表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第四章 戻れぬ橋
136/161

四十四 立身国七草郷・六車兵庫 妄執

 暗い色をした垂れ幕を背景に、紐で数珠つなぎに吊られた的が三つ。そのいちばん下、もっとも小さな的を選んで矢を放つ。軽い音を立てて矢尻が中心に突き立つと、紐につけられた鈴が楽しげに鳴った。

「あたァりぃ」

 矢取女(やとりおんな)が高い声で唄うように言い、隣から顔を覗き込みながら嫣然(えんぜん)と微笑んでみせる。

「名人級の腕前ですね、旦那」

「的まで七間そこそこだからな」

 六車(むぐるま)兵庫(ひょうご)は世辞に淡々と返して、女が差し出す次の矢を手に取った。今日はすでに、もう五十本ほども射ている。たいていの矢場(やば)では十矢で鉄銭四枚が相場だが、この〈糸目(いとめ)屋〉は鉄銭五枚と少し高い。弓や矢の質が特にいいわけではなく、客の相手をする矢取女が上玉ぞろいなので強気に値段をふっかけているのだ。

 兵庫の遊び相手を務めている女は名を千紗(ちさ)といい、歳は二十一、二といったところで、矢取女にしては(とう)が立っている。だが、見世(みせ)にいる粒ぞろいの女たちと比較しても、別格と言っていいほどの美形だった。くっきりした二重まぶたの大きな目と形のいい唇を持った、咲き誇る牡丹の花のように(あで)やかな娘だ。

 その美女を横に(はべ)らせて座り、兵庫は黙々と矢を射続ける。多少の会話はするが、色気のある話はまったくしない。

 矢場に遊びに来る男の目当ては矢を射ることではなく、本来は若く美しい矢取女と戯れることだ。見世の奧にはそれ専用の部屋も用意されているが、彼は四日連続でここへ通っていながら、まだ一度も女を奧へ連れ込んではいなかった。

 矢取女に色を売らせて花代を得なければ、矢場にはたいした利益は上がらない。つまり兵庫は〈糸目屋〉にとっては矢を射るばかりで女を買わない、吝嗇(けち)で迷惑な客ということになる。だが楊弓(ようきゅう)遊びをする場として看板を掲げている以上、見世としてはその看板通りの遊びをしに来る彼を閉め出すこともできないのだ。

 主人に苦々しく思われているのは明らかなので、兵庫はせっせと矢を射って散財するよう努めた。千紗は初日に相手をしてくれて以来、彼が来ると当然のような顔をして毎回受け持ちを買って出るが、奥座敷へ行きたがらない無粋な男のことをどう思っているのかは定かではない。

「またまた、あたァりぃ」

 兵庫の矢が的を射抜き、千紗は笑みを浮かべて声を張り上げた。ほっそりした首をつと伸ばし、ほかの的で遊んでいる客たちをさっと見渡す。

「今日も、旦那よりうまい人はひとりもいませんわ」

 少し得意げなのは、兵庫を自分の馴染み客として認識しているからだろう。そんなふうに肩入れされると、花代をやれないのがますます申し訳なく思えてくる。

「矢をあと百本」

 兵庫が追加を頼むと、千紗は嬉しそうに「あい」と言って矢返し役の女に合図を送り、矢立箱を持ってこさせた。その中から一矢を抜き出し、身を寄せて手渡しながら膝を割って白い腿をちらりと見せつける。矢場の女の常套ともいえる手管だ。だが彼女は(つや)っぽい仕草で(こび)を売りはするが、そうした誘いに兵庫が乗ってこなくとも別にかまわないと思っているようだった。

「また明日もいらっしゃる?」

 半刻ほど遊んで帰りしな、外まで見送りに出てきた千紗が、黒絹の長袍(ちょうほう)を背に着せかけながら兵庫に訊いた。

「上がりの少ない客だが、いいのか」

「奧へ行かない代わりに、たくさん射ってくださいますもの。それに、旦那が弓を引くのを見ていると楽しいんです。とっても上手だから」

「弓術が好きなのか」

「亡くなったわたしの父が好きで、同門では一、二を争う腕前でした。稽古する姿をいつも見ていたので、たまに弓のうまい人がお見世に来ると、父がいたころを思い出して懐かしくなります」

 武家の娘だったのだろうか――と思いながら、兵庫は戸口の横壁にかけられた掛け行灯(あんどん)の明かりに浮かぶ千紗の顔をじっと見つめた。どのような運命の変転によりここへ至ったにせよ、まっすぐ見返してくる瞳は力強く、境遇からくる陰りを少しも感じさせない。

 何とは無しに心を惹かれる娘だ。

「ね、明日もいらしてくださいます?」

 腕にそっと手をかけて甘える彼女に、兵庫は短くうなずいてみせた。

「約束はできんが、たぶんな」

 千紗が満面の笑みを浮かべる。

「お待ちしております」

 彼女と別れたあと、兵庫は繁華な通りを歩き出した。道沿いの(たな)は半分がすでに店じまいを終えており、残りの半分もそろそろ帳場の片付けを始めている様子だ。それらの中に〈(よろず)小間物類〉の看板を見つけ、ふと足を止めた。店先では若い主人が、床几(しょうぎ)に並べてあった展示品を仕舞いにかかっている。

「すまんが、それをちょっと見せてくれ」

 声をかけて近づくと、主人は愛想のいい笑顔を向けてきた。

「はい、はい。どうぞごゆっくり」

 鼈甲(べっこう)の飾り(ぐし)や色とりどりの元結(もとゆい)紅猪口(べにちょく)といった女が喜びそうな品々の中に、なかなかいい細工の(かんざし)が何本か並んでいる。兵庫はそのうちの一本を手に取った。

 二本足がついた平打ちの銀簪。円形の枠の中に、牡丹とおぼしき花が透かし彫りされている。その華やかさと凛とした佇まいが、どことなく千紗の姿と重なった。

「そちらは当節人気の職人が手がけたもので、お武家のご新造(しんぞ)さまにぴったりの良いお品でございます」

 主人の売り込み口上を聞き流し、兵庫は懐から財布を取り出した。

「もらおう。いくらだ」

「毎度ありがとうございます。銀五枚ちょうだいいたします」

 気まぐれで出すには高額とも思えたが、かまわず支払った。日ごろは砦暮らしをしていて、さほど金を使うこともない身だ。明日〈糸目屋〉に行ったら、帰りがけにでもさり気なく千紗に渡してやろう。

 桐箱に入れられた簪を受け取ると、兵庫はあまり人通りのない運河沿いの裏道へ回ってぶらぶらと歩いた。今夜は空が晴れており、柳の並木越しに見える水面が月光に照り映えている。

 しばらく行くと、道の先に夜鳴き蕎麦の屋台が見えてきた。薄闇の中にぽつんと(とも)った灯りが、どことなくうら寂しい雰囲気を醸し出している。その明かりがかろうじて届く範囲に、町人姿の先客がふたり。連れ同士のようだが、ひとりは屋台の傍にしゃがみ、ひとりは立ったままで会話もなく黙々と蕎麦をすすっている。

 兵庫が近づくと、ここ数日で顔見知りになった親父が気づいて軽く会釈をした。

「一杯くれ」

 声をかけて待っているとすぐにかけ蕎麦が出てきたので、柳の木の下で川を眺めながら食べた。屋台の蕎麦など、どこで食べてもたいして変わりはないものだが、ここの親父が作る(つゆ)の味は何となく品がいい。

 蕎麦で小腹を満たしたあと、兵庫は運河に沿ってさらに南へ(そぞ)ろ歩いた。すでに夜四つを過ぎているので町々の木戸はどれも()て切られており、道を行く人影もほとんど見当たらない。たまにすれ違うのは、家路につくつもりがあるのかないのか判然としない千鳥足の酔漢ぐらいだ。

 兵庫は酒を飲んでいないが、酔い覚ましの散歩をする男のような足取りでゆっくりと歩き、たまに橋を渡ったり進路を変えたりしながら半刻近くも城下町の中をぶらついていた。道中には暗い横道がいくつもあったが敢えて目をやらず、四つ辻でも足を止めず、うしろは一度も振り返らない。そうして無防備さを見せながらも、気をゆるめることなく神経を張りめぐらせている。

 並木が死角を作る堀端で。

 先の見通せない辻角で。

 潜伏しやすい構造物のある船着場で。

 ここと思う場所では特に警戒を強めたが、想定しているようなことは起こらなかった。連日、空振り続きだ。

 今夜ではなかったか――と思いつつ兵庫は引き揚げにかかり、三更をまわるころには寄寓先の刀祢(とね)貞吉郎(さだきちろう)邸に帰り着いていた。家の主人はまだ起きているらしく、居間のほうに()(とも)っている。

 門を入ってから暗がりに佇んで待っていると、少し間を置いて刀祢匡七郎(きょうしちろう)が帰ってきた。

「後をつける者はいませんでした」

 門扉を閉めた彼は早口にそう報告して、頬被りしていた手ぬぐいを取った。軽く息を弾ませている。

「ついでに家の周辺をざっと見回ってきましたが、気になるような人影もありません」

「そうか」

 兵庫はうなずき、彼と連れ立って玄関へと向かった。


 鷹啄(たかはし)寅三郎(とらさぶろう)七草(さえくさ)城下に入るのは最短で水月(すいげつ)二十一日あたり――兵庫(ひょうご)匡七郎(きょうしちろう)は慎重な話し合いの末、そう結論づけていた。だが予想の日を過ぎても彼は一向に姿を現さず、ただ待つだけのもどかしい五日間がまたたく間に流れ去り、今日もまた無為な一日が終わろうとしている。

 これまでに七草城には寅三郎を見た、どこそこにいたという通報がいくつももたらされていたが、城方(しろかた)が確認しに行ってみるとそれらはいずれも人違いだった。詳細な人相書きが出回っているわりに特徴があまり正しく認識されておらず、市中での認知度そのものもあまり高くはないようだ。

 二十二日以降も確実と思える目撃情報はひとつも入らなかったが、兵庫は寅三郎はすでに城下にいるのではないかと感じていた。すぐに挑んでこないのは、まだこちらの居所(いどころ)をつかんでいないか、あるいは好機を得るために様子を探っているからではないだろうか。

 そこで彼は寅三郎を釣り出すために〝身をさらす〟ことを決断し、二十三日から外を出歩き始めた。

 より人目につきやすいよう立天隊(りってんたい)長袍(ちょうほう)をまとって、昼間は目抜き通りの出店をひやかし、茶店に立ち寄り、露台で囲碁に興じる老人たちに時折混じったりしながら広範囲を歩き回る。

 日が暮れると繁華街の滝野(たきの)町へ移動して田楽屋などで飯を食い、そのあと矢場(やば)へ行く。偽装の夜遊びなら金のかかる娼楼(しょうろう)賭場(とば)よりも矢場のほうが手軽でいい、と彼に勧めたのは匡七郎だ。帰途では必ず同じ屋台の夜鳴き蕎麦を食べ、提灯も持たずに暗い夜道をうろつく。

 同じ行動を何日か続けていれば、そのどこかで寅三郎が襲いかかってくるだろうと兵庫は予想していた。日々たどる経路の中に、勝負をするのにもってこいの場所をいくつも組み入れてある。本気で戦いを望んでいるなら仕掛けてこないはずはない。

「まさか、何も起こらないまま四日も過ぎるとは思いませんでしたね」

 並んで歩きながら、匡七郎が疲れた声で言った。彼は兵庫の背後にいつ現れるとも知れない寅三郎をいち早く発見するため、離れた場所から監視し続けるという気の張る役目を担っている。

「昨日は少し、何か……気配のようなものを感じたと思ったのだがな」

 兵庫がつぶやくと、匡七郎は真面目くさった顔をしてうなずいた。

「わたしも同じで、昨日は漠然と〝来る〟と感じていました。しかし現れなかったので、ならば今日だろうと。ひょっとして、やつは()()づいたのでしょうか」

()らしているのかも、な」

 敵の心中は量りがたかった。鉢呂(はちろ)砦であれだけのことを()って退()けた男が、今さら臆して二の足を踏むとも思えない。(いら)立たせるために敢えて様子見を決め込んでいるのだとしたら、それはある程度うまくいっていると言える。

 ふたりが玄関を入ると、家の奥から貞吉郎(さだきちろう)が飛び出してきた。紙包みを手にしている。

「兵庫どの、遅かったですな」

 待ちかねていたといった表情だ。

「使いが書状を持ってきましたぞ。鉢呂砦から〈天眼(てんがん)組〉経由で、夕方ごろ城に届けられたとか」

 居間で開いてみると、書状の差出人は第一隊で第二班の班長を務めている藍田(あいだ)信孝(のぶたか)だった。彼は石動(いするぎ)博武(ひろたけ)に命じられて江州(こうしゅう)へ行き、先ごろ立天隊が地上部隊との連携作戦を行った西木(にしき)城で鷹啄寅三郎に関する調査をしていたらしい。城砦には降服して捕虜になった江州兵や、落城した百武(ひゃくたけ)城から逃れてきた上士の一部がまだ留め置かれており、そのうちの何人かから寅三郎についての詳しい聞き取りをすることができたという。

 鷹啄寅三郎は江州南部の郷士の次男で、当年とって三十三歳。赤子のころから異質なほど体が大きく、平凡な顔貌(かおかたち)をした小柄なふた親のどちらにも似ていなかったことから、地元では〝鬼っ子〟と陰口を叩かれていた。

「餓鬼のころのおれは気短(きみじか)でな。虫の好かぬやつと感じるとすぐ殴るから、親きょうだいや村の連中との折り合いはよくなかった」

 一年ほど彼と同じ陣で働いたことがあるという足軽のひとりは、寅三郎が何かの折りに笑いながらそう生い立ちを語っていたと証言した。

 長じてからは田畑での仕事を嫌ってほとんど家に寄りつかず、しばしばひとりで山へ入っては気ままに鳥獣を狩るなどして、野生児のような暮らしを送っていたらしい。

 十二歳の時、彼は重大な転機を迎えた。領主主催の角力(すもう)大会に出て大人の部で優勝をかっさらい、大会に賓客として招かれていた有力武将の目に止まったのだ。十三歳でその人物の屋敷へ下男として奉公に上がり、主人の計らいで剣術道場へ通うようになると、彼は本人も思いも寄らなかった天稟(てんぴん)の素質を示すようになった。十六歳になるころには、道場で寅三郎に(かな)う者はひとりもいなくなっていたという。

 次の転機は十八歳の年改めの日に訪れた。百武城で開かれた御前試合で名だたる剣士六人を次々と倒し、優勝者に与えられる守笹貫(かみささぬき)家への出仕推薦を勝ち取ったのだ。その後、百武城の番士に取り立てられた寅三郎は長屋門に住まいを与えられ、勤めの合間に城内の稽古場へ通うことも許された。そこでも卓抜した実力を大いに発揮し、二年もしないうちに高弟と見なされるようになったまではよかったが、彼はそのころには周囲が鼻白むほどに思い上がっていたらしい。

 たしかに強いし、技は優れている。だがあの態度はどうだ。先輩を己よりも劣る者と(さげす)み、指南役のかたがたですら時に見下しているふしがある。他者を敬うということを知らぬ、無礼で傲岸(ごうがん)不遜(ふそん)なやつだ。おまけに何かにつけ乱暴で素行も悪い。あんなやつとはつき合いきれぬ。それが大方の意見の一致するところであり、寅三郎は仲間内で完全に孤立していたようだ。

 しかし本人はそんなことを気に留めもせず、目標に向かってひたすら邁進していた。その目標とは剣の腕を磨いて誰よりも強くなること。そして、さらに出世の階段を上ることだ。

 寅三郎は出世欲が強かった――と、彼を知る者はみな異口同音に話したという。

 寒村で畑を耕していた貧しい郷士の子が、腕ひとつで成り上がって名家に仕官するまでになったのだから、たしかに彼の人生はある種の出世物語とも見ることができる。寅三郎はそれを可能にした己の強さを誇り、ますます自惚(うぬぼ)れを強めていった。

 そして二十一歳になった折りに、最大の転機が訪れる。ずっと切望してきた出世の機会が、思いがけずもたらされたのだ。それを彼に与えたのは、三年のあいだ遠くから姿を垣間見ることしかなかった城主の守笹貫道房(みちふさ)だった。

 その日、剣術稽古を見物しにふらりと現れた道房公は寅三郎の技量にいたく感じ入り、彼を指南役のひとりに加えるよう師範に命じたのだ。稽古場ではみな憤憤(ふんぶん)となって不平を言い立てたが、御屋形の意向には逆らえるはずもない。寅三郎は城内稽古場の剣術指南役となり、同時に番手の組頭にも昇進して、その時点で望みうる最高の地位に到達した。さらに出世したいなら、あとは戦に出るなりして目覚ましい手柄を立てる以外にはない。むろん本人はそのつもりだったはずだ。

 それからしばらく経った盛夏のころに、彼は六車(むぐるま)兵庫と出会った。

 処刑された儲口(まぶぐち)守恒(もりつね)供人(ともびと)と見なされ、討伐命令が出ていた兵庫をもし討ち取ることができれば、大きな功績となることは間違いない。寅三郎は足軽大将率いる追跡部隊に加わって意気揚々と出かけていき、兵庫と戦って敗れ、負傷して惨めに百武城へと逃げ帰った。

 その傷も()えぬ間に、城の重臣たちは彼を御殿の大広間へ呼び出した。大失態を犯した新任の剣術指南役を、道房公の前で糾弾するためだ。

 藍田信孝にその時のことを話して聞かせた江州の上士によると、針の(むしろ)に座らされた寅三郎は、責任を逃れるために必死で言いつくろおうとしていたという。

 出会い頭に小者が倒され、次に馬上にあった上役が斬られた。ひとり残った自分は激しい斬り合いを繰り広げ、自らも傷つきながらも相手に深手を負わせた。だが(とど)めを刺す前に、形勢が悪くなったと見て六車兵庫は遁走し、懸命に追ったが逃げ切られてしまった――というのが彼の語った話だ。

「大嘘つきだ」

 兵庫が書状を読むのを黙って聞いていた匡七郎が、憤懣(ふんまん)やるかたないといった様子で声を上げた。

「逃げたのは自分のほうだったくせに。そうですよね?」

「そうだ」

 それに小者と上役を斬り殺したのも、寅三郎自身だった。逃げたことをあとで告げ口されないため、先回りして目撃者の口を封じたのだ。いま思うと、あの瞬間にそこまで頭が回ったのは大したものだと言わざるを得ない。

「まだ続きがある」

 兵庫は信孝の報告をさらに読み進めた。

 重臣たちが暑さに()だりながら寅三郎の自己弁護に耳を傾けていた詮議のさなか、誰もが思わずぎょっとするようなことが起きたという。話を聞いているのかいないのか、上段の間で虚ろな表情を浮かべたままずっとぼんやり(くう)を見つめていた守笹貫道房が、突然大きな音を立てて放屁したのだ。彼はその音でようやく我に返ったかのように真顔になると、やにわに立ち上がってまっすぐ歩き出した。

 全員が固唾(かたず)を呑んで見守る中、よろよろとした足取りで老人は寅三郎に近づいていく。何をするつもりなのかは誰にもわからない。やがて寅三郎のすぐ前で足を止めると、道房は平伏している彼の大きな右耳を力任せに(つま)み上げた。

 痛みに耐えかねて体を起こした寅三郎の上に深く屈み込み、彼は横に突き出たその不格好な右耳と、耳介を斬り落とされて平坦になった頭の左側とを()めつ(すが)めつしたあと、鼻に皺を寄せながらさも(いや)そうにこう言い放ったという。

「みともない」

 道房が寅三郎に向かって発した言葉はただそれだけで、叱責なのか、単なる感想なのか、近くで聞いていた重臣たちにも判然としなかった。だが言いたかったのが「見とうもない」にせよ「みっともない」にせよ、彼が不快感を露わにしたことは間違いない。重臣たちはそう結論して、(あるじ)の不興を買った寅三郎にお尋ね者を逃した失態の責めを負わせることにした。もともと城内であまり評判のよくなかった彼を(かば)ってくれる者は、ひとりもいなかったという。

 寅三郎は剣術指南役から外され、組頭の任もあっさり解かれて平番士に格下げとなった。歓喜の昇進からわずかふた月後のことだ。

「それからの寅三郎は何かに()かれたようになり、余暇をすべて費やして方々(ほうぼう)でおれを捜し回っていたらしい。じきに黒葛(つづら)家との戦が始まったが、やつは戦場(いくさば)でもずっとそれを続けていたようだったと」

「妄執ですな」

 腕組みをして聞いていた貞吉郎が、低く呻くように言った。

「哀れな男だのう」

「おれは断じて、同情などしませんよ」

 匡七郎が眉根を寄せながら、意地になったように言いつのる。

「敗北も負傷も降格も、ぜんぶ自分自身が招いたことじゃありませんか。それを認めたくないから、すべての災厄が兵庫さまのせいだと思い込もうとしているんです」

「だから哀れなのではないか。何よりも(たの)んでいた己の腕に裏切られ、消えぬ傷を体に刻まれ、一度は手に入れた出世も泡と消え、しかもそのことを潔く受け入れられずに身勝手な遺恨を抱え込んでのたうち回っておるのだ。あまりにも救いがなかろう」

 養子にした甥に向かって噛んで含めるように言い、貞吉郎は重いため息をついて兵庫を見た。

「これはもう是が非でも、兵庫どのが引導を渡してやるよりほかありませんなあ」

 兵庫は黙ってうなずいた。

 彼の言う通りだ。疑問の余地はない。


 翌日も兵庫(ひょうご)(ひる)前から市中へと出かけた。今日こそ寅三郎(とらさぶろう)は現れるだろうか。

 いつものように七草(さえくさ)城近くの目抜き通りまでまっすぐに行き、しばらく周囲の店先をひやかしてから一膳飯屋に入った。茶飯と豆腐汁、煮染(にし)めを頼み、小上がりの一角で手早くかき込む。

 食後に麦湯をもらって飲んでいると、低い衝立(ついたて)を挟んだ隣の席に職人ふうの男ふたり連れが座った。

「おい、酒くれ」

 ひとりが注文すると、(あね)さん(かぶ)りの若い女将(おかみ)が笑った。

「いいんですか、六さん。昼間っから飲んで」

「飲まずにいられねえよ。普請場の近くで人斬りがあったんだ。さっき通りがかりに人集(ひとだか)りができてたんで、つい覗いちまってよゥ」

 兵庫は何気なく会話を聞いていたが、その男の連れが言った言葉ではっとなった。

「おれもちらっと見たが、文字どおりの矢場(やば)いありさまだったぜ」

 その瞬間、兵庫は弾かれたように立ち上がり、代金を置くや否や見世(みせ)の外へと走り出た。行き()う人を縫いながら通りを渡って横道へ入り、脇目もふらずに滝野(たきの)町を目指す。

 悪い予感が当たっているかどうかは、行ってみるまでわからない。そう思おうとしたが、心の中では〝やられた〟と確信していた。なぜ、こういうことが起こる可能性を考えておかなかったのか。

 堀にかかった橋を渡って、城下町の西に位置する滝野町に足を踏み入れると、普段とは異なる空気がはっきりと感じられた。大店(おおだな)(のき)を連ねる堀端から一本入った通りの角に、飯屋の客が話していた人だかりが見て取れる。

 慎重に近づいてみると、物見高い群衆が(たか)っているのはやはり〈糸目(いとめ)屋〉の前だった。表戸が内側から破壊されており、その残骸が見世(みせ)の外壁に立てかけられている。群衆の頭の上から覗くと、(むしろ)をかけて薄暗い土間に寝かされている遺体の足の先が見えた。三体並んでいるようだ。

 人々をかき分けて前に出ると、現場の検分を終えようとしていた役人のひとりが兵庫の黒い袍に気づき、先回りして声をかけてきた。

立天隊(りってんたい)のかたですか」

「いかにも」

 兵庫は戸口に近づき、店内の惨状を一瞥した。

「下手人は手配されている鷹啄(たかはし)寅三郎だろうか」

「はい、おそらく。女たちが言うには昨夜遅く、もう看板にしようかという刻限に大男の一見(いちげん)客が現れて、強引に上がり込んできたとか。追い出すわけにもいかずに少し遊ばせたところ、奥座敷へ連れ込んだ矢取女(やとりおんな)を斬り刻み、異変に気づいて踏み込んだ見世(みせ)の主人と男衆もめった斬りにして去ったとのことです」

 胃の腑を掴まれるような不快感をおぼえながら、兵庫はもうひとつ気になっていることを訊いた。

「この近くで、ほかにも何か事件が起きていないか」

 役人が怪訝顔になる。

「よくご存じで。夜鳴き蕎麦屋が斬り殺されているのが、運河沿いで今朝見つかりました。目撃した者はおりませんが……もしや、そちらも手配の男が?」

 兵庫は黙ってうなずき、再び店内に目をやった。

「少し中を見せてもらいたい」

 役人の許可を取って土間に足を踏み入れると、むっとする血なまぐささが鼻をついた。何かを引きずったような血痕が廊下の奥から伸びて仕切りを越え、射場の隅のほうに固まってうなだれている女たちのすぐ傍まで長く続いている。

 兵庫は射場には上がらず、土間に横たえられている遺体に近づいた。筵の脇から派手な柄の羽織が覗いているのは見世の主人、その横の大きな膨らみは男衆だろう。表戸に近い端には小柄な遺体があり、華奢(きゃしゃ)な爪先から女のものと知れた。それだけ見て誰なのかわかるわけではないが、容易に推測することができる。

 ゆっくりと屈み込み、筵をめくろうとした彼に、射場にいた女のひとりが鋭く警告を発した。

「見ちゃ駄目」

 切迫した声に、伸ばしかけた手が思わず止まる。

 顔を上げて視線をやると、青ざめた頬に涙で縞模様を作った若い矢取女が必死の面持ちで兵庫を見つめていた。

「あいつ、ひどいことをしていったんです」そう言うなり、新たな大粒の涙が彼女の両目にふくれ上がった。「千紗(ちさ)(ねえ)さんの顔――あんな……あんなにきれいだった顔に、ひ、ひどいことを」

 周りの仲間も(こら)えきれずに嗚咽(おえつ)をもらし始め、女はその中から這い出してくると、すがるように兵庫の袖を掴んだ。

「お侍さまのこと、千紗姐さんは〝名人の旦那〟って呼んでました。〝名人の旦那は、今日は来てくれるかしら。明日はどうかしら〟って、ほんとに毎日言ってたんです。だから、後生(ごしょう)ですから、今の顔は見ないであげて。きれいだった姐さんを覚えててあげてください。お願い」

 震える(かす)れ声でひと息に言って、彼女はわっと泣き崩れた。それにつられて、ほかの女たちの泣き声もひときわ高くなる。

 兵庫は胸がふさがるような苦しさをおぼえながら、懐から取り出した桐箱を板間に伏せている矢取女の前にそっと置いた。

「これを、亡骸(なきがら)手向(たむ)けてやってくれ」

 努めて穏やかに頼みながら、腹の中では己の愚かしさに(はらわた)が煮えくりかえりそうだった。

〝明日にでも渡してやろう〟などと――おれは大馬鹿者だ。

 役人への挨拶もそこそこに見世(みせ)を出ると、兵庫は再び見物衆を割って大通りへ戻り、七草(さえくさ)城に向かって足早に歩き出した。どこからか様子を見ていた刀祢(とね)匡七郎(きょうしちろう)が、事態の急変を悟ってすぐに近寄ってくる。

「兵庫さま」

「おれは城へ行く」猛然と足を進めながら言って、兵庫は横をついてくる彼を見た。「おぬしは急いで家に戻り、貞吉郎(さだきちろう)どのを椙野(すぎの)道場へ連れて行って(かくま)ってもらえ。あとをつける者をよく警戒し、くれぐれも行き先を突き止められぬようにな。二、三日で片がつくようにするから、それまで道場のかたがたと一緒に守りを固めていろ」

「承知」

 珍しく何も訊ねず、兵庫の腹案を詮索することもなく、匡七郎はすっと離れていった。

※連続エピソードとなる第四十五話は、明日12月29日に更新します。


聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 更新が待ち遠しい…!
[良い点] あああああ……悪い予感がしたんですよぉ!涙 兵庫さん、これはもう絶対負けられない!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ