三十五 丈夫国生明郷・黒葛寛貴 跡取り息子
十二年続いた守笹貫家との戦争で勝利者となった黒葛家が手にしたものは多かったが、失ったものも決して少なくはなかった。
まずは膨大な数の味方の死者。
最終決戦の直前に行った由淵と耶岐島でのふたつの野戦だけで、じつに一万八千人あまりの死者を出している。右翼軍大将だった黒葛貴昭を筆頭に、中には支族や上士、それに相当する有力者も多数含まれていた。命は取り留めたものの戦傷が重く、未だ出仕の目処が立たない者も看過できない数に上っており、そのため三州の宗家、丈州生明家、立州七草家では現在いずれも深刻な人手不足に陥っている。
その次は金だ。長年に及んだ戦役に、黒葛家は桁外れな額の戦費を費やしていた。婚姻同盟を結んだ永穂国の樹神家からの借銭も莫大で、一部は結納金として受け取っているが、残りはいずれ返済しなければならない。
それに加え、黒葛寛貴が支配する丈夫国はここしばらく不作の年が続いており、二年続けて七草家から相当量の米を借り受けていた。親戚とはいっても国同士の貸借なので、これも遠からず現物か銭貨で返済する必要がある。現当主の甥貴之は頼めば猶予をくれるだろうが、伯父の立場をいいことに無闇に返し渋るような真似をして、代替わりしたばかりの彼の面目をつぶさせてはならない。
そして黒葛家が江州役で失ったもうひとつのものが、領内の安定だった。
終わればみな家へ帰ってめでたし、とはいかないのが戦の難しいところだ。勝利を得た一時の興奮が冷めてしまえば、疲弊しきった体と消耗した心だけが残る。元の生活にすんなり戻れる者も中にはいるが、多くはどこかに違和感をおぼえながら日々を送っていかねばならない。戦役に参加した働き手がようやく戻ってみれば、故郷が敵に蹂躙されて跡形もなくなっていたり、家が焼かれ、妻子を連れ去られ、大切な田畑が枯れてしまっていたりすることもある。そんなふうに崩壊した日常を元どおりに建て直すのは骨の折れることだ。
領民の多くは戦が終結した喜びよりも、現状や先行きへの不安を強く感じており、それが景気の落ち込みや治安の乱れにつながっていた。
契約を解かれて無職となった傭い兵や、戦で主を失い行き場をなくした雑兵たちが大量に流れてきて領内をうろつき回っているのも、人心が乱れる大きな原因となっている。彼らは方々で喧嘩騒ぎを起こし、放火し、飢えれば盗みを働いた。時に徒党を組んで村を襲ったり、女や子供を生け捕りにして売り払ったりもする。
戦時中は大将の裁量により敵地で同様の乱取りを黙認、あるいは推奨することもあるが、戦後になり食うための手段を失った彼らは今それを自由裁量で行っているのだ。最近の報告では、ひとつの集落から十三人もの子供が連れ去られた事件もあったという。
そんな狼藉を許してはおけない。一刻も早く討伐隊を出したい。だが、その人手をどこから動員すればいいのだろう。
戦陣を引き払って四日前に生明城へ戻ってきた黒葛寛貴は、帰還を祝う宴も休息も早々に切り上げて戦後処理に明け暮れながら、そうした思うに任せない問題ばかりを抱えて悶々としていた。重臣たちも一緒になって頭を悩ませているが、これといった打開策はまだ出ていない。
ふうと嘆息して、寛貴は朝からずっと目を通していた軍目付の記録を文机に放り出した。手伝いをしていた真境名和高が怪訝そうに顔を上げる。
「いかがなさいました」
「飽きた」
くたびれた、とは言いたくない。そういう言葉を口にすると、ぐっと老け込む気がする。
「誰が一番に槍をつけたの首をいくつ獲ったのと、毎日そんな報告ばかり延々と読み続けて、もううんざりだ」
童顔の和高が少年のように笑む。
「気晴らしに、何か甘いものを召し上がりますか。あるいは水菓子でも」
「今日は少し蒸すから、冷えたものが舌に心地よかろうな」
和高はすぐに立ち上がり、隣室に控えている小姓に何か申しつけに行った。それを横目に見ている寛貴の脇で、やはり合戦の記録を読んでいた日疋利真が呻きとも嘆息ともつかないものを小さくもらす。
「どうした、利真」
寛貴が訊くと、小姓頭だった若いころに比べてずいぶん厳つい男になった近習が、筋骨たくましい体を揺すってこちらを見た。
「由淵陣で、西の搦手を攻めた部隊の記録ですが――」帳面を開き、整然と並んだ墨文字の列を太い指で指す。「このあたりから、どうも記述が曖昧で信憑性に欠けます。手蹟も異なっておりますし、途中で筆記者が替わったのではないでしょうか」
部屋へ戻ってきた和高が、それを聞きつけて口を挟んだ。
「由淵では軍目付の奥平昌清どのが午ごろにお討ち死になさったので、その場にいた繵伸暁どのが代わりを務めたと耳にしました」
誰だ、それは。寛貴は眉をしかめ、近習ふたりを交互に見た。
「聞かぬ名だな。どこの家臣だ」
「繵伸暁なら、玉県家です」答えたのは利真だ。「現当主の綱保どのに仕える人物で、分家の――安須白玉県家の長女比紗どのと結婚を」
なんだ、ではおれの妻の姻戚ではないか。
「つまり喜多のいとこの夫だな」
とはいえ軍目付はそんな、主将が名を聞いたこともないような馬の骨が勝手に務めてよい役目ではない。寛貴は不快に思い、胸の中がもやつくのを感じた。
「緊急のこととはいえ、本陣に伺いも立てず代理を決めるなど不遜に過ぎる。搦手の部隊を率いていたのは誰だ」
「大将は真栄城邦元さま、副将は玉県晴綱さまです」
利真が記録を見ながら答え、何とも言えない表情になった。
「では、あるいは……晴綱さまの裁量でお決めになったのやもしれませんね」
寛貴は低く呻き、むっつりと押し黙った。
安須白家の先代当主だった玉県晴綱は黒葛宗家に古くから仕え、七草家の臣である嫡男の輝綱に家督を譲ったのちも隠居することなく、江州役の終結まで槍働きを続けていた宿将だ。寛貴の陣に晴綱隊を委ねた兄禎俊は彼を気に入っており、「頼りになる男」だと太鼓判を押していた。
戦場での働きぶりはたしかに悪くなかったと記憶しているが、どさくさ紛れに自分の娘婿を軍目付に挿げ替えたのだとすると、腹黒いとしか言いようがない。
「和高、実際に晴綱が指図したことであったかどうか、事の真偽を確かめよ」
この役目は、玉県家と同格の支族の一員である和高が適任だろう。
「利真はその記録を、検め方と共にいま一度精査せよ。伸暁とやらが、主家に過度な配慮などしておらぬかどうかをな」
玉県家は信用ならぬ――。
長らく心に抱き続けている玉県家への不信感は一部の重臣にしか明かしていないが、子供のころから傍で仕えてきた近習たちは薄々感じ取っているだろう。
寛貴が玉県家に胡乱な眼差しを向けるようになったのは、十七年前に玉県宗家の長女富久が兄禎俊の継室に名乗りを上げた時からだった。兄の最初の妻光が次男貴昌を産んだ二年後に病没したあと、一年ほど経ってその話を持ち込んできたのが安須白家の当主だった晴綱だ。
兄は母方のまたいとこでもあった亡妻に思いを残しており、まだ継室など欲しくないとしばしば口にしてもいたが、「幼い貴昌君には母君が必要です」と晴綱にしつこくかき口説かれて半ばあきらめ混じりに承諾した。頑是無い年ごろの息子に可愛がってくれる義母を与えてやりたいという一心であり、十一歳年下の富久にさしたる興味は示していなかったように思う。ほどほどに若く健康で、奥向きを仕切れる女であれば誰でもよかったのかもしれない。
寛貴は当時すでに分家されて丈州にいたが、晴綱が自分の姪を兄に売り込んだ強引なやり口を聞いて不快に思ったのを覚えている。のちに郡楽城で対面した富久にも、顔を合わせた瞬間から何か相容れないものを感じた。
たかが一支族の娘が、名家の姫のように取り澄まして生意気な――というのが最初に抱いた印象だ。
富久は初婚ではあるものの二十歳になっており、新妻の初々しさはほとんど感じられなかった。顔立ちは美しいと言えるだろうが、表情に温かみがないので魂の入っていない不出来な人形のようだ。家臣の娘が主家に、それも黒葛家ほどの名家に嫁いだのだから、さぞや怖じ恐れて縮こまっているだろうと思いきや、彼女はふてぶてしいほど堂々とした態度で平然と寛貴に挨拶をしてみせた。
少しばかり交わした言葉も、富久に対する気持ちを和らげる役に立ったとは言いがたい。彼女は人の話に素直に共感を示すということをせず、利口ぶっていちいち混ぜ返そうとする面倒くさい女なのだ。
なんだ可愛げのない、と寛貴はあきれ、一度会っただけで富久が嫌いになった。こんな女を義姉と呼ばねばならぬとは腹立たしいことだ。
その感情がより強く、確乎たるものになった原因も、思えばまた縁談がらみだった。
不祥事を起こした二度目の妻を離縁したあと、まだ嫡子のなかった寛貴は方々の親族に後添えの世話を頼んでいたが、そこへ富久が夫である禎俊を通して妹の喜多をねじ込んできた。
あの女の血縁などもらってたまるかというのが本音だったが、間に兄を挟まれては無下に拒絶もできない。一日も早く跡継ぎをと望む周囲からの強硬な後押しもあり、結局寛貴は抗いきれずに喜多を娶ることとなった。
無事に嫡子を得ることができ、その後は夫婦仲もきわめて良好になったので、結果的には良かったと思うべきなのかもしれない。だが、富久に自分の人生に干渉された不快感はいつまでも心の片隅に残り、年月を経ても消えることはなかった。
「御屋形さま、水菓子がまいりましたよ」
和高のほがらかな声が、いつの間にか追憶に耽っていた寛貴を現実に引き戻した。
「おお、そうか。縁側で食おう」
寛貴は内庭を望む濡れ縁に出て、湿っぽい淡い水色の空を見上げた。夜には雨になるかもしれない。
きれいに拭き清められた床板の上に直に腰を下ろし、寛貴は小姓が運んできた水菓子を食べた。今が旬のアンズと、少し時期を過ぎているが肉厚で甘いビワの盛り合わせで、井戸水でよく冷やされている。
「利真、繵伸暁とやらのことを、よく知っていたな」
ふと気になって訊くと、隣で相伴させている利真がビワの皮を剥きながらにっこりした。
「わたしの妻が娘時代に郡楽城で行儀見習いをしていた時、ちょうど安須白家の比紗どのも奧勤めをされていて、少々つき合いがあったのです。その縁で今も折々に文を交わしているので、結婚相手の話も耳に入ってきました」
「なるほど」
寛貴はうなずき、アンズの実を取って半分かじった。
「結婚といえば、和高は戦が終わったらすると言っていたな。もう準備は始めているのか」
同じようにアンズを手に取りながら、和高はちょっと肩をすくめてみせた。
「いえ、まだ何も始めてはおりません。戦後処理がすむまでは多忙な時期が続くでしょうし、もろもろ落ち着いて余裕ができてからゆっくり考えようと思っています」
「悠長なことを言っていないで、すると決めたならさっさとしてしまったほうがいいぞ」和高より六歳年上の利真が、訳知り顔をして言う。「わたしの長兄などは物臭な質で、〝そのうちに〟〝来年にも〟と先延ばししているうちにどんどん時が過ぎ、ようやく挙式をした時には許婚がすっかり老嬢になっていた。初夜の床で思わず妻に〝老けたなあ〟と言ってしまい、夫婦になった日から大喧嘩だ」
三人分の哄笑がどっと弾け、庭木に来ていたアカショウビンが驚いて飛び立った。
「そんな羽目にはならぬよう気をつけます」
和高がくすくす笑いながら、手についた果実の汁を懐紙でぬぐう。
「たいして支度がいるわけでもないので、ほんとうは早々に日取りを決めてしまってもいいのですが」
謙遜して言っているが、真境名家の家格を考えればそう簡素にすませるわけにもいかないだろう。これが名家の婚礼ともなれば、さらに手間暇がかかる。
「わしもそろそろ、俊紀と真璃の祝言について考え始めねばならぬだろうな。戦が終わったとたん、樹神家からは矢の催促だ」
寛貴がつぶやくと、近習たちはそろって苦笑いをもらした。
「江州で後片付けをしているあいだ、陣所にまで使者が来ておりましたね」
利真があきれたような口調で言う。
「生明へもついてきて、城下に留まっているとか。婚儀を執り行うと言うまで急かし続けるつもりでしょうか」
「下っ端なら追い返してやるところだが、支族の蓬田家から一寸木城主の資朝が来ているので、あまり粗略にもできん」
蓬田資朝は樹神有政の信任厚い忠臣で、黒葛家と樹神家が国境線をめぐって争っていたころには三州侵攻の先陣をしばしば務めていた。西の国境を守る石動博嗣がそれを迎え撃ち、少ない手勢で圧倒した逸話は黒葛家中ではよく知られている。
「兄上に頼んで、石動博嗣を寄越してもらおうか。あの老将の不敵な面構えを見たら敗戦の苦い記憶が蘇り、資朝は尻に帆を掛けて永州へ逃げ帰るだろう」
若い者たちが明るい笑い声を上げる。
「ま――それでも、遠からず婚儀は執り行わねばならん」
寛貴はため息をつき、ビワを小さくかじった。
「わしとしては、できれば天山から戻られた貴昌さまが先に嫁取りされてからのことにしたいがな」
宗家に遠慮をするわけではないが、俊紀や貴之よりも年長の貴昌を立てたい気持ちがある。七歳の時から人質奉公に出ていて、親族や家中に囲まれての祝いごとをほとんど経験してこなかった悲運の御曹司だ。せめて婚礼の式ぐらいは三人のいとこの中で最初に、誰よりも盛大かつ華やかに挙げて欲しかった。
「貴昌さまは、いつごろお戻りになれるでしょうか」
気づかわしげな眼差しで和高が訊く。
「まだわからんが、夏を過ぎるということはなかろう。江州役の終結直後から、兄上は息子を返せとたびたび天山に書状を送っている。わしもすでに三通書き送った。三廻部勝元が折れるまで続けるつもりだ」
人質を取られる原因となった南部の争いはもはや終わった。守笹貫家は滅亡し、大皇勝元が必死に擁護していた守笹貫道房はもうこの世にいない。この十二年間、兄禎俊がどれほど執拗に嫡子の返還を要請しても彼は頑として聞き入れようとはしなかったが、今度ばかりはさすがに貴昌を返すだろう。
そうでなければ兄は挙兵する。脱いだばかりの具足を再び身につけ、方々へ散った士卒を呼び戻し、逆巻く激流のように天山へ攻め寄せるに違いない。
勝元は天下に己の権威を示すため、南部を支配下に置いていると見せたいだけで、怒り狂った黒葛家と戦をしたいなどとは思っていないはずだ。
家中の誰もが待ち望んでいる貴昌の帰還はきっと叶う。そして彼が戻ってくれば、その後は何もかもがいい方向へ向かうだろう。大切な跡取りを取り戻して兄の心は安らぎ、臣民は先行きに希望を見いだし、兄との子をついに生すことのなかった富久は城での居場所を失う。
寛貴はそう確信していた。
午を過ぎると蒸し暑さが増し、日の落ちるころからぱらぱらと小雨が降り始めた。
忙しい一日だったが、論功行賞の下準備はかなり進んだと言えるだろう。明日以降は順次、戦功のあった者を呼び出してねぎらっていかねばならない。
夕餉を簡単にすませたあと、寛貴は側仕えの者たちをみな下がらせると、中御座之間で庭を眺めながらひとりゆっくり寝酒を楽しんだ。人目がないのでくつろいだ格好になり、畳の上に長々と寝そべって、白ネギのぬたと塩昆布を肴に手酌でちびちびと飲る。
昔は気の置けない連中と集まって、大勢で騒ぎながら夜通し飲み明かすのが好きだったが、最近はひとり酒も乙なものだと思うようになった。やはり年を取ったということだろうか。
しばらくしてほろ酔い加減になり、庭から立ちのぼる濡れたコケのにおいを嗅ぎながらうとうとしていると、内廊下から訪う気配に微睡みを破られた。
「誰だ」
「わたしです」
俊紀の声だ。起き上がりながら「入れ」と招じると、息子はそっと襖を引き開けて室内にすべり込んできた。
城へ戻った日に出迎えと挨拶を受けたきりで、その後はほとんど顔を見ていなかったが、なにやら少し面やつれしているようだ。三月に及んだ慣れない戦陣暮らしが、よほど体に堪えたのだろうか。
最終決戦のあと、俊紀はしばらく江州から動けないいとこの貴之に代わり、その父貴昭の遺体を七草へ送り届ける役を買って出た。息子がそういう思いやりを示したことに寛貴は感心したが、だらだらと居座って喪中の七草家に迷惑をかけるのではと内心危惧していたのも事実だ。だが俊紀は帰城した貴之と入れ替わりに城を出て、寛貴よりも二日早く生明へ戻っていた。状況を考慮して自ら気づかいをしたのだとすると、ずいぶん分別が身についたものだ。
初陣を飾って、少し大人になったか――。
対面にきちんと座った息子を見ながら、寛貴は微笑みを浮かべた。
「ずっと姿を見なかったが、何をしていた」
「特に何ということもなく」俊紀が覇気のない声でつぶやく。「部屋でここ最近のことを、つらつらと思い返したりしていました」
人の輪の中心にいるのが好きな俊紀は、旅から戻れば取り巻きを集めて土産話を披露するのを常としている。それがひとりで閉じこもっていたとなると普通ではない。
「どうした。何か悩み事か」
心配になって訊くと、息子はうつむいたまま目だけを上げて寛貴を見た。頬に行灯の灯を受けた憂い顔に、何とも言えない風情がある。
「どこか具合でも悪いのか」
「体は……だいじょうぶです。何ともありません」
そうは言うものの、元気がないのは間違いない。
こやつ――そもそも、何用あってここへ来たのだ。それも人目を忍ぶかのように、こんな遅い刻限に。
寛貴はにわかに厭な予感をおぼえ、盃を置いて座り直した。
「俊紀、わしに話したいことがあるのではないのか」
図星を突いたようだ。俊紀はわずかに首をすくめ、不安そうに視線を落とした。日ごろ率直な物言いをする子が、なかなか切り出せないふうをしていると、それを見ているこちらまで心もとなくなってしまう。
「いずれ言わねばならぬことなら、先延ばしせずに言うがいい」
あまり厳しすぎないように声の調子を抑えて促すと、俊紀はふいに決然と背筋を伸ばし、畳に手をついて頭を低くした。
「父上に、お願いの儀あってまいりました」口を挟む隙を与えず、気忙しく言葉を継ぐ。「お聞き届け願えるならば、今後は二度と――生涯何もねだらぬとお約束します」
言いしれぬ不穏さを感じ、寛貴の胸の奥が不気味にざわついた。新しい馬が欲しいの、調度を新調したいのといったたわいない無心ではなさそうだ。
「大げさなことを……」強いて軽い口調で言おうとしたが、声には警戒するような響きが混じった。「いったい、どんなねだりごとだ」
俊紀は顔を上げ、まっすぐに寛貴を見た。肌は蝋のごとく青ざめ、眉根に力が入り、唇はきつく結ばれている。これほど引き締まった息子の顔を、かつて見たことがあっただろうか。
「わたしと真璃どのとの婚約を、なかったことにしてください」
一瞬、何を言われたのか、寛貴にはまったく理解できなかった。
「なんだと?」
訊き返すと、俊紀は怯んだように目を伏せたが、ごくりと唾を呑んでまたすぐにこちらを見た。
「お願いいたします――婚約の破棄を」
「樹神真璃との、か」
「はい」
寛貴は唖然となり、心を落ち着けるために大きく息をついた。だが、それぐらいで荒れ狂う胸の内が静まるはずもない。
「樹神家と同盟を結ぶ上での条件として取り決めた縁組みだぞ。破棄すれば同盟関係もまた崩れる」
「承知しています」
いや、わかっていない。理解しているなら、軽々しくこんなことを言えるはずがないではないか。
「同盟が破綻すれば結納金の返還や、戦費として借り受けた金の即時返済を要求されるだろう。そればかりか、激昂した樹神家が我らに戦いを挑んでくるやもしれぬ」
「それでも――」俊紀は必死の面持ちだ。「どうしても、真璃どのとは結婚できないのです。お願いします、父上。どうか話を白紙に戻してください」
頭がくらくらした。これは酒のせいか。それとも、このかわいさ余って憎さ百倍な跡取り息子のせいか。
身勝手なことを言うなと頭ごなしに叱ろうとして、寛貴はぐっと自分を押しとどめた。どれほど浅はかであろうと、俊紀はすでに元服し、初陣もすませた大人なのだ。話の通じない幼児のように扱うわけにはいかない。
「理由を」寛貴は呻くように言った。「聞こう。なぜ結婚できないのかを」
俊紀は動揺を見せて、畳についたままの両手を強張らせた。
「それは……」
「わけも話さずに我を通せると思うなよ」
厳然と言い放った父親に、蒼白な息子が暗い眼差しを向ける。
「十二年間も許婚だった真璃を、今になって見限るからには何か相応の理由があるはずだ。あの姫が何かしたのか。それとも、おまえのほうに不都合が生じたのか」
矢継ぎ早に問いを投げれば、俊紀がぎくりと身を固くする。後ろ暗いのは、どうやら彼自身のようだ。
「わしの知らぬところで何があった。誰ぞ、ほかの女に手をつけて孕ませでもしたか」
それならば、裏でうまく事を運べばどうとでも処理できる。相手が下々の女なら、母子の今後を保証してやりさえすれば黙って身を退くだろう。奧御殿の侍女や、そこそこ身分のある女ならば、子を産ませた上で側室に上げるという手もある。俊紀はまだ年若く、結婚もしないうちから妾を持つのは外聞の悪いことではあるが、そこは仕方がないと割り切るしかない。
「相手は誰だ。わしも知る女か」
否定しないということは、やはり女がらみだろうと決めつけて追及すると、俊紀は急に反抗的な目つきになった。
「手をつけたの、孕ませたのという話ではありません」
なんだ。こやつめ、怒っているのか。
「では、どういう話だ」
「心を奪われたのです。初めて出会いました……魂が求めてやまぬ女に」
ああ、よしてくれ――と寛貴は思い、憮然として大息した。恋などと言い出したら手に負えぬ。情欲のほうがずっとましだ。
「いつ出会った。もったいをつけずに、早く名前を言え」
俊紀は拳を握り、全身から緊張感を漂わせつつ、絞り出すような声で言った。
「三輪どのです」
またしても寛貴は一瞬、話を見失いかけた。
「三輪?」
「はい」
「どこの――」言いさして、ようやく理解が追いつく。「雷土三輪か? 七草の……貴之の許婚の」
「そうです」
遺体を届ける使者を務めたあと、俊紀はしばらく七草城に留まっていた。御殿の中で、三輪と知り合う機会はいくらでもあっただろう。
「手を出したのか」驚きと怒りのあまり声が割れた。「いとこの妻になる娘だぞ」
「わかっています」
叫ぶように言い返し、俊紀が寛貴のほうへにじり寄る。
「ですが、ひと目見ただけで感じたのです。長年わたしが捜していたのはこの姫だと。父上には――父上なら、この気持ちをわかってくださるはず。商家の娘だった小夜さまに出会ったその時から思いをかけ、身分違いだという周りの反対を押し切って最初の妻に迎えられた父上なら」
すがるように伸ばされた俊紀の腕を振り払い、寛貴は彼の頬を手の甲で強く張った。ぴしゃりと大きな音が響き、俊紀が横ざまに倒れ込む。
「わしとおまえを同列に語るな」
胸いっぱいに息を吸って怒鳴りつけると、俊紀は小さく丸まったまま身をすくめた。
「浅ましき所業で、身内の絆を蔑ろにしおって。貴之にどう顔向けするつもりだ。七草家から戦を仕掛けられたとしても文句は言えぬのだぞ」
「戦……?」
ぶるぶる震えながら、俊紀は打たれた頬を押さえて体を起こした。目に恐怖がにじんでいる。
「ま、まさか、そんな――貴之が生明家を攻めるなど」
「貴之は今や七草家の当主、そして立州国主代だ。それに恥をかかせて、ただですむと思うなよ」
「でも貴之とはこれまでずっと、なんでも分かち合ってきました。心が通じ合っているし、わたしがどうしてもと頼めば、きっと……」
「きっと、なんだ。許婚を譲ってくれるとでも言うのか」
声が大きくなってしまうのを抑えられない。これでは隣室で控えている宿直の者たちに話が筒抜けだろう。だが、もはやそんなことはどうでもいい気がする。
「そもそも、三輪姫のほうはおまえをどう思っている。気のあるふりをされたのか。貴之の留守をいいことに、閨にでも誘われたか」
「いえ、そんなことは」俊紀の声は今にも消え入りそうだ。
「ではどうした。勝手に岡惚れして、無理を強いて手込めにしたのか。それならば雷土家とも戦になるやもしれぬな」
「手込めになどしていません!」
きっと顔を上げた俊紀の両目から、大粒の涙があふれ出した。
「ただ……ただ、わたしの思いを伝えたかっただけです」
その時、寛貴は初めて息子の左の頬の切り傷に気づいた。頬骨のあたりに平行に二本。もう治ってふさがり、半ば薄れかけている。江州にいた時に見た覚えはないので戦傷ではなく、おそらく七草にいた時についたものだろう。爪痕のように見える。
「強引に思いを伝え、そして拒絶されたのか」
静かに訊いた寛貴の視線が向く先を悟り、俊紀が傷痕を隠すように顔を背けた。
「ならば、たとえ貴之が許したとしても、三輪はおまえのものにはなるまい」
「そんなはずは」
はっと見上げた俊紀が絶望的な表情になる。だが、目だけはまだ強情な輝きを失っていない。
「時間をかければ……わたしのことを、もっとよく知って――」
なんと頑迷な。寛貴の頭にかっと血が上った。
「宗義、直盛!」
大声で呼ばわると、宿直の任に就いていたふたりが急いで襖を引き開けた。
「俊紀を奥座敷に入れて見張りをつけ、わしがよいと言うまで一歩も外に出すな」
唐突な命令に驚いたはずだが、彼らは動じなかった。すぐさま俊紀を両脇から挟み、やんわりと腕を捉えて立ち上がらせる。
「ち、父上?」
俊紀は困惑した様子で、迷子になった子供のような表情を浮かべた。
「しばらく、ひとりで頭を冷やしていろ」
冷たく言い放ち、寛貴は宗義らに「行け」と手を振った。岩のように身を固くしてそっぽを向いたまま、部屋から連れ出される息子には敢えて一顧も与えない。
三人の足音が少しずつ遠ざかり、やがて何も聞こえなくなると、寛貴はようやく体の力を抜いた。どっと疲れを感じる。
首をうなだれて瞑目すると、深い深いため息がもれた。
「俊紀……」
少し汗ばんだ手で、折敷の上の盃を取りながら低くつぶやく。
「馬鹿なやつめ」
やりきれなさを洗い流すために呷った酒は、舌を刺すように苦く感じられた。
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