三十三 立身国射手矢郷・六車兵庫 夜襲
ひさびさの夜襲は予想外の激戦となった。
北部の山城に立てこもる江州兵の残党は二百人ほどと聞いていたが、実際に行ってみるとその二倍の四百あまりが山のあちらこちらに潜んでおり、立天隊が頂上に降り立つと一斉に襲いかかってきた。
なにより驚かされたのは、どこからかき集めてきたものか鉄砲を多数装備していたことだ。弾数も豊富らしく、初っ端から盲打ちに撃ちかけてきた。こうなると、こちらはすぐに散開せざるを得ない。
兵庫は第五隊に班別行動の合図を出し、自身は伍香享祐率いる第一班と共に城砦の搦手側の虎口を攻めた。怡田棋八郎の第二班と秦野義明の第三班は大手側、門伝丈彰の第四班は側面へと回る。
城砦を取り巻く三つの小曲輪と森林の中に散らばった敵は、由解虎嗣の指揮する第一隊が引き受けた。
夜間の戦闘を厭う者は多いが、兵庫は決して嫌いではない。文目も分かぬ暗がりで、濃い影を周囲に踊らせて眩惑する篝火のそばで、もっぱら目以外の感覚を頼りに敵と斬り結ぶ戦いには、ほかでは味わえない緊張感があると思う。
「でも夜討ちは疲れます」
前にそんなことを言っていた刀祢匡七郎は、作戦があらかた終わるころには疲弊しきってよれよれになっていた。
細身の体格のわりに四肢の力は強く、すばしこく、果敢に戦うことでは他に抜きん出ているものの、どうもこの男には持久力が足りないようだ。
城砦の大手口前で虎嗣と落ち合って報告し合い、自分の隊に引き揚げを指示したあと、兵庫はいつものように戦場をざっと見回った。匡七郎はそれについてきたが、足がもつれるのでこっそり槍を杖がわりにしている。歩くのがつらいなら禽を下ろして休んでいろと言おうかと思ったが、負けん気が強いので平気だと意地を張るに違いない。その証拠に、見られていないと思う時はしょぼくれ顔をしているが、兵庫が目を向けると瞬時に表情を引き締める。不甲斐ないさまを見せるのは、どうしても厭らしい。
兵庫は素知らぬ顔をして城砦の周りを一周し、さらに虎口から中に入って武者溜まりや広間に人が居残っていないか確認した。急襲の直前まで敵は酒盛りでもしていたのか、一階北側の二十畳敷きには茶碗や徳利が散乱しており、中央の地炉にかけられた鉄鍋では中身がまだ湯気を立てている。
そのにおいを嗅いだとたん、うしろを歩いている匡七郎の腹が派手に鳴った。振り向いて目をやれば、若者は色白の頬を真っ赤に染めている。
「腹が減っているのか」
問いかけると、彼は気まずそうにうつむいた。
「あの……はい」
「出陣前に夕飯を食ったのでは」
「あまり喉を通らなくて」
「なぜだ」
「兵庫さまと夜襲に出るのは初めてなので、少し興奮しすぎてしまったようです」
「おかしなやつだな」
遠慮なく言ってやると、匡七郎は眉をしかめながら、ますます顔を赤くした。反論したい気持ちもなくはないが、自分でも大概おかしなやつだと自覚しているのだろう。
「どれ」
兵庫は炉端にしゃがみ込むと、鉄鍋に無造作に突っ込まれていた杓文字を取り上げ、へらの部分にこびりついたとろみのある汁を指先にすくい取って舐めた。味噌で味付けされており、陣中食にしてはそう悪くない塩梅だ。汁の中には小麦の粉を練った団子と、細かく刻んだネギとゴボウが入っている。
「うむ、いける」
彼はうなずき、そのあたりに転がっていた茶碗を拾い上げると、団子汁をたっぷり入れて匡七郎に差し出した。
「食って、砦へ戻るまで腹をもたせろ」
従順に受け取りはしたものの、匡七郎は戸惑い顔をしている。
「いいのでしょうか」
「もう片づける者もない飯だ。このまま冷えるに任せたらもったいないだろう」
敵の残党四十人あまりは城砦の地階に拘束してあり、第一隊の精鋭隊士たちが下り口の扉の見張りについている。数刻ののちには地上部隊が登ってきて引き継ぎ、捕虜としてどこへなりと連れて行くだろう。つまり、このあと広間へ来て呑気に飯を食おうとする者など誰もいないということだ。
「食う気がないなら行くぞ」
退去を匂わせると、匡七郎はあわてた様子で首を振った。
「い、いえ、いただきます」
椀を両手で持ったまま、しきりに周囲を見回している。箸を探しているのだろう。
「上品ぶらずにすすり込め」
そう言ってやると、彼は兵庫から口元を隠すようにしながら、音を立てずに汁をすすった。
「旨いですね」
早くも眉間がゆるんでいる。わかりやすい男だ。
「座ってゆっくり食うといい。おれはこのあたりを少し見回る」
匡七郎を広間に残し、兵庫は開け放しの板戸の脇から廊下へ出た。暗い通路に人影はなく、しんと静まりかえっている。まだ見ていなかった奧の小座敷や板敷きの二の間、三の間も覗いてみたが、そこにも誰も潜んではいなかった。どうやら見落としもなく、首尾よく制圧できたようだ。
ひと回りして戻ってみると、匡七郎は胡座をかいてまだ団子汁を食べていた。囲炉裏のすぐ近くに陣取っているところを見ると、自分で二杯目をよそったらしい。
敷居をまたぎながら思わず笑みをもらしかけたその時、広間の戸袋脇の壁がさっと開き、中からひとりの武者が飛び出してきた。すでに抜刀して振りかぶっている。
兵庫は振り下ろされた刃を左にかわし、抜き打ちに相手の胸ぐらへ斬りつけた。武者がすかさず横ざまに転がって逃れ、広間の入り口で機敏に立ち上がる。
「そこの若造以外、もう味方はおらぬぞ」
彼は地鳴りのように轟く声で、挑発的に兵庫に語りかけた。若造と言われた匡七郎は茶碗を放り捨てて立ち上がり、槍を取って低く構えている。
「見張りは倒した。地下に捕らわれていた者どもは逃がした。すぐに全員が得物をかき集めてここへ集まる。そちらはふたり、多勢に無勢だ。どうする」
兵庫は彼の独白の途中からゆるりと動き出し、構えを取らずに切っ先を下げたまま、ずかずかと前に踏み込んだ。無造作に間合いを詰められた武者がにわかに顔を強張らせる。
「む!」
武者は唸り声を上げると、八相の構えから袈裟斬りを放った。しっかり腰の入った、勢い充分の力強い振りだ。兵庫は右肩を引いて体をかわし、側面に回り込みながら、相手の脇腹を狙って片手斬りに突き上げた。
剣尖が腕の付け根を貫き、ぎゃっと声を上げた武者が撃たれたように仰け反って倒れる。兵庫は間髪を入れず追い討ちをかけ、彼が立ち上がる前に喉仏の下をひと突きして絶命させた。
「兵庫さまは……」
ため息まじりの声がしたので顔を上げると、匡七郎がすぐ近くまで来ていた。
「相手が何かしゃべっていても、まったくお構いなしに斬り込まれますね」
感心しているらしい。
「話の内容は聞いておられないのですか」
「あまり聞いていない。しゃべっている者には隙が生じやすいので、仕草や表情を観察しながらそれを探っている」
「なるほど……。わたしはつい、相手の言葉に反応してしまうんです。挑発されると反射的に言い返すし、時には問答に引き込まれることも」
「殺すか殺されるかという時に、話すことなど何もなかろう」
匡七郎が、ふむふむとうなずいて得心顔になる。
「捕虜を逃がしたと言っていましたが、ほんとうでしょうか」
「嘘だ。騙されるな」
兵庫は刀身についた血を軽くぬぐって鞘に収めた。
「第一隊の手練れを、ひとりでみな倒せるはずがない。ああ言えば、おれの動揺を誘えると思ったのだ」
「わたしたちがこの部屋へ来る前から、あそこに隠れていたんですかね」
「見つからずにすめば、そのまま逃げてしまうつもりだったのやもしれんな。だが、おれが隠し戸に近づいたので、不意討ちを仕掛ければ勝てると踏んだのだろう」
しかし初太刀を外され、先制の利を失った時点であの武者の命運は尽きた。奇襲の成功は、初めの一撃で痛打を浴びせられるかどうかにすべてかかっている。
「よほど腕に自信があったのでしょうか。蛮勇をふるわずに、こっそり逃げてしまえばよかったものを」
「逃げるというのも、存外難しいものだ」
兵庫はつぶやき、胸元に落ちた髪をうしろに払って歩き出した。
「もう行くぞ」
「はい」
食いかけで捨てた椀が気になるのか、匡七郎は一度だけちらりと広間の中を振り返ってから小走りにあとを追ってきた。休憩し、腹に食物を入れたお陰で、先刻に比べて見違えるほど足取りが軽くなっている。疲れるのも早いが、回復もまた早い。それは若さゆえだろう。
ふと疑問が浮かび、兵庫は歩きながら彼のほうを見た。
「匡七郎、おぬしはいま二十歳だったかな」
「そうです」
「妻子はあるのか」
きょとんとなった匡七郎の眉間に、みるみる皺が寄る。
「まだ独身です」そんなことを、今ごろになって訊ねるのかと言いたげだ。「なんです、急に」
「訊くのを忘れていたからな」
「兵庫さまのほうは、どうなのですか」
しまった。うかつな質問をして、匡七郎の好奇心に火を点けてしまった。この男は私的なことを訊かれたら、自分も同じように詮索していいと考えている節がある。しかも、こちらの質問はひとつでも、彼のほうは常に数十もの問いを用意しているので厄介だ。
「おれも家庭はない」
「言い交わした女性などは、おられないのですか。ずいぶん、おもてになると聞いていますよ」
「誰に聞いた」
「怡田棋八郎どのに。兵庫さまは無自覚の女たらしなので、想い人ができても絶対に紹介はするなとおっしゃっていました。乗り替えられて泣くはめになるからと」
とんでもない流言をばらまくやつだ。
「お調子者の戯言を真に受けるな」
「でも、ほかでもいろいろと耳にしましたよ。隊士への面会で砦を訪れた妻女や女きょうだいが、兵庫さまに出会って熱を上げた話とか。例えば、第一隊の新納澄隆どのの妹御などは――」
「もういい、よせ」
入隊間もないくせに、情報通にもほどがある。こいつ、砦じゅうでおれのことを聞き回っているのか。
「おれは剣の師匠から女出入りには用心しろと忠告されていて、じっさい若いころに身を持ち崩しかけたことがある。それ以来、慎むよう心がけているんだ」
「だから、陣屋の手伝いに来ている女性たちにも素っ気ないのですか」
「そうでもないだろう」
「素っ気ないですよ。でも、わたしの見るかぎり、あれは逆効果ですね。いい男に気のないふうをされると、かえって振り向かせてみたくなるのが女というものですから」
「ほう、女に詳しいのか。日ごろ、よほど派手に遊んでいるのだな」
恐れ入ったとばかりに言ってやると、調子よくしゃべっていたのがぴたりと止まった。匡七郎のほうこそ、いかにも女に持て囃されそうな白皙の優男だ。過去にはそれなりに浮き名を流してきたのだろう。だが、それを知られるのは気恥ずかしいらしい。
すっかり静かになった彼を従えて城砦を出ると、虎口前の馬出には死体が折り重なるのみで、生きている者はもう誰もいなくなっていた。
「禽を急がせて、部隊に追いつきますか?」
匡七郎は暗い夜空を舞っていた天隼を口笛で呼び、降りてくるのを待ちながら訊いた。
「わたしたちの乗騎は速いので、砦へ着く前に合流できると思いますが」
「あとは戻るだけだ。多少後れてもかまわんだろう。無理をすることはない」
降りてきた禽に騎乗したふたりは、低く垂れこめた厚い雲の層の下を飛んで鉢呂砦を目指した。月が雲に遮られているので視界が悪く、禽の翼が切り裂く空気は水を含んでいて重い。少し飛んだだけで、体に巻いている長袍や毛髪が霧を吹いたようになってしまった。
「雨になりそうですね」
手綱を取っている匡七郎が、小さく身震いして言った。
「砦に着くまでもてばいいですが」
「降られるまでもなく、もうだいぶ濡れているがな」
たしかに、と匡七郎が苦笑する。それからしばらくの沈黙をはさみ、彼は肩ごしに兵庫の顔を見上げた。どことなく、視線がおずおずしている。
「あのう、兵庫さま」
「なんだ」
「じつはお訊ねしたいことがあるのですが」
「だから、なんだ」
まだ女の話がしたいのだろうかと思い、かすかに警戒しながら先を促す。だが匡七郎は口を開きかけて躊躇し、顔を前に戻してしまった。先ほどとは違って、ずけずけとは訊きづらいことのようだ。
彼はしばらく迷うふうを見せたあと、再びちらりとこちらに視線を向けた。
「掃討戦はそろそろ終わるという噂を聞きました。ほんとうでしょうか」
「そうだ」兵庫は言下に認めた。「江州兵の残党が根城にしていた拠点はもうあらかたつぶしたし、地上部隊も大半はすでに引き揚げている。今夜のように大規模な戦闘の機会は、今後ぐっと少なくなるだろう」
「砦攻めも地上部隊との連携作戦もなくなったら、そのあと天翔隊は何をするのですか」
「各拠点の防衛と哨戒。それと――訓練だな、むろん」
匡七郎は鞍の上で身をよじり、まっすぐに兵庫を見上げた。
「終戦後も兵庫さまは立天隊に残られるのでしょうか」
なるほど。兵庫は声に出さずに独りごちた。匡七郎がこのところ、妙に物問いたげな様子をしばしば見せていたのはこれが訊きたかったからか。
自身の去就については、戦の終わりが見え始めた半年ほど前から折りに触れて考えている。
黒葛家と守笹貫家の大軍が始まった翌年に雇い兵として入軍して以来、地上部隊で三年、立天隊で八年の月日を過ごした。いまは一部隊を任されているので責任は感じているが、そろそろまた身軽になって、己の本分たる剣の道に立ち返ってもいいころかもしれない。地上へ下りて師匠の元へ戻り、あの草深い山奥の道場で何年か心身を鍛え直すという考えには心惹かれるものがあった。あるいは、またしばらく武者修行の旅に出てみるのもいい。
だが辞めると聞けば、匡七郎は複雑な気分になるだろう。なにしろ相方として組んでからまだふた月足らずだ。必死で再訓練に耐え、兵庫との連携を確立したいまになって、ほかの相方を見つけろと言われたら困惑するに違いない。
とはいえ自分の人生は自分のもの。匡七郎の人生もまた然りだ。歩む道が重なることもあれば、違えることもある。
そう思い、兵庫は正直に話すことにした。
「戦いがなくなれば、おれが隊にいる理由もなくなる」
「立天隊を去ったあとは、どちらへ」
「まだ考え中だ」
匡七郎はじっと兵庫を見つめたあと、前を向いて鞍に座り直した。肩に力が入り、背中が強張っているように見える。
それきり彼はうしろを向かず、砦に帰り着くまでひと言も話そうとはしなかった。
部隊の仲間と相前後して立天隊の拠点である鉢呂砦に戻った兵庫と匡七郎は、副郭に造られた練兵用の広場の上空に差しかかった時点で異変を感じ取った。
禽を誘導する目印の篝火は、ふだんならきれいな円を描くように配置されて明るく燃えているが、そのうちいくつかが消えたまま放置されている。代わりに陣屋のある主郭や、西の城の傷病棟付近にやたらと大きな火が焚かれ、影絵のような人影が右往左往している様子が見て取れた。
「何かあったのでしょうか」
手綱を絞りながら、少し硬い声音で匡七郎がつぶやく。
「まるで戦闘が行われているような……」
「着陸の前に、主郭の上を旋回しろ。低くな」
「は」
すぐさま禽首を下げ、匡七郎はゆっくりと主郭の上空を一周した。
「戦闘ではない――な」
兵庫は立ち鞍から身を乗り出して人の動きをつぶさに観察し、そう結論づけた。手に手に松明を持って動き回っているのはみな仲間であり、建物の内外や森林の中に散らばって必死に何かを探しているようだ。
「よし、降りよう」
副郭へ戻って乗騎を着陸させると、禽の世話役の籠番と一緒に伊勢木正信が駆け寄ってきた。いつもは悠然として物事に動じない彼が、表情に緊張感を漲らせている。よくない兆候だ。
「兵庫さま、陣屋へお急ぎください」正信は兵庫が鞍から降りる間すらも惜しむように近づき、切迫した口調でそう促した。「博武さまがお待ちです」
「正信、何の騒ぎだ」
主郭へ向けて歩き出しながら訊く。
「襲撃です」横並びで大股に歩を進めながら、正信は簡潔に説明した。「我々が夜襲に出ていたあいだに、搦手門が破られました。南の廓に詰めていた番士たちと、砦に残っていた訓練中の新参数人が斬られ、西の城でも負傷者が出ています」
「襲ったのは、どこの部隊だ。江州兵か」
「部隊ではなく、ひとりです」
「なんだと」
階段の途中で思わず足を止めた兵庫の腕を、正信が強く掴んで引っ張った。
「ともかく陣屋へ。詳しいことは博武さまからどうぞ」
兵庫は口をつぐみ、半ば駆けるようにして階段を上りきると、開いたままの遣り戸から陣屋の中へ入っていった。外の騒ぎとは裏腹に、建物内は静まりかえって空気がぴんと張り詰めている。広縁からぐるりと回り込んで上座の間へ向かうと、そこには鉢呂砦の士大将である石動博武と副将の真境名燎が待ち構えていた。第一隊の隊長由解虎嗣と副長甲斐義智の顔もある。
「遅くなり、申し訳ありません」
兵庫は博武の面前へ進み、腰を下ろして問いかけた。
「何ごとですか」
「我らが夜襲に出てから二刻あまりあとに、忽然と現れた男が搦手門を破って砦の中に斬り込んだそうだ」
その男は山の麓の番所を巧みに避けて、急峻な山腹や岩場をよじ登ってきたらしい。博武自身が当事者から聞き取った話によると、男は南の廓の端にある藪の中から猪のように飛び出すと、まず搦手の埋門前で警備についていた番士の片方を一撃で斬殺した。残るひとりも袈裟懸けに斬られて重傷を負ったが、意識ははっきりしているので博武の聞き取りに応じることができたという。
「男はそのあと廓の中で暴れまわり、急を知って駆けつけた番士や、道で遭遇した隊士見習いなどを次々に斬り伏せた。とにかくすさまじい強さだったそうだ」
次第に追っ手の数が増えると、男は西の城へ逃れて第二練兵場を突っ切り、傷病棟に乱入して療養中の隊士や彼らの看護に当たっていた療師らにも斬りつけた。そして、その中のひとりを建物の裏手へ引きずっていき、刃を突きつけながら「六車兵庫はどこにいる」と問いかけたという。
兵庫は息を呑み、凝然と目を見開いた。
「おれの名を」
博武はうなずき、少し身を乗り出しながら兵庫の顔を見つめた。
「夜襲に出ていて砦にはいないと告げると、男は追っ手が取り囲む間もなく林の中に駆け込んで逃げたが、その前におぬしにこう伝えるよう言い残したそうだ。〝おれのあとを追って来い。決着をつけよう。もし来ねば、おまえの主君を斬る〟と」
わけがわからない。
「そいつは名乗ったのですか」
「鷹啄寅三郎、と。どうだ、知り合いか」
「いえ……」
曖昧に答えながら、兵庫は記憶を探った。聞き覚えのある名前のような気がしなくもないが、どういうつながりのある相手かは判然としない。顔も思い浮かばない。
「どんな風貌だったか、お聞きになりましたか」
「生き残った者たちが口々に、何とも言いがたい異様な外見だったと話していた。六尺半を超える背丈の大男で、はち切れんばかりに膨れ上がった厚みのある体をしている。でこぼことした痘痕顔で、目はシジミのように小さく、鼻は細くて長い。顔の真ん中にキュウリがついているようだと言った者もいた。大きな片耳が真横に突き出て悪目立ちしているが、もう片方の耳は付け根から失われていたと」
その瞬間、若かりし日に会った男の顔が脳裏に蘇った。
「あ――」
だが小さく声を上げたのは兵庫ではなく、うしろに座っていた匡七郎だった。勝手についてきていたらしい。
兵庫は肩ごしに振り向き、怪訝な視線を送った。まさか彼があの男を知っているはずはないが、どうなのだろう。
「少し前に、そいつを見かけました。地上部隊との挟撃作戦を行った、ええと――たしか西木城で。中庭に集められた捕虜の中に混じっていたんです」
早口に言ったあと、匡七郎は愕然とした面持ちで小さくつぶやいた。
「あいつが見ていたのはおれじゃなく、兵庫さまだったのか……」
「なぜ記憶に残ったのだ」
博武に問われ、匡七郎が急いで居住まいを正す。
「撤収間際のわたしたちを食い入るように見ていたからです。何か言おうともしたようでしたが、その前にわたしは禽を離陸させてしまいました」
「兵庫、何か思い当たるか」
再び目を向けてきた博武にうなずき返し、兵庫はひとつ大きく息をついてから、思い出したことを話した。
「もう十年以上も前ですが、儲口守恒公がらみのいざこざで百武城の城兵に追われて逃げ回っていた時に、鷹啄寅三郎と思われる足軽に遭遇して斬り合いました」
ひどく手ごわかったのを覚えている。それまでに出会ったすべての剣士をしのぐほどの剛腕で、繰り出される斬撃は重く、鍔迫り合いをすると肩の骨が軋むように感じられた。
あのとき兵庫は何日も眠らず、ろくにものを食べていなかったので弱っていたが、たとえ万全であったとしてもやはり苦戦させられただろう。寅三郎は恵まれた体格で攻守共に長け、戦いを愉しむ性らしく常に薄笑いを浮かべて余裕を漂わせていた。
「恐ろしい使い手で、途中までは圧されていましたが、石礫を打って体勢を崩させたのを機に形勢を逆転しました。左耳が欠けているのは、おれがその時に斬り落としたからです」
「そこまで追い詰めながら、なぜ討ち取らなかった」
当惑顔で訊いたのは真境名燎だった。
「おぬしらしくもない」
「寅三郎は不利になったとみるや、脱兎のごとく逃げ出しました」
うしろで戦いを見守っていた仲間と、おそらくは上役であろう騎馬武者を立て続けに斬り殺し、彼は馬に跳び乗って一目散に駆け去って行った。あまりの逃げっぷりのよさに呆気にとられてしまい、追い討ちするのを怠ったことが今となっては悔やまれる。
「殺し合うつもりで勝負をしながら、止めを刺し損ねた唯一の相手です」
「〝決着をつけよう〟という言葉の意味がわかったな」博武が納得顔で静かに言った。「あくまで一時撤退しただけで、負けたとは思っていなかったということだ」
「おそらくは」
あれからずっと再戦を心に期していたのだろうか。いや、西木城でたまたま仇敵を見かけて、にわかに闘志に火がついたのかもしれない。
なんであれ、あの男をここへ引き寄せてしまったのはおれの手落ちが原因だ。過ちは自らの手で正さねばならない。こんな大それたことをしでかすほど決着を望んでいるというのなら、どこへでも出向いて雌雄を決するまでだ。
「博武さま」
兵庫は顔を上げ、まっすぐに彼を見た。
「これにてお暇を申し上げます。長年にわたるご交誼を賜り、まことにかたじけのうございました」
型どおりの暇乞いを述べると、座敷に居合わせた人々がざわめいた。
「第五隊のことは班長の伍香享祐らがよく心得ておりますので、次の隊長を補佐するようお申しつけください。おれは二、三の整理と申し送りをしたら今夜中にもここを発って寅三郎に追いつき、たとえ相討ちに終わろうとも今度こそ必ず仕留めます。ではみなさま、おさらば」
さっと低頭し、腰を上げて振り向くと、眼前に匡七郎が立っていた。何か決意を固めたような顔をしている。
「お供します」
「無用」
言い捨てた兵庫の行く手を、匡七郎が素早くふさいだ。力尽くでどかせるのはわけないが、一途に思い詰めた眼差しにしばし足を止められる。
「おぬしにはかかわりのないことだ」
「では、かかわらせてください」
「ならぬ」
ふたりの押し問答に、とつぜん博武が割って入った。
「待て、兵庫」
その声にふだんとは違うものを感じて振り向くと、彼は引き締まった表情で兵庫を見上げていた。
「匡七郎をつれてゆけ」
「いえ。これは私闘です」
「違う」
断固とした口調。強い眼差し。
「もはや私闘ではない。座れ」
日ごろとはまるで違う威圧的な物腰に驚きながら、兵庫は黙って再び腰を下ろした。それをじっと見守り、博武がゆっくりと口を開く。
「鷹啄某が再戦を望み、おぬしがそれに応えるだけならたしかに私闘だ。隊を辞めるのも、殺し合いに行くのも止めはしない。だが――」
少し間を挟んだ博武の両目に、鋭い光が閃いた。
「やつは、かつて一度も敵の侵攻を許したことのなかった鉢呂砦を侵し、四人の番士と三人の隊士見習い、療養中の傷病者ふたり、療師ひとりを殺害した。また、それらを上回る数の負傷者も出ている。わかるか」
わかるかと問いかけながらも、彼は返答を待つつもりはないようだった。
「本来の目的は個人間の雪辱戦であったにせよ、寅三郎が今夜したことは立天隊に合戦を仕掛けたに等しい行為だ。おれはこの砦を預かる大将として、部隊が受けた損害と屈辱を看過することはできん。ゆえに、これより総力を挙げてやつを討ち果たす」
抑えた声音の中に、兵庫は彼の激しい怒りを感じ取った。長いつき合いだが、これほど立腹している博武は初めて目にした気がする。いや、そもそもこれまで、彼が本当の意味で怒りを見せたことなど果たしてあっただろうか。
「兵庫、おぬしもおれが行使する〝総力〟のうちだ。勝手に抜けられては困る」
なんという、うまい論法だろう。こうも理路整然と道理を説かれては、どんなへそ曲がりでも従わざるを得ない。
まんまと説得されかけていることに悔しさを感じなくもないが、友人と思う人に必要とされながら、それを振り切って立ち去るほど身勝手にはなれなかった。
「では――」ここはひとまず折れようと決めたものの、出鼻を挫かれた思いがかすかに声に混じるのは如何ともしがたい。「おれをどう動かすおつもりなのか、腹案を伺いましょう」
「その前に訊くが、おぬしはどう行動するつもりだった。寅三郎がどこへ向かうか、見当はついているのか」
「いえ皆目。ですが、追ってこいというからには、逃げた道筋に何かしらの痕跡を残しているでしょう。麓で馬を借り、それを辿るつもりでした」
答えを予期していたように博武がうなずく。
「そうだな。五、六人編成の捜索隊を三隊組んで、その痕跡を追わせるつもりだ。だがおぬしにはそれに入らず、やつの目的地へ先回りしてもらう」
まるで寅三郎の行き先を承知しているかのような口ぶりだ。
「どこです」
「七草だ」博武はそう言って、ふっと瞳を陰らせた。「寅三郎はまず間違いなく、おぬしを黒葛家の臣だと思っている」
そう言われて初めて、すっかり頭からもれていた事柄に思い至った。
「では、やつが斬ると宣言した〝主君〟とは……」
七草黒葛家の若き当主にして、立身国国主代。そして博武が誰よりも大切に思っている愛甥――黒葛貴之公。
たしかに、侍身分か雇い兵かなど見た目で判断できるはずもない。寅三郎は西木城で兵庫を見かけ、七草家に仕官して立天隊に入ったものと考えたのだろう。
「地上から追うのはこちらでやる。おぬしは匡七郎と共に禽で一直線に七草へ飛び、城下で寅三郎を迎え撃て。断じてやつを城に――貴之に近づけるな」
「承知」
眦を決して応えた兵庫の背を、由解虎嗣がぽんと叩いた。
「まあ若殿には手練れの馬廻衆がついているから、めったなことはそう起こるまい。だが相手は何をするかわからぬやつだ、気を引き締めてかかれよ」
「心します」
「地上の捜索隊にはわたしも加わる」凛とした声で真境名燎が言った。「おぬしが手こずらされたほどの剣士なら、相手にとって不足はない。追いついたら横取りして斬ってしまうが、悪く思うな」
自信に満ちた口調だ。彼女の実力なら、寅三郎にも後れを取ることはないだろう。とはいえ、やつが昔よりも腕を上げているなら決して油断はできない。
しかし、侮るなと警告する必要はなかった。彼女はがむしゃらに突き進むだけの猪武者ではなく、慎重に行動できる思慮深さも兼ね備えている。敢えて大胆な放言をしてみせたのは、己を含めた全員の士気を鼓舞するために違いない。
兵庫は燎に微笑みかけると、最後に博武と一瞬だけ視線を交わし合ってから素早く腰を上げた。
聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/




