二十五 江蒲国百武郷・黒葛貴之 元服
座敷に居並んだ人々が咳きひとつ立てることなく見守る中、黒葛貴之は威儀を正して首座についた。
対面にいる伯父の黒葛禎俊が腰を上げ、ゆっくりと前に進み出てきて、捧げ持った烏帽子を恭しく頭に被せる。顎の下で掛緒を結ばれるあいだ、貴之は無意識に息を殺していた。
小さいころから目をかけてもらっていた伯父とはいえ、こうした場で宗主と向き合うのはやはり気が張るものだ。
互いに深く一礼し、加冠の儀が恙なく終わると、ようやく彼はほっとひと息つくことができた。
このあとは大広間に座を移し、戦勝の祝いも兼ねた大祝宴が行われることになっている。
「御屋形さま、本日はこのように立派な元服の式典を催していただき、まことにかたじけのうございました」
列席の重臣たちがぞろぞろと退出していく脇で、形をあらためて禎俊に礼を述べると、伯父は目尻に皺を寄せながらうなずいた。
「烏帽子親を務めたからには、わしとおまえはもはや親子同然だ。これよりのちはわが子と思うて後見し、引き立ててゆく。父に代わって七草家を背負うこととなり、数多の不安や重圧を感じていようが、何かあれば遠慮なくこの伯父を頼るがよい」
そこで少し言葉を切り、彼はしみじみと貴之を見つめた。
「凛々しい出で立ちだ。おまえのこの姿を、できることならば貴昭にも見せてやりたかった」
そうつぶやく眼差しに、深い哀しみがにじんでいる。
「あいつは抜け目のない男でした」
もうひとりの伯父、寛貴が横から口をはさんだ。
「自慢の総領の晴れ姿を見逃すはずはない。祝い酒でも食らいながら、天の原より満悦顔で見守っておりましょう」
貴之は微笑み、畳に両手をついて低頭した。
「寛貴伯父上にもお礼を申し上げます。この日のために急ぎ支度を調えてくださり、かたじけのうございました」
守笹貫道房を倒して奪った百武城で貴之を元服させるというのは、黒葛軍総大将の禎俊伯父が意気揚々と城下へ乗り込んできてからにわかに決定したことだった。
黒葛家配下の主要な武将たちがそれぞれの国へ帰って行く前に、彼らが一堂に会する場で大人の仲間入りをさせ、七草家が代替わりしたことを周知させるのが目的だろう。
急に決まった元服なので何の用意もなかったが、世話役を引き受けた寛貴伯父が礼装の大紋をはじめ、必要なものを何もかもわずか数日のうちに手配してくれた。
「甥をみすぼらしい形で元服させるわけにはいかん」
寛貴が真面目くさって言い、また貴之を少し微笑ませる。
「さて、そろそろ移るか」
禎俊が腰を上げると、寛貴もそれに続いた。
「少し休んだら広間へ顔を出し、挨拶回りをするようにな」
そう言い残して伯父たちが出ていくと、座敷にいるのは母方の親族である祖父石動博嗣と叔父の博武、馬廻筆頭の柳浦重益ら七草衆だけになった。列席を望む者は大勢いたが、とても全員は部屋に入りきれないので、貴之自身が熟考の上で選んだ代表者たちだ。
外から襖が閉められると、貴之は彼らの傍へ行って腰を下ろした。
ふと見ると、重益が目の縁をほんのり赤くしている。
「泣いていたのか?」
「泣いてなどおりません」
憮然と否定する彼の横で、家老の真栄城修資がくすりと笑った。
「おや、おかしいな。こっそり洟をすするのが聞こえたようだったが」
からかわれて押し黙る重益を、最年長者の石動博嗣が鷹揚に微笑みながら擁護する。
「いや無理もない。たいそう厳かなよいお式で、わしも思わず熱いものが込み上げました」
「まさか郡楽の御屋形さまと寛貴さまが、おふたりそろっての肝煎りで元服させてくださるとはな」
博武が感心したように言う。
「そんな光栄に与った者など、ほかにはおらぬだろう」
「おれも驚きました」
貴之は大紋の幅広い袖を膝の上に載せ、白い絹糸で大きく刺繍された黒葛の家紋を見つめた。
「元服式は七草へ戻り、父の葬儀を済ませたあとでと考えていましたし」
こうした儀式自体に、正直たいしてこだわりはない。家族と重臣を十人ばかり集めてこぢんまりと行い、烏帽子親は叔父の博武か城代家老の花巌義和に頼むつもりだった。
尊敬するふたりの伯父がこれほどまでに気づかってくれたのは嬉しいが、自分には過分なことのようにも思える。
「まあ、せっかくのお志だ。ありがたくお受けして、今後の働きでご恩に報いればいい」
叔父がもっともなことを言い、貴之は素直にうなずいた。
「そうします」
「ところで、若――」真栄城修資が呼びかけ、一瞬詰まって言い直す。「いや殿。名跡の相続はお認めいただけたようですが、知行のことも宗主より何かお話がございましたか」
「本領安堵とのことだ」
部屋のあちらこちらから、ほうっと大きくため息がもれる。
「それから耶岐島合戦と百武城での最終決戦に功ありとして、加増六十万石のお墨付きをいただいた」
「六十万」
ぎょっとした顔で修資が繰り返し、誰もがついたばかりの息を鋭く呑んだ。代替わり後も転封がなければそれで御の字と考えていたので、思いがけない大加増にみな度肝を抜かれたようだ。
懐に入れていた朱印状を修資に手渡すと、彼は真剣な面持ちで文面をゆっくりと読み、最後まで目を通してからもう一度読み直した。折り紙を捧げ持つ両手が強張っているように見える。
「――たしかに」
念入りに確認し終えると、彼は文面の一部を読み上げた。
「新たな知行地は立州、平州、王州の三国と国境を接する、江州東部の十六郷九百九十八箇村」
「飛び地でないのはありがたいな」博武がほがらかに言った。「ただ、北の守りがこれまでよりも難しくなるだろう。立天隊の拠点を江州内にひとつ置くべきやもしれん」
早くも先のことを考え始めている叔父を頼もしく思いながら、手から手へ渡されて戻ってきた朱印状を仕舞っていると、修資が再び問いかけた。
「殿、いまひとつ。今後の立身国差配について、宗主は何かおおせられましたか」
「先代同様に国主代行を務めよとのおおせだった。ただし目付役がつくらしい。これから五年間、おれが十九になるまでだ」
貴之にとっては加増よりも、立州差配を七草家で引き継がせてもらえたことのほうが意外だった。元服したてで知識も経験も足りない自分に、いきなりそんな大役が務まるとはとうてい思えない。
その心配を率直に伝えると、修資は少し考えてから用心深い口ぶりで言った。
「むろん宗主も、殿がすぐに差配をこなせると考えてはおられますまい。そのための目付役であり、学びと成長のための五年間なのでしょう」
「それで、どなたがお目付役に」重益が訊いた。
「旦部黒葛家の俊宗どのだそうだ」
旦部家は七草家よりも格下の分家で、当主の黒葛公貴は亡父貴昭の叔父にあたる。目付役に決まった俊宗はその公貴の嫡男なので、貴之から見た続柄は〝いとこ伯父〟だ。
これまであまりつき合いはなかったが、耶岐島合戦への援軍に加わった際、数日間共に行軍したことでなじみができた。まだよく知り合ったわけではないので人柄はいまひとつ掴めていないが、少しばかり言葉を交わした印象では端正な人物だと感じている。
「俊宗どのですか」
ふうむ、と唸り声を上げたのは祖父の博嗣だ。
「爺さまは、彼のことをよくご存じなのですか」
貴之が訊ねると、博嗣は白い顎髭を指で弄びながら答えた。
「さよう……旦部郷は我が家の所領から山ひとつ越えたところにございましてな。今のご領主の公貴公には、折りに触れて酒の席や狩りなどにお誘いいただいております。嫡男の俊宗どのがお産まれになったのは、ちょうどわしが元服した年のことでした」
「では幼いころから見知っているのですね」
「はい。彼は利発で性情温和、骨惜しみをせぬ働き者です」
博嗣はそこで少し声を抑え、慎重に先を続けた。
「ただ、いささか金遣いの荒いところが玉に瑕で」
「いったい何に浪費を」
「衣服、美食、それから――」咳払いをひとつ。「女子ですな。男ぶりがよいので、それはそれはもてるのです」
祖父の横で、博武がにやりとした。俊宗の〝玉に瑕〟を聞き知っているのだろう。彼は呑気な態度だが、ほかの者たちは心中複雑そうに顔を見合わせている。
「とはいえ、大方のところは申し分のない人物ですぞ」
博嗣があわてて言い添えた。
「ご一門さまでもある俊宗どのが補佐をするとあらば、貴之さまの国主代ご就任に異論を唱える者はおりますまい」
御屋形さまは代替わりで七草家の支配力が弱まるのを見越し、先手を打とうとなさっているのだな――と、貴之は祖父の言葉を聞きながら思った。
分不相応に立派な元服式もそう。
宗主自身が烏帽子親となり、丈州国主代の寛貴伯父が先頭に立って式典の世話役を務めたのもそう。
目付は実績ある大人であれば支族の誰かでもよかったはずなのに、わざわざ血族の中から選んだのもそう。
未熟な分家当主を格好の獲物と考えて、何か大それたことを企みそうな野心家たちに、黒葛貴之には手を出すなと暗に伝えているのだ。頼りない子供に見えるが、そのうしろには強大な黒葛一門がついている、と。
悲願の南部統一がようやく成ったこの時期に、七草家が立州の統治権を失うようなことは決してあってはならない。それは貴之にもわかる。
三国支配――江州が増えて今後は四国支配となるわけだが、ひとつの家が複数の国を治めるのも、それを維持し続けるのもほんとうに大変なことだ。
「江州はどうするのかな」
ふと気になってつぶやくと、みなが怪訝顔をした。その中で博武だけは、先ほどの話の流れから貴之が思考をどう展開させたか理解しているように見える。
「それは、やはり貴昌さまだろう」
訳知り顔な叔父の言葉で、ほかの者たちも腑に落ちた表情になった。
「江州の国主代を誰にするか、という話ですか」
重益に問われ、貴之はこくりとうなずいた。
「おれを無理にも立州差配にするぐらいだから、御屋形さまは江州にも身内の誰かを置きたいのだろうと思ったんだ」
「そのことなら、博武どのの申す通りかと。貴昌さまが天山から戻られたら、同じくご一門のどなたかを補佐につけて国主代行に任じられるでしょう」
彼は言葉を切り、まばたきをひとつしてから微笑んだ。
「早くお会いになりたいのでは?」
心を読んだように訊く。
「そうだな。貴昌さまとはこれまで文をやり取りするだけだったから、いろいろなことをお話ししてみたい。あのかたは――顔を合わせたこともないのに変な話だが、なぜか身近に感じるんだ」
「少しも変ではありませんよ。たいしてつき合いがなくとも、親類というだけで漠然と親近感を抱くのはよくあることです。まして同性のいとこというのは、兄弟に次いで親しみ深い存在ですしね」
「親しみ深い、か」
天山から届く貴昌の手紙には、いつも金銀箔や雲母などの〝華〟を梳き入れた美しい紙が使われている。手蹟は流麗でやや細く、文面は丁寧でありながら堅苦しさはなくやわらかだ。そんな手紙を送ってくる人はきっと嗜み深く、風雅を解する心を備えた人物に違いない。
田舎育ちで洗練に欠ける自分とはまるで違うが、それでも何か通じ合えるものがあるように思うのは、やはり重益が言うように彼が血縁だからなのだろうか。
そういえば俊紀とも、気性は違うが昔から仲はいい――。
もうひとりのいとこが、ふっと頭に浮かぶ。するとにわかに、彼が元服の場に列席していなかったことが気になってきた。同じ陣中にいるのに、思えばここ数日はあまり言葉も交わしていない。
最終決戦のころから俊紀はどことなく鬱ぎがちで、不機嫌そうな顔をしていることが多かった。父を亡くした自分への遠慮から身を慎んでいるのだろうと思っていたが、どうもそれだけではないようだ。
ここしばらくは多忙すぎて気配りする余裕もなかったが、今日は話を聞いてやろう。貴之はそう思いながら、すでに盛り上がっているに違いない酒宴に顔を出すため腰を上げた。
五百年の歴史を誇る百武城は、南部一との呼び声高い名城だ。表御殿は遠侍、式台、大広間、書院の四棟の殿舎から成り、最大の殿舎である大広間は華麗な座敷飾りを設えた上段の間と、全面に畳を敷き詰めた三室で構成されている。今夜はそのすべてが開放され、勝利の味と美酒に酔いしれる人々で埋め尽くされていた。
襖や障子戸はみな取り払われており、篝火を盛大に焚いて昼間のように明るくした庭園を廻縁の向こうに望むことができる。
貴之は顔見知りの武将から順に挨拶をして回り、方々で元服を祝う言葉を雨のように浴びせられた。数日前、ついに父の死を公表した慰霊祭でお悔やみの言葉をかけてくれた人々から、その記憶も真新しいうちに今度は祝辞を聞くというのも何やらおかしな気分だ。
座を移すたびに勧められる酒を律儀に干していると、愛想のいい顔で気の利いた受け答えをするのがだんだん難しくなってきた。すぐ目の前で交わされている会話が、なぜか遠く感じられる。酔いが回る前触れかも知れない。
醜態を演じないうちに、少し休んだほうがよさそうだ。
そうは思っても、盛り上がる人々の中から抜け出すのは簡単ではなかった。庭を目指して廻縁に一歩近づくたびに、誰かに袖を引かれて小集団の輪に入らされる。そこでまた一杯、次の小集団でさらに一杯と盃を重ねた貴之は、ようやく庭に下り立った時には足がいくらかもつれていた。
静かな場所を求めていたが、大広間の賑わいは庭園内にもあふれ出している。篝火に妖しく映える緋毛氈をかけた縁台も、美しく整えられた芝生も、樹間に覗く瀟洒な四阿の数々も、思いおもいに酒盛りを楽しむ人で埋め尽くされていた。へたに近づくと、またぞろ捕まって飲まされてしまうだろう。
貴之は明かりから顔を背けるようにしながら、遣り水に沿った苑路をゆっくり辿って庭園の奧を目指した。小川は突き当たりで大きな池に合流しており、対岸から向こうにはあまりひと気もなさそうだ。
しばらく歩いていると篝火や飾り提灯の数が減り、酔い騒ぐ声も遠くなってきた。池の水面は静穏で墨を流したように黒く、空に浮かんだ十三夜月がくっきりと映り込んでいる。その銀色の月影を見ながら水の畔を半周すると、彼は築山の麓に据えられた舟石を回り込んで、背景を成している樹林へ入っていった。
マツやアラカシ、ムクなどがびっしりと植えられた林の中は暗いが、林道にはところどころ、木漏れ日のように月の光が落ちている。ちらちらと揺れるその動きを心楽しく感じて足を止めると、藍色をした闇のどこかからヨタカのさえずりが聞こえてきた。そのあいだに混じる人の口笛に似た音はトラツグミの鳴き声だろう。
貴之は大きく息をつき、苑路を外れて林の中へ少し分け入ると、自然物のようにさりげなく配された石組みを見つけて腰を下ろした。酔いはだいぶ醒めたようだが、代わりに少し眠くなりかけている。とはいえ、こんな場所で寝てしまうわけにはいかない。しばらく休んだら、誰かが捜しに来る前に戻ったほうがいいだろう。
葉擦れと、鳥の声と、どこか近くにあるらしい滝の音を心地よく聴きながら、貴之は柱石に寄りかかって目を閉じた。熱っぽい肌を涼風がなでていき、体からすうっと力が脱ける。
繭にでも包まれたような安らぎを感じ、これほどくつろいだ気分になったのはいつ以来だろうかとぼんやり考え、それがいつだったかにわかには思い出せないことに彼は軽い驚きをおぼえた。
伯父の元で初陣に臨むため、由淵陣へ赴いたころはまだ屈託がなかったように思う。気持ちは引き締まっていたが、張り詰めてはいなかった。そのあと、守笹貫本軍が父のいる耶岐島陣へ向かったという知らせを聞いた――そう、おそらくあの時からだろう。心が強張り、ゆとりを失い、以来ずっと神経を尖らせたままでいた気がする。
だがそれはある意味で芯となって、ともすればくずおれそうな心と体を支えてくれてもいた。
みなの前では泰然としている――少なくとも、そう見られるよう精一杯の努力をしている。だが外に見せない部分では怯え、焦り、戸惑い、どこかへ逃げ出したい気持ちに必死で抗っている。
こんなにも早く父を失い、父の跡を継ぎ、彼がしていたように城と臣下と民を守っていくことになるなどとは思ってもいなかった。嫡子として幼いころからそのように仕込まれてはいたが、充分な準備ができているとは言いがたい。いや、そもそも充分だと思える日などくるものだろうか。十四歳であれ、五十四歳であれ、こんな立場に置かれたら誰もが等しく〝まだ早い〟と感じるのではないか。
それでも、こうなった以上はどこかで気持ちに折り合いをつけ、腹をくくって役目をこなしていくしかない――。
ヨタカの鳴き声がぷつりと途切れ、貴之は目を開けた。
砂利を踏む足音が聞こえる。低く押し殺した囁き。かすかな衣擦れ。誰かが林道を歩いている。
「ほんとうにこっちなのか」
最初の一声で俊紀だとわかった。いとこの声はよく知っている。
「間違いありません」
「林を抜ければ明かりが見えますよ」
連れがふたりいるようだが、こちらの声には聞き覚えがない。
彼は体を起こし、闇に慣れた目を林道のほうへ向けた。木々に見え隠れしながら、三つの人影が近づいてくる。先頭を歩くのは、やはり俊紀のようだ。貴之自身は少し引っ込んだ場所にいるので、まだ気づかれてはいない。
「おい、どこへ行くつもりだ」
不意打ちに声をかけると、連れのふたりがあからさまに狼狽した。
「何やつ」
「姿を見せろ」
その脇で俊紀はしごく落ち着いている。彼のほうも、いとこの声を正しく聞き分けたらしい。
「この先にある館に、守笹貫家中の女たちが捕らわれているそうだ」
彼は貴之を探し、きょろきょろとあたりを見回しながら答えた。
「なんでも支族の姫君も混じっているとか。見目のいい娘がいたら部屋へもぐり込んで、少しばかり楽しむのもいいかと思ってな」
不道徳なやつめ。貴之はあきれ、鼻面に皺を寄せた。
「夜這いなどやめろ、馬鹿」
俊紀が弾けるように笑う横で、連れの男たちが激高した。
「馬鹿とはなんだ、無礼者」
「このかたをどなたと心得るか。出てこい、痛い目に遭わせてくれる」
「黙れ」ふいに笑い止め、俊紀が凍りつくように冷たく言い放った。「おぬしらこそ、誰に向かって物を言っているかわかっているのか」
当惑の空気が漂う中、貴之は石組みから下りて林道へ戻った。彼らのすぐ手前まで進み、月明かりの下で足を止める。
俊紀の連れはどちらも見知った顔ではなかったが、貴之が黒葛の家紋が入った大紋をまとっていることに気づくと、ひっと息を呑んで後ずさった。
「お、お許しを」
「とんだ粗相をいたし……」
あわてて礼を取り、呻くようにつぶやくふたりから顔を背けて、俊紀が不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「興が削がれた。おぬしらは宴へ戻れ」
とりつく島もないほど冷然と命じられた彼らは、惨めそうな様子でとぼとぼと道を引き返していった。
「友人じゃないのか」
貴之が訊くと、俊紀はつまらなそうに肩をすくめてみせた。
「母方の――玉県家のほうの遠い親類だ。友人というよりは取り巻きだよ。悪い遊びに喜んでつき合う類のやつらさ」
しゃべりながら、彼はつと顔を上げて眉をしかめた。口がへの字にゆがんでいる。
「どうした」
「厭な声だ」
俊紀が囁き、貴之は彼がトラツグミのことを言っているのだと気づいた。梢に響く、ヒーィ、ヒーィというか細いさえずりはどこか寂しげで、聞きようによっては少し不気味かもしれない。
かつて生明城中奥の殿舎近くに、トラツグミがしばらく住みついたことがある。貴之はちょうどそのころ丈州に遊学中で、いとこと一緒にその鳥のさえずりを初めて聞いた。奇妙な声だと驚いている子供たちに、「あれは妖怪の呼び声ですよ」と言ったのは侍女の誰かだったか。ちょっとした冗談のつもりだったのだろうが、俊紀はそれを真に受けて「怖い」と大泣きした。
「ひと気のない暗い場所で、あんな薄気味悪い声を聞いているなど悪趣味だぞ」
言い方がやけにぶっきらぼうなのは、あの時「怖がりな若さま」とみんなに笑われたことを屈辱感と共に記憶しているからだろうか。
「今もあの声が苦手なのか」
「べつに。ただ嫌いなだけだよ」
俊紀は憮然として、貴之の腕を引っ張った。
「殿舎のほうへ戻ろう。明かりのあるところへ。こんな日に、どうしてひとりでいるんだ」
「少し考えごとをしていたんだ」
促されるまま池へ向かって歩きながら、貴之は気になっていたことを訊いた。
「元服式にいなかったな」
「ああ」
「なぜだ」
「列席したかったが……」
珍しく歯切れが悪い。訝しく思いながら顔を覗き込むと、俊紀はばつが悪そうに視線を逸らせた。
「父に出るなと言われたんだ」
「伯父上に?」
おかしなことを言う。寛貴伯父は元服式の世話役だったのに、その場にいて当然の者の列席を禁止したりするだろうか。
「どうして、そんなことを」
俊紀はしばらく黙って歩き、林道の出口近くに来たところで足を止めた。
「その大紋」振り向き、じっとこちらを見つめる。「深縹――とてもいい色だろう。父に言われて、わたしが見立てたんだ」
「そうだったのか」
急に話が変わったことに戸惑いつつ、貴之は絹地の胸元に軽く触れた。
「百武城下でいちばんだという呉服商を連れ戻すために、わざわざふたつ向こうの郷まで行ったんだぞ」
「面倒をかけたな」
「まあ、いいんだ。おまえのを用意させるついでに、じつはわたしもこの小袖を新調した」
貴之は月明かりの下で、彼が身につけている小袖に目を凝らした。左は白、右は若菜色の片身替りで、州浜に千鳥の文様が描かれている。誰にでもうまくはまるという品ではないが、さすが洒落者だけあってうまく着こなしていると感じた。
「派手だが、よく似合っている。春らしい」
褒められて嬉しがるかと思いきや、俊紀は重いため息をついた。
「その派手なのが父の気に障ったのさ。いとこの元服式で主役よりも目立つつもりかと叱られて、出席を禁じられた。宴席でも出しゃばらず、今日は一日おとなしくしていろと釘を刺されたよ」
「ずいぶん厳しいんだな。おれなら気にしないのに」
それは本音だった。華のある俊紀が自分より目立つのは当然だし、そんなことで不快になったりはしない。伯父の気づかいはむろんありがたいが、それにしても度が過ぎているのではないだろうか。
「最近、父上が急にうるさくなって困ってるんだ」
「いつから。どんなふうに」
「由淵陣からさ。総領の自覚を持てとか、戦場では果敢なところを見せろとか、いちいち口やかましく言うようになった」
「それで、ここのところ不機嫌そうな顔をしていたのか」
貴之が笑うと、俊紀はふんと鼻を鳴らして歩き出した。
「笑いごとか。おまえのせいなんだぞ」
「どういう意味だ」おまえのせいとは聞き捨てならない。「おれが何をした」
「耶岐島で陣頭に立って、大将首を挙げただろう」
「陣頭には立ったが、軍を采配したのは七草の宿老たちだ。大将首も、おれが自分で討ち取ったわけじゃない」
「細かいことはいいんだよ。要するに父はおまえに感心したんだ。それで、わたしを引き比べてみて、うちのせがれはいかにも頼りないと思ったのさ」
「おれは、ただ必死だっただけだ」
あの場面でできることは、たったふたつしかなかった。べそをかいて退散するか、踏み留まって戦うかだ。逃げて父の面目をつぶしたくはなかったから、戦うほうを選んだ。結果的にうまくいって勝利を掴んだので評価されているが、負ける可能性も充分にあったことを考えると、決して褒められるようなことではない気がする。
「わたしはめったに必死にならないから、父の目には不甲斐なく映るんだろう。年が近いとただでさえ比べられやすいんだから、あまり立派にならないで欲しいな」
「立派なもんか。知ってるだろう」
「周りが思うほどじゃないのは知ってるよ。おまえは勇猛というより乱暴だし、鷹揚じゃなく大雑把、果断と言われているが実際は短気だ」
俊紀はくすくす笑い、池の端で足を止めた。
「少し座らないか。そこの斜面に」
水辺へ向かってゆるやかに傾斜した芝地に、ふたりは並んで腰を下ろした。酔いの火照りが消えた体には、水面を渡ってくる微風が少し肌寒く感じられる。
「早く南へ帰りたいな」俊紀が襟元をかき合わせながらつぶやいた。「父からは先に帰ってもいいと言われているんだ。江州の気候は涼しすぎて、わたしには合わないよ」
「おれも同じだが、しばらくは帰れない。掃討戦がひと段落して宗主のお許しが出るまでは、立身勢を率いて駐留しないと」
「そうか。七草の主に――御屋形になったのだものな」
「父も早く国へ帰したいが、身内の付き添いもなしに遺体だけ先に行かせるわけにもいかず、どうしたものかと悩んでいるんだ」
ぎくりとしたように、俊紀が小さく身じろぎをする。
「ご遺体……は、今どうしているんだ」
「耶岐島で骨にしてもらっている。初めはそのまま戻そうかとも思ったが、この季節だと城に着くころには腐り果てて凄まじい有り様になるだろうし、そんな父を母に見せたくはない」
「叔父上と真木さまは、家中の誰もが認めるおしどり夫婦だったから」
しんみりと言い、俊紀は膝を両手で抱えた。
「じつを言うと、わたしはおふたりに憧れていたんだ」
「憧れ?」
「叔父上は真木さまにだけ真心を尽くされ、側室や愛妾をひとりもお持ちにならなかった。ご身分がら誘惑は多かっただろうに、お若いころに見初められて以来、ずっと真木さまひと筋でいらしたんだ。運命的に結びつけられ、生涯お互いだけを一途に思い合う――そんな関係は素晴らしいと思わないか」
「意外と夢想家だな」
貴之は思わず笑ってしまった。負け方の女をつまみ食いしようなどという、不埒な考えを持つ男の言葉とも思えない。
「許婚の真璃どのと、そういう関係を築けばいいじゃないか」
「真璃なんかじゃ駄目だ。わたしに似合いの、もっと興趣をそそる佳人でないと、とてもそんな気になれないよ」
相変わらずひどいことを言う。
「だが戦も終わったし、そろそろ婚儀をという話が樹神家のほうから出るんじゃないのか」
「たぶんな。だから国へは戻りたいけど……帰りたくない気持ちもあるんだ」
俊紀は嘆息し、しばらく池の水面を見つめていたが、ふいに何か思いついた顔でこちらを向いた。
「そうだ、わたしが帰りしな、ご遺骨を七草まで送り届けよう」
「ええ?」
唐突な申し出に当惑する貴之に、俊紀は片膝を崩して身を乗り出しながら押し迫った。
「国へ帰るのを遅らせたいからじゃないぞ。叔父上のことをご尊敬申し上げていたから、最後に何かご奉公をしたいんだ」
いつになく熱っぽい口調で、言葉には誠実さが感じられる。
「叔父と甥の間柄だから、わたしが棺に付き添うなら礼式にもかなっているし、叔父上もお寂しくないはずだ。七草へ着いたら、お手伝いを兼ねてしばらく城に留まるよ。おまえの代わりにはならないまでも、似たような顔をしたわたしがいれば、真木さまや小さい弟たちも多少は心慰められるだろう」
たしかに、それはそうかもしれない。貴之がもっとも心配しているのは、遺骨を受け取った母たちが激しく動揺するのではないかということだ。その場にいれば支えてもやれるが、こんな遠くにいてはどうすることもできない。
もしその役目を俊紀が担ってくれるなら、自分も気がかりが減って目の前に山積している仕事に集中できるだろう。
「ほんとうに、そうしてくれるか」
「するよ。もちろん」
そっと囁くように言った声は、驚くほど優しかった。
横を向いて見つめれば、いたわりと愛情に満ちた瞳が静かに見つめ返してくる。
ふいに胸が詰まって目頭が熱くなり、貴之は急いで顔を背けた。たとえ兄弟同然の親しい間柄でも――いやそれだからこそ、安易に涙を見せたりはできない。
そっぽを向いた彼に俊紀は片腕を回し、潤んだ睫毛が乾くまで何も言わずに肩を抱いていてくれた。
聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/




