四十 別役国北部・青藍 真の名前
「じゃ、あばよ」夜斗はそう言って、あっさり青藍に背を向けた。「達者でやんな」
ずぶ濡れのまま夜通し歩いて山を下り、すっかり日が高くなってからようやく麓の集落へ出た直後のことだ。
山裾の森と水が張られた田んぼの境に佇み、青藍は去っていく夜斗の背中を見ながらしばし茫然となった。別れを告げたあと、彼は振り返ることすらせずに速い足取りで畦道を歩いている。このままでは、すぐに姿が見えなくなってしまうだろう。
そこではっと我に返り、あわてて後を追った。
「待って、夜斗さん、待って!」
走りながら必死になって呼んでも、夜斗が足を止める様子はない。
「お願い、行かないで」
懇願してさらに走る速度を上げ、青藍はついに彼に追いついた。うしろから腰にしがみついて引き留め、荒くなった呼吸を急いで整える。
「なんだ、てめえ。触んなよ」
取りつく島もないほど冷たく言って、夜斗は青藍の手を振り払った。
「ついてくんじゃねえ」
「どこへ行くの?」
訊きたいことはいろいろあったが、真っ先に浮かんだ問いはそれだった。夜斗は機嫌の悪そうな顔をして、無言のまま青藍を睥睨している。
「ねえ、どこへ行くの」
重ねて問うと、彼は面倒くさそうに鼻を鳴らした。
「どこ行こうが、おいらの勝手だろ」
「わたしも、あの、い、一緒に――」
冷ややかな視線を浴びせられて萎えかけている勇気を奮い起こし、青藍は両手を揉み絞りながら言った。
「一緒に行きたいです」
「やなこった」
ばっさり切り捨てて踵を返し、夜斗は再び歩き出した。先ほどよりもさらに足の運びが速い。自分よりも上背があり脚も長い彼にこんな調子で歩かれたのでは、長い距離をついて行くことなど絶対にできないだろう。
心細くなって半べそをかきながら、それでも青藍は懸命に彼を追い続けた。奇妙なふたり連れに見えるのか、田んぼで働いている人たちがちらちらと視線を送ってくる。
広い田園地帯の中を通り抜けていくと、やがて行く手にこんもりとした森が現れた。巨木が生い茂っていて中は薄暗く、どことなく気味の悪い雰囲気が漂っている。だが夜斗が迷わず林道へ分け入っていったので、なすすべなく青藍もそのあとに続いた。
「夜斗さん……」
遠慮がちに呼びかけても、夜斗はこちらを見もしない。
一緒に〈二頭団〉の塒から命からがら逃げ出し、滝壺の水に身を浸しながら自由になった喜びを分かち合った自分たちは、当然その後も行動を共にするものと思い込んでいた。山を下りた途端に置き去りにされるなど、まったくの予想外だ。
青藍は、夜斗を見失ったら自分は終わりだと感じていた。御山を去り、下界で暮らし始めてすでに半年が過ぎてはいるが、その間ほとんど囚われの身だったようなものなので、この先どう生きていけばいいのか見当もつかない。自分が今どこにいるのかもよくわかっておらず、誰かにこの土地の名前を教えられたとしても、その情報を何かに活かせる気もしない。
ほんとに見放されちゃったら、どうしたらいいのかな……。
考えていると悲しくなり、目にじわりと涙がにじんだ。鼻水も垂れてきてしまい、あわててすすり上げる。
その音を聞きつけたように、夜斗が突然立ち止まって振り向いた。肩を揺らして大きく息をつき、険のある目で青藍を睨む。
「ちっ、しょうがねえな」
彼は口の中でつぶやくと、懐から膨れた巾着を引っ張り出した。口を締めている紐を解き、青藍の腕を掴んで引き寄せる。
ちりん、ちりんと音を立てながら、巾着から振り出された銭貨が彼女の手のひらに落ちてきた。
「めぐんでやるから、とっとと消えちまいな」
青藍はあんぐり口を開けて、夜斗のしかめ面を見上げた。
「お金、持ってたの?」
「持ってるわきゃねえだろ。寝床の穴を出る前に、賽の荷物からいただいてきたんだ。おめえ、金も持たずに逃げ出して、その先どうする心算だったんだよ」
返す言葉もない。逃げ出すことに必死で、その先のことなど考えもしなかった。下界では何をするにも金がいるということは、娼楼で働いていたあいだにしっかり学んだはずだったのに。
それに引き替え、夜斗はなんて賢くて冷静なんだろう。洞穴の中で大勢が殺し合いをしていて、足下にも死体が転がっていたのに、少しもあわてずに必要なものを持ち出してきていたとは。
「夜斗さん、すごい」
尊敬を込めて見つめると、夜斗はうるさそうに視線を逸らした。
「すごかねえ。おめえが間抜けなんだ」
吐き捨てるように言って、彼はおもむろに青藍の胸ぐらを掴んだ。乱暴に引っ張って顔を間近に突き合わせ、爛々と燃える目に凄みをきかせる。
「いいか、二度とつきまとうんじゃねえぞ。賽を殺ったおいらの手際を見ただろう。邪魔っけなちび女を一匹始末するくらい造作もねえんだからな」
彼は青藍を突き放し、長い髪を風になびかせてまた歩き出した。その背中がどんどん遠ざかっていく。
同じ場所に佇んだまま、ただ見送るしかできない青藍の両目から涙がこぼれた。なんとか保っていた気力が潰え、疲れ切った両脚から力が抜けていく。
彼女は地面にへたり込み、体を小さく丸めてむせび泣いた。
行ってしまう――この広い下界でおそらくたったひとり、わたしが今も生きてここにいることを知っている人。まだ友達ではないかもしれないけれど、仲間だと思っていた人。
一緒にいたいと願う人たちは、どうしてみんなわたしを置いていってしまうの?
祭主さまも、一眞も、〈ふぶき屋〉で優しくしてくれた治作おじいさんや三太さんや、白露さんも。みんな、みんないなくなってしまった。そして夜斗さんも——。
ここで別れたら、きっともう二度と会うことはできない。考えただけで、あまりに切なくて胸がつぶれそうになった。
「そんなのはいや……」
口の中に涙の味を感じながらつぶやき、青藍は重い頭をのろのろと持ち上げた。視界が涙で白くかすんでいて何も見えない。びしょ濡れの目元と頬を手の甲でごしごしぬぐうと、それまでまったく気づかずにいた道端の神祠がふと目に留まった。
彼女の腰までも届かないような小さい祠で、柱と背板と屋根しかない祭殿が石の土台に載せられているだけの粗末なものだ。闢神と闔神の絵像が背板に貼られているが、ひどく古びており、端のほうは半ば朽ちてぼろぼろだった。それでも詣でる人はいるようで、土台の上の盃には澄んだ水が満たされ、短い蝋燭の横に燃え尽きた香の灰が小さな山になっている。
青藍は四つん這いのままそこまで行き、膝立ちになって深く頭を垂れた。手を祈りの形に組み合わせ、平安を祈る短い祝文をゆっくりと三度唱える。
たったそれだけのことで、乱れていた心がすうっと落ち着いた。と同時に頭を覆っていた霧が晴れ、自分の気持ちがはっきりと見えてくる。
夜斗といたいのは心細いから、ひとりでは生きていけないからだと思っていたが、それは間違っていた。純粋に、彼との縁をこれで終わりにしたくないのだ。どんなに邪険にされても厭がられてもいいから、行けるところまで一緒に行きたい。お互いにもっと知り合いたいし、今はまださよならを言いたくない。
さっきは、そのことを伝えられなかった。次はちゃんと言わなくちゃ。
全身に力が戻ってくるのを感じ、青藍は己を鼓舞して立ち上がった。
追いかけよう。だいじょうぶ、間に合うわ。
すでに林道の先に人影は見えなかったが、彼女は追いつけることを信じて全力で駆けていった。
小半刻後、青藍は一度見失った夜斗の姿を再び見いだした。その間に彼がもし気まぐれに道を変えたり、屋内に入ってしまっていたりしたら、おそらく発見することはできなかっただろう。
だが彼は脇道に逸れることなく、森を抜けたあとも同じ道をそのままずっと歩き続けていた。さすがに疲れたのか、出発したころに比べるとだいぶ歩調が落ちており、青藍が追いつけたのはそのお陰もあったに違いない。
彼女が夜斗を見つけた時、彼は民家の軒先に向かって行くところだった。応対に出た家の者とやり取りを始めたが、知り合いという雰囲気ではないので、道を尋ねるか何かしているのかもしれない。青藍は田んぼの脇に生えている木の幹に隠れて、遠目に彼の様子を窺った。
夜斗が手振りを交えながら話すと、家の者は一度屋内に姿を消したが、ややあって出てきた時には小さな包みを持っていた。夜斗はそれを受け取って、代わりに何かを相手に手渡している。
用件はそれですんだらしく、軽く会釈を交わして再び道へ戻った彼は、すぐに包みを開けて丸い塊を取り出した。歩きながらそれを頬張っている。
お結びだわ。ううん、お餅かも。
青藍は隠れ場所から食い入るように見つめながら、彼が民家から食べ物を買ったことを確信した。
彼女はこれまで、自分で金を払って何かを購入した経験がない。一眞と旅をしていた時も必要なものの調達はすべて彼がひとりで行っており、売り買いしている現場を近くで見たこともなかった。
違う――脳裏で無意識に訂正する。一度だけ見たことがあったじゃない。あの時売られたのは〝自分〟だったけど。
わたしも同じようにできるかしらと思いながら、青藍は帯に挟んである銭貨を手探った。胃が痛むほどに空腹で、夜斗のように食べ物を手に入れたいのはやまやまだが、色形や大きさもさまざまな銭貨のどれをいくつ相手に手渡せば食糧と交換できるのか見当もつかない。
丸くて四角い穴が空いているこれは、どれぐらいのものと交換できるの? 長四角の板みたいなこれは?
手に持った銭貨をしげしげと見つめながら、青藍は眉根を寄せて考え込んだ。夜斗が分けてくれた時に使い方を訊いておけばよかったと後悔したが、今となってはもう遅い。
そこでふと気づいて顔を上げると、彼はすでにかなり遠ざかってしまっていた。ここでぐずぐず悩んでいると、また見失ってしまう。
食事のことを考えるのは後回しにしようと決意し、青藍は木の陰から飛び出してまた追跡行を再開した。
日が中天を過ぎ、湿り気のある風が吹き始めた昼下がり。
ずっと脇目もふらずに歩き続けていた夜斗が足を止め、離れてついていくだけで精いっぱいだった青藍はとうとう彼に追いつくことができた。そこは岩だらけの河原を行く谷間の道で、蛇行する川を挟んで高い崖が左右に迫り上がっている。
夜斗は水際へ行ってたっぷりと水を飲んだあと、崖下に緑陰を落としているモミジの木の根方でごろりと横になった。ここで少し眠っていくつもりらしい。
やっと話しかけられると思ったのに……。
遠くからその姿を見ていた青藍は、当てが外れて心底がっかりした。もし起こしたら夜斗はたちまち不機嫌になって、彼女の言葉になど耳を傾けてはくれないだろう。
青藍は頭を切り換え、この隙に自分も休んでおくことにした。近くで様子を窺って、彼が起き出す気配を見せたら急いで声をかけに行けばいい。
居心地のよさそうな場所を探す前に、彼女は川縁へ行って傷だらけの足を洗い、夜斗の真似をして腹いっぱいになるまで水を飲んだ。それで少しは空腹が紛れるかと思ったが、なぜか余計にひだるさが増したようだ。
速い流れの中には小指の半分ほどの大きさの小魚がたくさん泳いでおり、それを見つめていると口中に生唾が沸いてきた。焼き魚のいいにおいまで漂っている気がする。青藍は目を閉じて鼻をひくひくさせ、空気を嗅ぎながら顔を上流へ向けた。においがあまりに生々しいので、皮が香ばしく焼けた魚が泳いでくるのではないかとすら思える。
うっとりとため息をついて瞼を開くと、三間ほど向こうで釣りをしている老人と目が合った。彼は鼠色の小袖を着ており、大小の岩塊が点在する河原の景色と完全に同化している。今の今まで気づかなかったのはそのせいだ。彼の背後には焚き火があり、木の枝に刺した魚が何匹か焼かれている。
青藍の口元に浮かんでいた笑みが凍りついた。締まりのない表情をまともに見られてしまい、恥ずかしさで顔から火が出そうだ。
さっと目を逸らし、老人の存在も魚も見なかったことにしようと努める。だが、現実のものだとわかった焼き魚のにおいにはとても抗えそうにない。青藍はうつむいたまま考えに考えた挙げ句、いよいよ銭貨を使って買い物をしてみる決心をした。
立ち上がっておそるおそる近寄っていく彼女を、老人は何の感情も表さずにじっと見つめている。岩の上にちょこんと座って釣り糸を垂れた姿勢のまま、身じろぎひとつする様子もない。
「こんにちは」
勇気を出して挨拶すると、老人は軽くうなずいて何か口の中でつぶやいた。挨拶を返してくれたのかもしれないが、よく聞こえない。
「あの……焼いたお魚を売ってもらいたいんです」
青藍は帯から銭貨を取り出しながらさらに近づき、形状の異なる二枚を手のひらに載せて差し出した。果たして魚一匹分の値段に足りるだろうか。
「これで買えますか」
おずおず訊くと、老人は首を伸ばして銭貨をじっと見つめ、二枚のうちの一枚だけを取った。彼が選んだのは穴あきの丸い銭貨で、青藍の手の上には長四角のものが残っている。
老人は金を懐に仕舞うと、やおら立ち上がって釣り道具を片づけ始めた。最後に焚き火で焼けていた魚の串をふたつ引き抜いて竹かごに放り込み、よろよろと下流のほうへ歩き出す。
青藍が戸惑っていると、彼は少し先で思い出したように振り返り、弱々しい声で「けしてな」とだけ言って、そのままどこかへ姿を消した。
〝けしてな〟? どういう意味?
しばらく考えて、はっと気づいた。きっと火のことを言ったのだ。使い終わったら消して、後始末をしておくようにと。青藍は振り返り、二匹の魚が残っている焚き火を見た。遠火に当てられて、どちらもこんがり焼けている。
今のやり取りで売買が成立したかどうか自信はなかったが、期待に焦れた腹がぐうぐう鳴っていて、これ以上はとても我慢できそうにない。青藍は火のそばにしゃがみ込むと、串をひとつ引き抜いて魚にかぶりついた。
少し焦げた皮の裏側がねっとりと甘く、厚みのある白い身はふっくらしていて、何も味つけをされていないのにとても美味しい。またたく間に一匹平らげ、二匹目にも勢いよく手を伸ばそうとしたところで、青藍ははたと動きを止めた。
こんなに美味しいお魚……夜斗さんにもわけてあげたい。でも、いらないって言うかしら。身をほぐして、きれいな葉っぱに載せて持っていったら食べてくれるかな。それとも、余計なことすんじゃねえって怒られる?
盗賊団の塒にいた時、青藍は彼の食が細いことがいつも気になっていて、何とか少しでも食べさせようとたびたび骨を折っては、毎回素っ気なくはねつけられていた。それを思い出すと、なんとなくためらわれてつい腰が重くなる。
夜斗がいるほうをちらりと見ると、彼はぐっすり眠り込んでいるようだった。魚を食べるか訊くにしても、自然に目を覚ましてからにしたほうがいいだろう。
青藍は少し思案したあと、腰を上げて崖下へ行った。手ごろな枯れ枝を二本拾い上げ、ついでに見つけた幅広で細長い植物の葉と、灌木にからまっていた蔓もちぎり取ってくる。再び焚き火のそばに戻ると、箸代わりの枝を使って魚の半身を取り分け、水洗いした葉で丁寧にくるんでから蔓で軽く縛ってまとめた。ままごとをしているようで、ちょっぴり楽しい。
それから残りの半身を食べ尽くし、骨などの残骸を放置するのは汚らしいと思ったので、岩の下に穴を掘って埋めてから川で手を洗った。
あとは夜斗が目覚めるまでゆっくり待つだけだ。
彼女は焚き火の近くの石を取り払い、砂地を出して作った浅いくぼみに座って膝を抱えた。寒いわけではないが、そうして火に当たっているとなんとなくほっとする。
しかし、体を温めるとたちまち眠気がさしてくるのが厄介だった。魚を食べて腹がくちくなっているからなおさらだ。もし完全に眠り込み、夜斗が先に起きたとしたら、きっとまた置き去りにされてしまうだろう。それを避けるには、なんとしてでも目を覚ましているほかない。
青藍は背筋を伸ばして座り直し、手近にある小石を十個拾って左手に握り込んだ。小さな声で祈りの言葉を唱えながら、それを右手に移していく。一回唱えるごとにひとつ移し、すべて移し終えたら今度は逆の手へ。石は祈り珠の代用で、必ずしも使う必要があるわけではないが、慣れ親しんだ動作をしていると心がより落ち着く気がする。
そうして祈りに没入したまま、気づけば一刻ほどが過ぎていた。いつしか空は薄く曇り、すでに日は西に傾き始めている。
青藍は急に不安になり、石を地面に置いて立ち上がった。
夜斗さんはまだ起きないのかな。明日の朝までここで過ごすつもりなのかしら。あんな場所じゃなくて、夜は焚き火のそばで寝ないと風邪をひいてしまうわ。
ちょっと怖いけど、一度起こして話をしよう――と思いながら、彼女はこわごわ夜斗に近づいていった。彼は側臥してこちらに背を向け、まだ深い眠りをむさぼっているように見える。
「夜斗さん」
声をかけたが、反応はなかった。
「夜斗さん、あの……ちょっといいですか」
それでも彼は目を覚まさない。青藍はにわかに心配になり、急いで顔が見える場所へ回り込んだ。
狸寝入りをしているのではないかと半分疑っていたが、正面から見ればそうではないことがすぐにわかった。夜斗は青白い顔色をして、ぐったりと力なく横たわっている。伏せた長い睫毛が小刻みに震えており、呼吸は浅くて速い。
屈み込んで手を当ててみると、彼の額は火を噴いているように熱かった。
ぬるくなった盥の水を外で捨て、井戸から新しい水を汲んで戻ってくると、寝床の中の夜斗がぱっちり目を開けていた。これまで何度か目を覚ました時にはいつも夢うつつだったが、今回ははっきりと意識があるようだ。
青藍は急いで板間へ上がり、傍へ行って顔を覗き込んだ。
「夜斗さん、だいじょうぶ?」
問いかけると、彼は混乱したようにあたりを見回した。
「どこだ、ここ」声が掠れている。
「ちょっと待って」
青藍は覆いをかけてあった湯冷ましの茶碗を取り、横になったままの夜斗の口に慎重にあてがって少しずつ含ませた。
「もっと飲む?」
彼は力なく首を振り、疲れたようにため息をついた。
「だるい」
「ずっと熱が出ていたから」
青藍は盥の水で手ぬぐいをしぼり、それを夜斗の額に載せた。ひやりとして気持ちがよかったようで、彼は目を細めている。
「ここは炭焼きの丈太朗さんのおうちです」
「炭焼き……」
「わたしじゃ夜斗さんを運べないし、でも河原であのままにしておけないから、助けてくれる人を捜しにきたらこの家を見つけたの」
青藍が川の上流でたまたま出くわした丈太朗の家は、今は古くなって使われていない巡礼路の脇に建っていた。御山を目指す巡礼たちは十年ほど前から新しい街道を使うようになったので、このあたりへはもうあまり来なくなっているらしい。だが丈太朗は祖父母の代からの熱心な在家の信徒で、昔と変わらず家の軒先に巡礼者を歓迎する目印の古草鞋を吊り下げていた。青藍はそれに気づいたので、彼に助けを求めようと思ったのだ。
「山を下りた日から、もう五日経ったのよ」
ひととおり経緯を説明したあと、彼女は夜斗に念押ししておいた。
「わたしたちはきょうだいで、巡礼の旅の途中ですって話してあるから、もし何か訊かれたら夜斗さんもそう言ってね」
「おいらとおめえがきょうだい?」夜斗は不満げに鼻を鳴らしたが、少し考えてからにやりとした。「なかなか達者なほらを吹くじゃねえか」
褒められたのかもしれないが、また不欺の掟戒を破ってしまったことで後ろめたさを感じている青藍は、あらためて気持ちが沈むのを感じた。
「それで、その炭焼き野郎はどこにいんだよ」
「仕事がすごく忙しいから、日のあるうちはほとんど家にいないの。今日は材の伐り出しをするって、朝早くから山に入ってます」
「そいつは独り者か? おいらのことを男と女、どっちだと思ってる?」
おかしなことを訊かれ、青藍はまごつきながら急いで答えた。
「家族はないって言ってました。夜斗さんをどっちだと思ってるかは……わかりません。そんな話はしてないから」
丈太朗は寝床と食べ物を提供してくれた親切な男だが、人と打ち解けない質のようで、家にいる時も青藍とはほとんど言葉を交わさない。朝はまだ暗いうちから仕事に出かけ、帰ってくると食事をしてすぐに寝てしまうので、そもそも雑談をする暇などないに等しかった。
彼は夜斗の病状をそれとなく気にかけはするが、彼の性別だの何だのといったことに興味を示す様子は一度も見せていない。青藍はそれで大いに助かったのだが、ふたりがどこから来たのかすら尋ねようとはしなかった。
「夜斗さんを女の人だと思っていたら、何かあるの?」
「下心があって親切ごかしてるなら、反対に利用してやれると思ったのさ」
「下心なんて……」
青藍は手ぬぐいを取り、水に浸けてから固くしぼった。まだ少ししか経っていないのに、早くもほんのり温もっている。夜斗の熱は完全には下がっていないようだ。
「丈太朗さんはまじめな信徒で、まじめな働き手で、すごく優しい人です」
「どうだかな」
頑固で懐疑的な夜斗の額にまた手ぬぐいを載せると、彼は口をつぐんでじっと青藍を見つめた。そんなふうにされると、妙に落ち着かない気分になる。
「なに? 何か欲しい?」
「ずっとおいらの傍にいたのか」
思いがけない問いを投げられ、青藍はそわそわと身じろぎした。
「う、うん」
「ときどき唄ってただろう」
驚いた。眠りっぱなしだと思っていたのに、いつ聴いていたのだろうか。
「唄っていたんじゃなくて、祝文を唱えてたの。苦しみを和らげて安らぎをもたらすお呪いの言葉を。少し節がついているから、歌みたいに聞こえたのかも」
「おいらはまじないなんて眉唾だと思ってるけど――」夜斗はまだ青藍を見つめたままで言った。「あれが聞こえてると、なんでだか、ちょっとだけ楽になったな。誰かに守られてるって感じがしてよ」
こんなに素直に話す夜斗には慣れていないので、青藍はどぎまぎして思わず目を逸らしてしまった。
「おめえ、ほんとにちゃんと修行した若巫女なんだな」
感心したように言われると、切なく胸がうずいた。まだ若巫女なのかどうか、自分では確信が持てずにいる。それでも御山で身につけたことが、少しでも誰かの役に立ったのだと思うとやはり嬉しかった。
「夜斗さん、わたしね――」
言いさして、青藍は一瞬躊躇した。これまで誰にも言わずにいたので、いざ打ち明けるとなるとわけもなく身がまえてしまう。
「御山では青藍と……呼ばれていたの。若巫女や若巫子は昇山する時に、神から特別な名前――祝名を授けられるのよ」
かなり思い切った告白のつもりだったが、夜斗は彼女の真の名前を聞いてもたいした感慨はおぼえなかったようだ。それで、と言いたげな眼差しでこちらを見ている。
「ええと、あの、だから……もしよかったら夜斗さんも、ほんとうの名前を教えて欲しいなって。洞窟にいた時に聞いたけど、此糸さんは珠っていう名前なんですって」
教えてはくれないかもしれないと思ったが、意外にも夜斗は少しの沈黙を挟んで口を開いた。
「おいらは三つか四つぐらいのころ、川で遊んでて仲間とうっかり離れちまった隙に、通りかかった人買いにさらわれた」
予想外の話が始まって戸惑ったものの、青藍は黙って耳を傾けていた。
「このつらだから、女の子と勘違いしやがったのさ。でも男だったんで、野郎は娼楼へ売りに行かずに、子供を欲しがってた農家に安く引き渡したんだ。その家で名前をつけられたけど、おいらはちっとも気に入っちゃいなかった。だから十年経って〈ふぶき屋〉に売られて、楼主から化粧臭え呼び名をまた新しくつけられそうになった時に、おいらの名前はおいらに決めさせろって言ってやったんだ」
真剣な面持ちで話していた夜斗が、ふと遠くを見るように視線をさまよわせた。
「さらわれる前のことはほとんど忘れちまった。でも山の中の隠れ里で暮らしてたことと、周りになんて呼ばれてたかは覚えてる」
彼は低くつぶやき、まっすぐに青藍を見上げた。
「人には言ったことねえけど、ヤトってのはほんとの名前なんだ。おいらが山の者だったころのな」
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