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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第三章 新たな火種
124/161

三十二 立身国七草郷・黒葛貴之 訪問者

 海はとろりと(うる)んで青く、浜に吹き寄せる潮風はまだ浅い夏の香りがした。

 耳をくすぐるような汐鳴り。(みぎわ)に寄せて優しく素足を洗う小波(さざなみ)。真っ白な航跡を()いて進む大小の船。空を真横に断ち割って静謐(せいひつ)(たたず)む遠い水平線。

 いつ見ても慕わしく感じ、郷愁をかきたてられる古里の海だ。

 黒葛(つづら)貴之(たかゆき)は景色を存分に堪能すると、(たけ)足らずな古着の小袖を脱いで下帯一枚になり、海岸線の端に突き出た海食崖(かいしょくがい)をよじ登り始めた。

 (のみ)で荒く削ったような白っぽい岩壁には、過去にここを登攀(とうはん)した数十とも数百とも知れぬ子供たちによって、いくつかの道筋がくっきりと刻まれている。貴之自身もその経路の開拓に幼いころから尽力してきたひとりなので、何も考えなくとも手がかりや足場となる突起物、裂け目などを容易に見つけることができた。

 崖の北側へ回り込めば、背の低いマツの木が生い茂った頂上まで歩いて登れる道もあるが、そちらは敢えて使わない。岩壁を天辺までよじ登り、崖の突端から海に飛び込むところまでが地元の子供――(こと)に男子に人気のある一連の遊びなのだ。一種の度胸試しでもあり、これができないとほかの子に腰抜けと(さげす)まれて仲間外れにされることもある。

 頂上にたどり着くと、貴之はねじけたマツ林の間を縫って崖の端まで歩いていき、波に洗われている岩壁の裾野を見下ろした。海面までは二丈ほどあり、慣れない者なら腰が引ける高さだが、もう数え切れないほどここから飛び込んでいる彼に恐怖心はない。水はきれいに澄んでいて、海中に没した危険な岩の位置もはっきりと見て取れる。

 飛び込む前にふと砂浜に目をやると、着物を脱ぎ捨てたあたりに数人の子供が集まってきていた。見知った顔が中心となり、腕を大きく振りながら歓声とも野次ともつかない声を上げている。貴之は片手を上げてそれに応えると、短い助走で勢いをつけてから崖端の岩を蹴った。

 空と海の狭間に体を投げ出すこの瞬間は、いつも総毛立つほど爽快だ。それが期待したほど長くは続かないことを残念に思いながら、顎を引いて頭を下に垂直姿勢を取ると、彼は吸い込まれるように水中へ突入した。大量の泡が白く立ちのぼり、しばし視界を奪う。

 貴之は瞼を閉じて海流に身を委ね、複雑な景観を成す岩礁の間を藻屑のように漂いながら、帰ってきた――と心の中でつぶやいた。

 長い行軍を終えて七草(さえくさ)城下を目にした時よりも、城で家族と再会した時よりも、この海の懐に抱かれている今のほうが帰るべき場所に戻ってきたのだとより強く感じるのはなぜだろう。

 目を開けて海面を見上げると、透明な青一色の中に輪郭のぼやけた太陽がゆらゆらと白く発光していた。息が続くぎりぎりまでゆったりとそれを眺めてから、腕を伸ばして大きく水を()き、その光を目指してゆっくり浮上していく。

 顔を出してみると海面の水流は穏やかで、涼しい微風が吹いていた。水の中は温かかったが、肌に風を受けると少し寒い。

 浜まで泳ぎ戻って陸に上がると、昔からの遊び友達やその仲間に出迎えられた。半分ほどは初めて見る顔だ。

「タカ坊、久しぶりじゃねえか」

 真っ先に声をかけてきたのは、ふたつ年上の文吉(ぶんきち)だった。貴之を〝タカ坊〟と呼ぶ彼は、もう五年以上つき合いのある古なじみだ。

親父(おや)っさんの船、いつ入ったんだい」

 同い年の貫太(かんた)が、にこにこしながら訊いた。彼は貴之が船主の子供で、見習いとして乗り組んでいる船が湊に停泊した時だけこの浜に現れると思っている。

「何日か前だよ」

 貴之は曖昧に答え、小袖を拾い上げて濡れた体にまとった。

「こないだ親父が死んだんで、今はおれの船なんだ」

「そりゃあ残念だったな……」

「おまえらも飛び込みしに来たのか」

 あまり同情されたくなかったので話題を変えて問いかけると、子供たちの中でいちばん体の小さい少年がはにかみながら答えた。

「潮干狩りだよう」

「そろそろ潮が引く頃合いだから、家の手伝いをちょっと抜けて来たんだ。おめえも一緒に掘ってけよ」

 文吉の誘いに、貴之は小さく首を振った。

「いや、もう戻らないと。船を持ったらそうそう遊んじゃいられないから、最後にもう一度だけと思って飛び込みにきたんだ」

 年かさの者たちが、一様に得心した表情になった。彼らも家業を継いだり徒弟奉公に出されたりする年ごろになっているので、いろいろと思うところがあるのだろう。

 文吉が肩をすくめながら、〝やれやれ〟と言いたげなため息をもらした。

「ああ、そうだよなあ。クマを覚えてるか? あいつはこの春からもう乾物問屋で働いてるし、おれも秋には奉公に出るんだぜ。貫太は来年だ。おれらがこのへんで群れて遊べるのも、あとちょっとってわけさ」

「なら、今日会えてよかった」

 きっともう、こんなふうに顔を合わせる機会は二度と訪れないだろうから。

 子犬のようにじゃれ合って、屈託なく遊んだ日々は終わりを告げた。これからは領主という立場で、文吉たちの暮らしを守っていかなければならない。そして、もしも――次にまた戦が始まり、領民を戦陣へ駆り出さねばならない時が来たら、今度は自分がこの友人たちや彼らの親兄弟に槍働きを強いることになるのだ。

 そう思うとなんとなく目を合わせづらくなり、顔を伏せた貴之の二の腕を貫太がそっと握った。

「なあ、元気だせよ」

 父親を亡くしたばかりで、気が沈んでいると思っているのだろう。貴之は微笑み、彼の肩を軽く叩いた。

「ありがとな」

 また会おうとは敢えて言わずに彼らと別れ、貴之は海辺に群生しているマツの林に向かって歩き出した。

「タカ坊、おめえこれから大変だろうけど頑張れよ。(わけ)えからって、水夫(かこ)やら人足どもに()められんなよな」

 背中にかけられた文吉のぶっきらぼうな励ましの言葉に胸打たれるものを感じながら、貴之は振り向いて大声で言った。

「ああ。しっかり舵取ってくよ」

 しばらく後ろ向きに歩いて仲間たちと手を振り合い、マツ林に入ったところで前に向き直る。すると少し先に、木々の陰に身を隠すようにして佇んでいる巨体が見えた。身近な人物なので、部分的にしか見えなくとも誰なのかすぐにわかる。

重益(しげます)

 近づいて声をかけると、柳浦(なぎうら)重益がのそりと姿を現した。

「なぜ、ここだとわかった」

「若が城を抜け出してどこへ向かわれるか、見当もつけられぬようでは馬廻(うままわり)筆頭は名乗れません」

 さすがだなと笑って歩き出すと、重益は少し離れてうしろをついてきた。

()かれて置き去りにされた慎吾(しんご)悄気(しょげ)ておりましたよ」

「帰ったら謝る」

 律儀な従者に気の毒なことをしてしまった。だが今日だけは、どうしてもひとりで来たかったのだ。

「とうとう――」重益が大股に歩きながら、つぶやくように言った。「最後まで、彼らにご身分を明かされなかったのですか」

 重益は役目がら、貴之の交友関係も熟知している。文吉たちと直接会ったことはないものの、彼らのことは小さいころから見知っており、それぞれの出自などもある程度は把握していた。

「この先もあいつらの中では、(おさな)友達の〝タカ坊〟でいたかったんだ」

「しかし去り際の文吉のあの言葉は、まるで若のお立場を承知しているかのように聞こえましたね」

「そうだな」

 しっかり舵取りをしていく――という自分自身の言葉も、(たく)まずして真情に触れていた。率いることになった船は、文吉らが想像しているであろうものよりもずっと大きいが。

「うっかり、領民に大変な約束をしてしまった。だが口に出した以上は守らねば」

「そう気負わずとも、若にはおできになりますよ」

 何を根拠に言っているのだろう。だが、できると本当に信じてもらえているのなら、それは嬉しく思う。

 マツ林を抜けると、北の方角に(そび)える七草城の城山が真正面に見えた。すでに雨の多い時期に入っているが、今日はよく晴れているので天守の屋根の形までくっきりと見て取れる。

 隣に並んで同じように城山を眺めながら、重益が訊いた。

「どの道をお戻りに」

「街道は人が多いから、西側の道を通って帰ろう」

 貴之は人家が点在する農地を横切り、地域の祭堂の傍を通って北上する小道へ向かった。(やぶ)に囲まれた細い道で、左手にはカラムシの畑、右手には苗の植え付けを終えた田んぼが広がっている。子供のころからよく見慣れた、長閑(のどか)でほっとする風景だ。

 ふたり並んでゆっくり歩きながら、藪の中に混じっているモミジイチゴの果実を戯れに摘み競っていると、またたく間に手が()き傷だらけになってしまった。(だいだい)色をした果実は美味だが、枝にはそれを守るかのように大量の鋭い刺がついている。

「おれは城山に生えてるクマイチゴやナワシロイチゴより、これのほうが断然旨いと思うな」

「甘いですからね。それに種の食感がいい」

 重益は岩石を思わせる巨躯とは裏腹に繊細なところがあり、本来は道端に自生しているものをむしって食うような男ではない。彼が例外的に口にするこの野生の木イチゴの味の良さを教えたのは、まだ幼かったころの貴之だった。心優しい重益には、小さい子が差し出す無邪気な裾分けをむげなくはねつけるような真似は決してできない。

「昔おまえに肩車をしてもらって、この道をよく通ったな。三つか四つぐらいまで」

「覚えておいでなのですか」

「断片的に」

 誰よりも長身の彼に抱き上げてもらうと、ずっと遠くのほうまで見晴らすことができるから大好きだった。筋肉質で厚みのある肩は頼もしく、体をすっかり預けて安心することができた。こうして昔を思い浮かべると、重益と共に過ごした月日の長さ、関係の深さをあらためて実感させられる。多忙で留守がちな実の父よりも、重益はある意味ずっと父親らしい存在だったと言えるだろう。

「おまえが今後もおれに仕えてくれるなら――」

「むろん、お仕えしますよ」

 当然だろうと言いたげに即答され、貴之は足を止めて重益を見上げた。

「そうなのか。だが臣従するという申し出は、まだ聞いていないぞ」

「新しく家臣になりたい者たちが、続々と拝謁を願い出てきておりますからね。そちらがひと段落するまで、もともと近侍していた者は遠慮しようということに」

 知らぬ間に内輪で取り決めていたらしい。どうりで、小姓や近習(きんじゅう)たちも何も言ってこないわけだ。

「城主になったとたん、身近な者に見捨てられたのかと思った」

「いらぬ心配をなさいますな」

 重益はあっけらかんと言い、貴之の上に屈み込んでにやりと笑った。

「これからもお仕えしますし、お望みとあらば肩車もいたしますよ。あのころよりもいささか年は食いましたが、まだ若おひとりを担ぎ上げるぐらい造作もありません」

「こんな(なり)をして、そのうえ肩車されて城に帰ったりしたら、気が触れたかと思われるな」

 ふたりは顔を見合わせてけらけらと笑い、また肩を並べて歩き出した。

「おれの代になったら、おまえには家老席を与え、城内で(まつりごと)を補佐してもらおうと思っていた。物心共に余裕ができるから、妻子を持って落ち着いた暮らしを送れるだろうと」

「はい」

「だが気が変わった。このまま馬廻を……続けてもらいたい。おまえさえよければ」

「もとより、それがわたしの望みです」

 静かに答えた重益を横目に見て、貴之は小さくうなずいた。

「では引き続き、馬廻筆頭に任ずる」

「ありがたき幸せ」

「馬廻衆の顔ぶれは、おまえの一存で決めてかまわん」

「すぐに選任を始めます。これまでよりも人数を大幅に増やさねば」

「そうなのか。何人ぐらい」

「まずは八十人といったところでしょう。のちのち様子を見て、百まで増やすかもしれません」

 そんなに、と貴之は思わず目を(みは)った。

「多すぎないか」

「ご先代さまの馬廻組は六十四人でした。御屋形さまはご加増を賜って、今や父君をも超える大領主ですから、それに合わせれば家臣団は自ずと厚くなります」

 初めて彼から〝御屋形さま〟と呼ばれて驚いたが、そういえばたったいま、簡略的ながら臣従の意を確認し合ったのだったと思い出した。重益のほうは、早くも頭を切り換えたらしい。

「人数が多くなるのは、細かく組分けをするからです。城内と城外それぞれの定番(じょうばん)、補助役の加番(かばん)立州(りっしゅう)江州(こうしゅう)に点在する御屋形さまの直領に詰める遠所番など」

 説明したあと、貴之の顔をちらりと見てつけ加える。

「わたしは筆頭なので組には入りません。これまで通り、常におそばでお守りします」

 そう言われるとつい心安らいでしまうのは否めないが、あまり彼にばかり負担をかけたくはない。

「忠勤相褒(あいほ)むべきところだが、四十の坂を越える前に嫁ぐらいもらったらどうだ。なんなら、おれが仲人(なこうど)役をしよう。奧御殿に、重益となら喜んでと言う侍女のひとりやふたりはいるだろう」

「いえ、めっそうもない」

 重益はあわてて言い、大きな手を腰のあたりで控え目に振った。

「そんなことより――」はぐらかそうとする意図も見え見えに、わざとらしく話を変える。「任せるとおっしゃいましたが、ご自身が馬廻に入れたい者は誰かおられぬのですか」

 逆らってもっと嫁取りの話を続けてやろうかとも思ったが、気の毒なのでここはひとまず見逃すことにした。

「ひとりいる。家久来(かぐらい)龍史(たつふみ)だ」

耶岐島(やぎしま)陣の殊勲者」重益はつぶやき、深くうなずいた。「わたしにも異存はございません。定番に入れましょう」

「江州(えき)の終結後、誰よりも早く臣従を申し出てきたのはあの男だった」

「ほう、そうでしたか」

「おれは叔父御か、真境名(まきな)(りょう)どのが一番乗りをするだろうと見越していたんだ。だが、ふたりとも龍史に出遅れた」

「抜け目のないやつですな」

「彼には、いささか奇妙な感じをおぼえることもあるが――」貴之は初めて会った時の龍史の様子を思い出しながら言った。「戦では文句のつけようがないほどの活躍ぶりだった。近侍を許すことで働きに報いたい。それに家久来家は江州役で大きな犠牲を払っている。〈隼人(はやと)〉だった長男は砦攻めで、当主の友晴(ともはる)どのは耶岐島陣の第二戦で命を落としたと聞いた」

「龍史自身もたしか、顔や肩にかなりの深手を負っていましたね。それでも見事に守笹貫(かみささぬき)信康(のぶやす)を討ち取ってみせたのですから、腕が立つことは間違いありません」

「あの時、おれの立てた作戦に従って敵本陣を急襲した十人のうち、三人が討ち死にをしている。彼らの遺児か、子供がなければ親族の誰かを、龍史やほかの生存者と同じく取り立ててやりたい。それから左腕を失った花巌(かざり)利正(としまさ)も、城内で何らかの要職に就かせようと思う」

 城代家老花巌義和(よしかず)の嫡子である利正は、十代のころから父貴昭(たかあき)の側近を務めてきた忠臣だ。主君の仇討ちをすべく作戦に加わり、別働隊で生き残った七人の中ではいちばんの重傷者となった。一時は命も危ぶまれたが、今は傷もだいぶ()えて回復に向かっているという。彼もまた龍史と同様、貴之が元服をすませるのを待ちかねたように臣従を申し出てきたひとりだった。不具の身とはなったが、今後も主家のために誠心誠意働きたいと言ってくれている。

「ほかにも意中の人物がおいででは?」

 行く手に城下町と〝(ざい)〟とを仕切る大外堀が見え始めたころ、重益が不意打ちのように問いかけた。

「誰のことだ」

(あららぎ)泰三(たいぞう)とかいう偉丈夫ですよ」

 ああ、と貴之は得心してうなずいた。

「よく覚えていたな」

「御屋形さまが、人柄を気に入っておられたようだったので」

「まあ、そうだな。それに耶岐島でおれの命を救ってくれた」

戦場(いくさば)で何度か見かけましたが、縦横無尽に長柄を振り回し、いつも敵を二、三人まとめて吹っ飛ばしていました。武芸の心得はなさそうですが、膂力(りょりょく)はそうとうなものです。教えれば刀槍の扱いも覚えるでしょう。好もしいとお思いなら、城へ上げられては」

「あの男に、城勤めができるかな」

 父は彼を近郷の地侍だと言っていた。つまり、もとは百姓だったということだ。兵としては有能に思えたが、果たして武士になれるだろうか。

「視察に出たついでに会いに寄って、やる気があるかどうか直接訊ねてみられるといい」

 重益の提案はもっともだと思えた。

「そうする」

「命を救ったといえば、あの男はどうです。百武(ひゃくたけ)城の天守で会った――名はたしか、六車(むぐるま)兵庫(ひょうご)と」

「あれほどの使い手が手に入るものならぜひ身近に置きたいが、叔父御のところの隊士を引き抜くわけには……」

 しゃべっている途中で言葉を切った貴之を、重益が訝しげに見つめる。

「どうなさいました」

「いや、彼を最初に見た時、ふと妙な懐かしさを感じたことを思い出したんだ。今やっとわかった。あの兵庫という男は三輪(みわ)姫にどこか似ているな」

「そうでしょうか」

 首を傾げている。重益にはぴんとこないようだ。

「瓜二つとは言わないが」

 浅黒い肌の色合いや、豊かに波打つ黒々とした髪。異国ふうのくっきりした目鼻立ち。太めで凛々しい眉の形は、特によく似ていたと思う。

「同郷と言われたら合点がいく、そういう似寄りかたかな」

「ははあ。では六車兵庫は百鬼(なきり)島か、その周辺の小島の出身であるのやもしれませんな。島の者は島民同士で婚姻を繰り返すので、血が濃くなって似たような風貌が増えるのです」

 重益が訳知り顔に解説するのを聞きながら、城へ戻ったら三輪にこのことを終えてやろう、と貴之は思った。あなたに面差しの似た男に身を守られたと話したら、きっと彼女は喜ぶだろう。


 城外へ遊びに出たつけが回ってきて、夕餉のあとまで仕事に忙殺されたその日の夜半。

 貴之(たかゆき)はくたびれており、深く眠っていたはずだった。何にも煩わされず、夢も見ずに。

 だから目覚めた時、なぜ眠りが破られたのだろうと不思議に思った。御殿中奥の表寝間はしんと静まりかえり、気になるような気配は何も感じられない。宿直(とのい)の衆が控えている隣室からも、物音ひとつ聞こえてはこなかった。

 それでも何か、神経の末端をちりちりと刺激するものがある。貴之は(とこ)に仰臥したまま、ゆっくりと瞼を開いた。枕上の有明行灯(あんどん)(とも)っているので、夜明けはまだ遠いはずだ。

 彼は目だけを動かして、薄暗い部屋の四方に視線を転じた。行灯の外箱の透かし模様からもれる光は弱く、見上げた天井までは届かない。黒く影に沈んだそのあたりに何かがありそうに思えてじっと見つめていると、すぐ近くでふいに誰かが囁いた。

「――おい小僧」

 一瞬にして、全身に冷や汗が噴き出した。だが動かず、刀架との距離を心の中で測る。

「よせよせ」

〝声〟がまた囁いた。笑みを含んでいる。

「殺す気なら()うに()っている。起き上がって刀を引っ掴む間などありはせん」

 考えを読まれたと悟って、貴之は体を強張(こわば)らせた。もし警護の者を呼ぼうとしたら――その気配を漂わせただけでも――おそらく〝声〟は瞬時に命を奪うだろう。

 それにしても奇妙な声音だ。少し(しゃが)れていて、若者のようでもあり老人のようでもある。高い男の声にも低い女の声にも聞こえる。耳のそばでしゃべったかと思えば、足下のほうから地を這うように響いてくる。

「何者か」

 誰何(すいか)すると、〝声〟は間髪を入れず「売り込みに来た者だ」と答えた。顔を近づけなければ聞こえないほどの小声で言ったが、ちゃんと聞き取れたらしい。恐ろしいほど鋭い耳をしている。

「雇われたいなら推挙状持参で、昼間に玄関から来るがいい。顔も見せぬ売り込みなど笑止千万だ」

 ぴしりと言ってやると、〝声〟はくぐもった笑い声を立てた。

「落ち着いているな、小僧。おれが怖くないのか。それとも空威張(からいば)りか」

「雇い主を小僧呼ばわりするのか」

「まだ雇われておらん。(ろく)()むようになったら、御屋形と呼んでもやろう」

「おまえは忍びの者だな」

 そのあたりが妥当な線だろう。御殿のこれほど奥深くまで、並みの者が入り込めるはずはない。

「近い」と、〝声〟がどこか右のほうで言った。「違うが、近い」

「忍びを雇う気はないぞ。黒葛(つづら)家には昔から抱えてきた忍びの一族が――」

空閑(くが)忍び」貴之の言葉をさえぎり、〝声〟が低くつぶやく。「代々、黒葛家にだけ仕えている一族。忠誠心が強く、情報収集や工作に長けている。頭首は空閑宗兵衛(そうべえ)。どうだ、よく知っているだろう」

「それだけ承知なら、おれにほかの忍びなど必要ないこともわかるな」

「やつらは〝草〟だ。おれは違う」

「では、おまえはなんだ」

「〝(とげ)〟だ」

 その返答を聞いた瞬間、なぜか胃の()が縮こまったように感じた。

「〝棘〟は〝草〟にはやれぬことをする」

「おまえにできて、空閑の者にできぬことなどない」

〝声〟がかすかに鼻を鳴らした。

「空閑は黒葛と強く結びつきすぎている。やつらは黒葛家に仕えているのであって、小僧、おまえに仕えているのではない」

「それの何が悪い。我が家に仕えていればこそ、空閑の者はおれのごとき小僧の(めい)にも従うぞ」

「では言い方を変えよう。おまえが黒葛のほかの家――たとえば宗家に遺恨を抱いたとする。憎い宗主を人知れず亡き者にしたい」

 どきりとした。鼓動が少し速くなったのは、ほんの一瞬ではあるが、頭の片隅に俊紀(としのり)の顔を思い浮かべてしまったせいだろうか。

「だが、殺せと空閑忍びに命じたとしても、やつらはそれを拒絶する。黒葛家とのかかわりの深さゆえにな。しかし時に人は、理不尽な仕打ちをした身内に害意を抱くことがある。大儀のために血縁の者を排除せねばならぬこともある。いつかその時が来たなら、おまえはおれという〝棘〟を懐に入れておく機会を得られたことに感謝するだろう」

 幻惑するような声が滔々(とうとう)と流れるのを聴きながら、貴之は身の(うち)から湧き上がる(おのの)きを必死に(こら)えていた。

 与太話はよせと言うべきなのかもしれない。黒葛家の強さの源は一門の固い結束にある。我が家はこの二百年あまり、一度も内紛が起きていない唯一の名家だ。これからも身内同士で殺し合うことなど断じてないと。

 だが貴之は、彼の話に幾ばくかの真実が含まれていることを理解していた。

「仮に宗主を殺せと命じたら、おまえはそれを成し遂げられるのか」

「金を払ってくれるなら」

「幾らだ」

「高い。だが、その価値はあると保証する」

 心がかすかに揺れるのを感じ、途端に〝声〟との会話に嫌気が差した。このまま言いくるめられ、得体の知れない刺客を雇ってしまうような不甲斐ない真似は絶対にしたくない。

「価値があるかどうかは、おれが判断することだ」貴之は素っ気ない口調で言った。「能力を証明してみせろ。雇用の話をするのは、そのあとのことだ」

 室内に沈黙が落ちた。押し黙ったまま、〝声〟は考えをめぐらせているようだ。貴之もまた口をつぐみ、相手が答えるのをじっと待つ。

 しばらく経って、天井から〝声〟が降ってきた。

「よかろう。誰を殺す」

「人を(あや)めるのではなく、おれが有益と思うような情報を持ってこい」

 この要求は〝声〟を少したじろがせたようだった。

「〝棘〟は殺すのが仕事だ」

「殺すしか能のない者などいらん」

 またしばらく間を置いてから、〝声〟が呻くように「承知」とつぶやいた。しぶしぶといった響きがある。

「次はいつ来るつもりだ」

「おれの気が向いた時だよ」

 頬にそよ風を感じたような気がした。と同時に行灯の火がゆらめき、ふっとかき消える。寝間の中が薄闇に包まれ、左の耳朶(じだ)に触れるほどの近さで〝声〟が囁いた。

「またな、小僧」

 貴之は弾かれたように跳ね起き、(とこ)の上に片膝をついて周囲を見回した。誰もいない。

「若殿、どうかなさいましたか」

 気配を察したらしく、隣室から宿直の者が声をかけてきた。

「大事ない」

 答えておいて、あらためて室内に目をやる。調度に乱れはなく、ほかに人がいたような痕跡も、においも、何も残ってはいない。

 貴之は大きく息をつき、寝衣の襟を振るって胸元に風を送った。疲れを感じており、何となく肌が熱っぽい。二度目の深呼吸でようやく人心地つくと、彼は消えた有明行灯をそのままにして再び床に入った。右を下に側臥し、手探りで夜着を腰のあたりまで引き上げる。

 そうして眠りに戻ろうと目を閉じかけた瞬間、貴之は父の命を奪った耶岐島(やぎしま)陣の刺客を守笹貫(かみささぬき)道房(みちふさ)が〝棘〟と呼んでいたことを思い出した。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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