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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第四章 戻れぬ橋
134/161

四十二 御守国御山・八雲 去りし者の記

 水月(すいげつ) 朔日(ついたち)から十六日にかけて開催された第十五回総会議で、半年あまりも空位となっている祭主(さいしゅ)位継承問題が話し合われ、十六歳の若巫女(わかみこ)(くれない)の即位が正式に承認された。

 決定までに半月以上もかかったのは、紅が祭主位を引き継ぐための三つの要件を満たしておらず、容認派と否認派のあいだで議論が沸騰したためだ。否認派の先鋒だった空木(うつぎ)宗司(そうし)は「秘術の相伝」がなされていないことに最後までこだわっていたが、天城(あまぎ)宗司をはじめとする容認派の巧妙な切り崩し工作により、会議終盤に否認派の一部が容認へと転向したことで大勢(たいせい)が決した。

 会議には参加していない奉職者たちのあいだでも意見はさまざまだったが、個人の見解はどうあれ、御山(みやま)の最高権威の座がようやく埋まってひとまず安堵している者は多いようだ。

 一方、内情など知る由もない一般の信徒たちは新たな祭主の即位を諸手を挙げて歓迎しており、いま御山は披露目(ひろめ)の時を待ちかねる人々であふれかえっていた。近く大祭堂で即位式が行われるという噂が広まったためで、一度入山した者はそれを見逃すまいと、参拝のあともみな山内に留まってしまうのだ。とても全員を宿房には収容しきれないので、残りの者には房舎の回りに簡易的な幕屋を設営して対応していた。祭宜(さいぎ)寮の奉職者はもちろん行堂(ぎょうどう)にいる修行者たちまで駆り出して信徒の案内や世話に当たっているが、まったく手は足りておらず、かつて経験しなかったほどの混乱状態が続いている。

 混乱しているのは、奧の院の主殿を再び開いて新しい主人を迎えた蓮水宮(れんすいぐう)も同様だった。

 祭主の代替わりに伴って、その身の回りの世話をする侍従衆の顔ぶれが慣例通りに一新されたまではよかったが、人数だけはそろっていても全員不慣れな者ばかりなので一向に仕事がはかどらずにいる。

 そもそもしきたりとはいえ、側仕えを丸ごと新顔に取り替えること自体が不合理なのだ。仕事の進め方を心得ている古参を、ひとりかふたり残しておけば万事がもっと円滑に進むだろうに。

 そんな不満を新米侍従たちの中で誰よりもつのらせているのが、祭主紅の鶴のひと声で侍従長に任命されてしまった小祭宜(しょうさいぎ)八雲(やくも)だった。


「無理」八雲はそう宣言するなり、にわかに立ち上がって逃げ出した。「もう無理だ」

 侍従の間に集まって仕事をしている者たちが、動揺も露わに背後でざわめく。それが聞こえないよう手で耳を塞ぎ、彼は肩からぶつかるように扉を出て猛然と歩き出した。廊下の向こうから来た歩哨の内宮(ないぐう)衛士が怪訝顔を向けてくるが、視線を横に逸らしてすれ違う。

 とにかく今は、一刻も早く奧の院から――いや、蓮水宮(れんすいぐう)から出たかった。人に取り囲まれず、あれやこれやと矢継ぎ早に質問を投げかけられない静かな場所で、ひとりきりになってゆっくり呼吸をしたい。だが廊下の端まで来たところで、追ってきた志賀(しが)祭宜(さいぎ)に捕まった。

「侍従長」

 袖を掴まれ、おろおろした声で呼ばれて、ぞっと首筋が(あわ)立つ。

「うへえ、やめてくれ」

 顔をゆがめながら呻き、八雲は彼の手を振り払った。

「その呼び名には寒けがするんだ」

「でも、もう決まったことですし」

 この野郎、融通を利かせろよ。思わず八雲が睨みつけると、志賀は首をすくめて縮こまった。

「す、すみません」

 ちょっと間抜けな下ぶくれのなすび(づら)が、たちまち潮垂(しおた)れる。それを見ると、悪いことをしたという後悔の念が急に湧いてきた。自分が祭主の侍従長などという迷惑な役儀に就かされたのは、べつに志賀のせいではない。むしろ彼は、八雲がその課役に困惑していることを知っており、大いに同情もしてくれている数少ない貴重な味方なのだ。

「悪かった」彼はすぐに謝り、ぺこりと頭を下げた。「八つ当たりしちまった」

「いいんです、当たっていただいても。事情はわかっていますし」

 さぞおつらいでしょうと言いたげな優しい目をして、志賀が鷹揚にうなずく。

「でも逃げちゃ駄目です。侍従長がいらっしゃらないと、わたしたちは何も決めようがないんですから」

「適当に話し合って、いいように決めてくれてかまわねえよ……」

 壁にもたれて悄然とうなだれながら、八雲は愚痴っぽく言った。

「おれだって、おまえらと同じぐらい何もわかっちゃいないんだ。なのに御膳所は祭主さまが何を召し上がるか毎日訊いてくるし、大祭堂にはお出ましの予定を訊かれるし、当の祭主さまからはしょっちゅうお呼びがかかるし、正直もう一杯一杯なんだよ。そのほかにも、やれ御髪(おぐし)がどうしたの法衣がなんだの、祭具がどこかへいっただの、なんだっていちいちおれのとこに訊きにこなきゃならないんだ」

「それは……侍従長は奧の院の総差配役ですし」

「そこから間違ってるよな。なんでおれなんだ。おかしいだろう」

「おかしいですか?」きょとんと小首を(かし)げている。本気で疑問に思っているらしい。「八雲祭宜は前代白藤(しらふじ)さまの側仕えをなさっておられたので、わたしたちの中ではやはりいちばん奧の院の仕事を心得ていらっしゃいますし、適任だと思いますよ」

「そう、それも引っかかってるんだ。代替わりの時に前代の側仕えは全員解任される決まりじゃないのか。なんだって、おれだけ残されたんだと思う」

 八雲が内宮入りをしたのは昨年の晩秋で、前代に仕えていたのはほんのふた月ほどのあいだだけだった。そんな短期間で侍従職に精通などできるはずもない。卑下するわけでも謙遜でもなく、祭主白藤が亡くなった時点の自分に、慣例を破ってまでひとりだけ留任させるほどの技量や知識が備わっていたとはとうてい思えなかった。

「なぜと言うなら、八雲祭宜が(くれない)さまのお気に入りだから――じゃないでしょうか」

 悪気はないのだろうが、志賀の無邪気な言葉を聞いて八雲は気が萎えるのを感じた。人に気に入られるのも良し悪しで、中にはそれを迷惑だと感じてしまう相手もいる。八雲にとって紅はそういう存在であり、できることならばあまりかかわらずにいたかった。

 そもそも、彼女がほんとうに自分を気に入っているのかどうか、そこからしてよくわからない。前代に仕えていたときにはほぼ接点がなく、たまに宮殿の中で姿を見かけるのがせいぜいで、あの惨劇の朝までは言葉を交わしたことすらなかったのだ。

 だが祭主の殺害現場となった寝間で保護した時から彼女は急に親しげになり、その後何かというと声をかけてくるようになった。普通ならば光栄の至りと(おそ)れ入るところなのだろうが、どうしてもそんなふうには思えない。

 きっと何か裏がある――。

 八雲の中に芽生えた猜疑心は日を追うにつれて()り固まり、最近では紅にかかわることすべてが怪しく感じられるようになっていた。

 即位を阻止することはできなかったが、それにかかわる陰謀を解き明かして白日の下にさらすという決意は今も揺らいでいない。これまでに判明した疑わしいところを(つつ)いて、ひとつずつ解き明かしていきたいと思っている。だが侍従長になったとたん、そんなことをしている暇はまったくなくなってしまった。

「おれにはこの役目は荷が重いし、とにかく忙しすぎるんだよ……」

 はあとため息をつく八雲を、別の歩哨がまた通りすがりにちらりと見ていく。廊下の隅でひそひそと言い合っている様子が、いかにも奇妙に映るのだろう。

「ちょっと、そこへ入りましょう」

 奇異の視線を向けられているのを察したのか、志賀が手近な戸を開けて八雲を中に押し込んだ。その部屋は現在使われておらず、広い板間の奧側にだけ八畳ほどの畳が敷かれているのみで、ほかに調度らしきものは何も置かれていない。もったいない話だが、奧の院の主殿にはこういった空き部屋が無数に存在している。

 ふたりは窓の傍へ行き、障子紙を通して入る淡い光の中で向かい合って腰を下ろした。使わずとも宮殿仕えの奉職者の手で毎日掃かれ、拭き清められている床板には塵ひとつ落ちていない。

「わたしが思うに――」

 志賀はうつむいている八雲の顔を覗き込むようにしながら、妙に確信ありげな口調で話を切り出した。

「おひとりで仕事を抱え込みすぎなのですよ」

「そうかあ?」あまりに意外で、軽く声が裏返った。抱え込んでいるつもりはない。「むしろ、できるだけ逃げようとしてるんだがなあ」

「でも逃げ切れなくて、結局は全部ご自分のところで処理されているでしょう。近くでずっと見ているわたしが言うのだから間違いありません。忙しくて、いくらやっても仕事が終わらないのはそのせいです」

「全部引き受けたくはないが、おれのとこに集まってくるんだからしょうがないだろう。そういう貧乏くじを引くのが総差配役ってもんじゃないのか」

「それは違います」

 昇山(しょうざん)前はそこそこの規模の呉服屋のせがれだったという志賀は、〝大店(おおだな)における番頭の役割〟について話した。

 曰く、総差配役は商店でいえば番頭である。番頭は大勢の使用人を統率して商いの一切を取り仕切るが、仕入れから掛け取りまですべて自らこなすわけではない。適材を適所に配置して動かし、意見や助言を求められれば与え、業務が滞りなく行われているか常に目を配るのがもっとも重要な役割だ。

 ふだんの遠慮がちで自信なさげな様子とは打って変わり、きりりと表情を引き締めて語る彼に少し気圧(けお)されながらも、八雲は真剣に話に聞き入った。

「要は項目ごとに担当を決めて、ある程度まで任せてしまえばいいのですよ」

「なるほど。で、おれは偉そうな顔して鼻でもほじりながら、みんなが働くのを見張ってりゃいいのか?」

 そんな役得が許されるなら、重すぎる肩書きを背負うのもそう悪くはない。

「ざっと書き出してみましょう」

 志賀は八雲の(よこしま)な期待のこもった問いをさらりと黙殺して、懐から小型の帳面と矢立を取り出した。驚いたことに、常に筆記具を携帯しているらしい。

「祭主さまのお食事について」

 しゃべりながら床に帳面を広げ、小筆に墨を含ませる。

「日ごろ、どんな手順をこなしていらっしゃいますか」

「まず朝いちばんで、その日使える新しい食材の報告が御膳所から届く」

 促されるまま八雲が手順を並べ立て、それを志賀が几帳面な小さい字で帳面に書き入れた。


  食材の報告を受ける

  午餐、夕餉の献立を考える

  祭主さまのご意向を伺う

  ご要望があれば献立案を修正

  御膳所と協議

  最終案に祭主さまの裁可をいただく


「ここまでは――」

 志賀はそう言いながら、最後の行の前に縦線を引いた。

「侍従長がなさる必要はないと思います」

「最終確認だけってのは、ちょっと怠けすぎじゃないか」

「お食事のことだけならそうですが、ほかの各項目すべてで確認の任を負うとなると、それなりに手間も暇も取られるでしょう。合間に祭主さまからのお呼び出しや、宗司(そうし)がたとのお打ち合わせなどもあるわけですし」

 言われてみれば、たしかにそうだ。こうやって整理されてみると、誰でもできるような仕事まで、あれもこれもひとりで背負い込んでいたのがわかる。とにかく目の前のことを片づけていこうと必死で、ほかの者に振り分け、信頼して任せるという視点は完全に欠けていた。だからすぐ手一杯になって、こんなふうに逃げ出したくなったりするのだ。

「とことん追い詰められたら、その都度目についた者に投げてみたりはしてたつもりなんだけどな」

「真面目なんですねえ」

 志賀が人の()さそうな顔をして、にこにこと言う。

「歴代の侍従長も、きっと配下の者たちを上手に使っておられたと思いますよ。前任者にこつをお訊きになってはどうですか」

三方(みかた)祭宜はもう御山(みやま)にいないんだ。伝道に出ると言って山を下りちまった」

 筆記具を片づけていた志賀が、ぎょっと目を丸くする。

「かなりお年のはずでは」

「七十一歳だったかな。在任期間も長くて、侍従時代も含めると三十年近く務めたはずだ。それだけに白藤さまへの思い入れも強かったみたいで、亡くなったあとはだいぶ気落ちしてたよ」

「御年七十を過ぎての伝道は過酷でしょうに……。でも白藤さまのおられない御山には、もういたくないと思われたのかもしれませんね」

「いつもむすっとして気難しそうな爺さまに見えたが、祭主さまとは気持ちが通じ合ってる感じだった。もっといろいろ話を聞いておくんだったな」

 八雲はうなだれて首を振り、深く嘆息した。

「おれはいっつもこうなんだよ。その時には気づかなくて、あとから〝ああしておけばよかった〟と思うことばかりなんだ」

「わたしもそうですよ」

 年下に気を使わせて悪いと感じながらも、八雲は志賀の思いやりにささやかな安らぎをおぼえた。

「おまえって、いいやつだなあ」

 それに、意外と有能だ。

 実直だが臆病で、いまひとつ頼りにならない男だと思っていたが、どうやら一側面しか見えていなかったらしい。

「助言に従って、さっそく仕事を割り振ることにするよ。今日のうちにも担当を決める」

「それがいいと思います」

「衣裳のことは、おまえに頼むからな」

 志賀の表情が強張(こわば)り、肌が色を失った。

「えっ……いや、それは……」

 早くもしどろもどろだ。先ほどまであんなに自信たっぷりに話していたくせに。八雲は笑い出さないように(こら)えながら、彼の目をじっと覗き込んだ。

「なんだ、(いや)なのか」

「決してそのような――ですが、その、わたしには分不相応で、つ、務まるかどうか」

 びくついている。仕事がいやなのではなく、仕事を通して祭主と密接にかかわることになるのが怖いのだ。少し前に、八雲は彼から紅のことが苦手だと打ち明けられていた。

 衣裳の係になれば、祭主が身につけるものすべてを管理し、新しく手配もしなければならないので、当然ながら着用する本人との会話や接触の機会は大幅に増えることになる。それを想像しただけで青い顔をしているようでは、たしかにとうてい務まらないだろう。

「任せようと思ったのになあ」

 わざと落胆を匂わせてやると、志賀は狼狽で目をうろうろさせた。

「申し訳ありません。でも、どうかご勘弁を。ほかのことなら、なんでもお手伝いしますから」

 手を揉み絞りながら必死の面持ちで懇願する彼に、八雲はにやりと笑みを投げた。

「よし、わかった。じゃあ、おまえには侍従次長を務めてもらう」

 一拍置いて、志賀が何とも言えない表情になった。

「えええ?」

「なんでも手伝うと言ったじゃないか」

「で、でも――」

「補佐役の次長を早く選ぶよう、空木(うつぎ)宗司からせっつかれていたんだ。これで解決だな」

 志賀は唖然となり、それから唇を噛んで低く唸った。はめられたと感じ、恨めしく思っているだろう。あまりいじめすぎないほうがよさそうだ。

 八雲は表情を改め、真剣な口調で言った。

「おれには相棒が()るんだ。おれを助けてくれる、信頼できるやつが」

 志賀は床を見つめてしばし考え込み、ようやく顔を上げると、不安と迷いをにじませながらのろのろ口を開いた。

「わたしで……お役に立てるでしょうか」

「さっきみたいにやってくれればいいんだよ。おれに見えてないことを指摘したり、問題の解決策を提案したり」

 若者はまた少し考え、ごくりと唾を呑んだ。ついに腹が決まったようだ。

「それなら、あの、やってみます」

「よし、決まった!」

 八雲は景気よく言って、彼の肩をぎゅっと掴んだ。あまり強すぎず、だが前言撤回はもうさせないぞという思いが伝わる程度に力を込めて。

「よろしく頼むぜ、次長」


 少し雲が出てきた午後遅く、八雲(やくも)はなんとか時間を作って黒書院へ出向いた。空木(うつぎ)宗司(そうし)に次長決定の報告をするためだ。序列筆頭宗司との気の張る面談を終えて奧の院へ戻る途中、彼は殿舎の西側へ回って記録所に立ち寄った。そこには御山(みやま)の運営にかかわる文書がすべて保管されている。

「おや侍従長」

 いつも通り、真っ先に声をかけてきたのは記録所を統括している九重(ここのえ)宗司だった。

 大身武家出身だが二十の歳に勃然(ぼつぜん)と信仰を得て昇山(しょうざん)し、唱士(しょうし)として十年間奉職したのちに一から修行をやり直して祭宜(さいぎ)へ鞍替えしたという、いささか変わった経歴の持ち主だ。宗司に叙任されるまではずっと御山の外にいたそうで、山に戻ってくる直前の八年間は天山(てんざん)で祭堂の堂司(どうし)を務めていたらしい。

 外にいた期間が長かったからというわけでもないだろうが、堅苦しいところのあまりない物腰柔らかな好人物で、八雲は十二宗司の中で彼がもっとも話しやすいと感じている。

「今日は何をお探しかな」

 書庫から出てきた彼に問われ、八雲は侍従長の職務記録が見たいのだと話した。

「歴代の侍従長が書き記した日誌が保管されていると思うのですが」

 八雲自身も書いている。一日の仕事を終えたあと、いつも唸ったり頭を抱えたりしながら。文章を綴るのは昔からあまり得意ではない。

「自由に閲覧できるのでしょうか」

「もちろん、できるよ」

 九重はにこやかに言って、八雲を書庫の中にいざなった。そろそろ六十の坂を越えようという歳のはずだが、足運びは軽々としていて若者のようだ。

「たくさんあるが……」彼は部屋の奥まで行き、大型書棚の前で足を止めた。「どの侍従長の日誌を見たいのだろう」

「じつを言うと、どなたのでもいいのです。大層な肩書きをいただいたものの、どう仕事を進めればいいのか見当もつかないので、前任者たちの手記から何か手がかりを掴めないものかと思いまして」

「それは勉強熱心なことだ」

 九重は感心したように言って微笑み、書棚の中段にずらりと並ぶ青い表紙の本を手で示した。

「歴代侍従長の日誌は、すべてここに収められている。記録さえ残せば、好きに持ち出してかまわぬよ」

「助かります」

 ほっとする八雲に、九重はどことなく意味深な目つきをしてみせた。

「前代の三方(みかた)侍従長は任期が長かったし、退任のころにはだいぶお年を召されていたから、彼の記録を参照するなら最近のものではなく、十年ぐらい(さかのぼ)ったあたりを見たほうがいいかもしれない」

「はあ、なるほど。ありがとうございます」

 いまひとつ呑み込めないまま謝意を示し、八雲は三方祭宜の手になる侍従長日誌を五冊借り出して自室へ持ち帰った。

 祭主(さいしゅ)の侍従衆は宮殿の西にある殿舎〈(さい)の院〉に住み、当番時のみ奧の院に割り当てられた部屋で起居する決まりになっている。だが侍従長だけは、奧の院の中に二間続きの居室が与えられていた。

 棚や机などの調度が置かれた広い前室はいわば執務室で、侍従長に用のある者たちが昼夜を問わず訪れる。本当の意味で自室と思えるのはその奧にある、自分しか立ち入らない慎ましやかな四畳半の寝室のほうだけだった。わずかな手回り品を入れた行李(こうり)と寝具があるのみで、寝起きする以外に何するほどの余裕もない小部屋だが、これまで個室というものに縁のない生活をしていた八雲にはそれでも充分にありがたく思える。

 前室に入った彼は文机(ふづくえ)の前にどかりと腰を下ろし、借り出した日誌をさっそく開いてみた。短いながらも共に仕事をする中で見覚えた、三方祭宜の流麗な文字が少し懐かしく感じられる。

 比較的新しいあたりの記述を見ると、九重宗司の助言の意味はすぐに理解できた。儀式や祭祓(まつり)などの特別な行事がある日でもないかぎり、ほとんどは「常の如く出仕した」という定型の一文しか書かれてないのだ。あまりにも同じ仕事を長く続けていると、すべてに慣れっこになってしまい、特筆すべきことを見つけ出す感覚が鈍るのかもしれない。

 もっとも古い一冊を開いてみると、そちらでは打って変わって充実した記述を見いだすことができた。日々の出来事や業務における懸案事項などが細かく綴られており、時には祭主との会話の内容や、三方祭宜自身の個人的な思いなどが長々と書き連ねられていることもある。こうした文章の中には、八雲の仕事に役立つこともいろいろと含まれているに違いない。日誌を参照してみるという思いつきは、まさしく図に当たった。

 時間があるときに、ゆっくり読んでみよう。そう思いながら壁際の棚に立て並べていき、仕事に戻るために頭を切り換えようとして――八雲はふと最新の一冊を再び手に取った。

 ぱらぱらと紙をめくり、目当ての日付を探す。


  皇暦(こうれき)四二二年端月(たんげつ)朔日(ついたち)

   祭主白藤(しらふじ)さまご崩御


 妙に淡々とした、それゆえになおさら哀切感が際立つように思えるその一文が、三方祭宜の最後の記述だった。

 書いたのは事件があった日ではなく、数日経って宮殿内のごたごたが多少落ち着いてからだったはずだ。にもかかわらず詳しい記述がないのは、おそらくそれを記すことができないほど、祭主の突然の死にまだ心が乱れていたからだろう。

 後に続く空白の紙面を見つめ、なんとなくしんみりした気持ちになった八雲は、一枚めくって前日の記述に戻ってみた。

 年改めを翌日に控え、儀式の準備に忙殺されたであろう皇暦四二一年晩月(ばんげつ)晦日(みそか)の記述は、新しいものの中ではもっとも文量が多かった。この日、三方祭宜は早朝から儀式のための手配や各職寮との打ち合わせに追われ、ろくに食事をする時間も取れなかったようだ。

 数か月後にもまだこの肩書きを名乗っていたら、今度はおれが同じようにてんやわんやの一日を過ごすことになるわけだ。その時には、ここに書かれていることが多少なりとも手助けになるかもしれない。

 そんなことを考えながら文章を読み流していた八雲は、終わりに近いある行で目を止めた。

 晩月晦日の夜、祭主は侍祭(じさい)を務める序列筆頭の宗司ひとりのみ伴って大祭堂の祭殿に上り、来る年の吉凶などを神に問うべく〈尋聴(じんちょう)〉を行う習わしとなっている。その部分に、三方祭宜はこう記していた。


   祭主さま、晦日の尋聴の儀に臨まれる

   侍祭役空木宗司、(にわか)にご多忙との(しら)

   慣例とは異なり天城(あまぎ)宗司が侍祭を務められた


 そういえば、前にそんなことをちらっと聞いたような気もする。だが、たいして意味のあることとも思わず今の今まで失念していた。

 祭主白藤はその夜の尋聴で、若巫女(わかみこ)(くれない)を次代の祭主とするべしという〈神告(しんこく)〉を得た――とされている。そう証言したのは他ならぬ天城宗司で、彼の言葉が紅を祭主の地位へと押し上げていく出発点になった。なにしろ亡き祭主から神告の内容を聞いた人間は天城しかいないのだから、ほかの者たちはたとえ疑念があろうとも、ひとまずそれを手がかりとして継承の手続きを進めていくしかなかったのだ。

 だが本来ならば、侍祭として(はべ)るのは空木宗司のはずだった。果たしてその場合でも、次代は紅であるという神告は下っただろうか。

 八雲は腕組みをして、字面を睨みながらじっと考え込んだ。

 空木宗司が〝俄にご多忙〟になった経緯を知りたい。できれば、代理の侍祭が序列二位の雲居(くもい)宗司ではなく、なぜか三位の天城宗司だった理由も。

 探れば探るほど、調べるべきことが増えていく。

 以前ほど自由には動き回れない身になってしまったことが、今さらながらに悔やまれた。山積している仕事の傍らで、疑問に思ったことをすべて掘り返して回る暇など持てるはずもない。もう少し身軽で、かつ信頼の置ける誰かを仲間に引き込めたらとも思うが、そんな人物を宮殿内で見つけ出すこと自体が途方もない難題だ。危険も伴う。

 やっぱり、ひとりでこつこつやるしかねえか――と思いながら日誌を閉じかけ、彼は晦日の項をまだ少し読み残していることに気づいた。尋聴の儀に関する部分のあとにも、ほんの数行だが記述が続いている。


   ご寝所に入られた祭主さまが、若巫女青藍(せいらん)さまとの接見をご要望

   北の院より青藍さますでにご就寝との返答あり

   ならばよしと祭主さまはおおせられ、あの子は明朝いちばんに来るからねと微笑まれた


 くしゃっと乾いた音がして、はっと我に返った。見れば紙面に皺が寄っている。本の開きを押さえていた指に、文章を読みながら知らず知らず力を入れていたようだ。

 八雲はあわてて紙をなでつけ、日誌を閉じながら低く唸った。

「なんてこった……」

 祭主は尋聴の儀式のあと、青藍に会おうとした。神告により次代と定められた――と天城宗司が主張する――紅にではなく。

 今日までこんな話はどこからも聞こえてはこなかった。非常に重要なことに思えるのだが、三方祭宜は日誌に書いただけで誰にも話さなかったのだろうか。

 いや、重要だというのはおれの考えすぎか。白藤さまは単に、日ごろから可愛がっている若巫女の顔をちょっと見たくなっただけかもしれない。夜中にいきなりというのはたしかに変だが、まあそういうこともあるだろう。神告で告げられた次代の名が紅ではなく、じつは青藍だったとか、一刻も早く本人にそれを伝えたくて呼び出そうとしただとか――そんなのはきっと、おれの的外れな勘繰りに過ぎないはずだ。

 自分にそう言い聞かせて(はや)る心を抑えようとしたが、とても無理だった。なんとなく、これですべての辻褄が合った気がする。

 八雲は立ち上がり、ぐるぐると部屋の中を歩き周りながら考えをめぐらせた。

 神が告げた次の祭主は、ほんとうに青藍だったのかもしれない。白藤さまは譲位をすぐに伝えるつもりだったが、もう寝てしまったと聞かされてあきらめた。なぜなら、急がずとも青藍は翌朝〝いちばんに来る〟からだ。八雲はその場にいたから知っているが、実際に彼女は夜も明けきらないうちに、呼び出すまでもなく祭主の寝間に現れた。「年改めのご挨拶をしたかったの」と、そう言っていたような気がする。祭主はそれを予期していた――ということは、青藍がいちばん乗りで挨拶に来るのは毎年恒例のことだったのだろう。そのことはおそらく祭主だけでなく、蓮水宮(れんすいぐう)で長く暮らしている者ならみな知っていたはずだ。

 だから彼女は罠にかけやすかった。

 あの朝、祭主の命を奪うと決めていた何者かは、青藍の存在をその計画に織り込んでいた。挨拶にやって来ただけの何も知らない彼女にまんまと罪を着せ、証言できないように一眞(かずま)に御山の外へ連れ出させたのだ。結果的に、いずれ邪魔になるかもしれない祭主位の真の継承者をも排除できたわけで、まさに渡りに船といったところだろう。

 八雲は足を止め、ふうっと大きく息をついた。喉がからからで、頭が熱っぽい。彼は床置きしている盆の上の急須から冷めた渋茶を湯呑みに注ぎ、ひと息に飲み干した。

「伝えたのかな……」手で唇をぬぐい、ぽつりとつぶやく。

 祭主は亡くなる直前、わずかな時間だが部屋で青藍とふたりきりになったはずだ。前夜からその時を待っていたのだから、彼女に次の祭主はおまえだと告げたと考えるのが自然だろう。とすると、宮殿内でいくら探しても見つからなかった〈玉驗(ぎょっけん)〉もまた、殺害の前に青藍の手に渡ったと考えていいのではないか。

 次代の祭主たる彼女は譲位を告げられ、継承の要件である秘術と共に玉驗を授かったが、そこへ暗殺者が現れて白藤の喉を切り裂き、青藍は動揺のあまり一眞のなすがままになってさらわれてしまった。

 いや――。

「違うな」

 床にしゃがんだまま独りごちて、彼は考えを修正した。

 八雲が祭主の朝餉を持って戻った時、寝間から出てきたのは青藍ひとりだった。衣を血まみれにして、べそをかき、必死の形相で駆け出してきた彼女と危うくぶつかりそうになったのを覚えている。まず青藍が自らの意思で逃げた。それを追って、次に一眞が飛び出してきた。

 あの時、おれは祭主さまが心配ですぐ寝間へ入っちまったけど、ふたりのあとを追うべきだったのかもしれない。そうしていれば、少なくとも青藍はまだ生きて御山にいただろう。

〝生きて〟――ごく自然にそう考えた自分に慄然(りつぜん)となり、ぶるっと身震いが起きた。

 だが、いま思い描いた通りのことが起きたのだとしたら、一眞が青藍をそのまま生かしておいたとは考えづらい。おそらく彼は、あの小さな若巫女を人知れず始末してから帰山して、捜索に出たが見失ったと報告することになっていたのだろう。

 ところが、ご苦労さまと出迎えてくれるはずだった天城宗司は彼を裏切り、衛士ふたりを使って口封じをしようとした。危うく難を逃れはしたものの、きっと一眞は(はらわた)が煮えくりかえったに違いない。しかしどんなに怒っても、卑劣な計画に荷担したことを悔やんだとしても、すべて後の祭りだ。彼が再び御山へ戻って裏切り者に復讐したり、死なばもろともと陰謀を暴露したりする日はたぶんこない。

 八雲は両肩を落とし、深く嘆息した。

 日誌を手がかりにして、ずいぶんと想像――妄想か――をたくましくしたが、もしこれがほんとうに真実に近いならあまりにも悲痛だ。

 清廉な慈愛の人だった祭主は無惨に殺され、無垢な若巫女は覚えのない罪を着せられた上に命までをも奪われた。そして天門信教(てんもんしんきょう)の全信徒が欺かれて、いま偽物の祭主を崇めさせられている。

 誰がこんなことを企んだのだろう。計画を成し遂げて、もっとも得をしたのはいったいどいつなのか。

 天城宗司か。

 おれが知らないほかの誰かか。

 あるいは……紅――。

「侍従長」

 背後から突然呼ばれ、八雲は文字どおり飛び上がった。

「こちらにおいでですか」

 ぎこちなく振り返ってみると、入り口の戸は閉まっていた。外に侍従の誰かが来ているようだ。

「いるよ。何か用か」

 引き戸を開けて顔を覗かせたのは、祭宜寮にいたころからの顔なじみで八雲よりも何歳か若いが、一年早く内宮(ないぐう)入りした青葉(あおば)祭宜だった。ふくふくしい丸顔で奧目の彼女は一見おっとりして見えるが、頭が切れて目端が利き、納得のいかないことがあれば宗司がたにも物申しに行くような豪胆さを持っている。

「祭主さまが広間でお呼びです」

 またか。呻き声を噛み殺し、八雲は肩ごしにうなずいてみせた。

「わかった」

「具合でもお悪いのですか」

 思いがけない問いを投げられ、彼は(いぶか)りながら青葉のほうを見やった。

「なんだって?」

「ふだんは戸を閉ざしてこもったりなさらないから。お顔の色も冴えないようですし、どこか痛むか、悩みごとでもあるのかと思ったんです」

 心配してくれているようにも、探りを入れているようにも聞こえる――なに言ってんだ馬鹿、やめろ。しっかりしねえか。びびって周りを疑いだしたらきりがないぞ。おまえは探りを入れる側なんだ。あくまで冷静に、何気ない素振(そぶ)りで。それを常に忘れるな。

 八雲は自分を叱咤して、無理に笑顔を作った。

「どこも悪くない。気づかいさせてすまん」

「何か手伝えることがあったら言ってくださいね。志賀(しが)祭宜ほどじゃないけど、わたしもけっこう役に立ちますよ」

 その口ぶりで、彼女の腹の中がなんとなく読めた。自分よりも年下で、何ごとにも消極的な志賀がいきなり侍従次長に選ばれたことに驚き、釈然としないものを感じているのだろう。彼女は自分の優秀さをよく知っていて、それを他者にも認めさせたがっている。

 少々鼻につかなくもないが、上昇志向はそう悪いことでもない。

「じゃあ、さっそく仕事を頼んでいいか」

「ええ、もちろん」小粒な目の奧がきらりと光る。「なんなりと」

「祭主さまのご健康を管理する係を任せたい。これまではおれがやってたけど、ほんとは女性同士のほうがお体の話はしやすいと思うんだ。きちんとお食事をされているか、睡眠は充分取れているか、お熱や咳、疲れや痛みなどはないか、最低でも朝夕の二回、直接ご本人にお伺いして記録をつけてくれ。違和感がある時にはおれに知らせてくれれば、薬療院から療師(りょうじ)を呼ぶかどうか判断する。違和感に気づくためには、祭主さまのご様子を日々近くで注意深く観察することも大事だぞ」

「やります。任せてください」

 よし、これでまたひとつ、負担が大きい上に苦手でもある仕事を手放せた。なるほど、こういうふうにやればいいんだな。

「補佐役をひとりつけるから、明日中にこれと思う候補を何人か選んでくれ。その中からおれが決める」

「わかりました」

 八雲は部屋を出て彼女と別れ、祭主が待つ広間へ向かった。

 ひとりになると、青葉に邪魔される直前の思考が舞い戻ってきて、知らず知らず歩調が鈍くなる。

 これほど大きくふくれ上がった疑念を抱えたまま、紅に会うのは気が重かった。だが、このまま引き続き陰謀の真相に迫っていくつもりなら、彼女とはいずれ必ず対決する時がくる。今から及び腰になってはいられない。

 広間の扉を開ける前に呼吸を整え、八雲はもう一度心の中で唱えた。

 あくまで冷静に、何気ない素振りで。

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