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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第四章 戻れぬ橋
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三十九 王生国天沢郷・伊都 傷痕

 低く深く、胸にしみ入るような祈唱(きしょう)の声が静かに流れている。

 特に呼びかけをしたわけではなかったが、(たま)送りの儀式が始まると船方や店者(たなもの)が次々に岸へ下りて集まってきた。船上で亡くなった若い客人(まろうど)にみな漠然と親近感をおぼえ、同情を寄せているのだろう。

 司式は伝道の祭宜(さいぎ)である伊吹(いぶき)が務め、封霊(ふうれい)から埋葬までをほぼひとりで執り行った。いま彼は墓穴を掘って土汚れた黒衣のままで亡骸(なきがら)が眠る塚の前に座り、無心に祝文(しゅくもん)を唱え続けている。

 伊都(いと)は川岸に枝を広げているネムノキの下に佇み、長いあいだじっとその声に耳を傾けていた。思わぬ成り行きで悲しく痛ましい死にざまに触れ、少しざわついていた心が静けさを取り戻していくのを感じる。信仰心は持ち合わせていないが、伊吹の祈唱を聴くのは昔から好きだった。めったにしゃべらず、たまに口を開けばぶっきらぼうな物言いしかしない彼だが、祈りの言葉を朗誦する声はいつも優しい。

 そうしてふと気づくと会葬者は減り、塚の周囲に残っているのは二、三人だけになっていた。自分も、いつまでも船から離れているわけにはいかない。そろそろ切り上げて戻ろうと顔を上げた時、長五郎(ちょうごろう)の大柄な姿が目に留まった。子供のように膝を抱えて座り、辺り(はばか)らずに泣きじゃくっている。彼は頭の働きはあまり鋭いほうではないが、そのぶん人一倍感受性が豊かなので、伊吹の祈唱に感極まってしまったようだ。

「長五郎ちゃん」

 傍に行って声をかけると、彼は泣きはらした顔で伊都を見上げた。

「悲しいねえ。伊吹のお祈り、とっても泣けちゃうねえ」

「そうね」伊都は屈み込み、彼の筋肉質で分厚い肩をそっとさすった。「まだ聴いていくの?」

「うん」

 鼻水をすすりながらうなずき、長五郎はつと空を見やった。

「雨が降るよ」

「ほんと? いつ」

「お日さまがお空の、あのう――この上にきたら」頭上を指差し、その手で目元をぬぐう。「どしゃっと」

「お(ひる)ごろ?」

「うん」

「じゃあ、降りだす前に伊吹を船につれて帰ってね」

「わかった」

 船に向かって戻りながら、伊都は澄み切った青空を見上げた。雨の気配などまったく感じられないが、長五郎の天気占いはいつもよく当たるので、きっと彼の言葉通りにそのうち天候が崩れるのだろう。

 菊美(きくみ)川沿いの急な土手を下り、〈川渡(かわと)屋〉の船団が係留されている船着場へ行くと、堅牢長大な親船の傍に小舟を出して釣りをしている南浮(なんぶ)傳次郎(でんじろう)が声をかけてきた。

「魂送りは済んだのか」

「はい」

 伊都は橋板の上を歩いていき、桟橋の先から小舟の中を覗き込んだ。早朝からずっとここで粘っていたくせに、釣果らしきものはどこにも見当たらない。彼女が幼いころから剣術を習ってきた師匠は三度の飯より釣りが好きな男で、水場と暇さえあればこうして釣り糸を垂れているが、なぜかその腕前は一向に上がる気配がなかった。

「釣れていませんね」

「何を言う。今朝は大物を揚げただろうが」傳次郎はぶすりとした顔で言い、軽く鼻を鳴らした。「あの若い御仁は気の毒だったな」

「ええ。あと半日早ければ助けられたかもしれないって、加代(かよ)さんが悔しがっていました」

「引き揚げた時点で、もう()たぬとわかっておったのだ。だが、せめて乾いたきれいな場所で、安らかに()かせてやりたくてなあ」

 彼はそうつぶやき、禿()げ頭をつるりとなでた。

「どこの侍だった」

黒葛(つづら)家に仕える、石動(いするぎ)家のかたです」

「ふうん……」

 生返事をして、傳次郎は川の上流へ目をやった。

「南部一の名家の支族の者が、北部のこんな場所であんな有り様になっておったとは、なんとも奇っ怪千万な話だのう。亡くなる前に事情は聞けたのか」

「はい」

 伊都は腰を屈め、小舟のほうへ身を乗り出して囁いた。

「あのかたは奸計(かんけい)にはまって主人を()たれ、陰謀の核心に迫る情報を携えて天山(てんざん)から逃れてこられました。追っ手が来るかもしれません」

「ふむ」師匠が川上に視線を据えたままでうなずく。「では、わしはもうしばらくここで釣りを続けるとしよう」

 傳次郎と別れて桟橋を引き返し、伊都は昇降板を上って親船に戻った。

 今日もここに船繋(ふながか)りする予定なので、ほかにやることのない船子たちは船大工の弥五七(やごしち)に指示されながら船体の修繕や清掃に精を出している。彼らの仕事ぶりを眺めながら歩いていると、船尾楼甲板にいた矢神(やがみ)久蔵(きゅうぞう)が彼女の姿に気づいて下りてきた。

 法元(ほうが)国の出身で元は傭兵だったという彼は武芸に秀でた壮年の男で、伊都が束ねる船守(ふなもり)たちの中ではいちばんの古株だ。影のように物静かで、暗い目をしており、人づきあいも愛想もあまりいいほうではない。それでも久蔵はたしかな腕前と、長年にわたる真摯な働きぶりで彼女の尊敬と信頼を勝ち得ていた。

頭領(とうりょう)、見張りを増やしますか」

 問いかける声は独特の(しゃが)れ声だ。それだけ聞くと老人のように感じられる。

「だいじょうぶよ。先生が外で警戒してくださっているから」

 もし天山からあの若侍を追う者が来ても、傳次郎ならのらりくらりと言い抜けて、うまく追い返してしまうに違いない。

「でも念のため、夜番は普段よりも厚めに置きましょう」

「各船の上甲板に三人ずつと、桟橋の入り口にふたりでは?」

「それでいいわ」

 久蔵は軽く会釈をして舳先(へさき)のほうへ歩いていった。会所と食堂を兼ねた船首楼に溜まっている船守たちに、さっそく指示を伝えに行くのだろう。

 伊都は上砲列甲板の艙口(にごりぐち)から船内へ入り、狭く急な階段を二層分下りて最下甲板まで行った。そのあたりはすでに喫水線よりも低いため足場が比較的安定しており、船体の揺れがもっとも伝わりにくい中央帆柱付近には厨房が配置されている。

 索具(さくぐ)の格納部屋を通り抜けて厨房に入っていくと、むっとする熱気と蒸気に顔を煽られた。昼食の支度が始まり、三つの(かまど)にかけた鍋で大量の湯を沸かしているのだ。庖丁人の(かしら)を務める芳祐(よしすけ)老人は額にねじり鉢巻きを締め、なにやら真剣な面持ちでその鍋のひとつをかき混ぜている。邪魔をしたくないので、伊都は厨房の手伝いをする(かしき)の小僧のひとりをそっと手招きして呼び寄せた。

「外の小舟に傳次郎先生がいらっしゃるから、手が空いたらお結びか何かこしらえて届けてさしあげてちょうだい。それと雨具もね。お(ひる)ごろから雨になるそうだから」

 仕事をもらえて嬉しそうにしている小僧に駄賃代わりの飴をこっそり与えてから、伊都は来た道を逆戻りして再び上甲板へ出た。いつの間にか空の青さが少し淡くなり、ところどころに灰色の雲が出てきている。それを見上げながら外階段を上がり、船尾楼の上階を丸ごと占める個室の扉を指の節で軽く叩くと、中から「入んな」とくぐもった声が聞こえた。

 片開きの扉を開ける前に、特に乱れてもいない髪を手櫛で()き、着物の襟元を手早く直したのは、ここへ入る時には身形(みなり)を整えるのが習い(しょう)になっているからだ。

 船でもっとも広く、もっとも豪勢なその部屋は〈川渡屋〉の主人の私室だった。広いといってもせいぜい十二畳間程度だが、それでも万事が狭苦しい船内では破格といえるだろう。()め殺しの大きな格子窓には北の王国シェクランから買い付けた玻璃(はり)が贅沢に使われ、作り付けの調度類もすべて異国風の(こしら)えで統一されている。

 部屋の主は窓を背にして長机につき、煙草(たばこ)をふかしながら書きものをしていた。座っているのは高い背もたれのついた、座面の広い革張りの高価な椅子だ。

 伊都がゆっくり近づいて机の手前で足を止めると、彼は手元に視線を落としたまま問いかけた。

「終わったかい」

「はい。でも伊吹はまだ残っています」

「ずいぶん長い祈唱だ」鉄次(てつじ)は筆を走らせ続けながらつぶやいた。「ちょうど同じぐらいの年ごろだから、あいつも何か思うところがあるのかもしれねえな」

「とても心がこもっていて、聴きながら長五郎ちゃんが大泣きしていたわ」

 鉄次が手を止め、小さく笑う。彼はそこでようやく顔を上げて伊都を見た。

「何か形見になるものを見つけたか」

「埋葬の前に、御髪(おぐし)を少し切らせていただきました。それとお財布がふたつ。お腰の物は大小とも鞘だけだったので、代わりに胸元に入れておられたこれを」

 伊都は懐から紙に包んだ遺髪、長財布と巾着、祈り(だま)を取り出して机の上にそっと置いた。

天門信教(てんもんしんきょう)の信徒でいらしたみたいです」

 祈り珠は玻璃と黒瑪瑙(めのう)だけで組まれた質素なものだったが、御山(みやま)の水蓮紋を彫り込んだ薄い銀板は丁寧に磨き上げられていて少しの曇りもなかった。その様子から日ごろ大切に扱われていたことや、信仰の深さなどを窺い知ることができる。

「信徒だったなら、伊吹にきちんと魂送りしてもらえて喜んでるだろう。あいつが船に戻ってきてたのは間がよかった」

 伊都はうなずき、机を挟んで鉄次の手元を覗き込んだ。

「あのかたから聞いたお話を書き起こしているの?」

「ひととおり全部書き出してから、改めてまとめ直してたとこさ。しゃべってる途中で朦朧(もうろう)として曖昧になったとこや、重複した部分なんかを整理して、多少なりともわかりやすくなるようにな」

 鉄次は手振りで彼女を招き寄せると、椅子の空いている座面に座るよう促した。昔なら気恥ずかしさと遠慮がまさって断っただろうが、今の伊都はこういう機会を逃したりはしない。とはいえ密着するほど図々しくはなれないので、わずかに隙間を空けて左手側へ腰を下ろすと、鉄次は彼女が見やすいように料紙を横にすべらせた。

「まあ、こんなもんだろう。まだ途中だが」

 伊都は文章にさっと目を通してみた。

 石動(いするぎ)元博(もとひろ)と名乗ったあの若い侍が漂着してから亡くなるまでの様子、彼が何かに()き立てられるようにしながら語った天山(てんざん)での事件、黒葛(つづら)家の人質一行が巻き込まれたとおぼしき陰謀にまつわる話などが簡潔ながら丁寧にまとめられている。

「〝さわらぎあきひさ〟って、誰かしら」

 甲板で独白を聞いていたあいだ、いちばん気になったのがその人物のことだった。何度も話の中に登場したが、これまで聞いた覚えのない名前だったので、誰とどういうつながりがある男なのかまったくわからない。だが石動元博は、彼が今回の一件の首謀者のひとりだと断言していた。

「こんな大それた事件を起こすくらいだから、かなり力のある人なのでしょうけれど」

「さあな、おれもそいつのことはわからねえ。話に出てきた名前の七割ぐらいは知ってたんだが」

「鉄次さん、あのかた……石動元博さまのこと、わたしも存じ上げていました。最初は気づかなかったけど、お名前を聞いたら思い出したの」

 まだ鉄次の元に来たばかりだった少女のころに、元博の顔が描かれた画を一度だけ見たことがある。

「絵師の仙吉(せんきち)さん――じゃなくて、今は叡洸(えいこう)さんね。あの人が徒弟時代に天山の(いわい)城で描いた姿絵の中に、たしか元博さまの画があったでしょう」

「おれが〈但見(たじみ)屋〉の貸し蔵へつれてった時に見たのを覚えてたのか」鉄次は少し驚いた様子で言い、愉快そうに笑った。「物覚えのいいのだけがおれの取り柄なのに、おまえにお株を奪われちまいそうだ」

「覚えていたのは、たまたまです。大人ばかりの中に、わたしと近い年ごろの人の画が混じっていたから」

 あの時に見聞きしたことが鮮烈に記憶に残った理由は、じつはもうひとつある。何枚もあった姿絵の中に、まったく思いがけず、家族を惨殺した仇敵――志鷹(したか)頼英(よりひで)の顔を見いだして衝撃を受けたせいだ。

 だが、あの男のことはまだ一度も鉄次に話していない。自分が苛烈な復讐心に囚われていることを彼には知られたくないという思いがまさり、ずっと打ち明けそびれたままになっている。これまで鉄次には愚かさも弱さもすべて見せてきたが、心の一部を常に占めているそのどす黒く淀んだ闇だけは、どうしてもさらけ出す決心がつかずにいた。

「あのことも、書いてさしあげてね」

 料紙を返しながら言うと、鉄次は怪訝そうに片眉を上げた。

「どのことだい」

「息を引き取られる間際に、女の人の名前を……」

「ああ、呼んでたな。〝みお〟とか。女房か思い人か」

「最後に名前を呼んでくださったと知れば、きっとお喜びになるわ」

「そういうもんか」

 鉄次さんたら――伊都は口をすぼめながら彼を軽く睨んだ。あれほど女性の扱いに()けているのに、こんな初歩的な女心がわからないのかしら。

「もちろんです」

「わかったよ」負けたと言いたげに肩をすくめ、横目に視線をよこしながら甘い微笑を浮かべる。「おまえが言うなら、そうなんだろう。ちゃんと書いておくさ」

 かろうじて顔には出さなかったが、胸の奥がきゅっとなった。体温を感じるほど近くにいる時に、こんな表情をするのはずるい。

「もう少しで書き終わるから、おまえが竪紙(たてがみ)に清書してくれ。武家に親族の遺言を伝えようって手紙に、おれの金釘流じゃあどうにもうまくねえ」

「鉄次さんの字はいい字だわ。わたしは好きです」

「そう言ってもらえて嬉しいが――」鉄次は手に持っていた煙管(きせる)から一服吸い、細く煙を吐いた。「おまえの手蹟はとびきり品がいいから、やっぱり清書はやってもらいたいんだ。頼めるかい」

 もとより彼の頼みを断るつもりなどない。だが、少しだけもったいをつけてみたくなった。

「お駄賃に何をくださるの」

 彼からの個人的な頼まれごとには、必ず何かしらの報酬がついてくる。それは昔から変わらない決まり事のひとつだった。

「何でもさ。欲しいものがあるのか」

「考えておきます」

 澄まし顔をしてみせると、鉄次が唇の端でにやりとした。思考を読まれている気がする。

「こいつは、ほんの前渡しだ」

 彼は盆の上に伏せてあった脚付きの盃を取り、酒器から金色の液体を注いで伊都の前に置いた。

「強いから、ちびちび()るんだぜ」

 盃からひと口すすると、口中にえも言われぬ甘さと芳醇な香りが広がった。次いで、熱い火の塊が喉を駆け下っていく。

 鉄次秘蔵の、十年物〈銀流(ぎんりゅう)〉古酒。(かめ)に密封して長年大切に保存していたものを、あの侍の気付けに使うために今朝開封したのだ。

「とってもおいしい」

「口を開けたそばから風味が落ちてくから、さっさと飲んじまわなきゃな」

 伊都は盃を覗き込み、年月を経て深い色合いになった酒に見入った。

「これだと〈銀流〉というより〈金流〉ね」

「たしかに」

 ふたりで顔を見合わせてちょっと笑う。

 親密で温かな空気が流れ、このひとときをもっと長引かせたくなった。

「清書するあいだ、ここで作業をしてもいいですか」

「おまえの好きなようにしな」

 あっさりと許し、鉄次は伊都の体を肩でそっと押した。

「さあ、続きを書かせてくれ」

 彼女が椅子から立ち上がると、鉄次は煙管を煙草盆に置いて座り直し、その際にわずかに顔をしかめた。

「雨が降るな。古傷が痛みやがる」

「さっき、長五郎ちゃんもそう言っていました」

 鉄次は十二年前に生死の境をさまようほどの大怪我を負い、それ以来歩行が少し不自由になった。匕首(あいくち)で背中側から腰を刺し貫かれたのだ。その際、骨に当たって折れた刃の一部が体の中に残り、半日近くもかかる大手術でなんとか取り出すことができた。長く苦しい回復訓練を経て立って歩けるようにはなったが、体に深く刻まれたぞっとするような傷の痕跡は今も消えておらず、天候が崩れる前には決まってしくしく痛むのだという。

 もうひとつ、傷は彼の顔にも残っていた。同じ匕首で切りつけられた白く細い傷痕がひと筋、左眉の上から頬骨にかけて斜めに走っている。それは目尻の(きわ)をかすめており、眼球を傷つけられなかったのは不幸中の幸いだった。

 とはいえ本人はさほど不幸とも思っていないようで、「面白味のねえ(つら)に味が出てよかった」などと(うそぶ)いている。

 彼が傷つけられるのを阻止できなかったことは伊都の心の中でしこりになっているが、その一種独特の色気を感じる傷痕自体は決して嫌いではなかった。ときどき、わけもなく無性に触れてみたくなることがある。

 今もそんな衝動が湧き上がりそうになり、あわてて目を逸らした。

「〝どしゃっと〟降るんですって」

「どうも、そんな感じだな。痛み具合でなんとなくわかるんだ」

「降りだしたら寒くなるかも」伊都は寝台の上に投げ出されていた羽織を取りに行き、椅子のうしろに回って鉄次の肩に着せかけた。「冷やさないで」

「ありがとよ」

 再び書きものに戻った彼から離れ、伊都は盃を持って壁に寄せてある長椅子のところへ行った。履き物を脱いで横座りになり、片側が高くなった背もたれに体を預けて、金色の酒を少しずつ口に含みながらゆっくりと味わう。

 机のほうから薄く紫煙が流れ、晩秋の落ち葉を思わせる煙草葉の香りが漂ってきた。このにおいは彼女にとって、鉄次その人の印象に直結している。心を落ち着かせて安心感をもたらすが、同時に少し切なくもさせる不思議な香りだ。

 伊都は物憂い心地よさに浸りながら、船室付きの下男が昼時を知らせに来るまで、逆光で影になった鉄次の輪郭をずっと見つめていた。


 夜半のうちに雨が上がり、からりと晴れた翌日。午後に到着すると聞いていた客人が、朝の雑事もすまないうちからもうやって来た。

 船尾楼の階下の半分を占める伊都(いと)の船室までそれを告げに来たのは、四年前に彼女の配下となった船守(ふなもり)小花衣(こはない)真哉(しんや)だった。端正なところのある矢神(やがみ)久蔵(きゅうぞう)とは正反対の馴れ馴れしい男で、人を食ったような態度を取ることも多いが、(ましら)のように身が軽く、徒手空拳で敵を倒す技に()けた驚嘆すべき武芸者だ。

「どうします、頭領(とうりょう)

 だらりと戸口にもたれかかりながら、真哉は室内で身支度をしている伊都に訊いた。舌が短いのか、はたまた長いのかは不明だが、この男の「頭領」はいつも(つづ)まって〝とうりょ〟に聞こえる。

「船に上げろだの、すぐ旦那に会わせろだのとごねまくってますよ」

「どうごねようと――」眉をひそめながら、伊都は羽織に袖を通した。「会うのはお(ひる)過ぎのはずだったのに、急にやって来てそんな無理は通らないわ」

 今日の客は近隣の是枝(これえだ)村に住み、鉄砲鍛冶の職人や工人を束ねている人物だと聞いている。つまり用件は〈川渡(かわと)屋〉への商品の売り込みだ。本店を通してつなぎをつけてきたため、珍しく鉄次(てつじ)が会う気になってわざわざ出向いてきたが、こちらが下手(したて)に出る必要はないと言っていた。

「わたしが船外で応対しているから、旦那さまのお支度がすんだら来ていただいて」

「へい、了解」

 真哉を行かせたあと、彼女は部屋を出て上甲板を歩いていき、開いたままの舷門(げんもん)(きわ)で足を止めた。そこから眼下の様子を観察する。

 船に上がる昇降板の(たもと)に、せっかちな客人とおぼしき人物が立っていた。年のころは三十代半ばから後半ぐらい。上半身がたくましく、特に胸と上腕の筋肉が大きく盛り上がっている。黒々とした太い眉の根元がぎゅっと寄って、いかにも気難しそうに見えた。

 彼のうしろには、もう少し年の若い職人ふうの男がふたり立っている。ひとりは背負い紐で細長い布包みを肩にかけていた。中身はきっと鉄砲だろう。

 船に乗り込みたくてうずうずしているように見える彼らの前には、身の丈七尺に迫る大兵(だいひょう)の船守オデルが腕を組んで仁王立ちしている。

 タイフォス人特有の黒光りする肌と、燃えるような夕焼け色の髪を持つ彼は七つの言語を解し、六桁の暗算を易々(やすやす)とこなす聡明な男だ。正式な名はオデルヴァルグ・レイ・アルベスタといい、名前に入る〝レイ〟は本人の主張するところによると故国では貴族の証であるらしい。彼には広大な領地を支配する高貴な身分から奴隷の身へと落ち、五つの海を渡ってさまざまな異国の地を流離(さすら)ってきたという長く壮大な身の上話があり、酒が入るといつでもそれを披露したがった。

 得意な武器は反りが深く刃の幅広い〈スヴァルダ〉という名の長剣で、それを両手に一刀ずつ持って器用に振るう。今は鞘に収め、二刀を交差させて背負っていた。抜くときには電光石火の早技を見せる。

 伊都はどの船守も雇い入れる前に自らその腕前を試すことにしているが、これまで船に迎えた男たちの中でもっとも苦戦させられたのがオデルとの仕合いだった。大柄なくせに俊敏で斬撃は豪快、状況を見極める目が鋭く、くるくると舞い踊るように立ち回って相手を翻弄する。彼女が勝機を掴めたのは、単純に剣の速さが彼よりもまさっていたからだ。

 伊都以外に仲間内で彼に勝てるのは、今のところ久蔵と真哉ぐらいだった。ほかの者はたいてい、そそり立つ巨木のような体と向かい合っただけで気圧(けお)されて、勝負する前から負けた気分になってしまう。

「おい、いつまで待たせるんだ」

 下で客人がいらいらと怒鳴った。

辛抱のないやつめエム・ン・デュタ・トゥラム

 オデルがタイフォス語で(けな)し、からからと笑う。

 放っておくと喧嘩沙汰になりそうだったので、伊都は急いで下におりていった。それに気づいて視線を上げた客人がはっと目を(みは)り、大きく口を開く。

「お待たせいたしております」

 オデルの横へ立ち、彼女は凝然としている客人に丁寧に話しかけた。

「主人はじきにまいりますので、よろしければそれまでわたしどもの船団のご案内でも」

 微笑みながら言って桟橋の上を歩き出すと、客は無言のままふらふらとついてきた。連れのふたりは、オデルが怖い顔で威嚇してその場に留めている。

「ここに係留されている親船と子船四隻は、すべて〈川渡屋〉の持ち船です」

 説明しながら船着場の中央付近まで行き、そこで足を止めて振り返ると、客はまだ目を見開いたまま伊都の顔に見入っていた。話を聞いているかどうかは判然としない。

「いちばん端の桟橋につけているのが〈白雲丸(はくうんまる)〉という賭場(とじょう)船で、船内が博打(ばくち)場になっています」

 かまわず話を続けていると、ようやく我に返った客が目をぱちくりした。

「博打?」

「ええ。停泊中はいつも(ひる)過ぎから開帳していて、前触れをしておいた近隣の集落から人が集まってきます。中には居続けをして、次の係留地まで乗っていく人も」

「屋形舟で賭場(とば)を開くって話はたまに聞くが……」

「少し規模が大きいだけで、同じですよ」

 伊都がにっこりすると、客はどぎまぎしたように目を伏せた。

「隣の〈月笛丸(つきふえまる)〉は戯場(ぎじょう)船で、芝居の一座が乗り組んでおり、やはり停泊中に興行を打ちます。一日に二回、昼興行と夜興行を」

「今度は芝居ときたか」

 だんだん調子が戻ってきたらしく、あきれたように言ってぼりぼりと頭を()く。

「おれァ〈川渡屋〉は酒保商だと聞いてたんだがな」

「おっしゃる通り、わたしどもが主に商うのは戦の装備や糧秣(りょうまつ)です。でも博打や芝居は戦場(いくさば)でも需要があるでしょう」

「む……そりゃまあ、たしかにな。足軽どもが戦の合間に楽しむのは、そういう遊びと――」

 女、と続けたかったのだろうが、彼は伊都に遠慮したのか言葉尻を濁した。そんなに気を使ってくれなくてもいいのに。

「中央の〈玉桜丸(ぎょくおうまる)〉は娼楼(しょうろう)船です」

 彼女が平然と言うのを聞いて、客があからさまにぎょっとする。

「なるほど……」低く呻き、彼は感じ入った様子で大きく息をついた。「要るものは全部そろってるってわけかい」

「ええ」

「主人はやり手だな」

「わたしどもの主人はこの三隻の船主ですが、それぞれの商売は別の者たちが取り仕切っています」

「つまり店貸(たなが)しして、賃料で儲けてるんだな」

 得心がいったようにうなずき、客は残る一隻の子船に目をやった。

「あれは? 何の商売用だ」

「〈猩々丸(しょうじょうまる)〉には先ほど申し上げた、主力の商い物を積載しています。移動する蔵のようなものだと思っていただければ。そして――」

 伊都は説明しながらゆっくり歩いていき、はじめにいた昇降板の(たもと)まで戻った。

「最後が親船の〈大豪丸(だいごうまる)〉です。ちょうど主人がまいりました」

 こちらへ下りてくる鉄次と真哉を見上げて、客が表情を引き締める。何かを心に期しているような目つきだ。

「よう、待たせたな。おれが〈川渡屋〉鉄次だ」

是枝(これえだ)村で鉄砲鍛冶の差配(さはい)をやってる、職人の是枝十郎兵衛(じゅうろうべえ)って(もん)だ」

 向かい合って名乗りを上げ、彼は鉄次の杖にふと目を留めた。

「足が悪いのか」ずけずけと訊く。

「できりゃあ走らずにすませたい、って程度にな」

 鉄次はこだわりなく言って、伊都のほうを見た。

「おれを待ってるあいだ、なに話してたんだい」

「船のことです」

 伊都は簡単に答えながら彼に近づき、杖を持っている右手側の後方に陣取った。川を背負ったその位置からは、船着場にいる全員の動きが見渡せる。船守たちに目をやると、オデルは小さくうなずいて反対側へ回り、昇降板の中ほどにいた真哉は桟橋までぶらぶらと下りてきた。

「立ち話もなんだから船へ上がろうか。だが、その前に――」

 鉄次はちょっと言葉を切り、十郎兵衛をじっと見つめた。

「うちの本店をどこで知ったのか訊いてもいいかい。じつのところ、〈川渡屋〉に元店(もとだな)があるってことは大っぴらにはしてねえんだ。看板も出しちゃいないしな。だからたいてい、初回の客は直接この船に接触してこようとする」

 十郎兵衛が上目づかいに鉄次を睨む。

「つなぎをつける方法を教えたのは、おれの女房だよ」

 唸り混じりに答える彼の背後で、連れの男たちが動いた。十郎兵衛の背中に隠れて、何かこそこそやっている。

「あんたの女房は、おれの知り合いか」

 訝しげに鉄次が訊くと、十郎兵衛の顔にどす黒い影が差した。

「おう、そうともよ。さんざん女房を可愛がってもらった礼をさせてくれや!」

 銅鑼(どら)声で啖呵(たんか)を切った直後、彼の手に幻術のように鉄砲が現れた。うしろからそれを手渡した連れがすでに発砲準備を終えており、火縄の先端が赤く光っている。

 伊都は十郎兵衛が発砲の構えを取ると同時に動き出した。鉄次の脇をすり抜けざま、彼が横に差し出した杖の握りを左の逆手で掴む。

 そのまま足を進めながら柄から細身の刀身を抜き放ち、次の瞬間には握りを右に持ち替えて標的を斬り飛ばしていた。

 息が詰まったような声をもらして、十郎兵衛が棒立ちになる。

 彼の背後で連れのふたりが悲鳴を上げた。いつの間にかそちらへ移動していたオデルが、両手に〈スヴァルダ〉をぎらりと光らせて威圧している。

 全員の動きが止まったのを確認してから伊都が刃を引くと、十郎兵衛はよろよろとなって鉄砲を下ろした。銃身を持つ両手が激しく震えており、額からどっと汗が流れだす。

「あんたッ!」

 船着場の入り口あたりで、ふいに女が怒鳴った。誰だろうと思う間もなく、まっしぐらに駆けてきた彼女が十郎兵衛の胸ぐらを掴み、その頬に強烈な平手打ちを見舞う。

「このとんちき、なにやってんのさ!」

 女は目を白黒させている十郎兵衛をがくがく揺さぶり、さらに胸といわず肩といわず盲滅法に打ち据え始めた。

「や、やめろ。やめねえか」

 抗う十郎兵衛を、女がどんと突き飛ばす。

「あんたなんか、斬られちまえばよかったのよ」

「そんな言い方はねえだろう……」

 途方に暮れたようにつぶやき、十郎兵衛は気まずそうに伊都を見た。

「本気で撃つつもりはなかったんだぜ。おたくの旦那に、ちょっと肝を冷やさせたかっただけなんだ」

「ええ、わかっています」

 あの時、指は銃の引き金にかかっていなかった。それが見えていたから、燃えている火縄の先端を狙って斬ったのだ。彼の腕や胴体ではなく。

 振り向くと、鉄次を(かば)うように立っている真哉と視線が合った。彼はにやついている。この成り行きを楽しんでいるらしい。

「誤解があるようだが」

 鉄次が静かに言いながら、ゆっくり前へ出てきた。

「おれは間男はやらねえよ。少なくとも、相手が亭主持ちだとわかってる時にはな」

「なあ、あんた」真哉がからかい口調で十郎兵衛に言う。「うちの旦那の二枚目(づら)を見なよ。こんな色男の上に、たんまりカネも持ってんだぜ。人の女房になぞ手を出さずとも、女なんか若くて綺麗なのがいくらでも向こうから寄ってくると思わねえか」

「まったく、その通りですよ」

 女が力強く肯定して、くるりとこちらを向いた。

「ほんとにごめんなさい、鉄次さん」

 情けなさそうに謝った彼女の顔を見て、伊都は思わず息を呑んだ。

奈実(なみ)ちゃん?」

 名前を呼ぶと、かつて伊都の孤児(みなしご)仲間だった奈実は、当時よりもかなりふっくらとなった丸顔を笑みくずれさせた。

「伊都ちゃん、あたしのこと覚えててくれたのね」

 彼女はそう言って駆け寄り、伊都の体を両腕でぎゅっと抱きしめた。

「また会えて嬉しいわ」

「わ、わたしも……」

 突然の激しい抱擁にどぎまぎしながら、伊都は仕込み刀で彼女を傷つけないよう、あわてて背中側に回した。知らぬ間に傍へ来ていた鉄次がその手から刀を受け取り、鞘になっている杖の中に納める。

「なるほど。女房ってのはおまえだったのか。おれの商売や(たな)のことをよく知ってたな」

 彼が話しかけると、奈実は抱擁を解いて深々と頭を下げた。

「ご無沙汰してます、鉄次さん」

 顔を上げた彼女の目に、懐かしさと慕情がにじんでいる。

「あんな不義理をして別れてしまったけど、いつかご恩返しできたらと思って、ずっと鉄次さんの動きは追っていたんです。昔の伝手(つて)を使って」

「そういや、おまえはそういうのが得意だったっけな。息災にやってるようでよかった」

 鉄次が優しく微笑むと、奈実はほんのり頬を赤らめた。それを見ながら、十郎兵衛が不機嫌そうに鼻を鳴らす。

 奈実は昔、鉄次に恋い焦がれていた。その思いが届かないことに苦悩した挙げ句、彼に面差しだけ似た悪い男たちを渡り歩いて何度も痛い目を見るほどに。

「今じゃ、あたしも人の女房ですよ。子供を四人も産んだもんだから、すっかり(ふと)っちゃって」 

 過去はもう吹っ切れているらしく、彼女はそう言って朗らかに笑った。

「うちの人はこんな馬鹿だけど、腕はすごくいい職人なんです。商売の話、してやってもらえますか」

「もちろん」

 鉄次は鷹揚に答え、あらためて十郎兵衛を見た。

「座ってじっくり話そうぜ」

 それを機に船上へ座を移し、鉄次と伊都、十郎兵衛と奈実だけで船首楼の会所に腰を落ち着けた。クリ材の大机を挟んで和やかに向かい合ったはいいが、奈実はまだ先ほどのことにこだわっているらしく、夫には突っ慳貪(けんどん)な態度を取り続けている。

「鉄次さんに鉄砲を向けるなんて……」

 隣でぶつぶつ言われ、十郎兵衛がたまりかねたように天を仰いだ

「しつっこい(アマ)だな」

「昔のことで、いまさら岡焼きしたって始まらないじゃないか。それに手も出してもらえなかったって、ちゃんと話したのに」

「だってよゥ」

 十郎兵衛が意固地な子供のように口を尖らせて、鉄次に水を向ける。

「こいつときたら、今日あんたに会うと決まってからすっかり舞い上がっちまって、何日も前からそわそわしっぱなしでよ」

「だからって、あたしを置いて勝手にひとりで行くなんてさ」

 奈実は横目に彼を睨み、脇腹を肘で強く小突いて飛び上がらせた。かなり痛かったに違いないが、それでも十郎兵衛は不満げに鼻息をもらすだけで、荒っぽい反撃に出る様子はない。

 伊都は微笑ましく思いながらふたりのやり取りを聞いていた。奈実は結局、憧れていた鉄次にはどこも似ていない男と夫婦になったが、今は大切にされていてとても幸せそうだ。

「それにしても、あんたのご新造(しんぞ)は別嬪だがおっかねえな」

 妻の厳しい追及から逃れようと、十郎兵衛がぎこちなく話題を変える。

「さっきは本気で死んだと思ったぜ。火縄の先っちょだけ斬り飛ばすとは恐れ入った」

「伊都は女房じゃねえよ。おれの用心棒で、うちの船守の(かしら)さ」

 鉄次があっけらかんと答え、十郎兵衛を絶句させる。

「それで、今日は何の話をしに来たんだい」

「うちの品を、あんたのとこで扱ってもらえないかと思ってな」

 話が取り引きのことに移ると十郎兵衛はにわかに表情をあらため、持参の鉄砲を鉄次の前に置いた。

「村を挙げて造り上げた新式の六(もんめ)砲だ」

 彼の弁によると、銃身内部など各所に手の掛かる繊細な細工を施してあり、従来のものよりも命中精度が三割ほど上がっているという。

 ひととおり売り込みの口上を聞いてから、鉄次は船守の紫福(しぶき)倫太郎(りんたろう)を呼んで試射をさせた。彼は二十五歳と若いが、優れた砲術家としてすでに名を知られており、二年前に〈川渡屋〉の一員に収まるまでは方々の武家から引く手数多(あまた)だった男だ。それらの誘いをことごとく突っぱねたのは、自らも武家出身にもかかわらず〝侍が大嫌い〟だからだという。

 倫太郎は川の対岸に標的の案山子(かかし)を用意して、船上から次々と三十発あまりを撃ち込んだ。そこでやめたのは銃身が()けて持てなくなったからだ。

 船に引き上げた案山子は上半身がずたずたで、ほとんど心棒だけになっていた。

「二十発以上連続で撃っても、わたしの技量に見合うだけの命中率を保っていました。これは非常に精巧に作られた、とてもいい銃だと思います」

 倫太郎がそう評して下がり、再び四人で会所に戻ったあと、鉄次は張り詰めた顔つきをしている十郎兵衛に問いかけた。

「それで、今おれに売りたい鉄砲は何挺あるんだい」

「千挺」間髪を入れず答え、十郎兵衛がぐっと前に身を乗り出す。

 感情を出さずに黙って聞いていたが、伊都は内心ではかなり驚いていた。いきなり千挺などという桁外れの数字が出るとは、さすがに予想外だ。

「戦時中ならともかく――」鉄次は鉄砲を手に持って眺めながら、落ち着いた口調で言った。「南部の大軍(おおいくさ)が終わったばかりで、需要の減った鉄砲は値崩れしてるからな。また戦が始まりでもしない限り、千挺もの引き取り手が見つかるとは思えねえよ」

「でもよ、内戦とか小競り合いはしじゅうあちこちで起きてるだろ。東峽(とうかい)のほうも近ごろはけっこうきな臭いって話を聞くぜ。あんたぐらい手広くやってる商人なら、小分けしてうまく売りさばけるんじゃないか」

 十郎兵衛の声に必死の思いが表れている。是枝村は大量の在庫を抱えて困っているようだ。

 売る当てもなしに量産するはずはないので、おそらく当初はちゃんと買い手が決まっていたのだろう。だが納品前に先方の気が変わったか、代金が工面できずに逃げられたか、あるいは――在庫になったのがつい最近のことだとしたら、買い手が〝滅亡〟してしまったのかもしれない。

 守笹貫(かみささぬき)家だったのかしら――と思いながら鉄次をちらりと見ると、やはりこちらへ視線を向けていた彼と目が合った。どうやら同じことを考えていたようだ。

 買い手が家ごとなくなってしまったのでは、どこへ文句を言っていくこともできない。伊都は十郎兵衛を気の毒に思ったが、これは〈川渡屋〉にとってはうまい儲け話で、鉄次もそう思っているはずだ。

 戦がないから需要もないと彼は言ったが、戦は起きる可能性がある。それも、そう遠くない時期に、黒葛(つづら)家と守笹貫家の大軍(おおいくさ)をはるかに上回る規模で。その時が来れば、性能のいい鉄砲ならたとえ高値をつけても、千挺など(まばた)きをする間に売れてしまうに違いない。

 昨日亡くなった石動(いするぎ)元博(もとひろ)の遺言が届けば、黒葛家はすぐにも動き出すだろう。誰を敵と見定めて兵を挙げるかは伊都にはわからないが、天山(てんざん)に人質として預けていた嫡子を謀殺されて何もせずにいるはずはない。

 だが、これはまだごく一部の者しか知り得ない情報だ。鉄次はそこをうまく利用しようとするだろう。

「一挺六金でなら引き取ってもいい」

 彼の言葉に、十郎兵衛が顔色を変える。

「いや、それはねえよ。こいつの開発には、だいぶ元手もかかってんだ。十金はもらわなけりゃ」

「六金十五銀」

「どれだけまけても九金以下にはできねえ」

 伊都は口を挟まず、ふたりのやり取りにじっと耳を傾けていた。彼女の認識では、現在の六匁砲の市場相場は十金から十金二十銀といったところだ。倫太郎が太鼓判を押すほど性能のいい新式なら、十二金程度までは売値を上げられるはずなので、一挺九金で仕入れても充分な利ざやが出る。それは鉄次も当然わかっているはずだが、最新情報を握っている強みで大胆に値切るつもりのようだ。

 彼は優しいが、いつも優しいだけではなく時に冷徹にもなる。本質的には冷めていて、(ずる)さや計算高さを見せることもあるが、それは商売人なら当然のことだと伊都は思っている。

 辛抱強い駆け引きをしばらく続けたのち、鉄次は最終的な提示額を告げた。

「うちとしちゃ一挺七金二十銀が上限だが、昔なじみの奈実の顔を立てて、四銀上乗せした八金までは出そう。この額で手打ちにできねえなら、ほかの売り先を探してくれ」

 十郎兵衛が眉根を寄せて長考に入った。その隣で奈実は落ち着きなく、夫と鉄次のあいだで視線を行き来させている。

 ゆったり構えて待っていた鉄次が、頃合いを見て最後のひと押しを加えた。

「提示額を呑むなら、納品時に即金で支払う」

 それで十郎兵衛の腹は決まった。

「呑んだ。一挺八金だ」

「よし。あとの細かい話は、うちの番頭の佐吉(さきち)と詰めてくれ。すぐここに来させる」

 合意に達すると鉄次は客に別れを告げ、さっさと会所を出ていった。

 大きな取り引きを終えた十郎兵衛は、疲れ切った様子でぐったり座り込んでいる。奈実のほうは緊張から解放されて、心底から安堵しているように見えた。

「ねえ伊都ちゃん、〝佐吉〟ってあの佐吉? 掏摸(すり)をやってたちびっ子の」

「ええ」伊都はくすりと笑みをもらした。「今はもうぜんぜんちびっ子じゃないし、すごくやり手なのよ」

「へえ、あいつが大店(おおだな)の番頭にねえ。ほかの仲間は? 療術(りょうじゅつ)院に通ってた加代(かよ)ちゃんや、博徒(ばくと)為一(ためいち)は」

「みんな船にいるわ。加代さんはこの〈大豪〉に乗っているから、よかったら帰る前に会っていって」

 伊都はまだ名残惜しそうにしている奈実と、気が抜けたような顔の十郎兵衛に挨拶をして会所を出た。午前中にすべきことがいろいろあるので、懐かしい仲間とはいえ、いつまでもおしゃべりに興じてはいられない。

 上甲板を船尾楼のほうへ向かって歩いていくと、そちらから来たらしい伊吹(いぶき)とすれ違った。もともと、日ごろから機嫌のいい顔を見せることの少ない彼だが、今朝はまたことさら虫の居所が悪そうだ。

 墨染めの衣の袖が翻るほどの勢いで通り過ぎた彼を見送り、再び顔を前に戻した彼女は、鉄次が船尾楼甲板から見下ろしていることに気づいた。

「伊吹はどうしたの」

 階段を上っていって訊くと、彼は肩をすくめながら苦笑してみせた。

「遺言書と形見を届けに立州(りっしゅう)へ行けと言ったから、腹を立ててるんだ」

「鉄次さんが直接届けるのかと思っていました」

「いや、おれは行かねえよ。戦になったら得をする酒保商人が、戦のきっかけになりそうなものを持っていくってのはちょっとな。それに天翔(てんしょう)隊の砦は山上城砦と決まってるだろう。そんなとこまで登らされるなんざ、まっぴらご免だ」

 彼の言うことはわかるが、伊吹が怒るのも無理はないと思った。なにしろ一年近くも旅に出ていて、二日前にようやく船へ戻ったばかりなのだ。これからしばらくは、鉄次の傍でゆっくり過ごそうと思っていたに違いない。

「その代わり、次に伊吹が戻ってきたら今度こそ、一年でも二年でも好きなだけ船にいさせてやるさ」

 なるほど、それなら彼は納得するかもしれない。しぶしぶとだが。

「じゃあ、わたしたちはこのあと、どこへ行くの?」

 明朝には(いかり)を上げる予定で、当然ながら向かう先は立州だとばかり思っていた。

「久しぶりに古巣へ戻るとするか」

 伊都がはっとして目を輝かせると、鉄次は訳知り顔に微笑んだ。

 龍康殿(りゅうこうでん)――彼の身内として迎え入れられ、少女時代の大半を過ごした湊町。今では第二の故郷とも思える、わたしたちの〝はじまりの地〟。

 前回立ち寄ってから、もう二年半以上も経っている。

 かつて鉄次と共に歩いた路地や、出会った夏にふたりで見た空に咲く花などを思い出すと、郷愁が胸に湧き上がってきた。

「でかい金を動かすから、本店へ顔を出しておきたいしな。どう思う」

「わたしは賛成です」

 打てば響くように伊都が答えると、彼は含み笑いをしながら手すりにもたれて空を振り仰いだ。

「着くころには巧月(こうげつ)に入ってるから、嘉手(かて)川の打ち上げ花火をまた一緒に見られるな」

 鉄次さんも同じことを思い出していた――。

 たったそれだけのことで、伊都は心が大きな喜びに満たされるのを感じた。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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― 新着の感想 ―
[良い点] 悲しいかなしい別れの後に、奈実ちゃんというちょっとうれしい再会……! まさかここで出てくるとは!再登場自体がというより、彼女が自分を立て直して、幸せになっていたことがとても嬉しいです。 銀…
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