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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第四章 戻れぬ橋
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四十七 別役国酒匂郷・街風一眞 穴蔵の小憩

 陽も差さない洞窟暮らしなど、陰気さと湿気で気が滅入るに違いない。少なくとも、決して快適には過ごせないだろう。

 当初はそう信じて疑わなかった一眞(かずま)だが、盗賊一味〈二頭(にとう)団〉の(ねぐら)に滞在して半月も経つころには考えを改めざるを得なくなった。

 巳扇(みおうぎ)山の中腹に(そび)える岩壁に穿(うが)たれた天然の洞穴(ほらあな)は長大で広く、風通しがよく、洞内の水場には濁りのない冷たい水が常に一定量流れている。陽光こそ入ってはこないものの、天井には空気の抜け道がいくつもあるらしく、不快な生活臭や煮炊きをする煙が中にこもることはなかった。また一歩外へ出れば木々が密生しており、燃料や作事の材料に事欠くこともない。

 まったく、よくこんな恰好の根城を見つけたものだ。人目を(はばか)る無法集団が隠れ住むのに、これ以上お(あつら)え向きな場所などそうはないだろう。いつしか感心するようになっていた一眞が素直に感想を述べると、〈二頭団〉を率いる〈飯綱(いづな)〉は嬉しそうに笑った。彼は相方だった〈門番(もんばん)〉の死後に一味の唯一の頭目となった男で、イタチに似た丸顔と長い首、狡猾そうな目を持っている。歳は四十といったところだろうか。

「ここはな、元は門番の一味の隠れ家だったんだ」

 つい先日、彼は酒飲み話にそんなことを言っていた。

 曰く、門番と弟の〈拳固(げんこ)〉はこの巳扇山の北の(ふもと)にある村の出身で、子供の時分には山中を遊び場にしていたらしい。その後、兄のほうはまだ若いうちに一度血迷って御山(みやま)昇山(しょうざん)したが、二十二、三歳で還俗(げんぞく)して盗賊になった。当初はひとりでやっていたものの、単独では追い剥ぎ程度の小さな仕事しかできず、たいした稼ぎは上がらない。二年ほどして限界を感じた門番は〈黒旗(くろはた)党〉を名乗る一味に仲間入りをした。十年あまりも別州(べっしゅう)のさまざまな地域を荒らし回り、広く名が知られていた大きな盗賊団だ。

「そこにおれもいた」飯綱は昔を懐かしむように目を細めながら言った。「新参者のあいつに、兄貴分としていろいろと手ほどきしてやったもんさ」

 御山に奉職した八年間で武芸を磨き上げた門番は、〈黒旗党〉に入るとすぐに頭角を現した。並はずれた強さで仲間の尊敬と信頼を集め、五年後に党首が死んで解散することになった時には〝若頭〟と呼ばれるまでになっていたという。

「解散後に、やつは自分の一味を立ち上げた。最初の仲間は、弟の拳固も入れて五人だったと言ってたな。その時に根城に決めたのが、餓鬼のころによく遊んでたこの洞窟だったってわけよ。で、一方のおれはというと、西のほうへ流れていって同じく一味徒党を組んだまではよかったんだが、残念ながらこっちはあまりうまくはいかなかった。立て続けに派手な仕事をしたら、ちょいと名が売れすぎちまってな。役人にしつこく追われるわ、仲間内で取り分をめぐってもめ事は起きるわ、そりゃもう散々だったぜ」

 結成二年を待たずに飯綱の一味は瓦解し、手下の大半と拠点を失った彼は古巣の北部地域へと戻ってきた。

「そのころには門番のやつは、十人の手下を率いる一端(いっぱし)の首領になっていやがった。それを風の噂に聞いたおれは、賭場や寄せ場なんかで新しい仲間をかき集めてから会いに来て、やつに(かしら)ふたりのでっかい盗賊団を結成しねえかと持ちかけたのさ」

 はじめのうち門番は難色を示したが、最終的にはかつて世話になった兄貴分に敬意を払って提案を呑んだ。だがおそらく、いくらも経たずに後悔しただろう。

「あいつとおれは、笑っちまうほど気が合わなくてなァ。何から何まで意見がぶつかるんだ。それでも仕事は別々にやるって取り決めをして、なんとか四年と少し持ち(こた)えてきたんだが……やっぱり合わねえものが合うようになりはしねえ。こればっかりは、どうしようもねえことだ。でまあ、ここらが潮時と思って、やつを始末しちまうことにしたのよ」

 (ひさし)を貸して母屋を取られたってわけか。一眞は何も言わなかったが、心の中でそう考えていた。

 飯綱という男は一見すると人なつこくて気さくだが、その体に流れる血は彼の心根と同様、凍りつくほど冷たいに違いない。赤い色をしているかすら疑わしい――と一眞は思っている。この男に斬りつけたとして、傷口から青色の冷えた液体がどろりと流れ出てきても、少しも奇妙には感じないだろう。

 危険で油断のならない、決して気を許すべきではない男だ。たとえ相手が〝不倶戴天(ふぐたいてん)の敵を殺してくれた恩人〟と自分を持ち上げ、一味を挙げて歓待してくれているとしても。

 一眞はたしかに成り行きで門番に止めを刺しはしたが、それは飯綱のためなどではなかった。恩義を感じてもらう必要などないし、賓客扱いされるのはかえって居心地が悪い。それでもまだ留まっているのは、単にどこにも行き場がないからだ。

 こんな盗賊の塒などにわざわざやって来たのは、彼らが宿場を襲った際に娼楼(しょうろう)から連れ去った青藍(せいらん)を取り戻したかったからだった。だが彼女は〈二頭団〉が仲間割れをした夜、混乱の中で人知れず姿を消したという。山を下りたことは間違いないだろうが、そのあと東西南北どの方角へ向かったのかすら一眞には推し量ることができない。足取りを追う手がかりは何も残っておらず、その時点で、彼女を連れて御山へ――千手(せんじゅ)景英(かげひで)(もと)へ戻るという望みは完全に(つい)えてしまった。

 彼にはもはや何の目的もない。居るべき場所もない。家族も、友も、仲間もいない。完全に自由だが、完全に進退窮まったとも言える。

 そんな一眞に、飯綱は「好きなだけここにいりゃいい」と言った。門番と斬り合った時の傷が()えるまで、客分待遇でゆっくり静養していけと。「なんなら、うちの一味に入っちまわねえか」と、まんざら社交辞令でもなさそうな口調で誘いもした。門番一味との戦いで十四人いた手下のうち六人を失ったので、今は腕の立つ仲間をひとりでも多く引き入れたいのだという。

 仲間入りに興味があるわけではなかったが、一眞は飯綱の厚意に甘えてしばらく滞在することにした。どうせ、ほかに行く当てもない身だ。とりあえずここにいれば無理せず体を休めながら、ゆっくり先行きを考える時間を持つことができるだろう。

 むろん、盗みと殺人を繰り返している荒っぽい連中の中に、部外者がひとりで混じることへの懸念がないわけではなかった。出会い頭から不気味なほど愛想の良かった飯綱が、腹の中で何か悪い企みを(もてあそ)んでいないとも限らない。だがこちらも素人(しろうと)ではないし、それなりに場数も踏んでいる。飯綱やその手下たちに気を許しすぎず、常に警戒を怠らなければそうそう出し抜かれることはないはずだ。

 一眞は目的を見失った自分が多少捨て鉢になっており、普段の慎重さを欠いていることを自覚しつつ、敢えて魔窟に腰を落ち着けることにした。

 そしてまたたく間に洞穴(ほらあな)暮らしに慣れ、さもしく騒々しい盗賊どもにも慣れていった。


「ちょっくら、ひと稼ぎしてくる」

飯綱(いづな)〉がそう言って手下五人を連れ、近くの小規模な宿場町へ出かけた日の夜。

 一眞(かずま)は残っている者たちと一緒に主洞の広間で食事をしたあと、支道の奥まったところにある小穴にすぐ引き揚げた。飯綱から滞在中の寝床として与えられている部屋で、天井が低く、ほんの三畳ほどの広さしかないが、意外にも居心地はそう悪くはない。〈二頭(にとう)団〉の下っ端連中は広間の続きにある大部屋で雑魚寝をしているので、個室を使えるのは破格の待遇と言えるだろう。部屋には柳細工の古ぼけた行李(こうり)と、覆い紙がところどころ破れた置き行灯(あんどん)(わら)布団がひと組あるだけだが、ただ寝るだけの場所ならそれで充分だ。

 一眞は小穴の入り口に垂れ下がった(むしろ)をめくって中に入り、床に広げたままの布団に手枕をして横になった。戦いでできた肩の傷はもう()え始めており、べつに安静にしている必要もないのだが、ほかにすることもないのでついごろごろしてしまう。飯綱の計らいによる上げ膳据え膳のけっこうな暮らしを享受していたため、この半月あまりですっかり怠け者になってしまった。御山にいたころは身の回りのことは何でも自分でしていたというのに、人間というやつはなんと簡単に堕落してしまうことか。

 そんなことを考えながら寝そべっているうちに、いつしかうつらうつらし始めた。まだ半分意識はあって、布団の中で稲の葉鞘(ようしょう)がたてるかすかな音や、主洞で酒を飲んでいる連中の浮かれ騒ぐ声も遠く聞こえている。その中に、ふと気になる音が混じったことに気づき、瞬時に目が冴えた。ひたひたと近づいてくる足音。小さく軽い。

「おや暗い」

 足音の主は小穴の外でそうつぶやき、筵をかき分けて室内に首を突っ込んだ。支道の壁で燃えている小さな灯火(ともしび)にぼんやり浮かんだのは、此糸(このいと)という名の女の顔だ。

「なんです、(あか)りも()けないで」

 彼女はあきれたように言うと、招きもしないのにずかずかと中に入ってきた。布団の横を素通りして奧まで行き、しゃがんで行灯に火を入れている。それから戻ってきて、一眞の脇にぺたりと座り込んだ。

「一杯どうです」

 見れば、手に茶碗ふたつと五合徳利を持っている。一眞は何も言わなかったが、此糸は気にする様子もなく茶碗に酒を注いで差し出した。

「あっちでみんなが()ってるやつはひどい安酒ですけどね、これは北方(ほっぽう)下りだそうだから、そう悪くないはずですよ」

 茶碗は受け取ったが、一眞はすぐには口をつけなかった。此糸は佛田(ふった)宿(しゅく)娼楼(しょうろう)〈ふぶき屋〉からさらわれてきた娼妓(しょうぎ)で、今は飯綱に気に入られて可愛がられているが、いずれはどこかへ転売される女だ。男の(ねや)で奉仕をしていない時には、広間の隅にある格子で仕切られた(ひとや)に押し込められている。それが飯綱のいない今、勝手に外へ出ているのはどういうわけだろう。

 此糸は自分だけ酒をすすり、満足げにうなずいてから一眞を見た。

「なんです、毒なんか入っちゃいませんよ」

 彼の警戒心を感じ取ったように言って、弓なりの細い眉をしかめて見せる。しかしすぐに眉根を(ほど)き、睫毛を(しばたた)きながらいたずらっぽく微笑みかけた。

「そんな意地悪しないで、つき合ってくださいな」

 さすが娼妓だなと一眞は感心した。愛想の悪い男の扱いにも慣れている。ほだされたわけではなかったが、用心しつつ酒をなめてみると、なるほど悪くない味だった。虜囚が容易(たやす)くせしめてこられるものではないように思う。

「盗んだのか」

 ずばり訊くと、彼女はぷっと吹き出した。

「まさか。(くりや)で〈餅屋(もちや)〉からもらってきたんですよ」

 餅屋というのは、この一味の食事一切を任されている痩せっぽちな男だ。どんな出自かは知らないが、こんな穴蔵で、しかも乏しい材料で作っているとは思えないほど美味な料理を毎回出してくる。今夜供された塩味仕立ての汁――山菜とネギと、濃厚な甘みのある獣肉が入っていた。おそらくキネズミか何かだろう――もたいそう旨かった。

「こんないい酒をもらってきた? どう言って餅屋をだまくらかしたんだ」

「お客人に持っていくって言ったら、飯綱の旦那用にしまってある取っ()きを出してきてくれたんです」

「そんなものを勝手に飲んでいいのか。そもそもおまえ、なんで獄から出ているんだ」

「もう、野暮な人」

 此糸はため息をつき、一眞の肩にそっと手をかけた。屈み込んで胸の膨らみをさり気なく押しつけながら、顔を寄せて囁きかける。

「飯綱の旦那が出がけに言っていったんですよ。おれがいないあいだ客人を楽しませろ、退屈させるなってね。どういう意味だか、わかるでしょ。旦那はあんたに惚れ込んでるんです」

 いくら好感を抱いているからといって、自分の女を留守中に抱かせたりするだろうか。それは厚遇が過ぎるというものだ。罠の気配がしなくもない。

「おれのどこが、そんなに気に入ったってんだ」

「そりゃ、腕の立つところに決まってますさね。だって〈門番(もんばん)〉の旦那を殺したんでしょ。飯綱の旦那はあの人のことを嫌ってたけど、強さだけは文句なしに認めてましたから」

 たしかに門番は強かった。かつては御山の衛士だったのだから当然ではあるが。

「それがいなくなったから、代わりが欲しいってわけか」

「もうひとり、飯綱の旦那の右腕だった〈(さい)〉ってのがいてね、その人もそりゃあ強かったそうだけど、仲間割れがあった夜に殺されちまったんです。だから余計に、頼りになる強い人を早く仲間に入れたいんじゃないかしら」

「そんなに強かったのに殺されたなら、その殺したやつを新しい右腕にすればいい」

 一眞が混ぜ返すと、此糸はちょっと肩をすくめてみせた。

「あの人は仲間割れで死んだんじゃないんです。娼妓の夜斗(やと)ってのを獄から連れ出して楽しんでたら、騒ぎのどさくさに紛れてそいつに()られちまったんですよ」

 そんな女が獄にいただろうか。繊細な顔立ちをした花琴(はなこと)という娼妓と、金髪碧眼の異国人初音(はつね)、そしてこの此糸の三人しか見た覚えがない。

「その凶暴な女はどうなった。飯綱に殺されたのか」

「夜斗は女じゃなくて男なんです。あいつは殺されちゃいませんよ。(あい)って小娘と一緒に、あの夜どこかへ消えちまいました」

 はっとして上体を起こし、一眞は食い入るように此糸を見つめた。青藍(せいらん)が姿を消したことは飯綱から聞いていたが、そんな連れがいたという話は初耳だ。

「男だと言ったか? なのに娼妓だと」

「〈ふぶき屋〉の楼主(おやかた)は風変わりな()をたくさん置いて、それを見世(みせ)の売りにしてましたからね。夜斗は(がき)な餓鬼だったけど面相(つら)だけは上品(じょうぼん)で、金離れのいい馴染み客を山ほど持っていました」

 険のある口調で言い、女は軽く鼻を鳴らした。

「死んだ賽ものめり込んでたようだし、あっちのほうもだいぶ具合がよかったんでしょうよ」

 声に妬みがにじんでいる。男のくせに売れっ子だというそいつに、きっと対抗心を燃やしていたのだろう。

「藍は、その男と親しかったのか」

 一眞が問うと、此糸はきょとんとなった。

「親しいかって? それはなかったですね。夜斗はお高くて、誰に対しても()慳貪(けんどん)な野郎だし。でも藍はあいつを気にかけてて、何かと親切にしてましたよ。賽ってのはとんだ変態で、毎晩のように夜斗を痛めつけてぼろぼろにしてましたから」

 そこでふと言葉を切り、此糸は改めて一眞を見た。

「そういえば、あんたは藍を捜しにここへ来たんでしたっけ。あの()を見世に売ったけど、取り戻したくなったとかで」

 飯綱は寝物語に、この女にいろいろなことを話しているらしい。

「藍と夜斗は親しいわけでもないのに、ふたりで連れ立って逃げたのか」

「そう言われると、ちょっと……」此糸の表情が曖昧になる。「へんてこな感じはするわね。示し合わせたわけじゃなくて、たまたまそうなったんじゃないかしら。でなきゃ、一緒じゃなくて別々に逃げたのかも」

 一眞は布団の上に胡座(あぐら)をかき、茶碗酒をぐびりと飲んだ。青藍を御山(みやま)から連れ出した日の記憶が脳裏に蘇る。

 蓮水宮(れんすいぐう)で産まれ乳母(おんば)日傘(ひがさ)で育てられたあの娘は、宮殿の外の世界についてはまったくの無知で、食うのも寝るのもすべて人に任せきりだった。山を下りたあとも、長い旅のあいだも、娼楼へ売られるその瞬間さえも何もかもおれに委ねていて、一度も自ら主導権を握ろうとはしなかった。そんな娘が、盗賊の(ねぐら)からひとりで逃げ出すような大胆さを半年で身につけたとは考えづらい。

 仮に逃げるところまでは自力で何とかできたとしても、山の(ふもと)へ下りた瞬間に途方に暮れるはずだ。御山から娼楼、盗賊の塒へと渡り歩いてきた青藍は、下界での普通の暮らしを一度も経験していない。腹が減っても、どうやって食べ物を手に入れればいいのかすらわからないだろう。

 おそらく、その夜斗という男が逃げ出す際に、何が目的かはわからないが青藍を連れて行ったのだ。ならば、そいつの行き先がわかれば、あの娘を取り戻せるかもしれない。

「夜斗の郷里を知っているか。ここを出て、どこへ行ったと思う」

 一眞の問いに此糸は首を振り、つまらなさそうに答えた。

「そんなの知りゃしません。あいつの口から、親きょうだいの話なんて聞いたこともないですし」

 見えたかに思えた希望の光が、輝きを失ってすうっと消えていった。まだあきらめなくていいのかもしれないと一瞬思ってしまったが、やはりもう打つ手は残っていないようだ。青藍の行き先の見当すらつかないのに、一面識もない男がどこへ向かうかなどまったく計り知れない。

 一眞は口を閉じて、むっつりと黙り込んだ。期待をしたぶんだけ落胆も大きい。

 そんな彼をよそに、此糸は持参した酒をひとり楽しんでいる様子だったが、しばらく沈黙が続いたあとで遠慮がちに話しかけてきた。

「藍はあんたの何なんです? あの()、元は天門信教(てんもんしんきょう)若巫女(わかみこ)なんでしょ」

 青藍は切り札だった。御山へ帰るための。だが、それをこの女に話したところで、何のことか理解はできないだろう。

「おれも、今年の初めまで御山にいた。衛士だったんだ。人に頼まれて藍を下界へ連れ下ろしたが、ちょっと事情が変わって、また山へ戻すことになったから買い取りに来た」

「そうですか……。いなくなっちまっててお気の毒さま」同情的と思えなくもない口調で言い、此糸は酒をひと口飲んだ。「門番の旦那も昔は衛士だったって話だけど、ひょっとして知り合いなんですか」

「いや違う。飯綱から聞いた感じだと、門番はおれが昇山(しょうざん)する二、三年前に還俗(げんぞく)したようだ。年配の上役や衛士寮の古参の中には、今もまだあの男を覚えてるやつがいるかもな」

 千手(せんじゅ)景英(かげひで)も――そう、彼ならきっと覚えているはずだ。年齢は門番のほうが少し若いようだが、ふたりが同時期に行堂(ぎょうどう)で修行をした可能性は充分にある。少なくとも何年かは寮で共に奉職しただろうし、両者の太刀筋には共通するところが多いので、同じ指南役から剣の手ほどきを受けていたことは間違いないと思っていいだろう。

 一眞は御山にいたころ、何度か景英に師匠は誰なのか訊こうとした。彼から教えを受けている自分は、言うなればその人物の孫弟子に当たるので、技を受け継ぐ者として純粋に興味があったのだ。しかし、いつも寸前で何となく気後れして、結局話を聞けず仕舞いになってしまった。

 ただ、いつだったか古参の衛士たちとの閑談の中で、景英が師と仰いでいた剣術指南役は、ある時ふいに「もう充分やった」とだけ言い残して降山してしまったともれ聞いたことはある。その男は弟子こそ真剣に育てていたものの、信仰や奉職そのものにはあまり熱心とは言えず、姿が見えないと思うといつも山中の池や川で下手くそな釣りをしていたと。

 降山したなら下界にいるはずだが、今は何をしているのだろう。市井で剣術道場でも開いて、また弟子たちを教えているのだろうか。

 もし会えるものなら会ってみたい。千手景英につながる男――。そう思い、鳩尾(みぞおち)のあたりにふわつくような感覚をおぼえた一眞は、頭に浮かんだ愚かな考えを急いで振り払った。

 なにを未練がましいことを。おれは馬鹿か。

 彼はいらいらと手を伸ばし、此糸の腕を掴んで引き寄せた。茶碗が床に落ち、酒をこぼしながら壁際へ転がっていく。

「あ……」

 驚いたように小さく声を立てはしたが、女は(とこ)の上に組み敷かれても抵抗はしなかった。もともとその心づもりで来ていることもあり、むしろ「やっとその気になったのか」と言いたげに落ち着いた表情でこちらを見上げている。

 一眞は帯を解く手間すら省き、愛撫もそこそこにしておもむろに此糸の体を貫いた。痛がるかと思ったが、彼女の中はすでに適度に潤んでいる。心だけでなく体のほうも、前もって抜かりなく準備を整えてきたのかもしれない。

 現役の娼妓だけあって、交合の技巧もなかなかのものだ。深く呑み込んできつく締め上げながら、手練の指技も使ってさらなる刺激を加えてくる。

 ほどなく達した一眞が離れようとすると、此糸は上気した顔に淫靡(いんび)な笑みを浮かべながら起き上がり、今度は自分のほうから挑んできた。つながりを保ったままで彼の上に馬乗りになり、ゆっくりと腰を動かし始める。汗をかいた背中に着物の布地がべたりと張りつくのを感じながら、一眞は彼女のするがままに任せていた。もとより情のからまない交わりなのだから、快楽を得るために互いに利用し合うのも悪くはない。

 裾に手を差し入れて女の敏感な部分に触れると、此糸は鼻にかかった喘ぎ声をもらした。演技なのかもしれないが、乱れ髪のあいだから覗く表情は真に迫っている。

 一眞はあれこれ考えるのをやめ、精根尽きるまで行為に没頭することにした。夜明けはまだ遠く、ほかにやりたいことも特にない。

 そうして熱に浮かされたような時間を過ごすあいだだけは景英や青藍のことも、自身の中にわだかまる後悔や虚無感も思い出さずにいることができた。


 雨が降り続いて少し寒くなった四日後の夕刻、〈飯綱(いづな)〉と五人の手下が(ねぐら)へ戻ってきた。集落をふたつ跨いで東へ行き、街道沿いの(あい)宿(しゅく)賭場(とば)と茶屋を襲ってきたという。主な戦利品は金箱四つと刀が三本、茶屋からさらった若い下女ふたりだった。〈二頭(にとう)団〉の本来の規模からすると、かなり小さな仕事と言える。

「でかい稼ぎが欲しいが、今のこの頭数じゃなァ」

 少々くたびれている様子の飯綱は、夜更けて広間で焚き火を囲みながら、打ち明け話をするように一眞に言った。

「なるべく早く、手勢を増やさなきゃならねえ」

「稼ぎのほうは、おれが力になれるかもな」  

 一眞は飯綱に酒を差しながら、次に彼と語らう機会があったら言おうと思っていた話を切り出した。

(あい)の身柄と引き替えに渡そうと思っていた、いいネタがある」

「ほう」飯綱が目をきらりと光らせる。「聞かせてくれや」

(さと)の南に、でかい商人町があるだろう」

「あそこは駄目だ」

 言下に却下し、飯綱はごくごく喉を鳴らしながら酒を(あお)った。

「豪商ばっかなんで、木戸の守りが堅くてよ。それに、おれらみたいなのは品のいい大店(おおだな)への出入りがしづらいから、標的の内部を探りたくてもできねえんだ」

「内偵はもうすんでる」

 一眞が静かに言うと、飯綱は真顔になって唇を閉じた。

「狙うのは町一番の油問屋〈(ます)屋〉だ。おれは見世(みせ)の先代にちょっとした恩を売って、ここへ来る前にひと月ほど食客扱いをされていた。そのあいだ夜番や掛け取りなんかを手伝いながら、店内(たなうち)のことを詳しく調べておいたんだ。主人一家や奉公人には信頼されてるし、借りていた離れにまだ荷物も置いてあるから、戻ろうと思えば今からでもすぐに戻れる。おれが内部にいて引き込み役を務めれば、手堅い大仕事になることは間違いない。どう思う」

「そりゃすげえな」

 打てば響くように言った飯綱の笑顔に、一眞はどことなく引っかかりをおぼえた。もっと食いついてくるかと思ったが、予想していたよりも淡々とした様子に見える。単に慎重になっているだけだろうか。

「気が乗らないなら、無理にとは言わないが――」

「いや、そんなことはねえ。願ってもない話だし、ぜひやりてえと思うよ。だが人手の確保が先だな。今のままじゃ、おまえを数に入れても外働きできるのは十人ぽっちなんで、ちぃとばかし心許ない」

「どうやって増やす。当てはあるのか」

「あるよ」飯綱は奇妙に穏やかな目をしながら、一眞の茶碗に酒を注いだ。「法州(ほうしゅう)におれの昔なじみがいてな。規模は小せえが腕の立つ傭兵部隊を率いてるんだ。もっぱら戦のあとの乱妨取(らんぼうど)りが目当てっていう荒っぽい連中らしいが、仲間にするならむしろ都合がいいってもんさ」

 戦が終われば勝った側の末端の兵士は、近隣の集落で人や物の掠奪に精を出す。主将がよほど厳格でないかぎり、それらの行為は褒美のうちとして黙認されることが多い。侵攻された土地の住人から見れば、乱妨取りをする兵士も盗賊も同じようなものだろう。

「もともとおれは〈門番(もんばん)〉なんかより、そいつと組んでやりたかったんだ。独立した時に一度誘ってみたんだが、そん時は断られちまってよ。もう法州で地盤ができてて、けっこういい稼ぎを上げてたからな。だが、ここ一年ほどは実入りがよくねえってずっと愚痴ってるから、今度は乗ってくると思うぜ」

「じゃあ部隊ごと傭兵どもを引き込んで、その昔なじみとやらを新しい〝頭〟にするわけか」

「〈二頭団〉なのにひとつ頭じゃ、収まりが悪いからよ」

 飯綱は冗談めかして言ったあと、急に笑みを消して一眞をじっと見つめた。

「おまえがうちに入ってくれるなら大歓迎だが、さすがに昨日今日知り合ったやつをいきなり頭目にはできねえ。手下を五人かそこらでも連れてこれるなら、また話は別だが」

「おれに気を使うことはない。門番の後釜なぞ、元から狙っていやしないしな」

「だが、おれの右腕になってもらいてえとは思ってんだぜ。でもまあ、別に今すぐ決めろとは言わねえ。一味を建て直して、おまえが持ってきた大仕事を首尾よくやっつけたら、そのあとで考えてみてくれや」

「わかった」

 それもいいかもしれない。御山(みやま)へ戻れないなら、どこかで正業に就くのも悪党の仲間入りをするのも、正直自分にとって大して差はないのだ。ならば、より簡単になじめて気楽にやれそうなほうを選ぶべきではないか。

 易きにつくなと言うが、安易な選択が必ずしも悲劇を招くとは限らない。要は、自分が抜け目なく立ち回ればいいことだ。

 この一味に好意はないが、少なくともここにいれば幹部待遇を受けられて寝食に困ることはないし、時折の退屈しのぎの相手にも不自由はしないだろう。

 そんな一眞の考えを読んだかのように、飯綱がにやにやしながら(ひとや)のほうへ顎をしゃくった。

「あそこで飼ってる女は、いつでも好きに使ってかまわねえぜ。今日連れて来た新しい女どもも、気が向いたら味見をするといい」

「気前がよすぎるな」

 一眞が不信を匂わせると、飯綱は嬉しげに破顔して洞内に哄笑(こうしょう)を響かせた。

「そういう用心深いとこも気に入ってるぜ」

 彼は朗らかに言い、力強い手で一眞の肩を二度叩いた。

「だち公をおまえに会わせるのが楽しみだ。あいつもそうとうな使い手だから、きっと気が合うだろうよ」

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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