三十 立身国七草郷・黒葛真木 母の思い、子の思い
戦で命を落とした夫貴昭の遺体が、美しいままで七草へ戻ってくるはずのないことを真木は承知していた。
亡くなってからふた月以上が経過しており、しかも季節は初夏。南部の気温はすでに高い。たとえ辰砂などを用いて処置を施し、酒や塩に浸けておいたとしても、肉体がまだ生前の形を保っているとはとても思えない。
真木は覚悟を決めるため、最悪の状態を無理にも想像するようにした。
緑色に溶け崩れた肉や露出した骨。強烈な腐敗臭。蠢く虫たち。遺体との対面は、きっと過酷なものになるだろう。だが決してうろたえたり、無様に意識を失ったりなどはするまい。城主の妻として品位を保ち、雄々しく戦って果てた夫の帰還に毅然と臨まなければ。
そんな悲痛なまでの決意で迎えた遺体は、想像とはまるで違っていた。
貴之の代理で棺に付き添ってきた黒葛俊紀の説明によると、息子は父の遺体を骨だけにして城へ戻すよう指示をしたらしい。
俊紀が携えてきた貴之本人からの手紙には、「耶岐島近隣の山の者に父上の処置を依頼しました。狩猟の民である山の者はそうした技術に長けており、また独自の死生観を持っているため、亡骸を敬い丁重に扱うことにおいては我らの及ぶところではありません。どうぞご安心を」と書かれていた。〝山の者〟と呼ばれる人々のことは真木も知っているが、山中で原始的な暮らしをしているという彼らが夫の遺体にはたしてどんなことをしたのか、「ご安心を」と言われても不安に思わずにはいられない。
最悪の上にも最悪の事態を想定しながら彼女は御殿に運び込まれた棺の蓋を開き――そこに見いだしたものに驚愕して言葉を失った。
夫の遺骨は美しかった。
詳しい方法は想像もつかないが、時間をかけて丹念に洗い清められたのであろう骨は真珠のように純白で、その表面に不浄なものは一片たりとも残されていない。生前の夫が好んでよく着ていた花浅葱色の単衣――かつて真木が手ずから縫い上げた一着――をまとい、具足と兜、陣羽織もつけて横たえられている遺骨は、今にも起き上がって戦陣に赴きそうなほど凛々しく見えた。
棺の中には乾燥させた花薄荷や丁子、紫蘇、そのほか名前も知らない種々の草木が入れられており、えも言われぬ芳香を漂わせている。それらの作用なのか、恐れていた腐敗臭はほんのわずかすらも感じられなかった。また、おぞましい蛆のようなものはもちろん、小さな虫一匹すらもついてはいない。
想像をはるかに超える清浄で美しい遺骨に真木は感激し、どうしようかずっと迷っていた子供たちと父親との対面にも踏み切ることにした。
十歳の次男佳貴は臆病なところのある子なので、死体を見ると聞かされただけで青い顔になってはいたが、最後まで泣き出すこともなくよく耐えたと思う。八歳の長女葉奈は女の子ながら肝が太く、あまり恐れる様子も見せずに父の亡骸を優しくなでて「おかえりなさいませ」と微笑みかけさえした。
不在の長兄にどこか面差しの似た俊紀が、その間ずっと傍に寄り添っていてくれたことも、幼いふたりにとっては心強い支えとなったのではないかと思う。
その夜、真木はひと晩じゅう棺に付き添って過ごした。
縁側から月明かりがわずかに差し込む、ほの暗い部屋の中で久しぶりに夫とふたりきりになり、離れていた月日のことを心の中で語らいながら誰憚ることなく存分に涙を流し尽くした。もし遺体が無惨な状態で戻ってきていたら、こんな時間を持つことはできなかっただろう。手袋に包まれた夫の手を握りながら、彼女はあらためて息子の賢明さと配慮をありがたく思った。
水月に入って間もないある日、江州で戦の後処理に当たっていた貴之が、ようやく城へ戻ってくるという知らせが届いた。手紙によると、本来は十日ほど早く帰れるはずだったが、帰途につく前に新たな知行地を見回っていたので遅くなったらしい。
すでに一行は立州街道沿いの館脇郷あたりまで戻ってきており、何ごともなければ七日ごろには七草へ入れるという。
真木はさっそく城詰めの者たちを集め、出迎えや祝宴の支度を整えるよう指示した。城下にも布令を出さなければならない。新たな統治者となった若い領主の凱旋に、きっと町の人々は沸きかえるだろう。
黒葛俊紀はもう半月以上も城に滞在していたが、貴之が帰ってくることを伝えると大あわてで出立の準備を始めた。
「彼が戻るということは、わたしの父も今ごろは生明へ向かっているはずなので、急いで帰って出迎えなければいけません。もし間に合わないと、七草でのんびり遊んでいたと思われて叱られてしまいます」
そう言って辞去を告げた御曹司を、真木は「せめて貴之の顔を見てからになさっては」と引き留めようとした。息子と彼が、小さいころから仲良しなのを知っているからだ。だが俊紀はわずか二日のうちに船を仕立てさせると、別れの挨拶もそこそこにあわただしく旅立っていった。
「あのかたの、あんなに焦っているお顔は初めて見たわ」
見送りのあと真木は侍女頭の津根にそう話して笑ったが、心では俊紀に深く感謝していた。享楽的で陽気なあの若者の存在が、大切な人を失って沈みきった家族の気持ちをわずかなりとも上向かせてくれていたからだ。
彼は佳貴や葉奈の遊び相手を進んで務め、真木に対しても意外なほど行き届いた気づかいをしばしば見せてくれた。たまに若い侍たちとお忍びで城下へ出かけたりもしていたらしいが、噂に聞いていたほど派手な遊びぶりではなかったと思う。子供たちにまとわりつかれていない時間の大半は、宿所として貸与している客殿で供回りと静かに過ごすか、貴之が最近の住居にしている〈浴竜亭〉で彼の飼い猫をかまうかしていたようだ。
不品行な人物だという話も耳にするが、滞在中にそういった様子を垣間見せることはなかった。七草家は服喪中ということもあり、彼なりに気を使って身を慎んでいたのかもしれない。
その俊紀が去った翌日の早朝、貴之と軍勢が七草へ近づいているという先触れが城へ到着した。早ければ昼八つごろには城下へ入れるという。
「お母さま、兄さまがお戻りになるのよ」
葉奈が晴れやかな笑顔で真木の居間に駆け込んできたのは、これから朝餉が運ばれてこようという時だった。さすがに着替えはすませているが、髪はまだ整えられておらず、くしゃくしゃのままだ。どうやら世話をする侍女の手を振り切って来たらしい。
「ご門まで、今すぐお迎えに行っていい?」
「いいえ、駄目」真木は娘を招き寄せて座らせると、蒔絵の櫛を取って手ずからその髪を梳いてやった。「ご到着まで、まだまだかかるわ。それに大手門ではなく、式台でお迎えするのよ」
「早くお会いしたいの」
「そうね」
「姉さまも、もうご存じかしら」
葉奈は長兄の許婚である雷土三輪にたいそう懐いており、もうすでに姉と呼んで親しんでいる。娘の言葉で、真木はにわかに三輪姫のことが気になりだした。ここ何日か、彼女は気分がすぐれないと言って別館の〈彩雲亭〉に引きこもったまま、まったく御殿に顔を出していない。特に病気というわけでもないようだが、貴之が戻ると聞けば少しは元気が出るだろうか。
「三輪さまにも、あとでお知らせしましょうね」
「葉奈がお知らせする!」
勢い込んで立ち上がろうとした娘を、うしろから抱き留めて再び座らせる。
「じっとしていらっしゃい。髪が結えないでしょう。お兄さまに、かわいいところを見ていただきたくないの」
その言葉は覿面に効いた。葉奈は貴之のことが大好きなので、兄を持ち出されると弱い。
「桃色の紐を、ちょうちょに結んでくださる?」
甘えておねだりする娘の、細く柔らかな髪の手触りに心なごむものを感じながら、真木は優しく微笑んだ。
「ええ、もちろんよ」
両の横髪を取り分け、桃染の組紐で括って蝶結びにしてやると、葉奈は垂れた髪房の揺れ具合を楽しむように首を振った。
「さあ、戻って朝餉をおあがりなさい」
「はあい」
葉奈は機敏に立ち上がると、鼻歌交じりに部屋を出ていった。軽い足取りは跳ねるウサギのようだ。
娘と入れ替わりに、若い侍女が朝の膳を運んできた。ヒメダイの刺身とアサリの蒸し物、ツルナの和え物など、さっぱりと食べられそうな料理が並んでいる。真木は久しぶりに食欲を感じ、ほとんど残さずにそれらを平らげた。
「今朝は食が進まれたようで、ほんとうによろしゅうございました」
食事が終わるのを見計らって部屋へ来た津根は、下げられていく膳の上の器が空になっているのを見て嬉しそうな顔をした。夫の死以来、真木がものをあまり食べなくなったので、ずっと心配していたのだ。
「貴之が戻るというのに、青白い顔をしてはいられないものね」
「さようでございますとも」
「婚儀をすませて三輪さまがご正室になられるまで、まだ当分はわたしが奧を仕切らなければならないし」
「若さまも、母上さまを頼りになさっておいでのはずです」
そうかしら。真木はふと疑問に思った。城主であり立州の国主代行でもある貴之の元には、今後多くの人が寄り集まってくる。さまざまな知識や経験を持ち、まだ若い彼を力強く補佐する大人たちが。それでもなお、これまでと同じように母親のことも頼ってくれるのだろうか。
真木はしばらく見ていない貴之の顔を思い浮かべ、わたしの愛しい子――と声に出さずにつぶやいた。
三人のうちのどの子供のためであろうと命を投げ出すことも厭わないが、最初に産まれた息子への思い入れはやはり格別なものがある。春に初陣へ送り出す際には、もう二度と会えないのではないかという不安に苛まれ、胸がつぶれるような思いを味わった。その子が無事に戻ってくると思うと、嬉しさのあまりじっとしてはいられない気分になる。
「出迎えの準備はできているのかしら。式台の――」
「万事整っておりますよ」
先読みしたように津根が言い、袖を口元にあててくすくす笑った。昨日から何度も同じことを訊いているので、笑われるのも当然だ。
「みな、よく心得ておりますから、ご安心なさいませ」
「そうよね」
自分で娘に「まだまだかかる」と言っておきながら、待ちかねてそわついているのが気恥ずかしく思えてきた。
「到着の知らせがくるまで、何か仕事をしているわ。縫い物でも」
「それがよろしゅうございます」
津根が裁縫道具を用意するあいだに、真木は次の間に控えている侍女の泉を呼び、貴之の帰城を三輪姫に伝えるよう申しつけた。具合が良くなっていて出迎えに加われるようなら、何か言ってくるだろう。
それから縫い物に没頭しているうちにいつしか午後になり、昼餉のあと私室で本を読んでいると、城代家老の花巌義和から「表御殿の書院へお出ましを願いたい」との伝言が届いた。貴之の到着が近づいたので、何か打ち合わせることがあるのかもしれない。
真木が津根を伴って出て行くと、義和は書院の二の間で彼女を迎えた。湿気のこもる季節にもかかわらず、なぜか四方の襖や障子をすべて閉め切っている。人を近づけないようにするためか、廊下には五人もの番士が配されており、なにやら物々しい雰囲気だ。
部屋の中には義和だけでなく、貴之の傅役である唐木田直次もいた。さらに意外な人物がもうひとり。三輪姫に付き添って百鬼島から来た、希瀬という名の美しい侍女だ。まだ年は若いが有能そうな娘で、このような場でも物怖じする様子もなく凛と背筋を伸ばしている。
真木が腰を下ろすと、義和が穏やかに話を切り出した。
「急ぎ、ご報告すべきことが出来いたしました」
厭な予感がする。「なんでしょう」
「由々しき事態です」義和はいつものように落ち着いて見えるが、憂慮のためか声が暗かった。「生明家の俊紀君が、三輪姫に対して不埒な行いを」
「不埒とは」
「姫君を陵辱なさったのです」斬りつけるように答えたのは希瀬だった。激しい怒りに頬を紅潮させている。「お付きの者を遠ざけ、その隙に力に任せて無理強いを」
「凌辱……」
鸚鵡返しにつぶやきながら、真木は目の前が真っ暗になるのを感じた。
まさか。信じられない。
滞在中ずっとわたしを優しく気づかい、子供たちにも思いやりを見せてくれていたあの俊紀どのが。貴之が幼いころから兄弟同然に親しんできた、あの上品で洗練された貴公子が――。
「ど、どうして」声が震えるのを止められない。「どのような経緯で、そんなことになったのです」
希瀬はまっすぐに真木を見ると、努めて感情を抑えながら説明した。
事が起きたのは四日前。三輪姫はその日、希瀬ともうひとり、由実という若い侍女をつれて午後から〈浴竜亭〉を訪れていた。貴之が城を空けて以来、彼女はしばしばそこで時を過ごして彼の飼い猫と戯れたり、手すさびに絵を描いたりしているという。
俊紀がひとりでふらりと現れたのは、彼女がちょうど墨絵を一枚描き上げようとしていた時だった。彼は丁寧に三輪に挨拶し、絵を見て腕前を褒めると、矢継ぎ早にあれこれと話しかけながらその場に居座ってしまった。
希瀬は彼を少し警戒していたが、まさか追い出すわけにもいかない。三輪はそれまでにも何度か城内で俊紀と顔を合わせていたので、さほど気にする様子もなく、気安く受け答えをしている。ならば、とりあえず誰か傍についていれば問題はないだろう――そう彼女は思った。
「ところが、しばらくして俊紀君が〝ひどく暑い、今日は蒸すな〟とおっしゃり、わたしに冷えた水菓子を所望されました」
話しながら、希瀬の目つきが鋭くなる。
「直に命じられたものを、お断りするわけにはまいりません。わたしは由実に、姫君のおそばを離れないよう申しつけて席を立ちました」
その後のことはあとになってから、狼狽と恐怖に茫然としている由実を揺さぶらんばかりにして聞き出したという。
俊紀は希瀬がいなくなると、部屋にいた子猫を一匹捕まえて弄い始めた。そのうちに彼の腕から猫がひょいと飛び出し、折り悪く三輪が置いていた硯と筆洗の上に着地してひっくり返したらしい。俊紀は墨だらけになった猫をつまみ上げ、由実に放り渡して「すぐに洗ってやれ」と命じた。
由実が部屋から離れていたのは、館の中にいる女中を見つけて猫を洗うよう申しつけるだけの、ほんのわずかなあいだだったという。だが戻ってみると障子が閉て切られ、中に入れなくなっていた。
声をかけていいものかどうかわからず、庭に面した外廊下でおろおろしていると、しばらくして障子が細く開けられ、厳しい表情をした俊紀がすべり出てきた。彼は片方の鼻孔に血をにじませ、頬には掻き傷をこしらえており、由実に一瞥もくれることなく無言で立ち去ったという。
そこまで聞いて、真木ははっと息を呑んだ。
俊紀の左の頬骨のあたりにできていた、二本の長い傷を覚えている。どうしたのかと訊くと、彼は照れくさそうに笑いながら「貴之の猫に引っかかれました」と答えたのだ。
今になってようやく真相を知り、真木はあまりの怒りに軽い目眩をおぼえた。いとこの許婚に恥ずべき振る舞いをしておきながら、よくもわたしの前で、あんな屈託のない顔をしていられたものね。貴之が戻ると知って逃げるように去ったことも、この話を聞けば合点がいく。
「それで――」喉がからからに渇いていて、無理に出した声はひどくかすれていた。「三輪姫は俊紀どのに、その……最後まで許してしまわれたのかしら」
その問いかけに、希瀬が目を吊り上げた。
「奥方さま、許したのではございません。暴力をもって奪われたのです」
しまった。配慮に欠けた言い方をしてしまった。彼女が怒るのも、もっともだ。
「直後に室内の様子を見た由実の話から察するに、俊紀君は姫さまに激しく抵抗され、成し遂げられることなく退散なさったようです」
せめてもの――真木は大きく安堵の息を吐き、祈るような思いで両手を握り合わせた。それがほんとうなら、せめてもの救いだわ。でも、たとえ未遂に終わったのだとしても、辱めを受けた三輪姫の衝撃は計り知れない。今日まで、いったいどんなお気持ちで過ごされていたのだろう。
「三輪さまの、いまのご様子は?」
「鬱いでいらっしゃいます。意に反してとはいえ、貴之さまのお留守に不面目なことになってしまったと」
かわいそうに。真木は胸の痛みを感じ、いずれ義娘になるはずの少女を思いやった。あなたは悪くないと言う以外に、何をしてあげればいいのかしら。
ずっと黙って会話を聞いていた義和が、遠慮がちに言葉を差し挟んだ。
「三輪さまは若殿が戻られたら、ありのままを自身で報告するつもりだと希瀬におっしゃったそうです」
「ご自身で? いえ待って、それは……」
あわてる真木に、希瀬が強い眼差しを注ぐ。
「わたしも最初はどなたか、別のかたから伝えていただいたほうがよいのではと。そう思い、ひとまず貴之さまの傅役である唐木田直次どのにご相談しました」
そこで初めて直次が口を開いた。
「そのあと、わたしから義和さまに。この件は無闇に広まらぬよう細心の注意を払うべきですが、ご家老にだけはお伝えせねばならぬと考えました」
「そうね、みなそれぞれに適切な行動だったと思います」
真木は今なお荒れ狂っている心をなだめるため、そっと深呼吸をひとつしてから、居並ぶ人々を見渡した。
「まずはこの顔ぶれで――この部屋で、貴之どのにお話ししましょう。式台での出迎えと、蘇鉄の間でのご遺骨との対面を終えたらすぐにも」
三月ぶりに顔を合わせた貴之は少し痩せて背が伸び、戦場に赴く以前よりもずっと大人びて見えた。日焼けして引き締まった顔つきは精悍そのもので、どことなく近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
だが「母上」と会釈してにっこりすると、たちまち真木がよく知っている息子に戻った。
「城下はたいへんな賑わいでしたよ。沿道を人が埋め尽くしていて、歓声を上げながらあとをついてきました。こんな大歓迎を受けるとは思わなかったな」
「誰もが心待ちにしていた凱旋ですもの」
真木は彼と共に大広間の外廊下を歩きながら労をねぎらった。
「貴之どの、このたびは遠い地での軍働き、ご苦労さまにございました」
貴之がちょっと驚いた顔になる。
「ずいぶん堅苦しいですね」
「元服も初陣も済ませて御屋形になられたのだから、今後は家臣の前ではけじめをつけなければ」
「改まった席以外では、これまで通りにしてください。そんなふうにされると、肩が凝りますよ」
大人らしくなったとはいっても、やはりまだ少年ね。思わず微笑んだ真木の横から、焦れた様子の葉奈が顔を覗かせた。
「兄さま、お母さまとばかりお話ししないで、葉奈ともお話しなさって」
貴之は快活に笑い、ふくれっ面をしている妹に手を差し伸べた。とたんに笑顔になった葉奈がそれをぎゅっと握り、小走りに駆け出す。
「こっち、こっちよ。早くいらして。お父さまがいらっしゃるのよ」
「遺骨は無事、届きましたか」
引っ張られるまま足早に歩きながら、振り返って貴之が問う。
「ええ、ひと月ほど前に。いまは蘇鉄の間に安置して、お別れをしたい人がいつでも会えるようにしています」
一瞬、黒葛俊紀のことを訊かれるかと思って緊張したが、貴之は満足そうにうなずいただけだった。
「それはいい」
「お父さまはね、とっても立派なご様子なのよ」
どこか自慢そうに葉奈が言い、貴之を微笑ませる。
「ほんとに? 早くお会いしたいな」
葉奈は貴之を表御殿のほぼ中央に位置する蘇鉄の間までいざない、棺を囲む几帳を示した。
「あちらにいらっしゃるの」
「わかった」
貴之は垂れた薄絹の分かれ目から几帳の内側に入り、かなり長く棺の傍に佇んだあと、ゆっくり外に出てきた。少し物思わしげな表情をしている。
期待に満ちた目で「いかが?」と問う妹に、「おまえの言った通りだった」と答えて嬉しがらせてやり、彼は部屋の外に控えている侍女を目顔で呼んだ。
「さあ、おれはまだすることがあるから、葉奈は奧へお帰り。佳貴も」
棺を恐れて真木のうしろに隠れていた佳貴が、声をかけられて恥ずかしそうに頬を染める。
「ふたりとは、またあとでゆっくり話そう」
「はい、兄上」
礼儀正しく答えると、佳貴と葉奈は侍女に連れられて奧御殿へ去って行った。
「あれでよかったですか」
弟たちがいなくなると、貴之は真木に近づいて訊いた。
「父上のご遺体をどういう形で七草へ戻すか、ずいぶん悩んだんです。でも、ああするのがいちばんかと」
「ええ――ええ、もちろん」真木は声に力を込めて言い、思いを伝えるために貴之の手を取って強く握った。「届けられたご遺骨を見て、とても嬉しかったわ。あんなに美しいお姿で戻るとは思っていなかったから。ほんとうに感謝しています」
「なら、よかった」
貴之は安心した様子で、真木の手の甲を優しく叩いた。
「山の者は家長が亡くなると、骨だけにした遺体をあんなふうに華やかに着飾らせてから、一年間そのまま家の中に置いて一緒に暮らすんです」
そんな話は初めて聞いた。いや、そもそも山の者のことなど、武家のほとんどはろくに知りもしないだろう。
「まあ、そうなの」
「耶岐島で知り合ったナセリという山の者が協力的で、百武へ移動する前に父上のことを頼んだら快く引き受けてくれました。母上がそれほど満足されたなら、もっと謝礼を弾まないとな」
貴之はそう言って、隣室にいた小姓の唐木田智次を差し招いた。
「ナセリに白米三俵と塩一俵を届けるよう、耶岐島城代に宛てて手紙を書かせておけ。あとで花押を入れる」
「承りました」
智次が右筆衆の部屋へ向かうと、貴之は真木のほうを振り返った。
「さて――戻ったばかりですが、これからしばらくは忙しくなるので、母上もそのつもりでいてください。まず父上の霊祭を執り行い、次に新しくおれに臣従を誓う者たちを城に呼んで引見します。ひととおり済むころには今回の戦の報告が上がってきているだろうから、すぐに論功行賞を行わないといけません。それが終わったら、しばらく近郷の視察に出ます」
聞いているだけで目が回りそうだ。
「なにもそんな……次々と片づけなくともいいでしょうに。それでは休む暇もないわ」
「どれもあとには延ばせない重要なことばかりですよ。賞罰は迅速にと、つねづね父上もおっしゃっていたし」
母親の心配をよそに、当人はあっけらかんとしている。
「休む話が出たのでちょうどいい、おれはこのあと中奥でしばらく休みます。どうせ今夜は祝宴が開かれるのでしょうから、それまでのあいだ」
その言葉を聞いたあとで、話を切り出すのは心苦しかった。
「申し訳ないけれど、休むのは少し待ってもらわなければなりません。大切なお話があります」
「いいですよ」
あっさり了承した息子を、真木は花巌義和と唐木田直次が待つ書院の二の間へ案内した。今後の展開を想像するだけで、不穏な予感に動悸が激しくなるのを感じる。
貴之は室内に三輪姫の侍女の希瀬がいるのを見て怪訝な顔をしたものの、義和らと気さくに挨拶を交わして腰を下ろした。
「それで、大切な話とは?」
一同を代表して義和が、持ち前の穏やかな語り口で淡々と事の経緯を話して聞かせた。真木は貴之がどう反応するか内心で戦々恐々としていたが、意外にも息子は表情ひとつ変えずに押し黙ったまま、じっと聞き入っている。
「三輪姫は不面目を恥じて意気消沈なさり、俊紀君が城を去られたあとも部屋に籠もっておいでですが、ご自身で若殿に報告することを希望なさいました。が、それはおふたり双方にとって酷に過ぎる場面になるのではと思い、前もって我らからお伝えすることにいたした次第です」
義和が語り終え、室内が重いため息に満たされた。貴之は目を伏せて動かず、静かに何ごとか考え込んでいるように見える。
まあ――驚いた。どちらかというと気の短い子だと思っていたけれど、いつの間にこんなに堪え性が身についたのかしら。やはり、元服して大人になると違うものね。
真木が思わず感心した次の瞬間、貴之は彼女がぎょっと身を引いたほどの勢いで立ち上がると、獅子のように荒々しく吼えた。
「ぶっ殺す!」
響きわたった怒号の激しさに誰もが息を呑み、廊下で警護に当たっている番士たちの気配すらも少し乱れた。
「だ、駄目」
真木はあわてて腰を浮かし、じっとり汗ばんだ手で貴之の袖を掴んだ。
「殺すなど、とんでもありません。三輪さまに非はないのですよ」
「はあ?」
彼は眉を上げながら、呆れたように真木の手を振り払った。
「三輪に非がないことなど、言われなくともわかっていますよ。ぶっ殺すのは俊紀です」
これまで聞いたことがないほど冷たい声で言い、彼はぎらつく目で真木を見下ろした。
「あいつは、いつ発ちましたか。陸路? 海路?」
追うつもりだ。捕まえて殺すために。真木はぞっとして、再び息子の腕にすがった。
「お願い、とにかく気を静めて」加勢を求め、義和らに目をやる。「あなたがたからも、何か言ってください」
「奥方さま、若殿のお怒りはごもっともですよ」
城代家老が真顔で言い、真木を絶句させた。その隣では、思慮分別の人として知られる直次までもが然りとうなずいている。
「報復は当然の権利です」
傅役の言葉に溜飲を下げ、貴之が「そらみろ」と言いたげに鼻を鳴らす。
「――が、ぶっ殺すのはいけません」
にこりともせずに直次が続け、品行方正な彼の口から本来出るはずもないその言い回しに、部屋にいた者はみな唖然となった。貴之に至っては驚きのあまり、すっかり毒気を抜かれた顔になっている。
「なぜ止める」
不満げに言いながらも、貴之はようやく座り直して真木をほっとさせた。
「あいつは殺されて当然のことをしたのに」
「訊かなくてはおわかりにならないのなら、この直次は傅役として若殿を教導し損ねたということですね。さて、どう思われます。なぜ俊紀君を殺してはならないのでしょうか」
落ち着き払って問いかけられ、貴之は腹立たしそうに唇をゆがめた。
「身内だから」吐き出すように言う。
「それだけですか」
「分家としての格が上だからだ」
いらついた声で噛みつかれても、直次は平然としている。
「よくおわかりのようで、安堵いたしました」
「うるさい」
貴之はまだ怒っているが、どうやら頭は冷えたらしい。
「何もするなと言うのか」
「いえ、三輪さまの名誉のため、また七草家の主としての威信を保つためにも、お怒りは表明すべきです。ですが、それを生明家や寛貴公に向けてはなりません。これはあくまで若殿と俊紀君とのあいだのこと。断じて分家同士の争いにはせぬよう、くれぐれもご用心ください」
貴之は直次の言葉を噛みしめるように黙考し、しばらく経って決然とうなずいた。
「わかった」
得心してしまえば、彼は切り替えが早い。平静を取り戻した貴之は再び立ち上がると、黙って成り行きを見守っていた希瀬に目をやった。
「三輪どのは〈彩雲亭〉か」
「はい」
「とにかく会ってくる」
彼は内廊下への襖を開け、ついていこうとした彼女に手をひと振りして留めると、足早に部屋を出て行った。
「だいじょうぶかしら。三輪さまは、今は……殿方が怖いのでは」
真木が心配して訊くと、希瀬は意外にも明るい表情を見せた。
「はい。でも、貴之さまならだいじょうぶです」
彼女をよく知る侍女が言うなら、そうなのだろう。
真木はそれから半刻あまり、書院で義和らと共にじりじりしながら貴之が戻るのを待った。だが何をしているのか、一向に息子は姿を現さない。もしや話がこじれているのではと気がかりになり、希瀬にこっそり様子を見に行かせると、彼女は少し経ってからキツネにつままれたような顔で戻ってきた。
「貴之さまは、お休みになっていらっしゃいました。姫さまのお膝で」
何を言っているのか、理解するまでに時間がかかった。
「お膝で?」
「はい。わたしはお部屋に入ってご用がないか伺おうとしましたが、姫さまに追い払われてしまいました」
真木の横で、堪えかねたように吹き出した義和が急いで居住まいを正し、神妙な表情で「失礼しました」と詫びる。だが彼の目は明らかに笑っていた。
貴之は結局書院へは戻らず、真木は半端な気持ちで奧へ引き揚げて、夜になるまで普段どおりに過ごした。佳貴や葉奈はしきりに兄に会いたがっていたが、御殿にいないものはどうしようもない。むろん帰還を祝う宴も取りやめだ。
夕餉も終えて何もすることがなくなると、真木は侍女たちを下がらせてひとりきりになり、居間に小さな明かりを灯してくつろいだ。怒濤の一日だったので、精神的にくたびれている。
そうして小半刻ほど経ったころ、ふいに貴之が部屋を訪れた。
「お邪魔していいですか」
「ええ、もちろん」
真木は息子に円座をすすめ、愛用の甘茶を淹れて供した。
「三輪さまは、どんなご様子ですか」
「もう落ち着いています」
「途中で一度、希瀬が状況を窺いに行ったのだけれど……」余計な詮索とは思うが、どうしても訊かずにはいられない。「あなたは姫君のお膝で眠っていたとか」
「そうです。ひさびさにぐっすりと」
悪びれる様子もなく答えて、貴之はお茶をひと口すすった。
「約束通り無事に戻ったことを伝えに来たと言ったら、疲れているようだからここで休んでいけと三輪に勧められたんです。誰か邪魔をしに来たら追い返してやるからと」
「それで、お膝を借りて?」
「貸してくれるというので、遠慮なく」
低く静かに話す貴之の声が、今も忘れがたい夫貴昭の声そっくりに聞こえて、真木は胸苦しいほどの切なさをおぼえた。ほの暗い明かりのせいで、彼の顔までもがいつも以上に夫に似て見える。
「肝心のお話はしなかったの?」
「目が覚めたあとでしましたよ。三輪は、貞操は無事だと断言しました。俊紀が急に抱きついてきたので驚いて突き放したら、今度は押し倒されて無理に唇を奪われ、体をまさぐられたそうです。それで相手が本気なのだと悟り、やめるように言って顔を引っ掻いたのだと」
「俊紀どののお顔についた搔き傷は、わたしも見ました」
「それでも引き下がる様子がなかったので、掌底で鼻を打ってやったそうです。どんな生き物でも、鼻っ面に痛手をこうむると腰が退けるものだから。効果覿面だったと言っていました」
驚きよりも感心のほうがまさった。
「あの姫君は、いったいどこでそのような技を?」
「武芸好きの祖父――雷土國康公の方針で、幼いころから護身のための術を教えられていたらしい。小太刀なども多少は使えるようですよ」
貴之はちょっと言葉を切り、にやりと笑った。
「三輪に分別がなかったら、俊紀は殺されていたかもしれません」
「まあ、怖いことを言わないで」
「そうなっていてもよかった」貴之は怒ったように言ったが、すぐに再び声をやわらげた。「今回は我慢しましたが、おれは――母上、二度とこんなことを許すつもりはありません」
その眼差し、その口調に決意のほどが表れている。
「婚儀はまだ先になりますが、三輪を〈彩雲亭〉から奧御殿に移します。侍女の数をもっと増やして、信頼できる奧番衆に警護を任せたい。母上も今後、できるだけ目を配ってやってください」
「頼まれるまでもありません」
ちくりと胸が痛んだ。このところ自分の悲しみに耐えるだけで精いっぱいで、少しも三輪姫のことを気にかけていなかった。彼女が何日も御殿に姿を見せないことを、もっと訝しんでもよかったはずなのに。なんて不人情だったのだろう。
貴之にも謝りたい――そう思ったが、言おうとした言葉を彼に奪われた。
「申し訳ありません。お悲しみのさなかに、ご心痛の種を増やしてしまいました。おれが俊紀などを使いに立てたばかりに」
後悔と口惜しさが、強く引き結んだ唇に見て取れた。
「わたしのほうこそ、お留守を任されていたのに行き届かず、申し訳なかったと思っています。どうか許してください」
貴之は黙って真木を見つめながら手を伸ばし、いたわるように肩をそっとなでてから腰を上げた。
「母上、おれはみなの前では自信ありげに振る舞っていますが、父上に代わって家を背負うことになり、内心ではけっこう怖じ気づいています」
しゃべりながらゆっくり框の手前まで行き、彼は障子を半分開けて肩ごしに振り向いた。だが目はこちらを見ていない。
「これからも助けてくれますか」
貴之は少し照れくさそうに問いかけると、真木の返答を聞くことなく部屋を出ていった。
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