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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第二章 血戦の果て
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二十四 立身国射手矢郷・刀祢匡七郎 六人目

 見張りの交替を告げる鳴り物の音が、遠くかすかに聞こえる。

 匡七郎きょうしちろうはゆっくりと瞼を開き、枕上まくらがみの障子窓からほのかに差す朝の光を横目に見た。いつもの起床時刻より半刻ほど早いが、予定どおりだ。

 夜着をはねのけると、心地よい寝床の誘惑を断ち切るためにすぐさま立ち上がった。もう梅月ばいげつなかばに近くなり、日中は春めいていてうららかだが、山の上なので朝夕はまだまだ冷える。部屋の反対側で寝ている同僚の保武やすたけを起こさぬよう手早く着替えるあいだにも、裸足の踵から背中に向けて寒気が這い登ってきた。

 くそ寒い――思わず腹の中で悪態をつく。温暖な気候の南方なんぽう地域に育ったせいか、寒いのはどうも苦手だ。

 彼は寝床を片してから部屋をそっと抜け出し、誰もいない廊下を足早に通り抜けて、裏口から兵舎の外へ出た。目指す西の城へは、正面玄関よりもこちらから行くほうが近い。

 山腹を回り込んで西側のくるわへ入った匡七郎は、広大な第二練兵場の一角に建てられた傷病棟へ入って行った。

 間仕切りの少ない大きな建物なので、内部は兵舎よりもいっそう寒く感じられる。彼は鳥肌の立った腕を軽くこすりながら、処置室を兼ねた広間に足を踏み入れた。

 板間の中央に炉が切られた室内は薄暗く、わずかに苦みのある薬くささが染みついている。匡七郎は傷病兵たちの寝床を迂回しながら、白衣をまとった看護人の中に馴染みの若い療師りょうじの姿を探した。鉢呂はちろ砦へ来たばかりのころに世話になって以来、気の置けない付き合いをするようになった男だ。

 ゆっくり首をめぐらせていくと、少し離れたところに見覚えのある顔を見つけた。とこに寝かされた患者の上に屈み込み、何か治療を施している最中のようだ。

 匡七郎は少し待ち、彼が仕事を終えて腰を上げたところで声をかけた。

「よう」

 こちらを見た幸尚ゆきさひが意外そうに眉を上げる。

「なんだ、朝っぱらから何しに来やがった」

「ずいぶんな挨拶だな」匡七郎は苦笑いしながら、寝床のあいだを縫って近づいていった。「傷を診てくれ」

 額に巻いていた手ぬぐいを解きながら頼むと、幸尚は値踏みするように彼の顔をじろじろと見回した。左目蓋の上部、眉のきわあたりにできた真新しい傷に目を留め、ふんと鼻を鳴らす。

「ひとつふたつ傷を作ったところで、その生っちろつらに箔なんかつかねえぞ」

「余計なお世話だ」

 思わず口を尖らせた匡七郎に顎をしゃくって見せ、幸尚は衝立ついたてで囲われた一角へと歩いていった。

「これは縫わなきゃならん。ちょっとりきんだらまた裂ける傷だ。夕べ戦闘はなかったはずだぞ。なんで怪我をした」

「部屋でぶつけたんだ」

 匡七郎はとぼけた表情で言って、軽く肩をすくめてみせた。しかし幸尚の追及の手はゆるまない。

「おまえは餓鬼か。大人は注意力ってもんがあるから、こんなに深く切れるほど激しく顔面をぶつけたりはしない。いったい部屋でどんな馬鹿な遊びをやってたんだ」

「そうじゃなくて――」訓練中にぶつけたと言えばよかったと後悔したが、もう遅い。匡七郎はしぶしぶ真相を吐いた。「喧嘩したんだよ」

「やっぱりな」

 心底あきれたように、幸尚が大げさなため息をつく。

「おまえなあ、ここへ来てまだ三月みつきも経たないってのに、何度喧嘩騒ぎを起こせば気が済むんだ」

 痛いところをつかれ、匡七郎は憮然と沈黙した。幸尚もまた口をつぐみ、傷口の洗浄に取りかかる。物言いこそぶっきらぼうだが、処置をする手つきはいつも繊細そのものだ。彼は極細の糸を使って手早く縫合を終えると、丁寧に止血をして薬をつけた。

「五日から七日ほどで抜糸できる。早めに糸を抜いたほうが傷痕が残りにくいから、四日目ぐらいに一度()せに来い。それまでは傷に膏薬こうやくを塗って油紙を貼り、日焼けよけに眼帯をつけておけ。とりに乗る時や斬り合いをする時には外していい」

 こまごまとした品を手渡されながら諸注意を聞き、男の顔に傷が残ったところでどうということもあるまいと思いつつも、匡七郎は素直にうなずいた。

「わかった」

「短気もほどほどにしねえと、そのうち部隊の仲間と気まずくなっちまうぞ」

「今回の相手はほかの部隊のやつらだ」

 弁解するように言った彼の言葉が、幸尚の表情を少し曇らせる。

「おい、そいつはまずいな」

 ふいに声音が変わったことに気づき、匡七郎は怪訝けげんな面持ちになった。幸尚ゆきひさはいつになく真剣な眼をしている。

「喧嘩をするなとは言わん――言っても無駄だろうしな。だが、少なくともそれは仲間内のことに留めておけ。ちょっとした喧嘩でも、隊の外へ出たとたんに厄介な火種になるものなんだ。おまえが厄介なことになるだけじゃない、おまえの上役が厄介に巻き込まれるんだぞ」

 上役のひと言で匡七郎の顔色も変わった。このことが原因で兵庫ひょうごに迷惑がかかるなどとは考えもしなかったが、言われてみればたしかにその通りだ。

「忠告は肝に銘じておく」我知らず表情が引き締まり、声に力がこもる。

 匡七郎は渡された革の眼帯をつけ、幸尚に見送られて傷病棟を後にした。その足で兵舎前へ戻って点呼を受け、食堂であわただしく朝飯をかき込む。今日は午前中に出撃予定なので、布令ふれが出る前に少しでいいから兵庫のところへ顔を出しておきたかった。無分別な真似をしたことを打ち明け、謝罪しなければならない。

 しかし、どう切り出せばいいのか——。

 陣屋のくりやでいつものように煎茶をれ、兵庫の居室へ向かうあいだもずっとそのことを考えていたが、何もいい案は浮かんでこなかった。あちらから水を向けてくれれば何とでもなるが、どうもそううまく事が運ぶとも思えない。

 結局、何も考えがまとまらないまま訪ねてみると、目当ての人はちょうど部屋を出ようとしているところだった。

「せっかくだが、もう行かねばならん」

 兵庫はそう言いながらも盆の上の茶碗をひょいと取り上げ、まだかなり熱い煎茶を平然とひと口すすった。

「旨い」

 満足そうにうなずいて茶碗を盆に戻すと、彼はそのまま廊下を歩いて行った。機を逸した落胆をにじませながら、匡七郎がそれを見送る。あれほどいろいろと頭を悩ませて来たのに、話題を持ち出す暇すら得られなかった。次に彼と落ち着いて話ができるのはいつになるだろうか。そんなことを考えながら佇んでいると、脇机で書状をしたためていた伊勢木いせき正信(まさのぶ)が声をかけてきた。

「匡七郎、ちょっとここへ来い」

 呼ばれて目を向けた匡七郎は、思いがけず厳しい視線に出くわして瞠目した。これはただ事ではない、と直感する。しかし不安をおくびにも出さず、言われるまま近寄って対面に座った。そんな彼をまっすぐに見ながら、正信が淡々と言葉を続ける。

「兵庫さまは急なお呼び出しがあって、第一隊の由解ゆげ虎嗣(とらつぐ)隊長に会いに行かれた」

 第一隊と聞いて、匡七郎ははっと息を呑んだ。昨夜の喧嘩相手の所属部隊だ。やはり幸尚の忠告は正しかった。痛恨の思いで唇を噛む彼を、正信が静かに見つめる。

「仲間内のからかいや口論から、ちょっとした争いに発展することは珍しくはない。それは大方の場合、たんなるれ合いで終わるし、後に禍根かこんを残すこともなかろう。だが、ほかの部隊の者が相手の場合は、そう簡単にはいかん」

 彼の一言ひとことが胸に突き刺さるように思えて、匡七郎は悄然と首をうなだれた。

「つい先ほど、友人からもその件について指摘されたばかりです。恥ずかしながら、考えが至りませんでした」

 みじめな気分を味わいながらも正直に述べ、顔を上げて少し身を乗り出す。

「お呼び出しの場所はどちらですか」

「教えるつもりはない」

 問われるのを予期していたように、正信はきっぱりと言った。しかし匡七郎も簡単には引き下がらない。

「わたしの不始末ですから、自分でけりをつけに行きます」

 頑迷がんめいな態度を取っているという自覚はあったが、己を抑えることができなかった。自分のしでかしたことが原因で、兵庫が誰かから非難なり叱責なりを受けるなどあってはならないことだ。何を置いても駆けつけ、自ら処罰を願い出なければならない。だが正信は、そんな匡七郎の思いを一蹴した。

「おまえが行っても邪魔になるだけだ。わからんのか。兵庫さまにお任せすれば、万事丸く収めてくださる」

 まるで聞き分けのない子供でもさとすような言い方だ。そう感じた匡七郎の目つきが、みるみる険しくなっていく。

「隊長でも班長でもないあなたに、指図をされるいわれはありません」

 言い過ぎた――と思った。だがすぐに、かまうものかと思い直す。たとえ殴られたとしても、ここは絶対に譲らない覚悟だった。その意思も露わに傲然と頭を上げ、眉根に力をこめて挑むようにめつける。しかし正信はいらだつ様子すら見せず、張り詰めた空気をさらりと受け流した。

「兵庫さまはおまえのことを慇懃いんぎんで従順だと——少なくとも子供のころはそうだったとおっしゃっていたが、どうやら本性を見落とされていたようだな。それともおまえが、あの人の前でよほどうまく己を取りつくろっていたのか」

 訊きながら含み笑いをしている。本気で興味を持ち、かつおもしろがっている顔だ。一方、思いがけない方向に話を振られた匡七郎は、完全に気勢をがれてしまった。

 あんな挑発を受けながら、腹を立てるのではなく笑ってみせる、そんなところがほんとうにこの男は憎たらしいと思う。

 はぐらかされた悔しさを押し殺しながら、匡七郎はしぶしぶ返答した。

「取り繕っていました。少しでもわたしのことを良く思っていただきたかったので」

「何が理由で、そこまで入れ込んだのだ」

「さあ。当時はわかっているつもりでしたが、今となっては、果たして理由などあったのかどうか」

 匡七郎は肩をすくめ、裏庭に面した窓のほうへ目をやった。朝日を浴びて乳白色に輝く障子紙に、くっきりと濃く映り込んだ葉影がゆらゆら揺れている。その音のない影絵芝居を見つめていると、遠い昔の記憶がさざ波のように寄せてきた。

「ただ、兵庫さまが真剣を振るうのを初めての当たりにした時……」つぶやいた瞬間、鮮烈な思い出が奔流となって脳裏にあふれ出した。「心が羽ばたくように感じたことは憶えています」

 正信はしばらく黙っていたが、やがて薄く笑みながらうなずいた。

「おれも同じことを感じたな。そして殺したいと思った。同時に、殺されてもいい——とも」

 匡七郎がぽかんとなる。

「初めて会った時に、ですか」

「そうだ」

 戸惑う彼の心中をよそに、正信はあっさりと答えた。

「乱戦のさなか、間近で見たあの人の剣技に一瞬で心を奪われた。あれほどの手練てだれを斬ることができれば……あるいは斬られたとしても、剣士の本懐これに過ぐるものはない、と」

 彼が語った話は、その穏やかな声の調子とは裏腹に、匡七郎の胸を激しく騒がせた。

 本気で剣の道を極めようとする人間は、一緒に戦をする仲間に対してすらそんな危うい考えを抱くものなのだろうか。自分も幼いころから剣術や槍術に打ち込み、強い相手と出会えば打ち負かしたい衝動にかられもしたが、少なくとも戦場いくさばで対峙する敵以外を殺したいなどと思ったことはない。むろん、殺されるのもまっぴらだった。

 落ち着かない気持ちで押し黙っていると、正信はふいに立ち上がって匡七郎の傍へ来た。横にしゃがみ、胸のうちを推し量るようにじっと目を覗き込む。

「おまえはどうだ。あの人に斬られて死にたいと思うか」

 低く問いかける彼の体が、いつもよりもずっと大きく見えた。恐ろしいほどの威圧感だ。その凄みにされそうになりながらも、匡七郎はかろうじて姿勢を保ち続けた。

「それは……もちろん、ほかの者に斬られるよりはずっといいですが、それよりもわたしはできるだけ長く傍にいて、兵庫さまのお役に立ちたいですよ」

 動揺を押し隠しながら言った首筋を、ひやりと冷たい汗が伝う。その瞬間、正信の威圧感が煙のように消え失せた。いつもどおりの鷹揚な態度に戻り、小さく笑ってみせる。

「そうか。ならば、おまえはそうしろ」

 彼はどこか満足そうに言うと、匡七郎の背中を一発強くどやしつけた。

「ここで長く働きたいなら、今後はいさかいを避けられるよう、自分を抑えるすべを身につけることだ。つまらんことですぐに癇癪かんしゃくを起こす癖は早めに直すんだな。浅薄なやつらに乗せられて馬鹿をやるなら、おまえも同類だということだぞ」

「はい」痛みに顔をしかめ、背中に手の跡が残るだろうなと思いながらうなずく。「兵庫さまに尻ぬぐいをさせるような真似は、もう二度としません」

 そこへ兵庫が戻ってきた。廊下から匡七郎の姿を認めて、まだいたのかというように眉をひそめる。

「今朝は、ずいぶんとのんびりしているのだな」

 そう言いながら部屋を横切りかけて、兵庫はふと匡七郎の脇で足を止めた。彼が眼帯をつけていることにたったいま気づいた様子で、じっくりと顔全体を眺め回す。兵庫に迷惑をかけたと思い、気が気ではない匡七郎は針のむしろに座らされているような居たたまれなさを味わったが、当の本人がどう思っているのか、その無頓着な態度からは全く窺い知ることができなかった。

「〝目病めやみ女に風邪ひき男〟などというが——」兵庫はぼそりと言い、唇の端に笑みを浮かべた。「〝目病み男〟もなかなかの風情だ」

「おっしゃるとおりですな」

 正信は軽く相槌を打ちながら脇机へ戻り、何ごともなかったかのように仕事を再開した。兵庫もまた、時を惜しむようにすぐさま文机へと向かう。匡七郎はあわてて彼を引き留めようとしたが、やはり気後れがまさって言葉がすんなり出てこなかった。

「兵庫さま、あの——」

「匡七郎」机の前に腰を下ろした兵庫が、絵図面を取り上げながら彼の言葉を遮る。「出撃の支度があるのだろう。もう行かねば集合に遅れるぞ」

 何の感情も表さない平坦な声だが、いっさいの反論を許さない空気が読み取れた。

 謝らせてくださらないおつもりだ。

 匡七郎はそう悟り、気持ちがしおれるのを感じた。

 敢えて叱責せず、謝罪をする道をふさぐ。匡七郎にとってはそのほうがずっと骨身にこたえると、おそらく兵庫にはわかっているのだろう。

 やっぱり、昔よりも今のほうが手厳しいな――と思いながら、彼は何も言えないまま兵庫の居室を辞した。


 兵舎の自室へ一度戻り、武装を整えてから北のくるわの第一練兵場へ向かった匡七郎きょうしちろうは、最近になって専用乗騎に決まったとりの傍で出撃の布令ふれが出るのを待った。

 前後の鞍はすでに装着を終えており、相方の斬り手が来ればすぐに飛び立てるようになっている。

〝相方〟といって真っ先に思い浮かぶのは兵庫ひょうごだが、じつのところ匡七郎はまだ正式に彼の相方になってはいない。兵庫が前に組んでいた乗り手が戦死したあと、たまたま部隊に適当な人員がいなかったため、新参の匡七郎が代役を務めさせられている形だ。

 出撃があると聞けば何も命じられずともこうして飛行準備をするが、実際に兵庫を乗せて飛ぶかどうかは、毎回彼が目の前に現れてみるまでわからなかった。

 操禽そうきんの技術自体は捨てたものでもないと自負しているが、今朝のようなしくじりをしているうちは曖昧な立場のまま宙ぶらりんにしておかれそうな気がする。正信まさのぶにも言われたが、早々に喧嘩癖を直して、もっとしっかりしなければならない。

 自省しながら上の空で禽の首をなでていると、隊士の伍香ごこう享祐(きょうすけ)が通りすがりに声をかけてきた。匡七郎が所属する第一班の班長で、まだ二十代(なか)ばだが、鉢呂はちろ砦ですでに十年を過ごしている最古参のひとりだ。

「今日もおまえが兵庫さまを乗せるのか」

 問われても、匡七郎には何とも答えようがない。

「さあ、どうでしょう」

 肩をすくめてみせると、享祐は片眉を上げながら足を止めた。

「相方に決めたかどうか、兵庫さまからお話は?」

「まだありません」

 享祐が複雑そうな表情になる。

「ふうん、そうか。ということは……やはり、もうお辞めになるのかな」

 彼のつぶやきにはっとなった次の瞬間には、もう詰め寄っていた。

「どういう意味ですか」

「意味もなにも――言葉通りだ。兵庫さまは雇い兵だからな」

 いまにも胸ぐらを掴まんばかりの勢いで食いつかれ、享祐はやや引き気味だ。

「雇い兵というのは、戦が終われば解雇されて散っていくものだ。兵庫さまは仕官はせぬとつねづねおっしゃっているし」

「でも、部隊長ですよ」

 喉元で息が詰まり、うまく声が出てこない。

「兵庫さまがいなくなったら、第五隊はどうなるんです」

「それはまあ、ほかの誰かが引き継ぐさ。やむを得んだろう」

 冗談じゃない。

 兵庫の下で、彼の傍で働きたいからここへ移ってきたのに、肝心の人がいなくなってしまったら自分が鉢呂砦にいる意味もなくなってしまう。

 衝撃のあまりしびれたようになっていたが、少し経つと頭が働きだした。

 馬鹿、あわてるな。泣き言をいうのもやめろ。何も難しく考えることはない。要は、あの人から断じて離れなければいいだけの話だ。部隊を辞めて彼がどこへ行くにせよ、何をするにせよ、さもそれが当然の権利だという顔をして、岩についたフジツボのようにぴったりくっついて行こう。なぜそうするのかという理由は、もし訊ねられたらその時にひねり出せばいい。

「おい、だいじょうぶか」

 考え込んでしまった匡七郎を気づかうように、享祐が横から顔を覗き込んだ。

「おまえ自身も、たしか雇い兵だろう。せっかく立天隊に入ったのに、すぐに戦が終わったのは不運だったな。もっとも〈隼人はやと〉は簡単には換えがきかんので、今後も部隊に残りたいと申し入れをすれば、どこか適当な仕官先を見つけてもらえるはずだ」

「戦はまだ終わっていませんよ」

 反論しながら見上げると、享祐は真面目な表情でうなずいた。

「だが、終わりかけだ。長く続いたが……ついにな」

 温かみのある笑みを浮かべ、匡七郎の肩を軽く叩く。

「今後の身の振り方に迷ったら、いつでも相談に乗るぞ」

 班長らしい気配りのひと言を残して、彼は自分の乗騎が待つ場所へ身軽に走っていった。


 鉢呂はちろ砦を進発した第五隊は雁行がんこう陣形を取り、今では黒葛つづら家の支配する地となった江州こうしゅう上空を北西に向けて飛んだ。

 守笹貫かみささぬき家の滅亡から半月あまりが経ったが、残党はなおも各地で抵抗を続けている。追撃を受けた敗軍は山城へ逃げ込みたがるものなので、立天隊は地上軍が主導する挟撃作戦にたびたび駆り出されていた。

 上から天翔てんしょう隊、下から地上部隊が同時に攻めかかることで、手っ取り早く残敵を掃討することができる。百武ひゃくたけ城を落とした時と同じやり方だ。

 いま向かっている西木にしき城には、守笹貫家の支族だった神代こうじろ家の嫡男信親(のぶちか)が八百ほどの手勢や寄り集まった敗走兵たちと共にもっており、その中には江州天翔隊の最後の生き残りも三十騎あまり混じっているらしい。乗騎が無事なら山などに留まらず、さっさと遠くへ逃げてしまえばいいようなものだが、戦の花形たる〈隼人はやと〉の矜持がそれを許さないのだろう。

「江天隊を空中戦で殲滅せんめつ後、城砦へ降りて地上戦に移行する」

 練兵場で出撃を待つ隊士たちのところへ現れた兵庫ひょうごは簡単に指示を出し、匡七郎きょうしちろうが乗り手を務めるとりに当たり前のような顔で跳び乗った。朝の一件についての言及はなく、眼帯を外した彼の傷を目に留めたかどうかも、特に反応らしきものはなかったのでわからない。

 匡七郎は居心地の悪さを感じつつ、それでも黙って禽を操ることに専念した。

 隊長を乗せた禽は主騎なので、常に隊列の先頭を行く。後続への指示や合図は兵庫が出すため、匡七郎には特別にすることは何もない。遮るもののない空を、目的地に向かってただひたすら飛ぶだけだ。

 途中で雨雲を避けたりしつつ半刻ほど進むと、地面にへばりつくような低群山の中に、頭ひとつ分ほど飛び出ている嶺が見えてきた。立州りっしゅうならこんな山は高いうちに入らないが、平地ばかりが目立つ江州ではそれなりの雄峰と言えるだろう。

 まっすぐ近づいて西木城の警戒空域に侵入すると、敵はすぐさま迎え撃つべくいただきから飛び立った。先に聞いていた三十騎よりも、少し数が多いようだ。

「四十騎はいますね」

 こちらのほぼ二倍。油断をすれば返り討ちに遭いかねない。

「蹴散らすぞ」

 仲間に手で合図を送りながら、兵庫が静かに言った。

「〈虹〉だ。やれ」

 匡七郎が禽を急上昇させると後続も即座に続き、全二十騎が縦に長い一列を形成した。隊列が伸びきったところで、主騎から順に前進しながら降下し、向かってくる敵勢の頭上に橋を架ける。第五隊だけが用いる独自の陣形〈虹〉だ。

 虹橋こうきょうのたもとの位置まで高度を下げると、匡七郎はすかさず反転した。江天隊の後衛がすぐ目の前にいる。

 そう思った時には、もう兵庫は鞍を蹴って匡七郎の頭上を跳び越えていた。黒い長袍が大きく広がり、さながら飛翔する怪鳥けちょうのようだ。

 まだ抜刀はしていなかったが、狙った敵騎の斬り手に組みついて鞍から突き落とした時には、相手から奪った大刀が手に握られていた。その切っ先を乗り手のうしろ首に素早く突き込み、間髪を入れずに離脱する。

 小さく旋回しながら動きを追っていた匡七郎は、宙に身を躍らせた彼の斜め下から間合いを合わせて禽をすべり込ませた。

 兵庫がふわりと降り立ち、片膝をついて前鞍の後驕こうきょうを掴む。

「こつが呑み込めてきたな」

 肩のうしろから囁かれた褒め言葉に、匡七郎は思わず頬をゆるめた。

「なんとか。でも、まだ冷や汗をかいています」

 だいぶ慣れたとはいっても、空戦で兵庫を補佐するのはやはり緊張する。

 前後と上からの一斉急襲で、敵は早くも十騎以上を失っていた。だが砦に引き返す様子はなく、立て直して反撃に転じようとしている。〈隼人〉らしく、あくまでも空で戦うつもりのようだ。

「追われている。上昇しろ」

「承知」

 短く応えて禽首きんしゅを上に向ける。上体を前傾させて風圧に耐えながら視線をうしろへやると、猛然とついてくる敵騎が見えた。二騎いるが、うち一騎には乗り手の姿しかない。相方を失った隊士が、玉砕覚悟で突撃を仕掛けるつもりだろう。ひとり乗りは身軽なので、こちらよりもずっと速い。

「振り切れません」

 肩ごしに叫ぶと、兵庫はうなずいて鞍に伏せた。

「合図でとんぼを切れ」

 そのまま、ふた呼吸。

「いまだ」

 匡七郎は手綱を引き絞り、内股に力を入れて禽の首の付け根をぐっと締めつけた。大きくひとつ羽ばたきをして急制動をかけた禽が、頭をらせて背面飛行になる。そこで兵庫が鞍を蹴り離れた。

 敵との距離は五間あまり。一瞬で先行騎に到達した兵庫が、逆さになった匡七郎の視界で乗り手に襲いかかり、顔面に刃を深々と突き立てる。

 一回転し終えて再び視線を戻した時には、彼はすでに後行の敵騎に向かって跳んでいた。そちらの斬り手は抜刀して待ち構えている。

 跳躍軌道の頂点で、兵庫の左手がさっと動いた。何か黒いものが指先から放たれ、敵騎を操る乗り手の眉間に突き刺さる。相手は撃たれたようにり、そのまま鞍からずるりとすべり落ちた。

 手綱を取る者を突然失うと、禽の挙動は本能に任せたものになる。上から迫ってくる障害物を避けるため、その禽は翼を打ち振って右に方向転換を図った。迎撃に備えていた斬り手が、急すぎる動きに対応できず鞍の上でつんのめる。そこへ狙い澄ましたように兵庫が斬りかかった。

 上段から左肩にひと太刀。鞍に降り立ち、刀を返して胸板へ逆袈裟にひと太刀。

 禽を斜めに滑空させながら固唾かたずを飲んで見守っていた匡七郎は、彼が敵騎の鞍を蹴った瞬間に急降下すると、すぐそばを高速ですり抜けた。兵庫が空中で身体をひねり、角度を調整してぴたりと鞍に着地する。

「さっき、何を投げたのですか」

 余計なことだが、訊かずにはいられない。

「これだ」

 兵庫は懐から黒い鉄塊を取り出し、匡七郎の顔の横に突き出した。長さ四寸あまりの、紡錘ぼうすい八角形をした棒手裏剣だ。

「地上ならつぶて打ちに使える石がごろごろしているが、空ではそうもいかぬので、いつもこれを何本か仕込んでいる」

「相変わらず、剣以外の武器もいろいろと便利に使われるのですね」

「そのほうがおもしろい」

 生真面目なようで奔放な彼の一面がちらりと覗き、そういうところが昔から好きだった匡七郎をひそかに喜ばせる。

「気を抜くな」

 うしろからは見えないはずのにやけ顔を見抜かれたかと思い、一瞬どきりとしたが、兵庫は匡七郎ではなく眼下を飛び回る敵騎を見ていた。

「続けてほふるぞ」

「は」

いぬいの方角に、僚騎を追い回しているやつがいる」

 禽の首の脇から見おろすと、その敵騎はすぐに発見できた。逃げる僚騎の尻にぴったりと張りついている。

「向かいます」

「横から間合いを合わせて、あの二騎の間隙をすり抜けられるか」

 難しい注文だ。だが、できませんとは言いたくなかった。朝の失態を挽回するためにも、ここで何とかいいところを見せておきたい。

「やります」

「よし」

 軽く肩を叩かれ、俄然気合いが入る。

 匡七郎は禽を楕円形に滑空させ、速度が乗ったところで敵騎の鼻先めがけて突っ込んでいった。


 西木にしき城での戦闘は二刻あまりで終わった。

 敵勢の大将神代(こうじろ)信親(のぶちか)は討ち死に。江天隊は全滅。城砦にもっていた約二千の敗走兵のうち三割ほどが命を落とし、残りはすべて投降して捕虜となった。いずれ縁者との身代金交渉を経て開放されたり、捕虜交換に出されたりすることになるが、そういった後始末は天翔てんしょう隊のあずかり知らぬ仕事だ。

 地上部隊の指揮を執っていた武将石迫(いしさこ)嘉則(よしのり)は、城の中庭に集めた捕虜の近くで撤収の準備をしている第五隊をねぎらいに来た。

江天隊こうてんたいを全滅させたとか。地上戦での戦いぶりも見事だった。聞きしにまさる精鋭部隊だな」

 盛大な賛辞だ。控え目に謝意を示す兵庫ひょうごの態度は淡々としたものだが、傍で聞いている匡七郎きょうしちろうは部隊が褒められて嬉しかった。第五隊が評価されるということは、すなわち隊長である兵庫の株も上がり、今以上に重要な役目を任されるようになり得るということだ。彼が簡単に辞められなくなる理由がもっと増えればいい。

「さて、引き揚げるぞ」

 嘉則が立ち去ると、兵庫はすぐに号令をかけた。匡七郎が騎乗するのを待ちかねたように、ぱっと後鞍へ跳び乗る。

「上げろ」

「は」

 とりを離陸させようとした瞬間、匡七郎はふと視界に気になるものを見つけた。

 一箇所に集められ、団子になって座らされている大勢の捕虜たち。その中のひとりが何気なくこちらを見て、にわかに目をきながら腰を浮かせた。

 年齢は三十代半ばごろだろうか。道で行き合ったら警戒心を抱くような、凄まじい威圧感を持った大男だ。背丈は優に六尺半を超えているだろう。両肩が脱臼しているのかと錯覚するほど極端ななで肩だが、筋肉質で体幅はかなり広い。

 顔立ちは、お世辞にもいいとは言えなかった。自然薯じねんじょのようなごつごつ顔の真ん中で、細くて長い鼻が奇妙に目立っている。突き出した右耳は不格好に大きいが、左の耳介は欠損しており、黒い耳穴がじかに見えていた。

 石迫隊の足軽が怒鳴りつけ、槍や棒を使って押さえ込もうとしているが、男は中腰になったままびくともせず、凝然とこちらを見据え続けている。

 唇が開いた。何か言おうとしている。

 だがそこから言葉が発せられる前に、禽は力強く羽ばたいて地を蹴り、次の瞬間にはもう空を舞っていた。

 誰だろう、あれは。

 匡七郎は手綱を取りながら記憶を探った。

 おれを見ていたようだったが、知り合いだろうか。いや、あんな特異な容貌を見忘れるはずがない。どこかで一度でも会っていれば、必ず覚えているはずだ。

 食い入るようなあの視線――やけに気にかかる。

「匡七郎」

 兵庫に名を呼ばれ、思考がふつりと途切れた。

「おれは立天隊りってんたいに入ってから、これまでに五人の乗り手と組んできた」

「そうなのですか」

 急に、何の話だろう。

「彼らはいずれ劣らぬ練達の士ばかりだったが、共に戦った期間はもっとも長い者でも三年あまり……そして、五人のうち三人までもが戦場いくさばで命を落としている。最近では、おぬしと再会したあの城砦で、家久来かぐらい金晴(かねはる)という男が逝った」

「はい」その名は聞き覚えている。

「残りのふたりには、いずれも早々に愛想尽かしをされた。おれのような無鉄砲者と組んでいては、命がいくつあっても足らぬと言ってな」

 苦笑混じりの軽口につられ、匡七郎も思わず笑みをもらした。

真境名まきな(りょう)どのがおっしゃるには、おれとおぬしは似たもの同士だそうだ」

 これは、もしや――。

 ふいに痛いほどの強さで胸が高鳴った。動悸が次第に激しくなり、顔が熱くなっていく。振り返って兵庫を見たいが、そうするのが怖いような気持ちもどこかにあった。

「六人目になる気はあるか」

「やらせてください」

 一瞬も迷わなかった。

 語尾にかぶるほどの即答はさすがに予想外だったのか、珍しく兵庫がたじろぐ気配を漂わせる。

「性急に決断するな。のちのち悔やむことになるやもしれん。一度考えた上で、あらためて返事を聞こう」

「いえ、考えるまでもありません。もしも、いつかこうした機会を与えられることがあったなら、決して逃すまいと決めていました。この先どのようなことが起ころうと後悔はしません」

 かなり興奮して逆上のぼせていたが、すらすらと言葉が出てきた。すべて本音なので、どう言おうかなどと思案をめぐらす必要もない。

 振り向いて肩ごしに見上げると、兵庫は笑みを浮かべていた。彼が笑顔であったことが嬉しくて、匡七郎も口角を上げる。

「酔狂な男だな、おぬしは」

「似たもの同士なら、兵庫さまもそうでしょう」

 思いがけない展開に心浮き立ち、そのことで頭がいっぱいになった匡七郎は、結局あの捕虜のことはいつしか忘れるともなく忘れてしまった。

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