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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第四章 戻れぬ橋
142/161

五十  別役国西部・〈川渡屋〉鉄次 特別な女

 雲が頭上を走る、風の強い(ひる)下がり。

 鉄次(てつじ)は武装商船〈大豪(だいごう)丸〉の船尾楼甲板に立ち、後部の手すりに身を預けて空を眺めていた。この季節にしては珍しく、目路の端まで気持ちよく晴れている。梅雨もそろそろ終わりかけのようだ。

 あいにく逆風で帆走できないため、いまは()を出して()がせている。さほど急いではいないが、船頭の仁助(じんすけ)が「漕手どもが漕ぐと言ってる」と伝えてきたので、彼らの好きなようにさせていた。もう別役(わかえ)国に入っており、目的地の龍康殿(りゅうこうでん)まであと二、三日の距離まで来ているため、みな少し気が(はや)っているのだろう。今回は船体の保守点検も兼ねて長めに投錨する予定になっており、誰もが久しぶりに(おか)でゆっくり過ごせるものと期待を膨らませている。

 鉄次は街に着いたら店者(たなもの)と船子に交替で暇をやり、数日ずつ下船させてやるつもりだった。特に仁助や番頭の佐吉(さきち)など、古くからいる身内の者たちにとって龍康殿は故郷のようなものなので、各々(おのおの)会いたい人や行きたいところもあるに違いない。

 鉄次自身もひさびさの本拠ですべきことがいろいろとあった。

 まずは〈川渡(かわと)屋〉の元店(もとだな)に顔を出して、店番を任せている大番頭の萬作(まんさく)吉次郎(きちじろう)に会い、今後の金と品物の出入りについての細かい打ち合わせをする。ふたりとは常に手紙でやり取りをしているが、二年以上も顔を合わせていないので、そろそろ(じか)に評議したい案件が溜まっているに違いない。

 もうひとつ、決して欠かすことができないのが、龍康殿の表と裏を取り仕切る三人の大差配〈三龍(みつりゅう)〉への挨拶回りだ。街に元店を置いて商いをしている以上、彼らとのつき合いを疎かにするわけにはいかない。とはいえ毎年たっぷり上納金を払っているので、今さら特にうるさいことは言われないだろう。

 そういった商売がらみの諸々を片づけたあとは、自分もしばらく陸で骨休めをするつもりだった。賭場(とば)つきではない静かな旅籠(はたご)に部屋を取って、揺れない寝床と手足を伸ばせる広い風呂を満喫する。

 ここ一年はずっと内陸の川を移動していたので、新鮮な海の幸を味わうのも楽しみだった。今の時期ならカツオやヒラマサ、マゴチ、アナゴなどが旬を迎えていて旨いはずだ。貝類なら岩牡蠣やイガイ。ケンサキイカも産卵を終えて身が太り、味がよくなっている頃合いだろう。

「何を嬉しそうな顔してんです、旦那」

 声がしたので視線を下げると、階段を上ってくる小花衣(こはない)真哉(しんや)の長身痩躯(そうく)が見えた。彼は四年前の冬に曽良(かつら)国の造り酒屋〈浜路(はまじ)屋〉平左衛門(へいざえもん)の紹介で知り合い、船守(ふなもり)として雇い入れた男だ。平左衛門の六人目の――そして最後のになるだろうと当人は言っている――女房になった女が小身武家の出戻り娘で、真哉はその親戚筋にあたる家の五男だという話だった。二十代半ばまで何もせずにぶらぶらしていた風来坊だが、蹴り技中心の体術を習得していて腕はかなり立つ。

「旨い食い物のことを考えてたのさ」

「いいねえ」

 真哉は顎の尖った面長な顔に笑みを浮かべながら、体重がないかのような軽い足取りで近づいてきた。少し眉尻の下がった長い眉の下で、細めた目がきらりと輝く。

「ご相伴に(あずか)りたいや」

「龍康殿に着いたらな。なんか用かい」

「ちょっと報告がありましてね」

 そう前置きして、彼は朔三(さくぞう)という若い船守のことを話した。船団の一員に加わって半年足らずの新参者で、勤めぶりは決して悪くはなかったが、最近になって〈玉桜(ぎょくおう)(ろう)〉の娼妓(しょうぎ)と〝できてしまった〟という。

「どの()と」

苑藤(そのふじ)のようで」

「ふうん。古株じゃねえか」

 鉄次は小さくつぶやき、首をうしろへひねった。子ガモが親のあとを追うように、〈大豪丸〉に連なって進む四隻の子船が見える。前から二番目にいる〈玉桜丸〉は娼楼(しょうろう)船で、停泊中に商売をする時にはそれを知らせる白と紫の段だら幕を舷側(げんそく)に飾るが、今はほかの子船と同様に素裸だ。

 娼妓たちが客を迎える船内の上二層は細かく部屋割りされており、各室ごとに賃料が設定されている。窓のある上層階の賃料は高く、湿気と熱気がこもりがちな下層階は安い。部屋の広さもまちまちで、もっとも格が高く値も張るのは上層船尾側の二間続きの十畳間だった。

 高い部屋を使う娼妓は、当然ながら花代も高い。女たちは自分の懐具合を考慮して部屋を選び、客から受け取る花代の中から七割を楼主に納める決まりになっていた。それには部屋代だけでなく食事代や備品代、燃料費、清掃料と警備料、療師(りょうじ)による月に一度の検診費なども含まれている。清潔な場所で安全に稼ぐための必要経費であり、ほとんどの遊郭では借用分の取り立ても兼ねて見世(みせ)が稼ぎの九割を持っていくことを思えば、決して悪い待遇ではなかった。

〈玉桜楼〉の娼妓に、見世への借金を抱えている者はひとりもいない。これは自身も(くるわ)上がりの千鶴(ちづる)という女楼主(ろうしゅ)が、起業の際に特にこだわったことのひとつだった。普通の娼楼は身内や女衒(ぜげん)に売られた女を置くが、〈玉桜楼〉は自ら進んで娼妓の仕事を選んだ女だけを置く。入楼の際に身代金が発生しない彼女らは見世への借りもなければ年季もなく、部屋を借りているあいだの掛かりをきちんと払いさえすれば、得意な仕事を好きなだけ続けることができた。

 小金を貯めて二、三年で辞めていく者もいるが、居心地がいいからと五年以上も腰を据えている者も少なくない。苑藤はそうした古参組のひとりだった。歳はそろそろ二十五を過ぎるあたりで、娼妓の上り時と言われる年齢に近づいてはいるが、辞めそうな素振りは見せていなかったように思う。

間夫(まぶ)を持つのは禁止ってのが〈玉桜〉の規則だし、苑藤もそんなことは百も承知のはずだ。朔三とできたってのは確実な話かい」

 鉄次が問うと、真哉は軽く肩をすくめて見せた。

「残念ながらね。朔三は、はじめのうちはちゃんと金を出して遊んでたが、ここしばらくは女に身銭を切らせてるようですよ」

 それは完全に掟破りだ。鉄次は船団で働く者たちが余暇に〈玉桜丸〉に登楼したり、賭場(とじょう)船の〈白雲(はくうん)丸〉で遊んだりすることはむしろ推奨しているが、あくまで自腹で賄える範囲でというのが条件だった。借金をしたり、女に貢がせたりしてまで見境なく遊興に耽るような者は、仕事の上でも信用がならないと思っている。

「なら、決まり通りにさせるしかねえな。片方が船から降りるか、ふたり揃って降りるかだ」

「旦那から、朔三のやつに言い渡してやってもらえますか」

 意外な頼み事をされ、鉄次は怪訝顔になった。

「おれは伊都(いと)の頭越しにどうこうする気はないぜ」

 そんな真似をしたら、船守の頭領(とうりょう)である彼女の顔をつぶすことになる。

「まあ、そう言われるだろうとは思ったんですがね」

 真哉はふっとため息をつき、上目づかいに鉄次を見つめた。

「おれら船守にとって頭領は、なんというか――特別な(ひと)なんですよ。絶対に(かな)いっこなくて、頭が上がらない姉さんか妹って感じだな。あの人に面と向かって〝出ていけ〟と言われるのは、我が身に置き換えたらあまりに切なすぎる」

 日ごろの態度に似合わず、しおらしいことを言う。鉄次が思わず苦笑をもらすと、彼は困ったように眉根を寄せた。

「まじめな話なんだ。笑いっこなしですよ」

 いつもへらへらと調子のいいやつが珍しく腹を割って話しに来たのだから、よほどの思いがあるのだろう。

「わかった。まず伊都と千鶴に了解を取って、それから朔三たちに話をする」

「恩に着ますよ、旦那」

 愛想のいい顔で会釈をして、真哉はほとんど足音を立てずに階段を下りていった。上背を持て余すように少し背を丸めた後ろ姿が、腹ぺこの大きな猫を連想させる。

 鉄次はよりかかっていた手すりから身を起こすと、船首の方向へ歩いて行って上甲板を見下ろした。太い帆柱の周囲に木太刀を手にした八人の船守が広がり、ふたりひと組になって激しい打ち合いを繰り広げている。いつにも増して稽古に気合いが入っているように見えるのは、彼らの〝特別な(ひと)〟が近くにいるせいだろう。

 その女――伊都は舷側の壁ぎわに佇み、穏やかながら頭領らしい威厳も漂わせて鍛錬の様子を見守っていた。今日は白地に紫苑(しおん)色でウスベニアオイの花模様を染めた細かい柄行きの単衣(ひとえ)をまとい、結び(ぶみ)模様の刺繍がある濃紺の細帯を締めている。長い黒髪は左肩にゆったりと寄せ、絹の組み紐でひとつに(くく)って胸へ垂らしていた。少女のころは若衆のように凛々しく結い上げていることが多かったが、ここ数年で今の髪型に落ち着いたようだ。化粧は唇に紅を薄く乗せた程度で、全体的に上品だが飾り気のない装いと言える。

 生来の美貌がそうさせるのか、彼女は昔から(めか)すという意識がきわめて低かった。衣装は丈と身幅さえ合っていればいいと思っているらしく、つまらない色柄の着物を平気で着ていたりする。それに気づいて以来、鉄次は伊都に似合いそうなものを見かけると、つい財布の紐をゆるめるのが癖になってしまった。自分が着道楽な性分なので、人が映りのよくないものを着ていると、どうしても気になって仕方がない。ましてそれが、伊都のような飾り甲斐のある娘ならばなおさらだった。

 男から身形(みなり)に口出しされるのを(いや)がる女は多いが、彼女にはそういうところがまったくなく、買い与えられたものはどれも喜んで身につけた。成長すれば好みがうるさくなるかと思ったが、今も子供のころと少しも変わらず、鉄次が選んだ着物だけで衣装箱を満たして満足しているようだ。

 視線の先で、ふいに伊都がこちらを向いた。長く見つめすぎて気づかれたらしい。

 彼女は鉄次の姿を認めると、花が淡く薫るようにふんわりと微笑んだ。この笑顔を見るといつも、あなたに会えて嬉しいと言われているように感じる。

 鉄次は動きが悪いほうの足をかばいながら階段をゆっくりと下り、壁沿いに歩いていった。稽古の邪魔にならないよう少し手前で足を止めたが、伊都のほうからすうっと近寄ってくる。

 向かい合って立つと、彼女の肌から温かみのある優しい香りが漂ってきた。南方(なんぽう)煤孫(すすまご)島経由で入ってくる舶来の香油の芳香だ。鉄次が春先に出入りの業者からひと箱買い、試用を兼ねてひと瓶与えておいたものを今日初めて使ったらしい。

「その香油、気に入ったかい」

「はい。なんだか懐かしいような香りで、わたしは好きです」

「どこにつけてるんだ」

「耳の下のくぼみと、髪の先にほんの少しだけ」

 鉄次は「どれ」と言って身を屈め、彼女の右耳に顔を近づけた。日ごろ馴染みのある香木などとはまったく異なる、新鮮な花を思わせる香りがする。

「おまえに似合ってる。香油ってやつは瓶に入ってる時より、肌につけたほうがいい匂いになるんだな」

 そう言って体を起こすと、伊都が明後日(あさって)の方向へ目を()らせていた。表情は変わっていないが、白い首筋にうっすらと赤みがさしている。こういう純情可憐なところも、やはり小さいころのままだ。

 並んで立てば肩を越すほど背が伸びた彼女はもうすっかり大人で、鉄次に向ける思慕の情もいつごろからか少し異なる色合いを帯びるようになった。そのことに気づいていないわけではないが、出会った当時の少女の面影があまりにも鮮烈に残っていて、今もそれを無意識に重ねて見てしまう。伊都のほうも、信頼して自分の先行きを委ねると決めた庇護者の姿を、まだ半分ほどは鉄次に重ねているに違いない。

 一度(ひとたび)構築された関係性というのは、年月を経てもおいそれと変わりはしないものだ。

 笑うとなおさら恥ずかしがるだろうと思い、鉄次は彼女の面映(おもは)ゆさに気づいていないふりをした。

「これからも使う気があるなら、おれの部屋の物入れに仕舞ってある箱から好きに持ってっていいぜ」

「でも、とても高価なのでしょう?」

 まったく、欲のない娘だ。

「どうせ、拝み倒されて試しに仕入れてみただけの品だ。売り先の当てもまだつけちゃいねえ。おまえが使えば恰好の宣伝になって、そのうち欲しがる客も出てくるだろうさ」

 そうなのかしらというような半信半疑の顔をしたあとで、伊都は小さく微笑んだ。

「在庫を大雑把に扱うと、また佐吉(さき)っちゃんに叱られますよ」

「うちの番頭はおっかねえからな。内緒にしといてくれ」

 鉄次が人差し指を唇に当てると、彼女は厳かな表情でうなずいて見せた。

「黙っています」

「ところでおまえ、前に約束した清書の駄賃を何にするか決めたかい」

 ちょっと間が空いた。忘れていたらしい。

「いいえ、まだ」

「何をねだるにせよ、龍康殿にいるうちに決めたほうが得だぜ。飾り物でも何でも、あの街ほど質量共に揃ってるとこはほかにはないからな」

「到着まで、あと二日?」

「三日かな。途中で一か所、荷下ろしがある」

「考えて、着くまでには決めます」

「よし」

 その場から離れかけ、一歩踏み出したところで足を止める。

「それと、次に投錨したら〈玉桜丸〉にちょいとつき合ってくれるか。おまえと千鶴を交えて、話しておきたいことがあるんだ」

 美人ふたりを並べてするには色気のねえ、気詰まりな話だがな――と、鉄次は胸の中でつぶやいた。


 日が中天を過ぎたころから順風になり、夕暮れ近くまでずっとそれが続いた。今は全船が帆をいっぱいに張り、今日の投錨地を目指して快走している。

 鉄次は少し前から自室にこもって、〈猩々(しょうじょう)丸〉の積み荷目録に目を通していた。明朝の荷下ろしに備えた最終確認のためだ。紙を二つ折りにして綴じた分厚い帳面には、佐吉(さきち)の几帳面な墨文字が整然と並んでいる。

 余白部分に荷分けの指示を書き入れようと筆を取った直後、けたたましく船鐘(せんしょう)が鳴り始めた。急を知らせる二点鐘だ。外で何か起きているらしい。

 部屋から出てみると、明るい夕陽に照らされた甲板の上を船子たちが走り回っていた。みな急いで持ち場につこうとしている。

海賊ですよ(ジュレン・ビラット)!」

 朗々とした声が頭上から降ってきたので見上げると、中央帆柱の上部に設置された見張り台から、タイフォス人の船守(ふなもり)オデルが真っ黒い顔を覗かせていた。正面から陽を浴びて、赤い髪が燃え立つように輝いて見える。彼は不敵に笑うと、空中にさっと身を躍らせて索具に取りつき、そのまま一気に甲板まで滑り降りた。軽業師も舌を巻く身のこなしだ。

 オデルは鉄次のいる場所まで外階段を駆け上がってくると、まだ鳴り続けている船鐘に負けない大声で報告した。

前方(ドリクト)から三艘きます。櫂が八本の帆船アッティ・パディラ・セグルバット。大きくはない。しかし速い」

 興奮のためか、ところどころタイフォス語が混じっている。鉄次はそれを頭の中で翻訳してからうなずいた。

「八挺櫓(ちょうろ)の快速帆船か。〈川鼠(かわねずみ)〉だな」

 海に海賊がいるように、川にも川の盗賊がいる。〈川鼠〉の通称で呼ばれる彼らは、足の速い小型船で奇襲をかけて素早く標的の船に乗り込み、短時間で蹂躙して去っていくことが多い。乗員や乗客は皆殺しにされることもあれば見逃されることもあり、そのあたりは一味の性格によりけりだと言える。

 鉄次はオデルを連れて、見晴らしのいい船尾楼甲板まで上がった。なるほど、舳先のはるか向こうに船らしきものが小さく見える。それはぐんぐん近づいてきており、〈大豪丸〉の進路を妨げる航路を取っているのがわかった。

 河川交通には決まりがあって、船同士が行き合う場合は互いに相手船の左舷側を通過して衝突を避ける。まっすぐ正面から向かってくるのは敵意がある証拠だ。

「速度が落ちない」

 オデルが船影を睨みながら唸り、くるりと向き直って鉄次を見た。

「やつら、ぶつかりますか」

「体当たりすりゃ、向こうが負ける。寸前でかわして、うしろの子船を狙う魂胆だろう。後続に停船を知らせろ」

 すかさずオデルが長い両腕を広げて振り回し、後続先頭の〈猩々丸〉に合図を送る。鉄次は進み出て上甲板を見下ろす位置に立ち、舵棒を操っている仁助(じんすけ)に声をかけた。

「連中は脇を抜く気だ」

 誇り高い船頭が、それを聞いて高く眉を吊り上げる。

「抜かせやしねえ」

 彼は帆の膨らみ具合を見定めながら慎重に面舵(おもかじ)を切り、船体が左に回頭し始めると、右舷の漕手に全力で漕ぐよう号令を飛ばした。風の力と艪漕(ろそう)による推進力で〈大豪丸〉の巨体がゆっくりと横向きになり、ちょうど狭くなっていた川幅の七割ほどを塞ぐ。それに気づいた快速帆船のうち二艘は()を止めたが、残りの一艘は向きを変えて猛然と船首側へ突進し始めた。そちらの隙間は〈川鼠〉の小型船なら通り抜けられる。

 その時、伊都(いと)が船尾楼甲板へ上がってきた。背後には矢神(やがみ)久蔵(きゅうぞう)小花衣(こはない)真哉(しんや)が付き従っている。彼女はさっと視線をめぐらせて状況を見て取り、振り向いて真哉にうなずいた。

「行って」

 ひと言命じると、真哉は即座に手すりを乗り越えて上甲板へ飛び下りた。着地と同時に走り出し、またたく間に船首に到達する。彼はそのまま足を止めることなく舷縁(げんえん)に跳び乗ると、敵船に向かって高く跳躍した。動きにまったく迷いが見られない。

 真哉は狙い(たが)わず快速帆船の甲板にひらりと舞い降り、前転で勢いを殺してから機敏に立ち上がった。数人の敵があわてて得物を抜いたが、その攻撃を難なくかいくぐって、漕手だけを手早く打ち倒していく。小型船の動きが鈍り、〈大豪丸〉の船首を回り込む寸前でよろよろと停止した。

「オデル」伊都がもうひとりの船守に目をやる。「あなたも」

お任せを(ヴェリ・メイ)

 歯切れよく応えたタイフォス人が解き放たれた黒い獣のように駆けていき、真哉と同様に鍵縄も使わず敵船へ跳び移る。そんな曲芸めいた真似ができるのは、大勢いる船守の中でもこのふたりだけだ。

 船を(かし)がせるほどの勢いで着地したオデルは、革鞘に入れて背負っているふた振りの曲刀を抜き放ち、群がる敵を次から次へと撫で斬りにしていった。快速帆船の甲板が、みるみるうちに血で染まっていく。

 そうしているあいだに、残る二艘が〈大豪丸〉にじわじわと近づいてきた。舷側に梯子(はしご)をかけて乗り移ってくるつもりだろう。

 伊都は欄干に歩み寄り、上甲板の右舷で待機している砲手組を見下ろした。彼らの組頭である紫福(しぶき)倫太郎(りんたろう)が、丸顔にぱっと明るい表情を浮かべる。

「沈めますか」

 そう問いかけた彼は、全長三尺、重量が六貫近くもある百(もんめ)大筒(おおづつ)を抱えていた。敵船の位置が近すぎて大砲の射角が取れないため、抱え筒で砲撃しようというのだろう。使用する弾は小さめの鶏卵ほどもあり、舷側の壁ぐらいなら易々と撃ち抜くことができる。

 伊都がこちらを見たので、鉄次は苦笑いしながら言った。

「狙うのは帆柱にしな」

 彼女がそれを伝えると、倫太郎は配下に命じて開かせた舷門(げんもん)の前で両脚を踏ん張り、正面に見える敵船に向かって大筒を発射した。凄まじい砲声が響きわたり、敵も味方も息を呑んでしばし動きを止める。

 弾は見事に帆柱の上部を捉え、帆桁(ほげた)が固定されている部分を吹き飛ばした。砕けた材や切れた綱、たわんだ帆布などが〈鼠〉たちの上にバラバラと降り注ぎ、頭を抱えて逃げ出す者、折れた帆桁の直撃を受けて倒れ込む者で船上がにわかにごった返す。しかし何人かはすぐに気を取り直し、再び漕ぎ寄せようと(せわ)しなく動きだした。

 砲撃されなかったほうの一艘は〈大豪丸〉のすぐ下まで近づいており、先端が鈎状になった船梯子を数人がかりで繰り出そうとしている。

 三艘のうち二艘がすでにかなりの打撃を受けており、このあたりで見切りをつけて引き揚げるのが上策と思えるが、どうも彼らにその気はないようだ。

「あきらめの悪いやつらだな」

 鉄次がつぶやくと、隣で伊都がふっと微笑んだ。

「懲らしめますか」

「ほどほどにしとけよ」

 彼女はうなずき、うしろに控えている男に目くばせをした。

「久蔵さん」

「承知」

 矢神久蔵は低い(しゃが)れ声で短く応えると、階段を駆け下りながら矢継ぎ早に船守たちに指示を出した。

「砲手組は漕ぎ手を狙え。その他の者は敵が梯子をかけたら、上ってくる端から川に突き落とせ」

 たちまち銃声と喚声が入り乱れ、しばし辺りは騒然となった。敵は二台の船梯子がかかると果敢に攻め寄せてきたが、船縁から顔を出したとたんに、待ち受けている久蔵たちに痛打を食らわされて水に落ちていく。しかし水上で活動する賊だけあって、さすがに誰もその程度で溺れたり流されたりはしない。すぐに自船へ泳ぎ戻って這い上がると、彼らは懲りもせずにまたすぐ梯子に取りついて上ってきた。これではきりがない。

 対抗できる武器がないなら、さっさと降参してしまえばいいものを。鉄次は半ばあきれ、半ば辟易しながら腹の中で考えた。鉄砲の一挺すら持たずに武装船団に立ち向かえると、本気で思っているのだろうか。

 その時、喧噪をものともせずに誰かが銅鑼声(どらごえ)を轟かせた。

「ようし、そこまで! そこまでだ! 双方いったん得物を引けッ」

 素晴らしい大音声(だいおんじょう)に圧倒されたように、叫び声と剣戟(けんげき)の鋭い響きが尻すぼまりに消えていく。

「でっけえ船の大将、顔を出しな。ここらで(かしら)同士、ひとつ談判といこうじゃねえか」

〈川鼠〉の頭目が、話し合いを望んでいるらしい。()されているほうが交渉を求めるのは当然だが、それにしてはずいぶんと偉そうな態度だ。

 鉄次は上甲板へ下りていき、舷門のところから敵船を見下ろした。倫太郎に帆柱を折られた船が主船だったらしく、散らかった船上に頭目とおぼしき男が仁王立ちしてふんぞり返っている。

 声から想像したのとは違って、かなりしょぼくれた男に見えた。歳は四十から五十のあいだといったところだろう。背が低く、がに股の足は短く、体つきもたくましいとは言いがたい。貧相な髭を生やした長い顔はさもしげな印象で、立派なのは輪郭に不釣り合いなほど大きい鷲鼻ぐらいだ。

「おれはこの〈鉄馬(てつば)〉一味の頭目で、鉄馬の松造(まうぞう)てェ(モン)だ」

 鉄馬というのは風鈴のことだが、何のつもりでそんな二つ名を名乗っているのだろうか。

「声が大きいからかしら」

 伊都もやはり風鈴に思い至っていたらしく、うしろからそんなことを囁くので、ついにやりとしてしまう。

「おい、笑ってねえで、てめえも名乗りやがれ」

 松蔵が鉄次の表情を見とがめて、不機嫌そうに睨み上げた。名乗る筋合いはないが、黙っていたら話が先に進まないだろう。

「〈川渡(かわと)屋〉鉄次。船主だ」

「よおし〈川渡屋〉の、言うまでもねえが、おれはとことん()ってもいいと思ってる。うちの屈強な連中も気持ちは同じだ。だがなァ、今日は互いにもうだいぶ痛手を(こうむ)った。続けるとなったら、まだまだ犠牲が出るだろうし、そいつはどうにも忍びねえ。おれにとっちゃ身内は宝だ。可愛い子分どもがこれ以上傷つくのは、できれば見たかねえのよ。おめえもそうだろう」

 たしかに〈鉄馬〉一味は半数近くが大なり小なり傷を負っており、船にもだいぶ被害が及んでいる。だが、こちらの仲間はまだひとりも、かすり傷すら負ってはいない。誰の目にも明らかなその事実を、松造は頭から無視して話を進めるつもりのようだ。

「痛手云々はさておき――」鉄次は馬鹿馬鹿しさを感じながらも、ここは相手の出方を見ることにした。「身内が宝ってのはその通りだ」

 そうだろう、と言いたげに松造が得々(とくとく)とうなずいている。

「だからよ、おめえの心得次第じゃ、穏便に収めてやってもいいと思うんだ」

「なるほど。話を聞こう」

「つまりだな、あっちの船で暴れまわった乱暴者どもを引き揚げさせて、きっちり詫びを入れさえすりゃ、おめえらの命も船も取らずに見逃してやるってことさ。いつもは積み荷も丸ごといただいちまうんだが、今回は半分寄越せば許してやろうじゃねえか」

 何を言っているのだろう。そう思いながら視線を巡らせると、同じことを思っている眼差しが周囲からいくつも集まってきた。

「どうだ、いい話だろうが。たったの半分だぜ。それで全員が命を永らえて、何ごともなかったみてえに先へ行けるんだ。命は残る。船も残る。今晩もありがたくお(まんま)を食える。積み荷は半分に減るが、なあに、半分残ってりゃ商売も何とか立ちゆくだろう。こんな親切な申し出があるかってんだ」

 あくまで自分が優位に立っているという(てい)で話している。鉄次はあきれるのを通り越して、その厚かましさと糞度胸に感心し、少し愉快にもなってきた。

「〈鉄馬〉の、ちょいと訊きたいことがあるんだがな」

「おう、言ってみな」

「半分てのは、この〈大豪丸〉一隻の積み荷半分か? それとも、うしろに引き連れてる子船四隻も合わせての話か」

 松造が小鼻をぷくっと膨らませる。

「そりゃ、五隻丸ごとに決まってらあ。取れるもんは、銅銭一枚だって見逃しゃしねえ」

「そうかい。だがな、仮に〈大豪〉一隻の半分だとしたって、そっちの船にはとうてい載せきれねえよ」

 三呼吸ぶんぐらいの間が空いた。松造は目を丸くして、口をあんぐり開けている。どうやら彼は冗談を言っていたわけではなく、欲に目が眩むあまり、五隻の積み荷半分がどれほどの量になるかを本気で考慮していなかったらしい。

「いいだろう半分持ってけとおれが言ったら、おまえさん、どうやって荷を運び出すつもりなんだい。その三艘の八挺櫓で何往復もして、ちまちま陸へでも運び上げるのか? とても半日やそこらじゃ終わらねえし、こんな場所で船が何隻も停留してたら、遠からず近隣の役人が駆けつけてくるぜ」

 松蔵の返答はない。立て板に水で調子よくしゃべっていた口が完全に止まっている。何か言い返したいのはやまやまだが、うまく言葉が出てこないようだ。ただ口惜しさだけは、髪の生え際まで赤くなった顔にありありと表れていた。

「お頭、しっかり」

「がつんと言ってやってくんな」

 周囲で心配そうに見ている子分たちから、次々に声援がかかる。威勢と口だけの男に見えるが、それなりに人望もあるのかもしれない。

 その時、だしぬけに松造の表情が変わった。

「よし、わかった!」

 吹っ切れたように叫んだ顔には、なにやら生気がみなぎり、目が爛々(らんらん)と輝きだしている。突然すぎる変化に、仲間すらもが驚きを隠せない様子だ。

「積み荷のこたァもういい」

 大声で元気よく言い放った言葉に子分たちがどよめく。

「なに言い出すんだよ、お頭」

「どうかしちまったのか」

「ええい、うるせえ!」

 松造は大喝して仲間を黙らせると、あらためて傲然と鉄次を見上げた。

「こうなったらおれとおめえ、互いの船で一等(つえ)え者同士で決着をつけようじゃねえか。万が一おめえが勝ったら、何も取らずにそのまま行かせてやる。子分どもにも手は出させねえ」

 あまりの豹変ぶりに、鉄次もどう反応すればいいのかわからない。

「そっちが勝ったら、どうするんだい」

 困惑しながら訊くと、松造はふんと鼻息をもらしてから、腕を上げてまっすぐこちらを指差した。

「その女をもらう」

 彼の指をたどった先には、伊都がきょとんとして立っていた。最初はうしろにいたが、松造をよく見たくなったのか、いつの間にか鉄次の横まで出てきていたらしい。

 松造の仲間たちも遅ればせながら、遠目にもわかる桁外れな美女の姿に気づいてざわつき始めた。うそだろ、すげえ――とそれぞれの口が動き、声にならない感嘆の言葉を形づくる。

 数多(あまた)の物欲しげな視線を浴びても、そんなことには慣れっこになっている伊都は平然としていた。松造が言ったことも、まったく意に介する様子はない。

 おまえ、あいつのとこへ行きたいかなどと彼女に訊くのも野暮なので、鉄次は松造に向かって噛んで含めるように言った。

「その話は呑めねえな。なにしろ人ひとりのことだ。やるの取るのを、おれの一存では決められねえよ」

 松造がたちまち憤然とする。

「くそ、格好つけやがって。てめえの女を手放すのが惜しいだけだろうが」

「こいつはおれの女じゃない」

 伊都の視線を感じたので横目に見ると、少し不満そうな表情が返ってきた。こんな場面でまで律儀に否定せず、自分の女だということにしておけばいいでしょうに――と言いたげだ。

「第一、おれはこの船で一等強い者じゃねえ。相手がおまえさんだろうと誰だろうと、喧嘩すりゃ確実におれが負けるよ。だから(はな)からやり合う気はねえんだ」

 腑抜けた言いぐさに聞こえたのだろう。松造が蔑むような表情になり、険しい目つきをする。

「けっ、だらしのねえ野郎だ。じゃあ代わりを出しな。一等強えのは誰だ」

「一等強いと言や、そりゃまあ、わしだのう」

 呑気そうな声がどこからともなく割って入った。いつから甲板に出てきていたものか、食客(しょっかく)扱いで船に乗っている南浮(なんぶ)傳次郎(でんじろう)がぶらぶらと歩いてきて鉄次を押しのけ、舷門から顔を外に覗かせる。

「なんだ、豪儀(ごうぎ)な声のわりに、えらくくたびれた〈鼠〉だな。おぬし、とても強そうには見えんぞ。腕に覚えはあるのか」

 不躾(ぶしつけ)な物言いに、松造がむっとなる。

「あたりきよ。(はばか)りながら、これだけの一味を率いてるんだ。鉄馬の松造さまを舐めんじゃねえぞ。つべこべ言わずに、腹くくってかかってきやがれ」

「いや、いかん。さすがにわしがやったら、弱い者いじめになる」

 傳次郎はしれっとした顔で言い、日焼けした禿()げ頭を手でつるりと撫でた。その手を横へ伸ばし、伊都の肩をぽんと叩く。

「わしの弟子とやれ。ただし、弟子もそうとう強いぞ。なにしろ女だてらにこの船団の船守どもを束ねる、(れっき)とした頭領(とうりょう)なのだからな」

 松造と仲間たちが唖然となった。

「あっちに見える小船を朱塗りに染め上げたふたりすらも、わしの弟子には(かな)わん。だからおぬしも、負けても恥とは思わんでいいぞ」

 あまりに大きなことを言うので、松造たちがだんだん疑わしげな顔になる。すべて事実だと鉄次は知っているが、彼らにしてみれば傳次郎が語る人物と目の前の佳人の印象が一致しないのも無理はない。

 話題にされている当人はつまらなそうにしていたが、師匠に指名されたのでは仕方がないとあきらめたのだろう、小さく嘆息して一歩前に出た。

「では、わたしがお相手します」

 凛として告げた声には微塵も緊張の気配がない。

「あなたの船では足場が悪いので、こちらの甲板までお越し願えますか」


 丁寧に頼まれて毒気を抜かれたのか、松造(まつぞう)は四の五の言うこともなく、おとなしく〈大豪(だいごう)丸〉へ上がってきた。〈鉄馬(てつば)〉一味の負傷者はみな八挺櫓(ちょうろ)に留まったが、動ける子分が二十人ほどついてきている。

 彼らが数人ずつに分かれて甲板上に散らばると、矢神(やがみ)久蔵(きゅうぞう)がその近くに抜かりなく船守(ふなもり)たちを配置した。紫福(しぶき)倫太郎(りんたろう)と砲手組は鉄砲を持って船首楼甲板に上がり、高所から全体に目を配っている。小花衣(こはない)真哉(しんや)とオデルもすでに戻ってきているので、一味がもし不審な動きを見せてもすぐに制圧できるだろう。

 そうして舞台が整うあいだに、伊都(いと)鉄次(てつじ)の手を引いて甲板後部へ連れていくと、船尾楼への外階段を上らせた。

「ここにいてください」

 念を押すように言い、真哉とオデルに合図を送って呼び寄せる。

「わたしが戻るまで、旦那さまのおそばを離れないで」

 ふたりにそう命じてから、彼女は大勢の見物人が取り巻く上甲板の中央へと進み出ていった。入れ替わりに南浮(なんぶ)傳次郎(でんじろう)がやって来て階段の途中にどかりと腰を下ろし、小憎らしい笑顔で鉄次を振り仰ぐ。

「相変わらず、過保護にされておるな」

 からかいの言葉を無視して、鉄次は彼に訊いた。

「おい傳、伊都は勝てるんだろうな」

「あの男にか。訊くまでもなかろう」

 あきれたように言って、傳次郎が軽く鼻を鳴らす。

「無駄に気を揉まずに、黙って見ておれ。一瞬で終わるわい」

 彼女の腕前は疑う余地もない。これまで松造よりもずっと強そうな男や、傳次郎も使い手と認める久蔵、真哉、オデルらに勝つところも見てきた。それでも伊都が戦う場面になると、いつも鉄次は腹の奥で不安がとぐろを巻くのを感じてしまう。

 伊都は松造と三間ほど隔てて足を止めると、携えていた大刀を帯に差した。戦支度はそれだけで、(たすき)を掛けることすらしない。周りで見ている〈鉄馬〉一味が、あからさまにがっかりした表情になった。彼女が着物の裾をからげるか、尻端折(はしょ)りをして脚を見せるのを期待していたのだろう。

 この成り行きにまだ戸惑っている様子の松造と一度視線を合わせてから、伊都は左肩を少し引いて刀の柄にすっと手をかけた。

 その所作をきっかけに、場の雰囲気が一変する。

 演芸の開始でも待つようだった、浮ついた空気が瞬時にかき消えた。見物人のざわめきが、まるで潮が引くように静まっていく。

 伊都と向かい合っている松造も、すっかり顔つきが変わっていた。口は苦虫を噛んだようにゆがみ、目をぎょろりと()いて、鼻の頭に脂汗を光らせている。鉄次にはよくわからないが、ただならぬ圧を彼女から受けているようだ。

 松造は右手を脇差しの柄に伸ばしかけて止め、すぼめた口から荒く浅い息を吐き出しながら、じりじりと後ろに下がり始めた。

 伊都は静かに見つめたまま、まだ動こうとしない。

 下がり続けて背中が船首楼の壁に当たると、松造は息を呑み、ぱっと構えを解いて大声を張り上げた。

「おおっと! うっかり釣り込まれて()っちまうとこだった。おれはこの別嬪(べっぴん)が欲しいんだ。斬り刻みたいわけじゃねえ。第一、おれが女相手に本気を出したら、それこそあれだ、弱い者いじめになっちまわあ」

 戦う気がないと示すように両手を上げ、周囲を見回しながらまくし立てる。

「それに敵が二番手を出してきてるってのに、こっちは一番手ってのも道理が通らねえ。だからここは、うちの二番手に任せることにするぜ」

 彼はそう言って子分のひとりに歩み寄ると、腕を掴んで前に引き出した。

「うまいことやれ。ひどい怪我をさせるなよ。特に顔には傷をつけるな」

 突然舞台に上げられ、無理難題を押しつけられた男は歳のころ三十あまり。背丈は並だが(いわお)のような体躯の持ち主で、眼光鋭く精悍な顔つきをしている。

「ほう。〝二番手〟とやらは、そこそこ使うようだのう」

 傳次郎が所見を述べ、くつくつ笑う。

「少しはおもしろくなるかもしれんわい」

 二番手と言われたが、実際は一味を代表する実力者なのであろうその男は西日の差す甲板中央に進むと、抜刀して正眼に構えた。わずかに腰を落とした立ち姿はどっしりとして、揺るぎない自信を感じさせる。

 伊都は交代劇のあいだも黙って佇んだまま、最初の立ち位置からまったく移動していなかった。完全に落ち着き払って、鯉口を切る瞬間を見計らっている。

 先に仕掛けたのは〝二番手〟だった。少なくとも、鉄次の目にはそう見えた。だが実際は伊都のほうが速く、彼女は〝二番手〟の切っ先が上がりかけた時にはもう前へ進み、三間の間合いを三尺にまで縮めていた。刀はすでに抜いており、その剣尖が白い光芒を()いて男の胸先を横一文字に薙ぎ払う。

 今しも攻撃に出ようとしていた〝二番手〟が、前掛かりになっていた上体を引き戻して斬撃を避けた。しかし、伊都がさらに一歩踏み込んで放った二の太刀までは避けきれない。彼は左上からの袈裟斬りにかろうじて剣を合わせたものの、しのぎきれずに右上腕に浅く傷を受けた。深手を負わずにすんだのは、斬られる寸前に腕を咄嗟に体に引きつけたからだ。

「うまいことかわすもんだ」

 傳次郎が感心したようにつぶやく。

〝二番手〟が雄叫びを上げて攻勢に転じ、正面から中段に斬り込んだ。勢いのある、ぞっとするほど鋭い突きだ。伊都が小さく(たい)をかわしてやり過ごすと、男は横っ飛びして立ち位置を変え、側面からさらに苛烈な斬撃を繰り出した。

 少しもあわてずに伊都がそれを迎え、刀身でからめて一気に()り上げる。そのまま高く振り上げた刀を頭上で返すと、彼女は左足を少し引き、片手斬りにすっと斬り下ろした。〝二番手〟が膝上に刃を受けてがくりとなり、低く呻いて転倒する。

 しばしの静寂のあと、固唾(かたず)を呑んでいた〈鉄馬〉一味が一斉に、はーっと息を吐き出した。みな信じられないものを見たという顔で、仲間の反応をたしかめるように目を見交わしている。

「ま、頑張ったほうだな」

 傳次郎が〝二番手〟の奮闘を素っ気なく評し、鉄次のほうを振り向いた。

「この心配性め」

 伊都を信じつつも、内心ではらはらしていたのを見透かしたように言う。

「とっとと後始末しろ」

「わかってるよ」

 鉄次は顔を上げ、甲板にいる船守たちに「一味を捕縛しろ」と命じようとした。実際に言いもしたのだが、それは鉄馬の松造のものすごい大声に消されてしまった。

「野郎ども、ずらかるぞ!」

 腹の底から咆哮するや否や、彼は倒れている〝二番手〟に駆け寄って担ぎ上げ、開いたままの舷門(げんもん)から躊躇なく外へ飛び出した。ほかの仲間もすぐさまあとに続き、次々と船縁(ふなべり)を乗り越えては川に飛び込んでいく。

 呆気に取られた鉄次たちが我に返り、右舷に集まっていって見下ろした時には、彼らはすでに八挺櫓に泳ぎ戻って漕ぎ出そうとしていた。負傷者多数で漕ぎ手の数が足りず、三艘とも五、六挺しか()を使えていないが、それが(しな)うほどに力漕(りきそう)して早くも現場から遠ざかろうとしている。

「旦那さま」

 倫太郎が鉄次の傍に来て声をかけた。

「射角十分です。撃ちますか」

 砲撃して沈めるか、と訊いているのだ。

 その時、鉄馬の松造が主船の後部で舵取りをしながら、〈大豪丸〉に向かって声の限りに叫んだ。

「やい〈川渡(かわと)屋〉! 今日のところはこれで勘弁してやる。だがな、また会ったら次こそは容赦しねえ。いいか、〈鉄馬〉一味の恐ろしさを忘れるんじゃねえぞッ」

 こらえようとしたが、無理だった。鉄次は思わず吹き出し、腹を抱えて笑い出した。その横で倫太郎が困惑顔をしている。

「旦那さま?」

「ああ。いや、撃たなくていい」鉄次は息も絶え絶えに言い、目ににじんだ涙を指でぬぐった。「行かせてやりな」

「よろしいのですか」

(たち)が悪いとは思うが、剽軽(ひょうきん)すぎて憎めねえよ」

 しゃべっているうちに、また笑いがこみ上げてくる。そこへ傳次郎がやって来て「当分は忘れられそうにないのう、〈鉄馬〉一味の恐ろしさは」などと言うので、笑うのを止めるのがますます難しくなった。近くにいた真哉やオデルもつられ、一緒になって笑い出す。

 しばらく経って脇腹が痛くなり、それでようやく笑いの発作が治まると、鉄次は気を取り直して船子たちに号令をかけた。

「よし、連中が残してった梯子(はしご)を引き揚げろ。船を航路に戻して先へ進むぞ。子船にも合図を送れ」

 すでに日は山の()に沈み、いつしか夕闇が船に忍び寄っている。この分では投錨予定の川湊に到着するのは、とっぷりと暮れてからになるだろう。とんだ足止めを食らったものだ。

 回頭を終えた〈大豪丸〉が帆に風を受けてゆっくり進み出すと、鉄次は船首楼甲板へひとり上がっていった。

 岸辺の景色はもはや黒々と濃い影のみになり、夕焼けの名残を溶かした川面(かわも)の色合いがことさら際立って見える。舳先(へさき)でそれを眺めながら涼しい風に吹かれていると、伊都が階段を上ってきて隣にそっと立った。

「きれいな夕景」

 彼女は川を見ながらつぶやき、ゆっくりと鉄次のほうを向いた。

「わたし、決めました。清書のお駄賃」

「言ってみな」

龍康殿(りゅうこうでん)に着いたら、一緒にお食事がしたいです」

 長く考え迷っていたわりに、ずいぶんささやかな要求だなと思う。

「そういや、真哉も旨いものを食わせろと言ってたっけ。気の利いた見世(みせ)に仕出しを頼んで、賭場(とば)旅籠(はたご)の大広間でも借り切って、ひと晩みんなで派手に騒ぐのもいいかもな」

 伊都がうつむき気味になり、どことなく曖昧な表情を浮かべた。何か納得のいかないことがありそうだ。それを見て、松造とのやり取りを隣で聞いていた時の様子をふと思い出し、鉄次は彼女の望みを読み違えていたことに気づいた。

「ふたりきりで、か」

 静かに問いかけると、伊都は顔を上げて彼をじっと見つめた。

「待ち合わせして、誰も知らねえとこで……逢い引きみたいにかい」

 今度は正しく酌み取れたらしく、彼女の双眸(そうぼう)に明るい輝きが(とも)る。

 しょせんは真似事だぞ――と言いかけ、思い直してやめた。伊都がそのことを理解していないわけがない。それでも望むのなら無粋なことは言わず、ひとときの戯れにつき合ってやろう。

「わかった、いいぜ。街に着くまでに、どこへ連れてくか考えとくよ」

「楽しみにしています」

 まじめな顔でそう言ったあと、伊都は嬉しさをこらえきれない子供のように、両手で口元を隠しながらふふっと笑った。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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[良い点] 最近になってこの作品を知って一気読みしてしまいました! こんな重厚な和風ファンタジーを今まで知らなかったのが悔やまれます。 [気になる点] お話の流れ上、早い段階で陰謀露呈するわけには行か…
[良い点] 鉄次さん視点でこのタイトル! と浮かれて読み始めました。冒頭で「周囲の視点での『特別』だったか……」としょんぼりもしたのですが、香油を巡るやり取りと、何よりラストの伊都のいじらしさにきゅん…
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