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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第三章 新たな火種
130/161

三十八 王生国天山・石動元博 伝える者

 少し記憶が途切れたのは、気を失っていたからだろう。

 元博(もとひろ)は寝転んだままで首だけ動かし、我が身の状態をおそるおそる確認した。

 夢であったらと思ったが、やはり右腕はなくなっている。かなり出血しているので、早くなんとかしなければならない。しかし残った左腕はまだついてこそいるものの、うまく使える気がしなかった。骨折した部分の痛みが激しいために肩そのものは動かせず、自由になる肘から先も今はしびれている。さらに、折れた刀身を握った手のひらはずたずたに裂け、小指はほぼ切断されかかっていた。

 こんな状態で、よくあの牢人(ろうにん)に勝てたものだと思う。あまりにみっともない戦い方で、師匠が見たら眉をしかめそうだ。それでも命を拾ったのだから、あるいは褒めてくれるかもしれない。

 元博は意を決し、失った右腕側へ横向きに転がった。かつて経験したことのない激痛が、雷撃のように全身を駆け抜ける。それを(こら)えてなんとか起き上がり、床に座るだけでかなりの時を費やした。

 少し呼吸を整えてから大刀の下げ緒を左手だけで不器用に解き、足の指先や歯など、使えるものを総動員してどうにか腕の切り株に巻いたが、締めつける力が足りていないのであまり止血の役には立たないかもしれない。

 それでも、次の行動に移るための準備はできた。

 一刻も早くこの小屋を離れ、抜け道を使って下の曲輪(くるわ)へ下り、忍びの政茂(まさしげ)に急を知らせなければならない。

 元博は苦労して立ち上がり、立ったことで激しいめまいを感じて、危うく再び倒れ込みそうになった。血を流しすぎたせいでふらふらする。小屋の中をすり足で何歩か歩いただけで目の前が暗くなり、回復するまでしばらく壁に寄りかかっていなければならなかった。

 この有り様で、ほんとうに曲輪をふたつも下りられるのか――と不安がよぎる。手が利かないので明かりを持ち運ぶこともできない。目印を確認することなく、前に一度通った時の記憶と体の感覚だけで、雑木林の斜面を正しい方向へ迷わず進めるだろうか。

 自分が弱気になりかけていることに気づき、元博はおもむろに壁に頭を打ちつけた。目から火花が散ったが、余計な考えも吹っ飛んだように思う。

 今はあれこれ思い悩むよりも、行動することに専念すべきだ。

 開いたままだった扉から戸外へ出ると、夜気が冷えびえと体を押し包んだ。吹雪の中に放り出されたような寒さを感じる。大量に血を流したせいだろうか。

 片腕がなくなったことで平衡覚も失われており、まっすぐ歩くことは(はなは)だ困難だった。ともすれば左へふらつき、立ち木にぶつかり、折れた鎖骨に炸裂する痛みで吐きそうになる。しかし、どれほどつらくとも足は止めない。つらいと感じることは、生きているということに直結しており、今の元博にはその実感が必要だった。

 右足を前に出して半歩。左足を出して一歩。そうやって(たゆ)まず足を動かし続け、少しずつでも前へ進むことだけに集中する。やがて森を抜け、星明かりに照らされた参道までどうにかたどり着くことができた。

 よし、いいぞ。次は曲輪門近くの(やぐら)へ――。

 その時、夜風に乗って呼び子の()が響いてきた。遠くかすかに鳴り物が打ち鳴らされているのも聞こえる。

 屋敷町であれだけの乱闘が行われ、あまつさえ鉄砲まで放たれたのだ。遅かれ早かれ番士が現場へ駆けつけ、騒ぎになるであろうことはわかっていた。だが、その後の展開に気を取られて完全に失念していた。

 いま彼らの前に出ていけば、間違いなく足止めを食らうだろう。保護されて手当てを受けられる可能性もあるが、もし椹木(さわらぎ)彰久(あきひさ)が番士の中にもつながりを持っていたら、捕らえられて秘かに殺されてしまうかもしれない。

 だが、ここでぐずぐずと迷っていたら、遠からず失血死するのは確実だ。その前に政茂と会い、すべて伝えて向後(こうご)を託さなければ。

 元博は心を決めると、参道へ出てまた歩き始めた。這うのと大差ないのろのろ歩きだが、それでもしぶとく、着実に足を前へと運んでいく。やがて参道の入り口に立つ二本の巨樹が近づき、その狭間を通り抜けて、ついに曲輪道へ出ることができた。

 見たところ人影はないが、いつどこから誰が現れるかわからない。彼は用心しながら道を渡り、三の曲輪の外周に建ち並ぶ屋敷群の外壁に沿って歩き出した。搦手(からめて)側の曲輪門まで、ふだんなら四半時とはかからない。しかし今日に限ってはそうもいかないようだ。

 記憶にあるより何倍も長く苦しい道のりをついに踏破し終え、目指す物見櫓が見える場所までたどり着いた時には疲労の極致に達しており、動き出す前にしばらく休まなくてはならなかった。

 幸い、このあたりにも人はいない。だが櫓の上階に明かりが(とも)っている。ここからではよく見えないが、夜番の者が詰めているのだ。曲輪内で騒ぎがあったことはすでに伝わっており、ふだんよりも警戒を強めているだろう。果たしてその監視の目をかいくぐり、櫓の下に入って抜け道を通れるだろうか。

 無理そうに思えるが、やるしかない。

 元博は休息と観察を終えると、爪先立ちで足音を消しながら、可能なかぎりの速さで残りの道を進んだ。

 櫓まで二十歩。残り十歩。いける。

「おい、止まれ!」

 あと少しで到着するというところで、上階から身を乗り出した番士に大声で制止された。だが、ここで止まるわけにはいかない。元博はかまわず櫓の脚部に入り込み、そのまま奧へと進んで、突き当たりに立つ土塀の下の穴に頭から飛び込んだ。

 前に同じことをした時には両腕が使えたが、今は無事な左腕もほとんど用をなさない。全身をのたうたせて芋虫のように這い、どうにか穴を通り抜けた彼は、そのまま塀の外の急斜面をごろごろと転がり落ちた。

「待て、そこを動くな!」

 頭の上から怒鳴り声が降ってくる。あの番士が抜け穴を見つけ、あとを追ってこようとしているのだろう。

 木にぶつかって転落が止まると、元博は懸命の努力でどうにか立ち上がり、不安定な足下に難儀しながらも再び斜面を下り始めた。予想通り林の中は真っ暗で、足下も行く先もろくに見えはしない。だが、前に政茂と経路の確認をした時に、斜め方向に下りていったことを覚えていた。

 角度はこのくらい――いや、もう少し左寄りか。

 彼はあの時のことを思い出しながら、転ばないように注意しつつ、じりじりと下の曲輪を目指した。

 上のほうの、あまり遠くはない場所で呼び子を吹いている。あの番士が追跡にかかる前に手勢を集めているのだろう。先行しているとはいえ、ぐずぐずしているとすぐに追いつかれてしまう。

 もっと急がなければ。

 そう思うと、驚いたことに進む速度が少し速まった。

 曲輪道をカタツムリのように歩いていた時は、あれ以上に動ける気などまったくしなかったが、追っ手がついた危機感で新たな活力が呼び起こされたようだ。そのことに勇気を得て、元博はがむしゃらな奮闘を続けた。

 行くんだ。足を止めるな。伝えなければ。伝えなければ――。

 自分自身に言い聞かせながら急斜面を下りきり、たどり着いた四の曲輪を突っ切って次の抜け穴へ。通り抜けた先はまた斜面で、今度は立って歩いているよりも、転がっている時間のほうが長かったかもしれない。

 そしてふと気づくと、彼は五の曲輪の裏店(うらだな)街の外に立っていた。

 にわかには信じられないが、前回、目印を頼りに来た時とまったく同じ場所へたどり着けたようだ。政茂の住む長屋の板塀が、目と鼻の先に見えている。

 躍り上がるほど嬉しかったが、喜んでいる暇はない。鳴り物が響いており、先ほど通過した四の曲輪の中でもすでに警戒態勢が取られているのは明らかだ。

 再び歩き出そうとした時、板塀の陰から人影がぬっと現れて立ちはだかった。

「元博さま」

 押し殺した囁き声は、紛れもなく政茂のものだ。

「上で何か騒ぎが起きたようなので、もしや下りて来られるかと思い、ここでお待ちしていました」

 安堵のあまり体から力が抜ける。

 元博がふらつくと、政茂はすぐに手を差し伸べて支えてくれた。同時に、斬り落とされた腕に目ざとく気づき、はっと表情を強張(こわば)らせる。

「ともかく、手前の家へ」

 彼は元博を抱えるようにして長屋へ運び込むと、まず水を飲ませ、腕の止血をやり直したあとで方々の傷の手当をしてくれた。訊きたいことはいろいろあっただろうが、手早く作業をしながら彼が質問したのはふたつだけだ。

貴昌(たかまさ)(ぎみ)は」

「亡くなられた」

「ほかの随員のかたがたも」

「おそらく」

 元博は彼にすべて話したかった。(いわい)城で大皇(たいこう)から提示された縁組み――もう何年も前の話のような気がする――のことや、亜矢(あや)姫と取り巻きのこと、襲撃と貴昌の臨終の様子、黒幕のひとりだった椹木(さわらぎ)彰久(あきひさ)、そして玉県(たまかね)家がかかわっていると思われること。

「政茂、わたしはたぶんもう駄目だ」

 傷に布を巻かれながら元博がそう言うと、政茂は気づかわしげな目で彼を見た。

「何を、お気の弱いことを」

「今夜知ったことを話すから、おぬしが国許へ伝えてくれ」

「ここにいれば、いずれ発見されてしまいます。すぐにも下の曲輪へ下り、できるだけ早く天山の外へ(のが)れなければ」

「おぬしがひとりで行ってくれ。大急ぎで、何もかも話して聞かせる」

「いえ、お国許へ伝えるのは元博さまのお役目です。さあ、立って。おつらいでしょうが、もうひと頑張りしてください」

 政茂は厳しい表情で言い、それとは裏腹な優しい手つきで元博を立ち上がらせた。土間へ導いて草鞋(わらじ)を履かせ、黒い引き廻し合羽(がっぱ)を着せかける。彼自身の身支度は手ぬぐいで頬被りをして、銭貨が入っているらしい巾着を懐に突っ込むだけで完了した。

「行きましょう」

 彼は元博を家の外へ連れ出すと、背中を向けて腰を屈めた。

「どうぞ」

 背負ってくれるというのか――元博は驚き、気まずく感じて断ろうとしたが、意地を張れるほどの体力はもう残っていない。あきらめて身を委ねると、彼はさほど重荷とも思っていない様子で立ち上がり、すぐさま小走りに駆け出した。

「揺れますが、ご辛抱ください」

「平気だよ」

 囁き合ううちにも裏店街を抜け、旅籠(はたご)や茶店などが軒を連ねる曲輪道の脇までやって来た。政茂はそこで足を止め、どこかの見世(みせ)の外壁にぴたりと張りついて、あたりの様子を窺っている。

「番士がうろついています。櫓にも人が。道を渡れば、抜け穴はすぐそこなのですが」

 元博は顔を上げて、夜道に目をやった。彼の言う通り、提灯を持った番士らしき人影が、三人組で十間ほど向こうを歩いているのがぼんやり見える。

 その時、元博たちの背後から誰かが怒鳴った。

「おい、そこの者。何をしている」

 別の番士だ。見つかった。

 政茂はそちらを見もせずに、曲輪道へ走り出た。

「待てッ」

 こちらに止まる気がないと見て、番士はすかさず呼び子を吹いた。先ほどの三人組も気づいたようで、一目散に走ってくる。

 政茂は広い通りを一気に横切って櫓までたどり着くと、背中の元博を脚部の陰にそっと降ろした。先ほどの巾着を彼の懐へ差し込み、引く手で腰の脇差しを素早く抜き取る。

「お刀を拝借」

 そう言って、彼は道のほうを向いた。

「やつらは手前が引きつけます。その隙に、お行きください」

 胸が張り裂けそうになった。身代わりにして、置いて行けるはずがない。

「おぬしは黒葛家の忍びだ。わたしなどのために死ぬな」

「天山でのこの十余年は……元博さまを(あるじ)と思い、お仕えしてまいりました」

 彼は低くつぶやき、ほんの一瞬だけ肩ごしに元博を見た。

「どうかご無事で」

 その言葉を残し、政茂は下段にかまえながら番士たちに向かって斬り込んでいった。


 塀の穴を抜けたあと、自分がどこをどう通って下層へ下りたのか、元博(もとひろ)はほとんど覚えていない。

 ひたすら南を指して急斜面を(まろ)び歩き、途中で何度となく足を踏み外して転げ落ちたことは、なんとなく記憶している。

 どこかの時点で曲輪に下り立ち、〝六の曲輪(くるわ)だ――いや七か? もうさっぱりわからない〟と思った気もする。

 ともかく気絶するまで、一度も足は止めなかった。それはたしかだ。

 意識を取り戻した時にはもう夜が明けかけており、元博は藪の中の水たまりに半分顔を浸けて倒れていた。全身が冷たく(こご)えていて震えが止まらず、どこもかしこもひどく痛む。おまけに石を載せられたように体が重かった。下層に下りたので浮昇(ふしょう)力が減り、その影響が出ているのだ。

 耐えがたい苦痛を感じながら首を回し、唇を泥水に浸してすすり込むと、やすりで(こす)られているような喉の不快感が少しだけ(やわ)らいだ。

 それからどうやって起き上がり、残りの斜面を下りて次の曲輪――〝七? それとも八か?〟――へ入ったのかについては、また記憶が飛んでいる。

 ただ自分が立って歩いているあいだ、ずっと同じことを小声で唱え続けていたのは覚えていた。

貴昌(たかまさ)さま……禎貴(さだたか)さま……直祐(なおすけ)どの……忠資(ただすけ)どの……宣親(のりちか)どの……重晴(しげはる)どの……政茂(まさしげ)……」

 半歩進むごとに名前をひとつ。その名を支えに、また半歩先へ。何度も何度も、繰り返し繰り返し。そうやって得たなけなしの力を振り絞って、ひたすら体を前に運び続けたのだろう、おそらく。

 次に意識がはっきりした時には、彼は粗末だが清潔な寝台に寝かされていた。泥まみれだった顔や手足は拭かれ、激しく痛む腕の切り株にも新しい布が巻かれている。

 寝台の傍には人なつこそうな顔をした若い祭宜(さいぎ)が座っており、彼は元博が明け方にやって来て祭堂の扉を叩いたのだと話した。まったく記憶にないが、自分の足でそこまで歩き、助けを求めたらしい。

 初めは混乱したが、少し時が経つと、前に月下部(かすかべ)知恒(ともつね)から「天山を去る時に何か困ったら、七の曲輪の祭堂を訪ねろ」と言われていたことを思い出した。「堂司(どうし)には話を通してあるから、力を貸してもらえる」と。

 確認してみたところ、やはり若い祭宜は知恒が言っていた堂司その人だった。呉羽(くれは)という名の小祭宜(しょうさいぎ)で、知恒とはかつて三の曲輪の祭堂に奉職していた時に知り合ったという。

 元博は自分が無意識のうちに知恒の言葉を思い起こし、夢中遊行のような状態で祭堂を訪ね当てたらしいことに驚きを隠せなかった。これも執念のなせる技だろうか。

 呉羽に自分が追われていることを話し、天山の外へ出られるよう力を貸して欲しいと頼むと、若い堂司は快く了承してくれた。

 御山(みやま)証札(しょうさつ)を持っている奉職者は、上層から下層までどの曲輪へでも自由に出入りできるが、余計な供連れがあるとなるとそう簡単にはいかない。

 日が暮れてから簡単に身支度をして祭堂を出た呉羽は、草木に覆われた山の斜面の困難な経路を行くしかない元博に辛抱強くつき合い、彼の歩みを支え、時には政茂のように背負ったりもしながら、ほぼひと晩かけて最下層の外曲輪(そとぐるわ)まで連れ下ろしてくれた。ここから先には番所での詮議や手形(あらた)めもないので、ひとまず難所は抜けたと言っていいだろう。

「あとは門を出て、堀を渡るだけですね」

 呉羽は曲輪内に入ると、繁華な通りを抜けて南大手門のすぐ近くまで行き、背中からいったん下ろした元博を道の端に座らせた。

「背負ったままにして差し上げたいですが、目立ってしまうかもしれません。橋を渡りきるまで、少しだけ歩けそうですか?」

「ええ」

 元博は立ち上がろうとしてふらつき、転倒して尻餅をついた。思っている以上に消耗しているようだ。

「やはり少々危険でも、中に数日ほど留まってお体を休められては。療師(りょうじ)にも診てもらいましょう」

 呉羽は元博の背中をそっとさすり、心配そうに言った。

「いえ、すでに捜索の手が天山全体に伸びていると思います。ともかく外へ出ないことには、いつ捕らえられるかわかりません」

 元博は再び立とうと試み、呉羽の手を借りて今度はどうにか成し遂げられた。だが膝ががくがくと震えて止まらない。

「では、外へ出て近くの集落へたどり着いたら、真っ先に療師を呼んでもらいましょうね」

 呉羽は元博を力づけるように微笑み、ぴったり寄り添って腰に腕を回した。

「あわてずに行きましょう。少しでも楽に歩けるよう、わたしに体を預けてください」

「すみません、ご面倒ばかりかけて」

 彼に半ば抱えられながら、元博はゆっくりと前に進んだ。

 朝一番で外曲輪へ入ってくる者と出ていく者が(せわ)しなく行き来する中に混じり、誰の目も引かないよう静かに内門を抜ける。土塁に囲まれた枡形の広場を横切り、南大手門の大門をくぐると、その先に幅六十間ほどもある大外堀が現れた。西に流れる丹呉(たんご)川から引き込んだ水が、その堀に満たされて天山の縄張りの外周をめぐり、東で菊美(きくみ)川と合流している。

 水堀にかけられた長い橋を前にして、元博は大きく息をついた。あと少し。これを渡れば逃げ切れる。

 ゆっくり渡り始めたところで、橋の中ほどにふたり、さらに対岸のたもとにもふたりの番士が立っていることに気づいた。彼らは外から入って来る者には目もくれず、曲輪から出ていく者をじろじろと観察している。

 十歩ほど進んだところで、橋の上に強い風が吹きつけて元博のまとう合羽を巻き上げた。一瞬のことだったが、橋の中央にいる番士のひとりがふとこちらを向き、その目が元博の欠損した腕に釘付けになる。

 そうか、あの腕――元博は瞬時に悟った。斬り落とされた右腕を、三の曲輪の小屋に残してきた。番士たちは片腕を失った若い男を捜すよう命じられているのだ。

 その番士はにわかに表情を引き締め、大股に近づいてきた。このままでは捕まる。いや、それよりも、これ以上の犠牲を出すわけにはいかない。

 元博は歩みをさらに遅くして、怪訝そうに視線を向ける呉羽に囁いた。

「堂司、あなたはこのまま行ってください。わたしとは何の関係もないかのように」

「元博さま?」

「決して振り返らないでください。お力添えに感謝いたします」

 番士がすぐ近くに迫っている。元博は足を止めた。支えてくれていた呉羽の腕が体から離れていく。

 元博はふらふらと橋の縁に寄り、番士の手が自分のほうへ伸びてきた瞬間、それをかわして堀の水に身を投げた。

 

 泳ぎは得意だが、それは両腕が使えればの話だ。

 元博(もとひろ)は水の中に深く沈み、必死に足をばたつかせて浮上しようと試みるもなかなか果たせず、あわや溺れるかと思ったところでどうにか水面に顔を出すことができた。川とつながっている堀の水には流れがあり、見れば飛び込んだ橋はすでにかなり遠くなっている。

 そのまま後ろ向きに流されながら、元博は雄峰天山(てんざん)を見上げた。

 十二年ぶりに外から見る、切ないほどに美しい山容。前回この姿を眺めた時には朋輩たちが一緒だった。そして、まだ幼かった若君も――。

 涙があふれてきて、それ以上見ていられなくなり、元博は向きを変えて水の行く先へ目をやった。

 少し向こうで流れが左右に分かれ、右へ行くと菊美(きくみ)川に流れ込む。そちらへ入って天山から離れたほうがいいだろうが、天然の川は堀の中よりも流れが急なはずだ。果たして、どこかで岸に寄って地面に這い上がれるだろうか。

 ここでもまた、両手が利かないことが大きな障害になる。抜き手を切って思うほうへ向かうことも、土手の草を掴んで体を引き揚げることもできない。下手をするとどこまでも流され、いずれは疲れ果てて完全に沈んでしまうだろう。

 悩んでいるうちに流れが速くなり、はっと気づいた時にはもう菊美川の幅広な本流に入っていた。いよいよ、悠長に流されている場合ではない。

 そこから元博は、ほとんど残っていない体力を限界まで使って、なんとか岸の近くへ行こうともがいたり、這い上がれそうな浅瀬や低い土手を探したり、誰かに声が届くことを願いながら助けを呼んでみたり、およそ思いつくことはすべて試してみた。だが水から上がれる場所はどこにも見当たらず、救助を請う声に応える人もない。

 駄目だ。あきらめるものか。国に戻るんだ。伝えなければ。なんとしても伝えなければ――。

 その一心で足掻きに足掻き続けたが、やがて精魂尽き果て、水を蹴る足の力も涸れ果てて、あとはもうただ流れに身を任せるしかなくなった。じきに、水面に浮いていることすらできなくなるだろう。

 こんなことなら呉羽(くれは)祭宜(さいぎ)に情報を託し、南部へ運んでもらえばよかったと元博は悔やんだ。奉職者を武家の問題に巻き込むべきではないが、背に腹は替えられないではないか。だがあの時にはまだ、天山から出ることさえできれば国に帰り着けると思っていた。自分は必ず帰れるのだと――闇雲にそう信じ込むことで、最後に残った気力を奮い立たせていたのかもしれない。

 そうして己を騙しているうちに、機を(いっ)してしまった。

 なんて愚かだったのだろう……。

 急に全身が重くなり、何かに引っ張られるように両脚が下がった。息を吸い込む間もなく、どぷりと鼻の上まで水に沈む。目はまだ開いているが、視界はかすんでもう何も見えていない。

 その時、後頭部に何かがコツンと当たった。次いで頭上から、あくび混じりの呑気な声が降ってくる。

「なんだ、ようやくでかいのが掛かったかと思えば土左衛門か」

 つまらなさそうに言ったあと、その声の主は元博の襟首を掴んで一気に水から全身を引き揚げ、凹凸のある乾いた床の上に横たえた。

 なぜだろう。水から出たのに、まだ揺られている感じがする。

「おや、土左衛門じゃなかったわい。おぬし、まだ生きておるな。ほれ、しっかりせい」

 ぺちぺちと軽く頬を叩かれて瞼を開くと、大きな目をした五十男の顔が目の前にあった。禿げ頭の天辺までよく日焼けしており、顔の下半分はわずかに白髪の混じった(こわ)い髭で覆われている。

「荒っぽくして悪かったのう。そんな傷を負っておるとは思わなんだのだ」

 髭面の男は悪びれる様子もなく言って元博を抱き起こすと、ひょいと肩に担ぎ上げた。

「もう、ちょいと辛抱しろ。いま足場のよいとこへ運んで、ゆっくり休ませてやるからな」

 彼はそう言いながら、何か梯子のようなものを登り始めた。一方の手で元博の体が落ちないよう押さえており、片手しか使えないはずなのに、まったく苦もなくすいすいと上がっていく。

 だいぶ高い位置まできたと思えたところで、さらに上のほうからいくつかの声が聞こえてきた。

「珍しく今朝は大物を釣ったじゃありませんか、先生」

「なあ先生、そりゃあいったい、どう料理して食うんですかい」

 男が上り続けながら、不機嫌そうに鼻を鳴らす。

「おまえらに先生と呼ばれる筋合いはないわい。くだらんことを言っとらんで、この御仁をさっさと受け取れ。乱暴にするな。傷が痛まぬように、やんわりと触るのだぞ。かわいそうに、ひどい怪我だ」

〈先生〉に矢継ぎ早に指図された男たちが、「へいへい」と生返事をしながら元博を受け取ってどこかへ運んでいく。

 やがて仰向けに下ろされたので再び目を開けると、上には抜けるような青空が広がっていた。その青一色を背景に、巨大な柱が屹立している。

 首を動かして見回すと、右のほうに低い板塀があり、その上に先ほどの〈先生〉の顔だけが覗いていた。塀の手前側には数人の男が立って、遠巻きにこちらを見ている。

 そこで初めて元博は、自分が船の上にいることに気づいた。天を突くように立っている、あれは帆柱だ。塀と思ったものは舷側(げんそく)の横壁に違いない。

「先生、そのかたはどなた」

 ふいに、頭の上のほうのどこかから女性の声がした。少し低めの、きれいに澄んだ優しい声音だ。

「流れてきたので拾い上げた。あとは、おぬしに任せるぞ。わしは下に戻る」

〈先生〉の禿頭(とくとう)船縁(ふなべり)の向こうに消え、それと入れ替わるように近づいてきて屈み込んだ人物の顔を見た元博は衝撃のあまり、あらゆる痛みをしばし忘れた。

 これまで長年〝天山の宝玉〟と讃えられる真名(まな)妃を間近で見てきて、これほど美しい女性は天下にふたりとはいるまいと思っていたが、どうやら間違っていたようだ。

 ひと目見ただけで目が離せなくなり、見つめていると胸が苦しくて目を逸らしたくなる。そんな美しさが存在するなどとは思ってもみなかった。いったい、どんな両親から産まれたら、こんな非の打ち所のない美貌が出来上がるのだろう。

 二十歳(はたち)そこそこと思われる女性は元博の動揺に気づく様子もなく、すぐ傍らに腰を下ろすと、両手で慎重に彼を自らの膝に抱き上げた。

「お、下ろしてください」

 元博はあわてて身をよじった。跳ね起きるつもりだったが、思うように体が動かない。

「床が硬いから」その女性は穏やかに言って手を伸ばすと、あやすように元博の胸元をなでた。「じっとして、お楽になさってください」

「わたしは濡れていますし、血でお召し物を汚してしまいます」

「いいの。お気になさらないで」

 彼女は平然と言って、周りで見ている男たちに目をやった。

加代(かよ)さんはどちら。誰か知っている」

「今日は女たちの検診の日だとかで、子船のほうへ行ってますよ。呼んできますか」

 鋭利な顔つきをした屈強そうな男が答え、彼女が「お願い」と言うとすぐにどこかへ歩いて行った。この女性はまだ若いが、船の中でかなり地位が高いらしい。もしや彼女の持ち船なのだろうか。

「あの――」急に不安になってきた。「お助けいただいて恐縮ですが、わたしはある事情で追われています。ここにいると、あなたがたにご迷惑をかけてしまうかもしれません」

 女性は元博を見下ろし、形のいい唇に心を(とろ)かすような微笑を浮かべた。

「どうぞご安心を。わたしどもの船にお招きしたからには、何が来ようとも必ずお守りします」

 かなり自信ありげな口調だ。

「もうすぐ療師(りょうじ)もまいります。ほかにもご要望があればなんなりと」

 そう言われて、はたと気づいた。

 これは南部へ情報をもたらす最後の機会だ。

 図らずも知ってしまった黒葛(つづら)家を巻き込む黒い陰謀――〝国許へ伝えなければ〟と思い定め、その一念であらゆる痛みや苦しみに耐えて持ち運んできた情報は、ここで今度こそ誰かに託さなければ死にゆく運び手と共に消え失せてしまう。

 危うく溺れ死ぬ寸前のところを救われ、すっかり事態が好転したような気分になっていたが、自分の命が風前の灯火(ともしび)であることに変わりはないのだ。療師が来ると言われたが、たとえ来たとしても欠けた肉体を補い、失いすぎた血を元に戻せるわけではない。

 実際すでに、衰弱の激しい体はほぼ動かすこともできなくなっており、こうしているあいだにも身を(さいな)む苦痛は増すばかりで、ゆるゆると精気が抜け出ていくのが感じられる。頭は逆上(のぼ)せている気がするのに、氷水に()かっているかのように体が寒いのは、高熱が出ているせいだろう。

 急がなくては。

「では、どうかお願いします。わたしがこれから話すことを……すべて書き留め、親族に送り届けてください」

 会ったばかりの人に、主家の大事にかかわることを話す――そう思うと心が揺れた。だが、ほかに手立てがない以上、これに賭けるしかない。

 すがるように見上げると、彼女は少し考えてからこくりとうなずいた。

「承知いたしました。ですが、聞き書きではかなり手間取りますから、ほかの方法を採らせていただきます」

 もう時がないという焦りが、何も言わずとも伝わったようだ。

 この人も、わたしが長くはもたないと悟っているのだな――と元博は思い、かえって気持ちが楽になったように感じた。

 女性が顔を上げ、周りで会話を聞いている男たちのひとりに目をやる。

「旦那さまに下りてきていただいて。急ぐからと……わたしがそう言っているとお伝えしてね」

「へい、すぐに」

 その男は船尾のほうへ走っていった。後ろ姿を少しだけ見送り、女性が再び元博を見る。

「これからここにまいりますわたしどもの主人に、ご親族にお言伝(ことづて)なさりたいことを何でもお話しください。主人は耳で聞いたこと、目で見たことを何もかも、紙に書き留めるよりもはるかに速く正確に記憶することができるのです」

 キツネにつままれるような話だが、彼女の表情は真剣そのものだ。嘘や冗談を言っているとは、とても思えない。

「ご主人……あなたの?」

 女性がくすっと笑った。

「わたしではなく、わたしどもの――酒保商〈川渡(かわと)屋〉の(あるじ)です」

 そこへ、奇妙な足音が聞こえてきた。草履履きで歩く音に、コツ、コツ、と硬質な音が混じっている。

 頭を少しだけ上げて視線をやると、肩に長羽織を無造作にかけた細身で背の高い男が見えた。杖を突いているが、それにすがっている風ではなく、不思議な優雅さを感じさせる歩き方をしている。

 彼が近づくと、元博の肩に優しく添えられていた女性の手に、ごくわずかな力が加わった。押さえつけているわけではないが、さり気なく動きを封じているのがわかる。〝主人〟だという彼に万が一にも危害が及ぶことのないよう、彼女はもはや虫の息の男に対してすら抜かりなく警戒心を働かせているのだ。

 彼のことをとても大切にしているのだな――と元博は思い、わたしはなぜこんな風に貴昌さまをとことん守れなかったのだろう、と口惜しさを噛みしめた。

「おれに急ぎの用だって」

 男は元博の傍へ来ると、脇の床に腰を下ろして胡座(あぐら)をかいた。年は三十代の半ばぐらいだろうか。女好きのしそうな顔立ちをしており、世慣れた雰囲気を漂わせている。

「さっき(しん)からざっと聞いたが、あんたの話を親族に伝えりゃいいのかい」

 男は問いかけながら羽織を脱ぐと、寒さに震え始めていた元博の体にかけてくれた。

「ええ。ですが——」先にどうしても、はっきりさせておかないといけないことがある。「あなたは酒保商人だと伺いました。武家と商取引をなさっているのですよね」

「まあ、主に武家だな」

「どこか特定の家の御用商人ですか」

「違うよ。おれは金を払ってくれるなら、誰とでも商売するんだ。御用商の看板なんて、面倒くさいものは欲しかねえな」

 つまり〈川渡屋〉には天山や三廻部(みくるべ)家、玉県(たまかね)家などとの(しがらみ)はないということだ。あとは、彼の言葉を信じるか信じないか――そこは直感に頼るしかない。

「では、お話しします。ただ、とても微妙な内容なので、できれば……」

 彼が人払いをと頼む前に、それと察した女性が周りの見物人たちを目顔で遠ざけてくれた。

「話は聞くが、その前に」男が元博の顔を覗き込む。「おまえさん、名前は」

石動(いするぎ)元博と申します」

「わかった。おれは、おまえさんの言葉を一言一句(たが)えることなく覚えられるから、話の前後だの何だのは気にせずに、言いたいことを好きなだけしゃべるといい」

 彼は胸の前で腕を組み、すっと目を伏せた。

「さあ、始めてくれ」

 促されるままに、元博はしゃべった。

 頭に浮かぶそばから次々に、取り留めもなく、焦燥に急き立てられながら夢中でしゃべり続けた。

 男はいっさい口を挟まず、集中して、ただじっと耳を傾けている。

 途中で舌が乾いて咳き込むと、すぐに水が運ばれてきた。何度か意識が朦朧となりかけた時にはすかさず酒を口に注がれた。蜜のような甘さのある、かなり強い酒だ。

 ふと気づくと白衣を着た三十歳ぐらいの女性が傍におり、元博の脈を取っていた。先ほど来ると言っていた療師に違いない。まだ続いていた彼の独白を遮ることなく、彼女は下まぶたをめくり、体のあちらこちらを触り、最後に長々と全身を観察してから沈痛な面持ちで離れていった。

 もはや手の施しようがない。そういうことなのだろう。だが、すでに覚悟はできているので落胆はしない。 

 そのうちにだんだん気が遠くなり始め、そっと揺すられて我に返ると、男がすぐ近くから見下ろしていた。

「今の話を、親族の誰に伝えて欲しいんだい」

 父の博嗣(ひろつぐ)に――と答えようとして、元博は迷った。父は猛将として知られる人物だが、中央政治にはあまりかかわっておらず、ふだんは領地の狩集(かりづめ)にいて西の国境線を守っている。武力で押してくる敵ならいくらでも迎え撃てるだろうが、あんな深謀遠慮をめぐらす魑魅(ちみ)魍魎(もうりょう)どもを相手に、果たしてうまく立ち回れるだろうか。

 では孝博(たかひろ)兄はどうだろう。彼は右筆(ゆうひつ)衆のひとりとして郡楽(ごうら)の本城で働き、今は黒葛家史の編纂(へんさん)に携わっていると聞いている。我が家ではいちばん宗主に近い位置にいるので、情報を託すには最適かもしれない。だが宗主に近いということは、同時に奥方の富久(ふく)にも近いということだ。郡楽城へ届けられた情報が、何かの手違いで玉県家に渡ってしまわないとも限らない。

 ここは、やはり――。

「兄の石動博武(ひろたけ)に」

 誰よりも広い視野を持ち、先見の明があり、天山でもっとも警戒すべき相手は椹木(さわらぎ)彰久(あきひさ)のような人物だといち早く見抜いていた聡明な次兄。彼ならばこの情報をどう扱うべきか、誰よりも的確な判断を下せるはずだ。

天翔(てんしょう)隊の大将で……立州(りっしゅう)北部にある砦にいます。砦の名は――」

 なんだったろう。急に頭がぼんやりしてきて、思い出せない。よく知っているはずなのに。

「砦の名は調べる」

 男が静かに言い、じっと元博を見つめた。

「家族の間だけで通じる符丁(ふちょう)か何かあるかい。おれの届けた話が、たしかにおまえさんからだと兄貴が確信できるような」

 ともすれば遠のきそうになる意識を必死に繋ぎ止め、元博は唾を飲み込んで囁いた。

「〝三度(みたび)元服した男〟から――と」

 かつて、ささやかな笑い話のつもりで、それを自分の二つ名にすると手紙に書いた。兄はきっと覚えているだろう。

 男はちょっと不思議そうに眉を上げたが、優しい目をしてうなずいた。

「わかったよ」

 瞼が落ちる。

 膝に抱いてくれている人の温かい手が頬をなで、その感触が別の女性を鮮やかに思い出させた。

美緒(みお)……」

 一緒に故郷へ――。

 意識が真の闇に呑み込まれる寸前、元博の脳裏をよぎったのは最愛の人の内気そうな笑顔だった。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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― 新着の感想 ―
[良い点] 貴昌さまも、元博くんも、ああ……!泣 亜矢ちゃんも苦しんでいたのだなぁと、貴昌さまのひたむきな優しさのおかげで少し希望の芽が見えてきたときに限って!!はわー!! だけどだけど、この、最後に…
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