四十八 立身国七草郷・黒葛貴之 救うべき者
巧月三日、早朝。
立州東部から七草城へ急使が訪れた。使者は伊野尾郷の土豪、音海家の家臣十三重蔵と名乗り、城主黒葛貴之に拝謁を乞うているという。
「音海家というのは?」
御殿中奥の奥寝間で身支度をしながら、貴之は昨晩の宿直を務めた近習の玉県景綱に訊ねた。
景綱は玉県分家の安須白家嫡男だが、もとは父親の玉県輝綱が十八歳の時に儲けた婚外子であり、のちに父母が正式な婚姻関係になるまでは東部に住む母方の親戚の家で育てられていたと聞いている。近隣地域の豪族のことなら、何か知っているかもしれない。
「あまり詳しくはありませんが――」慎重に前置きして、景綱は遠い記憶をたどるような目をしながら語った。「古くから南東部に住んでいる一族で、武家ですが異国相手に何か商いをやっていると耳にした覚えがあります。過去に内戦が起きた際には、どこかの名家に一時期だけ従ったこともあったとか。ただ、家臣化するには至らなかったようです」
立州の南東部、太刀掛連峰と雲龍湾に挟まれた土地はいわゆる〝不入の地〟と呼ばれる地域で、国主の幕下に属さない土着の有力国衆が各郷村の領域権力を握っている。租税を課すことも諸役を賦課することもできない、国主にとっては領国経営上のお荷物とも言える存在だ。強引に取り込もうとしても、長期にわたって領域を支配してきた在地領主たちは、そう簡単に権限を手放しはしない。土地の者も彼らを自分たちの〝殿さま〟と見なしているので、新たな支配者を受け入れさせるのはかなり手こずるだろう。
思えば黒葛氏の興りも三鼓国郡楽郷の在地領主からで、三州の国主が幾度替わろうともその幕下には決して入らず、討伐軍を差し向けられれば真っ向から迎え撃ち、千年にわたって本拠の支配権を守り通してきた。土地に根付いている豪族というのは、それほどまでに手ごわいものなのだ。
「突然やって来て、おれに何の用だろうな」
小姓に髪を整えさせながらつぶやき、貴之は小さく笑った。
「まさか、今さら臣従の申し出でもあるまい」
景綱がつられたように微笑む。
「いや、それはわかりませんよ。守笹貫家との大軍に勝利して勢いづいた黒葛家が、今後さらなる勃興期を迎えると見て勝ち馬に乗りに来たのかもしれません」
「ふうん。そんなものかな」
整髪と洗面が終わると、小姓頭の唐木田智次が衣装を運んできた。漆黒の地染めに金糸の刺繍が施された、かなり厳つい印象の小袖を選んでいる。
「威圧的すぎないか」
貴之が難色を示すと、智次は妙に気合いの入った表情をしながら説明した。
「それが狙いです。不入地から来た者にお会いになるのでしょう。機先を制するためにも、隙のない出で立ちでお出ましにならねば」
「まだ訪問の理由もわかっていないのに」
いささかあきれながらも、小姓三人がかりで城主らしい隆とした身形に仕立て上げられた貴之は、最後に袖なしの胴服を羽織ってから居間を出た。蒸し暑い季節なので、できれば単衣一枚で身軽に過ごしたいところだが、他家の者と対面するのにあまりくだけた姿で出ていくわけにもいかない。
「使者はどこに」
回廊から屋根つきの渡り廊下に入り、隣接する殿舎へ向かいながら訊くと、背後に付き従う小姓のひとりがはきはきと答えた。
「表御殿の大広間に面するお庭先でお待ちしております」
庭と聞いて怪訝に思い、ちょっとうしろを見ると、賢そうな顔つきの少年と目が合った。
灰谷良彰、十歳。耶岐島の戦いで貴之が組織した別働隊に加わり、敵本陣に背面急襲を仕掛けた際に命を落とした灰谷威彰の長男だ。父の死後、若くして家を継ぐことになった彼を貴之が直々に面接して人柄と能力を見極め、主に中奥で近侍する小姓に取り立てた。まだ城に上がって十日ほどだが、城内の作法や仕事の手順はすでにあらかた呑み込んでいるらしく、早くも取次役を難なくこなしている。
灰谷家は大身武家ではないが、百年あまり前から黒葛家に仕えてきた信頼の置ける一族であり、亡き威彰は前城主貴昭公の馬廻衆を十五年務めた忠烈の臣だった。良彰も父に倣って地道に励み、いずれは一廉の武将に成長するだろうと貴之は期待している。
「なぜ庭で」
歩みを進めながら問うと、良彰は前もって返答を用意していたかのように淀みなく言った。
「長旅で汚れているため、お座敷に上がるのは憚られると申したそうです」
汚れを落としてくる余裕もなかった――つまり、だいぶ差し迫った用向きというわけだ。そう思いながら貴之は表御殿の殿舎に入り、そのまま外廊下に回って庭を望む縁側へ出ていった。
ここしばらく雨がちな天気が続いているため、眼前に広がる庭はたっぷりと水を含み、繁茂する草木の緑がひときわ濃くなったように見える。空は今日も陰鬱な鈍色をしており、午になる前にまた雨が落ちてきそうだ。
縁側近くの白砂が敷き詰められた地面には、がっしりした体躯の男がひとりうずくまって頭を垂れていた。
見ればなるほど、本人の弁に違わず汚れている。身にまとう小袖と袴は気の毒なほどよれよれで、泥はねと埃をかぶり、元の色が黒なのか灰色なのかも判然としない。しかも彼は負傷しており、ところどころ裂けた衣類に染みて乾いた血が禍々しく色変わりしていた。まるで激戦地から来たような姿だ。
「待たせたな」
貴之は声をかけ、縁側に胡座をかいた。
「立身国国主代、七草黒葛家当主、黒葛貴之だ」
「音海和宣が家臣、十三重蔵と申します」
使者は名乗りを上げ、さらに深く低頭した。
「前触れもなく早朝からご城内を騒がせ、また、かように見苦しき身形で御前にまかり出ましたこと、平にご容赦ください」
疲れきった様子とは裏腹な、張りのある力強い声だ。歳は三十二、三といったところだろうか。広い額はよく日焼けし、直線的な眉は太く濃く、短めに切り整えて一本に結い上げた髪も黒々としている。
「用向きを聞こう」
重蔵はそこで視線を上げ、初めて貴之の顔を見た。開きかけた口が途中で止まり、そのままたっぷり呼吸四つ分の間が空く。だいぶ驚いているようだ。七草家が最近代替わりしたことは知っていても、これほど年若い当主とは思っていなかったのかもしれない。
「わたしは主人の名代としてまいりました」
あらためて話し始めた時には、彼の表情から動揺の色は消えていた。
「伊野尾城は只今、隣郷を領する宍甘秀通の軍勢より攻勢を受けております。包囲はすでにふた月に及び、城内の兵糧や矢弾も尽きかけ、もはや為す術もございません。存亡の危機に瀕する我らに是非とも黒葛さまのご助力を賜りたく、恥を忍んでまかり越した次第にございます」
彼の話によると、音海家と宍甘家はもともと仲が良くはなかったらしい。古くからの因縁があるということになっているが、仲違いの原因が何だったのかはもはや誰も覚えていないそうだ。おそらくは単純な領有権争いから始まったのだろう。両家の本拠は郷境を接しており、音海家の伊野尾郷は海側、宍甘家の近嵐郷は山側。双方ともに相手領を併呑したいという野心を抱いており、過去には何度か衝突も起こっている。
今回の騒ぎは、郷境で隣り合う村同士の水争いが発端となったらしい。
ある時、両村を貫く堀のひとつに、伊野尾郷名多良村の村民が事前の通達なく堰を設けた。それにより堀の水源である沼の水があふれ、近嵐郷砂羽村の田畑に流れ込んで被害をもたらしたという。だが名多良村では堰の設置について事実無根と主張しており、喧嘩を仕掛ける口実を作るために宍甘家が仕組んだことであると思われた。その証拠に、宍甘秀通は非難や抗議の段階すらも省き、いきなり軍勢を催して攻めかかってきたという。
青天の霹靂のような出来事に、当年取って四十歳の音海和宣はあまりうまく対応できなかった。近在の住民を城内に避難させ、なんとか防備を固めるまではしたものの、その後は完全に打つ手なしとなって籠城を余儀なくされている。
経緯をひととおり聞き取ったあと、貴之は低くつぶやいた。
「宍甘軍は、音海勢を干し殺そうとしているのだな」
兵糧攻めは攻囲戦の定石のひとつで、時間はかかるものの寄せ手側の被害を少なめに抑えられるという利点がある。補給路さえ完全に断ってしまえば、あとは城内の備蓄が尽きて飢餓地獄となり、音を上げた相手方が降服してくるのを待つだけだ。
攻められる側もそれは当然わかっているので、普通は十二分の蓄えと後詰めの兵がなければ安易に籠城などしない。だが、これまで臣従はおろか交流さえも避けてきた黒葛家にいきなり頼ってきたということは、音海和宣は突然の襲撃に泡を食い、後詰めの当てもないのに近在の者たちまで多数引き入れて城に籠もってしまったのだろう。それでふた月も保っているというのは驚きだが、さすがにそろそろ限界に違いない。
「寄せ手の兵数は」
貴之が問うと、重蔵は間髪を入れず答えた。
「約三千です」
「城内の人数は」
「兵が千五百、町衆と農民が二千あまり」
千五百もいるなら、敵勢三千と渡り合えなくはない。槍働きできる者は市井の民の中にもある程度いるはずだ。それらを総動員して、城じゅうが餓える前になぜ打って出なかったのだろう。
「ふた月のあいだ、ずっと守勢一方だったのか」
貴之の声に批判的な響きを聞き取ったのか、重蔵は恥じ入るように目を伏せた。
「攻勢に出るべしとの声は城内で何度か上がりましたが、主人は今はまだその時ではない、好機が訪れるまで堪え忍べと」
無策のままで待っていたら、天から好機が降ってくるとでも言うのだろうか。あきれながら視線をふと脇へ転じると、警護役の家久来龍史が目に蔑みの色を浮かべて立っているのが見えた。彼は端正な顔立ちに似合わぬ武闘派なので、和宣の不甲斐ない態度を忌々しく感じているようだ。
「音海和宣は消極的な質とみえるが――」貴之は重蔵の反応を探りながら言った。「当家に救援を求めるというのは、かなり果断な決定と思える。それは彼自身の考えなのか」
「いえ。僭越ながら、わたしの一存にて」
あまりにさらりと言うので思わず聞き流しかけたが、もしや今この男は〝自分が勝手にやった〟と白状したのだろうか。
「おぬしは先ほど、主人の名代としてまいったと述べたはず。あれは嘘か」
重蔵は顔を上げ、まっすぐに貴之を見た。
「城から動けぬ主人に代わってご助力を願うため、命を懸けて敵の包囲を突破してまいりました。そのことに、いささかの偽りもございません」
真情のこもった、ひたむきな口調だ。しかし微妙に論点をずらしている。手前勝手な行動ではなく、あくまで忠心から主人の意向を推し量り、暗黙のうちに名代を買って出た――そんなふうに思わせたいのだろうが、正式に派遣された使者でないことは明らかだ。おそらく音海和宣に救援要請の意思はなく、重蔵が何をやっているかなど知りもしないのだろう。
それでも、命懸けで来たという点は事実だと思えた。満身創痍の彼の姿がそれを裏づけている。わからないのは、命じられもしないのに無謀な行動に出た理由だ。城内の味方の目を盗んで秘かに脱出するのも、行く手に立ちふさがる敵を退けながら包囲を突き破るのも、並大抵の苦労ではなかっただろう。しかもそのあとには、馬を乗り換えながら駆けても十日前後はかかる道のりが待ち構えているのだ。単なる蛮勇や酔狂でできることではない。
彼には何か、止むに止まれぬ思いがある。主家への忠誠心なのか、あるいは行きすぎた功名心なのか。それとも、まったく別の思惑だろうか。たとえば何らかの意図があって黒葛家を陥れようとしている――といったような。
油断がならないと思いつつも、貴之は重蔵に興味を引かれるのを感じた。胸の内に何を秘めているのか知らないが、肝の太さと行動力は見上げたものだ。どんな魂胆があるのか突き止めるまで、しばらくつき合ってやってもいいかもしれない。
「我らを駆り出したのがおぬしであっても、事態を収拾した暁には音海家に報いてもらうこととなる。不輸不入の特権を剥奪し、音海和宣には臣従の誓いと相応の奉公を求めるぞ。それは承知の上だろうな」
ことさら冷徹に言い放ったが、重蔵は少しも動揺しなかった。
「死地を脱することが叶いましたら、主人は必ずやご恩に報いることでしょう」
「もし、そうならなかったら」
「主人が黒葛さまへの恩義を失念するようなことがあれば――」重蔵は眉根をぐっと下げ、眦に力を込めた。「わたしがこの命に替えても思い出させるとお約束いたします」
本気で言っているように聞こえる。貴之はじっと彼の目を見つめ、小さくうなずいて腰を上げた。
「わかった。協議するので、しばし待つように」
言い置いて歩き出すと、灰谷良彰と唐木田智次があとに従い、そのうしろを家久来龍史と玉県景綱がついてきた。
「智次」
中奥の殿舎へ戻りながら、小姓頭の名を呼んで傍に寄せる。
「あの男を座敷に上げて世話をしてやれ。傷の手当てをして、食べさせて、静かな部屋に床を取ってやるといい。念のため、見張りは多めにな」
智次が命じられたことをするために去ると、入れ替わりに玉県景綱が傍へやって来た。いつも呑気そうなつるりと白い顔が、憂慮に少し曇っている。
「若殿、戦をなさるのですか」
「そうなるかもな」
貴之は曖昧に答え、彼を横目に見て微笑んだ。
「協議の行方次第だ」
御殿中奥の中御座之間では、重臣たちと昨夜の宿直衆の一部が集まって貴之を待っていた。君臣が朝食を共にしながら、領国経営上の相談や報告をするためだ。これは前代のころからの毎朝の慣例であり、代替わり後もそのまま引き継がれている。
「待たせてすまん。思わぬ珍客があった」
貴之はそう言って小姓と共に上段の間へ上がり、玉県景綱と家久来龍史は下段の間の空いている場所に腰を下ろした。
好都合なことに、今朝の相伴衆の顔ぶれはなかなか充実している。筆頭家老と次席家老がそろっているし、主要な家老衆も列席していた。
「おお、若殿。本日は渋い出で立ちですな」
にこにこしながら言ったのは、耶岐島陣で貴之の初陣の後見役を務めた真栄城修資だ。
「引き締まった黒が、ようお似合いになる」
「智次が選んだ。不入地からの使者を恐れ入らせるのだと、やたら鼻息を荒くして」
居並ぶ人々がほのぼのと笑う。それを合図にして、食膳が次々と運び込まれてきた。今朝は玄米と味噌汁、高菜の漬物のほかに、カンパチの刺身とサザエの壺焼きの皿が載っている。配膳した者の話によると、サザエは近隣の漁民が殿さまに食べて欲しいと言って、ほんの一刻ほど前に獲れたてを届けてきたらしい。そろそろ旬を過ぎる時期ではあるものの、殻ごと焼いて醤油をたらした献上サザエは香ばしい香りと濃厚な旨味で一同の舌を楽しませてくれた。
「さて、みな接見の内容が気になっているだろうから、そろそろ話を始めよう。景綱、ここまでの経緯を」
「はい」
玉県景綱が箸を置き、貴之が十三重蔵と交わしたやり取りの内容を要約した。彼は記憶力がよく、いつもこういう役目を上手にこなす。
貴之はその間、話を聞いている人々の様子を観察していた。みな父の時代から七草家に仕えている、気心の知れた間柄の重臣たちだ。
物腰が上品で常に冷静沈着な花巌義和は、普段どおりに涼やかな表情でじっと耳を傾けている。生前の父はこの筆頭家老と非常に馬が合っており、年長の知恵者として敬意を払ってもいた。
貴之がもっとも信頼する筆頭警護役、柳浦重益の四歳年上の兄である柳浦実重は、義和の向かいに座ってむっつりと不機嫌そうな顔をしている。保守的で慎重な次席家老は、余所者に面倒ごとを持ち込まれて迷惑そうだ。
不入地がらみの一件をどう扱うかについて、このふたりのあいだでは意見が分かれるかもしれない。
江州役で大いに活躍した猛将由解正虎と真栄城修資は、うなずいたり唸ったり首を傾げたりと、芝居でも見ているかのように細かく反応しながら熱心に聞き入っていた。正虎はつい先ごろ、立天隊の隊士だったいとこの由解虎嗣を亡くしたばかりで意気消沈しているが、それを人に見せまいと精いっぱい元気そうに振る舞っている。兵を出すと言えば双方とも乗り気になって、我こそはと指揮官を買って出そうだ。
いまひとつ考えを読めないのが、細い奧目に退屈そうな色を浮かべ、息子の景綱が語る内容よりは食事のほうに集中しているように見える玉県輝綱だった。亡き父の筆頭警護役で、代替わり後に家老席に加わった彼は、どちらかというと戦は好きな質だろうと貴之は思っている。城内の道場で剣術指南役も務めており、その卓抜した腕前は誰もが認めるところだ。
景綱が話し終えると、貴之は重臣たちを見渡して言った。
「さて、七草家はこの一件にかかわるべきと思うか」
真っ先に声を上げたのは柳浦実重だった。
「在地領主の争いなど、当家の与り知るところではございません。図々しい使者は早々に追い返してしまいましょう」
不愉快さを隠しもせず、きっぱりと言う。
「音海和宣と宍甘秀通は、戦でも何でもやって勝手につぶし合えばよろしい」
その隣で、玉県輝綱が微笑みながら「うんうん」とうなずいている。日ごろ実重とあまり仲がいいようには見えない彼だが、この件では同調しているようだ。末席にいる若手の宿直衆も、家久来龍史以外はみな実重寄りの考えを表明した。
一方、真栄城修資と由解正虎は貴之が事前に予想した通り、救援の兵を出すことに前向きな姿勢を見せている。
「戦が長く続いたせいで実行には至らなかったものの、ご先代さまは不入地の土豪をどうにかしたいと常々申されておりました」
四十歳を目前にしてもなお豪気で若々しい修資は、確信に満ちた声で一同に語りかけた。
「これは守笹貫道房や儲口守恒など、歴代の国主たちも手をつけかねてきた積年の問題に決着をつける好機です」
「まさにその通り!」由解正虎が威勢よく援護する。「向こうから介入して欲しいと言ってくるとは勿怪の幸い。この機を利用せぬ手はありませんぞ」
柳浦実重がふんと鼻を鳴らす。
「音海家の使者とやらが、そもそもまったく信用ならぬ。独断で救援を求めにまいったなどと……きっと裏があるに違いない」
「それは、わたしもそう思う」
ずっと黙っていた花巌義和が、静かに口を挟んだ。
「城を救いたいというのは嘘ではないにしても、それだけということはなかろう。我らを担ぎ出して、彼は何かしら得たいものがあるのだ」
筆頭家老の同意を得た実重が、溜飲を下げたような顔で深く首肯する。
「ですから、要請など突っぱねて追い払うに限るのです。若殿、どうか迅速なご決断を」
いきなり談じ込まれ、貴之は思わず苦笑した。実重には少し性急なところがある。早口でしゃべり、せかせかと歩き、食事を済ませるのも誰よりも早い。見れば、今も彼だけがすでに膳の上の器をみな空にしていた。
「いや、お待ちを。まだ議論を尽くしたとは言いがたい」
次席家老が自分の思う方向で話をまとめようとしているのに気づき、正虎が強い口調で制止する。
「たとえ何らかの企みが秘められているとしても、こちらが先を読んでうまく出し抜けばよいことではありませぬか。今回の一件が上首尾に終われば、当家は真の意味での立州統一に近づけるのですぞ」
「正虎どののおっしゃる通り、七草家にとって利となることを無視すべきではございませぬ」
今度は真栄城修資が正虎の応援に回る。
「この機会に伊野尾と近嵐の二郷を一挙に平らげ、御屋形さまの主権をより盤石なものといたしましょう」
活発なやり取りに刺激された若い者たちも加わり、その後はさらに白熱した討議が繰り広げられた。双方ともに己の信ずるところを主張し、なかなか譲ろうとしない。
やがて食膳が下げられ、食後の茶菓が出てきてもまだ話し合いは続いていたが、そこへ玉県輝綱がのんびりと割って入った。
「まあまあ、埒の明かぬ話し合いはもうこのくらいでよろしかろう。ぼちぼち若殿のご存念を伺おうではありませぬか」
細い目をぱかりと見開き、彼は一人ひとりの表情を確認するようにゆっくりと見回した。
「我らがあれこれ申したところで、結局は若殿がしたいようになさるのだから」
邪気のない顔でにっこりする彼に、周りがぎょっと視線を集める。
これは嫌味を言っているのかなと思ったが、貴之は平然として聞き流した。代わりに家久来龍史が、下座からものすごい目つきで輝綱を見ている。
「自分がどうしたいか――それを見極めるためにも、各々の意見を聞きたかった。みな思うところを率直に述べてくれて感謝する。輝綱は発言がなかったようだが、何か慮ることがあるのだろう」
貴之の言葉を聞いて、輝綱の顔に浮かんでいた笑みが消えた。ほかの者たちは、彼が〝埒の明かぬ話し合い〟をただ眺めていただけで、自分の立ち位置をはっきりとは表明していないことに初めて気づいた様子だ。
「おれも、十三重蔵は真意の一部を隠していると感じた。それが当家に禍をなすことかはわからないが、そう考えて用心していれば、正虎の言う通り陥穽にはまることなく切り抜けられるはずだ。いずれにせよ、不入地に堂々と踏み込む機会は、今後もそうおいそれと訪れはしないだろう。みなの賛同が得られるなら救援を大義名分に兵を出し、父の果たせなかった領国統一に向けて前進したいと思う」
「賛同いたします」
「やりましょう、若殿」
打てば響くように応えたのは由解正虎と真栄城修資だった。若い宿直衆も、家久来龍史を筆頭に次々と賛意を示す。当初は救援に乗り気でなかった者たちが、貴之の考えを知って意見を変えたようだ。
率先して異を唱えるだろうと思われた柳浦実重は、意外にも口をつぐんだまま考え込んでいる。
「義和はどうだ」
花巌義和に問いかけると、思慮深げな目をした筆頭家老は少し間を置き、あらためて貴之のほうへ向き直ってから答えた。
「救援には賛同いたしますが、攻囲軍との戦いは、あくまで音海家主導であるべきと存じます」
「おれもそう思う」
同じことを考えていたのだな――と、貴之は腹の中で独りごち、義和と視線を交わしながら言った。
「手助けはするが、音海家の戦を肩代わりはしない。利用されるつもりはないし、この件ではいっさい損をする気もない」
それで完全に納得したように、義和はこくりとうなずいた。
「ならば、よろしいかと」
「ふむ、そういうことなら」ふいに柳浦実重が口を開き、誰にとっても意外なことを言った。「殿のお考え通りにしてみますか」
若い主が驚いているか確かめるように、ちらりとこちらへ視線をよこす。狙い通りだったらしく、彼は片方の口角をわずかに上げた。まだ仏頂面をしているものの、眉間の皺はもう取れている。
「そうと決まれば、さっそく空閑の者を物見に出すといたします。何日か先行して現地に潜れば、十三某の話が真実であるのか、また何か仕組まれていないかどうか、ある程度のところまでは探り出せるでしょう。後手を踏まぬよう、兵を乗り込ませる前に情報を得ておかねば」
賛同に転じたとたん、実重はてきぱきと派兵の段取りを論じ始めた。同席の者たちは、その切り替えの早さに唖然となっている。
彼が同意した瞬間に救援軍を出すことは確定事項となった感があったが、貴之はまだ意思表明していない玉県輝綱が置き去りにされていることを忘れてはいなかった。実重はそれを把握していながら、わざと触れずに話を進めているように見える。花巌義和も気づいていないはずはないが、重里に指摘して流れを止めるつもりはないらしい。
討議にほとんど加わらず、強く主張することもなかった新参の家老に、ふたりは厳しい目を向けているようだ。
貴之は食べ残していた落雁を口に運びながら、それとなく輝綱の表情を窺った。彼はうっすら笑みを浮かべて実重の話に耳を傾けているが、その目には何か剣呑な光が宿っているように見える。内心では腸が煮えくりかえっているのかもしれない。
よくわからない男だな――と貴之は思った。意見はあるのだろうに議論中は存在感を出さず、そのくせ急に人の気を逆なでするようなことを言って悪目立ちしたりする。みなが賛同する中ひとりだけ沈黙しておいて、無視されるとへそを曲げる。彼のことは幼いころから父の家臣として見知っていたが、これまであまり交流らしいものはなかったため、いまひとつ考えていることが読めない。だが主従になった以上、今後はそんなことも言っていられないだろう。
「それで、若殿」
実重がひととおりしゃべり終え、体ごとこちらを向いた。
「救援軍の指揮は誰にお任せになりますか」
貴之は輝綱についての考えをいったん脇に置き、当面の重要案件に集中することにした。
「そうだな、ここで決めてしまおう」
顔を上げ、末席に背筋をぴんと伸ばして座っている若い武将を見る。彼の右目の下には、顎の付け根に向かって斜めに走る大きな傷痕があった。耶岐島陣で敵大将を討ち取った際の名誉の戦傷だ。
「家久来龍史」
「は」
急に呼ばれて驚いたはずだが、龍史はそれをまったく表に出さなかった。
「おぬしの所領は南東部の海寄り、佐桑街道沿いの小手森郷だったな」
「さようです」
「伊野尾郷までの距離は」
「街道伝いに行けば四日ほどかと」
「領内で兵をどれだけ集められる」
部屋の中にどよめきが広がった。つい先ごろ馬廻組に入ったばかりの若造が大将を任されるのかと、みな仰天しているようだ。
「およそ三百ほど」龍史の声は依然として落ち着いている。
「それに加え、おれの私兵千人を預ける」
「ははッ」
力強く応えて平伏する彼を花巌義和がじっと見つめ、それから貴之のほうを向いた。
「千三百というのは現実的ではありますが、いささか出し渋りすぎでは」
貴之は笑って、話を続けた。
「龍史の部隊は前軍だ。ただし音海勢には、それで総軍だと思わせておく」
「では後軍は」せっかちな柳浦実重が、待ちきれないように先を促す。
「後軍は兵数五千。真栄城修資を総大将に任ずる」
修資がぱっと顔を輝かせた。
「恐悦至極に存じます。必ずや、ご期待に違わぬ働きをしてご覧に入れますぞ」
彼は満面の笑みを浮かべ、いささか芝居がかって声を張り上げた。その向かいで、大将に指名されなかった由解正虎は少し不満げな表情をしている。
義和は五千と聞いて、今度は「多すぎる」と思っていそうだ。だが貴之は、総数六千三百の軍は今回の戦いにはほどよい数だと考えていた。
「実重、空閑忍びは重蔵を連れて伊野尾城に入り込めるかな」
柳浦家は空閑一族との結びつきが強く、当主の柳浦弘重は三州、長男の重里は丈州、次男の実重はここ立州で忍びの諜報活動を取り仕切っている。彼は貴之の問いに、ほとんど迷いなく答えた。
「可能でしょう」
「よし。龍史は現地へ先乗りして重蔵を城に戻し、忍びを介して音海和宣の出陣の意思を確認しておけ」
「心得ました」
歯切れよく応じてから、龍史は体を少し前に出して貴之をまっすぐに見た。
「御屋形さま、もし陣頭に立つ意思が和宣になかった場合は、いかがいたしますか」
ざわめきが起きた。音海和宣が弱腰を見せた場合どうするかについては、みなそれぞれ思うところがあるのだろう。だが、誰もそれを声高に言い立てたりはしなかった。すぐに静まって全員がこちらに視線を注ぎ、主人の考えを聞こうと待っている。玉県輝綱すらもだ。
「和宣が黒葛家任せで戦をしようとする素振りをわずかでも見せたら――」
主従になったばかりで、まだ家臣の気持ちを読み切れないことも多いが、居並ぶ者たちがこの決断を気に入るだろうことはわかっている。
「その時は後軍と合流し次第、総攻撃をかけて音海、宍甘の両陣営を攻め落とせ」
返ってきた反応は予想以上に熱狂的で、貴之は軽く圧倒されながら笑い声を上げた。
協議を終えて中御座之間を出た貴之は、その結果を十三重蔵に伝えるために表御殿へ向かった。
「御屋形さまは、人の話を辛抱強くお聞きになりますな」
花巌義和がうしろを歩きながら、持ち前の優しい声で静かに言った。
「それに以前と比べて、ご自身のお考えを具に語るようになられた」
「亡くなる前に父から、臣と対話する手間を惜しむなと言われたんだ」
あれは耶岐島の戦いの前日、ふたりで陣中を見回った時のことだった。短い時間ではあったが、その中で父が教えてくれたことは今もすべて覚えている。
「だから、そうしようと心がけている。ひとりだけの考えで身勝手な決断をしてしまわぬように。御屋形と呼ばれてはいても、おれはまだ半人前に過ぎないから」
「今朝のお振る舞い、お話のなさりようはご先代さまを彷彿とさせ、これまでに増して頼もしく感じられました」
おれは無意識に父上を真似ようとしているのかな――。自分に問いかけてみたが、答えは出なかった。だが父をよく知っていた義和から、先代に似ていると言われるのはやはり嬉しい。
表御殿の奥まった東側にある〈曙光の間〉に行くと、少し休んで生気を取り戻した十三重蔵が張り詰めた面持ちで待っていた。世話役につけた唐木田智次が気を利かせたらしく、身形もあらためてこざっぱりしている。
八畳ほどの部屋の中で間近に向かい合ってみると、重蔵は最初に見た時の印象よりもずっと若く、せいぜい二十代半ばであることがわかった。ここまでの強行軍による極度の疲労が、実際よりも老けて見えさせていたのだろう。
貴之は焦らすようなことはせず、協議で決まった内容をすぐに伝えるつもりだった。それを聞いた時の彼の表情を早く見たかったのだ。千三百の救援軍にどう反応するかが、謀略の有無を見極める手がかりになると思っている。
罠にかけて黒葛家に打撃を与えるつもりなら、その程度の人数しか引き出せないのでは手間に見合うだけの結果が得られないと考えるだろう。もし彼が貴之自身の出陣を願ったり、増員を乞うような気配を見せたりした場合は要注意だ。
「評定の結果、伊野尾郷へ救援軍を送ることとなった。兵数は千三百」
貴之が告げると、重蔵ははっと目を瞠った。
「小手森郷の領主、家久来龍史が部隊を率いる。先の戦で敵将の首級を挙げた剛の者だ」
まだ若い龍史には経験が不足しているが、そこは百戦錬磨の総大将真栄城修資がうまく補うだろう。
「彼が所領で集める兵三百と、おれがあとから送る千人が合流したら、すぐにも伊野尾郷へ乗り込む手はずだ」
そこでいったん言葉を切り、貴之は重蔵をじっと見つめた。凝然と見開いたままの彼の両目は、今にもあふれそうな涙を湛えてうるんでいる。固く引き結ばれた唇は、こみ上げる感情を抑えきれないように小刻みに震えていた。
もしこれが演技で、感動しているように見せているだけだとしたら、その巧みさをむしろ褒めてやるべきだろう。
「ご厚志――」やっと口を開いて絞り出した声は、喉が詰まったようにくぐもっていた。「かたじけなく存じます」
最後まで言い切ったとたん、滂沱として涙が彼の頬を伝った。その顔に初めて安堵の色が浮かんでいる。やはり、ここへは純粋に救いの手を求めて来ただけなのだろうか。
「大軍とは言えないが、武装の充実した千三百人だ。千五百の音海勢と合力すれば、必ず宍甘勢を撃破することができるだろう」
貴之は少し間を置いてから、もっとも重要な部分を告げた。
「ただし、これは黒葛家の戦いではない。我らはあくまで加勢するに留め、陣頭には音海和宣に立ってもらう」
重蔵の表情が一瞬で強張り、貴之は花巌義和と無言で視線を交わした。
半ば予想はしていたが、できれば黒葛家に〝全部やってもらいたい〟というのが重蔵の本音だったのだろう。彼の目から見て、主は総大将を務められる器ではないようだ。しかし、この点は絶対に譲ることはできない。
「和宣が城から打って出れば、救援軍はそれに呼応して宍甘勢に背後から攻めかかる。そう伝えて、主人を戦場へ担ぎ出せ。できるか」
苦しげな顔をしながらも、重蔵は頬をぐっと引き締めて答えた。
「は。必ずや、そのようにいたします。万が一にも主人が拒みましたならば、たとえこの手で引きずってでも」
その口調から、悲痛なまでの決意が伝わってくる。
「よし。龍史の出立の支度が整い次第、ここへ迎えをよこす。それまで、ゆっくり体を休めておけ」
貴之は義和とうなずき合って腰を上げ、平伏する重蔵を残して部屋を出た。話しているあいだに雨が降り出したらしく、軒先に滴る雫の音が騒がしく耳を打つ。
水のにおいが立ちこめる薄暗い廊下を歩きながら、義和がそっと言った。
「あの男、わりにお好きでしょう」
肩ごしに振り向いてみると、筆頭家老は唇に薄く笑みを浮かべていた。
「そう見えるか」
「はい」
「おれには誠実な人物に思える」
「さようですな」
義和は同意して、ちょっと考えてから続けた。
「音海勢もろとも攻めることになった場合でも、彼の命は救うよう龍史に申しつけられては。むろん重蔵に裏がなく、かつ御屋形さまとの約束を履行すべく尽力したならばのことですが」
貴之は歩きながらその提案を少し吟味し、すぐ結論を出した。
「重蔵をどうするかは、龍史の判断に任せよう。その場の状況次第で彼は死ぬかもしれないし、死なないかもしれない」
だが、なるべくなら生き残れるといい――と思ったが、それは敢えて口に出さないことにした。
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