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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第二章 血戦の果て
113/161

二十一 江蒲国百武郷・六車兵庫 挑発

 六車むぐるま兵庫(ひょうご)石動いするぎ博武(ひろたけ)のつき合いはそこそこ長い。

 出会ってから十二年。同じ部隊で働きだして、もう八年あまり。

 だから博武が耶岐島やぎしま合戦から戻った日、その顔を見ただけで兵庫には何か重大なことが起きたとわかった。

 事の次第を聞かされたのは、彼が鉢呂はちろ砦を離れていたあいだのことを報告しに訪ねた時だ。

 七草さえくさ黒葛(つづら)家の当主で立州りっしゅう国主代、さらに博武の義兄でもある黒葛貴昭(たかあき)公が先のいくさで命を落としたという。

 報告の場には博武の相方である真境名まきな(りょう)と第一隊の隊長由解(ゆげ)虎嗣(とらつぐ)もおり、みな揃って打ちしおれていた。兵庫以外の三人は七草家直参なので、気落ちするのも無理はない。侍にとって主君を失うというのは大ごとだ。

 博武と燎は耶岐島の戦いに参加していたが、凶事が起きた際には旗本を離れていたらしい。傍にいたなら命に替えても守り抜いたものを――そんな無念さもあるのだろう。

 だが話を聞いたかぎりでは、誰が護衛についていたとしても貴昭公の死を防ぐことはできなかったものと思えた。前線へ出て突撃をかけている最中では、馬廻うままわり組も得物を振りかぶって襲ってくる敵兵を退けるだけで手いっぱいだったはずだ。

 支族の使い番を名乗って公に近づいたという狡猾なっ手は、武士や兵士というよりは暗殺者に近い。しかも首級を挙げて功名を立てようという野心も、し遂げたのちにその場から生還するつもりもなく、ただ確実に殺すことだけを心に期していた。

 そこまで己を捨て去ってかかれば、たいていの相手は殺せるものだ。今回のことは天災に遭ったとでも思うほかない。

 八畳敷きの小書院を満たす重い空気を破って、兵庫は遠慮がちに博武に問いかけた。

「こちらへ戻られてよかったのですか。もし、甥御おいごさまに付き添ってさしあげたいなら……」

 博武が甥の黒葛貴之(たかゆき)を溺愛していることはよく知っている。自身の部隊を率いるためとはいえ、父親を目の前で亡くし、悲しみに浸る間もなく次の戦に臨もうとしている少年を置いてくるのは身を切られる思いだっただろう。

 博武は真顔で少し考え、かすかに吐息をついて首を振った。

「いや、いいんだ。おれが辛気くさい顔をして傍にいると、逆に貴之に気をつかわせる」

 そう言ってほろ苦く笑う彼の表情は、たしかにこれまで見たことがないほど沈みきっていた。

「いまは戦を終わらせることに専念しよう。天守攻めの準備はできたのか」

 兵庫はひととおり報告したあと、今朝方届いた地上軍からの情報についても伝えた。

百武ひゃくたけ城にもる敵兵の数が存外多いため、曲輪くるわへ突入するのに少し時がかかるとのことです。天翔てんしょう隊は開戦と同時に天守へ攻めかかる予定でしたが、地上軍が防衛線を突破するまで待つようにと、黒葛寛貴(ひろたか)さまより指令がまいりました」

「孤立する危険があるからだな」

 訳知り顔にうなずく博武の横で、虎嗣が深く嘆息する。

「待機させられるのは好かん。暇になると余計なことをあれこれと考えてしまう」

「まあ、そうは言っても数日のことだろう」燎がなだめるように言って首を軽く曲げ、ごきりと鈍い音をさせた。「わたしは休む間ができて嬉しいよ。さすがに疲れた」

 そこで解散となり、陣屋の外で虎嗣と別れた兵庫と燎は、連れ立って宿舎へ向かった。

「麓はもう春真っ盛りだが、山の上に戻るとやはり夜は寒いな」

 山道を下りながら、燎がぽつりとつぶやいた。両手で自分を抱くようにして、かすかに震えている。

 明かりは手元の提灯ひとつだが、兵庫は夜目が利くので彼女の顔がはっきりと見て取れた。表情が冴えないのは寒さのせいばかりではないだろう。

「貴昭公のことは残念でした」

 声を低めてそっと言うと、燎は少し間を置いてから小さくうなずいた。

「今回ばかりは、だいぶこたえた。御屋形さまはわたしにとって、たんに主君という以上のおかただったから。女の身でありながら〈隼人はやと〉になれたのは、貴昭さまの寛大さとご理解があったればこそだ。もっと長くお仕えして、ご恩返しがしたかった」

「したでしょう。大将首をって」

 主人の死後に挙げた功績など——と卑下するかと思ったが、燎は寂しげな笑みをもらしただけだった。

「あんなものでは、まだ足りぬ気がする」

「ならば、不足分のご報恩はお世継ぎさまに」

 彼女は道の先に見えてきた宿舎の明かりにじっと目を据え、口元を強く引き締めた。

「そうだな」

「まずは城を落としましょう」

「おぬしが隊へ引き入れて、ここしばらくやたら手厳しくしごかせていたあの新参――」ふと思い出したように訊く。「どうなった。実戦に出すのか」

「そこそこに仕上がったので、使おうと思います」

「前に訓練の様子を少し見たが、あれはおもしろい乗り手だな。人がとりを操っているとは思えぬほど、奔放で大胆な飛び方をする」

 兵庫は声の調子から、燎が本気で刀祢とね匡七郎(きょうしちろう)に興味を持っていることを感じ取った。彼女自身、天翔隊の歴史始まって以来と言われる卓越した乗り手なので、何かしら心に響くものがあるのだろう。

「おもしろいのはいいが、癖が強いので相方を見つけるのに難儀しそうです」

「おぬしが組んでやればよい」

 またこれを言われてしまった。もう何度目だろうか。少し顔に出たらしい不服げな色を、燎が鋭く見とがめる。

「なんだ、気に入らぬのか。癖がどうのと言うなら、おぬしもそうとうに型破りだぞ」

「そんなはずはありません」

「空でも地上でも、おぬしとの模擬戦闘にはいつも苦戦させられる。次に何をやり出すか読めぬからな。今回の天守攻めにしても、あんなふてぶてしい策はおぬし以外には思いつかぬし、よしんば頭に浮かんだとしても実行はせぬだろう」

 燎は目を細め、莞爾かんじとして笑った。いつも兵庫に魅力的だと感じさせる笑顔だ。

「わたしに言わせれば、おぬしらは似たもの同士だよ」

 そう言い残し、彼女は高く結い上げた髪の先端を背にさらりと揺らして宿舎へ入っていった。


 四日後、陣屋で遅い昼飯を食べていたところへ、偵察を担当する天眼てんがん組からの報告が届いた。黒葛つづら寛貴(ひろたか)率いる地上軍が、百武ひゃくたけ本曲輪(ほんぐるわ)の表御門をついに突破したという。

 兵庫ひょうごは同席していた伊勢木いせき正信(まさのぶ)を各所への使いに走らせ、食いかけの膳を残して居間を出た。その足で、一ノむねの武者溜まりを覗きにいく。

 広い板敷きには、ざっと六十人ほどが溜まっていた。思いおもいにくつろいではいるものの、出撃待機中なので、いつ声がかかってもいいようにみな斬り込み支度を整えている。その中に刀祢とね匡七郎(きょうしちろう)のつるんと白い顔を見つけて目顔で呼ぶと、彼はすぐに立って傍へやって来た。

「もう昼餉ひるは食ったか」

 前置きなしに訊くと、彼は目をぱちくりしてうなずいた。

「はい」

「では、少しつき合え」

 そう言って陣屋の外へ出ていく兵庫を、匡七郎が嬉しそうに追ってくる。何をさせられるのかと訊ねもしない。

 北のやぐら門を抜けて見下ろした練兵場には、すでに禽籠とりかごから引き出された天隼てんしゅんが居並んでいた。

 門扉の脇にしばし佇んだ兵庫たちの横を、何人かの隊士があわただしく駆けていく。その中に混じっていた第一班の班長伍香(ごこう)享祐(きょうすけ)が、兵庫の姿に気づいて足を止めた。

「隊長、お気をつけて」

「そちらもな。手はず通りにやれ」

「お任せを」

 彼は歯切れ良くこたえて、軽快に階段を下っていった。ここへきてようやく、匡七郎がいぶかしげな表情になる。

「これから何か始まるのですか」

「道々、説明する」

 その時、主郭の櫓で陣触れの太鼓が鳴り始めた。はっと視線を上げた匡七郎が「いよいよか」と小さくつぶやき、ふと真顔になる。〝少しつき合う〟の真意に思いが至ったようだ。

「兵庫さま、わたしは留守居――ですよね?」

 まだ再訓練中であり相方も決まっていないので、今回の天守攻めには加われないものと思っていたのだろう。問いかける声に、にわかに期待感がこもる。

「何かさせていただけるのですか」

「おれには〝足〟がる」

 匡七郎は目を輝かせたが、兵庫はその瞳の中にわずかに不安の色を見て取った。毎日ふらふらになるまで飛行訓練を重ねて、当初は乱暴そのものだった操禽そうきんもかなり安定してきているが、まだ完全ではないと本人もわかっているのだろう。

 使ってもらえるのは嬉しいが、期待に添うだけの働きができるだろうか――そんな懸念が頭をよぎっているに違いない。

 副郭へ下りて乗騎の傍へ行くと、とりはもう鞍を載せられており、あとは飛び立つだけになっていた。

「ひと飛びするぞ。手綱を取れ」

 鉢金はちがねを額に巻きながら命じると、匡七郎は脇に抱えていた長袍ちょうほうを急いで身につけた。顔には緊張感がみなぎっているが、目は澄んでおり、動作も落ち着いている。いい傾向だ。

 兵庫は後鞍に跳び乗り、革の把手はしゅを左手で握った。

「よし、上げろ」

 短く命じると、匡七郎は一瞬身じろぎして、あたりを素早く見回した。部隊の仲間がまだ揃っていないので、当惑しているようだ。だが何も訊き返さず、言われた通りに禽を離陸させた。

みずのとの方角へ直進」

 指示を聞いた匡七郎は、肩ごしにちらっとうしろを見た。後続騎がないことを確認して、物問いたげな眼差しを兵庫に向ける。

「このまま進むと百武ひゃくたけ城ですよね」

「そうだ」

 彼は眉根を寄せ、いったん前に向き直ってしばらく考えてから、再び兵庫を見上げてためらいがちに問いかけた。

「〝ひと飛び〟とおっしゃいましたが、何をするのでしょう。我々だけ、その……単騎で」

「喧嘩を売りに行くのだ」

「はぁ?」意表を突かれた様子で間抜け声を出す。「喧嘩——ですか」

「天守曲輪(ぐるわ)の守備についている江天隊こうてんたいはいま、臆病な蝸牛かたつむりのように殻の中で丸まっている」

「それを引っ張り出すために喧嘩をふっかける、ということですか」

「そうだ」

「しかし、釣り出されるでしょうか。何度も偵察騎を出して挑発しても、まったく乗ってくる様子がなかったと聞いていますが」

あおり方が手ぬるかったのだろう。今度のは効くはずだ」

 単騎で敵陣へ向かうと聞いて怯むかと思いきや、匡七郎はにやりと笑った。

「楽しいのか」

「兵庫さまが、悪い顔をなさっているからですよ」

「そんな顔をしていたかな」自覚はない。

「何か、よからぬことを考えておられるお顔です。いまも昔と変わらずに悪戯いたずら好きなんですね」

 含み笑いをしながら言い、彼は鞍に座り直して、どことなく幸せそうなため息をついた。

「共に出陣するのは十二年ぶりです」

 その言葉が兵庫の脳裏に、ふたりで暗い森へ分け入った月のない夜の記憶を蘇らせる。

「あの夜の兵庫さまは、恐ろしく強そうに見えました」

「鬼と見紛みまがうほどにな」

 当時の匡七郎は八歳ぐらいだったが、眼前で展開された凄惨な斬り合いにも怯むことなく、与えられた役目を見事に完遂した。

 年若くとも、有能で信頼に足る人物。かつて彼に対して抱いたその印象は、いまも兵庫の中で変わっていない。だから本人がどう思っていようと、この作戦に匡七郎を使うことに不安はなかった。

「天守の上空に達したら、おれは曲輪くるわの中へ飛び降りる」

 黙って耳を傾けていた匡七郎の背中が、進路前方に目を向けたまま硬直した。

「中庭へ降りたら渡りやぐらに押し入って内部を通り抜け、最短の道筋で東の小天守へ向かう。敵が群がってくるだろうから、斬り合いで何度か足を止められるだろうな。小天守の最上階まで上り詰めたら格子窓を破り、そのまま断崖へ身を投げるから、ちょうどの間合いで拾いに来い」

 返事はなかった。唖然として声も出ないらしい。

「理解したか」

 念を押すと、匡七郎は小さく身じろぎして首肯しゅこうした。

「はい」喉から無理に絞り出したように声がかすれている。「しかし——あまりにも無謀に思えます」

「おれが守備隊に討たれると思うのか」

「いえ、兵庫さまがそう易々(やすやす)とやられるなどとは思っていません。気がかりなのは、わたしが間合いを……読み違えることです」

「おぬしがうまく拾えなければ、おれは追撃してきた敵に討たれるか、あるいは谷底に墜落して死ぬ」

 匡七郎はその場面を想像したかのように、ちょっと首をすくめた。

「念のために伺いますが、援護はないのでしょうね」

「何の話だ」

「わたしがやり損ねた場合に備えて、ほかの乗り手が下で待機しているというようなことは……」

「ない」

 きっぱりと言い、兵庫は手を伸ばして彼の肩を掴んだ。

「おぬしはあやまたぬ」

 その瞬間、匡七郎の背筋がすっと伸びた。少し間を置いてゆっくり振り向いたその目には火がともり、唇に薄く笑みが浮かんでいる。

「兵庫さまにそうおっしゃられたら、失敗するわけにはまいりませんね」

 頼もしさを感じさせる、腹の据わった声になった。

「そろそろ警戒空域に入るぞ」

「は」

「おれを待つあいだ、おそらく弓矢や鉄砲で狙われるだろう。撃ち落とされぬよう、曲輪の上を高速で飛び回れ」

 その時、薄い雲の下に百武ひゃくたけ(ごう)が見えてきた。〝几〟の字を横に引き伸ばしたような形をした、やや低めの城山。その裾野に広がる城下町を、整然と区画する碁盤目状の街路。

 懐かしい、と兵庫は声に出さずにひとりごちた。

 前にこのさとを見たのは、初めて剣術修行の旅に出た十六歳の時だった。そそり立つ城山と広大な麓御殿を内堀の向こうに望みながら、何とかしてこの城にもぐり込めぬものかと煩悶したことを今も覚えている。その中に囚われていた人を――できることなら生かしたかった人を救い出すために。

 今回〝無謀〟と言われるような策を考えたのは、あのとき思いを果たせなかった口惜しい気持ちが、まだどこかに残ってくすぶっていたからなのかもしれない。

「地上軍はまだ本曲輪ほんぐるわの中ですね」

 匡七郎が眼下を俯瞰ふかんしながら言った。

「思ったほど戦線が上がっていない」

城方しろかたの抵抗が激しいのだろう」

 兵庫はつぶやき、とりの背から上半身を乗り出した。斬りつけるような風が髪を舞い上げ、激しくなぶってかき乱す。

 防衛線を突破して本曲輪に侵入した地上軍は、城方の兵と乱戦を繰り広げながら麓御殿と城山へ登る大手道の入口に迫っていた。先頭部隊の一角は、緊密な黒い壁のようになってじりじりと戦線を押し上げている。じきに彼らが大手道に入る門を打ち破るだろう。

 戦う大集団の頭上を飛び越すと、天守曲輪が目の前に現れた。

 物見(やぐら)の見張りは敵騎の接近にすでに気づいているはずだが、それに備えようとする様子は特に見られない。無駄な挑発を連日繰り返していた立天隊りってんたいが、またぞろ偵察騎を出してきた、という程度にしか考えていないのだろう。

「少し接近して、曲輪の上をひと回りしろ」

 天守曲輪全体をぐるりと囲む渡り櫓に沿って、禽を大きく旋回させる。山の東の断崖絶壁に差しかかると、兵庫は匡七郎に注意を促した。

「さっき話したのは、あの断崖の上に建つ小天守だ」

「最上階から跳ぶ――のですね」

「そうだ。見落とすな」

 一周し終えて南側へ戻ってくると、兵庫は後鞍の上で姿勢を低く取った。片膝をつき、上体を横に乗り出し、左手で腰に差した刀の鞘をしっかりと押さえる。

「中庭の、あの樹木が密集しているあたりを低くかすめて飛べ」

「承知」

 禽がぐんと高度を下げた。緑の樹冠がみるみる迫ってくる。

「匡七郎」

「は」

「おれを乗せていてはできぬ飛び方をしろ」

 早口にそう言い残すと、兵庫は鞍を蹴って樹林の上に飛び降りた。

 右腕を顔の前にかざして目を守りながら、よく繁茂してからみ合った枝葉の中を四間ほど落ち、途中で手ごろな太い枝をぱっと掴む。片手でぶら下がったまま見上げると、匡七郎が小天守のひとつをつつくように接近してぎりぎりでかわし、急加速しながらとんぼ返りをするのがちらりと目に映った。じつに派手で、華麗で、同じ天翔隊士からすればいささか鼻持ちならぬ飛び方だ。

「うまいぞ」思わずにやりとする。

 あんなふうに敵騎に自陣の上を飛び回られて、笑って見ていられる〈隼人はやと〉はいない。匡七郎にしてみれば自分本来の飛び方をしているだけだが、いい具合に江天隊を煽り立ててくれそうだ。

 さて、こちらもやるか。

 兵庫は枝から手を離すと、ふたつ宙返りをして勢いを殺しながら地上に降り立った。今になってようやく櫓で鐘が打ち鳴らされ、天守曲輪の守備兵に急襲を知らせている。駆けつけてくる敵に囲まれる前に、素早く動かねばならない。

 林の中を抜けて正方形をした中庭に出ると、数人の兵士が走ってくるのが見えた。右手から四人、左手から三人。相手をできない人数ではないが、ここで交戦するつもりはない。見通しのいい場所で戦っていると、高窓から飛び道具で狙われてしまう。

 兵庫はさっと身を翻し、斜めうしろに進路を取った。少し向こうに、二階建ての渡り櫓の一層目へ入る戸口が見えている。

 急な石段を駆け上がって重い木の扉を引き開け、彼はひんやりした薄暗い内部にすべり込んだ。板敷きの回廊は幅三間ほどもあって広く、太いはりが連なる天井も思いのほか高い。

「いたぞ!」

 背後で江州兵が叫んだ。渡り櫓の屈曲部に建つ三重小天守から出てきたのだろう。長い廊下の端に六人いて、みな槍を携えている。

 兵庫は通路の反対側へ向かって脱兎のごとく駆け出し、彼らを置き去りにした。これは合戦ではなく単なる挑発行為なので、追ってくる者といちいち戦うことはしない。倒すのは行く手をはばむ敵だけだ。

 南の小天守との連結部にある短い階段に差しかかったところで、泡を食ったような顔の兵士ふたりと初めて相まみえた。右の敵は槍を構え、左の敵は大刀を抜いている。

 兵庫は顔面へ突き込まれた槍の穂先をかわし、柄を右手の甲で上へそらしながら身を沈めて階段を駆け上った。正面にいるもうひとりが振り下ろしてきた大刀の柄を相手の手ごと掴み止め、そのまま指に力を入れて、ぐいと横にひとひねりする。

 手の中で、ぽきりと骨の折れる音がした。悲痛な悲鳴が上がり、敵兵の指がふっとゆるむ。その手から大刀を奪って、ふたりを続けざまに斬り倒した。そうしている間にも南小天守の内陣ないじんから、わらわらと新手が駆け出してくるのが見える。

 そこから先はもう足を止めず、うしろも見なかった。

 内陣脇の通路から次の渡り櫓の入口へ。回廊を抜けて東小天守へ。脱出口と定めた三階の窓を目指しながら、進路をふさぐ敵とだけ斬り結んだ。

 といっても殺しはしない。刀身でもっとも切れ味のいい物打ちを主に使って、顔を刻み、鼻や手指を落とし、腕や脚を斬るなどして重傷を与えるに留めた。さしあたり、追ってこられないよう無力化するだけでいい。

 東小天守の二階から三階へ上がる途中、好奇心に負けて一度だけ振り返ってみた。いまや追っ手は三十人あまりに増え、うち六人ほどが階段下まで肉薄している。あれに一斉に組みついてこられると厄介だ。

 兵庫は三階から下りてきた兵士の右腿に刃を深く突き込み、がくりと倒れかかる胸ぐらを掴んで背後へ投げ落とした。

 上から降ってきた仲間の体に衝突して、階段を上りかけていた兵士たちが将棋倒しに転げ落ちる。

 その隙に上階まで一気に駆け上がった。東の断崖を見下ろす格子窓は、もう目の前だ。だがそれを破る前に、三階の守備兵ふたりを倒さねばならない。

 彼らは連携し、わずかに間合いをずらして斬りかかってきた。動き出しは左側の兵が早い。

 脚を狙ってきた白刃を飛び越えながら、兵庫は初めて自分の刀を抜き、後手に回った右側の兵士の首筋をね斬った。着地してすかさず上体をひねり、返す刀で後方をぎ払う。

 鋭い光芒を放った刃が、背後上段から二の太刀を振るおうとしていた敵の下腹を横一文字に切り裂いた。

 ふたり片づけて、大きくひと息吐く間にも耳に響く、あわただしく階段を駆け上る足音。追っ手が迫っている。そろそろ退散する頃合いだ。

 兵庫は渾身の力をこめて窓格子を蹴破ると、へりに爪先をかけるや否や、前後も見ずに宙へ身を投げた。

 眼下には断崖が切り立ち、その裾野には黒々とした森が広がっている。しかしそれらをじっくり眺める間もなく、すぐさま足の下にとりがすべり込んできた。まるで窓の下に張りついて、こちらが飛び出すのを待っていたかのようだ。

「よくやった、匡七郎」

 鞍に降り立ったあと、あまりの間合いのよさに驚きながらねぎらうと、匡七郎はちらりと視線をよこしてにっこりした。

「うまくいって、ほっとしました」

「だが安心するのはまだ早い」

 兵庫はそう言って、目を上に向けた。

「そら、怒り狂ったスズメバチのように、やつらが巣から出てきたぞ」

 天守曲輪のあちらこちらから、次々に出撃する禽の姿が見て取れる。その光景はまさしく、怒って巣から飛び出すスズメバチそのものだ。

「これまで挑発に乗ることはなかったのに、どうしたのでしょう」

「我が家にいきなり土足で踏み込まれて狼藉の限りを尽くされるほど、腹に据えかねることはない」

「なるほど」その光景を想像でもしたのか、くすくす笑っている。

「喧嘩を売るところまでは首尾よくいったが、肝心なのはむしろこの先だ」

「は。次はどう飛びますか」

「高度を低く保ったまま、いぬいの方角へ進路を取れ。速度をうまく加減して、うしろから来る敵に追いつかれぬようにな。だが、やつらを置き去りにはするな」

「どこかへ誘い込むおつもりですね」

 得心し、ひとりうなずく匡七郎の声が、抑えきれない笑みを含んだ。楽しい遊びにまだ続きがあるのを知ってはしゃぐ子供のようだ。当初感じていた不安は、作戦に没頭するあまり完全に忘れてしまったらしい。

 たかぶりを隠そうともしない若者の無邪気さに心なごむものを感じながら、その傍らで兵庫もまたひっそりと微笑んだ。


 逃げていると思わせるように飛べ。

 そんな兵庫ひょうごからの指示に従って、天隼てんしゅんを操る匡七郎きょうしちろうは命からがら逃走する偵察騎を巧みに模した。

 追撃のために天守曲輪(ぐるわ)から出撃した江天隊こうてんたいは四十騎あまり。総員ではないだろうが、それでもかなりの数だ。対するこちらは単騎で、自陣へ向かうのではなく敵領空を当てもなく――そう見えるように――飛んでいる。敵はその演技にまんまと幻惑され、得物に狙いを定めた猟犬のように躍起になって後を追ってきた。いずれは待ち伏せや罠を警戒し始めるだろうが、そこまで長々と引っ張るつもりは兵庫にはない。

 やがて前方に百武ひゃくたけ城の城山よりもやや高い、ずんぐりした岩山が現れた。頂上付近にはほとんど樹木が生えておらず、特徴的な白っぽい岩石の連なりがむき出しになっている。

「匡七郎、あの岩山へ向かってまっすぐに飛び、頂上を過ぎておれが指笛を吹いたら反転しろ」

「承知」

 とりが少し速度を上げる。兵庫は把手はしゅをぐっと握り、鞍の上で足を踏ん張って風圧に耐えながら、肩ごしに振り返って追撃部隊を見やった。全騎しっかりとついてきている。いいぞ。

 前に向き直って確認すると、岩山はもう間近に迫っていた。頂上まであと一町。半町。いまだ。

 指で輪を作って唇にくわえ、兵庫は空気をつんざくような高い笛の音を響かせた。

「曲げます!」

 匡七郎が大声で言い、手綱を絞って禽を右回りに旋回させる。

「――あ」

 彼は小さく声をもらし、眼前で展開されている光景に息を呑んだ。

 先ほどまで背後にぴたりと貼りついていた江天隊が、どこからともなく現れた立天隊りってんたいに襲撃されている――と、匡七郎の目にはそう見えたはずだ。

 驚いているのは敵部隊も同じで、彼らは完全に恐慌状態に陥り、大きく隊列を乱していた。そこへ情け容赦なく立天隊の斬り手たちが襲いかかり、一騎また一騎と撃墜していく。もはや先頭集団は総崩れの有り様だ。

「すごい……でも、いったいどこから」

 半分うわの空で禽を操りながら、茫然と匡七郎がつぶやく。

「上からだ」

 兵庫はにやりとして、立天隊が忽然と出現した理由を教えてやった。

「雲を衝立ついたての代わりにして、そのさらに上に部隊を潜ませていた。目を凝らせば騎影は見えるが、江天隊はおれたちを追うのに夢中で気づかなかったようだな」

「振り向いたらもう攻撃が始まっていたので、空中から湧いて出たのかと思いました」

「指笛の合図と同時に降下――というよりはまっすぐ落下して襲いかかったので、文字どおり降って湧いたように見えたのだろう」

 匡七郎が感心したように低く唸る。

「探せば、空にも隠れ場所はあるものなのですね」

「多くはないのが難儀だがな」

 ふたりが言葉を交わすあいだにも、苛烈な攻撃に耐えかねた江天隊が少しずつ押し下げられていく。反撃はしているものの、その動きにはどこか迷いが感じられた。このまま戦い続けるか、百武城へ戻って仲間と合流後に立て直すか、決断しかねているのだろう。

「やつら、退くでしょうか」

 自分も戦いたくてうずうずしているように、そわつきながら匡七郎が訊いた。

「退路は由解ゆげ虎嗣(とらつぐ)どの率いる第一隊に断たれている。よしんば迂回して戻れたとしても、天守曲輪に残った部隊は今ごろ三天隊さんてんたいとやり合っている最中だ」

 えっというように匡七郎がこちらを見た。ややあって、ようやく腹に落ちた顔になる。これが立天隊と三州さんしゅう天隊(てんしょうたい)による連携作戦だということを、今のいままですっかり忘れていたらしい。

 ふたつの部隊がからむとはいっても、今回兵庫が組み立てた作戦は単純至極だ。

 まずは兵庫と匡七郎が敵を釣り出す。待ち伏せの場所へ誘い込まれた相手を立天隊の第五隊が急襲し、さらに背後から畳みかけるように第一隊が挟撃。その間に三天隊は、城で天守曲輪を守っている江天隊の残騎と交戦を開始する。

 そうして百武城の防空部隊を一掃したのちに、両部隊が合流して曲輪へ攻め入り、城主がもる大天守を制圧する手はずとなっていた。

「この作戦には、四つの役割が存在したのですね」

 すっかり呑み込んだ様子でつぶやいたあと、匡七郎はふと小首を傾げた。

「あ、でも――江天隊の本拠が、どこか西のほうにありますよね。城へ戻れないとなると、そちらへ向かう可能性も……」

「本拠の二十一にそいち砦は、丈州じょうしゅうの丈天隊が壊滅させた」

 そのしらせは昨夜遅くに届いた。本隊と分かれて城詰めをしていた江天隊士にも、当然もう伝わっているだろう。

「彼らには、もはや戻る場所はない」

 最後の一騎が落とされるまでここで戦うか、戦線を離脱してどこかへ逃げるかだ。

 すでに敵騎はかなり数を減らしている。兵庫は匡七郎が滑空させている禽の背からじっと見守り、ここと思う間合いで各班の班長に合図を送った。

 すぐに戦闘を停止した隊士たちが、編隊飛行の態勢へと移行する。それを好機とばかりに、江天隊の残騎がこの空域から急いで離れていった。二騎は百武城方面、四騎はどこへともなくばらばらに。

 整然と編隊を組んで百武城へ戻る途中、江天隊の後方集団と戦っていた由解虎嗣の部隊と合流した。禽を寄せてみれば、虎嗣は点々と返り血を浴びて目をぎらつかせている。どうやら指揮を執るだけでは飽き足らず、自らも空戦に加わって戦ったらしい。

「虎嗣どの、挟み撃ちは上首尾に終わったようですね」

 声をかけた兵庫に、彼は大きな笑みを見せた。

「そちらもうまくやったな。釣り出しは見事だった」

「もうひと踏ん張りしましょう」

「そうだな。城を落とすぞ」

 手で合図を交わして別れ、兵庫と虎嗣はそれぞれの部隊の先頭に位置取った。百武城へ戻れば、最後の大仕事が待っている。

 

 空路を逆に辿って再び百武ひゃくたけ城へ戻ってみると、黒葛つづら寛貴(ひろたか)率いる地上部隊はすでに城山の八合目あたりまで攻め上っていた。

 天守曲輪(ぐるわ)を守る江天隊こうてんたいの残騎は、兵庫ひょうごが想像していたよりもやや多かったようだ。しかし三州さんしゅうから作戦に加わっている三天隊さんてんたいは落ち着いて手堅く戦い、立天隊が駆けつけた時にはほぼ勝負を制していた。さすがは、南部で最初に創設されたもっとも歴史ある天翔てんしょう隊だ。

 防空線を完全に破った立三連合部隊は、哨戒騎を数騎だけ残して曲輪の中庭へ一斉に降り立ち、かねて打ち合わせていた通りに分散して城方しろかたとの戦闘を開始した。

 配下の兵たちが散っていくのを見届け、自分も動き出そうとした兵庫の袖を匡七郎きょうしちろうがそっと引く。

「兵庫さま、あちらに」

 教えられたほうへ視線をやると、石動いするぎ博武(ひろたけ)真境名まきな(りょう)の乗騎がまさにいま着陸するところだった。

 駆け寄る兵庫らを見て、博武がにやりと笑う。

「予定通りに進んでいるようだな」

「は。なんとか」

「地上部隊がこの曲輪に到達するまで、いましばらくかかりそうだ。持ちこたえられるか」

「いけるでしょう」

 むやみに楽観視する気はないが、先ほど小天守で斬り結んだ手応えから察するに、守備兵の大半はあまり実戦に慣れていない。日ごろから地稽古を欠かさない〈隼人はやと〉の力量には遠く及ばないと感じた。各人一騎当千とはいかないまでも、一騎当十ぐらいなら軽くこなせるだろう。

「よし。ただ見ているのはつまらんし、おれたちも戦おう」

 博武は燎と目を見交わし、兵庫に向かって短くうなずいた。

「のちほど天守でな」

 彼らが走り去るのを見送り、兵庫は匡七郎に視線をやった。こちらもやる気満々の顔をしている。

「殺されるなよ」

「承知」

 元気よくこたえて、匡七郎は周囲で展開されている乱戦の中へ飛び込んでいった。その足取りはあきれるほど軽い。力が有り余っているのだろう。

 悠長にそんなことを考えていた兵庫に、抜刀した敵兵が斜めうしろから襲いかかってきた。目の隅にその白刃の輝きを捉えながら腰を沈め、地面についた片手を軸に低く回し蹴りを放つ。

 くるぶしすくわれた男はどっと横ざまに倒れ、その手から得物が吹っ飛んだ。二尺三寸あまりの、やや反りの深い打刀だ。

 兵庫はそれを拾い上げて次の敵を迎え撃ち、胸から喉にかけて斬り上げた。古い刀に見えるが、切れ味は悪くない。

 立ち上がりかけていた持ち主に素早く止めを刺すと、彼は曲輪の南側へ向けて走った。土がむき出しになっているだけの広場の奥には、五層七階建ての雄大な大天守がそびえている。

 一見したところ、中庭から大天守へ入るための入口は設けられていないようだ。いったん隣接する渡りやぐらへ入り、そこから連結部の扉を抜けなければならないらしい。

 兵庫は走りながら打刀を振るって左右の敵を斬り伏せ、南西の渡り櫓にまっすぐ駆け込んだ。長い回廊にはすでに死体が点々と転がり、周囲に錆くさい血のにおいが立ちこめている。

 しばし足を止めて天守のほうを窺うと、どおんと大きな鈍い音が腹に響いてきた。

「大太鼓みたいだ」

 つぶやく声に振り返ると、開いたままの扉の脇に匡七郎が立っていた。穂先を血に濡らした槍を引っ提げ、頬にも返り血を浴びているが、目には生気が満ちあふれている。

 ついてきているとは思わなかったので少し驚いたが、兵庫は敢えて言及しなかった。

「大天守への扉を打ち破ろうとしているのだろう」

「音がしているのは地階のようですね」

「そうだ。下りるぞ」

 回廊の端まで行って階段を下ると、大天守へ続く厚い扉の前に十人ほどの隊士が集まっていた。どこから調達してきたものか太い丸太を使い、早くも外側の漆喰扉を破壊している。だが、全面に鉄板が張られた内側の扉には苦戦しているようだ。

「二重扉か」

 兵庫が声をかけると、集団の中にいた伊勢木いせき正信(まさのぶ)が振り向いた。

「さすがに天守は守りが堅いですよ。だが、この様子ならじきに――」

 彼が言い終える前に、扉の向こうで何かが折れる音がした。下方に取りつけられた潜り戸のかんぬきが、間に合わせの破城槌はじょうづちの威力の前に屈したらしい。

 わっと歓声が上がり、さらに仲間を集めるための呼び子が吹き鳴らされる中、兵庫は隊士たちに警告を発した。

「扉の向こうには城方が待ち構えているぞ。天守を守る兵は、これまで戦った者たちとは手応えも違うだろう。決して抜かるな」

 おう、と力強く答えて歴戦の〈隼人〉たちが表情を引き締める。

先手さきてを務めます」

 匡七郎が声を上げ、意気揚々と前に進み出た。真っ先に敵陣へ踏み込む危険な役目を、自ら買って出ようというらしい。

「すぐあとにおれが続く」

 正信が大股に近づき、匡七郎のうしろにぴったりとついた。

 その間にも続々と隊士たちが駆けつけ、戸口前の狭い通路とその手前の小空間に整然と並んでいく。第一隊所属の者も含めて、ざっと五十人ほどがこの場に集まったようだ。残りの隊士はまだ中庭や小天守で戦闘中らしいが、おっつけやって来るだろう。

「よし、開けろ」

 兵庫の命令一下、潜り戸が勢いよく蹴り開けられた。人ひとり通るのがやっとの四角い開口部に匡七郎がさっと飛び込み、それを正信がすかさず追う。さらに四人の隊士が入って行き、閂を外して中から鉄扉を引き開けた。

 そこから隊士たちがなだれ込み、内部でたちまち激しい斬り合いが始まる。

 兵庫は全員入るまで扉の脇で待ち、最後のひとりを捕まえて「呼び子を吹き続けろ」と命じてから、自分も中に入っていった。

 地階には窓がないが、すでに明かりがともされていて辺りの様子は見て取れる。

 天守閣の間取りなどというのは、どこの城もだいたい似たようなものだ。一、二本の太い心柱しんばしらを中心にして、障子や板戸で区分けされた部屋をいくつか持つ内陣ないじんが空間全体の中央に配置されており、その周囲を武者走りと呼ばれる入側いりかわが取り巻いている。

 地階の内陣は一部が武器庫で、ほかの部屋には城の下働きをしている者たちが集まっていた。籠城に備えて、ふもとの御殿からここへ上げられたのだろう。

 天守入口を守っていた兵を一掃したあと、兵庫は三人の隊士に命じて非戦闘員を中庭へ連れ出させた。中に残しておくと、あとで地上部隊が突入してきた時に巻き添えを食う危険がある。とりあえず捕虜として留め置き、戦闘が落ち着いたら身元をあらためた上で開放することになるだろう。

 その後、地階から一階へ、一階から二階へと攻め上るあいだに、捕虜の数はさらに増えていった。城主の守笹貫かみささぬき道房(みちふさ)は天守に籠城中も普段どおりの暮らしができるよう、御殿の奉公人たちをことごとく連れてきたようだ。人だけではなく、ここが住まいかと錯覚するほど、贅沢な調度品や衣類なども数多く運び込まれていた。

「香のにおいがしますね」

 五階まで上がった時、傍にいた匡七郎が眉根を寄せながら言った。

 この階には内陣が配されておらず、最上階への階段が二基あるだけの広大なひと間になっている。その全体に匡七郎の言葉通り、えも言われぬ芳香が漂っていた。

 籠城の日々の憂さを晴らそうと、折に触れて香を焚いたりしていたのだろうか。

 そんな風雅さとは裏腹に、五階には屈強な守備隊が待ち構えていた。雑兵はほとんどおらず、大半が日ごろから城の警備に当たっている番士のようだ。その中には、立派な甲冑を身につけて手勢を引き連れた、身分の高そうな武者の姿もいくつか見て取れる。

 それもそのはずで、ここはいわば百武城の最後の砦だ。この階に詰めている彼らが敗れれば、最上階に籠もっている城主の命は終わったも同然となる。近習きんじゅうや小姓が何人かはついているとしても、そんなもので押し寄せる敵を止めることなどできはしない。

 兵庫は前に進み出ると、大柄な甲冑武者のひとりに向かって問いかけた。

「降伏のご意志はおありか」

 礼儀として訊いてはみたが、おそらく彼らはこのに及んで白旗を揚げはしないだろう。黒葛つづら寛貴(ひろたか)公は攻城戦を開始する前、三度にわたって軍使を送り降伏を勧告したが、ことごとくねつけられたと聞いている。

 いま降服するぐらいなら、もっと前にしていたはずだ。

「否」

 案の定、吐き捨てるように拒否の言葉を叩きつけてくる。

「我ら、最後の一兵まで戦う所存」

うけたまわった」

 兵庫は背後に控える隊士たちに、肩ごしにうなずいた。

「かかれ」

 雄叫びが上がり、激烈な戦闘が開始された。数ではこちらがまさっているが、死を決し、捨て身になった守備隊は侮れない。ここを先途せんどと奮い立つ彼らの威勢に、味方はややされ気味だ。

 兵庫は消耗した打刀を脇に捨てて腰の物を抜き、先ほど問答を交わした武者に近づいた。

「立天隊、六車むぐるま兵庫」

 名乗りを上げると、相手は兜の眉庇まびさしの下から切れ長の目をちらりと覗かせた。

泉二もとじ泰綱(やすつな)

 早口に名乗り返し、即座に打ちかかってくる。その刃を左にかわすと、兵庫は彼の脇腹を狙って突き入れた。泰綱が腰をひねって避け、ぱっとうしろに飛び退すさる。なかなか身軽な男だ。

 少し間を取ったあと、彼は再び自分から攻撃してきた。構えは八双――と思わせて直前で下段に変化し、床板をくように低く走った切っ先が垂直に跳ね上がる。

 兵庫はそれに横から合わせてり上げ、頭上で刀を返して泰綱の顎の下を深く斬り払った。

 しゅう、と空気が抜けるような音を喉からもらし、泰綱が両膝をつく。彼はぐらつきながら兵庫を見上げ、唇の動きだけで「無念」と言って、前のめりにゆっくりと倒れ伏した。

 刀を血振りし、ひと息ついてふと見れば、城方はもう半分以下に減っている。いつの間にか味方が巻き返して勝利を収めつつあるようだ。そこからは一方的な展開となったが、最後の一兵までと言った泰綱の言葉通り、五階に詰めていた江州兵はついにひとりも降服することなく全滅するまで戦いきった。

 下の階ではまだ戦闘が続いているようだが、そろそろ地上部隊も合流してくるはずなので、さほど時を経ずして大勢たいせいが決するだろう。

 兵庫は部隊を五階に残し、階段を守るよう言い置いてから、正信ら数名だけを連れて上階へ上がっていった。

 大天守最上階。

 内陣は書院造りを模しており、ほかの階とは違ってここだけ天井が張られている。床は武者走りよりも一段高い。

 そこに厚畳あつじょうを敷き、さらに錦の座布団を重ねて、守笹貫かみささぬき道房(みちふさ)が座っていた。

 彼のうしろには太刀持ちの小姓がふたり控え、内陣と階段の下り口の間には、城主を背後にかくまうように五人の武者が居並んでいる。

 道房は豪華な刺繍入りの陣羽織を着て、萎烏帽子もみえぼしをかぶっていた。引き違えに結んだ白鉢巻きの下の顔は干したように骨張っていて小さく、片手でも難なく包み込めそうだ。半眼に閉じた目にはまったく光がなく、しわの寄った口元がひくひく動いているが、何をつぶやいているにしろ声は聞こえなかった。

 ここには下の階よりもさらに強い芳香が満ちているが、それでも色濃く漂う老いのにおいは隠しきれていない。

 これが――兵庫は無言のまましばし佇み、なかばひからびているように見える老人をまじまじと見つめた。この男が、守笹貫道房か。

 歴史は古いが力弱く、名家の中に埋没しかけていた守笹貫家を、一代で南部一の勢家へと生まれ変わらせた中興の祖。

 国にあっては善政を敷き、戦に出ては自ら陣頭に立って数々の勝利を掴み取り、ふたつの州を支配して辣腕らつわんを振るった剛毅ごうき果断(かだん)の猛将。

 その面影は、もはやどこにも見られない。

 歳はいくつだったか――九十? いや、九十二だ。十二年前、出会った日にあの人から御年八十と聞いたのだから。

「もはや城は黒葛軍の手に落ちております」

 兵庫は静かに語りかけた。道房は何も反応しない。

「この上は、お手向かいなさいませぬよう」

 重ねて言っても、彼はまばたきすらしなかった。だが近侍の者たちは動揺を隠せずにいる。

 兵庫は正信たちに目くばせをして、彼らを五階へ連れ下ろさせた。守備隊のようにあくまで抗うかと思ったが、さすがにみな観念しているようだ。

 道房とふたりだけになると、兵庫は内陣に歩み入り、彼の前に片膝をついた。

「道房公」

 呼びかけても、やはり反応らしきものはない。聞こえていないのだろうか。

儲口まぶぐち守恒(もりつね)どのを覚えておいでか」

 その瞬間、わずかだが彼の瞼がぴくりと痙攣した。

 歯のない口がもごもごと動き、意味を伴わない音が空気とともにもれ出す。「ひ、う」息を継いで「あ、あ」、それを何度か繰り返したのち、少し言葉らしいものが聞こえてきた。

「も、もり……」

「そうです。儲口守恒どの。あなたの姫君をめとり、義理の息子になられた人です」

「もりつね」

 ようやくはっきりと発音した。弱々しい声だが、聞き取ることはできる。

「――を、呼べ。ふ、不手際……けしからぬ」

「守恒どのは亡くなりました」

 道房は疲れたように深く息をつき、緩慢な仕草で左右を見回したあと、またぼんやりとうつむいた。

「道房公、なぜ守恒どのを殺したのです。あの人のみならず、血を分けたお孫さままで」

 老人は虚ろな目を床に向けるばかりで、何も答えない。

 やはり駄目か。あの夏に起きた一連の出来事に関して、何かしら意味のあることを少しでも聞けるかと思ったが。こんなにも老いけてしまった人に、今さら期待するほうが間違っていたのだ。

 あきらめて立ち上がりかけた時、ふいに道房の目にぎらりと光がともった。

「おぬし――」

 言葉尻はかすれているが、先ほどよりも力がこもっている。兵庫が思わず動きを止めたほど、その声は威圧的に響いた。

「とるか」

 怪訝な顔をする兵庫に、道房はちらりと視線を向けた。

「わしの、首を」

 皺だらけの薄い唇が、不敵な笑みを形づくる。まるで、やってみろと挑発しているかのようだ。

 兵庫はしばらく彼を見つめてから、ゆっくりと腰を上げた。

「あなたの首をる気はない。それをすべき人はほかにいます。じき、ここにやって来るでしょう」

 その時、あなたの意識が今ほど明瞭ならいいが。

 心の中でつぶやき、兵庫は道房をひとり残して階段を下りていった。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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