五十一 王生国天山・祥介 噂話
早朝の天山の凜とした空気に、夜露に濡れた松葉の鮮烈な香りが漂っている。
山道を黙々と歩いていた祥介は足を止め、樹冠の隙間から覗く空を見上げた。まだ薄暗いが、夏が近づくにつれて夜明けが早くなってきているので、次の曲輪門を抜けるころには白んでいるだろう。
彼は手ぬぐいで首筋の汗を拭き、水筒の水をひと口飲んでからまた歩き出した。深閑とした森の中に、地面を踏みしめる自分の規則的な足音と、高い梢で縄張りを主張するカッコウのさえずりだけが響いている。ほかに道を登る者も、下ってくる者も今はなく、広大な森を独り占めしたような気分だ。
祥介はなにやら心楽しくなり、足を進めながら無意識に鼻唄を歌った。機嫌がいいと唄が出る。子供のころからの癖なのだ。
そうして、しばらく鼻唄交じりに調子よく歩いていた彼がふと歩調をゆるめたのは、先の見通しが悪い曲がり角にさしかかった時だった。道の脇に生えたコムラサキの枝が大きく張り出して、曲がった先の景色を完全に隠している。天山の主要登山路である大手道はいつも念入りに整備されているが、このあたりの担当が粗忽者で、伸びすぎた枝を見落としたのだろう。
祥介はまだ鼻唄を続けながら、薄紫の小さな花をつけた枝を慎重に回り込んだ。見えない先に、なんとなく気になる気配がある。昔からそういう感覚は鋭敏なほうだ。まさか天山の五層に上がる道で野盗などに出くわすとも思えないが、用心するに越したことはない。
「おっと」
思わず声が出た。
角を曲がったすぐ先、コムラサキの根方に人がうずくまっていたのだ。身形のいい初老の男で、商人のように見える。頬のふくふくした人の好さそうな顔には、苦痛の表情が浮かんでいた。
「どうしなすったんです」
祥介が問うて屈み込むと、男は弱々しい目で彼を見上げた。
「このあたりまで下りて来たら、急に腹が渋りだして」
「腹痛か。上の曲輪まで、負ぶってってあげやしょうか」
「それはありがたいが」
男が言葉を切って腹を押さえ、ううんと唸る。
「朝いちばんに、六の曲輪で大得意に会う約束がなあ……」
「商売ご熱心なこって」
祥介はにこりとして、腰に下げている紙製の印籠から丸薬を振り出した。それを男に差し出しながら、水筒の栓を歯でくわえて開ける。
「さ、お呑みなせえ。なあに、怪しいモンじゃござんせんよ。渋り腹によく効く薬でさ」
男はさして疑う様子もなく、言われるままに薬を受け取って一息に呑み込んだ。そのあとで、何とも言えない表情になる。
「たいそう苦いでしょう」祥介はそう言って、水筒を彼の口元にあてがった。「そら、水を」
三口ほど飲んで、ようやく人心地ついた様子の男が、目に感謝をにじませながら祥介を見つめる。
「親切なお人だ。おまえさん、行商かね」
祥介は右肩を軽く上げ、背中の背負子を揺らしてみせた。
「ご覧のとおりの連尺商いで。煙草売りの祥介と申しやす」
「煙草屋さんかい。わたしは、この上の曲輪道沿いにある両替商〈寿屋〉の大番頭で、源衛門という者だ。いつもは手代か小僧をつれて来るんだが、たまたまひとりで来た今朝に限ってこんなことになってしまって、ほとほと困り果てていたんだよ」
「ふふ、よくあることでさ。傘を持って出たら降らねえ雨が、空手の時を狙って降りやがる」
「いや、まったくだ。おまえさん、上の曲輪で商売するなら、ぜひ〈寿屋〉にも顔出しておくれ。お礼をしたいし、うちの旦那はたいそう煙草がお好きだからね。わたしは午すぎには見世に戻って、おまえさんのことを旦那に話しておくよ。――ん、おや、これは……差し込みがゆるんで、なんだか急にすうっと楽になってきたようだ。驚いたな、さっきの薬はよく効くねえ。いつも持ち歩いているのかい」
「旅する者の心得でございやすよ」
祥介は立ち上がろうとしている源衛門に手を貸し、ふらつきが止まるまで支えてやった。
「お歩きになれそうで?」
「うむ、だいじょうぶそうだ。ゆっくりと行くよ。早めに出たので、約束には間に合うだろう。本当に助かった。ありがとう、祥介さん」
源衛門は丁寧に頭を下げ、あらためて祥介をまっすぐに見た。
「きっと来ておくれね。待っているから」
こうまで言われては断れない。
「お礼だなんだは結構でござんすが、お得意が増えるのは嬉しいや。あとで寄らしてもらいます」
祥介はそう約束して彼と別れ、登り道を再び歩き始めた。人助けをしているあいだに日が昇っており、木々の天蓋から差し込む光で道は最前よりもずっと明るい。
カッコウはいつの間にか鳴きやみ、今はキビタキやクロツグミなど、さまざまな鳥が自慢の喉を競い合っている。中でも特に美しい声を響かせているのは、祥介の好きなオオルリだ。
それに気を良くした彼は、五の曲輪の手前で手形改めを受けるために番所へ入るまで、また鼻唄をずっと歌い続けていた。
夜明け後すぐに五の曲輪へ入った祥介は、午前の時間をめいっぱい得意先回りに使った。
煙草を売る店舗などというものはないので、喫煙家は行商人から個別に葉煙草を購って手ずから刻む。祥介は曲輪の中に大口の顧客をいくつか持っており、月に一度は足を運ぶようにしていた。普通は葉煙草をただ売るだけだが、口当たりをよくする細刻みのこつを教えたり、さまざまな産地の葉を調合して独自の味わいを生み出す〝葉組み〟を行ったりと、馴染み客には便宜もはかる。
彼はまず曲輪道沿いに建ち並ぶ表店の常連から順に回り、次に裏通りの個人宅をいくつか訪ねてから、曲輪の北側に足を伸ばして三軒の娼楼へも顔を出した。喫煙を好む娼妓は多く、葉煙草はどこの遊郭でもよく売れる。客の見送りをすませて朝寝を決め込んでいた娼妓たちが、寝ぼけ眼で起き出すころに折よく着いたので、この日もかなりの量を売りさばくことができた。
「祥さん、あんたいつも売るばかりじゃなくて、たまには買ってお行きな」
などと女たちにからかわれながら最後の見世を後にした祥介は、曲輪道をぐるりと回って表店街のほうへとまた戻って来た。もうそろそろ昼時なので、腹がぐうぐう鳴っている。
彼は最初に目についた煮売り屋に入り、白ウリとサヤインゲンの吸い物と、ネギと鶏の鍋焼きで飯を食べた。天山の上層に住む人々は薄ぼんやりした味付けを「品がいい」と言って好むので、こういった飯屋の味も、濃いめが好きな祥介の口にはあまり合わないことが多い。だが、この見世は当たりの部類に入る。
すっかり満腹になり、店の場所を覚えておこう――などと思いながら勘定を置いて出た祥介は、午前中には回らなかった裏店街へと足を向けた。煙草は贅沢な嗜好品だが、長屋に住む庶民にも愛好者は決して少なくない。
彼は細い路地に入ると、棒手振りの若い衆や手習いの師匠、飾り職人など、顔見知りの家を訪ねて回って、またいくばくかの葉煙草を売った。今日は売れ行きがよく、背中の荷もだいぶ軽くなってきている。
立ち寄ると約束した〈寿屋〉は朝のうちに見つけてあり、ちょうどいい時分なのですぐに行くこともできたが、その前に彼はさらに路地の奥まで入っていった。長屋の端に、昔からの得意客がもうひとり住んでいる。
「なんだよ、また留守かい」
目当ての家は固く戸を閉ざしていた。中に人の気配は感じられない。前回来た時も同様だった記憶があり、たまたま仕事に出ているのかもしれないが、二度続けて会えないのはこれが初めてだ。
「おおい、政さん」
呼びかけながら、祥介は引き戸をどんどんと叩いた。
「いねえのかい。おれだ、煙草売りの祥介だよ」
返事はないが、かまわず叩き続けていると、二軒先の家の戸が開いて頑固そうな顔つきの中年男が顔を出した。
「そこは空き家だ」
「ええ?」
祥介は驚き、その男の戸口まで歩いて行った。
「羅宇屋の政茂さんが住んでるはずだぜ」
「だから、もういねえのよ」
素っ気なく言って、すぐに顔を引っ込めようとする。祥介はさっと手を伸ばし、閉められかけた戸を押さえた。男の眉根に皺が寄る。
「おい」
「すまねえ。でも、どういうこったよ。あの人はもう十年この方ずっとあそこに住んでて、手堅く商売やってただろう。急にいなくなるわけがねえや。何かあったのかい」
男は仏頂面をしており、無言のまま強引に戸を閉めようとした。祥介も負けじと手に力を入れ、しばしせめぎ合いになる。そのうち男のほうが根負けしたように力を抜き、大きくため息をついた。
「何かあったんだろうが、何があったか、ほんとのとこはおれにゃわからねえ。ただ……」
彼は言いさして口をつぐみ、警戒するように周囲に視線を走らせた。
「糞ッ」
小さく悪態をついたかと思うと、彼は祥介の腕を掴んでいきなり家の中に引き入れた。勢い余り、土間でたたらを踏む祥介のうしろで、戸がぴしゃりと音を立てて閉ざされる。
「なんだい、やぶから棒に」
戸惑いながら訊くと、男はむすっとしながら板間のほうへ顎をしゃくった。
「まあ、上がんな」
向かい合って腰を下ろすと、狭い部屋の中に所狭しと置かれている地紙や画材が目についた。紙はどれも扇形に裁断されており、男はその柄付けを担当しているらしい。描き上げて乾かしている最中の完成品もいくつかあって、それを見る限りではなかなかの腕前に思える。
「あんた扇職人なんだな」
「おう。善七だ」
「おれは――」
「煙草屋だろ。聞こえたよ」
善七は祥介の言葉を奪って言い、大きな手で頭髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。
「顔を見たのは今日が初めてだが、ここ何年か、だいたい毎月来てたのは知ってるぜ。長屋の壁は薄いし、おめえの声はよく通るからな」
そりゃどうも、と曖昧な相槌を打って、祥介は善七の表情を窺った。何か言いたいことがあるようだが、どう切り出したものか迷っているように見える。
「それで、政さんがどうしたって?」
こちらから水を向けると、彼はますます渋面になって、居心地悪そうに尻をもぞもぞさせた。
「さっきも言ったが、ほんとのとこはわからねえ。わからねえが――」
そう前置きをして、彼は思いがけないことを語った。
羅宇屋の政茂は、ある夜を境に忽然と姿を消したのだという。正確にはひと月前の水月十四日のことで、その翌日以降に彼を見た者は誰もいない。
「夜逃げかい」
祥介の問いに、善七は唸り声で答えた。
「店賃でもためてたのかな」
重ねて問う彼に、善七が頭を振って見せる。
「政はそんな、だらしのない男じゃねえ」
「じゃあ何だい。大の男が、誰かに拐かされでもしたってのか」
しばらく沈黙を漂わせたあと、善七は意を決したように顔を上げ、膝をすべらせて祥介に近づいた。
「あのな、おめえは政の友達かい」
祥介は面くらい、ちょっと考えてから慎重に答えた。
「友達ってほどの間柄じゃねえやい。歳も十やそこらは離れてるしな。政さんは、ありゃ三十路ももう半ばだろ。でも、商売の上ではいいつき合いをしてるぜ。おれが南部で仕入れてくる上等の煙草を、特にご所望になるお武家が得意先にいるとかで……」
その瞬間、善七の目つきが少し変わった。
「おめえ――」前にのめり、上目づかいにじっと見つめてくる。「南部人か」
「馬鹿言っちゃいけねえや」
祥介は胸の前で傲然と腕を組み、啖呵を切った。
「おれがそんな山出しに見えるかい。憚りながら、こちとら王州は御縁郷の産よ。天山とも十五里とは離れちゃいねえ。しょっちゅう南部へは行ってるが、そりゃあ葉煙草の買い付けのためだい」
善七は拍子抜けの顔になり、上体を戻して座り直した。
「先月の十四日にな――あることが起きたんだよ。いや、起きたと言い切れはしねえ。だが、たぶん起きたんだ。そして、政はそれに巻き込まれた……おれはそう見てる」
「なんだか要領を得ねえなあ。あんた、何が起きたと思ってんだい」
「ふたつ上の三の曲輪――行ったことあるか」
「あるわけねえや。お城のすぐ下の武家町じゃねえか。おれみたいな連尺商いなんかが、そうそう手形切手をいただけると思うかい。行こうとしたって、番所で追い返されちまわァ」
「まあ、そうさな。行商で手形をもらえるのは、ごく一部の選ばれたやつだけだ。三の曲輪のお武家はこの曲輪へ下りてくることもあるが、おれらが上にあがることはねえ。普通はそうだ。だが、おれは――上がったんだよ。今年の、年明けからいくらも経たねえころに」
「へえ、すげえな」
感心してみせはしたが、話がどこへ向かおうとしているのかまったくわからない。
「扇の発注があって、呼ばれたんだ。筆頭家老の桔流さまのお屋敷だった。そこの、でっけえお庭の中に別邸があってな、南部から来た黒葛家の人たちが住んでるんだよ」
「黒葛家っていや、おれでも知ってる南部一の名家じゃねえか。その家の人らが、なんだってわざわざこんな北部くんだりまで来て、他人ん家に間借りなんかしてんだい。南に帰りゃ、自分らの城があるだろうによ」
善七が呆れたように鼻を鳴らす。
「間借りじゃねえ。あの人らは……人質だ」
「ひとじち」
鸚鵡返しに言い、祥介は小首を傾げた。
「その桔流さまが、黒葛家から人質を取ってるのか」
「違う。天山さま――大皇さまの人質だよ。十年以上も前に、黒葛家の跡取りの若さまを上らせて、桔流さまのところに預けなさったんだ。その若さまがな、おれに扇をこさえて欲しいと……言ってこられたんだよ。政を介して」
やっと話がつながった。
「あの政さんが、黒葛家みてえなすごい家と懇ろだってのかい」
「懇ろかどうかは知らねえが、とにかく政の仲介で呼ばれて行ってみたら、たいそうご立派な様子の若い殿さまが、政の作った煙管で煙草を吸っていなさった。長いつき合いだから、あいつの細工は見りゃわかる。いま思うと、ご家来衆がときどき葉煙草を買いに政ん家へいらしてたみてえだし、なんだかんだ、そのへんでつながりがあったんだろうさ。そら、おめえがさっき言った、南部で仕入れる上等の煙草よ。それをご所望のお武家ってのは、きっとあの殿さまのことだぜ」
「まあ、そう――かもな」
「殿さまは甥御さまの初陣祝いに軍扇を贈りたいとおっしゃってな、このおれに万事任せてくだすったんだ」
つまり政茂は、煙草や煙管の商いで交流があった黒葛家の人から扇の職人を紹介してくれと頼まれ、同じ長屋住まいで腕前をよく知っている善七を推薦したわけだ。そこまでは理解できた。だが彼が消えた日に起きたという〝あること〟に関しては、依然として霧の中だ。
「それで、黒葛家の殿さまと、政さんが消えたことと、十四日の夜ってのはどうつながるんだい」
「あの夜、遅くに……もう四更が近かったと思うが、上で何か騒ぎが起きたんだ。三の曲輪で半鐘が五点鐘を打ち出して、それがここまで聞こえてきた。おれは納品の迫ってる品があって、夜っぴて仕事をしてたからすぐ気づいたのさ。ずいぶん長えこと鳴っていたっけ。それからだいぶ経って、政の家に――誰かが来た。何か気になったんで耳を澄ませてたが、話してることは全然聞こえやしなかったよ。でも、あいつの家の戸がそっと開いて、閉まって、そのあと外で〝行きましょう〟と小声で言ったのは聞こえた。政の声だった。そして足音がちょっとして……」
「――それきり?」
祥介が問うと、善七は嘆息して肩を落とした。
「それきりだ。政は消えちまった。次の朝、役人が大勢やって来て、あいつん家を上から下までひっくり返したんだが、どいつも血相変えていやがってよゥ。なんかやけに必死な感じがしたな。そして、長屋の住人を片端から番士の詰め所にしょっ引いてって詮議した。おれもみんなも、政のことを根掘り葉掘り訊かれたよ。だが何も知っちゃいなかった。政は、ちょいと水くさいとこはあるが優しいやつで、長屋の連中とも仲良くやってたが、誰とも深くつき合ってはいなかったんだな」
「うーん、ちょっと待てよ……先月おれが来たのは、たしか十六日だった。じゃあ、あん時にはもう政さんはいなくなってたってことか」
「そういうこったな」
「でも、まだ人が住んでる感じだったぜ。表に吊り看板も下がってた気がする。だからおれは、てっきり仕事で出てるもんだと」
「十六日といや、ちょうどおれらがお調べを受けてたころだ。それがひととおり終わってから二、三日してまた役人が来て、政ん家のものを一切合切持ってったのよ」
どうりで、あの日にかぎって長屋全体が奇妙に静まりかえっていたわけだ。
「政さんがいなくなった日のことは、まあわかった。けどよ、まだ黒葛の殿さまがつながってねえぞ」
「だから、三の曲輪で起きた騒ぎさ」
「それを人質の殿さまが起こしたって言いてえのかい」
「わからねえ」
「ひょっとして、逃げたとか」
「わからねえよ」
善七は暗い目をした。
「ただ、あの日以来、黒葛家の人質の話をとんと聞かなくなった。それまでは、ちょこちょこ噂を耳にすることはあったんだ。若い殿さまが〈百々屋〉の米饅頭をお気に召して、ご家来衆が月に二度も買いにいらしたとか、まあそんな他愛のねえ噂話だけどよ。別にあの人らが天山にいるのは秘密ってわけじゃねえし、もう長いこと住んでいなさるから、さっきの扇を作ったおれみてえに何かでちょっぴりかかわりを持ったやつってのも、そう珍しくはなかったんだよ。で、かかわったら、そりゃあやっぱり椿事ってやつだから、周りに話すわな。そういうのが、たまにもれ聞こえてきてたのさ。だが、あの十四日の夜からこっち、それはまったく……ひとッつもなくなっちまったんだ」
沈黙が落ちてしんとなり、祥介はにわかに冷えを感じて小さく身震いした。
「お、おっかねえ――な」
「だろう」
「じゃあよゥ、その夜に半鐘が鳴ってから政さんの家に来た誰かってのは、黒葛家の人だろうとあんたは思ってるわけだ」
「まあ、な」
「ってことは、こうか。三の曲輪で、黒葛家の人たち絡みで何か大変なことがあった。で、そのうちの誰かが、助けを求めてだか何だか知らねえが、とにかく急の用があって政さんのとこに来た。政さんはその人と一緒に家を出てった。それで――」
善七がうなずく。
「――それっきりよ。政のやつも、黒葛家の人らも」
彼は囁くように言い、うつむいて首を振った。
「おれは、政はもう生きちゃいねえ気がする」
「そんな」
愕然としながら、祥介は両の肘をぎゅっと掴んだ。
「でもよ、名家の殿さまが困りごとがあったからって、羅宇屋なんかを頼ってくるかね? あんたは夜中に政さんのとこに来た人ってのを、実際に見たわけじゃねえんだろ。全然関係ない、別な知り合いだったかもしれねえじゃねえか」
「それは、そうさ。だから始めに、ほんとのところはわからねえと言っただろうが。何もかも当て推量よ。おめえが政のことを本気で心配してるように見えたから、思ってることを話したまでだ」
「なあんだ」祥介は呆れ声を出し、両肩に入っていた力を抜いた。「真剣に聞いて損しちまったい」
「だがな、おれの勘が言うんだよ。あの夜に起きたことには、絶対に黒葛家の人らがかかわってると。政はそれに巻き込まれたと」
善七は顔を上げ、遠くを見るような目をしながらつぶやいた。
「もう二度と、あいつに会うことはねえと感じるんだよ」
祥介が両替商〈寿屋〉の暖簾をくぐったのは、昼八つを過ぎたころだった。帳場にいた手代は彼の名を聞くとすぐ小僧に言いつけて源衛門を呼びにやり、いくらも待たないうちに大番頭当人が現れて祥介を店の奥へといざなった。
「待っていたよ、祥介さん。旦那さまも楽しみにしておられる」
「お言葉に甘えてまかり越しやした。腹の具合はいかがです?」
「お陰さまで、もうすっかり良くなったよ」
ほんとうに調子がいいようで、廊下を歩いて行く源衛門の足取りは軽い。
「煙草はたくさん売れたかね」
「まあ、ぼちぼちで」
中庭に面する住居部分は広々として開放感があり、店と同様に清掃と整頓が隅々まで行き届いていた。何か清らかな空気が漂っているようで、豪商らしからぬ質実な暮らしぶりが窺われる。
居間で待っていた主人は祥介が想像していたよりもずっと若く、三十そこそこに見えた。つるりと白い細面で、鼻筋の通った、なかなかの男前だ。
彼は〈寿屋〉孝二郎と名乗り、ひととおり挨拶を交わして互いに落ち着くと、祥介に親しげな笑みを向けた。
「源さんを助けてくれてありがとう」
「なあに、手持ちの薬がお役に立ってなによりで。おまけに商売させていただけるとは、嬉しい限りでございやす」
祥介は話しながら荷を解き、手持ちの葉煙草を孝二郎の前に並べてみせた。
「左半分は北部のもので、産地の名を取って右から黒氏、一廼穂、空泉。右半分は南部の産で小桜、丁嵐、轉、徂徠。上物はなんと言っても南部のもので、特に丁嵐、轉あたりは栽培量の少ねえ銘柄ですから、めったに天山へは入ってこねえはずですよ」
「うむ、南部のはどれも初めて聞く名前ばかりだ」
「こいつらは単品で吸っても悪くねえ味だが、葉組みの塩梅で絶品になりやす。ひとつ組んでみてもよろしゅうございやすか」
「ぜひ頼む」孝二郎は興味津々の様子だ。
祥介は微笑み、すでに細刻みしてある葉煙草の包みをいくつか取り出すと、手早く調合して差し出した。
「割合は小桜が三、一廼穂が二、丁嵐が五。おれのいち押しはこれでさ。どうぞ、一服やってみておくんなさい」
孝二郎は紙に載った煙草を受け取り、軽く丸めて煙管に詰めると、煙草盆から火を吸い付けた。さすがに慣れた手つきだ。
彼はゆっくりと二服して煙の味と香りを楽しみ、軽く吹き戻しをして、さらに二服吸ってからそっと灰を落とした。
「素晴らしいよ」と、にっこりする。
「お気に入られましたかい」
「こんな味は初めてだ。なんとも言えない、柔らかい口当たりだねえ。香りは清々しくて、少し甘さもある」
よく味わっているなと感心しながら、祥介は次の葉組みを行った。
「こちらは黒氏が三に、轉が七。単純なようですがね、不思議と奥深い味になりやす」
受け取って一服した孝二郎が神妙な顔つきになる。
「濃厚な旨味――重いが、癖になる味だ。これは源さんのほうが好みだろうな」
そう言って、彼はそばで見ていた源衛門に煙管を差し出した。大番頭のほうもこだわりなく受け取ったところを見ると、このふたりのあいだにはそうとうに強い絆がありそうだ。あるいは親族なのかもしれない。
「ほう、これはいい」
源衛門は一服して、丸い顔に大きな笑みを浮かべた。
「はっと目が覚めるような味で、しかも不思議に後味がよろしいですな」
彼は手ぬぐいで吸い口を丁寧に拭いてから、煙管を主人の手に返した。孝二郎がもう一服、目を閉じながら味わう。
「わたしは、香りは最初のほうが好みだよ。でも後味はこっちが好きだ。どちらも選びがたいねえ」
「でしたら、お好みを踏まえて、あといくつか」
祥介は調合を少しずつ変えて、さらに四種類の葉組みを行った。それらを孝二郎が次々と試し、中から二種類を選び出す。
「あとから組んでくれた二番目と四番目がとても気に入った。祥介さんは、どれくらいの間隔で天山に来るんだい」
「たいてい、ひと月に一度は」
「じゃあ、二番と四番を交互にひと月楽しめる分量の葉を置いてっておくれ」
すかさず、源衛門が口を挟む。
「わたしも、あの濃厚なのをひと月ぶん頼もう」
「毎度ありがとうございやす」
祥介はにこにこしながら特に良い葉を選り分け、それぞれ好みの割合になるよう三種類の紙包みを作って、ふたつを孝二郎、ひとつを源衛門に手渡した。
「旨くなるこつは、なるべく細く細く刻むことで。よく切れる包丁にさらに研ぎをして、蕎麦を切る時みてえな押さえ――小間板ってんですか? ああいうのを使うとうまくいきやすよ」
「なるほど、やってみよう。な、源さん」
孝二郎が源衛門と視線を交わしながらうなずき合う。
「これからの時期には葉が乾いて、ぱらぱらと砕けがちなのが悩みなんだが、何かいい方策はあるかい」
「ございやすよ。ミカンの皮をひと切れ、一緒に箱に入れておくんでさ」
「へえ、ミカンの。それでなきゃ駄目なのかね」
「いや、湿り気のあるもんなら、何でもいいんですよ。直に濡らすんじゃなく、ほどよく湿ったものを一緒に入れとくことで、葉が乾くのを抑えられるって寸法で」
「それはいいことを聞いた」
葉煙草の代金を受け取ったあとは、茶と菓子のもてなしを受けながら半刻あまりも煙草談義に興じた。孝二郎も源衛門も、大店の主人と大番頭とは思えないほど気さくで、少しも偉ぶったところがない。腹痛止めの丸薬ひとつで、よくぞこれほどの上客を釣り上げたものだ――と内心ほくほくしながら、祥介は話の途中でふと訊いた。
「ところで、これまではどこから煙草を買っておられたので?」
孝二郎の表情が少し曇る。
「このあたりによく来る、羅宇屋のひとりから買っていたんだ。最初は煙管の掃除をしてもらうだけだったが、自分でも細工をするというから、二年ほど前に一本作ってもらったんだよ。折り目正しい、仕事の丁寧な人で、職人としても腕は良かった」
彼は先ほどまで使っていた煙管を取り、愛着のこもった目でじっと見つめた。
「それ以来、煙管の手入れのついでに葉煙草も売ってもらうようになってね」
「そうですかい」
「だが、ひと月ほど前のある日を境に、ぱったり姿を見せなくなってねえ。出かけるついでがあった時に、前に聞いていた長屋をちょっと覗いてみたけど、もうそこには住んでいなかった」
「どこへ行ったんでやしょう」
「それが、さっぱりわからないんだよ。先月はそんなことが立て続いて――そら、あの黒葛さまも」
主人に話を振られた源衛門が、真面目な顔でうなずく。
「ええ、ええ。あれも、何やらすっきりしない出来事でございましたねえ」
祥介は手に持っていた茶碗を置き、ふたりの顔を交互に見た。
「黒葛さま――というと、あの南部の名家の」
「そう、そこの若さまが人質奉公で、十二年前から三の曲輪にいらっしゃってね。お国許から届く為替手形の換金のために、ご家来衆のどなたかが半年に一度の割合でうちへ来られていたんだよ。それが、いつもならおいでになるはずの先月とうとうお見えにならず、どうしたのかと思っていたら……」
「な、なんです」
祥介が思わず身を乗り出すと、源衛門が主人の言葉を引き継いで言った。
「どうやら、黒葛の若さまが亡くなられたらしい」
「なんてこった。大変じゃありやせんか」
「そうなのだが、〝らしい〟というだけで、何もはっきりせんのだよ」
憂い顔の大番頭を横目に見ながら、孝二郎がそっとため息をつく。
「よその国のかただろうと人質だろうと、長年お取引いただいた大事なお客さまには違いないからね、わたしも詳しいところを知りたいとは思ったんだよ。でも、城勤めをしているお馴染みさまに訊ねてみたら、けんもほろろに〝詮索するな〟――と、こうさ」
口止めされているのだろうか。
「それはたしかに、すっきりしやせんね」
「黒葛さまのことは、わたしらなんぞがあれこれ思ったところで、どうしようもないけどねえ。羅宇屋の政茂さんのことは、今もずっと気になっているんだ。どこかで元気にやっているならいいが」
優しい表情で言ったあと、孝二郎は祥介に笑顔を向けた。
「でもまあ、こうして煙草を商う人と新しく知り合えて、少しは心の区切りがついた気がするよ。祥さんは突然消えたりしないでおくれね」
「ご心配には及びませんや。おれは来月も再来月も、必ずお邪魔いたしやすから」
そう太鼓判を捺すと、孝二郎たちが嬉しそうな顔になる。
「ずいぶん長々と引き留めてしまったが、だいじょうぶかな。おまえさん、まさか今から下山はするまいね。今夜の宿はもう決めてるのかい」
「へい、ここからぐるっと北へ回って、馴染みの敵娼んとこへでもしけ込もうかと」
あっけらかんと言い放った祥介をまじまじ見つめてから、孝二郎らは声を揃えて笑い出した。
両替商〈寿屋〉を辞去したあと、祥介は軽くなった背負子を揺らしながら曲輪道をぶらぶら歩いた。午後も遅くなり、外気は少し冷え始めている。この時期でも天山の中層以上は、夜はやはり寒いのだ。
彼はそのあたりの見世先をしばらく冷やかして回り、空が薄暗くなってくると路地を一本入って、辻角に出ている田楽屋台の床几に腰を落ち着けた。里芋と茄子、こんにゃくの味噌田楽を注文して、それを肴に冷や酒をちびちびなめる。見世の主人は五十がらみの無愛想な男で、注文のやり取り以外には口を開かないのをこれ幸いと、こちらも敢えて会話は振らずにひたすら黙々と食って飲んだ。
小半刻もすると次第に客が増えてきたが、席は明け渡さない。長尻を疎ましがられない程度にほどほど食べ、ほどほど飲み、素知らぬ顔をして居座り続ける。
やがて路地に夜の帳が下り、同席の酔客たちの浮かれ騒ぎが最高潮に達したころ、祥介はようやく腰を上げて屋台を離れた。酒が少し回った足取りで、孝二郎らに話した北の遊郭ではなく、裏路地のさらに奥へ向かってゆっくり歩いて行く。
進むにつれて目抜き通りの喧噪が遠ざかり、人通りが減り、昼間に訪ねた裏店街へ再び舞い戻るころには、あたりにはもう誰もいなくなっていた。長屋の住人たちは各々の家に戻って戸を閉ざし、普段通りの夜を過ごしているのだろう。
祥介は肩の連尺を両手でぎゅっと握って背負子を背中に引きつけ、猫のように足音もなく裏路地を歩き出した。扇職人善七が異様に耳聡いことはすでに知っているので、彼の家の前では特に慎重に足を運ぶ。
そうして路地の突き当たりまで行くと、長屋の裏木戸をそっと抜けて壁の外に立ち、正面に迫り上がる天山の斜面を見上げた。はるか上まで鬱蒼と木々が生い茂り、地面にはびっしり下生えが蔓延って立ち入る者を拒んでいる。
彼は左右を見て人目がないことをたしかめ、最後に背後の壁の中の様子をちょっと窺ってから、口の中で「よし」とつぶやいて雑木林へ入っていった。
三日後の夕刻、祥介は天山から五里ほど南の丹澤街道沿いにある院瀬見宿に入った。規模的には間の宿と大差ない小さな宿場で、旅籠と木賃宿が一軒ずつ、茶屋が三軒、あとは民家が十軒あまりあるだけだ。
祥介は宿場の端までまっすぐに行ってから脇道に入り、街道から少し北に離れてぽつんと建つ民家の戸を叩いた。
「蓑をおくんな」
声をかけると、中から足音が近づいてきた。
「蓑は品切れだよ」住人がぼそりと言う。「外は雨かね」
「これから降るとこだ」
さっと戸が開いた。土間に野良着姿の背の高い男が立っている。祥介は彼と視線を合わせてうなずき、屋内にすべり込んだ。
一段上がった八畳の板間には地炉が切ってあり、その周囲に藁束や作りかけの藁細工が積まれていた。それらを押しのけて座り、炉を挟んで男と向かい合う。
「予定よりも一日遅れたな」
そう言って、男――田荘新左衛門が茶碗に汲んだ白湯を差し出す。受け取ってひと口飲み、祥介は低く囁いた。
「五の曲輪で目星をつけていた職人と、もうひとつ別の線からも話を聞くことができ、少し思うところがあったのでひと晩余計に留まりました。わずかの時間でもいいので、三の曲輪を探れないかと」
三の曲輪と聞いて、新左衛門がぴくりと眉を上げる。無鉄砲なやつだと思っているのだろう。
「政茂には、やはり今回も会えなかったのだな」
「残念ながら。政茂どのは水月十四日の夜に何か重大事が起こり、取るものも取りあえず家を出られたようです。その後の行方は杳として知れませんが、わたしが思うに、もはや……」
「死んでいる――と」
「はい」
善七の考えに影響されたわけではなく、今は自分でも半ば確信している。
「三の曲輪で何を見てきた」
「桔流邸に侵入ってみました。貴昌君と随員のかたがたがおられる、〈賞月邸〉の様子をたしかめたかったのです」
「それで」
「別邸内に人はおらず、外回りを警備する者の姿もありませんでした」
新左衛門の目が剣呑な光を帯びる。
「では、貴昌さまはどこへ」
「黒葛ご宗家からの為替手形を換金していたという両替商は、貴昌君が亡くなられたようだと噂をしておりました。しかし確証を掴むには、もっと探索が必要です」
祥介は身を乗り出し、新左衛門の顔をじっと見つめた。
「潜らせてください」
「できるのか」
「はい」
こういう事態に備え、長年かけて地均しをしてきた。商売は本物。取引先も本物。念入りに創り上げた人格を纏って〝煙草売りの祥介〟になれば、誰に怪しまれることもなく天山の中で活動できる。
「ではやれ。来月のうちにも潜れるよう手筈を整える」
「承知」
空閑忍びの祥介は短く応え、一拍置いてから訊いた。
「宗主へは?」
「現時点でお伝えすべきかどうか、わしには判断しかねる」
新左衛門は唸るように言って、陰りのある眼差しを祥介に向けた。
「取り急ぎ、まずは頭目に報告しよう」
聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/




