二十八 別役国北部・街風一眞 悪だくみ
肉体的な不具合のせいで活動を制限されることは、子供のころからたびたびあった。不具合を生じさせていたのは主に父親だ。
肥満で、吝嗇で、色狂いだった父はさらにもうひとつ、暴力的という大いなる魅力を備えており、もっぱらそれをひとり息子の一眞に対して積極的に発揮した。いつごろからそれが始まったのかを一眞は覚えていないが、殴られていない時期をいっさい記憶していないということは、物心つく前から絶え間なく暴力を振るわれていたのだろう。
飯をこぼしたといって打たれ、通り道の邪魔だと蹴られ、泣けば拳固を食らわされた。何かしゃべれば「うるさい」と殴られ、黙っていても「目障りだ」と叩かれる。一眞はすぐに、父親の関心をなるべく引かないことこそが安全への近道だと学び、彼の目褄を忍んで暮らすすべを身につけた。
それでも避けきれずに捕まることも多かったので、子供時代の思い出の大半は苦痛と恐怖と憎しみに彩られている。虚弱だった幼少期には、父親から受けた傷の痛みや発熱で動けないことがしばしばあり、そういう時には地中のさなぎのように丸まって体を休めながら、漠然と死について思いをめぐらせたりもした。といってもそれは父親の死であって、決して自分自身の死ではない。
一眞が実家で堪え忍んだ長い月日に、父親は合計八本ほども彼の骨を折ったが、心までへし折ることはついにできなかった。
強靱な精神は、一眞の最大の武器だ。たとえさんざんな目に遭おうとも、それで絶望して何もかもあきらめたりはしない。最悪の糞を掴まされたら、その糞をどう相手になすりつけてやろうか考え始めるのが一眞という人間だ。
そういう人間だと自分では思っていた。少なくとも、あの日――青藍が娼楼と一緒に燃えてしまったと知らされた日までは。
天城宗司や紅をはじめとする欲深い連中が企てていた計画にうかうかと乗り、働くだけ働かされた挙げ句、死人に口なしとばかりに始末されそうになった彼に、青藍は極上の報復の機会をもたらしてくれるはずだった。
あの若巫女を御山へ連れ戻し、祭主殺しの濡れ衣を着せられた被害者であることを証明すれば、一眞は天城宗司らに吠え面をかかせてやれたに違いない。計略の片棒を担いだように見せかけて、実際は罪なき者を守ろうとしていたのだと訴え、万事うまく立ち回りさえすれば帰山も叶っただろう。
だが肝心の切り札が消えてなくなり、その望みは完全に潰えてしまった。
佛田宿の娼楼へ青藍を引き取りに行き、彼女が見世ごと火に焼かれて命を落としたと知った時からしばらくのあいだ、自分がどこで何をしていたのかを一眞はほとんど覚えていない。生まれて初めて、心底から茫然自失の体に陥っていた。
多少なりとも自分を取り戻したのは、丸一日ほど経ってからだったように思う。いや二日か、三日後だったかもしれない。
その間、旅籠に部屋を取って彼を落ち着かせ、何くれとなく世話をしていたのは、誰あろう宿場への道中で心ならずも拾ったあの蓮っ葉娘だった。あとで調べると、ふたりぶんの宿代や飯代は一眞の手持ちから支払われていたので、弱っているところにつけ込んで〝たかられた〟とも解釈できるが、腑抜け状態のあいだに何もかも持ち逃げされなかっただけで御の字だろう。実際のところ、一眞は娘がなぜそうしなかったのかと不思議に思っている。
一方で、迂闊にも放心して警戒心をゆるめ、たとえ一時でもあんな娘に生殺与奪の権を握らせてしまった自分に腹を立てていた。相手に悪意があれば殺されていてもおかしくなかったのだと思うと、今さらながらにぞっとする。
そもそも、なぜ青藍の死で我を失うほど動揺したのだろうか。母親が死んだ時ですら、ああまで心を乱されたりはしなかったのに。
しばらく考えて、一眞は自分がどうやら青藍を死なせたくなかったらしいことに思い当たった。だが、彼女が生きていること自体が重要なのか、死ぬと役に立たないから生きていて欲しかったのか、そこのところは判然としない。
ただ、御山へ帰りたかったこと――青藍を失ったせいで帰れなくなったこと――それだけははっきりしている。
一眞が祭主位をめぐる謀略の中で割り当てられた役目を果たし、その対価として得ようとしていたのは金でも権力でもなかった。自ら希望して就いたわけではない内宮勤めから解放され、千手景英麾下の衛士寮へ戻ること――望んでいたのはそれだけだ。
天城宗司から報酬に何が欲しいかと聞かれた際には、手の内を明かしたくなかったので「後日あらためて」とかわしたが、あの時はぐらかしたりせずに話しておいたほうがよかったのかもしれない。目的を隠すから怪しまれ、口封じのために始末されそうになったのだ。
一眞は千手景英にも腹を立てていた。元はと言えば、すべてあの男に原因がある。彼が一眞を手放そうと――内宮衛士に推薦して別の上役に預けようなどという気まぐれを起こさなければ、こんな頭の天辺まで糞に漬かるような羽目には陥らなかったはずだ。
景英自身は知る由もないが、彼に対する一眞の執着は年季が入っている。
かつて修行仲間だった利達が死に、信光と伊之介が去り、玖実とも疎遠になったあと、一眞はほかの人間にいっさい関心を向けず、景英だけに文字どおり〝没頭〟した。彼が語ることを聞き、彼の振る舞いを注視し、影のように付き従って彼のすべてを吸収し、咀嚼し、自らの血肉と化そうとした。彼は一眞の生きる糧であり、支えであり、師であり、親であり、支配者だった。それでよかった。
景英の傍にぴったりと張りついて過ごした十年あまりは、一眞にとって人生でもっとも心が安定していた時期だったといえる。厄介ごとを起こしも巻き込まれもせず、他者と揉めることもなく、修行と仕事に黙々と打ち込み、正当に評価され、意欲を感じ、そんな自分に満足していた。ずっとそのままでいられれば、何も問題はなかったのだ。
だが景英は一眞を自分から遠ざけて宮殿へ送り込もうとした。衛士にとって宮士に推されることは、出世街道に乗ることでもある。おそらく彼は御山での一眞の将来を考え、宮士としての経験を積ませておこうとしたのだろう。だが当人にしてみれば、そんな思惑や配慮など知ったことではない。むしろ迷惑千万だ。
くそ、あの男――なぜおれを放っていてくれなかったんだ。ただ黙って、傍に置いていてくれるだけでよかったのに。そうすれば、おれはどれほど悪心が疼いても箍を外すことのないよう自分に歯止めをかけて、まともな人間で居続けることができたのに。
一眞は何度も、景英に説明しようとした。内宮入りはしたくないと。自分は宮殿勤めには相応しくないと。衛士寮にいたいのだと。
だが、あなたと離れたらおれは容易く昔の自分に戻ってしまう、おれにとってあなたは欠くべからざる舫いであり柵なのだと――そう言うことはできなかった。誰しも決して口にできないことはある。
景英は彼の訴えを退けて異動を決め、宮士になった一眞は蓮水宮で日々腐りながら、自力で元の場所へ戻る方策を練り始めた。
御山の実力者である天城宗司の企てに同調し、それと引き替えに人事に関するささやかな便宜を図ってもらうというのは、それほど悪い考えではなかったと思う。だが宗司の裏切りで、計画は完全に狂ってしまった。今となってはもう衛士寮どころか、御山へ戻れる見込みすらもない。
青藍が生きていれば、話はまた別だっただろうが――。
そこへ思いが及んだところで一眞は初めて、青藍が死んだと決めつけるのは早計かもしれないと考え始めた。
〈ふぶき屋〉の焼け跡で見た小さな遺体は、たしかに一眞が青藍に買い与えた麻の小袖を着ていたが、間違いなく彼女だったと言い切れるだろうか。あの時は着物を見ただけで断定し、その後は動転していたので詳しい検分もしないまま、早々に安置所をあとにしてしまった。
いまにして思うと、あんな色柄の着物は別に珍しくもない。見世にいた青藍と同じぐらいの年ごろの子供が、たまたま似たものを着ていた可能性もあるのではないだろうか。
一眞は虚脱状態から完全に抜け出し、あらためて確認をするために安置所になっていた空き店へ向かった。もう遺体は埋められてしまったかもしれないが、ともかく行ってみるしかない。
到着すると、全焼した〈ふぶき屋〉跡地は今もそのままだったが、安置所の遺体はすでに半分がた運び出されていた。魂送りの儀式が終わり、身元もあらかた判明したので、地元衆が協力して順次埋葬を始めているという。一眞にそう教えてくれたのは、前に来たときにも会った地回りふうの男だった。ずいぶん事情に明るいようなので、このあたりの顔役なのかもしれない。
「残ってるのを見たきゃ入っていいが――」
甚治という名のその男は、鼻に皺を寄せながら言った。
「腐りかけてるんで、だいぶにおうぜ」
一眞は生返事をして、安置所に再び足を踏み入れた。土間の遺体はきれいに片づけられ、板間に寝かされているものも残り十体ほどになっている。それらが一斉に腐敗し始めているとあって、甚治が警告したとおり屋内に充満した臭気はかなり強烈だ。
手ぬぐいで鼻と口を覆い、一眞は残っている遺体を見回した。幸い、あの小さな遺体はまだ中ほどに寝かされたままだ。彼は草鞋履きのまま板間に上がって近づくと、用心深く筵をめくってみた。
わっと飛び立ったハエを手で追い払い、黒こげの少女の遺体を半ば息を詰めながらまじまじと見つめる。
前回は気づかなかったが、少女の首には大きな切り傷がふたつあった。逆らうか暴れるかして、盗賊に刺し殺されたのだろう。
焼け残っている部分の小袖はくすんだ山吹色をしており、絣模様が入っているようだった。やはりこれは、自分自身が古着屋で青藍のために選んだ着物に見える。
顔貌はどうだ。あの娘はどんな顔をしていただろうか。耳は? 髪は?
目鼻もわからないほど焼けた遺体の上に深く屈み込み、一眞は何か見覚えのある部分を探そうとした。
記憶にある青藍よりも、遺体の輪郭はかなり鰓が張っているように見える。こんなに厳つい顎はしていなかったはずだ。燃え残った左耳も、よく見ると青藍のものより少し大きいように感じられた。それとも、これは希望的観測に過ぎないだろうか。
結局、確信を得られないまま安置所の外に出た一眞は、甚治から話を聞くことにした。
「子供の遺体は、中にあるひとつだけか?」
「焼け跡から出たのは、あれだけだ。一年ぐらい前から下働きに入ってた美也ってのがいたから、たぶんそれだろうよ」
「ほかにも子供がいたはずなんだが。ちょうどあれぐらいの年ごろだ」
「そうだったか」甚治が意外そうな表情をする。「おれは覚えがねえがなあ」
「最近入ったばかりだったんだ。ひと月ほど前に」
甚治が呑み込み顔になった。
「あんたが売ったのかい」
「まあ、そんなところだ。事情があって買い戻したかったんだが……」
それは気の毒にと言いたげに眉尻を下げ、甚治は空き店のほうへ目をやった。
「じゃあ、あれは美也じゃねえのかもな。ただ子供はほんとうに、あのひとつだけだぜ。ふたりいたなら、どっちか片方は生かしたまま連れ去ったんだろうよ。引き揚げる時に連中が女を十人ばかり引っ立てて行くのを、向かいの一膳飯屋の亭主が見たと言ってる」
一眞の胸にちらりと希望が萌す。
「ここを襲った盗賊はもう割れてるのか」
「ま、いちおうふたつばかり、名は挙がってるな」
ひとつは〈稲葉一党〉と呼ばれている盗賊団で、侍上がりだという首領の稲葉鬼六は〈大槍の鬼六〉の異名を取っているらしい。別役国の南東に塒があるようで、三年ほど前からこの一帯を荒らし回っているということだ。
もうひとつの〈二頭団〉は、ふたりの首領が各自の手下を率いて別々に夜働きする風変わりな盗賊団で、別州北部からはるばるこのあたりまで遠征してくることがあるという。盗むだけに留まらず、殺生、強姦、放火までする苛烈な手口で恐れられている凶悪な一団だ。
「〈ふぶき屋〉のやられかたを見るに、今回のは〈二頭団〉の仕業だろうとおれは思うんだが――」
甚治はそう見解を述べ、気難しげに眉をしかめた。
「辻向こうで襲われた別の見世の生き残りが、盗賊連中の中に〈大槍の鬼六〉を見たと言い張ってんだよ」
「ほんとうか」
「さあ、わからねえ。たまたま長え得物を使ってるやつがいたんで、鬼六に違いねえと思い込んだだけかもな。二つ名のあるような大盗賊を見たとなりゃ、しばらく酒飲み話に事欠かねえしよ」
一眞は甚治に礼を言って別れ、焼け跡の向かいに建つ飯屋へ行ってさらに話を聞いた。見世の主人は〈ふぶき屋〉の娼妓らしき女たちが連れ去られるのはたしかに見たものの、その中に子供がいたかどうかは覚えていないという。
「縄でつながれたうしろのほうに、柄の小せえ娘がいたようにも思うが……」
羽目板の隙間からこわごわ覗いていただけなので、はっきりとは言えないと彼は話した。
「あたりは暗かったしね」
「火事で明るかったんじゃないのか」
「火が上がったのは、連中が見世の前からいなくなってからでしたよ」
「娘らの中に、ちょっとくすんだ山吹色の小袖を着た者がいなかったか」
「さあ、着物の色までは」
これ以上聞けることはないと判断した一眞は見世を出て、〈ふぶき屋〉の焼け跡前に佇みながらしばし考えをめぐらせた。
青藍はまだ生きているかもしれない。
あの遺体には、着物以外に青藍らしさを何も感じなかった。間の抜けたところのある娘だが、敵わないと知りながら盗賊連中に抗って、むざむざ殺されるような愚か者とも思えない。おそらくあれはもうひとりいたという下働きの子供で、青藍はほかの女たちと一緒に転売目的でさらわれたのだろう。
となると、生きたまま取り戻せる可能性も皆無ではない。
今のところ手がかりは少ないが、近隣でさらに聞き込みを重ねれば、宿場を襲撃したのが〈稲葉一党〉と〈二頭団〉のどちらだったかはっきりしてくるはずだ。そうして目標を定めたら足取りを追って、塒を突き止めればいい。
売る気でさらったのなら、金さえ積めば取り引きに応じるだろう。もし渋るようなら、何か別の手段を講ずるまでだ。
考えがまとまると、ひさびさに頭の中がすっきりと晴れ、視界が明瞭になったように感じた。
方針が定まった以上、こんな場所にぐずぐずと留まっている理由はない。さっさと荷物をまとめて宿を引き払い、木戸周辺であと二、三人に話を聞いたらすぐにも宿場を発とう。
「どこ行くの」
問いかける声にぎょっとして首を回した一眞は、〈ふぶき屋〉の横手に建つ寂れた旅籠の脇に、あの蓮っ葉娘の姿を見いだした。
ついてきていたのか――と、驚きを押し隠しながら考える。まったく存在に気づいていなかった。いや、本当は察していながら、強いて気づくまいとしていたのかもしれない。
宿の煤けた横壁の前にぽつんと立っていた娘は、無言のままの一眞に弾むような足取りで近づいてきた。
「買い戻したかったって子、さらわれたんだよね」どうやらここまでの会話はすべて盗み聞いていたらしい。「取り戻しに行くの?」
「おまえには関係ないことだ」
そう言い捨てて歩き出した一眞を、あわてて娘が追ってくる。
「関係なくなんかないよう。あたしと兄さんの仲じゃないか」
どんな仲だと思いながら一眞は足を止め、彼女をじろりと睨みつけた。
「ついてくるな」
「やだよ」
「宿場に着いたら働き口を探すと言っていただろう。おれにつきまとわず、おまえはおまえで自分のやることをやれ」
「あたし、これからも兄さんと一緒に行くってもう決めたんだ。女の子を捜すのなら手を貸すよ」
「断る」
「遠慮なんかしなくていいってば」
甘ったるい笑顔で言って、馴れ馴れしく腕をからめてくる。
「こう見えて、けっこう役に立つんだから」
この餓鬼、殴らないとわからないのか――一眞は苛立ちが頂点に達するのを感じ、娘の腕を荒っぽく振り払った。ついでに頬のひとつもひっぱたいてやりたかったが、ぐっと堪えて掌で肩口を軽く突くだけに留める。それでも娘はよろめき、危うく倒れそうになった。
どうにか体勢を立て直して、きっと上げた顔が怒りに紅潮している。
「なんだい、力になってやるって言ってるのに、そんな突っ慳貪にすることないだろ」
目を吊り上げてわめく娘を、通りをぶらつく人々がにやにやしながら眺めて行く。痴話喧嘩か何かだと思っているのだろう。そんな好奇の眼差しに気づく様子もなく、彼女は口角泡を飛ばして一眞に食ってかかった。
「だいたいね、火事の跡を見てから呆けちまったあんたを、誰が今まで親切に面倒見てやってたと思うのさ。ありがとうのひと言もなしに追っ払おうったって、そうは問屋が卸さないよ。この恩知らず!」
「恩知らずはどっちだ」
唸るように言いながら、一眞は娘の胸ぐらを掴んで引き寄せた。
「森で命を救ってやったおれに、お前はありがとうと言ったか。金を分けてやった時はどうだ。山越えで焚き火に当たらせてやった時は。宿場まで連れて来てやった時は」
怒りに任せてまくしたてる一眞を、急に怯えた顔になった娘が目をいっぱいに見開いて凝視する。
「何をしてもらっても、おまえはまるで感謝なんかしなかった。ただの一度だってな。だが、あの娘は――」
あの娘。
青藍。
〝信じてくれてありがとう〟
〝食べ物をありがとう〟
〝いろんなことを教えてくれてありがとう〟
宮殿生まれの温室育ちとは思えないほど謙虚で、些細な親切にも感謝や感動を示す娘だった。危うく殺されるところだったことや、騙されて売り飛ばされたことを知った時ですら――。
〝わたしを殺せたのに、生かすことにしてくれてありがとう〟
皮肉ではなく、虚勢でもなく、明らかに青藍は本心からありがたいと思って言っていた。あの時の彼女の澄んだ目を思い出すと、いつもひどく落ち着かない気分になってしまう。
そこで彼ははっと我に返り、指をゆるめて娘を突き放した。
「行け」
よろよろと二、三歩後退した娘が、恨みがましい目で一眞を睨む。
「なにさ、これであたしをお払い箱にできると思ったら――」
捨て台詞を最後まで言わせるつもりはなかった。大きく足を出して一瞬で距離を詰め、ぎょっとしたように身をすくめる娘と顔を突き合わせる。
「その面をまた見せたら、次は裏手に引きずり込んでなますに斬り刻むからな」
目に殺意を込めて見据えながら低く囁くと、娘の頬からすうっと血の気が失せた。本気で言っているのがようやく伝わったらしい。
一眞は嬲るようにしばらく視線を留めてからゆっくりと身を引き、背を向けて歩き出した。
「……人でなし」
うしろから小さな震え声がかすかに聞こえたが、彼は振り返ろうとも思わなかった。
あれから月日は流れて季節が移り、佛田宿から始まった一眞の探索行はすでに百日近くにも及んでいた。冬が終わり、春が通り過ぎていくあいだに彼はかなりの距離を移動してきたが、未だに青藍をさらったと思われる盗賊団の元へはたどり着けていない。
宿場周辺で丹念な聞き込みを行った結果、一眞は〈ふぶき屋〉を襲ったのはやはり〈二頭団〉だと結論づけた。〈稲葉一党〉も負けず劣らずの極悪集団らしいが、これまで放火をしたことは一度もないという話だ。襲った見世に火をかけていった今回の手口からして、〈二頭団〉の仕事と判断するのが妥当に思える。さらに盗賊たちが襲撃を終えたあと、宿場の西側から出て足助山中へ入っていったという情報もひとつの決め手になった。
別州の南東地域が縄張りだという〈稲葉一党〉なら、わざわざ逆方向へ逃走して山を越えたりはしないはずだ。一方、〈二頭団〉の根城はどこか北のほうにあるらしい。彼らはおそらく山の中を移動しながら追っ手をかわし、ほとぼりが冷めたころを見計らって街道へ下りて、夜の闇に紛れながら塒へ引き揚げていったのだろう。
そう当たりをつけた一眞は足助山沿いに北上し、最北の下山口にもっとも近い集落で再び聞き込みをした。自分が正しい道筋をたどっているとついに確信できたのは、村はずれに住む農夫から話を聞いた時だ。
三日前の夜更けに胡乱な風体の男ふたりが突然押し入ってきて、農夫の家にあっためぼしい食糧すべてと裏につないでいた農耕馬を奪っていったという。彼は襲撃者のひとりに殺されかけたが、刃をかいくぐって辛くも難を逃れ、家の外へ逃げ出す際に相手が腕に入れていた特徴的な刺青を偶然目にした。
「的に矢が当たってる図柄で、横に〝百〟の字が書いてあるんでさ」
親の遺した農地を先年継ぐまで破落戸だったという彼は、方々の盛り場を遊び歩いていた時分に、賭場で同じ刺青を見かけたことがあったと話した。
「えらく博打の強え男でね。賭場の用心棒にあれは誰かと訊いたら、〈百中の源〉とか呼ばれるやつだと教えてくれやした。なんでも、ふたり頭がいるでけえ一味の賊党だとか」
首領ふたりの盗賊団など、そうそうあるものではない。
この証言に自信を得て〈二頭団〉に目標を定めた一眞は、意気揚々と北へ向かった。十人もの女を連れた大所帯で人目を忍びながら移動しているなら、うまく先を読んで途中で追いつくことも可能かもしれない。
だが順調だったのはそこまでだった。
臑に傷を持つ連中が、そう安易に足跡を残していくはずもない。馬を奪ったあと、彼らの痕跡はふっつりと途切れてしまった。そもそも逃亡の途中に人里へ立ち寄って、一軒だけ押し込み強盗を働くというのもおかしな話だ。何か計算違いがあって手持ちの食糧が早く尽きてしまったか、あるいは誰かが怪我でもして歩けなくなり、どうしても馬が必要になったかして――こちらのほうが可能性は高そうだ――やむなく通りすがりに急ぎの夜働きをしたのだろう。
一眞は裏街道や脇街道を行く数少ない旅人に話を訊き、時には谷間にある廃村めいた小集落に立ち寄り、〈二頭団〉が通って行った形跡を発見しようと努めた。彼らが慎重に行動しているのは間違いないが、まったく姿を見られずに移動していけるわけはない。必ずどこかで、誰かに目撃されているはずだ。
だが時間だけが虚しく過ぎていくばかりで、彼らに近づいていると思えるような情報は何ひとつ得られなかった。
ぐずぐずしていると、手遅れになるかもしれない――。
一眞の頭の奥で、その考えが刻々と存在感を増してくるように思えた。運よく青藍がまだ生きているとしても、いつまで好運が続くかはわからない。何か盗賊の機嫌を損ねるような粗相をしでかして、あっさり殺されてしまったら。あるいは荒くれ男どもの玩具にされ、御山へ連れ帰るのが憚られるほどに心身を破壊されてしまったら。これまでの骨折りがすべて無駄になってしまう。
焦りを感じながら別州北部を縦横に歩き回っているうちに、だんだん懐具合も寂しくなってきた。青藍を買い戻すために佛田宿へ引き返した時には八金二十銀という大金を所持していたが、今では四金六銀にまで減ってしまっている。路銀はできるだけ切り詰めているが、聞き込みのために悪所を巡ったり、土地のやくざから情報を引き出したりすると、どうしても不本意な出費を強いられてしまうのだ。
〈二頭団〉から青藍を買い取るなら、かなりの資金を用意しておかなければならない。探索の旅がふた月を越して梅月に入ったころから、一眞はまた裏街道で追い剥ぎの真似事を始め、以来ずっとそれを続けていた。
盗賊の足取りを追うのはとっくにあきらめて、今はもっぱら無法者が集まりそうな場所で情報を集めることに専念している。〈二頭団〉の塒がどこにあるか、大まかな場所だけでも早く特定したいと思っていた。当てもないまま歩き続けるのもそろそろ限界だ。
そんなある日、宿場町に近い旧街道で追い剥ぎの獲物を物色していた一眞は、半町ほど前を行く男女四人組に目をつけた。
上品な色柄の小袖の上に羅の塵よけを重ね着し、菅笠をかぶった年配の婦人。振り分けの行李を天秤棒で担いでいる荷物持ちの下男と思しき若い男と、風呂敷包みを背負った小僧。背割り羽織に野袴、腰に二刀を差している壮年の男は護衛だろう。商家の奥方の遊山旅――おそらくはそんなところか。
一眞はケヤキの巨木が林立する森の中へと彼らを追っていき、つかず離れずうしろを歩きながら一人ひとりをじっくり観察した。
旅の一行の主人らしい婦人は、杖にすがった慎重な歩き方からしてかなりの年寄りだと思われる。この老女と、十歳ぐらいの小僧は特段問題にはならないだろう。
荷物を担いでいる下男はがっしりしているが、武器の携帯はしていなさそうだ。厄介なのは護衛だが、帯びている刀にはどちらも柄袋と鞘覆いがかぶせてある。できるだけ近づき、不意を突いて斬りかかれば、柄袋を外すより早く倒してしまえるはずだ。
最初に護衛を殺すか歩行不能にし、もし下男が刃向かってくるようなら次に相手をする。小僧は勝手に逃げさせておけばいい。供回りが片づいたら、女を藪の奧に引きずり込んで財布と胴巻きを頂戴する。
頭の中で襲撃計画をざっと組み立てながら、一眞は少し距離を詰めた。道が左へ曲がっていて、四人組の姿が立ち木の向こうに隠れそうだ。あの地点を越えたあたりで襲うのがいいだろう。
歩調を保ったまま肩ごしに振り返ってみる。同じ道を行く旅人はいるが、三町は離れているので、手早くやればあれが追いつく前に片をつけられるはずだ。
よし――。
動き出そうとしたその時、曲がった道の向こう、木々に遮られて見通せない場所で悲鳴が上がった。入り乱れる切迫した足音。怒鳴り合う声。聞き間違えようのない剣戟の響き。
誰かが、おれと同じことを企んだらしい。そう思いながら一眞は腰の脇差しを手で押さえて走り出した。土が踏み均されて中央が少しくぼんだ道を飛ぶように駆け、曲がり目の先を目指す。
再び視界が開けた時、そこに見いだした光景に彼はぼんやりと既視感を覚えた。先ほど思い描いた図のままに、四人組が襲われている。違っているのは、襲っているのが自分ではないことだけだ。
襲撃者は薄汚れた牢人体の男だった。得物は反りの深い打刀だ。すでに護衛を斬り倒し、今は天秤棒を武器代わりに構える下男と対峙している。老女は倒れた護衛のすぐそばで、土埃の中に腰を抜かしていた。彼女を庇うように、小僧が手を広げて仁王立ちしている。
想像と違うところがもうひとつあった。小僧は逃げ出していない。それどころか主人を守ろうとしている。見上げた忠誠心だ。
そこまで見て取り、一眞は脇差しを抜いた。まだ心の中で迷っている。襲撃者に加勢して分け前に与るか、倒して漁夫の利を得るか。あるいは四人組を救って恩でも売るか。
ちらりと視線を落とし、彼は老女の身形を素早く観察した。見るからに高価そうな上布の単衣。装飾的な華文が細かく刺繍された塵よけ。派手ではないが、旅装にはもったいないほど贅沢な装いだ。かなりの分限者に違いない。命を救ってやれば、それなりの返礼が期待できそうだ。
一眞が襲撃者に斬りかかるのと、その男が下男を斬ったのはほぼ同時だった。一瞬後に襲撃者は血煙を上げて倒れ、下男は左の腿から噴出する鮮血を両手で押さえながら土の上に横たわっていた。
「おい、だいじょうぶかい」
背後から大きな声が問いかけてきた。うしろのほうを歩いていたあの旅人が、変事を悟って急いで駆けつけたようだ。一眞は振り返り、荷箱を背負った行商人ふうの男に向かってうなずいた。
「怪我人を宿場まで運ぶ。手を貸してくれ」
旧街道の先にあった道願宿は規模が小さく、どことなく鄙びた雰囲気を漂わせていた。だが三軒ある旅籠はどれも小綺麗に見えたし、露店の数は多く茶店などもそこそこ賑わっている。
まだ日も高いうちに宿場へ入った一眞らは、木戸からいちばん近い旅籠に事情を話して急遽部屋を用意してもらい、負傷者ふたりをそこへ運び込んだ。手助けしてくれた行商人は先を急ぐと言って早々に立ち去ったが、四人組の女主人から丁寧な感謝の言葉といくばくかの謝礼を受け取ったようだ。
一眞はそのまま部屋に残り、胸と右腕を負傷した護衛の傷を診た。腕のほうは血止めをして布で押さえていれば遠からず良くなりそうだが、胸の傷は剣の切っ先で深く抉られており、かなりの重傷だ。これは素人の手には負えない。下男の足の傷もそうとう重かった。内股から膝にかけて筋を大きく切り裂かれており、出血が甚だしい。
「療師を呼ぶべきだ」
彼がそう勧めると、まだ衝撃から立ち直れずに青い顔をしている女主人は、さっと表情を引き締めて小僧にてきぱきと言いつけた。
「宿の主人に頼んでおいで。それからお湯と布の用意も」
低く掠れているものの、声はしっかりしている。気丈な年寄りだ。
「危ないところをお助けくださり、ありがとうございました」
小僧が部屋を出ていくと、老女は形をあらためて一眞に深々と頭を下げた。
「わたしは酒匂郷で油問屋を営んでおります〈枡屋〉の隠居で、縫と申します。あなたさまのお名前を伺ってもよろしゅうございますか。お住まいはこのあたりで?」
「街風一眞」
心構えをし損ねて、うっかり本名を名乗ってしまった。まずかっただろうか。
「人捜しの旅の途中だ。あんたがたは、これからどこへ?」
「御山に参拝をしてきて、郷へ戻る途中でした」
巡礼者か――御山と聞いてかすかにざわつく心を鎮めながら、一眞は無表情にうなずいた。
「はるばる御州まで行ったのに、神の恩寵は得られなかったな」
わざと無遠慮な物言いをしてやっても、老女はどこ吹く風で、眉をしかめすらしない。
「わたしの祈りが足りなんだのでしょう」
落ち着いた物言い、穏やかだが堂々とした物腰から察するに、かなりの大店の隠居なのだろう。
そこへ小僧が戻ってきて、療師はすぐに来ると告げた。お湯はいま、たくさん沸かしてもらっている。布は、あとからもっと持ってきてくれる。そう彼は報告して、腕に抱えていたひと巻きの晒し木綿を畳の上に下ろした。
「この子はうちの丁稚で、仁吉と申します」
縫に紹介されると、仁吉は上目づかいに一眞を見ながらぺこりと頭を下げた。警戒心が顔にありありと表れている。主人とは違い、彼は助けられたことをあまり感謝していないようだ。それどころか、一眞に疑いの眼差しを向けているような気配すら感じられる。
「それで一眞どのは、どなたを捜しておられるのですか」
老女に問われ、一眞は奉公に出ていた親戚の娘が盗賊団にさらわれたと話した。こういう場合、細部の肉付けは最小限に留め、大筋では真実を述べておくのが得策だ。
縫は話を聞いて、さも気の毒そうな表情になった。
「親戚の娘さんがどこへ連れ去られたか、見当はついておいでで」
「いや皆目。さらったのが〈二頭団〉と名乗る連中らしく、北方のどこかに拠点があるというところまではどうにか突き止めたが」
こんな話を聞かせても、豪商の上品な隠居には何ら思うところもないだろう。
ところが縫は予想外の反応を見せた。
「〈二頭団〉ならば、酒匂郷ではよう知られております。宿場や盛り場を襲って洗いざらい盗み取り、人殺しや火付けもする悪辣非道の者どもとか」
打てば響くような返答を聞いて、一眞はしばし言葉を失った。まさかこの女が、無法集団についてこれほど詳しい知識を持っていようとは。もしかすると、まぐれで金脈を掘り当てたのかもしれない。
縫のうしろにちんまり座っている仁吉の様子も気になった。顔を伏せているが、驚きも露わに凝然と目を見開いている。何か思い当たる節でもあるのだろうか。
「ずいぶん詳しいようだが、〈二頭団〉とかかわりでも?」
「いえ、まさか」
老女は顔の前で手を振り、くつくつ笑った。
「ですが、酒匂郷のどこかに隠れ住んでいるという噂で、近在で夜働きをした話はたびたび耳にしております。わたしどもの店がある界隈は守りが堅く、幸いこれまで被害には遭いませなんだが、いつぞや隣町の商家が襲われたことも――」
彼女が最後まで語る前に、宿の主人が襖の外から療師の到着を告げた。
白衣を着た髭面の中年男とその助手らしき若者、宿帳を携えた番頭、所望された湯や布を届ける奉公人らが次々に入ってきて室内は満杯になり、それと入れ替わるような形で一眞と仁吉は自然に廊下へ押し出された。
「おい、小僧」一眞は仁吉とふたりきりになったのを幸いに、彼の上に屈み込んで低く囁いた。「おまえも〈二頭団〉について何か知ってるな。隠してもわかるぞ」
仁吉がぎくりとして、ぎこちなく顔を上げる。
「全部教えろ。どんな話であろうと、悪いようにはしない」
そんな約束など微塵も信じる気はないと言いたげに、仁吉はぐっと歯を食いしばって頑固そうな表情を見せた。だが目には怯えの色が窺える。
「それとも、あのばあさんにおまえと盗賊団の関係を訊こうか」
この脅し文句は効いた。仁吉は痛いところを突かれたように顔をしかめ、不安そうに視線をうろうろさせた。何か疚しい秘密があるに違いない。
「主人を巻き込むのがいやなら、さっさと話せ」
「大奥さまに迷惑かけたりしないで、すぐ行くなら――」
小僧は唇を震わせながらも、精いっぱい強がって一眞を睨んだ。
「それなら、教えてもいい」
おれを追っ払いたいんだな、と察して一眞は苦笑した。得体の知れない男を、大事な主人から早く遠ざけたいのだろう。こんな子供に、そうまで危険視されるほど悪人面をしていただろうか。
「行くさ」
「ほんとか」
「ああ」
仁吉はさらに少し迷ってから、しぶしぶ口を開いた。
「ずっと前に村を出てった八郎おいちゃんが、〈二頭団〉の仲間になってたんだ。おいちゃんは去年、母ちゃんの魂送りがすんだあとで村へ帰ってきて、おれに小遣いくれて、なんか困ったことがあったら巳扇山のねぐらを訪ねてこいって言った」
「その八郎ってのは、死んだ母ちゃんの兄弟か? おまえ盗賊の身内なのか」
仁吉の顔色がすうっと青くなる。
「言うなよ。大奥さまにはぜったい、ぜったい黙っててくれ。八郎おいちゃんが悪もんだって知られたら、おれ、お店にいられなくなっちまう」
まあ、それはそうだろう。大店は素性の怪しい奉公人など雇わない。身内に凶状持ちが出たと知られたら、すぐに里へ帰されてしまう。
「黙ってるさ。悪いようにはしないと言っただろう」
一眞は膝を折って仁吉の前にしゃがみ、渋いものでも噛んだように唇をゆがめている小僧の顔を覗き込んだ。
「巳扇山はどこにあるんだ」
「郷の東のほう」
「塒の場所は」
「おいちゃんは、山ん中にある洞穴だって言ってた。南の登山口からまっすぐ登ってって、岩を――〝べんそのおおいわ〟を越えて滝の右っかわへ行ったら入り口が見つかるって」
「弁疏の大岩?」
何か由来のありそうな名だとぼんやり考えながら、一眞はゆっくり腰を上げた。
まさに金脈。こんなところで、思いもしなかった特大の情報を掘り当てた。小僧の道案内はかなり大雑把だったが、目印がはっきりしているので、現地へ足を運びさえすれば塒を探し当てられる可能性は高い。
そしてもうひとつ。仁吉と話しているあいだに、一眞はこの上ない妙案を思いついていた。青藍の身柄と引き替えにできるものは、何も金だけとは限らない。そう割り切れば、もう追い剥ぎなどをしてちまちまと小金をかき集める必要もなくなる。
ここしばらくは負けが込んでいたが、ようやくツキが巡ってきた。そう思ってほくそ笑む彼を、緊張と疑心に満ちた目で仁吉がじっと見つめていた。
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