二十三 御守国御山・八雲 ネズミの罠
御山の奉職者には序列がある。
最上位はむろん、天門信教のすべての信徒の頂点に立つ祭主だ。
その下に位置するのは、次代の祭主候補として集められた若巫女や若巫子たち。現在は五歳から十六歳まで男女合わせて十九人が、山の頂の神域に建つ蓮水宮で養育されている。
次が十二人の宗司。御山の運営を実際に取り仕切る彼らにも、筆頭から十二位まで序列がつけられている。毎年夏の大祭礼の日に、過去一年の功績などに鑑みて新たな序列を申し渡すのは祭主の重要な務めのひとつだ。
これら三役の下に祭宜、唱士、衛士の三職があり、それぞれの職寮に分かれて役割ごとの仕事に就いている。
中でも、もっとも多くの奉職者を抱えるのが祭宜寮だ。十二宗司に次ぐ序列の大祭宜が約六十人、彼らの下で働く小祭宜が数万人。といっても御山勤めの者は千五百人程度で、祭宜の多くは下界へ下りて活動している。
全国に点在する約一万五千箇堂の祭堂で奉職している者。伝道の祭宜として、各地を渡り歩きながら教えを伝えて回っている者。海を越え、遠い異国で伝道している者も数百人ほどいるという。
矢箆原信光は十二年前に昇山し、百五十日の前期修行、四百日の後期修行を経て奉職者となった。後期を衛士寮の行堂で始め、のちに祭宜寮の行堂に移って第一日からやり直すという回り道をしたので、実際は百八十日ほど人より多く修行したことになる。
修了後は〈八雲〉という祝名を授かり、御山勤めの小祭宜のひとりとなって十年近く働いてきた。そんな彼が突然の通達を受け、蓮水宮で仕えることとなったのは昨年の晩秋のことだ。
配属先は、宮殿の主である祭主白藤が住まう奧の院。与えられた役儀は侍従。
これといった才能も特技もない自分がなぜ内宮入りすることになり、あまつさえ祭主の側仕えのひとりに抜擢されたのかを、彼はあれ以来ずっと疑問に思っている。出世と思って単純に喜べばいいのだろうが、その根拠が思い当たらないのはなんとも気持ちが悪い。
それでも、目映いほど美しい宮殿で祭主の傍に侍り、温和で優しい老人の身の回りの世話をする仕事は決して悪いものではなかった。彼が亡くなった時には、ほんのふた月ほどでお払い箱になるのかと少し残念に思ったほどだ。
だが、八雲は免役にはならなかった。
白藤の死後まもなく、次代の祭主に指名された若巫女の紅が奧の院へ移り、その際に前代の側仕えは慣例通り免役されたが、どういうわけか彼だけはそのまま留まるよう命じられた。前代に仕えた期間があまりに短かったので、同情でもされたのだろうか。
同役だった仲間からはうらやましがられたが、八雲は少しも嬉しくなかった。
宮殿勤めが厭なのではない。侍従の仕事に不満があるわけでもない。彼はただ、新しい主人にいまひとつなじめないのだ。
人の好き嫌いを言えるほど自分が上等な人間だとは思っていないが、それでも好きになれないものは仕方がない。仕事だから不満を呑んで仕えているが、いっそ何か粗相でもやらかして免役されてしまえたらというのが正直なところだった。
「なんでこうなったんだか……」
すっかり春めいた暖かな日差しの下で、宮殿の厨からくすねてきた草餅を頬張りながら、八雲は嘆息混じりにつぶやいた。それを横目に見て、衛士の玖実が鼻息をもらす。
「贅沢言っちゃって。祭主さまの侍従なんて、望んだってそう簡単になれるものじゃないのに」
「じゃあ、誰かなりたいやつに替わってもらいたいよ。おれよりずっと適任なのが、ほかにいくらでもいるだろう」
「そりゃそうよ。あんたみたいに気の利かない、しょっちゅう愚痴ばかり言ってるうざったいやつが、宮殿勤めしてること自体おかしいぐらいだわ」
「うるせえや」
ぽんぽんと悪態を吐かれて、少々気持ちがへこむのを感じながら、八雲はぞんざいに言い返した。
「みやげを持ってきてやったのに、なんて言いぐさだ。もう食わせねえ」
皿代わりの竹皮ごと草餅を遠ざけようとすると、シダの上に寝そべっていた玖実が急いで跳ね起きた。
「ケチくさいわね」
素早く手を伸ばして、餅をふたつかすめ取っていく。電光石火の早技だ。
「内宮にいる連中と違って、あたしはめったに甘いものなんか口にできないのよ」
食い意地の張ったやつだとあきれはするが、がっつく気持ちもわからなくはない。御山の奉職者にとって甘味は麻薬だ。
激しい労働と鍛錬に耐えられるよう、日ごろ塩気が強めの食事を与えられる一方、甘味にはほとんどありつかせてもらえない。だから、祭祓や何かの催しの際に振る舞われる少しばかりの水菓子、信徒や参拝者からごくまれに差し入れられる饅頭、落雁、飴、そういったものに誰もが目の色を変える。みな甘さに飢えているのだ。下界で上戸を気取っていた者でも昇山して一年も経つころには、酒と羊羹のどちらを取るかと聞けば、十人が十人とも羊羹を取るようになっている。
八雲も元はどちらかというと辛党だが、今では甘いものを出されたら絶対に断らない。
「内勤めだって、そんなに恵まれてるわけじゃねえぞ」
片眼をしかめる八雲に、玖実は餅をほおばりながら肩をすくめてみせた。
「でも、こうやってかすめ取ってくるお菓子が宮殿にはあるわけでしょ。職寮の厨にはこんないいもの、そもそも置いてすらないんだから」
やり合うだけ無駄だ。口では絶対に玖実には敵わない。八雲はあきらめのため息をつき、日差しに温められたシダの上にごろりと寝転がった。
「ここ、日当たりがよくて静かで気持ちいいな。伐採跡地か」
ふたりが会っているのは、山腹の一角にある開けたくぼ地だった。そのあたりには樹木が生えておらず、斜面はすり鉢状にへこんでいて、底を下生えがびっしりと覆っている。
人目を忍んでいちゃついたり、こっそり昼寝を決め込んだりするにはもってこいの場所だ。
「いつ見つけたんだ」
「ずっと前よ。行堂にいたころ、たまに当番を抜けて来てたわ」
「やっぱりさぼってたんだな」
非難めいた口調にも、玖実はどこ吹く風だ。
「のべつ真面目にやってたら、とっくに厭になって逃げ出してたわよ。そうならないように、ちょっとした避難場所を作っておくのって大事なんじゃない」
たしかにその通りだ。八雲は口をつぐみ、少し思いをめぐらせた。
修行中も修了後も、要領が悪いなりに何とかのらりくらりとやってきたが、この先は自分にも避難場所が必要になるかもしれない。前代祭主の傍にいたあいだは考えもしなかったことだが、新たな主人の下では今までのように安穏と暮らしてはいけないだろうという奇妙な予感がある。
「玖実、おれはな……紅さまがこわいんだよ」
晴れ渡った空を見上げていると、言葉がぽろりと口からこぼれ出た。こんなことを言うつもりなどなかったのに。
玖実が意味深な眼差しをこちらへ向ける。
「目が眩むような美少女だものね。近くで見てると下心がうずいて、疚しい気分になっちゃうんでしょ」
「馬鹿、そんなわけあるか」
冗談だとわかっていても、つい語気が荒くなる。
「浮ついた話じゃない。こわいってのは文字どおりの意味で、おれはあのかたがどうにもおっかないんだ」
「どこがよ」
「どこもかしこもさ」
人工的にすら思えるほどの美貌も、歳に似合わぬ落ち着き払った態度も。
そしてあの笑み――形のいい唇にしばしば浮かぶ幻惑的な微笑。それに魅了されてうっとりする者は多いが、八雲は愛らしさの中にぞっとするような怜悧さと残忍さを感じてうすら寒くなることがある。
「紅さまには得体の知れないところがある。譲位が確定して祭主になったら、いつか何かとんでもないことをしそうな気がするんだ」
「そうかしら。ただの女の子でしょ」
玖実はあっけらかんとしている。
「途轍もない美人だけど、まだほんの子供だわ。たまに儀式の時なんかに大祭堂でお見かけするけど、宗司の目を盗んで仲間の若巫女さまたちとひそひそ話をしたり笑ったり、無邪気そのものよ」
そういう部分も、もちろんある。なんと言ってもまだ十六歳の少女だ。だが、人目のない場所でふと彼女が垣間見せる表情を玖実は知らない。八雲もかつては知らなかった。それに気づいたのは近侍するようになってからだ。
「それより、調査のほうはどうなの。何か進展はあった?」
玖実が話題を変えた。紅にはたいして興味がないのだろう。
八雲はこの三月あまり、非番の空き時間を今年の年改めの日に起きた事件の真相究明に費やしてきた。知りたいのは、あの時に本当は何があったのかということだ。
事実としてはっきりわかっていることは三つある。
祭主白藤が殺害されたこと。
現場から若巫女の青藍が逃走したこと。
それを内宮衛士の街風一眞が追っていったこと。
すべて八雲自身が目にしたことなので、これらは実際に起きたことだと断言できる。だが、見なかった部分にもっと重大な何かが隠されていそうで、彼はそれを何とか探り出したいと思っていた。
青藍が祭主を殺したとは考えられない。では彼を殺めたのは何者なのか。無実なら青藍はなぜ釈明もせずに御山を逃げ出したのか。一眞は彼女を追ったのに、どうして連れ戻さなかったのか。
特に気になっているのは一眞の動きだ。彼は青藍を追ったまま姿を消したが、ひと月後に御山へ戻ってきて帰山の許しを求めたという。その時にはひとりきりで、青藍を伴ってはいなかったらしい。
下界で一眞が何をしていたのか、追ったはずの若巫女はどうなったのか、麓の大門の番所で聞き取りが行われたが、結局詳しいことはわからずじまいだった。彼が尋問に当たった衛士ふたりを斬殺し、再びどこかへ消えてしまったからだ。
その一報を聞いた時、八雲は我が耳を疑った。
山へ戻った時点では、一眞は宮士に復帰する心づもりだったはずだ。その日に大門で立哨を務めていた衛士の弥兵衛は、彼は抗う様子などいっさい見せず、おとなしく聞き取りに応じたと証言している。
なのに、なぜまた去ったのか。それも仲間をふたりも斬り殺して。もし手荒く尋問されたのだとしても、それでかっとなった可能性は一眞に限ってはないだろうと八雲は思っている。彼は冷静沈着で頭の切れる男だ。
「ここのところ、一眞のことをいろいろ聞いて回ってるんだ」
八雲が話し始めると、玖実は黙って唇の片端をわずかに攣らせた。一眞の名を聞くと、彼女はいつも同じ微妙な表情を浮かべる。意識してやっているわけではなく、どうも自然にそうなってしまうようだ。
「あいつが内宮入りしたのは去年だけど、じつは三年前にも異動を打診されたことがあったらしい」
「そうなの」
驚いたように言って、玖実は眉根を寄せた。
「三年前というと……景英さまが衛士長に就任された年ね」
「その就任直後、あのかたが真っ先になさったのが、一眞を内宮衛士に推すことだったんだとさ」
「じゃあなに、あいつ内宮入りを一度は蹴ったってこと?」
死にも値する罪過だと言わんばかりの口調だ。玖実は千手景英が行堂の堂長だったころから彼に心服していたので、その推挙を無下にするとは許しがたいと思っているのだろう。
「何様のつもりよ」
「まあ、何か事情があったんだろう。でも二度目はさすがに断れなかったみたいだな」
「当然だわ」
目に険がある。八雲は苦笑し、片手枕をして横を向いた。
「宮士仲間に聞いた話じゃ、しぶしぶ内宮入りしたあとも、一眞は衛士寮に戻りたがっていたそうだ」
「どうして」
「今日は、それをおまえに訊きたくて来たんだ。あいつが寮にこだわる理由を知ってるんじゃないかと思って」
「知るわけないじゃない。前にも言ったけど、あたしにはあいつとのつき合いはほとんどないんだから」
「でも同じ寮にいたんだから、多少は何か見聞きしてるだろう。離れたくないほど仲良くしてたやつが誰かいたとか――まあ、一眞はそういう型じゃないと思うけど」
「仲良くしてたやつなんていない」
玖実は素っ気なく言い、指でつまんでいた草餅の最後のひとかけらを口に放り込んだ。
「あいつが誰かとつるんでたのは、宿堂の同じ部屋であんたたちといた時が最後よ。利達が死んで、あんたが転堂して、伊之介が降山して……そのあとは一眞はずっとひとりでいたわ。めきめき腕を上げてみんなに一目置かれていたから、修行者の中心にいることは多かったけど、特定の誰かと親しくしてるふうじゃなかった」
あれからずっと。
話を聞くうちに、胃のあたりがずんと重くなった。
あの夏の終わりに、ひとつ部屋で兄弟のように寝起きしていた四人の道が完全に分かれた――それははっきりと覚えている。だが、今までそのことについて深く考えたことは一度もなかった。
離ればなれになり、それきり二度と会うことがなかったとしても、共に修行した仲間の絆は変わらないと思っていたが、ひとり取り残された形の一眞はどう感じていたのだろう。
転堂したあとも彼とは大祭堂や参拝者用の宿房でしばしば顔を合わせていたが、互いに忙しかったのでゆっくり言葉を交わす暇などなく、なんとなく疎遠になってしまっていた。
内宮入りしてからも、宮殿内で姿を見かける機会はそう多くはなかったように思う。だから、彼がずっとひとりでいたなどとは知る由もなかった。
「なんで友達を作らなかったんだ」
呻くようにつぶやくと、玖実が軽く鼻を鳴らした。
「さあね。でも、もともとあいつって、ちょっと他人を避けてるようなとこがあるじゃない」
「そうかあ?」
思わず出した間抜け声に、玖実があきれ顔をする。
「そうよ。あんたって、ほんとに鈍いやつね。一眞の斜に構えた感じとか、ときどき見せてた変によそよそしい態度に全然気づいてなかったわけ?」
まったく気づいていなかった。だが、素直にそう認めるのは癪だ。
「あいつの部屋に伊之介たちと移るって話した時、ひとりで寝るのが好きだとは言ってたよ」
「ほらね」
「だが一緒に寝起きするようになってからは馴染んでたぜ。おれら四人は出自も気性もばらばらだったけど不思議に気が合って、しょっちゅうみんなで馬鹿話をして笑ったりしたもんさ。もちろん一眞もな」
片腕で膝を抱え、ぽつりと玖実が何かつぶやいた。
「なんだって?」
訊き返しても彼女はすぐには応えず、しばらく黙っていた。その視線は、くぼ地全体を漫然とさまよっている。
何を言ったにしろ、もう一度言う気はないのだろう。八雲がそう思いかけたところで、玖実はふいに首を回してこちらを向いた。褐色の瞳の中に、追憶の情がゆらめいているように見える。
「一眞は――」
かなり間を置いて発した声には、奇妙に硬質な響きが感じられた。
「人に合わせるのが抜群にうまいのよ。周りの人間の考えや望んでいることを読み取って、ごく自然に、するりと内側に入り込んでいく」
彼女の口調に何かひやりとするものを感じ、八雲はわずかに首をすくめた。
「そうだったかな」
「あの内気で人見知りな利達が、出会ったその日から一眞には懐いた。覚えてる?」
「ああ。犬っころみたいに、いつもあとをついて回ってたな。一眞もずいぶん親身になって世話をしていたし」
正直なところ、八雲自身は利達の極端な臆病さや卑屈さにうんざりさせられることもあった。だが一眞はいつもさりげなく彼を守り立て、いい部分を引き出そうとしていたように思う。そのお陰で利達は厳しい調練にどうにかついていけていたし、少しずつ周囲とも打ち解けることができるようになった。もし一眞がいなかったら、彼は早々に挫折して御山を去っていただろう。
「おれはあいつの利達への接しかたを見ていて、優しい男だと――そう思ったんだ」
八雲は低くつぶやき、ちらりと玖実を見た。
「それも一眞には計算尽くの行動だ、とか言うんだろう?」
先回りして皮肉ってやったが、彼女は言い返してこなかった。意味ありげな眼差しで八雲を少しだけ見つめ、身軽に立ち上がって尻の汚れを軽く払う。
「さ、もう戻らなきゃ。あたしは、あんたと違って忙しいんだから」
「人を閑人みたいに言うな」
八雲は眉間に皺を寄せ、草の上に起き上がった。玖実と会って気張らしにはなったが、収穫と思えるような情報は得られなかったので物足りなさをを感じている。
「おまえがたいして知らないってんなら、一眞のことをいったい誰に訊けばいい」
早くもくぼ地を出て行きかけていた玖実が、すり鉢の淵で足を止め、ちょっと考えるように小首を傾げた。
「景英さまね」
「衛士長?」
彼は衛士寮全体の差配役だから、配下の者のことはもちろんある程度は知っているだろう。だが、今回の一件に関わるような深い部分のことまで把握しているだろうか。
「一眞は何百人もいる衛士のひとりだぜ。いくら景英さまでも――」
「仲のいい相手は誰もいなかったけど」玖実が八雲の言葉をさえぎり、どこか用心深い口調で言った。「あんたたちがいなくなったあと、一眞は明らかに景英さまに執着してたわ。調練では毎回必ず自分から望んで稽古をつけてもらっていたし、常にあのかたの一挙手一投足を観察していた」
慕っていたのか、いつか追い越したい相手として注目していたのか。どちらかというと、一眞なら後者だろうという気がする。だが、慕っていたとしてもおかしくはない。千手景英は高潔で慈悲深く、多くの奉職者から敬愛されている人格者だ。
「一眞は衛士長の一番弟子だと――いつの間にか、みんな自然とそう思うようになってたわ。景英さまのほうもあいつの剣には期待して、目をかけていらしたからね」
玖実はしゃべりながらゆっくり歩き、八雲の視界から消えかけたところで再び足を止めた。
「あのかたが、一眞を二度も宮士に推したのには理由がある」
肩ごしに振り向いた玖実の目は、これまで見たことのないような憂いを帯びていた。
「ご自身の後継者として育てたかったのよ」
蓮水宮に戻り、奧の院の静謐な廊下を歩いていると、北の院へ帰るところらしい若巫子と出くわした。
「やあ八雲祭宜」
「蘇芳さま」
道を譲って頭を下げた八雲に、蘇芳は物憂い微笑を投げた。細身で長身で影のように物静かなのこの若者は、いつも何かに憂えているように見える。
「どこに行っていたの。紅さまが呼んでいたよ」
それはまずい。いや、本当はまずくはない。勤めをさぼっていたわけではなく、非番の時間にちょっと出かけていただけなのだから。それでもやはり〝まずい〟と感じるのは、紅に気後れする部分が自分の中にあるからだろう。
「側仕えはほかにもたくさんいるのに、紅さまは八雲がとりわけお気に入りなんだね」
ふふ、と笑う蘇芳を上目づかいに見ながら、八雲は首筋にすうっと寒い風が吹いたように感じた。
お気に入りとはなんだろう。脅していたぶるにはもってこいの相手という意味だろうか。たしかにおれは、彼女の前ではいつも内心びくびくしている。それを表に出さないようにしてはいるつもりだが、あの美しくて鋭い目はすべてお見通しなのかもしれない。
「何か特別なご用がありそうでしたか」
夕方までは非番だ。急ぎの用でなければ、それまでのんびりさせて欲しい。そんなことを思いながら訊くと、蘇芳はちょっと肩をすくめてみせた。
「さあ。今日、飾り物がたくさん届いたとおっしゃっていたから、八雲に整理して欲しいのかも」
飾り物の整理など、ほかの側仕えにだってできる。いや、女の祭宜なら、おれなどよりずっとうまくやるだろう。
「客殿へ行ってみます」
あきらめ混じりに言うと、蘇芳は目を細めてうなずいた。
「それがいいね。紅さまは待たされるのがお嫌いだし」
今ひとつ心中の読めない若者が去るのを見送り、八雲は客殿の〈祥雲亭〉へ向かった。即位の儀がすめば紅は歴代の祭主が起居してきた奧の院の主殿に移ることとなるが、未だに譲位が完了していないため、十五日間の斎戒を終えたあとも客殿に留まっている。
とはいえ彼女はその生活全般にわたって、すでに祭主としての扱いを享受していた。八雲を筆頭に二十人の小祭宜が側仕えとしてつき、内宮衛士が客殿を警備し、宗司たちも彼女の意に適うよう御山を運営し始めている。
表向きには紅はまだ祭主候補者だが、内々にはもう祭主になったも同然だった。そこに八雲はひっかかりを感じている。物事の前後を取り違えているのではないだろうか。
前代の死からすでに四か月が経ち、いつまでも祭主位を空位のままにしておくわけにいかないのはわかる。だが譲位の証となる玉驗が見つからず、相伝されるべき秘術の詳細もわからないままで紅を祭主に仕立ててしまうのは明らかに勇み足だ。そんな適当がまかり通ったら、御山の秩序が根底から揺らいでしまう。
秘術の相伝は譲位の要件のひとつではあるが、伝えないまま前代が亡くなってしまったのだから、ある意味仕方がないとも言えるだろう。何かそれに関する書き付けでも残っていないかと書庫などを探してはいるものの、相伝は口伝えで行われてきた可能性が高い。前代の突然の死と共に、それは失われてしまったものと考えるのが妥当という気がする。
しかし玉驗――印章は形あるものだ。煙のように忽然と消え失せたりはしない。
前代は神告を得て譲位の時が来たことを知り、亡くなる直前に紅にそれを伝えたと言われている。ならば譲位の証したる玉驗は、すぐ渡せるよう手近なところに用意していたはずだ。だが祭主が殺害され、若巫女の青藍が逃亡したあと、奧の院で徹底捜索が行われたにもかかわらず印章は発見されなかった。
青藍が持って逃げたとは思えない。なにしろ、宗司たちですら現物を見たことはないという謎だらけの代物だ。もしそのあたりに無造作に置いてあったとしても、青藍がそれを重要なものだと気づいて悪心から着服する可能性は低いだろう。
青藍――客殿を目指して足早に歩きながら、八雲はふとあの少女の顔を思い浮かべた。
産まれてこのかた御山から、いや神域にある蓮水宮と大祭堂から一歩も外へ出たことがなかった幼い若巫女。天真爛漫で気立てがよく、笑うとあたりに光がこぼれるようだった。あの子はいま、どこでどうしているのだろうか。
前代の祭主白藤が殺害された朝、凶行の現場にいた紅は、下手人は青藍だと証言している。
彼女が祭主の寝所を訪れると、それと入れ替わりに青藍は一度部屋を出て行った。だが、ふたりが譲位に関する話をしていると突然舞い戻り、物も言わず駆け寄って寝台に跳び乗ると、手にしていた小刀の一閃で祭主の喉頸をかっ切ったという。
初めて話を聞いた時、なんだそりゃと八雲は思った。侮るわけではないが、あのどちらかというとのんびり屋の小さな娘に、そんな手練の暗殺者さながらの行動を取れるはずがない。
八雲が知る青藍は、小刀など持たせたら自分の指を切ってべそをかくのが関の山の粗忽者だ。そもそも、日ごろ危険物から念入りに遠ざけられている年少の若巫女が、どこからそんなものを調達し得たというのか。
〝年改めのご挨拶をしたかったの〟
そう言って祭主の寝間へ現れた時、青藍が小刀を隠し持っていたというのも理屈に合わない気がする。あの日に紅が祭主位を継承することは、前夜の祭主の尋聴の儀式に立ち会った天城宗司しか知らなかったことだ。ならば、なぜ青藍は懐に小刀を忍ばせて祭主を訪ねたのだろう。よしんば最初から何らかの理由で殺害するつもりだったとしたら、八雲が席を外し、部屋でふたりきりになった際にやらなかったのはなぜなのか。紅が来てから、彼女にすべて見られるのを承知で実行するのはあまりに不自然だ。
紅の証言には、しっくりこない部分が多すぎる。
いや、問題は青藍だ。あの子がからんでいると考えるから、何もかもがしっくりこなくなる。どう想像をめぐらせてみても、彼女の存在はあの惨劇にうまく当てはまらない。
では青藍を除外してみたらどうだろう。彼女は凶行の主役ではなく、誰かに役を割り振られて、何も知らないまま舞台に上げられた観客に過ぎなかったのだとしたら。
「もし紅が嘘を――」
自分の口から出たつぶやきにどきりとして、八雲は足を止めた。ふと見れば、もう〈祥雲亭〉へ続く渡り廊下の入口まで来ている。欄干と屋根のついた長い廊下の向こうには殿舎の扉があり、両脇にふたりの立哨が立っていた。
これだけ距離があれば彼らに声が届くはずもないが、めったなことを言って聞き咎められでもしたら事だ。
八雲は表情を引き締めて渡り廊下を歩いていき、扉を開けてくれた立哨たちに会釈をして殿舎の中へ入った。
大祭堂によく似た荘厳閑雅な趣の主殿とは異なり、客殿である〈祥雲亭〉の設えは華やかで美しい。金箔と漆が施された煌びやかな欄間、鮮やかな色彩の襖絵などは武家の御殿ふうだ。
右に牡丹と蝶、左に睡蓮の障壁画を見ながら廊下を歩いていくと、紅が居間にしている突き当たりの広間から小祭宜の志賀が出てきた。なすびに目鼻がついたような面立ちをしていて、新しく側仕えになった者たちの中ではいちばん年若い。
「あ、八雲祭宜」目ざとく見つけ、小走りに寄ってくる。「紅さまが――」
「お呼びなんだろう。聞いた、聞いた」
手を振ってさえぎり、八雲は広間のほうへ目をやった。
「おひとりかな」
「いえ、例によって……」もごもごと口ごもる。
「またお仲間に囲まれてるのか」
八雲は小さくため息をつき、頭をがりがり搔いた。
紅が奧の院へ移ってから、彼女と同年代の若巫女や若巫子がやたら気軽にこちらの殿舎を訪れ、長い時間居座るようになった。前代のころには断じてなかったことだ。少しずつ規律が乱れてきているのを感じる。
取り巻きの中に、年長の若巫子が多いのも少し気になっていた。先ほど行き合った蘇芳や、彼と仲のいい烏羽は紅と同じ十六歳。紫土と若竹はひとつ下の十五歳。だからどうだというわけではないが、そこそこ成熟した年齢の男子を紅の私的な居住空間に出入りさせて、何か間違いでもあったらと思うと不安になる。なにしろ、その〝間違い〟は過去にも一度起きているのだ。
「ご用を伺ってくるよ」
志賀と別れて板敷きの広間に入っていくと、若巫女と若巫子たちは菓子などをつまみながら思い思いにくつろいでいた。紅はともかく、その仲間たちがここで我が物顔をしているのはどうにもいただけない。
紅は螺鈿細工が施された背もたれの高い黒檀の椅子に腰かけていた。祭祓の日でもないのに髪に銀の飾りをつけ、刺繍入りの豪奢な装束をまとっている。絵になる姿だし美しいのはたしかだが、華美――と八雲には思えた。前代の白藤が素朴さを好む人だったので、余計にそう感じてしまうのかもしれない。
「八雲祭宜がようやっとお出ましだ」
からかうような口調で、紅のすぐ傍に陣取っている紫土が言った。
長椅子に片膝を立てて座っている烏羽が、きつい目をしてじろりとこちらを睨む。
「遅いな」
「すみません」非番だったんだよ、と言いたいのをぐっとこらえる。
「いいの」
鈴を振るような声で言い、紅がかすかな衣擦れの音をさせて立ち上がった。
「こちらへ来て」
彼女は八雲をいざない、隣室へ入って行った。続き部屋は畳敷きで、書院ふうの設えになっている。床の上には漆塗りの乱れ箱が置かれており、その中にいくつもの桐箱が整然と並べられていた。
「新しい簪や輪冠が届いたの。どれも高価なものばかりだから、信頼できるあなたに取り扱いを任せたいわ。記録をつけて、保管してもらえるかしら」
何をどう見て〝信頼できる〟と言っているのだろう。そういう評価をされるほど、まだ自分は紅と深くつき合ってはいない。
胸の中がもやもやしたが、八雲は従順にうなずいた。
「承りました」
「主殿の寝間の奧に、こういうものを仕舞っておく小部屋があるのでしょう。そこへ入れておいて欲しいの」
そこで紅はふいに声を落とし、八雲にすうっと身を寄せた。
「ほかの祭宜は、あのお部屋にはまだ入りたがらないと思うけれど、あなたは平気?」
濡れたような輝きを持つ大きな瞳が、間近から見上げて目の中を覗き込む。
八雲は思わず半歩下がり、急いで頭を下げた。
「わたしは気にしません。では、さっそく」
紅のほうを見ないようにしながら早口に言い、乱れ箱を傾けないよう慎重に持ち上げる。大きいが、さほど重くはない。
そのまま逃げるように広間を出て廊下を引き返していると、水菓子を盛った大皿を運ぶ志賀祭宜とまた出くわした。紅は水菓子を好まないので、おそらくあの享楽的な青二才どもに所望されたのだろう。
「おいおい、おれたちは祭主の側仕えであって、若巫子さまたちの召使いじゃないぞ」
「そうですよね」なすび顔がしょぼくれている。「どちらへ?」
「片づけものがあるんで、主殿へ行ってくる」
「お手伝いしましょうか」
「いや、いいよ」
志賀と別れ、久しぶりに足を踏み入れた奧の院の主殿は、冬枯れの森のように深閑としていた。警備や清掃は普段どおりに行われているが、やはり主がいないと詰める人も少ないので活気がない。
八雲は白木板張りの廊下を歩いて殿舎の最奥へ行き、前室、次の間と通り抜けた。寝間へ通じる最後の扉を開けようとしてふと手を止めたのは、その向こうにあの日の光景を再び見いだすような気がしたからだ。
落ちて割れた茶碗。乱れた敷布。寝台の飾り板や白い夜着に飛び散った大量の血。華奢で小柄な老人の体から出たとは思えないほどで、床に垂れた雫は禍々しい模様を描いていた。
扉の中は時が止まっていて、今もあのままなのではないだろうか。
厭な想像に身震いしながら、そうっと押し開いた扉の隙間から中を覗く。
当然ながら、そこはすでに洗われて念入りに拭き清められており、血痕も死骸も汚れた調度類も、何も残ってはいなかった。床もきれいに張り替えられている。
かつて部屋の中央に据えられていた寝台は代々の祭主が使ってきた立派で重厚なものだったが、血汚れを取り去ることができないので処分されたのだろう。祭主がこまごまとした日用品を入れていた小箪笥と、脚付きの長櫃も取り払われていた。主要な調度品が欠けた寝間は、うそ寒いほどだだっ広く見える。
中へ入ってせかせかと部屋を横切り、奧の小部屋へ通じる扉をくぐり抜けると、ほっとため息がもれた。
なんだ、平気だと言ったくせに、ざまあねえや。
自嘲の笑みを浮かべ、八雲は入口横の小箪笥の上に乱れ箱を置いた。小部屋の中は四方の壁すべてが棚になっていて、西側には法衣、北側には儀式用の装束、東側には白錬や熨斗目の下着と小袖、小物類などが収納されている。冠り物や飾り物の棚は南側だ。
まず、一つひとつ桐箱を開けて中をたしかめながら、帳簿に新しい飾り物の詳細を記録していった。
青玉の瓔珞を垂らした、透かし彫りのある銀の輪冠。紅玉と金剛石の胸飾り。石榴石と翠玉をあしらった鼈甲の簪。どれも目が眩むほど豪奢なものばかりだ。それらが入った桐箱にはすべて〈大嵩崎屋〉の焼き印が押されていた。これまでに聞いた覚えのない名前の店だ。最近になって御山の御用商になったのかもしれない。
二十ほどある飾り物をすべて記帳し終えた八雲は、南側の棚に空いているところを見つけて、端から桐箱を並べていった。
「ま、こんなもんかな」
作業を終えてからざっと見渡して独りごち、帳簿を小箪笥の引き出しに戻そうとすると、先端がつっかえて入りきらずに止まった。奧のほうに何かがあって邪魔をしているらしい。
手を突っ込んで取り出してみると、それは手のひらに載るぐらいの小さな木箱だった。いつからここに入っていたのかは知らないが、けっこう古いものに見える。
不思議に思いながら蓋を開けると、絹布で丁寧に包まれた四角い塊が現れた。石だろうか。大きくはないが重い。
慎重に布を開き、中身を見た八雲は愕然として腰を抜かしそうになった。
彫刻が施された丸いつまみ。厚みのある正方形の台。印章以外にはあり得ないその形。
玉驗――か。
にわかに動悸が激しくなり、額に汗がにじむのを感じながら、八雲はあわててそれを裏返してみた。印面より掘り下げる陰刻で、小さな文字がびっしりと彫り込まれている。信じられないほど精緻な細工だ。
鏡文字なのでわかりづらいが、しばらく印面を見つめていると読めてきた。
右上端には線刻された小指の先ほどの蓮花紋。そこから左に、〝退紅〟〝真赭〟〝橡〟〝菖蒲〟〝舛花〟……と文字が続いてゆき、何行か折り返して、最後は〝白藤〟と彫られている。
御山の紋と、二十八人の歴代祭主の御名。話に聞き、印影をこの目で見たこともある玉驗そのものだ。
「まさか、こんなところに……」
低くつぶやき、八雲は絹布で玉驗を包み直した。手が小刻みに震えている。
隠せ。
閃光のように、その言葉が頭を貫いた。
誰にも知られないうちに、もっと発見されにくい場所に隠してしまえ。紅の祭主位継承はすでに既定路線だ。これが出てきたらもう絶対に止まらない。
不審を残したまま彼女が祭主になってもいいのか。前代の暗殺。逃げた青藍。一度戻ってまた消えた一眞。謎だらけだ。まだ何も解明されていないじゃないか。真相がわかるまで、この玉驗は見つからないほうがいい。隠せ。急げ。
「八雲祭宜」
ふいに背後で声がして、全身が石化したように固まった。顔から血の気が引いて呼吸が止まり、鼓動が胸と耳の中で派手に鳴り響いている。
やがて硬直が解け、ようやく息を吸うことができた八雲は、ぎこちない動作でゆっくりうしろを振り返った。
小部屋の戸口をふさぐように立つ大柄な体。人を萎縮させる、威圧的な金壺眼。
「天城宗司……」
細いかすれ声でつぶやき、八雲はあわてて礼を取った。左手に木箱、右手には玉驗をまだ持ったままだが、その両手をどうすればいいのか見当もつかない。
「新しい寝台を入れるにあたり、調度類の配置を見直そうと思って来てみたのだが」
訊ねもしないのに天城はそう話し、ちらりと視線を落とした。手を見ているのだろうか。
「おまえは、ここで何を」
八雲はひと呼吸置き、心を鎮めてから答えた。
「紅さまのお申しつけで、新しく届けられた飾り物の整理をしておりました」
「そうか。どんなものが届いたのだ。その手にあるのは?」
駄目だ。もう逃げられない。
痛恨の思いを噛みしめながら、八雲はのろのろと印章を天城に手渡した。
「これは違います。先ほど、思いがけず小箪笥の奧から出てきました」
受け取った天城が、絹布を開いて子細に観察し、いささかわざとらしい驚きの表情を浮かべる。
「もしや、これは――」
八雲が暗然としながら黙ってうなずくと、彼は我が意を得たりと言わんばかりに、輝くような笑顔を浮かべた。
「でかしたぞ、八雲祭宜。これで延び延びになっていた即位の儀をようやく執り行える。待ちかねていた信徒たちもさぞ喜ぶだろう」
天城の晴れやかに弾む声を聞き、大きな手で背中を叩かれながら、八雲は罠にかかった間抜けなネズミの気分を味わっていた。
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