四十六 王生国天山・白須美緒 仇討ち
まるで腫れ物に触るような――と、白須美緒は感じていた。
行く先々で同情的な眼差しを向けられ、惻隠の情のこもった言葉をかけられる。彼女の前ではみな自ずと伏し目がちになり、他愛ない雑談も声をひそめて囁かれる。この半月あまり、ずっとそうだった。
寡婦とはこんなふうかしら。哀れまれ、気づかわれ、遠巻きに様子を窺われて。
だが美緒は寡婦ではなかった。許婚が姿を消しただけ。そして、今なおその行方が杳として知れないだけだ。
慶城三の曲輪で未曾有の惨事が起きたのは、遡ること半月前の水月十四日、子の正刻すぎのことだった。
始まりは夜の静寂を衝いて轟いた一発の銃声。現場は〈曲輪道〉と呼ばれる、平らに整えられた幅広い外周道の一角だった。道沿いには大皇家の譜代家臣が住まう豪壮広大な屋敷群が建ち並んでいる。
それらの屋敷には夜番がいるが、彼らは発砲音に続いて湧き起こった剣戟の響きに気づいても、様子を見に外へ出たりはしなかった。有事の際に真っ先にすべきなのは、自邸の守りを強化することだからだ。
小半刻ほどすると、曲輪門近くの火の見櫓で半鐘が打ち鳴らされ始めた。このとき鳴っていた五点打は非常警報であり、近隣住民に厳重警戒を呼びかけるものだ。近火警報の乱れ打ちや、山崩れを知らせる二点打は比較的なじみ深いが、五点打を聞くことはめったにないと言っていい。
執拗に鳴り続ける半鐘に、夜回りの番士が吹き鳴らす呼び子の音が加わって、時ならぬ騒乱状態が半刻あまりも続き――その三倍にも感じるほど長かったが――やがて曲輪の中は静かになっていった。何があったにせよ、ひとまず事態は収拾されたのだ。
固く戸を閉ざしたまま警戒を続けていた屋敷群からようやく人が出てきたのは、さらに少し時が過ぎてからだった。真っ先に物見を出したのは、騒ぎの現場にもっとも近かった久留馬家だ。
「当屋敷筋向かい、桔流さまお屋敷脇の雑木林付近で、数十人が斬り合った模様。死者多数」
ほどなく戻った物見の者からそう知らされ、久留馬家の若殿輝朗と弟久輝は近侍の侍を数人つれて様子を見に出た。
平時に往来で争うことは武家法度で禁じられている。「どんな奴原が禁令を犯したのか、ひとつ顔を見てやろうではないか」そう言ってふたりは道を渡り、雑木林の前に集まっている番士たちに話を聞きに行った。すでにひとりが城へ役人を呼びに走り、今は現場の保存を進めているところだという。
彼らに許しを得て、輝朗らは原状を乱さないよう気を配りながらゆっくりと見回った。もはや生きて動いている者は誰もおらず、星明かりが寒々しく照らす街路に無数の死体が折り重なるのみだ。大量の血がしみ込んだ地面には壮絶な戦いであったことを物語るように、斬り落とされた手指やその他の人体の一部が点々と転がっている。
その死屍累々たる凄惨な場所で、兄弟は想像だにしなかった人物を発見した。
南部の名家黒葛家の嫡子、黒葛貴昌。少年のころに大皇の人質として天山へ上がり、以来長らく桔流家預かりの身となっていた若者だ。彼は輝朗らにとっては近所に住む親しい友人であり、愛情と敬意を持って成長を見守ってきた弟のような存在でもある。
貴昌の遺体はほかとは異なり、まったく刀傷を受けていなかった。ただ左脇腹に被弾の痕がひとつあり、それが致命傷になったものと思われる。屋敷群の眠りを破った銃声は、彼が狙い撃たれた際のものだったのだ。
予想外の事態に激しく動揺しながらも、輝朗と久輝はさらに周囲を丹念に調べ、貴昌に仕えていた南部衆の遺体を見つけ出していった。その人々もまた、彼らが長らく交誼を結んできた友人たちだ。
随員のまとめ役を担っており、貴昌からは〝叔父上〟と呼ばれていた最年長の黒葛禎貴。貴昌の傅役だった朴木直祐。さらに真栄城忠資、玉県吉綱、由解宣親も主人にほど近い場所で息絶えているのが見つかった。その五人に加え、彼らの供勢とおぼしきこざっぱりした身形の足軽衆が十人いる。
次にふたりは、黒葛勢の喧嘩相手と思われる一団に目を向けた。ざっと数えたところ遺体は三十五体。それですべてなのか、生き延びて逃げた者がいるのかは判然としない。だが見知った顔が中に混じっていることはすぐにわかった。
久留馬家と同じ大皇家支族の比与森尭尚を筆頭に、十代後半から二十代半ばの若武者ばかりが九人、いずれも体にふた大刀以上の刀傷を受けて死んでいる。彼らはみな三の曲輪に屋敷を構える有力武家の子息で、日ごろから大皇家の長女亜矢姫に阿ることに躍起になり、いつも金魚の糞よろしく彼女の後をついて回っていた連中だった。そういう者はほかにもまだ何人かいるが、全員がこれに参加したわけではなかったのかもしれない。
彼らの仲間と思われる残りの遺体はどれも、久留馬家の兄弟には見覚えのない牢人ふうの男たちだった。年齢はさまざまで身形もばらばら、いかにも寄せ集めの烏合の衆といった雰囲気だ。
輝朗はその連中が鉢金をつけて襷を掛け、斬り込み支度をしているところに注目した。一方の武家の若者たちは、武士の嗜みとして大小こそ差しているものの、これから夜遊びにでも出向くかのような軽装をしている。結託していたにしては、妙に統一感を欠いているように見える一団だ。
検分を終えた兄弟は、貴昌らの死にまだ激しく心を乱されながらも「ここで何が起きたと思うか」を話し合った。
天山の若侍たちと黒葛勢とのあいだで、偶発的に起きた争いだとはとうてい思えない。比与森尭尚らは端から戦うつもりで、黒葛勢に倍する数の仲間を引き連れていたと考えるのが妥当だろう。斬り込み支度の一団は下層の曲輪で見つけ、金で雇った破落戸どもに違いない。しかも彼らは鉄砲まで用意していた。
対する黒葛勢は、おそらく桔流邸への帰途であり、目的地の目と鼻の先で合戦まがいの武力闘争を演じるはめになるなど想像もしていなかったはずだ。不意を突かれ、狙撃という慮外な手段で大切な主人の命を奪われ、多勢に無勢で――それでも応戦奮闘して相討ちにまで持っていったところは、さすが武で鳴らした名家の家中だと言える。
しかし尭尚らは、貴昌や黒葛勢にどんな遺恨があったというのか。大皇三廻部勝元の人質を殺めるなどという大それた所業に及ぶからには、そうとうの理由がなければならない。これが発端となって、三廻部家と黒葛家の戦が始まることも充分にあり得るのだ。
だがいくら考えても、輝朗たちは理由を思いつくことができなかった。黒葛貴昌は性情温厚、品行方正な若者であり、高貴な生まれを鼻にかけることもなく、誰に対しても優しく誠実に接することで知られている。その随員たちも主人に似て、みな人品骨柄卑しからぬ人物ばかりだ。
彼らは人質としての立場をわきまえ、大皇と後見役である桔流和智の意向によく従い、この十二年間ずっと天山の人々との諍いや衝突を慎重に避けていた。ゆえに、当初は彼らを南部の粗野な田舎者と侮っていた者たちも、近年ではそのほとんどが考えを改めている。
今も昔と変わらず南部衆を見下し、事あるごとに難癖をつけて悩ませているのは、もはや大皇の愛娘である亜矢姫ぐらいだろう。彼女は幼いころから、明らかに貴昌に対して敵愾心のようなものを抱いていた。虚言を弄し、彼を陥れて殺そうとしたことすらあったと聞いている。
そこまで話し合って、兄弟はこの場に足りないものがあることにふと思い至った。
主要な取り巻きの若者たちが揃っているというのに、その首魁たる亜矢姫の姿がここにないのはいかにも奇妙に思える。尭尚らは通常、彼らだけで群れることはない。互いに姫の寵を争い、あわよくば夫の座を得ようとする競争相手であって、徒党を組んで何かを成すような親しい間柄ではないからだ。亜矢姫がいれば彼らは集まり、彼女が見たいと言えばさまざまな愚かしい曲芸を演じもする。だが見せる当人が不在の時には、自分の尻を拭くのさえ横着がって人に任せたがるような連中だった。そんな者たちが姫のいないところで無駄に蛮勇を奮い、武勇の誉れ高い黒葛家に合戦を挑んだりするだろうか。
誰かが黒葛勢の襲撃を企んだとすれば、それは亜矢姫だったに違いない――輝朗と久輝は同時にそう結論に達した。ここに死体がないということは、彼女は取り巻きたちを企てに巻き込んだものの、戦いが始まると危険を感じて自分だけ逃げてしまったのだろう。
そしてさらに、ふたりはこの場の違和感に気づいた。欠けている人物がもうひとりいる。彼らは互いに顔を見合わせると、異口同音に問いかけた。
「石動元博はどこだ?」
事件当夜のことを久留馬家の兄弟から詳しく聞き出し、それを美緒に教えてくれたのは伯母の白須志摩だった。
白須宗家の奥方である志摩は美緒の亡き母美芳の姉で、妹の死後にその忘れ形見を引き取って養育した人物でもある。志摩と美芳はふたつ違いの仲の良い姉妹で、それぞれ十七歳と十五歳の時に揃って白須家に輿入れした。志摩の夫は宗家の嫡男時貞、美芳の夫は時貞の弟靖時だ。
弟夫婦はその後一男一女に恵まれたが、長男夫婦にはついに子供ができず、ふたりは行き場のない愛情を姪の美緒とその兄時大にすべて振り向けた。
兄妹が時貞夫妻に引き取られることになったのは、美緒が五歳の時に母の美芳が亡くなり、二年後に父靖時の迎えた後添えが男子を産んだからだ。時大と美緒はもともと継母にあまり懐いていなかったこともあり、義弟が産まれてからは両者のつながりはさらに希薄になってしまった。時貞夫妻が時大を後嗣に指名し、美緒をいずれ宗家から嫁に出すべく手元に置くことにしたのは、実家に居づらくなった様子の兄妹を見かねて――ということになっているが、ふたりが母親を亡った時点ですでにそう心づもりしていたのかもしれない。
美緒は八歳で白須家の天山屋敷に移り、武家の女に必要なことはすべて志摩に教わりながら成長した。十一歳になると、行儀見習いのため慶城の奧御殿へ奉公に上がることとなったが、それも彼女の将来を考えた上での伯母の計らいによるものだ。
志摩は格別な美女というわけではないが、どこにいても人目を引く華やかさを持ち、快活で才気にあふれている。さらに大皇妃三廻部真名の親友ということもあり、城内の婦人たちの中心となって絶大な権勢を誇っていた。伯母のところには常にさまざまな新しい情報が入ってくるし、話を聞きたいと思う人には誰にでも会うことができる。もし彼女がいなければ、引っ込み思案な性質で、日ごろから他人とうまく会話をできない美緒が〝曲輪道の惨劇〟をこれほど詳細に知ることはなかっただろう。
伯母は久留馬家の兄弟だけでなく、大皇夫妻、当夜に三の曲輪で任に就いていた番士や最初に現場へ駆けつけた奉行、さらには遺体を調べた役人にまで話を聞き、すべてつなぎ合わせて見えてきた全体像を美緒に話してくれた。
「事実は事実として、きちんと知っておいたほうがいいのよ。何も知らなければ悪い想像ばかりが膨らんでしまうもの」
あの日、黒葛貴昌と随員六人は大皇三廻部勝元に招かれ、夕刻ごろから登城していた。それは美緒も知っていたことだ。一行はまず本曲輪御殿の〈竜王の間〉へ通され、そこで縁談話を持ちかけられた。詳しい経緯は不明だが、最終的に貴昌と大皇の長女である三廻部亜矢との縁組みが内々に決定したという。
貴昌はそれをすんなりと受け入れたが、亜矢姫は激昂し、激しく反発した。怒りに任せて物を投げ、父親と口論し、貴昌に向かって「後悔することになるぞ」と捨て台詞を吐いて退室した。
その後、座は中奥の〈藤花の間〉へと移り、貴昌の天山での後見役である桔流和智も交えて酒宴が催された。むろん、列席していたのは男衆だけだ。宴果てるころにはかなり遅い刻限となっていたため、和智は自邸へ戻らずに御殿内の家老の間に泊まることとなった。
黒葛勢が挨拶をすませて御殿を辞した時には、すでに亥の刻を過ぎていたらしい。彼らは中門近くの遠侍で待たせていた足軽十人と合流し、山道を下って真夜中ごろに三の曲輪まで帰り着いた。この時点では何も異変は起きておらず、人数も欠けることなく十七人揃っていたと、曲輪門の番所で応対した番士が証言している。
曲輪門を抜ければ、目指す桔流邸の通用門まではわずか一町ほどの道のりだ。しかしその途中、雑木林の前に差しかかったところで彼らは思いもよらない急襲を受けた。
一方、腹を立てて〈竜王の間〉を退出した後の亜矢の行動は、取り巻きのひとりである杵築正毅の証言によって明らかとなっている。彼は別邸に籠もっていた亜矢から突然の呼び出しを受け、「すぐに仲間を集めろ」と命じられた。彼女には何か計画があるようで「やつらに目に物見せてやる」と鼻息を荒くしていたという。
正毅が比与森尭尚や鉾田寛次郎ら九人の取り巻き仲間を引き連れて戻ってみると、別邸には怪しい風体の男たちが三十人ほども集まってきていた。みな牢人ふうで、これから討ち入りでもするかのような身ごしらえをしている。
亜矢は正毅が連れて来た者たちを見ると「これでは少ない。もっと声をかけろ」と言い、再び彼を使いに走らせた。だが主要なところはすべて当たったあとで、夜も更けていく中、追加をどう集めたものか考えもつかない。一度御殿からは出たものの、しばらく悩んだあとで正毅はすごすごと別邸へ引き返した。短気な姫君に叱られるのは覚悟の上だ。だが邸内に入ってみると、そこにはすでに誰もいなくなっていた。
「置き去りにされてしまったのです」正毅は苦笑しながら、志摩にそう話したという。「わたしは日ごろいつも、愚鈍で役に立たぬやつと姫君に言われていました。黒葛勢と戦いに行くのに、わたしなどを連れていたのでは足手まといになると思われたのでしょう」
そこから先は目撃者がおらず、はっきりしたことはわかっていない。
だが亜矢姫と取り巻きの若侍たち、そして予め雇い入れられていた牢人集団が、黒葛勢を待ち伏せて襲撃したことに疑いの余地はないものと思われる。曲輪門の番士は当夜に彼女らを通した覚えはないと言っているので、おそらく御殿内に入り口があるという緊急用の抜け道を使って、秘かに三の曲輪へと下りたのだろう。
亜矢の率いる一団がまず貴昌を射殺し、次に随員たちとのあいだで激しい戦闘が巻き起こった。相手は二倍以上いたが、黒葛勢は凄まじい抵抗を繰り広げたようだ。
当夜の三の曲輪の夜回りは三人編成が八組で、発砲音が響いた刻限にはそれぞれの受け持ち地区へ見回りに出ていた。銃声の届く場所にいたふた組はすぐに動いたが、大邸宅ばかりが建ち並ぶ曲輪の中はかなり広い。現場を探して回るうちに南地区の火の見櫓で半鐘が鳴り出し、そこへ向かって六人全員が急行したものの、ようやく駆けつけた時には戦闘はもう終わってしまっていた。
現場を見て事態の重さを悟った彼らは、手順通りに呼び子を吹いて近隣の詰め所にいる番士たちも集めたが、差し当たり死体の数を数える以外にできることはない。ひとりが城へ役人を呼びに行っているあいだ、原状を保存がてら検分していた残りの者たちは、あまりの死者の多さに慄然となった。「まるで合戦でも行われたかのようでした」とは、番士のひとりが述べた感想だ。
それから少しして、今度は下層へ下りる曲輪門のあたりで騒ぎが起きた。物見櫓に詰めていた番士が夜道に忽然と現れた武士らしき身形の若い男を発見したが、彼は制止の声を振り切って外壁の穴をくぐり、山の斜面を駆け下りていったという。
後刻、謎の男は五の曲輪の町人町で、夜回りの番士に再び目撃された。その時にはふたり連れになっており、ひとりが番士に抵抗しているあいだにもうひとりは逃げたらしい。
その逃げたほうの人物の特徴が、どうやら美緒の許婚の石動元博に一致しているようなのだ。
「元博どのは襲撃から逃れて、天山の外へ出ようとされていたのではないかしら」
志摩は美緒に事件のあらましを教えたあと、そう自分の考えを述べた。
「貴昌さまがどのようにして亡くなられたかを、国許の親御さまに正確にお伝えせねばならないものね」
たしかに、黒葛家にとってそれは何よりも重要なことだ。
あれから半月が経ち、月も変わって巧月となったが、大皇は未だに貴昌や随員の死を南部に伝えあぐねているらしい。人質として預かっていた重要人物を死なせてしまったのは、勝元公にとっては痛恨の極みといえる大失態だった。しかも貴昌殺害の首謀者と思われるのは、彼の最愛の子供である亜矢姫だ。もし事実をありのままに伝えれば黒葛家は烈火のごとく怒り、つい先ごろ守笹貫家を攻め滅ぼした恐るべき大軍勢を再び催して、勝元と亜矢の首を獲るべく天山に攻め上ってくるだろう。
大皇は今、ふたつの問題に頭を悩ませている。ひとつは、いかにして黒葛家との戦を回避するか。そのためには貴昌らの急死の原因を、黒葛家から見て〝やむを得ないものだった〟と納得できるようなものにすり替えねばならない。間違っても亜矢姫が暗殺を企んだなどと知られてはならず、また三廻部家恩顧の家臣たちがかかわっていることも明るみに出てはならなかった。
しかし、よしんば何かうまい偽装を考えついたとしても、石動元博が無事に国へ帰り着き、見届けた真相を報告してしまえばすべてが水の泡となる。さらに事件の場にいなかったことで好運にも生き延びた、残りの南部衆の存在も頭痛の種だった。貴昌が天山へ上がる時に連れてきた奉公人と雑兵、合わせて二十三人は今も桔流邸で軟禁状態となっている。彼らは主人たちが慶城へ招かれて行き、そのまま帰らなかったことを知っているので、全員が不慮の事故により死亡したなどという偽りの説明で誤魔化されはしないだろう。
もうひとつの問題は、事件の夜を境に亜矢の所在がわからなくなっていることだった。翌日から始まった大捜索は現在も続いているが、すでに天山じゅうを上から下までひっくり返したにもかかわらず、まだ彼女の痕跡すらも発見できてはいない。勝元は愛娘の失踪に文字どおり胸がつぶれそうな思いを味わっており、それを紛らわすために浴びるように酒を飲んでは、気絶するように眠りに落ちる日々を送っているということだった。
その気持ちは美緒にもわかる。
彼女も最愛の人が消えてしまい、安否も知れない中で心許ない毎日を過ごしている。周りはいたわってくれるが、それで気持ちが楽になることはない。
元博と亜矢がほぼ同時に姿を消したことで、城内にはさまざまな憶測が飛び交っており、聞くつもりはないのに耳に入ってきてしまうのもつらかった。
「暗殺を企んだ亜矢姫は石動元博に連れ去られ、報復のために殺されて天山のどこかに埋められたのだ」と言う人がいる。
「いや、元博と亜矢さまは秘かに思い合っており、手に手を取って逃げるために共謀してあの襲撃事件を仕組んだに違いない」と主張する人もいる。
果たして、そこに真実は含まれているのか。美緒にはわからない。
ただ、無事でいてくれることを祈るだけ。そして彼から何か知らせが届くのを待つだけ。いま彼女にできることは、そのふたつしかなかった。
巧月に入ると、天山にもようやく夏の気配が感じられ始めた。例年この時期になると人々は冬物を脱ぎ捨て、初夏むきの装いに衣替えをしてさっぱりと身軽になる。夏の始まりを言祝ぐ祭りや行事が次々に催され、時にその数は十日あまりで二十を超えることがあった。
だが今年は何ひとつ企画されず、四の曲輪より上の武家町はどこも雪に閉ざされる真冬のころのように静まりかえっている。それは、いつもなら率先して大きな祝いごとをいくつも主催する大皇家の面々が、まるで服喪中のように沈みきって城に引きこもっているせいだった。
大皇三廻部勝元は失踪した亜矢姫が依然として見つからないことで自暴自棄になり、本御殿中奥の御座所に大量の酒を運び込ませては、どれだけ酒精を注ぎ込めば人を殺せるかを自らの体で検証し続けている。側近たちは何とか酒を取り上げて政務に戻らせようと骨折っているが、愛する娘の行方が掴めないかぎり、彼はその状態から抜け出せそうもない。
大皇妃三廻部真名は黒葛貴昌の死を知って以来体調を崩し、二の曲輪御殿の奥まった一室で寝込んでいる。彼を幼少のころよりわが子さながらに愛してきた彼女は、その突然すぎる死に心を打ち砕かれてしまった。深く悲しみに浸るあまり人の気配を嫌い、世話をする侍女たちすらもめったに傍に寄せつけたがらない。白須志摩をはじめとする数人のごく親しい友人だけが、まれにわずかな時間ながら対面を許された。
「それでも、真名さまはだいじょうぶですよ」
志摩は真名妃を見舞ってきたあと、確信ありげに美緒に話した。
「周りが思うより、ずっとお強いかたなの。たとえひととき灰に埋もれたとしても、いずれその中から立ち上がられるわ」
美緒も大皇妃を弱い女性とは思っていないが、伯母が言うほどの強靱さを垣間見たこともなかった。だが内にそういう強さを秘めているからこそ、この聳城国を統べる大皇の妃として途方もない重責を担い続けていられるのだろう。
名家に産まれたかたがたに特有の力なのかしら――ふと、そんなことを思う。日ごろは常に優しく穏やかだった貴昌君にも、いざとなればどんな暴風にも耐えうる青竹のようなしなやかさが備わっていた。
亡くなった人を思い出すと、胸の奥に鋭い痛みが走る。南部衆はみな、昔から敬愛の念を持って美緒を遇してくれていた。石動元博の友人、のちには許婚として、自分たちの身内同然に考えていたからだ。
元博のことを思った瞬間に目にじわりと涙がにじみ、美緒はあわてて指先で払った。気まずい思いで周囲を見回したが、水屋で働く女中たちには悟られなかったらしい。
彼女は頭を切り換え、目の前の小鍋に意識を向けた。その中には米粉と蜜、今朝搾られたばかりの乳をもらってきて合わせたものが入っている。火にかけて木杓子で錬り混ぜながら水分を飛ばしていくと、ほんのり甘く食感のいい餅が出来上がる予定だった。だがかき混ぜる手を止めると、すぐに焦げ付いてしまう。私的な事柄はしばし忘れて集中しなければならない。
慎重に錬り混ぜていると次第に手応えが重くなり、やがてちょうどいい固さに仕上がった。
「とってもいい香り」
若い女中の莉英が横からひょいと覗き、鼻をひくひくさせた。
「お八つですか?」
興味津々の様子で、無邪気に問いかける。
「ええ、姫さまにね」
美緒は完成した餅を温かいうちに小さく切り分け、予め炒って細かく挽いておいた大豆粉をたっぷりとまぶした。その中から特に形のいいものをいくつか選び、黒い漆器にこんもりと盛る。
「残りは水屋の人たちで食べていいですよ」
そう言ってやると、莉英は瞳をきらきら輝かせた。御殿では贅を凝らした料理や食材を日常的に目にするが、下働きの者の口にそれが入ることは皆無と言っていい。
美緒は漆器を折敷に載せると、内庭に面した縁側から陽が差し込む〈芳松館〉の廊下を歩いていった。
二の曲輪御殿の庭園内に建つこの館は周囲を松の林に囲まれており、南側の主室からは築山〈雅山〉を眺めることができる。大小十室からなるこぢんまりとした入母屋造りの建物で、日ごろは小さな集まりや親密な会食などによく利用されていた。今は三廻部家の次女である十四歳の沙弥姫が、美緒をはじめとするごく少数の侍女や護衛だけを置いて、ひっそりと住み暮らしている。
彼女は幼いころから慕っていた黒葛貴昌の死を知ったあと「御殿にはいたくないわ」と言い、真名妃と相前後して本曲輪御殿を出てしまった。そのため現在は大皇と嫡子の利勝君が本曲輪に、真名妃と沙弥姫が二の曲輪に分かれて暮らしている状態だ。
主室の前に着くと、美緒は閉じられた障子の向こうに声をかけた。
「姫さま、美緒です」
やや間を置いて、かすかに「おはいり」と聞こえ、彼女は室内に入って行った。
沙弥は少し大人びた紅藤色の衣装をまとい、こちらに背を向けて畳敷きの入側に座っている。その眼前には回遊式庭園の風光明媚な景観が広がっているが、眺めを楽しんでいるかは定かではない。
〈芳松館〉に来てからの彼女は鬱ぎがちで、真名妃同様に人づきあいを避け、娯楽に興じる気配もなくぼんやりしていることが多かった。本来は刺繍などの手仕事を好み、楽器を演奏することにも熱心だが、近ごろはそういうものにもまったく興味を示そうとしない。
美緒は部屋を横切って近づいていき、彼女の傍らに腰を下ろした。ふと見れば、母親そっくりな少女の美しい目の縁が赤く染まっている。きっとまた泣いていたのだろう。
「今日も午餐をほとんど召し上がらなかったそうですね」
「食べたくなかったのだもの」
答える声にも元気がない。
「お食事を取らなければ、力が出ませんわ」美緒は手を伸ばし、沙弥の手首にそっと触れた。「こんなにお痩せになって」
沙弥はこちらへ首を回し、咎めるような目で美緒をまじまじと見つめた。
「あなたこそ」
手を握り返しながら、形のいい眉をひそめる。
「あまり食べていないのでしょう。わたしよりもずっと痩せて、やつれてしまっているわ。無理せず、勤めは休んでもかまわないのよ」
みなそう言ってくれるが、仕事は休みたくなかった。奧御殿の部屋に籠もっているよりも、働いているほうが気が紛れていい。
「ありがとうございます。でも、姫さまのおそばにいたいのです」
美緒は折敷を取り、沙弥の前に置いた。
「お好みのお菓子を美緒が作りましたよ。どうぞお召し上がりください」
沙弥は少し考えるふうを見せたが、やがて自分の中で折り合いをつけたらしく、ひとつつまんで口に運んだ。ゆっくりと、上品に咀嚼する口元が小さくほころぶ。
「おいしい」
よかった。こんなものでも、食べないよりは身になるはずですもの。
「あなたも一緒に食べて」
「はい」
美緒は微笑み、自分も餅を口に入れた。控え目な甘さが舌に優しくしみる。
「わたしも悲しいけれど」沙弥はふたつ目の餅をつまみながら、つぶやくように言った。「あなたも悲しいのね。元博どののことが気がかりなのでしょう」
はっとする美緒に、彼女は憂いのある眼差しを送った。
「でも、きっとだいじょうぶ。みんなが捜しているのに見つからないのは、元博どのが無事に国へ帰られたからに違いないもの。そして、いずれ必ずまた戻っていらっしゃるわ。あなたを迎えに、そして貴昌さまの仇を討つために――黒葛の大軍と一緒によ」
少女の目つきに、穏やかな彼女らしからぬ凄味がにじむ。
「姫さま……」
圧倒されてしまい、うまく言葉が続かない。そんな美緒に、沙弥は意味深な笑みを浮かべてみせた。
「わたし、そうなることを願っているの。黒葛家は誇り高くて、とても強いのですってね。その家がご嫡子をあんなふうに殺められたのに、黙って何もせずにいるはずがないわ」
なんということを言うのだろう。意味がわかっているのだろうか。
「姫さま、それは天山が……大皇陛下が攻められるということですよ」
「お父さまなんて嫌い」
沙弥は瞳に炎を点して吐き捨てた。口元が強張り、白い頬に朱が上っている。
「貴昌さまが亡くなられたのは、お父さまのせいよ。誰もそんなことを望んでいなかったのに、お姉さまと結婚させようとしたりなさるから。黒葛家にお輿入れするのはわたしでよかったはずなのに……お母さまもそうおっしゃったのに――お姉さまを選んだりするから、あんなひどいことが起きてしまったのだわ。だって、あのお姉さまが意に染まないことを呑んで、お父さまのいいなりに嫁いだりなさるはずがないもの」
では、やはりこのかたも……南部のかたがたを襲撃した首謀者は、姉君の亜矢姫だと思っていらっしゃるのね。
美緒は心に影が差すのを感じた。
自分の中にも同じ疑いはある。実際、亜矢姫を擁護するに足る材料は今のところどこにも見当たらない。だがほんとうに、あの姫君がこれほどの大事件を仕組んだのだろうか。本人の行方が知れず、弁解の言葉すらも聞けない状況で、一方的に決めつけてしまうのは早計に思えてならなかった。
「でも沙弥さま、亜矢姫さまは――」
「お姉さまも大嫌い!」
美緒の言葉を遮り、沙弥が叫ぶように言った。
「昔から、お姉さまにはいつも意地悪ばかりされていたわ。人が見ていないところで抓られたり、お気に入りの玩具を取り上げられたり。そして、とうとう……」
沙弥の声が震えてくぐもった。大粒の涙が目縁にみるみる盛り上がる。
「わたしが、い、いちばんお慕いしていた、ほんとうに大切なかたまで――奪い取られてしまったのよ」
彼女は言葉に詰まりながら烈しく言いつのり、美緒の膝にわっと泣き伏せた。
「お姉さまのことを絶対に許さない。もし黒葛家が来なかったら、わたしがこの手で貴昌さまの仇を取るわ。きっと、きっとそうするんだから」
泣きじゃくるうちに沙弥の口調が少し子供っぽくなり、それが美緒にささやかな安堵感をもたらした。腰にしがみつく少女の手が、小刻みに震えているのがわかる。激情に任せて口では強いことを言っているが、そんな自分に恐れを抱いてもいるのだ。
よかった、いつもの沙弥さまだわ。ただ、今は心が深く傷ついていて、それを怒りでしか紛らわせずにいらっしゃるのね。
華奢な肩を優しくなでさすりながら待つうちに、沙弥の泣き声はだんだんと小さくなっていった。やがて手の震えも止まり、美緒の膝に頭を載せたままで彼女は眠り込んでしまったようだ。
入側は日差しで温められているが、風通しのいい場所で寝ていると風邪をひくかもしれない。上掛けになるものを探して首を動かすと、膝の上で沙弥が身じろぎした。起こしてしまっただろうか。
「わたし、小さい子みたいね。勝手気ままに怒って、泣いて……」沙弥は掠れ声で、ため息まじりに囁いた。「いいえ、それよりもお姉さまみたい。いつもご自分だけがしたい放題の」
どう答えたものかと考えながら少し間を置き、美緒は遠慮がちに問いかけた。
「亜矢さまは、どこにいらっしゃるのでしょうか」
「わからないわ。見つからないところに隠れているのでしょう。あんなことをしでかしてしまったから、決まりが悪くて出てこられないのよ。いつだって、あとでどうなるかなんて考えもせずに、取り返しのつかなくなるようなことをなさるの。ほんとうは欲しいものを誰かに逆らうためだけに拒否したり、好きな人に嫌われるようなことをわざとしたり。だから元博どのにだって――」
美緒がはっと息を呑むと、沙弥はゆっくり体を起こした。濡れた睫毛を手の甲でぬぐい、潤んだ瞳でこちらをじっと覗き込む。
「気づいていなかったの? お姉さまが元博どのを好きだったこと」
衝撃のあまり言葉が出てこない。
「わたしが貴昌さまにお会いしたくて桔流のお祖父さまのお屋敷へ出入りをしていたように、お姉さまは元博どのに会うために足を運んでいたのよ。そして勝負を挑んだり、喧嘩や口論を仕掛けたり、厭がられるようなことばかりなさっていた。何年もずっとそうだったから、みんな察しているものと思っていたわ。元博どのに執着しているのは明らかだったもの」
喉のつかえをぐっと飲み下し、美緒はおずおずと口を開いた。
「元博さまは、亜矢さまに嫌われていると……だから南部衆の中でも、ご自分だけが特別にしつこく絡まれるのだと――そう考えていらっしゃいました」
「好きな人にそんなふうに思わせてしまうなんて、いかにもお姉さまらしいわね」
突き放したように言いながらも、沙弥の顔には蔑みだけではなく、憐れみも入り混じった複雑な表情が浮かんでいた。
「愚かな人……。でも、お姉さまがああなったのは――」
言いかけた言葉は、部屋の外から侍女がかけた声に遮られた。
「沙弥さま、利勝さまがお見えにございます。お通ししてもよろしゅうございますか」
沙弥は答える前に、軽く眉根を寄せて美緒を見た。その目に迷いが浮かんでいる。
六歳の利勝君は温和しく愛らしい少年で、沙弥はそんな弟を日ごろからとても可愛がっていた。彼のほうも姉を慕っており、酒浸りの父親しか残っていない御殿を抜け出しては三日にあげず訪ねてくる。だが鬱ぎの虫に取りつかれている沙弥はいつも会いたがらず、〈芳松館〉に引きこもってからは一度も顔を合わせていなかった。
会うべきかしら、と問うような眼差しを向けられ、美緒は黙ってうなずいた。家族の誰からも遠ざけられている今の状況は、六歳の子供にはあまりに寂しく耐えがたいはずだ。彼自身には何の落ち度もないというのに。
沙弥もそう思ったらしく、あきらめ混じりの様子ながら「いいわ」と言葉を返した。
「姉上、おかげんはいかがですか」
ようやく対面を許されて嬉しそうに部屋へ入って来た利勝君は、姉の体を気づかってまずそう問いかけた。周りの者たちから沙弥姫はご気分が優れないのだと聞かされ、体調不良が続いているものと思っているのだろう。
生前の貴昌君によく懐き、両親からも彼の振る舞いを見習うよう教えられて育った利勝は、亡き人に似た物静かな話し方をする。久しぶりに耳にしたそれが、沙弥の硬直していた心をほぐしたようだった。
「こちらへいらっしゃい」
彼女は普段どおりの優しい姉に戻り、弟を入側の陽だまりへ招いた。
「美緒が作ってくれた、おいしいお菓子がありますよ。一緒に食べましょう」
「はい、姉上」
少年が近づいてきたので、美緒は「お茶を淹れてまいります」と断って座を譲った。そこで初めて気づいたが、利勝に同行して来たらしい一来将明が部屋の入り口近くに座っている。
色黒で面長で怜悧な頭脳を持つ彼は、かつて亜矢姫の傅役だった男だ。当時まだ男子を持たなかった大皇は長女の亜矢を嫡子扱いしており、彼女が六年子を迎えた年に将明を傅役、城内随一の剣士と言われる月下部知恒を筆頭護衛役に任じた。
幼いころの亜矢姫はそのことをたいそう誇り、どこへ行くにも常にふたりを自慢げに引き連れていた。わざわざ誂えた揃いの陣羽織をまとわせ、それぞれの色に因んで将明を〈黒〉、知恒を〈白〉と呼んでいたのを覚えている。
だが利勝が産まれると大皇は彼らの任を解き、息子が六歳になった今年、改めて三廻部家の正式な跡取りの傅役と筆頭護衛役に任命し直した。役目の内容は同じだが、今はもうふたりは色違いの陣羽織を着てはいない。
将明と会釈を交わして主室を出た美緒は、戸口のすぐ脇に控えていた月下部知恒と出くわしてどきりとした。
「白須美緒どの」
彼は元博の剣の師匠で、美緒とも昔から互いに顔見知りではあるが、直接話しかけられたのはこれが初めてかもしれない。
「少しお話ししたいが、よろしいか」
もともと男性を前にすると萎縮する質だが、彼のような武芸者は特に苦手だった。その身に秘めた想像しがたい力を意識してしまい、舌が縛られたようになってうまく言葉が出てこない。
彼女が何も言わないことを気にする様子もなく、知恒はすたすたと歩き出した。どこへ連れて行かれるのかと不安になったが、彼は廊下を少し行った先の小部屋を覗き、誰もいないことをたしかめてから美緒が来るのを待っている。人に盗み聞きされることを警戒しているようだ。
美緒はぎこちない足取りで歩いていくと、目顔で促されるままに部屋へ入った。普段は控えの間として利用されている、何の調度もない六畳間だ。
「話というのは、石動元博のことだ」
知恒はすぐにそう切り出し、美緒を瞠目させた。
「あなたは彼の許婚なので、これを聞く権利があると思う。ただし他言は無用に願いたいが、お約束いただけるか」
舌の縛りがたちまち解けた。
「もちろんです」
胸が早鐘を搗くように高鳴っている。ついに彼の消息を知ることができるのだろうか。
長身の知恒は少し腰を屈めるようにして、美緒の目を見つめながら囁いた。
「今朝がた、七の曲輪にある祭堂の堂司がおれを訪ねて来た。彼はあの事件が起きた翌朝に元博と会い、天山から脱出できるよう手助けをしたそうだ」
「で、では――」
鳩尾のあたりで握り合わせていた手に、にわかに力が入った。熱いものがこみ上げて、鼻の奥がツンとする。
「あのかたは、ご無事なのですね」
涙声でそう言った彼女に、知恒は陰りのある眼差しを向けた。
「まだ続きがある。落ち着いて聞いていただきたい」
彼の口調が、そこに含まれている何かが、美緒の高揚感を瞬時に萎ませた。
「祭堂にたどり着いた時、元博は満身創痍の状態だった。右腕の肘から先を失い、左肩が折れ、大量に出血していて立っては歩けぬほどだったという話だ。曲輪の中に留まって療師の手当てを受けるよう勧めたが、彼は追っ手を警戒しており、すぐにも天山から逃れ出ることを望んだ」
お怪我をなさった。お怪我を――美緒の頭の中で、その言葉がうるさいほどに大きく鳴り響いた。
「彼らは翌朝に麓の曲輪へ下り、南大手門を出るところまでは誰にも邪魔されずに進めたそうだ。だが橋を渡る際に番士に見とがめられ、堂司を巻き込むことを恐れた元博は自ら外堀の水に身を投げた」
泣いては駄目。堪えなさい。
そう自分に命じたが、堰を切ったようにあふれ出る涙を止めることはできなかった。
「も、元博さまは……泳ぐのが得意です。前に、わたしにそうおっしゃっていました」
その話をいつ聞いたかは、今もはっきり覚えている。あれは彼から求婚された日のことだった。人生でいちばん嬉しかった日。息が詰まるほどに幸せだった日。季節がひとつ移る間にこれほど何もかもが大きく変わってしまうなど、あの時には想像すらもしなかった。
どこへでもお供します――と、わたしは元博さまにお答えしたのに、なぜ自分だけこんなところにいるのかしら。
美緒は唇をぎゅっと引き結び、涙をぬぐって知恒を見上げた。
「麓のお堀は、泳ぎ渡れないほどの幅なのですか?」
知恒はどう返答したものか迷うように、少し考えてから慎重な口ぶりで答えた。
「そんなことはない。……が、元博は片腕を失い、衰弱していた。流れから抜け出て、岸へ這い上がるのは困難だったはずだ」
ぬぐったばかりの目がまた涙に濡れ、美緒は力なく首をうなだれた。
「ともかく、いま話せるのはこれだけだ。新たに何かわかったら、またお知らせする」
知恒の声に気づかうような響きを感じ取り、美緒は視線を落としたまま深々と頭を下げた。
「お聞かせくださり、感謝いたします」
会釈をしたと思われる短い間を置き、知恒が踵を返した。そのまま部屋を出て行きかけて、框の前でふと立ち止まる。
「美緒どの、もうひとつ」
これ以上泣き顔を見せるのは不作法と思いながらも、美緒は興味を引かれて顔を上げた。
「これは、ごく一部の者しか知らぬ話と思うが……あの事件があった翌朝、三の曲輪の祭堂脇にある小屋で斬り落とされた片腕が見つかった。おそらく元博のものだろう」
ぎくりとして、美緒は恐るおそる知恒の表情を窺った。さらなる凶報に備えて身を固くしたが、意外にも彼は穏やかな目をしている。
「同じ小屋の中に、身元の知れぬ死体があった。南部衆を襲った連中と似た、牢人者のような風体の中年男だ。襲撃から逃れた元博はそいつに追いつかれ、斬り合って倒したに違いない」
そんな場面を思い描くのは難しかった。あれほど心優しく情に厚い人が、誰かを殺めたりできるのだろうか。
「死んだ男の持ち物と思われる包みが小屋の外に置かれており、中には発砲した痕跡のある鉄砲が入っていた」
最初は何の話かわからなかったが、彼の言葉をゆっくりと呑み込み、美緒ははっと目を見開いた。
「それは……その鉄砲とは……」
「そうだ」知恒がうなずく。「貴昌君を撃ったものと考えてよかろう。事件のあと、曲輪の中で見つかった鉄砲はその一挺だけだった。そうと知って戦ったかは定かでないが、元博は己が手で主人の仇を見事討ち取ったようだな」
彼は、ただ失っただけではなかった。そう伝えるために話してくれたのだと気づき、美緒は胸が熱くなるのを感じた。知恒は彼女の悲嘆を思いやり、何か少しでも慰めになる材料を与えてやろうと考えたのだろう。
ありがたさが身にしみ、口を開けば嗚咽がもれてしまいそうだったので、美緒は無言のままで再び頭を下げた。
「茶の支度は、おれが水屋の者に申しつける。あなたはここで、しばし心を静めてから姫君のところへ戻られるといい」
知恒は彼女がひとりきりで泣けるよう、そう言い残して部屋を出ていった。
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