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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第四章 戻れぬ橋
137/161

四十五 立身国七草郷・六車兵庫 負い目

 七草(さえくさ)城での用事を終えて出てきた六車(むぐるま)兵庫(ひょうご)は、正東(しょうとう)門外の堀にかかる橋を渡ろうとしたところで、対岸を歩いている一団に目を留めた。見慣れた黒の袍をまとう六人組。全員が馬を引き連れている。彼らが自分の率いる第五隊の隊士たちだということは、遠目にも容易に知れた。

 向こうもすぐに兵庫に気づいたらしく、橋のたもとで脇に()けて待っている。

「おぬしら、いま着いたのか」

 近づいていって訊くと、伊勢木(いせき)正信(まさのぶ)が代表して答えた。

「ええ。城で兵庫さまの居場所を訊こうと言っていたところです」

「ここで会えてよかったな」

 兵庫は微笑み、全員の顔を見渡した。みな旅汚れて、だいぶ疲れた表情をしている。

「歩きながら話そう」

 刀祢(とね)邸への帰路につきながら、兵庫は隊士たちと情報を交換し合った。彼らは三部隊編成で鷹啄(たかはし)寅三郎(とらさぶろう)を追いながら七草へ向けて南下し、四十竹(あいたけ)宿(しゅく)でついに肉薄したものの、捕らえきることができずに多大な犠牲を出してしまったらしい。

由解(ゆげ)虎嗣(とらつぐ)さまと釘宮(くぎみや)早紀(さき)どの、番士の富塚(とみつか)源四郎(げんしろう)(さこ)直則(なおのり)が討たれました。真境名(まきな)(りょう)さまも敗れて重傷を負われ、我々が宿場を出る時には人事不省(じんじふせい)に陥っておられましたが、療師(りょうじ)が言うにはお命に別状はなかろうとのことですよ」

 正信から犠牲者たちの名前を聞いた兵庫は愕然となり、しばし声も出せなかった。

 釘宮早紀や由解虎嗣の死もかなり衝撃的ではあるが、それにも増して驚かされたのが真境名燎の敗北だ。彼女は立天隊(りってんたい)でもっとも恐ろしい使い手であり、純粋に剣力のみを見るなら兵庫が知る剣士の中で五指に入る。まさか、寅三郎はそれを上回っているとでもいうのだろうか。

 一方、正信たちのほうは、寅三郎が七草城下で凶行に及んだと聞いて動揺の色を見せた。

「ここへ来て、さらに無関係な人を(あや)めたのですか」

「わずかではあるが、おれがかかわりを持った人々だ。やつが仕掛けてきやすいよう身をさらしたことが裏目に出てしまった。それにしても――」

 兵庫は自責の念が胸の奧に(くすぶ)るのを感じながら不平を鳴らした。

「自分から勝負を申し入れておきながら、この()に及んで何をぐずぐずと。城下に入っているなら、さっさと目的を果たしに来ればよいものを」

()らせて怒らせて、兵庫さまの関心を丸ごと己に向けさせたいのでしょうな。片思いを(こじ)らせた者というのは、悪手と知りつつもそういうことをやりがちですよ」

 訳知り顔に言って、正信がにやりと笑う。

「やつの腹の(うち)はなんとなく読めます。わたしも、ある意味では同類ですから」

「何を言う。同類などであるものか」

「同じようにあなたに執着して、こうして十年もまとわりついているじゃありませんか。鷹啄寅三郎は、言うなれば思い入れが過ぎて屈折したわたしで、(いん)に偏った刀祢匡七郎(きょうしちろう)ですよ」

 うしろを歩いている連中が一斉に吹き出した。彼らは百戦錬磨の勇士たちで、いかなる惨禍のさなかにあっても剽軽(ひょうけい)さを失うことはない。そのふてぶてしさは頼もしく思えるものの、今の兵庫は一緒になって笑える気分ではなかった。

「おぬしら、なぜ寅三郎に逃げ切られた。四十竹宿で一度(のが)したあと、またすぐに追ったのではないのか」

 振り向いて問いかければ、全員が気まずそうな表情になる。

「追いましたが、罠にはめられて振り切られました」

 口惜しさをにじませながら正信が説明した。

 曰く、寅三郎から一刻とは後れずに四十竹宿を()った彼らは、七草まで一日半の距離にある阿刀(あとう)追分(おいわけ)の前後で捕捉できる心算(つもり)だったという。そこへ至るまでの二か所で目撃情報も得られており、(くだん)の人物が相変わらず立州(りっしゅう)街道を南下していることは間違いないものと思われた。

「ですが追分けを過ぎ、森衣(もりのい)宿(しゅく)でようやく捕まえてみると、別人を追わされていたことがわかったのです」

 寅三郎は道でたまたま行き合った図体のでかい破落戸(ごろつき)に少々の前金を渡して雇い、立州街道を歩かせて追っ手を攪乱(かくらん)した。その男が言うには、二日以内に七草(さえくさ)(ごう)まで行き着けば、城下で落ち合って後金の金銭一枚をもらえる約束になっていたらしい。

「当の寅三郎がまだ本街道にいるかどうかはわからなかったので、我々も再び三隊に分かれて異なる道筋で追跡を続行しましたが、ついに追いつけないまま七草に到着してしまいました。ほかの二隊が先に着いていないなら、まだ捜索を続けているのでしょう」

 ひととおり語り終え、正信は暗い眼差しを兵庫に向けた。

「気狂いそのものの行動をしながら、頭は正常(まとも)に働いているらしいところが、なおさらに恐ろしく感じられますな」

「どれだけ恐ろしかろうと、手ごわかろうと、やつは必ず倒さねばならぬ」

 低くつぶやいた兵庫の肩ごしに、第四班の班長門伝(もんでん)丈彰(たけあき)が訊いた。

「このあと、どうなさるおつもりですか。やつが仕掛けてくるのを待っていたら、またぞろ新たな犠牲者が出るのでは」

「そうだ。だからもう待つのはやめにして、引きずり出すことにした。先ほど城で話し合い、その算段をつけてきたところだ」

「どんな算段を?」

 兵庫は足を止めて振り返った。

「決闘を申し入れる」

 彼の言葉に男たちがどよめく。

「城で果たし状を何枚か書いてきた。それを市中の主立った高札場すべてに掲げてもらう手はずとなっている。期日は三日後の水月(すいげつ)晦日(みそか)、明け六つ、決闘場は船渡(ふなと)川の渡し場だ」

「やつは現れるでしょうか。待ち伏せや騙し討ちに遭う危険があるというのに」

 疑わしげな丈彰に、兵庫は無言でうなずいて見せた。

 高札場の果たし状は注目されて話題に上り、決闘相手として名指しされた者は衆人環視の的になる。並はずれて自尊心の強い寅三郎は、それらの人々から勝負を降りた臆病者との(そし)りを受けることを好むまい。むしろ大勢の前で兵庫を討ち果たし、己の強さを世に示したいと考えるはずだ。

「いっそ、ほんとうに騙し討ちを仕掛けては?」

 訊いたのは隊士の宮應(みやおう)兵助(へいすけ)だった。

「やつは元江州(こうしゅう)兵で逃亡中の捕虜ですし、立州内で殺人を繰り返している大罪人でもあります。そんな男と、なにも兵庫さまが律儀に勝負をしてやることはないじゃありませんか。決闘だと言っておびき寄せて、我々全員で討ち取ればいいんですよ。燎さまや虎嗣隊長が敗れたのは、おそらく状況に押されて一騎打ちをしたせいですからね。なんなら城方(しろかた)にも加勢してもらって、鉄砲で仕留めたってかまいはしない」

 全員が〝それもそうだな〟という顔になった。詳しい事情を知らない人々の中には、そんなやり方は卑怯だと言う者もいるだろうが、立天隊としてはどんな形であれ討伐できさえすればいいのだ。

 兵庫もそれを考えないではなかった。だが刀祢貞吉郎(さだきちろう)が言った寅三郎の〝妄執〟も、図らずもこの血塗られた騒動の端緒となってしまった自分自身の気持ちも、真っ向勝負をすることなしに収まりがつくとは思えない。

「果たし合いはする」

 兵庫は静かに言って、配下の者たちを見渡した。

「おれが敗れたら、あとのことはおぬしらに任せる。三日のうちには討伐隊全員が城下に揃うだろう。当日は逃げ道を封鎖して勝負を見守り、もし不首尾に終わった場合は、即座に総攻撃を加えて討ち取ってもらいたい」

 寅三郎もそれは想定しているはずだ。勝っても負けても、生きてその場を立ち去れる見込みはほぼないと言っていい。それでも彼は勝負を求めるだろうし、見事勝った上に逃げ(おお)せることもできるつもりでいる気がする。

「行くぞ」

 再び歩きだすと、みな黙ってついてきた。いろいろ言いたいことはあるだろうが、(こら)えて呑み込んでいるのが気配でわかる。

 しばらくして、正信がすっと身を寄せてきた。

「死なないでくださいよ」

 彼はそう囁き、愛嬌のある笑みを浮かべて見せた。

「先に、わたしとの約束を果たしていただかねば」

 彼のこの台詞(せりふ)を聞くのは久しぶりだ。昔と違って、最近はめったに言わなくなっていた。それが思わず出たということは勝負の行方を悲観しているのか。いや、楽観しているからこその軽口なのかもしれない。

 兵庫は何も言わないまま歩き続け、武家町と商人町の境目あたりから裏道へ入り、路地を抜けた先に建つ刀祢貞吉郎の家へ帰り着いた。主人と下男はすでに匡七郎が剣術師範の道場へ連れて行き、一緒に身を潜めているはずだ。

 ところが門を入ると、その本人に笑顔で出迎えられた。

「お帰りなさい、兵庫さま」にこにこと言った匡七郎が門外に立つ人々を見て、ぱっと顔を輝かせる。「皆さんも着いたんですね。どうぞ中へ――と言いたいところですが、その数の馬はちょっと無理だなあ」

「匡七郎、何をしている」

 兵庫は戸惑いながら、厳しい表情で言った。

「おぬしには道場へと——」

「叔父たちは預けてきました。万一に備えて腕自慢の兄弟子たちがしばらく交替で詰めてくれるそうですし、なにより平蔵(へいぞう)先生と若先生がいますから道場はだいじょうぶです」

 匡七郎は歯切れよくぺらぺらとまくし立て、兵庫に口を挟む隙を与えない。

「すぐ近くに馬を預けられるところがあるので、二、三人で行ってきましょう。案内します」

 彼は兵庫を玄関のほうへやんわりと押しやり、入れ替わりに門の外へ出た。手近にいるふたりと引き綱を分け合い、六頭の馬を引いてさっさと歩いていってしまう。

 それを見送る兵庫の呆れ顔を見て、正信が朗らかに笑った。

「あなたにかかわる事柄から、あいつを外そうとしたって無理に決まっているじゃないですか」


 水月(すいげつ)晦日(みそか)、明け六つ。

 空気が湿って重く、体にまとわりつくように感じられる朝だった。陽はすでに昇っており、雲に遮られてぼんやりと輝いている。

 兵庫(ひょうご)は果たし状に記した刻限ぴったりに、決闘場として指定した船渡(ふなと)川の渡し場に着いた。二段土手を下りた先は砂礫の地面に雑草がまばらに生える広い河原で、その向こうには満々と水を(たた)える川が河口に向かってゆったりと流れている。

 決闘のことは事前に伝えてあるため、等間隔に建ち並ぶ三つの船小屋に渡し守の姿はなかった。ふだんは桟橋に(もや)われている渡し舟も、すべて河原に引き揚げられている。これで寅三郎(とらさぶろう)は対岸へは逃げられない。

 昨日までに集結した立天隊(りってんたい)の〈隼人(はやと)〉と鉢呂(はちろ)砦の番士、合わせて十五人は河原の三方に散らばって一帯を封鎖していた。上流と下流にそれぞれ五人。土手の上には等間隔に四人。中段の細道には果たし合いを見物に来た町衆が百人あまりも集まっており、刀祢(とね)匡七郎(きょうしちろう)はその中に紛れ込んでいる。

 見物人などいないに越したことはないが、高札を出して宣伝してしまった以上、人が集まってくるのを阻止することはできない。果たし合いと処刑は、いつの世も市井の人々を引きつける人気の娯楽なのだ。隊士たちに追い散らさせても、すぐにまた戻ってくるので堂々巡りになるだけだろう。

 土手を下りて船小屋の近くまで行き、じっとりした風に吹かれながら待っていると、小半刻ほどして見物集から声が上がった。

「来たぞ!」

 顔を上げると、土手の階段道を下ってくる鷹啄(たかはし)寅三郎の巨体が見えた。刀身が三尺を超えていそうな野太刀を腰に差し、左手を懐手にしてのし歩いている。一見したところ、得物はその長刀と脇差しだけのようだった。だが隠している左手に何か持っているのかもしれない。

 兵庫は出迎えるように近づき、二間ほど手前で足を止めた。河原へ下りた寅三郎が、細い目をいっぱいに見開いてじろじろとこちらを観察する。

「なんだ、普通の顔をしおって」

 当てが外れたように言って、彼はふんと鼻を鳴らした。

「これから殺し合いをしようというのに、気迫が足りんのではないか」不満げな口調だ。「昔のほうが手ごわそうだったぞ」

 討伐隊に追われながら過酷な旅をしてきたはずだが、寅三郎に疲弊している様子はなかった。体格から察せられる通りの頑強な男なのだろう。

「おぬしを捜した」

 彼は足元を確かめるように地面を爪先で掃き、低くつぶやいた。

「あれからずっと捜していた。十二年だ。儲口(まぶぐち)家に所縁(ゆかり)あるなら立州(りっしゅう)人で、主家の滅亡後は七草(さえくさ)黒葛(つづら)家の臣になっているだろうと当たりをつけたまではよかったが、そこから先が途方に暮れるほど長かった。捜すうちに黒葛家との戦が始まったので、戦場(いくさば)でいつか巡り会うことに期待をかけていたが、まさか天翔隊(てんしょうたい)に入っているとは思いも寄らなかったな」

 独り語りを続けながら、寅三郎がゆっくりと歩き出す。

百武(ひゃくたけ)城が落ちたあとに身を寄せていた西木(にしき)城で、天隼(てんしゅん)に乗って飛び去るおぬしを見た時には目を疑ったぞ。おれが運悪く捕虜になっていなければ、あの場で雌雄を決することもできたろうに」

 大きく円を描くように歩きながら、彼は視線だけ左右に動かして周囲の様子を窺っている。いざとなれば逃げることも視野に入れ、人の配置などを確認しているのだろう。

「十二年――」感慨深げに繰り返し、寅三郎は兵庫をちらりと見た。「そのあいだ一度でも、おぬしはおれを思ったか?」

 問いかけはするものの、返答を待つふうはない。

「いや、思うまいな。すでに終わった勝負と考え、おれのことなど忘れてしまっていたはずだ。だが、あれだけされれば(いや)でも思い出しただろう」

 彼はゆがんだ笑みを浮かべ、船小屋を背にして足を止めた。

「ここへ来るまでにずいぶん数を減らしてやったが、まだ仲間は大勢残っているようだな。全員で寄ってたかっておれを斬り刻むのか」

 渡し場を囲んでいる隊士たちを皮肉り、寅三郎が右手だけで野太刀を抜き放つ。

「それでもいいが、まずは余人を交えずに楽しもうぜ」

 彼は斜に構えて峰を肩に担ぎ、一瞬溜めてから前にのめって中段へ斬り込んできた。

 極端なほどのなで肩に長い腕、長い刀。切っ先が予想をはるかに越えて近間までするすると伸びてくる。兵庫はその下をかいくぐりながら脇差しを抜いた。低い体勢のまま右八双に構えて突進し、前に出ている寅三郎の左足を狙う。

 膝頭の上あたりに入ったと思ったが、猫のように飛び退(すさ)って避けられた。間髪を入れずに繰り出した水平斬りも、さらに退()いて寸前でかわされる。

 どこか余裕ありげに下がり続ける寅三郎に、兵庫は少し違和感をおぼえた。前に戦った時には、攻めて攻めての火のような剣だったのを覚えている。何か狙っているのか。

 その真意を探りながら迫っていき、水際(みぎわ)へ追い詰めたところで一気に間合いをつぶした。素早い足さばきで距離を詰め、がら空きの左胸へ片手斬りに斬り下ろす。

 肉ではなく骨でもない、何か予想外のものを斬った感触がして刀身が折れた。

 ずっと懐に隠されていた寅三郎の左腕が外に出ている。瞬時に胸の前にかざし、己の身を盾に斬撃を防いだらしい。見れば手首から肘の近くまで、太い鉄鎖がぐるぐると巻きつけられている。兵庫の剣はその輪のひとつを断ち切っており、寅三郎が腕を上げると鎖はたちまち解けて地面に流れ落ちた。

 思わぬ展開に驚く間もなく、狙い澄ました斬撃が大上段から脳天を目がけて降ってくる。

 (きわ)どい。近すぎる。

 体は本能的に右へ動いたが、かわしきれる気がしなかった。寅三郎の必殺の一太刀が左頭頂に食い込み、顔面を縦割りにしていく心象が浮かぶ。

 たたらを踏んで倒れざまに横へ転がり、距離を取って立ち上がった兵庫は、斬られて落ちた自分の顔の一部を探して寅三郎の足下に目をやった。だが何もない……いや、ある。折れた刃と一緒に、何か黒いものが。あれは――。

 ふと視線を落とすと、胸元に垂れた髪の異変に気づいた。無精をして伸ばしっぱなしにしていた毛髪の一部が、八寸ほども短くなっている。

 てっきり唐竹割りにされたものと思ったが、どうやら髪を切られただけですんだようだ。しかし自分がうまく避けたというよりは、相手の斬撃の軌道が微妙にずれたと考えるのが妥当だろう。

 なぜずれたのか――。

 今朝、伊勢木(いせき)正信(まさのぶ)が刀祢邸を出る前に、慎重な口ぶりでこんなことを言っていた。

「鷹啄寅三郎は、もしかすると負傷しているかもしれません」

 四十竹(あいたけ)宿(しゅく)真境名(まきな)(りょう)由解(ゆげ)虎嗣(とらつぐ)と相次いで斬り合ったあとに寅三郎は遁走したが、その際かなり遠くまで道に点々と血痕を残していたという。

「浴びた返り血が(したた)ったというには、いささか量が多いように思えました」

 先ほどは、まっすぐに斬り下ろすつもりだったであろう剣の軌道が斜めにずれた。ということは、刀に両腕の力が均等に乗っていないことになる。寅三郎は右腕か、右上半身のどこかに痛手を負っているのかもしれない。やはりあの手練(てだ)れふたりと戦って、無傷ですむはずがなかったのだ。

 兵庫は大刀を抜き、構えをとらないまま数歩下がった。皮膚のすぐ下では心臓が跳ね狂っている。今際(いまわ)(きわ)を覗いた衝撃が、今ごろになってどっと押し寄せてきた。もし寅三郎の負傷がなければ、勝負はあの一瞬で決まってしまったに違いない。

 その思いが背筋をぞくりとさせる。だが、同時に頭の芯がすっと冷えた。動悸が落ち着き、視界すらも急に明るく澄んだ気がする。

 燎どの、虎嗣どの、かたじけない――。

 心の中でつぶやき、大きく深呼吸をして地を蹴った。正面では寅三郎が苦虫を噛み潰したような顔をしている。あの奇策によほど自信を持っていたのだろう。

 しかし敵もさる者、すぐに気を取り直して剣を合わせてきた。鍔元で刃が噛み合い、(はがね)のこすれ合う不快な音が響く。兵庫は真っ向から張り合ったあと、一瞬ゆるめて拮抗を崩し、そこから一転して渾身の力で押し返した。

 鍔迫(つばぜ)り合いの均衡を乱され、わずかに前がかった寅三郎の額に己自身の剣の峰が激突する。たちまち肌が裂け、鮮血が噴いた。

「糞ッ」

 悪態をつき、後方へ跳んだ寅三郎の足が水に()かった。そのまま飛沫(しぶき)を上げながら横へ走る。兵庫は右脇構えを取ったまま、ぴったりとついていった。

 船小屋に近づいたところで同時に足を止め、再び刃を合わせた。激しく当たり、離れ、またぶつかっていく。忙しなく足をさばいて立ち位置を変えながら、相手の体に一太刀入れる隙を探り合う。

 いくつか傷を負わせたが、気づけばこちらも同じぐらい斬られていた。突きを深く入れられた左上腕の傷はかなり重い。袈裟斬りを避け損ねた右太股は、おそらく何寸か肉を()がれているはずだ。だが動くのに支障はない。

 対する寅三郎は、兵庫の斬撃で左肩に深手を負っていた。そのせいで逆に両腕の力がうまく釣り合い、今は妙にきれいな太刀筋になっている。なぜか斬った覚えのない腹部からも出血しているようだが、本人はそれに気づいてはいない様子だ。それよりも顔面の出血に神経を尖らせているのが感じ取れた。裂けた額と、兵庫の剣尖が(えぐ)った左頬骨あたりから大量に血が流れ、肌の上に不気味な模様を描いている。ここぞというところで、血糊が目を塞ぐのを警戒しているのだろう。

 かなりの手数を出し合い、技が尽きたところで申し合わせたようにぱっと離れた。少し間を取り、すり足でじりじりと横へ動きながら、次の一手を繰り出す機を窺う。

 傷つき、血を流し、疲労をおぼえながらも、兵庫の心は戦いの愉悦を感じていた。それを読み取ったように寅三郎が問いかける。

「楽しんでいるか」

 少し息が上がっているが、快活な口調だ。

「本当に強いと思えるやつと()り合うと、魂が沸き立つ。そう思わんか。だからどうしても、もう一度おぬしと相まみえたかった」

 にやりと笑って、寅三郎が斬り込んできた。上からの斬撃が途中で軌道を変え、左下から斜めに跳ね上がる。兵庫はそれをからめ取って弾き、一歩進んで喉元に突き入れた。寅三郎が頭を振ってかわし、すかさずうしろへ下がる。兵庫は足を送って、同じ距離だけ前へ出る。相手が下がれば下がっただけ詰め寄りながら、執拗に首を狙い続け、四本目の突きでついに捉えた。かわしきれなかった切っ先を喉仏の下に浅く受け、寅三郎が驚きに目を(みは)る。

 そうして至近の攻撃を充分に印象づけてから、今度は水が引くように後方へ退()いた。釣られたように寅三郎が前へ出てくる。しかし近寄りすぎはせず、彼は遠めの間合いを保つことを忘れなかった。自分の得物は兵庫に届くが、こちらの剣は届かない距離だ。

 兵庫は足を止めて左下段に構え、寅三郎の剣の起こりを感じた瞬間、大股に一歩踏み込んで深く沈みながら逆袈裟斬りを放った。諸手(もろて)で斬り込み、中段で片手に変え、全身で伸び上がるように腰から肩まで一気に斬り上げる。届かないはずの斬撃が飛んで、刃が肉に食い入った。

 しかし、さすがに寅三郎も突っ立ったまま斬られはしない。彼は咄嗟(とっさ)()()って致命傷を避け、鹿のように後方へ跳ねて距離を取った。野大刀を片手持ちで構えながら左手で胸元をなで、その(てのひら)が赤く染まっているのをちらりと見下ろして唇を噛む。

 形勢が不利になったのを悟り、彼は顔を強張(こわば)らせた。迂闊(うかつ)に誘い込まれて深手を負った自分に腹を立てているようでもあり、楽しかった遊びが終わりそうで()ねているようにも見える。

 目を見交わすと、互いに同じことを感じているのがわかった。

 次の一手で決まる――。

 ひと呼吸して兵庫が動き出すのと同時に、寅三郎は身を(ひるがえ)して駆け出した。暴れ狂う馬のように凄まじい速さで上流のほうへ向かっていくが、そこには立天隊の隊士たちが待ち構えている。彼らはすかさず横へ広がって行く手を塞ぎ、一斉に抜刀した。

 寅三郎が勝負の途中で逃げ出したら、そこからは討伐に切り替えると事前に申し渡してある。たとえ集団でひとりを惨殺する形になったとしても、この厄災を招いた十二年前の(あやま)ちを再び繰り返すわけにはいかない。ここでむざむざ取り逃がして、また仕切り直させるなど愚の骨頂だ。

 最後に受けた傷がなければ、寅三郎はかまわず隊士たちの壁に斬り込んだだろう。だが少し弱気が(きざ)したのか、急に進路を変えて横に走った。次に目指しているのは、土手の中段の小道に鈴生(すずな)りになっている見物衆だ。そこを強引に突き破るか、あるいは人質を取るつもりかもしれない。

 固唾(かたず)を呑んで見守っていた人々が、ようやく事の次第に気づいてあわて始めた。つい今しがたまで壮絶な斬り合いをしていた大男が、血刀(ちがたな)を引っ提げて自分たちのほうへ突進してくるのだから、それは恐ろしいに違いない。

 寅三郎が草に覆われた土手を上り始めると、待っていたように刀祢匡七郎が群衆の中から躍り出た。十文字槍の穂先をぴたりと下段につけ、見物衆を(かば)うように立ちはだかって声を張り上げる。

「この槍にかけて、町衆には指一本触れさせんぞ!」

 それを見た寅三郎は舌打ちをして(きびす)を返し、途中まで上っていた土手を駆け下った。匡七郎の啖呵(たんか)と威勢に恐れをなしたというよりは、位置的に有利な上を取っている槍持ちと戦う難儀を考え、避けたほうが利口だと瞬時に判断したのだろう。

 彼が再び河原へ下りる前に、すでに兵庫は走り出していた。隊士たちも上流、下流双方から包囲を(せば)め、匡七郎も寅三郎を追ってきている。

 前後に隼人の集団、背後に兵庫、さらに横から槍使いが迫っているのを見て、寅三郎は荒々しく吠えた。それでもまだ望みを失わず、どうにかして活路を開こうとしているように見える。

 彼は走りながら肩ごしに振り返り、兵庫との距離を確認してから決然と前へ向き直った。勝負に戻るよりも、前方の隊士たちと戦うほうを選んだようだ。手負いの獣の獰猛さで、がむしゃらに突破するかもしれない。

 兵庫は走る速度を上げ、匡七郎が河原へ飛び下りて自分と寅三郎とのあいだに入った瞬間に叫んだ。

「匡七郎!」

「承知ッ」

 どう理解し、何を承知したのか。

 それはわからないが、匡七郎は事前に打ち合わせでもしてあったかのように、兵庫がまさに期待した通りの動きをした。槍の穂先を地面に突き込み、柄を斜めに支え、足場にするのに恰好の傾斜を瞬時に作り上げる。兵庫はその上を駆け上がり、匡七郎の肩のあたりで高く跳躍した。

 体が重い。

 やはり浮昇(ふしょう)力のない地上では、空と同じように跳ぶことはできない。だが、それを補えるだけの経験は積んでいる。

 寅三郎は兵庫の声が響いた直後に振り向き、構えを取ることも忘れたように唖然と見上げていた。人並み外れた長身の彼は、これまで頭上から斬りかかられたことなど一度もなかっただろう。

 兵庫は空中で一回転して身をひねり、寅三郎を刃圏に捉えた瞬間に首筋を()ね斬った。そのまま棒立ちになった彼の背後に着地し、片膝をついた姿勢で低く剣を振り抜く。

 左足首を切断され、ぐらりと揺れた寅三郎が溶けるように地面にくずおれた。仰向けで大の字になった巨体の周囲に、血の池がみるみる広がっていく。

 河原の三方から、わっと歓声が上がった。

「初めて」

 寅三郎が何か言っている。ともすれば見物集の騒ぐ声にかき消されそうな、かすかで頼りない囁きだ。兵庫は彼に近づき、腰を屈めて顔を覗き込んだ。虚ろな目がぼんやりとこちらを見上げている。

「聞いた……おぬしの――」

 つぶやく彼は奇妙な表情をしていた。顔の上半分の力は抜けているが、口元は引きつっている。笑いたそうでもあり、今にも泣き出しそうでもあった。

「そんな声をしていたのだな」

 ふいに明瞭な発声でそう言ったあと、唇からふうっと息をもらし、両目を半眼に開いたままで寅三郎は事切れた。


 決闘の顛末を伝えるために出向いた七草(さえくさ)城で、兵庫(ひょうご)は思いがけず長時間引き留められることとなった。報告のあと、唐木田(からきだ)智次(ともつぐ)が気を回して呼んでくれた療師(りょうじ)の治療を受けているところへ、次々と面会人がやって来たせいだ。

 そのうち何人かは河原へ勝負を見に来ていたらしく、みな果たし合いの話を事細かに聞きたがった。当然ながら全員が城勤めの侍で、中には上士らしき人もちらほらと混じっている。億劫なことではあるが、あまり邪険にもできない。

 礼を失しない程度に相手を務め、ようやく解放されて表へ出た時には、すでに日が落ちかかっていた。朝方よりもさらに湿気が増し、空は厚い雲にどんより覆われている。

 城で用意すると言ってくれた駕籠を断り、兵庫はぱらつく小雨の中を歩いて商人町のはずれにある椙野(すぎの)道場へと向かった。預けてある貞吉郎(さだきちろう)らを引き取りに行った匡七郎(きょうしちろう)が、ほかの隊士たちと一緒にそこで待機しているはずだ。

 少し濡れてたどり着いた道場では、主の椙野平蔵(へいぞう)篤次郎(とくじろう)親子が災難に遭った立天隊士の慰みになればと、心づくしの酒席を設けてくれていた。みなすでに飲み始めているが、普段のように騒ぐことはなく、ただ静かに語り合いながら粛々と盃を傾けている。まるで室内にも雨が降っているかのような湿っぽさだった。隊長の由解(ゆげ)虎嗣(とらつぐ)と仲間の釘宮(くぎみや)早紀(さき)を今回の一件で(うしな)った第一隊の隊士たちは、ことさらに沈痛な面持ちをしていて会話も途切れがちだ。

 兵庫は平蔵親子に謝辞を述べ、隊士たちにねぎらいの言葉をかけてから、席に加わって少しばかり酒を飲んだ。せっかくいい北方(ほっぽう)下りの酒を出してくれているのに、今夜は舌に苦い。

 そうして宴もたけなわとなったころ、兵庫は小用にと言って座を立った。道場と棟続きの母屋へ行き、台所で立ち働いている椙野家の女衆に挨拶をしたあと、(かわや)へは行かずにそのまま玄関から外へ出る。

 屋外はひどく蒸し暑く、雨脚が少し強まっていた。このぶんだと、じきに本格的に降り出しそうだ。

 兵庫は表門の脇戸をくぐると、暗い夜道を歩き出した。縫われて包帯を厚く巻かれた太股の傷が一歩ごとに痛んだが、敢えて意識を()らし、(さと)の東の街道を目指してひたすら足を動かし続ける。

 職人町に入って通り抜け、七草城の外堀を兼ねる藥袋(みない)川の狭窄部にかかった橋を渡ると、広大な農地の中を突っ切る長い道に出た。街道まではあと半里足らずだ。

 その時、ふと気配に気づいた。悟られないよう距離を取りながら、巧みにあとをつける者がいる。

「匡七郎」

 足を止め、振り返って呼びかけると、闇の向こうから予想通りに匡七郎が姿を現した。あまりに暗いので、すぐ近くまで来なければ互いの目すらも見えない。

 ようやく見分けられるようになった彼の表情は、いつになく硬かった。

上手(うま)い尾行だったでしょう」

「なぜ来た。帰れ」

 厳しく命じても、匡七郎に動じる様子はない。

鉢呂(はちろ)砦へ戻らないおつもりですか」

 張り詰めた声音の問いを黙殺し、兵庫は背を向けて歩き出した。匡七郎は当たり前のようについてくる。

「帰れと言っただろう」

「負傷なさっているのですよ。砦へ戻って、西の城の傷病棟でしばらく療養されるべきです」

「こんな怪我をしていては、戻ってもどうせ部隊の役には立たん。いったん離れ、まずは体を治すよう努める。そう博武(ひろたけ)さまにお伝えしてくれ」

「では、治ったら戻って来られますか」

 答えずに足を速めたが、匡七郎はものともせずにそれに(なら)う。

「兵庫さまのせいではありませんよ」

 ぴたりと背後につきながら、彼は少し強い調子で言った。

「虎嗣隊長や早紀どののことは、それは残念ですし悔しくもあります。ほかにも大勢の犠牲が出ましたし、あの矢場の女もほんとうに可哀想だったと思っています。でも鷹啄(たかはし)寅三郎(とらさぶろう)が今になってあんな暴挙に出るなど、兵庫さまには考えも及ばなかったことじゃありませんか」

 だからといって、責任がないなどとは思えない。

 兵庫はもう一度足を止め、振り向いて匡七郎と向き合った。腕を伸ばして肩を掴み、指に力を込める。

 そのまま何も言わず、じっと目を覗き込んだ。

 (まじろ)ぎもせず見つめ返す匡七郎の瞳に、理解とあきらめの色がじわりと広がっていく。

 充分に伝わったと思えたところで手を離して再び歩き出すと、彼はもう追ってはこなかった。だが立ち去りもせず、その場に佇んだまま見送っている。

「兵庫さま」

 呼ばれたが、今度は振り返らない。

「戻って来られますよね」ふいに匡七郎の声に感情があふれた。「あまり長くは待ちませんよ。戻らなかったら、こちらからお迎えに行きます」

 かつてこの同じ道の上で、また会えるかと訊ねた少年の姿が脳裏に浮かぶ。

「どこへ隠れても捜し出しますよ。わたしは寅三郎に負けずしつこいんですから」

 その言葉を最後に匡七郎は口をつぐんだが、黙々と歩き続ける兵庫の耳には、雨のようにしみた彼の声がいつまでも残っていた。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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― 新着の感想 ―
[良い点] 先の大被害はただ犠牲を出しただけではなかった!ってとこと、匡七郎くんとの以心伝心、お見事! よっしゃー!……と、快哉を叫びたいところなのですが……ッ!ですが! ううぅ、そうかぁ……そりゃあ…
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