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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第三章 新たな火種
123/161

三十一 別役国酒匂郷・青藍 仲間割れの夜

 天門信教(てんもんしんきょう)若巫女(わかみこ)だったと他者に知られたことは、青藍(せいらん)が恐れていたような不運を招きこそしなかったが、好運をもたらしもしなかった。結果として良かったか悪かったかでいうと、悪かったほうに少し傾いている気がする。

門番(もんばん)〉の旦那はもともと粗暴で無愛想な男だったが、封霊(ふうれい)の術を見せてしまったあの夜以来、青藍への当たりが特別にきつくなった。へたに手の届くところでうろちょろしていると不意に突き転ばされたり、「()せろ」と怒鳴られて(はた)かれたりするので、怖くて近寄ることができない。姿が目に入るだけで不愉快だと思われているようだ。

 以前は青藍に親切だった〈イカル〉は、最近では彼女を避けているように見える。悪霊(あくれい)を誘い込む代用門に仕立てられ、強引に儀式に巻き込まれたのがよほど恐ろしかったのだろう。

 彼らほど大きく態度が変わったわけではないが、虜囚仲間の此糸(このいと)初音(はつね)も以前よりどことなくよそよそしいように思える。

 一方、前は青藍に(はな)も引っかけてくれなかった夜斗(やと)は、急に彼女に興味を示すようになった。何か言ってくるわけではないが、ふと気づくと物問いたげにこちらをじっと見ていたりする。聞きたいことでもあるのかしら――と青藍は気になったが、目を合わせようとすると視線を逸らされてしまうので、彼の真意は量りがたかった。といって、日ごろ「女と餓鬼は虫が好かねえ」と公言して(はばか)らない相手に、こちらから話しかけていくほど果敢にはなれない。

 そうしてひと月あまりが過ぎたある日の早朝、便所穴に続く薄暗い通路で、珍しく青藍は夜斗に出くわした。虜囚ふたりがそれぞれ単独で同時に(ひとや)の外に出ているなど、めったにないことだ。掃除に使った桶を胸に抱え、端に()けながらすれ違おうとした彼女を、斜めうしろから夜斗が呼び止めた。

(あい)

 彼に名前を呼ばれたのはこれが初めてだ。青藍はにわかに緊張し、しゃちこ張りながらぎこちなく振り向いた。

「はい」

「おめえ、まじで若巫女だったのか」

「そうです」

 夜斗は彼女に近づくと、前屈みになって顔を覗き込んだ。

「こないだ漂魄(ひょうはく)を鎮めたみてえな、ああいう術をほかにも使えんのかよ」

「ええと、あの……いくつかは」

「じゃあ」彼の目がふいに真剣な光を帯びた。「その術で、人を呪い殺せるか」

 眼光の鋭さに息を呑み、思わず後ずさった青藍を夜斗がゆらりと壁際へ追い詰める。

「どうなんだ。できんのか」

「う、ううん」

 青藍は必死の面持ちで首をぶるぶると振った。額や首筋に冷たい汗がにじみ出す。

「できません」

「嘘つけ」彼の声に険が混じった。「前においらの村に来た野術師(のじゅつし)のじじいは、できるっつってたぞ」

〈野術師〉と呼ばれる者たちが下界にいることは聞き知っている。彼らは御山(みやま)で修行をしたものの奉職を続けることなく去ったり、修行半ばで挫折したりした人々で、習い覚えた宗教的知識を金儲けに利用しているらしい。そういう人間は、呪殺が可能だなどという嘘も平気でつくのだろう。

「天門信教には、(よこしま)な術はないんです」

 そのはずだ。少なくとも、青藍はそう教えられている。

「人の心や魂を安らかにしたり、()いことをもたらしたりする術があるだけなの。(ひでり)の時に雨を降らせたり、失せものを見つけたり」

 夜斗が舌打ちをした。

「あのホラ吹きじじい」

 忌々しげに言いながら体を起こし、彼は背後の壁に寄りかかって胸の前で腕を組んだ。

「おめえらの宗教じゃ、若巫女ってのはだいぶ身分が(たけ)えんだろ。神さまに頼みゃ、何でも叶えてもらえんじゃねえのか」

「何でも叶えてもらえるのなら、今ここにいないわ」

 考える前に言葉が口からぽろりとこぼれ出た。夜斗が呆気にとられた顔をしている。次の瞬間、彼は(こら)えかねたようにふっと笑みをもらした。

「そりゃあ、そうだよな」

 もう長く一緒にいるが、青藍が彼の自然な笑顔を目にしたのはこれが初めてだった。造作が美しすぎるので無表情でいると冷淡そうに見えるが、こうして笑うとそんな印象はたちまち消え失せてしまう。

 だが彼女が思わず見とれているのに気づくと、夜斗はすぐに笑みを引っ込めてしまった。

「おいらに惚れんなよ」からかい口調だが、顔つきは真剣だ。「餓鬼は嫌いだ」

 言い捨てて行こうとした彼に、今度は青藍がうしろから声をかけた。

「誰を呪い殺したいの?」

 やはり〈(さい)〉だろうか。毎夜のように彼を痛めつけ、苦しめ続けている恐ろしい男。

 夜斗は足を止め、肩ごしに片目だけで青藍を見た。

「気に入らねえやつ、みんなさ」

 本気にしか聞こえない凄みのある声でそう言うと、彼は便所穴のほうへ歩いていった。


 盗賊にさらわれてから、気づけばもう四月(よつき)が経とうとしている。だが、ずっと(ねぐら)の洞窟に軟禁されたままなので、季節の移り変わりを実感することはできない。

 洞窟の長い支道の奧にある水場で洗濯をしながら、青藍(せいらん)は肌に触れる水の温度や感触から近づく夏を感じ取ろうとした。御山(みやま)では水月(すいげつ)も半ばになると宮殿の奥庭を巡る川の水面(みなも)が陽に温められてぬるみ、浅く()けた指先を優しくくすぐるように感じられたものだ。しかし洞窟の中を流れる小川の水はここへ来た当初とほとんど変わらず、今も氷が張るかと思えるほどに冷たいままだった。

 裸足で流水に入って踏み洗いをしていると、すぐに爪先がじんと痺れたようになり、やがて感覚がなくなってしまう。ぞくぞくするような寒気が腰のあたりまで這い上ってくるのを感じながら、青藍は少しでも冷えを追い払うためにせっせと脚を動かし続けた。

 小柄で体重も軽い彼女にとって、洗濯はかなりの重労働だ。つらいと思うとますますつらくなるので、こういう仕事をする時には何か無関係な考えに没頭するようにしている。

 今日は幸い、考えたいことがいろいろとあった。その中のひとつは朝、夜斗(やと)に訊かれたことだ。〝人を呪い殺せるのか〟という彼の問いかけが、今も頭から離れない。

 どうなのだろう。自分が知らないだけで、ほんとうはそんな術もあるのだろうか。若巫女(わかみこ)若巫子(わかふし)祭主(さいしゅ)位を継承する候補者として、天門信教(てんもんしんきょう)の術道を極めるべく厳しい教えを受けながら育つ。青藍も〈尋聴(じんちょう)〉〈封霊(ふうれい)〉〈(うらえ)〉〈(はらえ)〉など、ひととおりの術はすでに身につけていた。だが、それらは決して人に害を与えはしない。

 青藍たちが奉ずる神は人々を守り、慈しみ、正しい行いへ導く善神とされている。そんな神の御教(みおし)えに、人間に仇なすようなものが含まれているとは考えづらかった。

 呪殺の術があるというのは、やはり野術師(のじゅつし)が勝手に触れ回っていることなのだろう。信徒ではない人々に、そんな嘘が広まっているのなら大問題だ。下界にも数多くの祭堂(さいどう)があり、伝道の祭宜(さいぎ)も各地で活動しているはずなのに、なぜ誤りが正されないのだろうか。

 かつて青藍は、御山の外でも人は御教えに従って慎ましく、心安らかに生きているものと思っていた。実際はそうではなく、信仰とはかけ離れた暮らしをしている人もいるのだということを今では知っている。

〈ふぶき屋〉の人々はごく少数を除いて、誰も神のことなど気にかけていないようだった。見世(みせ)の敷地の中に古い神祠(しんし)があったが、そこに定期的に足を運んでいたのは青藍と娼妓(しょうぎ)白露(しらつゆ)と下働きの二、三人だけだ。今いる〈二頭団(にとうだん)〉の根城は、それに輪をかけて信仰とは縁遠い場所だと言えた。盗賊たちが神のことを多少なりとも思い出すのは、仲間内に死者が出たときぐらいのようだ。

 青藍は足踏みを止め、顔を仰向けて大きく息をついた。膝から下は凍えているが、上半身は火照(ほて)っている。温まって少し汗ばんだ体から、()えたような(いや)なにおいが立ちのぼってきた。もうずっと入浴していないので、体じゅうが汚れきっているのがわかる。着たきりの小袖も垢じみてよれよれになり、それ自体も不快なにおいを放っていた。だが、盗賊の誰かがいつ来るとも知れないこの場所で裸になり、凍るような水で体を洗う気にはとてもなれない。

 それでも――と思い直し、青藍は冷水を(すく)って顔と首回り、耳のうしろを手早く洗った。そうしながら、小川の流れていく先にちらりと目をやる。

 岩のくぼみを伝う浅い川の行き先は、ごつごつした厚い岩壁の下の狭い亀裂だった。水はそこへ吸い込まれるように流れ入り、光の届かない暗い場所へと消えていく。

 何日か前、青藍は(つくろ)い物の途中でうたた寝をした際に、この小川を夢で見た。その夢では彼女は何か別の生き物になっていて、水際の乾いた岩の上を、地面に這いつくばるようにして歩いていた。亀裂を通り抜けた向こうには墨を流したような闇が待っていたが、彼女の目はその通路がどんな形をしているのか、どちらへ向かって伸びているのか、明瞭とはいえないまでも行動に支障がない程度には見て取ることができた。

 青藍は夢の中で長い散歩を楽しみ、水の流れに沿ってかなり遠くのほうまで足を伸ばした。目覚める直前にちらりと見えた光をあのまま目指していれば、ひょっとすると洞窟の外の景色も見られたのかもしれない。

 むろん、ただの夢だとわかっている。外の世界への憧れが、自由を切望する気持ちが、あんな形になって表れたのだろう。

 わたしがもし小さな生き物になれたら、あそこから出て行けるのかしら――そう思いながら亀裂を見つめていると、うっかり足の力が抜けてしまい、爪先で踏んでいた着物がするりと流れた。急いでつかまえなければ、亀裂の向こうに行ってしまう。

 青藍は水を跳ね散らしながら駆け出し、二度ほど転びそうになりながらも、なんとか布の端を掴むことに成功した。生地の一部は、すでに裂け目の中に吸い込まれている。危ないところだった。流してしまったら、もう二度と取り戻せないだろう。

 慎重に洗濯物を引き寄せながら、これまで近寄らないようにしていた亀裂を初めて間近に見た瞬間、青藍はどきりとした。離れたところから松明(たいまつ)の明かりだけでぼんやり見ていた時には、それは岩壁と床が接する部分に走る細長い裂け目に過ぎなかったが、こうして近づいてみると想像よりもずっと大きいことがわかる。横幅は約二尺ほど。高さは八寸ぐらいあるだろうか。

 くぐり抜けると、その先の通路はもう少し広くて――ううん、あれはただの夢だもの。穴の向こうがどうなっているかなんて、わたしにはわからない。

 そう思いながらも青藍は前屈みになり、恐る恐る亀裂に右腕を入れてみた。肘の上まで差し込み、ゆっくり動かしながら周囲を探ってみる。上に持ち上げるとすぐ指が岩に触れたが、左右には手の届く範囲には何もなかった。夢で見た通りの形に思える。

 明かりを近づければ、中の様子をもっとよく見ることができるだろうか。

 好奇心がうずいた。どんなふうになっているのか、ちょっとだけ覗いてみたい。夢の記憶がどれぐらい正しいのか、あるいは夢はやはり夢でしかなく、現実とはまったく違っているのか、それを確かめてみるために。

 だが松明を取りに立ち上がりかけた瞬間、支道の中ほどで荒々しい怒鳴り声が上がり、彼女の体を中腰のまま固まらせた。

「甘っちょろいことをやってんじゃねえぞ、〈門番(もんばん)〉の」

「おれがどうしようと、あんたにとやかく言われる筋合いはねえ」

 言い争っているのは〈飯綱(いづな)〉の旦那と門番の旦那だ。青藍はこの水場へ来る途中、ふたりが門番の私室になっている穴蔵で何か深刻そうに話し合っているところを垣間見ていた。この様子だと、どうやら話がこじれたらしい。

 門番と飯綱はふたりで〈二頭団〉を束ねているが、青藍が観察したかぎりでは、それほど仲がいいというわけではなさそうだった。仕事は各自が手下を率いて別々に行うし、それ以外の時にもあまり一緒にいることはない。

 彼らはめったに会話もしないが、たまに話すと意見が衝突して険悪な雰囲気になることがしばしばあった。門番は飯綱に口出しされることを嫌い、飯綱は門番に詮索されるのを(いや)がる。そんなに気が合わないなら、いっそふたつの盗賊団に分かれてしまえばいいようなものだが、そこは一緒にやっていくほうが何か都合のいいこともあるのだろう。

 だがここへきて、彼らの関係はますます冷え込んでいるようだった。そのきっかけとなったのは、先ごろ亡くなった門番の弟〈拳固(げんこ)〉だ。〈ふぶき屋〉襲撃で重い傷を負って戻り、何か月も半死半生だった拳固を飯綱はずっと警戒していたという。「(ねぐら)で死なせるな。漂魄(ひょうはく)になったらどうする」と彼は何度も警告したが、弟は助かると信じたがっていた門番は聞き入れようとはしなかった。

 その結果、拳固は飯綱とその手下の留守中に死に、漂魄になって大暴れをした。誰も殺されこそしなかったが、門番が左肩に大けがを負ってしまい、仕事から戻って顛末(てんまつ)を知った飯綱は「そら見たことか」と思っただろう。

 しかも話はそれで終わらなかった。門番が非業の死を遂げた弟を(いた)むあまり、死骸の埋葬を頑として拒んだのだ。洞窟の中は涼しいとはいえ、死骸をいつまでも置いていれば当然ながら腐敗が進む。臭気が漂い、(うじ)が湧き、ネズミなどの害獣や害虫が引き寄せられて集まってくる。毎日口やかましく文句を言いながらも飯綱はしばらく我慢していたが、十日目の夜中に門番が眠っている隙をついて亡骸(なきがら)を外へ運び出し、手下に命じて勝手に埋葬させてしまった。

 この一件が、ふたりの頭目の決裂を決定的にしたのは明らかだ。

 彼らの不和は、それぞれを(かしら)と仰ぐ手下たちの対立にもつながった。まだ暴力的な事件こそ起きていないが、狭い洞窟内で二派が角突き合わせながら暮らしていれば、いずれそういう事態に及ぶことは想像に(かた)くない。

 飯綱に気に入られているので事情に明るい此糸(このいと)は、近いうちに喧嘩騒ぎになり、それが収まれば「飯綱の旦那がこの盗賊団を一手に牛耳ることになる」と断言している。だが彼女は、飯綱側が負けても別にかまわないとも思っているようだった。「どっちが勝とうが、あたしらへの扱いはたいして変わりゃしないんだ。そのうちどこかの宿場へ連れられてって、適当な見世(みせ)に売り払われるってだけさ」というのが彼女の見解で、同じ娼妓(しょうぎ)初音(はつね)や、最近少し体の調子が良くなってきた花琴(はなこと)もそれに同意している。

 青藍も、どちらの側が勝つかという点に興味はない。ただ、ここしばらく塒を満たしている、ぴりぴりとした空気が心底耐えがたかった。昔から彼女は人と人との軋轢や争いが苦手だ。自分自身が巻き込まれなくとも、脇で見たり感じ取ったりするだけで気が沈んでしまう。

 他人に翻弄されてばかりの下界での生活にも、不便な洞穴(ほらあな)暮らしにももう慣れたが、これにだけはどうしても馴染めないままだった。

「偉そうに()かすなら、まともに仕事をしたらどうなんだ!」

 飯綱の怒鳴り声で、青藍ははっと我に返った。ふたりの頭目の言い争う声は、さらに大きくなっている。

「てめえは弟に死なれて、やわになっちまった。いい加減しゃんとして、間抜けな手下どもを連れて稼ぎに行きやがれ」

「仕事はする」

「いつ」

「すぐにだ」

「そう言うばっかりで、もうずっと動きやしねえじゃねえか。いつまでも無駄飯食って、だらついていられると思ったら大間違いだぜ」

「だから仕事はすると言ってるだろうが!」

 威圧的な飯綱と頑固な門番の、いつ果てるとも知れない怒鳴り合いが続く。いたたまれなくなった青藍は大急ぎで洗濯物をぞんざいに絞ると、腕いっぱいに抱えて水場から逃げ出した。


 湿気が体にまとわりつく、冷え冷えとして寝苦しい夜だった。

 青藍(せいらん)は寝付きのいいほうだが、眠気を一度逃してしまうと再び眠りに戻るのはなかなか難しい。岩の地面に(わら)を敷いただけの固い寝床ではなおさらだ。

 横向きになって体をまるめ、爪先を触ってみると氷のように冷たかった。昼間、水場で凍えたせいだろうか。

 手で握って温めながら、彼女は目だけを動かして暗い(ひとや)の中を見渡した。夕飯のあと〈飯綱(いづな)〉の旦那に呼ばれていった此糸(このいと)が、いつの間にか戻ってきて寝ている。壁際の一角では、初音(はつね)花琴(はなこと)に寄り添うようにして眠っていた。いないのは、いつものように〈(さい)〉に連れ出された夜斗(やと)だけだ。

 すっかり眠りが遠のいてしまったので、寝床をもう少し居心地よく整え直すつもりで起き上がると、今夜の洞内の見回りを担当している〈片眼(かため)〉がぶらぶら歩いてきて獄の前で足を止めた。

「なんだ、小便か」

 そのつもりはなかったが、訊かれると何となく獄の外へ出たくなった。ちょっと体を伸ばして、水でも飲んできたい。

「はい」

 彼女がうなずくと、片眼は黙って扉の鍵を開けてくれた。左目がつぶれていて視界が半分しかないせいなのか、彼はいつも物事に半分程度しか関心を向けていないように見える。今も青藍が便所穴のある通路ではなく、その隣の長い支道へ入って行くのを見ていたはずなのに、特に何も言おうとしなかった。あんな調子で見張りが務まるのだろうか。

 支道の壁にはところどころ火が(とも)されているが、盗賊たちの大半はもう寝入っているらしく、どこにも人影は見当たらなかった。武器庫と道具部屋の間にある大きな部屋からは、大小さまざまな(いびき)が聞こえてくる。そこで下っ端の十人ほどが雑魚寝をしているのだ。

 ふたりの頭目と数人の幹部は、水場に近いいくつかの小穴を私室として使っている。入り口に目隠し代わりの(むしろ)(すだれ)を下げているが、どれも傷んでぼろぼろになっているので、中の様子はほぼ素通しだ。その小穴のひとつから、薄く明かりがもれていた。幹部のだれかがまだ起きているらしい。

 足音を忍ばせて通り過ぎながら、明かりのついている部屋にちらりと目を向けた青藍は、破れた簾の隙間から見えた光景に凍りついた。

 夜斗が床に(ひざまず)き、片肌脱ぎの胸に汗を光らせた賽が背後から彼にのしかかっている。夜斗の顔には新しい殴打の痕があり、鼻孔から唇にかけて大量の血がこびりついていた。かなりひどく殴られたに違いない。

「泣け」

 ごつ。

 賽が夜斗の髪を掴んで地面に頭を打ちつけると、重く鈍い音が響いた。

「泣けよ。もう勘弁してくださいと言え」

 ごつ。ごつ。

 低く囁きながら、彼は何度も何度もそれを繰り返した。夜斗は睨むようにどこかを見据えたまま、歯を食いしばって耐えている。

 青藍は声がもれないよう両手で口を押さえ、ふらつきながらその場を離れると、支道の奧の水場によろよろと駆け込んだ。

 どうして、あんなひどいことをするの。どうして……。

 目に涙がにじんだ。早鐘を打つ胸の奧から、どす黒い感情が湧き上がってくる。いつも手の中で(もてあそ)んでいる賽子(さいころ)のように、人をも好き勝手に弄んで(たの)しむあの男に初めて憎しみを感じた。

 彼女にとって憎悪は、あまり馴染み深いものではない。自分を騙して娼楼(しょうろう)に売った一眞(かずま)ですら、憎いと思ったことはなかった。たとえ人に叩かれても、それで感じるのはいつも悲しみや無力さであり、憎しみにかられて叩き返したいなどとは思わない。

 だが今は、もしその力があるのならあの部屋に躍り込んで、夜斗がされたのと同じように賽を痛めつけてやりたかった。そうすれば彼も、自分がどれほどひどい仕打ちをしているかを悟ることができるはずだ。

 握り締めた拳をぶるぶる震わせながら猛々しい思いにかられていた青藍は、そこでぎくりと身をすくめた。

「わたし……」口を開くと、不快なほど熱っぽい息がもれた。

 わたし、どうしてしまったの。人を傷つけたいと思うなんて。前はこんなじゃなかったのに。相手が誰であれ、人を罰する資格なんてわたしにはないのに。

 御山(みやま)を離れても、神の御教(みおし)えから遠ざかることはしないと心に決めていたはずだった。奉職者ではなくなっても、どんな身の上に落ちたとしても、あくまで自分は神に仕える者でいようと。それなのに、こんなにも早く揺らぎ、善心を失おうとしているのだろうか。

 体の力が抜け、青藍は小川が流れる岩のくぼみの傍にへたり込んだ。緊張で喉がからからに渇いている。まだ小刻みに震えている手をそろそろと伸ばし、掌に水を(すく)おうと前屈みになった時、支道のどこかから異様な叫びが聞こえてきた。次いで雷鳴のような怒号が響きわたる。

「くそっ、やりゃあがったな」

 聞き覚えのある濁声(だみごえ)。〈門番〉のものだ。その声音には当惑と、猛烈な怒りが入り混じっていた。

「よし、もう(しま)いだ。もう容赦しねえ。おい、てめえら起きろ! なにをぐずぐずしてやがる。飯綱を見つけて引きずり出せ。裏切り者のイタチ野郎をぶっ殺せ!」

 わめき立てる門番の命令に、洞窟の中からいくつもの声が応え、そこから混乱が始まった。

 あわただしく駆け出す足音。雄叫び。悲鳴。誰かが何かを盛大にひっくり返す音。その中に混じる剣戟(けんげき)の響き。

 暗い水場で地面に膝をついたまま、青藍は茫然とそれらの音を聞いていた。何があったのかはわからないが、盗賊たちが武器を取って仲間同士で戦い始めたのは明らかだ。

 もし誰かに見つかったら、きっとわたしも殺されてしまう。

 それは確信だった。普段から荒っぽい彼らは、頭に血が(のぼ)ればもっと見境(みさかい)がなくなるだろう。そんな時に青藍が目につけば、ただそこにいたというだけで刃を突き立てるに違いない。

 ここにいよう。動いちゃ駄目。騒ぎが収まるまで誰にも見つからなければ、無事でいられるかもしれない。絶対に声を出さずに、隅っこにじっとしていよう。

 そう決意して、彼女は水場の入り口に近い壁際まで這っていった。立ち上がろうにも、膝に力が入らない。

 支道は鋼がぶつかり合う音や、大勢がばたばたと駆け回る音で満たされていた。幹部たちももう全員起き出して、戦いに加わっているようだ。

 その時、青藍はふと夜斗のことを思い出した。

 門番からも飯綱からも腹心扱いされている賽が、あのまま部屋でじっとしているとは思えない。いちばんに飛び出して、どちらか自分が加勢しようと思うほうに加わるはずだ。だが、彼は一緒にいた夜斗をどうしただろう。

 まさか殺されてしまったのではと思うと不安になり、彼女は隠れてじっとしているつもりだったことをたちまち忘れてしまった。

 あの部屋まで行って、様子を見てこよう。夜斗さんが(ひとや)へ戻っているのならそれでいいし、もし何かされて――刺されるかどうかして動けずにいるのなら助けなくちゃ。

 だいじょうぶ。行ける。走ればほんの十歩だもの。大急ぎで行って、部屋の中を確かめて、何もなければすぐまたここへ戻ればいいわ。

 青藍は心を決め、膝を手でぎゅっと掴んで立ち上がった。(すね)が震えていて歩けるかどうか心もとないが、通路へ一歩出てしまえば腹も座るだろう。

 無理にも自分を鼓舞して暗がりから顔を出してみると、意外にも支道には誰もいなかった。戦いの場はもっと広い場所――中央の広間へ移ったらしく、男たちの絶叫や悲鳴がそちらから聞こえてくる。通路には点々と血が落ち、斬り裂かれた(むしろ)や破れた布きれなどが散乱していた。それらに埋もれて、動かない体がふたつ。

 青藍は縮こまりながら支道へ出て、倒れている男たちにこわごわと近づいた。手前で死んでいたのは飯綱の手下の〈二枚目(にまいめ)〉。少し向こうで短刀を握ったまま事切れていたのは、門番が可愛がっていた屈強な若者〈牡牛(おうし)〉だった。

 無惨な死体に戦慄(せんりつ)しながらも、どちらも夜斗ではなかったことにほっとして、青藍は(さい)の私室に足を向けた。入り口の()(すだれ)はむしり取られたように半ばから裂け、残骸だけが虚しくぶら下がっている。その下を慎重にくぐった彼女は、室内の様子をひと目見たとたんに立ちすくんだ。

 血まみれ。どこもかしこも。まるであの時と同じ。祭主(さいしゅ)さまの――あの時と。

 くらくらして立っていられなくなり、彼女はたまらず部屋の中によろめき込んだ。

 床の中央に大きな血溜まりができている。それを見て思わず脇へ避けた青藍は平衡を失って転びそうになったが、背後から伸びてきた手に腕を掴んで支えられた。

(むくろ)を踏むぞ」

 耳のそばで囁いたのが夜斗の声だと気づくのと同時に、彼女は自分が床に横たわった賽の頭を(また)いでいることを悟って硬直した。

「叫ぶなよ」

 そう警告して、夜斗は青藍をゆっくり横へ誘導した。

「おめえ、なんでこんなとこにいるんだ」

 訊かれて振り返った青藍は、彼の姿を見て再び体を強張(こわば)らせた。

 夜斗は全裸で、がりがりに痩せて(あばら)の浮いたその体は赤黒い雨を浴びたようになっていた。長い黒髪もたっぷりと血を吸い、束になった毛先からまだ雫を垂らしている。

 青藍はびくびくしながら、倒れている賽を肩ごしに見た。その胸や腹には数え切れないほどの刺し傷がつき、じくじくと血をにじませている。首に空いたふたつの穴は特に大きく、顔もめった斬りにされていた。鼻の頭が斜めに削げ落ち、上唇が真ん中で裂け、左手は指が二本欠けている。

 身震いしながら大きくため息をつくと、青藍は夜斗のほうへ視線を戻した。

「殺したの」

 訊ねた声は小さく、(かす)れていた。夜斗がじっと彼女を見つめ、軽く肩をすくめる。「当然だろう」と言いたげに。

「騒ぎが収まったら……」

 誰かが来て、この惨状を見るだろう。そして夜斗は殺される。

 青藍は一瞬で決断した。

「逃げましょう」

 きっぱり宣言すると、夜斗が目を丸くした。

「なんだと?」

「ここにいたら、夜斗さんは殺されちゃうもの」

「ふん、かまいやしねえ。やることはやったしな」奇妙に穏やかな調子で言い、彼は物憂げに前髪をかき上げた。「こうなっちまったら、どうせどん詰まりだ」

「よくないわ」

「逃げられやしねえよ。広間で連中が暴れまわってるし、こんな騒ぎの中でも出口には見張りが立ってるだろう。外へ出られるはずがねえ」

「出口へは行かないの」

 青藍は周囲を見回し、部屋の隅に放り出されていた夜斗の小袖を見つけると、拾い上げて彼にぐいぐい押しつけた。

「これ着てください。急いで」

「出口へ行かずに、どこから出ようってんだよ」

 当惑の表情を浮かべながらも、夜斗は手早く身なりを整えた。

「抜け穴でもあんのか」

「そうです」

 青藍は通路の様子を窺い、先ほどと同様に誰もいないのを確かめてから、夜斗の手を掴んで水場へ引っ張っていった。彼は黙ってついてきているが、まだ半信半疑のようだ。

「あの裂け目に入って、水の流れに沿っていけば、洞窟の外に出られるの」

 説明すると、夜斗はあからさまに疑わしそうな表情になった。

「出られるって、なんでわかる。途中でつっかえるかもしんねえだろ」

「だいじょうぶ」

 そうは言ったものの、急に不安になった。あの夢を根拠に、こんな無謀なことをしてもいいのだろうか。自分だけならともかく他人を巻き込んで、命を危険にさらさせて。

 だが胸の奥に、強烈な確信が芽生えていた。夢で彼女は何かの生き物の体を借りて穴の中を這ったが、あれは夢などではなく実際に起こったことなのだと感じる。とはいえ、そんなことをいま夜斗に話すわけにはいかなかった。「夢で見たから」などと言えば、彼は鼻で笑ってこの場を去るだろう。

「行きましょう。見つからないうちに早く」

「まじで言ってんのか。中に入ったことがあんのかよ」

「あります」

 不欺(ふぎ)掟戒(ていかい)を破ってしまった。わたしはどんどん御教(みおし)えから遠ざかっている。でも、そのことを考えるのはあとにしよう。無事にここを出られてから。

「先に入るから、ついてきてください」

 自信たっぷりに聞こえるよう声を張って言い、青藍は小川の中に足を踏み入れた。ざぶざぶと水を跳ね散らしながら歩いて行き、亀裂の前に屈み込む。そのままの姿勢で、ちょっと耳を澄ませてみた。喧嘩の決着はまだついていないようで、激しく争う音が洞内に反響してここまで伝わってくる。

 その時、青藍は頭から抜け落ちていたことをふいに思い出して、「あっ」と声を上げた。

「どうしよう、此糸(このいと)さんたち」

 おろおろと体を起こしかけた彼女の肩を、すぐうしろに来ていた夜斗がぐっと押さえた。

「無理だ。置いてくしかねえ」

「でも……」

「飯綱と門番のどっちが勝とうが、あいつらは殺されやしねえよ。売ればそこそこ金になる女どもだからな。それにこの穴は――」夜斗は青藍の上から裂け目を覗き込み、小さく首を振った。「おまえはよくても、おいらでぎりぎり、あいつらにゃ絶対通れねえぞ」

 言われてみれば、長身の初音(はつね)や豊満な此糸がこの狭い亀裂を通り抜けられるとはとても思えない。夜斗は小柄なほうだが、それでも賽に虐待されてこれほど痩せていなければ通るのは無理だっただろう。

「行くんだろ。腹くくれ」

 強い口調で言われ、まだ後ろ髪を引かれつつも青藍は水の中で四つん這いになった。裂け目に頭を半分入れて前を見れば、どこまでも漆黒の闇が広がっている。夢ではちゃんと通路が見えていたが、自前の目ではやはり見通せないようだ。あまりの闇の深さに()()づき、先に進むのをためらっていると、夜斗にぽんと尻を蹴られた。

「さっさとしろ」

 それでようやく覚悟が決まり、青藍は水に半身を沈めて亀裂の内側へと這い進んだ。

 穴の中は狭く、息が詰まりそうに暗く、水は肌を刺すかと思うほど冷たい。しばらく進んでから止まり、恐怖と寒さに震えていると、うしろほうから水音が近づいてきた。夜斗が、ちゃんとあとをついてきている。だが進み方は遅く、窮屈な通路にかなり苦戦しているようだ。

「くそ、動きづれえ」

 小声で悪態をつき、彼は息を切らしながらどうにか青藍に追いついた。

「ほんとに出られんだろうな」

「出られます」

 また嘘をついてしまった。なんの保証もないのに。

 青藍は少し速度を落として先へ進みながら、この話題から逃げようと話を変えた。

「夜斗さん、どうしてあの人を殺したの。毎日ひどいことを……されていたから?」

「あの野郎が白露(しらつゆ)九平次(くへいじ)()ったからだ」

 意外な返答に驚いて頭を上げたはずみに、青藍は岩の天井に後頭部をしたたかぶつけてしまった。鈍い音を聞きつけた夜斗が「間抜け」と無遠慮に笑う。

 青藍は目尻に涙を浮かべながら、痛手をこうむった場所をそっとさすった。その手の甲にざらざらした岩が触れる。通路のこのあたりはかなり天井が低いようだ。

「ここ、すごく狭いから気をつけて」

 注意を促し、また先へ進む。何があろうと、とにかく這い続けるしかない。

「夜斗さんは、白露さんや九平次さんと仲良しだったの?」

 青藍自身も、娼妓(しょうぎ)の白露には好意を持っていた。互いの信仰心が似ていたせいもあるが、彼女の上品な物腰や穏やかな人柄に惹かれていた部分も大きい。男衆(おとこし)(かしら)だった九平次とはほとんど交流がなかったが、男らしく頼りがいのある人だとは感じていた。

 だが〈ふぶき屋〉では夜斗は誰に対しても常に反抗的だったし、徹底した女嫌いなのは周知の事実なので、たとえそういうふたりであろうとも親しくつき合っていたというのはにわかには信じがたい。

見世(みせ)でおいらを人間扱いしてくれたのは、あいつらだけだった」

 長い間を置いて、夜斗がぽつりと言った。

「体を売る商売じゃ、男は女より下に見られんのさ。おいらは見世で誰より稼いでたが、やっぱり女どもからは見下されたし、男衆には食い物にされた。娼楼(しょうろう)で働く野郎が、商売物の女に手を出すのは御法度なんだぜ。でもおいらは娼妓ってことになってても、しょせん男だからな。好きなように使ってかまわねえと(たか)(くく)ってたんだろ」

 そいつらもみんな死んじまったけどな――と彼はつぶやき、ため息とも苦笑ともつかないものをもらした。

「そんな連中の中で白露と九平次だけは、おいらを弟か何かみたいに気にかけて、鬱陶(うっとう)しいぐらい世話を焼いてくれた。あいつら、よっぽど人間が()(とう)にできてたんだろうよ」

「だから敵討(かたきう)ちをしたの? いつからそうしようと思ってたの」

「最初っからだよ」

 あっさりと言う。

「あの男を(たら)し込んで、油断させて、おいらの前で隙を見せるようになるのを待ってたんだ。思ったよりずっと用心深いやつだったから、長くかかっちまったけどな」

 (ねぐら)に連れて来られたあの夜、夜斗が(さい)を挑発して自身に関心を向けさせた真意を初めて知り、青藍は軽い(おのの)きを感じた。

 残酷な男に敢えて自分から身を投げ出したのも、どれほどひどい目に遭わされても()を上げずに耐え続けていたのも、すべては恩義ある人たちの復讐を果たすためだったのだ。彼は何か月も前から狙いを定め、計画を練り、辛抱強く時を待ち、そしてたったひとりでやり遂げた。

 人を殺すことへの忌避感はぬぐえないものの、青藍は最後まで折れることのなかったその意志の強さには感服せずにいられなかった。

「いい時に騒ぎを起こして、あいつの気を引いてくれた飯綱に感謝しなきゃな。もう殺されたかもしんねえが」

「飯綱の旦那は、何をやったの」

「手下に門番を襲わせたんだろ、たぶん。でも仕留め損ねたみてえだな」

 夜斗が喉の奥で低く笑う。

「その点、おいらは手際よくやったぜ。ずっと前にあいつの部屋に隠しといた、土器(かわらけ)欠片(かけら)で喉をざっくり切ってやった。やつは声も出せずに、自分(てめえ)の血で溺れたんだ。それから短刀を見つけて、もののついでに切り刻んでやった」

 祭主が殺された朝の場景がまた脳裏に蘇り、ぎょっとして動きを止めると、うしろから水を跳ねかけられた。

「止まんなよ」

「ご、ごめんなさい」

 急いで匍匐(ほふく)を再開した青藍に、少し()れた声で夜斗が問いかけた。

「出口はまだ遠いのか」

 彼がうんざりし始めているのがわかる。それに、ひどく疲れているようだ。青藍も少し前から体が鉛のように重く、腕や肩が強張(こわば)って痛み、疲労と共に不安がつのってくるのを感じていた。

 これまでのところは途中で通路が途切れたり、進行不能になったりすることもなく順調に来られている。だが、あの夢の内容が真実だったのなら、そろそろ行く手に外の明かりが見えてもいいはずだ。

 夢では、あんなにはっきり見えたのに。遠くて小さかったけど、眩しいくらい明るい光だった。あれが見えないということは、やっぱり間違っていたのかしら。このまま出られず、引き返すこともできずに、わたしが愚かだったせいで夜斗さんを死なせてしまうの?

 そんなことになったらどうしよう――と思うと、情けなさと怖さのあまり目がうるんできた。ずっと水に()かっていて冷え切っているためか、頬を伝う涙が肌を()くように熱く感じられる。

 唇を噛んで泣き声を(こら)えながら、さらに這い進もうと前に出した腕がふいに空を切った。

 水を()くように泳いだ手が、何にも触れることなく下へ落ちる。それと一緒に体も前のめりになり、青藍は水飛沫(みずしぶき)を上げながら岩の斜面をごろごろと数回転して、最後は浅い水たまりの中に頭から飛び込んだ。転落した先が溺れるほどの深みでなかったことは不幸中の幸いだ。

 仰向けになって茫然と水面に浮かんでいると、夜斗がすぐ隣に滑り降りてきた。

「やった! おい、出られたな!」押し殺してはいるが、声がはしゃいでいる。

「出られた……」

 青藍は体を起こし、あらためて周囲を見回した。

 水辺にびっしりと生えた草が見える。その向こうに立ち並ぶ木々の黒い影も見える。水音の聞こえ方が洞窟の中とはまったく違っていて、湿ったぬるい夜気に土と青くさい緑のにおいが混じっている。そして何より、頭上に小さく星がきらめいている。

「出られた」

 繰り返しつぶやいて夜斗のほうを向くと、彼の大きな瞳が笑みを(たた)えているのが見て取れた。

「そうさ。おめえの言った通りだったな」

「出られたのね!」

 ようやく実感が湧き、爆発的な喜びと安堵と共に両目から再び熱い涙が(ほとばし)った。

「なに泣いてんだ」

「だって、明かりが……外の光が見えなかったから、わたし――」

 しゃくり上げながら懸命に声を絞り出して説明する彼女に、夜斗は呆れ顔で空を指差してみせた。

「見えるわけねえだろ。夜だぞ」

 そう言われてようやく、あの夢を見たのは昼間だったことを思い出した。わかってみれば単純なことだ。

 目指す光がないことであんなに気を揉んだ自分が可笑(おか)しくてたまらなくなり、青藍は口を手で押さえながらくすくす笑ったが、それはすぐに泣き笑いに変わった。体が激しく震え、あとからあとから涙があふれてきて止まらない。

「めそめそすんじゃねえよ」

「ごめんなさい。でも、とっても怖かったの。とっても」

 ついに嗚咽を抑えきれなくなり、青藍はすがるように夜斗に抱きついた。

「よさねえか」

 彼は突きのけようとしたが、二度やっても離れないとあきらめたらしく、疲れたように力を抜いて小声でぼやいた。

「ちっ、これだから餓鬼は(きれ)えなんだ」

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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