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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第三章 新たな火種
119/161

二十七 王生国天山・石動元博 恩師

 百武ひゃくたけ城での最終決戦に勝利した結果、黒葛つづら禎俊(さだとし)永穂なんごう国を除く西峽せいかい南部(なんぶ)のほぼすべてを手中に収めることとなり、この年ついに黒葛家歴代最大版図を築いた。

 六百年以上にわたり守り続けてきた本領の三鼓みつづみ国。

 ふたりの弟と共に手に入れた丈夫はせべ国と立身たつみ国。

 干戈かんか時代に祖先が征服した、南海のそよぎ島と久夛良木くたらぎ島。

 それらに守笹貫かみささぬき道房(みちふさ)の旧領江蒲(つくも)国が新たに加わった今、もはや黒葛家の支配領域は現在の大皇たいこう家である三廻部みくるべ家をもしのぐほどになっている。

 守笹貫家との戦いが一応の終結を見てから十日も経たずに、そのしらせは天山てんざんを駆けめぐった。

「禎俊公が勝利なさいましたよ」

 南部から来ている黒葛家の人質一行に第一報をもたらしたのは、預かり先となっている桔流きりゅう家の家人けにん椹木さわらぎ彰久(あきひさ)だった。それ自体は別に意外なことではない。この十二年間というもの、彼はずっと黒葛貴昌(たかまさ)と随員の世話役筆頭だったのだから。

「心よりお祝いを申し上げます」

 まだ朝も早いうちに〈賞月邸しょうげつてい〉を訪れた彰久は、理知的な顔に本心の読みづらい笑みを浮かべ、彼を居間に迎えた貴昌の前で丁寧に低頭した。その表情のまま、周囲に居並ぶ侍臣たちをゆっくりと見回す。

「皆さまもおよろこびのことでしょう」

 石動いするぎ元博(もとひろ)は敢えて目をらしていたが、探るような視線が自分の上にも注がれるのを感じた。いい話をする時も悪い話をする時も、彰久は常に相手の心の内にもぐり込もうとする。

「ご父君を、さぞ誇らしく思っておいででしょうね」

 そう問いかけられて、貴昌は控え目に微笑んだ。

「父が本懐を遂げたことを、息子として嬉しく思う。守笹貫家の打倒は、我が家にとって長年にわたる悲願だったから」

「詳細は続報が届いてからになりますが、最後の野戦と攻城戦は過去に類を見ないほど壮大なものであったとか」

 彰久がそう話して去った五日後、南部衆は桔流邸の主屋に呼ばれ、天山での貴昌の後見人である桔流和智(かずとも)から黒葛貴昭(たかあき)の病死を知らされた。戦神いくさがみの寵児、軍神とも称され、圧倒的な強さを誇った常勝将軍は耶岐島やぎしま合戦で華々しい勝利を挙げたあと突然の病に倒れ、百武城が落城したその日に息を引き取ったという。

「貴昭公は戦場いくさばに嫡子を帯同しており、最終決戦では彼が父に代わって陣頭に立ったそうだ」

 和智は広間ではなく私室である居間に南部衆を通し、葬送の宵のように低く声を落として話した。

「守笹貫道房の斬首にも立ち会ったとか」

貴之たかゆきが」

 貴昌は和智と向かい合い、すっと背筋を伸ばして形よく座っていた。叔父の死という思いがけない知らせに衝撃を受けたはずだが、動揺はほとんど外に表していない。

「彼はわたしへの年始の手紙に、父と共に初めての戦に出るのを楽しみにしていると書いていました」

「そうか」和智は火鉢で手をあぶりながら、つぶやくように言った。ずいぶん疲れているようで、目の下に青黒い隈ができている。「そなたのいとこには、初陣が大きな試練となってしまったな」

 ふたりの会話を遠く聞きながら、元博は自分が唖然とし、ひどくうろたえているのを感じていた。

 姉上は夫君を失ったのか――真っ先に脳裏をよぎったのはそのことだ。元博は姉の真木まきが貴昭公に嫁いでから一度も会っていないが、彼女がこの上ない伴侶を得て幸せに暮らしていたことは聞き知っている。夫婦仲は睦まじく、三人の子供に恵まれ、戦が続くあいだも領国は豊かで栄えていたと。だが彼女の境遇は今後、否応なく変わってしまう。姉はいま、どんな気持ちでいるのだろうか。

 次に頭に浮かんだのは貴之のことだった。これまで顔を合わせたことはなく、礼儀正しい手紙をやり取りしていただけだが、いつも心にかけていた若い甥。貴昭公の嫡子である彼は今後、その双肩に七草さえくさ家を背負わなければならない。和智公は初陣を試練と言ったが、本当の試練はむしろこれから始まるのだ。

「そなたらは南部へ帰れるだろう」

 和智の言葉がふいに耳へ飛び込み、元博は物思いからめて顔を上げた。神経質そうな細面ほそおもてに生真面目な表情を浮かべて、和智が全員を見渡す。

「十二年前に陛下が黒葛氏にしちを求められたのは、戦を始めさせぬためであった。その甲斐なく戦端が開かれた時点で、本来の目的は失われたも同然だったのだ。戦が終わり、守笹貫家が滅亡した今となっては、これ以上そなたらを天山に留めておく理由はない。長年の労苦をねぎらって帰国させるべきだと……明日にも登城して、わたしは陛下にそう申し上げるつもりだ」

 誰も声を立てなかったが、熱い興奮が空気を伝ってさざ波のように広がり、元博は隣にいる由解ゆげ宣親(のりちか)と思わず顔を見合わせた。いま〝帰国〟と言ったか――と、彼の丸く見開かれた目が問いかけてくる。 

 和智は非常に慎重な人物で、これまで南部衆の前ではっきり帰国という言葉を口にすることはなかった。いらぬ期待を持たせないためだろう。その彼がついに明言したということは、今度こそほんとうに希望を抱いていいのかもしれない。

 名家桔流家の当主であり、いわい城の主席家老である和智の大皇への影響力は絶大だ。彼は〝天山の懐刀ふところがたな〟と呼ばれており、酒と狩りと女色以外のことにはあまり興味を示さない君主に代わって、政道の大部分を受け持っている。その和智から強く進言されれば、勝元は南部衆を手放すことを少なくとも考慮してはみるだろう。

「大皇陛下はお許しくださるでしょうか」

 貴昌が穏やかに訊いた。心中にどんな思いがあるとしても、それは微塵も声に出ていない。

「帰すか殺すか、選択肢がそのふたつしかないとなれば、帰すほうを選ばれるはずだ。陛下は身内に対するような情愛をそなたに傾けておられる。人質に取った当初ならばいざ知らず、今さら危害を加えようなどとは思いも寄らぬだろう。ただ――」

 言いさして少し間を置き、再び口を開いた和智の目は真剣な色を帯びていた。

「帰国には何らかの……条件がつけられるやもしれぬ」

「条件とは」

「それはまだ何とも」

 嘘だ、と元博は直感した。和智公はすでにそれを知っている、あるいは予測している。

「いくつか無理難題を押しつけられるだろう、おそらく。円滑な帰国を望むなら、そのうちもっとも承伏しがたいひとつを快く受けれることだ。要求を何もかも呑む必要はないが、すべてを無下むげねつけて陛下の面目を潰してはならぬ」

「ご忠告に従います」

 少しも声を乱すことなくそう言って、貴昌は肩ごしに振り返り、元博らにちらりと笑みを見せた。


賞月邸しょうげつてい〉に戻ったあとも一行はそわそわと落ち着かず、誰からともなく自然に全員が貴昌たかまさの居間へ集まってきた。元博もとひろれた煎茶を飲み、桔流きりゅう家家老織恵(おりえ)國房(くにふさ)から昨日届けられたばかりの干菓子ひがしをつまんでいる間、少しばかり気詰まりな沈黙が続く。

 みな言いたいことがあるが、それを言い出すのをためらっている雰囲気だった。こういう時、真っ先に口火を切るのはたいてい真栄城まえしろ忠資(ただすけ)だ。

「もっとも承伏しがたいひとつ」

 彼は桔流和智(かずとも)の言葉をそのまま繰り返し、軽く肩をすくめてみせた。

「はっきり〝婚姻〟とおっしゃればよいものを」

 全員の口から、呻きともため息ともつかないものがもれる。それに加わらなかったのは貴昌だけだ。

「婚姻は承伏しがたいかな」

 彼は優雅な手つきで煙草たばこを吸い付けながら、どこかよそ事のようにつぶやいた。

「いつかはするものなのに」

「相手によりけりですよ、若殿」

 鼻息も荒く言ったのは由解ゆげ宣親(のりちか)だ。彼は役者のように端正な容姿をしているが、それとは裏腹に気性が激しい。

「どんな名家の姫君とのご縁も望めるご身分なのに、りにも選って〈天山の武者姫〉などと」

 三廻部みくるべ家の長女である亜矢あや姫は幼いころから男装し、剣を腰に差して城の内外をのし歩いていた。〈天山の武者姫〉はそんな彼女につけられた二つ名だ。当初は勇ましい姫君への親しみや尊崇の念を込めた愛称であったかもしれないが、年ごろになっても一向に行状の改まらない今は誰もが明らかに蔑称として用いている。

「身分のことを言うなら――」貴昌がのんびりと煙を吐きながら言う。「亜矢姫も、北部に隠れもない名家の姫君だよ。それに元博が白須しらす美緒(みお)どのから伝え聞いた話では、わたしのお相手候補は亜矢姫か妹君の沙弥さや姫かまだ決まってはいないようだし」

 どちらの姫君でも同じだ。大皇夫妻が企てているという、その縁組みについて初めて知らされた時のことを思い出しながら、元博は心の中で頑固なつぶやきをもらした。

 たしかに沙弥姫は、姉の亜矢姫に比べればずっとましと言えるだろう。母親によく似た繊細な美貌の持ち主で、深窓の姫君らしい気品と教養を備えている。気が優しく、生き物を可愛がるところは貴昌と共通しており、なにより沙弥姫は五歳年上の彼に憧れを抱きつつ敬慕しているらしい。

 貴昌のほうに異存がなければ、これは好ましい縁組みになるはずだ。だが元博は、あるじが三廻部家から妻を押しつけられるという構図がどうしても気に入らなかった。

 家のために長年にわたる天山での人質生活を堪え忍んできた貴昌には、故国へ戻った暁には最良の相手と結婚をして幸せに暮らして欲しい。身分柄、政略結婚になるのは致し方ないとしても、せめてその相手は彼が自らこの人をと望んだ姫君であるべきだ。

 当人の気持ちをよそに、勝手にこんな考えに固執してしまうのは、自分が運よく好きな人と思いを通じ合えたからだろうか。

「若殿――」

 ずっと黙ってやり取りを聞いていた随行長の黒葛禎貴(さだたか)が、考え深げな目をして口を開いた。

「大皇陛下から帰国の条件として縁談を持ち出されたら、若殿はそれをお受けになりますか」

「叔父上、それは……父上のご意向次第ですね。和平のために結婚せよとおっしゃるなら、わたしはそうします」

「お相手が亜矢姫であったとしても」

「言わずもがなですよ」

 天晴あっぱれな覚悟だが、貴昌ひとりが損をするように思えて、元博は気がくさくさするのを感じた。

「わたしは帰らねばならない」

 ふいに、貴昌が強い口調で言った。

七草さえくさの叔父上は黒葛家にとって、かけがえのない大きな存在だった。あのかたをうしなった父上には、今後ひとりでも多くの味方が必要となるだろう。信頼し、困難な仕事を託せる者が。だからわたしは一刻も早く帰国し、学び、父上の支えとならなければならない」

 毅然とした表情で語る主人を前に、誰もが自然に背筋を伸ばした。そんな元博たちを、貴昌が揺るぎない眼差しでじっと見据える。

「そのためには、どんなことでもするつもりだよ」


 星月せいげつなかばを過ぎ、厳しい天山てんざんの気候もようやく和らいだある日、元博もとひろは思いがけない人物の訪問を受けた。十三歳のころから剣術を教わっている師匠、月下部かすかべ知恒(ともつね)だ。

 彼はかつて亜矢あや姫の護衛を務めていたが、今は大皇たいこうの跡取りである六歳の嫡子利勝(としかつ)の筆頭警護役に任じられている。

 知恒が〈賞月邸しょうげつてい〉にふらりと現れたその夕暮れ、元博は前庭のジンチョウゲが放つ強い芳香に包まれながら、大きくなりすぎたユキヤナギを剪定していた。遠からずこの庭ともお別れかな――と思いながらも、見苦しく伸びた枝を放っておけないのは、おそらく性分なのだろう。

 白い小さな花がまだわずかに残る大株の根元にしゃがみ込み、天を突くように太く伸びた枝をり分けていた元博は、緑色の垂れ幕の向こうからふいに顔を覗かせた知恒に驚かされた。

「お珍しいですね」

 あわてて立ち上がる彼に、めったに笑みを浮かべることのない薄い唇をきゅっと引き締めて、知恒が軽くうなずいてみせる。

「祭堂へ参ったついでに立ち寄った」

「なにかご用でも?」

 用もないのに来るはずはない、という思いがある。彼はこの十二年というもの元博に辛抱強く剣を教えてはくれたが、それ以外の部分ではいっさいかかわろうとしなかった。四日に一度は本曲輪ほんぐるわ御殿の道場で一刻あまり稽古をつけてもらうが、その間に私的な会話を交わすことはほとんどない。知恒が積極的に話してくれるのは剣のことだけで、個人的なことは訊いてもはぐらかされるほうが多かった。

 そんな彼が自分から元博に会いに来るなど、前代未聞の出来事だ。ある意味、大皇の訪問を受けるよりも緊張する。

 ご用でも、と訊ねてからしばらく間が空いた。知恒は話をどう切り出すか、考えあぐねているように見える。

「あの、よろしければ中へ」

「ここでいい」

 元博の誘いを言下に断り、彼はどことなく遠い目をしながら、夕日を浴びている〈賞月邸〉の切妻屋根を振り仰いだ。

「ずっとこの館で暮らしているのか」

 予想外の質問に戸惑いながら、元博は自分も同じく視線を上げてのきを見た。

「はい。長く居座りすぎて厚かましくなったせいか、借家だということをたまに忘れそうになります」

 軽口にも知恒は笑わない。

「昔、何度か中に入ったことがある。だいぶ手狭だろう」

「はじめはそう思いましたが、すぐ慣れました」

 かすかな驚きを感じながら答える。

「七人で暮らすには充分です。あのう――この家に入られたというのは、知恒どのが亜矢姫の護衛に就かれ、わたしたちが暮らし始めたころよりもさらに前の話ですよね?」

「そうなるな」

「以前から桔流さまとおつき合いをされていたのですか」

「月下部の本家は、桔流家直参だ」

 あっさりと言い、彼は視線を元博に移した。

「おれは分家の次男だが、家の事情で幼少より本家に預けられていたから、伯父や年上のいとこに連れられて桔流氏の本城采華(うねはな)城によく出入りをしていた。和智かずとも公のご嫡男智規(とものり)さまや、弟君輝景(てるかげ)さまのことはご誕生時から存じ上げているし、たびたび遊び相手も務めていたので、おそれ多いが今は友人のひとりとして遇していただいている」

 思わぬ新情報に圧倒されながら、元博は食い入るような目をして真剣に聞き入った。そんな彼の熱中ぶりに釣られたのか、珍しく饒舌になった知恒が簡略に昔語りをする。

 采華城内で剣を習い、その道にけていることをやがて自身も周囲も知るようになっていったこと。

 天山へ来たのは彼が十七歳の時で、三廻部みくるべ勝元(かつもと)が大皇に即位した皇暦こうれき四〇〇年だったこと。

 即位の儀の余興としていわい城で開かれた上覧試合に出場し、六人を打ち負かして優勝したこと。それによって彼は大いに名を挙げ、客分の剣士として城に迎えられたのだった。

「二年ほどして正式に仕官が決まり、おれは三廻部家の臣となったが、桔流家のかたがたとの交わりはその後も途絶えることなく続いた。若殿がたが天山屋敷へ来られた際には、この離れ家で酒盛りをしたこともある」

「そんなこととは、まったく存じませんでした」

「こんな話を聞いて楽しいか」

 知恒は目を細め、意味ありげに元博を見た。

「おれの過去など、知りたがるやつはいない」

「それはどうでしょう。わたしと同じように、みな知りたがると思いますよ。あなたは謎めいたかただから」

 ほんの一瞬だったが、知恒の口角がわずかに上がった。そうやって表情をやわらげると、ふだんは峻厳さの奧に隠されている生来の顔立ちの良さが際立って見える。

 おや、この人は――。

 元博は彼を見つめながら、ふと記憶をまさぐった。

 今まで気づかなかったが、わたしの知っている誰かに似ているようだ。笑った時のあの唇の形。頬から顎にかけての繊細な線。さほど身近ではないが、しばしば目にする人の中に、こういう笑顔の人物がいた気がする。いったい誰だっただろう。

「謎などない」

 知恒がつぶやくように言った言葉で、元博のぼんやりした思考はたちまち霧散した。

「おれは単純な男だ」

「迷いのない剣をあなたは〝単純〟という言葉で表されますが、ご自身はかなり複雑なかただと思いますよ。長年教えを受けてきましたが、心の底を見透みとおせたと感じたことは一度もありませんでした」

 鼻で笑われるかと思ったが、知恒は物憂げに目をらしただけだった。

「底は見せぬようにしている。臆病だからな」

「まさかそんな、臆病だなどと」

「おまえは、おれとは正反対だ。心を隠さず、どんな思いも素直に表に出す。純朴で誠実で、ある意味とても強い人間なのだろう。剣のほうは――残念ながら、たいして強くはならなかったが」

 がっかりすべきところだが、元博はつい笑ってしまった。

「ずいぶんお骨折りいただいたのに物にならず、申し訳ありませんでした」

 謝りながら、彼は自分たちがすでに師弟関係が終わったかのように話していることに気づいていた。嫡子の警護役として大皇の近くにいることも多い知恒は、南部衆の帰国について何かしらもれ聞いているのだろう。

 別れの日は近い。口には出さずとも、互いにそう思っていることがわかった。

「物にならなかったとまでは言わん。斬撃はいささか軽いが俊敏だし、反応の良さもそこそこだ。元博、おまえは人を斬ったことがあるか」

 突然の問いかけに面食らい、元博はちょっと言葉に詰まった。

「あり……ません」

「斬れるか」

 どうだろう。斬れるはずだ。そのためにずっと稽古をしてきたのだから。だが頭で想像するのと、実際に人の体に刃を入れるのとでは大きな差があるだろう。その瞬間が訪れた時、自分が断固として刀を振り抜くことができるという確信はない。

「斬れると思いたいですが、正直わかりません」

「おれを信じているか」

 今度の問いも不意打ちだったが、元博は答えに迷わなかった。

「はい」

「おれの教えた剣を」

「はい」

「ならば斬れる」

 知恒はきっぱりと言い切り、まっすぐに元博を見据えた。

「技は伝えた。それはもうおまえの中に浸透している。だから斬るべき時が来たなら、何も考えずにただ剣を振れ。己を疑っても、おれの剣は疑うな。そうすれば必ず斬ることができる」

「はい」

 呼吸ひとつぶんの間が空き、目の前にいる知恒の姿がふっと横にぶれた。視界の端で何かがきらめく。抜いた――そう察するより早く、元博は腰を落としながら脇差しの柄に手をかけていた。

 一条の光芒とともに鞘走った白刃が斜めに跳ね上がり、知恒の右首筋まで二寸を残して静止する。同時に、知恒が上段から振り下ろした大刀の刃は元博の眉間すれすれで止まっていた。

 見下ろす知恒の視線と、仰ぎ見る元博の視線がゆるりと交わる。

 それを合図に双方身を引き、刀を鞘に収めた。

「これをもって指南は終了とする」

 知恒が静かに言い、元博は形を改めて深々と頭を下げた。

「本日までの長きにわたり、懇篤こんとくなるご指導ご鞭撻べんたつを賜りましたこと、まことにかたじけのうございました」

 寂しい。

 知恒の爪先のあたりを見つめながら、胸中をかすめたのはその思いだった。

 決して親しくつき合ってきたわけではない。言葉を交わすよりも、剣を交わすほうが多かった。それにもかかわらず、彼とは充分に語り合ったような気がする。

 もう会えないのだろうか。わたしたちの縁はこれで終わってしまうのか。

 顔を上げると、予想外に穏やかな知恒の眼差しに迎えられた。

「門まで送ってくれるか」

 意外な申し入れに驚きながらも、元博は即座に承諾した。

「はい、喜んで」

 庭園内を抜けて脇門へ向かう苑路を、ふたりはしばらく黙ってゆっくりと歩いた。中央の大きな池を回り込み、爽やかな風が吹き抜ける竹林を通って、桔流家自慢の桜並木へ。道の脇に立ち並ぶ堂々とした桜の木は、両側から長く伸び交わした枝にかすかな芽吹きの気配を見せている。

「わたしが初めてこちらへ来た時」

 元博は頭上に視線をやり、懐かしさを感じながらしみじみと言った。

「ここの桜はもう半ば咲きかけていました。でも今年は、花を見られないかもしれません」

「南部の――故郷ふるさとの桜はもう終わっているか」

「はい。故国くにでは桜は桃月とうげつも半ばを過ぎると咲き出し、半月もすれば満開になって、すぐに散り始めます」

「今年はあきらめ、明くる年の楽しみとすることだな。それもまたよかろう」

 どことなくおもむきのある、知恒らしからぬ言説に思われて笑みを浮かべたところで、元博は先ほどからずっと心の片隅にひっかかっていた疑問を思い出した。

「知恒どの、指南を終わりにするという話をするためだけに、今日はわざわざいらしてくださったのですか。二日前に道場で稽古をつけていただいた時でもよかったでしょうに」

 知恒は返答までに間を置き、桜並木の中央あたりまで黙って歩いたところで足を止めた。視線を左右に流し、軽く辺りの様子を窺ってから、ようやく口を開く。

「天山に味方はいるか。武家ではなく、下層の曲輪くるわに住む市井しせいの者の中に」

 またしても唐突な問いだ。元博はどきりとしながら、五の曲輪で町人を装い羅宇らう屋を営んでいる空閑くが忍びの政茂まさしげを思い浮かべた。だが、まさか彼の存在を知恒に知られているとも思えない。

「市井にも多少のつき合いはありますが、友人や味方と呼べるような者はおりません」

「七の曲輪、大手道側の曲輪門近くに――」

 知恒は元博に一歩近づき、声をひそめながら言った。

小祭宜しょうさいぎがひとりで堂守りをしている小さい祭堂がある。呉羽くれは堂司(どうし)といって、年はおまえと同じぐらいだ」

 いったい何の話だろう、と思いながらうなずく。

「はい」

「いずれここを去る時、山を下る途中でもしも何か不都合が生じたなら、その祭堂を訪ねるといい。話は通しておいたので、おれの名を出せば堂司は黙って力を貸してくれる」

 はっと目をみはり、元博は知恒の顔を凝視した。

「大皇陛下のお許しを得て帰国のにつくなら、南部衆はここで所縁ゆかりのあった人々に華々しく見送られて、何ら問題なく天山を後にすることができるはずだ。だが、何ごとにも絶対はない。無事に故郷の地を踏むまで、ゆめゆめ警戒を怠るな」

「知恒どの……」

 まさかこの人から、こんなにも思いやりのある配慮を受けようとは。

 胸が震え、目に熱いものがこみあげてきた。だが師匠の前で女々しく泣き出すわけにもいかない。元博は目縁まぶちから涙がこぼれてしまう前に急いで頭を下げ、素早くまばたきをして雫を払った。

「わたしどものため、これほどまでにお心を砕いてくださり、感謝の念にえません。いつか必ずご恩に――」

「よせ、恩などと……大げさな」

 知恒はぶっきらぼうに言葉尻を遮り、さっと背を向けた。大股に歩き出した彼のあとを、まだ目をうるませている元博があわてて追う。

 そのまま、脇門までの残りわずかな距離をふたりは黙って歩き、番士に扉を開けてもらって通りへ出たところで一度足を止めた。

「別れは言わん」

 すでに目線よりも低くなった入り日を引き締まった頬に受け、そっぽを向いたままで知恒が低くつぶやく。

仰々(ぎょうぎょう)しく挨拶を交わしておいて、城内でまた顔を合わせたりしたら間抜けに思えるからな」

 たしかにその可能性はある。元博がくすりと笑うと、彼はようやくこちらを見て軽く会釈をした。

「では」短くひと言残して、すぐにきびすを返す。

 きっと、彼は振り返りはしないだろう。そう思いながらも元博は深く低頭し、歩き去る恩師を長いあいだその場で見送っていた。


賞月邸しょうげつてい〉へ戻る前に、前庭の西の端にある小屋へ寄ることにしたのは、ふとした思いつきからだった。そこには庭園の花を管理している九兵衛きゅうべえ老人が住んでいる。彼に頼めば、花壇を荒らす蛞蝓なめくじの駆除薬を分けてくれるに違いない。

 番小屋で首尾よく椿油の油かすを手に入れた元博もとひろは、ふだんはあまり通らない裏門寄りの道を選んで〈賞月邸〉へ引き返した。モミとマツの大木に囲まれたその長い道はひときわ暗く、出口のあたりが発光しているように白く輝いて見えるところは隧道ずいどうを思わせる。

 あと少しで林道から出るというところまで来て、彼ははっと足を止めた。庭園をめぐる小川と苑路を隔てた向こうに、離れ家の裏手の雑木林が見えている。その中に朋輩の玉県たまかね吉綱(よしつな)と、牢人ろうにん者らしい風体ふうていをした男の姿があった。

 あの男――。

 にわかに胸がざわつきだした。吊り上がった細い眉と、特徴的な鷲鼻には見覚えがある。口角の下がった頑固そうな口元にもだ。前に見た時には、手ぬぐいで頬被ほおかぶりをしていたように思う。

 空閑くが忍びの政茂まさしげと一緒に逃走経路の確認をした日、三の曲輪くるわの裏路地で椹木さわらぎ彰久(あきひさ)と連れ立っているところを見かけた男に違いない。

 元博はその時、名家桔流(きりゅう)家の家人けにんと、どこか胡散臭うさんくさい牢人者との組み合わせに違和感を覚えてあとをつけ、亜矢あや姫の取り巻きのひとりである杵築きづき正毅(まさたけ)の屋敷に入っていくところを目撃したのだった。

 三人のつながりは未だによくわかっておらず、牢人に至っては在所はおろか名前すらもつかめていない。正体不明のあの男を、まさかこんなところで再び目にしようとは。

 距離があるので声はまったく聞こえないが、牢人は吉綱に顔を寄せて何か伝えているようだ。話し終えると彼は懐から取り出した封書のようなものを手渡し、さらに念押しするようにふたこと三言みこといってから、雑木林を出て大股に歩き出した。林道のほうへ向かってきているのは明らかで、このまま留まっていると出くわしてしまう。

 元博は急いで道を引き返し、途中で横へれると、藪の中を無理やり突っ切って林道の外へ出た。牢人は木々の隧道に入ったらしく、すでに姿は見えない。

 それでもいちおう身を屈め、庭園内に配された岩組みに隠れながら、元博は〈賞月邸〉を目指して一目散に駆けた。

 牢人と別れた吉綱はかまちつかえそうなでっぷりした体を揺すりながら、のろのろと玄関を入っていくところだ。これから自室へもって、先ほど渡された封書を読むのだろう。その内容を何としても知りたい。

 吉綱から少し後れて離れ家に飛び込んだ元博は、まっすぐに黒葛つづら貴昌(たかまさ)の居間へ向かった。ここは是が非でも主人に協力してもらわなければ。

 開いているふすまの陰から声をかけて入ると、幸い貴昌は部屋にひとりでおり、息を切らして現れた元博を不思議そうに見やった。

「どうした」

 穏やかに訊く彼の手は、書見台に置いた本の開きを押さえている。

「若殿」元博はごくりと唾を飲み、貴昌の傍まで膝行しっこうして低く囁いた。「吉綱どのをお呼びになり、しばらく引き留めていてくださいませんか」

 何のために、と訊く手間を貴昌は省いた。

「いかほど」

「可能なかぎり長く」

「わかった」落ち着き払って承諾し、彼は少し声量を上げて言った。「元博、吉綱をここへ。訊ねたいことがある」

「はい、すぐに」

 感謝いたしますと目顔で伝えて、元博は廊下へ出た。足早に吉綱の居室へ向かい、閉じられた襖の外から呼びかける。

「吉綱どの、若殿がお呼びです」

 うむとも、ふむともつかない唸り声のようなものが室内から聞こえ、さらにかなりの間を置いて、ようやく吉綱が襖を引き開けた。はち切れそうにまん丸な顔が少し上気し、額には小さな汗の粒が浮かんでいる。

「若殿がわたしを?」

「何かお訊ねになりたいことがおありとか」

 一瞬だが、吉綱の視線が左へれた。顎に力が入り、太い首筋にうっすら腱が浮く。肩ごしに振り返りたい衝動をこらえているようだ。部屋の中が気になっているらしい。急に声をかけられたので、先ほどの封書を片づけきれなかったのだろうか。

 だが、主人の呼び出しに応じないわけにはいかない。

あいわかった」

 ぼそぼそと言って部屋を出ると、彼は慎重な手つきで襖をきっちり閉めた。元博やほかの者たちは日中、自室の入り口は開け放しにしているので、わざわざ閉め切るところに何となく怪しさを感じてしまう。

 吉綱は左右に揺れながら廊下を歩いていき、突き当たりで右へ曲がった。貴昌の居間があるほうへ、足音がゆっくり遠ざかっていく。元博ははやる胸を押さえながら少し待ち、もういいだろうと思われたところで部屋の中へそっとすべり込んだ。廊下を誰かが通りかからないともかぎらないので、襖は元どおりに閉めておく。

 館の北側の八畳間は整然と片づいていた。調度といえば窓際の文机ふづうえとその横の小箪笥こだんす、隅に置かれた長持ちぐらいだ。

 元博は文机に近づき、紙類や本などを手にとってあらためた。文面が書きかけのまま止まっている、友人か誰か宛とおぼしき手紙が一通。何かの覚え書きらしい、半端な大きさの紙が二枚。『浮世(だな)』と表題のつけられた本も開き、念のために紙の間を一枚ずつめくって調べたが、特に気になるようなものは挟まれていない。

 机の上を元どおりにした元博は、次に小箪笥の引き出しをひとつずつ開けていった。中に入っているのは細々《こまごま》とした日用品ばかりで、やはりここにも先ほどの封書は見当たらない。いったい吉綱はどこに隠したのだろう。もしも身につけて行ったのだとしたら、この行為自体が無意味なものと化してしまう。

 成果が上がらないまま時だけが過ぎ、彼は次第に焦り始めた。貴昌が吉綱を引き留めていられるのも、そろそろ限界かもしれない。

 あきらめるしかないか――と唇を噛みながら腰を上げかけて、元博はふと床に視線を落とした。文机の前に敷かれた円座の端から、白いものがほんのわずかに覗いている。藺草いぐさ編みの敷物をめくり、その下を覗き込んでみると、懸紙かけがみでぞんざいにくるまれた手紙が現れた。

 吉綱は封書を開いて読み始めたところで呼び出され、あわてて敷物の下にそれを隠したらしい。

 にわかに動悸が激しくなるのを感じながら、元博は手紙をそっと抜き出して広げてみた。非常に小さい、丁寧な文字で何やら長々と綴られている。残された猶予はわずかと思われる今、とてもではないがすべてを読み下すことなどできはしない。

 そこで彼はまず末尾に目をやり、後付あとづけ部分を確認した。


  皇暦こうれき四二二年

    梅月ばいげつ廿(にじゅう)二日 會田あいだ永一郎(えいいちろう) 花押


   玉県吉綱様


 差出人は會田という人物のようだが、元博には覚えのない名前だった。吉綱の周辺をすべて知っているわけではないが、これまで彼との関係で會田という人のことが話に上ったことはなかったように思う。

 誰からの手紙かはわかったが、知らない人物では内容を推量する手がかりにはならない。

 落胆のため息をつき、さらに強まる焦燥感にき立てられながら、元博は本文のほうに意識を移した。文章を読もうとするのではなく、引っかかりを感じる単語や名前を拾い上げるつもりで、上下、左右、斜めに視線で文字をめていく。

 それを二度ずつ繰り返したところで、ふっと目に飛び込んできた名前があった。こちらには覚えがある。その部分に集中し、前後の文章を素早く読んだ。


  なおかねて申し合わせの通り、仕掛けは富久ふく御指図(おさしず)に従い遂行のこととあい決まりそうろう


〝富久様〟

 胸に痛みが走るほど鼓動が強くった。

 黒葛つづら宗家の奥方。貴昌(ぎみ)の義母。玉県家の長女で、吉綱の姉。

 なんということだ――。

 元博は愕然としながら、もう一度同じ箇所を読んだ。見間違いではなく、やはり〝富久様〟とはっきり書かれている。その名前と共に綴られた一文から、彼は言いしれぬ脅威と不穏さを感じ取った。

 こうなると、そのほかの部分もすべて読んでしまいたいが、もう時が尽きかけているのをひしひしと感じる。いっそ持ち去ってしまおうかとも思ったが、もし吉綱が「手紙が消えた」と騒ぐようなことがあれば、厄介な成り行きになるのは間違いないだろう。残念だがここはいったんあきらめ、後日あらためて盗み読みの機会をつくるほかない。

 元博は震える手で手紙を元のように巻き、懸紙の中に差し込むと、その上に円座をかぶせて立ち上がった。

 廊下に人の気配がないことをたしかめてから部屋を出て、音を立てないように襖を閉める。幸い吉綱が戻ってくる前に退室できたが、これから大急ぎで心を鎮め、何食わぬ顔をして彼と貴昌の前へ出なければならない。

 だが表情は取りつくろえても、気持ちを落ち着かせるのは難しかった。いま知ったばかりのことが、頭の中をぐるぐると駆けめぐっている。

 大皇息女三廻部(みくるべ)亜矢。

 亜矢姫の友人、杵築きづき正毅(まさたけ)

 正毅と密会していた椹木彰久。

 貴昌(ぎみ)随行家臣、玉県吉綱。

 そして宗家の奥方、黒葛富久。

 信じがたいことだが、南部からと思われる手紙を届けに来たあの牢人者が合間を埋めたことで、これらの人々がひとつにつながった。

〝仕掛けは富久様御指図に従い遂行〟とは、はたして何のことだろう。人目を忍んで会ったり、密書を交わしたりしながら、彼らはいったいどんな企みを成そうとしているのか。

 ようやく念願の帰国が叶おうかというこの時に。

 息を詰め、重い足取りで貴昌の居間へ向かいながら、元博は胃のを絞られるような不安とおののきを感じていた。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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