二十九 御守国御山・八雲 昔なじみの素顔
はめられたという思いが頭にこびりついて、どうしてもぬぐい去ることができない。
それは疑念ではなく、ほぼ確信だった。
八雲は本来さほど疑り深い人間ではないが、今回の一件には鼻が詰まっていてもにおいを嗅げそうなほどのきな臭さを感じている。
あの日、自分は玉驗を発見したのではない。発見させられたのだ。
飾り物の整理などという誰にでもできる仕事を、紅がわざわざ名指しで八雲に命じたのは、あの衣装部屋の小箪笥から玉驗を見つけさせるため。つまり、印章は事前にあそこに仕込まれていたのだ。でなければ、これまでの半年にわたる大捜索で徹底的にひっくり返された場所から、今になってひょっこり出てきたりするはずがない。
また、見つけた玉驗を彼がどうこうする間もなく、折良く天城宗司が現れたこともいかにも怪しいように思えた。そこまで筋書き通りだったのだと考えれば、すべてしっくりくる。
そして八雲は玉驗そのものにも疑いを抱いていた。
あれは果たして本物なのだろうか。
祭主位継承を速やかに進めたいのであろう紅や天城宗司が、年改めの日からずっと玉驗を隠匿していたとは考えづらい。そんなことをする理由もないはずだ。発見の茶番劇が仕組まれるまでに半年もの間が空いたのは、誰の目にも本物らしく映る〝玉驗の贋物〟を秘かにどこかで製作させていたからではないのか。
玉驗の実物を目にした者はいないので、外見はいくらでもそれらしく仕立て上げられる。だが紙に捺した印影は、既存のものと完全に一致しなければならない。厳しい検分にも耐えられる完璧な細工を施すには、そうとうな時間を要するだろう。空白の半年は、贋物を本物に限りなく近づけるために充てられたのだと思えば合点がいく。
あれが偽物だったと仮定すると、それを発見させる者として自分が選ばれた理由もなんとなくわかる気がした。
御山にはいま、ふたつの派閥ができている。「前代の指名」「秘術の相伝」「玉驗の委譲」という祭主位継承の三つの要件すべてを満たさないままで紅が即位することを認める〝容認派〟と、断じてひとつも欠けてはならないとする〝否認派〟だ。
容認派の先鋒は天城宗司で、亡くなる前夜に前代祭主から紅への譲位の意向を聞いたという主張を盾に、強硬に継承を推し進めようとしている。十二宗司で彼に賛同しているのは序列四位の那岐、六位の稲叢、九位の明石、十一位の八幡、十二位の白根の五人だ。
一方の否認派は序列筆頭の空木、二位の雲居、七位の摩耶、十位の葛木でこちらは四人。
序列五位の野分と八位の九重は、未だ旗幟を鮮明にしていない。
三つの職寮の差配役も意見はばらばらだ。祭宜長の御池は容認派。衛士長の千手景英は否認派。唱士長の海藏寺新は中立。
そして八雲も、宮殿に仕える者たちの中では数少ない中立と見なされていた。表立って言わないだけで実際は否認寄りだが、政治的なことには極力口を挟まないようにしているので、周りからは勝手に中立だと思われている。おそらくそれが、〝発見者〟に選ばれた主な理由だったのだろう。
紅を祭主にしたい容認派の誰かが発見者を装って玉驗を持ち出せば、当然ながら否認派はその正統性に強い疑いを持つに違いない。だが、どちらの思惑にも荷担しない中立の八雲が職務中に偶然見つけたということなら、玉驗の真贋や発見の経緯を怪しむ声はかなり抑えられるはずだ。
おれははめられた。まんまと利用された。
あの日からずっと八雲は、どこへもぶつけようのないいらだたしさを感じている。
彼が玉驗を発見したことで流れは大きく変わった。秘術の相伝がまだ欠けていることにこだわっているのは空木宗司と摩耶宗司ぐらいで、あとの否認派は「要件がふたつ満たされたなら認めてもいいのでは」と態度を和らげ始めている。このままだと、次の総会議あたりで紅の即位が決定してしまうだろう。
そのために一役買わされたと思うと、腹の底からもやもやとした気持ちが湧き上がってくる。
失われた重宝を見いだした功労者として、容認派から持ち上げられるのもなんとなく腹立たしい。あれ以来、妙に親しげな振る舞いを見せるようになった天城宗司には不気味さしか感じないし、「即位後は八雲を侍従長に」とはた迷惑なことを言い出した紅にも、彼はかつてないほど激しく警戒心をかき立てられていた。
水月朔日の総会議まで七日と迫った日、久しぶりに半日非番になった八雲は午後から衛士寮を訪れた。何度訪ねてもなかなかゆっくり会うことができない、多忙な千手景英に話を聞くためだ。
運よくこの日は景英も手空きで、ふいに顔を見せた八雲を快く寮の執務室に迎えてくれた。
「宮殿の庭園で、今朝もいできました」
手土産代わりの枇杷を渡すと、景英はどことなくおもしろがっているような顔で「気の利くことだな」と微笑んだ。
続き間の居間にふたりで腰を落ち着け、改まって向かい合うと、彼の下で修練に励んだ修行時代のことが思い出されて、つい郷愁めいたものをおぼえてしまう。
八雲は供された麦茶をすすりながら、ひさびさにじっくりと衛士長を眺めた。彼が行堂の堂長だったころから十年以上が経っているが、さほど変わったようには見えない。鼻筋の通った端正な顔立ちも、引き締まって無駄のない体つきも昔のままだ。両のこめかみの下あたりから生えている、鳥の飾り羽根のような銀白髪は以前よりも少し量が増えたかもしれない。
相変わらず男前だな――と思いながら、八雲はぺこりと頭を下げた。
「お忙しいところ、突然お邪魔をしてすみません」
「いや、こちらこそ、たびたび足を運んでもらったのに、いつも早々に切り上げてばかりですまなかった。なにかわたしに訊きたいことがあるのだろう」
「一眞のことです」
その名前に、景英はさしたる反応を示さなかった。不祥事をしでかして姿を消した弟子のことは、もう自分にはかかわりのないものとして切り捨てているのだろうか。
「衛士の玖実から、一眞についてはあなたに訊くのがいちばんだと言われました。日ごろ、目をかけておられたからと」
景英は目を伏せ、何か考え込んでいるように見える。
「あの……勘違いだったでしょうか」
遠慮がちに問いかけると、ようやく彼は顔を上げて八雲を見た。視線が鋭い。
「いや、すまない。少し気を散らしていた。一眞のことなら、むろんよく知っている。剣技の上達ぶりに期待し、注目していたのも事実だ。贔屓していたつもりはないが、端からはそう見えたかもしれないな」
「では残念だったでしょう。あいつが――その、こんなことになって」
景英は鷹のような目で八雲を見据え、彼がいたたまれなくなって小さく身じろぎすると、すっと視線を逸らしてかすかにため息をついた。
「あれ以来ずっと考えている。わたしが何か仕損じたせいだろうかと」
「え、まさか」
意外な言葉に戸惑いながら、八雲は飲みかけの茶碗を膝の上で落ち着きなくいじくった。
「なぜ、そんなふうに思われるのです」
「一眞は寮に置いておくべきだったかもしれない」
一眞を内宮衛士に推薦したのは景英だったと聞いている。彼は今になってそれを後悔しているのだろうか。
「あいつは内宮入りを厭がっていた、と小耳に挟みました。それはほんとうですか」
「少なくとも一度、宮士になるのを断ったのは事実だ。理由を訊くと、ただ衛士寮にいたいから――と言っていた。宮殿に勤めるような柄ではないとも」
出世につながる推挙を断るほどの理由とは思えない。八雲はもっと何か深い事情があるものと考えていた。
「本音だと思われますか」
「いや」
景英は言下に否定して苦笑をもらした。
「嘘ではないが、本音でもない。実際の理由は別にあったのだろう。だが、わたしはそれを聞き出せなかった。彼はいつもわたしの近くにいたが、心の内を見せることはほとんどなかったのだ」
「寮に誰か、あいつと親しい同僚はいませんでしたか。その心の内――を見せるような相手は」
「いなかっただろう。一眞は決して孤立してはいないが、ひとりでいることを望んでいるように見えた。わたしの傍にいる時ですら、そうあろうとしていたように思う」
おかしな話だ。自ら進んで誰かの傍にいながら、同時にひとりであろうとするというのは、何か矛盾していないだろうか。
一眞はそんなに複雑な男だったのか――と思い、八雲はあらためて驚きをおぼえた。宿堂の同室で寝台を並べて寝起きしていたころ、おれはいったい彼の何を見ていたのだろう。
「本人が固辞したにもかかわらず、昨年もう一度推薦なさったのはなぜです。そんなにも一眞を宮士になさりたかったのですか」
「そうだ」
「経験を積ませるためでしょうか。いずれ高い役儀に就かせるために」
景英が眉を上げ、訝しげに八雲を見る。図星を突いたのだろうか。それとも見当違いだったか。
「玖実が言っていたんですよ。衛士長は一眞を後継者として育てておられたと」
説明すると、景英は合点がいったというようにうなずいた。
「なるほど、そのように感じた者もいたかもしれないな」
「では、別の理由が?」
「一眞の剣の腕前は卓抜したものだ。もともとよい素質を持っていたが、かつての行堂での修行を通してそれが大きく開花した」
「はい」
「だが、彼の剣には芯がない」
芯とはなんだ。わかるようでわからない。
「わたしはな、信光――」言いさして言葉を切り、景英は薄く笑みながら言い直した。「いや、今は八雲だったな」
昔のように呼ばれると、少しくすぐったいものを感じる。
「ええ、まあ。でも、どちらでもけっこうです」
「八雲祭宜、わたしが一眞を宮士に推したのは、彼の剣に芯を持たせたかったからだ」
ここは聞き流すべきではないと直感した。
「芯とはなんでしょう」
まいったな。衛士の修行をしていたころは、さしたる考えもなく漫然と剣を振っていただけだったのに、今になってこの人と真面目に剣談を交わすことになろうとは。
面映ゆい気持ちが湧いて思わずにやけそうになり、必死に真顔を保つ。
景英は少しのあいだ口をつぐんでいたが、やがてまっすぐに八雲を見て言った。
「信仰を、御山を、祭主さまを護るために振るうわたしの剣には、何があろうとも決して折れることのない芯がある」
ああ、そういうことか――と八雲は思い、彼が理解したことを景英も感じ取ったようだった。
「だが一眞は、このために剣を振るうのだという、確たるものを持ち合わせていない」
「それは、どうしても必要ですか」
彼の言う〝確たるもの〟がなくとも、あいつはべらぼうに強かった。それでいいのではないだろうか。景英は一眞に多くを求めすぎているように思える。
「おれも昔は衛士を目指していましたが、正直な話、何のために剣を振るうかなど考えたことすらありませんでしたよ。まあ、そんなだから早々に挫折したわけですが」
しゃべりながらきまりが悪くなって頭を搔き、八雲は景英の表情を上目づかいに窺った。
「衛士長はあいつをどうなさりたかったのです」
「わたしの剣を継ぐ者ではなく、わたしの剣を凌駕する者になって欲しいと願っていた。師たる者の究極の喜びとは、教え子が己を超えてゆくことに他ならない。その見果てぬ夢を、わたしは一眞に託そうとしていた」
静かだが断固としたその口調、揺るぎない眼差しに圧倒され、八雲はしばし言葉を失った。
この人にここまで言わせる――一眞、おまえはほんとうに、たいしたやつだったんだな。なのになぜ、あんなことをしでかしたんだ。衛士長のこれほどの思いを、少しも感じ取っていなかったのか。強いだけでなく、おまえは頭もいいやつだったはずなのに。
「一眞をうらやましく思いますよ」八雲は嘆息し、苦笑いして言った。「そんなふうに誰かから期待されたことなど、おれにはなかったですからね」
「問題は、おまえ自身が己に期待していないことだ」
不意の一撃を食らい、うっと息が詰まる。
「自分自身を見くびっている。やれると信じ、成し遂げると心に決めさえすれば、おまえは本来どんなことでもできる人間だ」
「と、とんでもない。おれなど何の取り柄も……」
いつもの癖で自嘲的になりかけた八雲を、景英の強い視線が押しとどめた。その目を見れば、彼が世辞や冗談を言っているのではないことがわかる。
「あの……」内心で冷や汗をかきながら、八雲はおずおずと言った。「今後はもう少し、自分を信頼してみることにします」
長年にわたって馴染んできた侮り癖がそう簡単に直るとも思えないが、景英がこんなふうに言ってくれるのなら、直そうと試みるぐらいしても罰は当たるまい。
彼の言葉に景英は微笑み、小さくうなずいた。
「話を戻すが、わたしは一眞を宮士として、蓮水宮に勤めさせたかった。宮殿はほかとは異なる雰囲気を持つ、御山の中でも特別な場所だ。あの神域に身を置き、聖徳高き祭主さまのお側近くに仕えることで、衛士として生きる意味を、志を見いだして欲しかった。己の剣の芯となるものを」
景英はしみじみとした口調で言い、かすかに吐息をついた。
「今となってはもう、言っても詮ないことだが」
沈んだ声を聞くと、次の質問をするのが憚られた。だがこの機会を逃すと、彼とじっくり話をできるのは、また当分先のことになってしまうだろう。
「衛士長、祭主さまが殺害されたあの一件に、一眞はかかわっているとお思いですか」
「何らかの形で、かかわってはいるだろう。そうでなければ、あの日以降の彼の動きは不自然すぎる」
「でも、あいつは下界へ降りたあと、一度戻ってきたと聞いています。その時点では、帰山が叶うと考えていたのでは? 少しでも疚しさがあれば、御山には近づかないんじゃないですかね」
それとも近づけるのだろうか。悪事に関与したあとで何食わぬ顔をして戻るなどおれにはできそうもないが、玖実に〝要領がいい〟と評された一眞には造作もないことなのかもしれない。
「おまえの言う通り、一眞が帰山できるつもりでいたのはたしかだろう。年改めの日の一件について追及されるのは覚悟の上で、それでもなお詮議を切り抜けられるという自信があったのだ」
「だいぶ難しそうに思えますが」
「御山の中に味方がいる――あるいは、いたのかもしれない。一眞を守るはずだった者が。だが見捨てられた。もしくは裏切られた」
八雲は両手で膝を掴み、思わず前に身を乗り出した。
「それは誰です」
「わからない」
嘘だと感じた。少なくとも、目星ぐらいはつけているに違いない。
「ここだけの話にしますから、隠さずに教えてください」
粘る八雲に、景英は少し戸惑う様子を見せた。
「なぜ隠していると思う」
「なぜでしょうね。でも、そう感じるんです。衛士長、おれは知りたいんですよ。一眞がいったい何に首を突っ込んで、こんなありさまになってしまったのか。御山でいま、本当は何が起きているのか」
「誰かに命じられて、調べているのか」
「はじめは、玖実に焚きつけられたんです。祭主さまが亡くなられた状況や、その後のもろもろの騒動にはすっきりしない点が多いから、宮殿勤めの利点を活かして調べてみろと。乗せられてやっているうちに、おれ自身もいろいろと納得のいかないところが出てきて、引っ込みがつかなくなってしまいました」
景英は口をつぐんだまま、探るような眼差しで八雲を見つめた。表情に迷いの色が窺える。この件について彼にも思うところはあるが、信頼できるかどうかわからない相手に、迂闊に腹の内をもらしたくないのだろう。その気持ちはよくわかる。
「これは玖実にしか話していないことですが、おれは……紅さまの祭主位継承に疑問を感じています」
自分から胸襟を開かなければ、相手の本心を引き出すことはできない。そう思ってずばり言ってはみたものの、こうして口に出すと不安と恐怖に胃の腑を掴まれる心地がした。打ち明ける相手を誤れば、そのまま身の破滅につながりかねない。
「年改めの日からこれまでに起きたすべてのことが、あのかたを祭主にするために仕組まれていたように思えて、どうしてもすんなり受け入れられないんです。青藍さまが――あの小さな若巫女が祭主さまを殺したなんて、とても信じることができないし、継承の要件を欠いたままで紅さまを祭主位に押し上げようとする強引な流れも気にくわない。おれは宮殿で玉驗を発見して、心ならずもその流れに一役買いましたが、あの印章は精巧に作られた偽物だったのではと疑っています」
黙って耳を傾けている景英の眉がかすかに動いた。
「これらのことに一眞が自分からかかわったのか、あるいは巻き込まれたのかも解明されず、ただの破戒者として記録されてしまうのは厭だ。それ以上に、祭主さまが殺された理由も……下手人すらも曖昧な今の状況には、ほんとうに我慢がなりません」
努めて慎重に話し始めたが、途中から自分でもあきれるような熱弁に切り替わった。実のところ、ずっと誰かにこのことをぶちまけたかったのだ。興味を示しながらもどこか距離を置いているように見える玖実ではなく、もっと真剣に向き合ってくれそうな人物に。景英ならばうってつけだ。
だが彼の腹づもり次第で、八雲はすべてを失うことになる。これはある種の賭けだった。
「誰にも命じられてはいませんが、もしも御山で陰謀がめぐらされているのなら、おれは何もかも調べ上げて真実を白日の下にさらしたいと思っています」
ひと言も挟まなかった景英が、ここでようやく口を開いた。
「大変な仕事だぞ。危険でもある。なぜ、そこまでするのだ」
真顔で問われて、一瞬言葉に詰まった。勢いに任せて大きなことを言ったが、あらためて〝なぜ〟と訊かれると、自分の動機がよくわからなくなってしまう。
八雲はしばらく考え、自然に頭に浮かんできたことをそのまま言葉にした。
「好きだったから――ですかね、たぶん。一眞のことも、祭主白藤さまのことも」
景英の目元がふっとなごんだ。
その唇に薄く笑みが浮かぶのを見て、八雲は彼に信用されたことを感じ取り、一気に気持ちが楽になった。
「危険なことは承知しています」
そうは言ったものの、ほんとうに承知していたかは我ながら疑わしいと思った。指摘されるまで、この件を突き回すことの危険性は漠然としか認識していなかった気がする。
景英は少し間を置き、表情をあらためて静かに言った。
「一眞は御山へ戻ってきた時、西の大門で応対した衛士の源三に、帰山したことを上に伝えるよう頼んで一度去ったそうだ。そして三日後に再び現れ、麓の番所でそれまでの経緯についての聞き取りに応じた。詮議に当たったのは衛士の文七と、内宮衛士の許斐宗二郎」
だがそのふたりを殺害して、一眞は再び去った。
「あいつ、文七たちに何か手荒いことでもされたのでしょうか」
「いずれが先に抜いたのかは不明だが、どこかの時点で一斉に斬り合いになったのは間違いないだろう。宗二郎はひと太刀で下腹を斬り裂かれ、そのまま絶命していた。文七は土間に続く廊下で、いくらか鍔迫り合いをしたようだ。だが押し切られて仰向けに倒れ、刀で胸を床に縫い止められて息絶えた」
聞いていると、かつて一眞と何度も木太刀で打ち合った記憶が蘇ってくる。彼は低い体勢からの攻撃が得意で、そうとわかっていてもなかなか対応できないほど素早かった。手練れの衛士ふたりを手玉に取ったと聞いても、さほどの驚きはない。
「しかし、なぜそのふたりを行かせたのですか。衛士長が直に聞き取りをなさればよかったのに」
八雲の質問に、景英の表情が曇る。
「一眞の帰山や番所への文七らの派遣は、わたしには知らされていなかった。内宮衛士主監の五位淵兼次どのにもだ」
「どういうことです」
「一眞は自分が帰ったことを直属の上役である我々ではなく、別の人物に伝えるよう源三に頼んでいた」
彼を守るはずだったのに手の平を返し、見捨てた者。
「誰ですか」
いちおう訊ねたが、答えを聞くまでもなくわかった気がする。それでも景英が周囲を憚るように声をひそめ、一連の出来事を通して常に姿を見え隠れさせていた人物の名を口にした時、八雲は抑えがたい戦慄をおぼえて身震いした。
「天城宗司だ」
十二宗司と六十三人の大祭宜、三人の職寮長が一堂に会する第十五回総会議まであと二日。
天門信教の教義や規範に関する重要事項、御山の運営や改革などについて協議を行う大会議であり、本来は最高権威である祭主が主催する決まりになっている。だが現在は祭主が不在のため、今回に限り序列筆頭の空木宗司を中心に執り行われることとなった。
主たる議題は、むろん若巫女紅の祭主位継承問題になるだろう。即位が認められたという知らせが来れば、紅はただちに正装して中の院の会議場へ赴き、前祭主代行の空木宗司から玉驗を授けられることになっている。
「何日ぐらい続くんでしょうねえ」
蓮水宮奧の院の客殿〈祥雲亭〉の小部屋で総会議に向けた準備を行いながら、志賀祭宜がぽつりと言った。
「開催中は宮殿の門が閉ざされて、誰も一歩も外へ出られないんでしょう?」
下ぶくれのなすび顔に、うんざりしたような表情が浮かんでいる。
「そうらしいな」
八雲は半分うわの空で答えながら、彼が横から差し出す法衣を受け取った。丁寧に広げて皺を伸ばし、部屋じゅうに林立する衣桁のひとつに慎重にかける。正装用の華やかな法衣はどれも繊細かつ高価な金襴で仕立てられているので、取り扱いにはことさら神経を使うのだ。
「百三十年ほど前に開催された第十四回は、異端の定義が決まらないとかで大荒れに荒れて、終わるまでに二か月近くもかかったそうですよ」
手伝いをする志賀は夢中でしゃべっているが、不思議なほど巧みな手つきで淀みなく仕事を続けている。
「おい、なんで平気で触れるんだ。織り地に爪でも引っかけたらって、おれは気が気じゃないってのに」
我慢できずに言うと、志賀はぽかんとした顔になった。
「なにがです? ああ、この法衣ですか」あっけらかんと言い、両手に捧げ持った美しい絹に視線を落とす。「下界では、わたしは呉服屋のせがれでした。だから、こういう生地の扱いには慣れているんです」
「なんだよ、そういうことは早く教えてくれ」
八雲は不平を鳴らし、すたすたと壁際へ歩いて行った。
「あとは任せた」
突然押しつけられた志賀が不安そうに身をよじる。
「ええ、そんな」
「おれはこっちで下襲を選ぶ」
白羽二重や練り絹の下襲も高価だが、金糸や金箔で複雑な模様が織り出されている金襴よりは緊張せずに扱うことができる。部屋の端にどっかり腰を下ろして畳紙から下襲を取り出し始めた八雲を、志賀が恨めしそうな目で見つめた。
「丸投げなんて、ひどいですよ。一緒にやってください」
「全部広げて並べて、その中から紅さまに似合うのを選べばいいんだよ。本命一着と、押さえを一着。呉服屋の息子なら、そういうのも得意だろう」
「でも、もしお気に召さなかったら……」
彼女はひどく不機嫌になり、氷のように冷たい態度を取る。だが、そんなことを恐れていては側仕えは務まらない。
「お気に召さなかったら、その時はその時だ」
突き放すように言ったものの、心もとない様子の志賀が気の毒になり、八雲はぼそりと言い添えた。
「とにかく、並べるだけやってくれ。選ぶのは手伝うから」
ほっと安堵の息をついてうなずき、志賀が仕事を再開する。
「そんなに、びくびくするなよ」
八雲が小声で言うと、若い小祭宜は肩をすぼめてうつむいた。
「ここだけの話ですが、紅さまのことは前からちょっと苦手でした。お美しいけれど、なんというか――少し冷酷なところがおありで」
「前から、あのかたと接点があったのか」
「いまの御役に就く前、わたしは北の院で幼い若巫子さまのお世話をしていたんです」
「へえ、初耳だなあ」
「職寮時代に宿房で参拝者の案内をしていた時、子供の相手が上手だと祭宜長に褒められ、それで内宮入りすることに」
「祭宜長の推薦とはすごいな」
そんなに優秀だとは知らなかった。消極的でおどおどした若者に見えるが、才気を隠しているのかもしれない。
「八雲祭宜は、どなたの推薦で内宮入りされたのですか」
「おれは誰からも推薦なぞされちゃいないよ。内宮入りすることになったのは、まあ――何かの手違いだな、きっと」
「そんなはずはありません」志賀が振り向き、訝しげに眉根を寄せる。「宮殿に勤めた経験を持つ人からの推薦がなければ、内宮入りすることはできないんです」
「そうなのか」
それも初耳だ。なんの得にもならないのに、いったいどこの物好きがおれなんかを推薦したのだろう。自分がそうしたと明かさないのなら、恩を売ることすらもできないじゃないか。
もっとも、教えられても恩義を感じたかどうかは微妙なところだが。内宮入りしていなければ大事件の目撃者になったり、おっかない小娘の召使いにされたり、欺瞞の片棒を担がされたりすることもなかったのだから。
苦笑しかけて――八雲はふいに表情を凍らせた。
そうだ。
内宮入りしていなければ、これらのことすべてがおれには無関係なはずだった。まさか、誰かが意図的におれをこの場所へ配置したのか? 青藍と同じように、おれも知らないところで役を割り振られていたのだとしたら――。
弾かれたように立ち上がると、志賀がびっくりした顔でこちらを見た。
「どうされました?」
「ちょっと外す。すぐ戻る」
それだけ言って部屋を出た八雲は、足早に黒書院を目指した。奧の院、中の院に続く大きな殿舎であり、その一室で御山の運営にかかわる記録が管理されている。
黒書院に足を踏み入れた彼は、中庭に接する外廊下から回り込んで、殿舎の西の端に位置する記録所へ入っていった。四十畳ほどもある広い部屋で、半分は書庫になっており、残り半分には書類仕事をするための文机がずらりと並べられている。いまは六人ほどが机について、何やら書きものに勤しんでいた。
「何か用かな」
いち早く八雲に気づいて部屋の奥から声をかけてきたのは、記録所の責任者である九重宗司だった。書棚の前に立ち、腕に大判の書物を何冊も抱えている。
「お邪魔をしてすみません」
八雲は机の脇を通って彼に近づき、少し声を落として話した。
「自分が誰の推薦で宮殿勤めをすることになったのかを知りたいのですが、その記録がここに保管されていたりしますか」
「むろん、あるはずだよ」
いつも温和で優しい話し方をする九重はそう言って、薄暗い書庫へ入っていった。八雲もついて行ったが、右も左も書棚に埋め尽くされていて、どこに目をやればいいのかもよくわからない。
九重は壁際の書棚から文箱をひとつ取り出し、部屋の中央に置かれた大きな長櫃の上で蓋を開けた。
「八雲祭宜の内宮入りは比較的最近のことだから、おそらくこのあたりに――そら、見つけた。推挙状だ」
彼は一枚の紙を取り出し、手近な燭台を引き寄せて文面を見た。
「推薦人の名は、内宮衛士街風一眞――とある」
半ば予想していた名前だったが、それでも耳にした瞬間、八雲の体がぎくりと強張った。
「当人に推挙状を見せるのは禁じられているが、簡単に内容を教えるぐらいはかまわないだろう」
九重はそう言って、鷹揚に微笑んだ。
「ほう……ずいぶんと褒めている。〝己を利するために事実をゆがめることなく、常に物事をありのままに捉えることができる人物〟、〝全幅の信頼を寄せるに足る、生まれついての律儀者〟――と、そのような感じだ。彼は八雲祭宜を、とても高く評価していたらしい」
自分のことのように嬉しげに話す宗司の声は聞こえていたが、内容はほとんど頭に入ってこなかった。
「どうも――お手間を取らせました」
つぶやくように言って素早く頭を下げ、八雲はそそくさと記録所を後にした。そのまま黒書院と中の院をつなぐ渡り廊下まで行き、中央付近でのろのろと足を止める。
新緑が薫る初夏の風に吹かれながら、彼は欄干に両手をついて中庭へ顔を向けた。だが、目にはぼんやりした色形しか映らない。
一眞、おまえなのか?
脳裏に繰り返し浮かんでくるのは、ただそのひとつの問いだけだった。
おまえが、おれを巻き込んだのか?
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