つかるとしても何年もかかるに決まってら。それでもいいのかよ」
「いいです」打てば響くように応える。「何年かかっても、もし見つかったら――夜斗さんがお父さんやお母さんに会えたら……わたし、とっても嬉しい。それに目標があるほうが、ずっと旅が楽しくなるでしょう」
夜斗は歩調を変えずにしばらく歩いた。そろそろ畦道が尽きようとしており、すぐ先に鬱蒼と暗い森の入り口が見えている。
「えらく長旅になるぜ」
農地の際の細い水路を跨いだところで足を止め、彼はぼそりと言った。
「面倒くせえな」
気乗りしなさそうにしているが、ほんとうにそうならすぐさま「行かない」と言うだろう。
「それに金だってかからあ」
「働きます!」
青藍は、ぱっと顔を輝かせた。今こそ気になっていた話をする好機だ。
「わたし、ずっと言おうと思ってたの。夜斗さんはわたしにご飯を食べさせるために、何か仕事をしているんでしょう? ひとりでせずに、手伝わせてください。難しい仕事でも教えてもらったらちゃんと覚えて頑張ります」
虚を突かれたように夜斗が黙り込み、それから大声で笑い出した。
「寝言吐かしてんじゃねえ。交合うのと夜寝るのの区別もつかねえちび女に務まる商売だとでも思ってんのか」
ぽかんとなったあと少し間を置いて、ようやく青藍は夜斗が何をして金を稼いでいるのかをほぼ正しく理解した。それは彼女が想像していたようなこと――どこかの家の手伝いや掃除、洗濯――といったものではまったくなかった。と同時に、彼と同じことをするつもりでいた自分がたまらないほど恥ずかしくなる。
顔から火が出そうな思いで立ち尽くす青藍を、夜斗がにやにや眺めながら言った。
「ま、働く気を出したってとこは褒めてやってもいいぜ。そういうことなら、おめえにはもっと似合いの仕事をさせてやるよ。さっき、ちょっと思いついたことがあるんだ」
彼の言葉に救われた気がして、わずかに気持ちが上向く。
「ほんと? どんな仕事?」
夜斗はふふんと鼻先で笑い、また歩き出した。何を考えているにせよ、いまそれを明かすつもりはないようだ。
青藍は彼の思いつきに興味があったが、重ねて問うことはせずに黙って後を追った。
ふたりが足を踏み入れた森の中は薄暗く、頭上で時折さえずる小鳥の声はどこか眠たげだ。それを聞きながら細い道を黙々と進み、先ほど越えた水路がかなり遠ざかったところで、夜斗がこちらに背を向けたまま話しかけてきた。
「おい、先に言っとくがな――」奇妙に慎重な口ぶりだ。「一遍西峽に行っちまったら、そう簡単に東峽には戻れねえと思っとけよ」
その言葉で、彼が提案に乗る決意を固めたことがわかった。
「場合によっちゃ、行きっぱなしになるかもな」
一瞬——青藍は御山のほうを振り返りたい衝動にかられた。懐かしいあの山は、今でははるか彼方にあるように感じられるが、それでもまだ引き返せない距離ではないはずだ。
心をふたつに裂かれるような思いがして、うっすらとにじむ涙で視界が曇ったが、彼女は唇を噛んで前へ歩き続けた。
帰れない御山の近くにいつまでいたところで、無駄に未練がつのるだけだろう。ならばいっそのこと、もっと遠くへ離れてしまったほうがいいのかもしれない。
青藍は袖で目元をぬぐって迷いを振り払い、決然と頭を上げて言い放った。
「戻れなくてもいいです」
夜斗は何か言いたげに彼女をちらりと見たが、その唇は言葉を紡ぐことなく、ただかすかな微笑を浮かべたのみだった。
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