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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第二章 血戦の果て
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十九  江蒲国耶岐島郷・黒葛貴之 軍神

〝引き揚げ〟を促す太鼓が鳴って陣所へ戻る道すがら、黒葛つづら貴之(たかゆき)はあることがずっと気になっていた。

「今日、叔父御を見たか」

 隣り合って馬を進めている柳浦なぎうら重益(しげます)に訊くと、彼はちょっと考えて首を振った。

「いいえ、一度も」

 胸にもやもやとわだかまる不安が、よりいっそう色濃くなる。

 叔父――石動いするぎ博武(ひろたけ)は目立つ男だ。ことさら派手な振る舞いをするわけではないが、彼のたたずまいや言動には自然と耳目を引きつけるところがある。

 だから、人であふれかえった戦場いくさばでも、それは変わらないだろうと思っていた。見える範囲で彼が戦っていれば、その姿はきっと目につくだろうと。

 だが今日はどういうわけか、叔父の存在をいっさい感じ取ることができない。まるで誰かに消し去られたかのようだ。

修資のぶもとどの、叔父の石動博武がどこに配置されているかご存じですか」

 前を行く真栄城まえしろ修資が振り返り、小首をかしげる。

「はて……どこだろう。今回、彼は単独での参陣ゆえ、御屋形さまの旗本に加わっているのでは?」

「そうですね」

 いちおう納得のていでうなずいたものの、心は晴れなかった。ちらりとでも顔を見て、無事でいることを確認したいという思いがますます強くなる。

「陣所でお会いになれますよ」

 重益が慰めるように言った。憂慮が表に出すぎていたようだ。

「陣を立て直すために、みな戻ってまいりますから」

「おれたちも急ごう」

 そうは言ったものの、中央本道は帰陣する人馬で混み合っていた。

 歩きやすい道は騎馬に譲り、歩行者の大半は湿地を通っている。戦闘が始まる前、そこは泥海と池沼が点在する危険で難儀な場所だったが、今ではぬかるみの多くが死者で埋まっていた。無数のしかばねは柔らかい泥の中に深く沈み、踏み倒されたあしがその上を覆って丁度いい足場を作り出している。

 次の攻撃――敵はこの湿原いっぱいに広がり、津波のように襲いかかってくるだろう。

 貴之はそのさまを想像して、背筋が寒くなるのを感じた。すべての鉄砲組と弓組を柴垣の前後へ横並びさせても、六万からいるという敵の勢いを止めきることはできないに違いない。

 高閑者たかがわ軍との戦いは、湿地の特性を最大限に活かして有利に展開することができた。だが、その特性が失われてしまった今、守笹貫かみささぬき本軍に同じ手はもう使えない。

 次の策はあるのだろうか。おれなら、どんなふうに戦うだろう。そんなことを考えているうちに、ようやく陣所へ帰り着いて柴垣の中に入ることができた。

 丘の上に見える本陣には、ひっきりなしに人が出入りしている。その中に叔父の姿がないかと探したが、それらしい人は見当たらない。陣所内の雑踏を縫って馬を進め、丘の中腹の土塁脇で下乗すると、貴之はそわつきながら坂道を上って本陣へ入っていった。

 陣幕の内には武将が大勢いたが、やはり叔父はいないようだ。誰か手の空いていそうな人に訊こうと思っていると、その前に父貴昭(たかあき)に見つかって呼ばれてしまった。

「貴之、戻ったな。こちらへ」

 甲冑姿の父は襟に金糸の縫い取りがある緋色ひいろの陣羽織を着て、本陣最奥に据えられた床几しょうぎに腰かけていた。さすがに笑ってはいないが、憂い顔をしているわけでもない。その表情からは不思議な余裕が感じ取れた。

「負傷したのか」

 そう言われて自分の体を見下ろし、初めて貴之はそこかしこに血を浴びていることに気づいた。

「これは敵の血です」父の面前に進んで片膝をつきながら答える。「怪我があっても、すり傷程度かと」

 貴昭はうなずき、貴之の横で礼を取った真栄城修資に目を向けた。

「腕白小僧のお守りは、さぞかし気骨きぼねが折れような」

「なんの、若は聞き分けのよいお子でございます」

 修資はにこやかに言って、貴之のほうを見た。

「しかも勇猛果敢に、よう戦われる。年少とは思えぬ強さで、さすがは御屋形さまの総領じゃと感心いたしました」

「あまり褒めるな。つけ上がる」

 そう言いつつ、父の頬が少しゆるんでいる。

「初陣にしては頑張っているようだが、まだ終わりではないぞ」

「はい」

 貴之は彼の表情をじっと窺った。その目に、口元に、やはり何か確固たる自信のようなものが表れていると感じる。今まさにこの戦場いくさばへ乗り込もうとしている敵の大軍を、少しも恐れてはいないようだ。いや、そう見せているだけだろうか。

「父上――御屋形さま、次の手はあるのでしょうか」

 思わず訊くと、父はにやりと笑ってみせた。

「むろん、ある。守笹貫本軍が迫っていることはうにわかっていたのだ。打つ手を用意していないと思うか」

「いえ」

 思わない。でも、それがどんな手なのか、皆目かいもく見当がつかない。

「守笹貫信康(のぶやす)は、耶岐島やぎしま城の外曲輪そとぐるわに陣を張るつもりのようだ。先着した部隊がその支度を始めている。高閑者たかがわ軍の残存約四万と合流して攻撃を始めるまで、一刻ほどは猶予があるだろう。その間に負傷者を手当てし、兵たちに腹ごしらえをさせる。おまえも陣屋で飯を食ってこい」

「はい」

「ひと休みしたら、ここへ戻れ。あっと驚くものを見られるぞ」

 多忙な父にこれ以上まとわりついて、あれこれ質問するわけにもいかない。訊きたいことは百もあったが、それを呑み込んで貴之は本陣を後にした。

「若、わたしは真栄城まえしろ勢の様子を見てまいります」

 馬がいる場所まで戻ると、修資が言った。

「あとで、本陣で落ち合いましょう」

「わかりました」

 彼が去ったあと、貴之は重益らと共に陣屋へ向かった。土間と広敷ひろしきでは負傷者の治療が行われており、台所では大量の結び飯をこしらえている最中だ。ここで手当てや食事の支給を受けられるのは侍身分だけで、雑兵は治療も食事の煮炊きも外でそれぞれ行う。

 結び飯をもらって囲炉裏のある広間へ行くと、大殊勲者の真境名まきな(りょう)が大勢に取り巻かれていた。口々に賛辞を浴びせられ、懸命に愛想笑いを返してはいるが、かなり閉口している様子だ。

 彼女は奥ゆかしい性質なので、あまり自分の手柄をひけらかしたくないのだろう。

 貴之の姿を認めると、燎は周囲に断って座を外し、すぐに傍へやって来た。空笑そらわらいはやめて本当の笑顔になっている。

「若さま」

「燎どの、大手柄を立てられましたね」

「運が良かったのです」

 食事をしながら話を聞いた。彼女は父義家(よしいえ)が率いる真境名勢と共に磐鶴ばんつる川沿いの道を攻めのぼり、中央本道の敵を背後から強襲しようと向かっていたところ、たまたま高閑者たかがわ元嘉(もとよし)がいる本陣を見つけたのだという。

「二、三人だけつれて何気ないふりで入っていくと、誰にも見とがめられることなく奥へ進むことができました」

 元嘉は祭堂の本殿前に床几しょうぎを据えて落ち着いており、彼女を新たにせ参じた味方だと思ったらしい。

「どこの者かと問うので、〝立天隊副将、真境名燎が御首おんくびいただきにまいった〟と名乗りを上げ、即座にふた大刀浴びせて討ち取りました」

 淡々と話しているが、恐るべき大胆不敵さだ。

 その後は本陣を守る二百ほどの敵兵と乱闘になったが、外からなだれ込んだ真境名勢が数で大きく圧倒し、勝敗はすぐに決したという。

「野戦が佳境に入ると旗本は手薄になりがちなので、そこをうまく突けたのが勝因かと」

 へえ、そういうものか――と思いながら、貴之は尊敬の眼差しで彼女を見つめた。

「あなたほど豪儀ごうぎな、不言実行の人は見たことがない」

 彼女の頬に、かすかな赤みがさした。照れているのだろうか。

「今回は、博武ひろたけどのがふざけて宣言してしまいましたけれど」

「その博武――叔父を今朝から一度も見ないのですが、どこにいるか燎どのはご存じですか」

 燎はふと考え込む表情になり、しばらくして小さく首を振った。

「いえ……そういえば、昨夜別れてからは見かけておりません。今朝は、わたしは布令が出るとすぐに身内と合流しましたし」

「そうですか」

 この人なら間違いなく知っているに違いないと期待していたので、落胆も大きかった。天翔てんしょう隊では十数年来の叔父の相方で、どこへ行くにもふたりひと組が習いになっている彼女から答えが得られないなら、ほかに誰がこの不安を払拭してくれるというのだろう。

「若さま、彼のことは案ずるには及ばぬかと。どこで何をしているにせよ、そうそう下手へたを打つような人ではありません」

 あっさりと言う。心配しているような様子すらない。相方同士とはいっても、役目を離れれば実情はこんなものなのだろうか。

 なんだ、意外と冷たいのだなと貴之は思い、少しばかり胸の中がもやつくのを感じた。


 食事を終えて本陣へ戻ると、父貴昭(たかあき)は陣幕の外に出て、近習きんじゅうらと共に北の方角を眺めていた。

「戻りました、父上」

 声をかけた貴之たかゆきを傍に寄せ、彼は湿原の彼方を指差した。

「もう動き出した」

 そちらへ目をやると、既視感のある光景が広がっていた。さんざん踏み荒らされ、色変わりした湿原の向こうに槍の海原。その中に混じる、帆を上げた船のような旗差物はたさしもの兎耳とみ山の裾野から磐鶴ばんつる川のきわ近くまで横並びに長く広がり、突撃の合図を今や遅しと待ち構えている。

 また、あの途方もない戦いが繰り返されるのか――貴之は武者震いして大きく息をつき、自陣を見下ろした。 

 将士はすでに柴垣の内側で隊伍を整え、いつでも打って出られる態勢になっている。激烈な戦闘のあとで誰もが疲弊しているはずだが、まだまだ士気は高いように見えた。しかし兵数は確実に減っており、朝の戦いよりも不利になっているのは明らかだ。

「父上」

 気がかりが口をついて出た。

「防衛線をもっと上げたほうが――いいのではありませんか」

 今の柴垣の位置は本陣に近すぎる。こんな至近で敵の突撃を受け止めたら、大軍に押し切られて陣所全体が呑み込まれてしまいそうだ。

「いや、これでいい」

 父の声は落ち着いている。

「全将士を柴垣の内に入れ、下知あるまで留まるよう申し渡してある。おまえも血気にはやって動くなよ。一歩でも外に出たら巻き込まれるぞ」

 巻き込まれる……何に?

 その質問をする前に、遠くから鯨波げいはが響いてきた。喉も裂けんばかりの喊声かんせいを発し、敵軍勢が一斉に動き出すのが見える。

 足の裏に、かすかに地揺れが感じられた。

 応戦――。

 貴之は息を呑みながら、横目に父を見た。彼は前を見据えたまま動く気配もない。

 ――しないのか。どういうつもりだろう。ここでじっと、あの大軍が押し寄せるのを眺めているのか。いや、そんなはずはない。打つ手は用意していると父上は言った。

 そんなことを考えている間にも守笹貫かみささぬき本軍は猛然と進み続け、早くも湿原の中ほどまで到達している。この距離になると、敵が〈長蛇ちょうだ〉の陣形を取っていることが見て取れた。前軍、中軍、後軍の三段に分かれ、戦況次第で柔軟に動けるよう備えている。

 先頭を進む鉄砲隊は、すでに間近い。

「始まるぞ」

 右隣で父が静かに言い、彼のほうを向いた貴之は、視界に奇妙なものを捉えた。

 西の方角から何かが大量に飛んでくるのが見える。可笑おかしな話だが、丸まった赤毛の猫のように見えた。ずんぐり丸く、黄赤色をしていて、尻尾が生えているものもある。

 それは磐鶴川沿いの林道の向こうから、樹冠を越えて高く上がり、山なりの軌道を描いて湿原の中へばらばらと飛来した。

 石火矢いしびやか? いや、砲声は聞こえない。

 一瞬の思考は、最初に接地した玉の炸裂音によって吹き飛ばされた。

 雨あられと降り注ぐ玉の一つひとつが、地面で、空中で、あるいは人馬に当たって次々に破裂する。その近くにいた者は鎌で刈られた草のようにごっそり倒れ、離れている者も銃撃されたかのごとく跳ね飛んだ。敵の進軍は、もはや完全に止まっている。

「父上」

 天地を裂くような爆音が響きわたる中、手で耳を押さえながら貴之は叫んだ。

「あれは何です」

焙烙ほうろく玉だ」

 焙烙というのは素焼きの鍋ではなかったか。たしかにそんな色合いだが、形はまったく違うし、そもそも焙烙は破裂したりはしない。

土器かわらけの玉に炸薬と鉄菱かなびしを詰め、外へ垂らした導火線に火をけて飛ばす」

 父が大声で説明してくれた。

「花火のような仕組みと思えばいい」

「どうやって――飛ばすのです。大筒ですか」

「いや、頑丈なものではないので、先込めの砲で撃つと筒の中で破裂する。紐で縛って手で投げることもできるが、いま飛ばしているのは船に積んだ攻城用の投石機だ」

 彼が指差すほうへ目をやると、川沿いの林の向こうにちらりと船影が見えた。

「いつの間に」

 少し前まで、川に船などいなかったはずだ。だが、いまは十艘かそれ以上が整然と列を作っている。

「下流で待機させていた伏兵だ。本軍が現れたら、湿原へ入ってくるのを待って全速力でのぼり、横合いから仕掛ける手はずとなっていた」

〝打つ手を用意していないと思うか〟

 自信に満ちた父の言葉の意味がようやく理解できた。しかし、まさかこんな奥の手を用意していようとは。

 焙烙玉の雨が小止みになると、すぐさま銃撃が始まった。柴垣内の鉄砲隊が正面から、さらに船団に乗り込んでいる砲手が横がかりに撃ちかける。船団側の砲声が特別大きいのは、大口径の抱え筒などを使用しているからだろう。

 息をつく間もない二段攻撃で、最初の弾雨をどうにかしのいだ敵もばたばたと倒れていく。なんとか射程外へ出ようと誰もが必死に走っているが、湿原のあちらこちらで燃えている火と、もうもうと立ちこめる煙に巻かれて右往左往しているだけの者も多い。

 陣所各地で太鼓が鳴り、三方の木戸から将士が満を持して打って出た。先ほどの敵の鯨波にも負けない大声を上げて気力を奮い立たせ、死屍累々(ししるいるい)の湿原を怒濤どとうのごとく駆け渡って行く。

「実戦であれを使うのは初めてだが……うまくいった」

 たける自軍の進撃を見ながら、小声で父がつぶやいた。その表情には、今になって張り詰めたものが表れている。

 自信ありげに見せていても、やはり内心では不安を感じていたのだろうか。

 そう思いながら見ていると、父はちらりと貴之に視線をやり、微苦笑を浮かべてみせた。

「戦に絶対はない」

「はい」

 たしかにそうだ。どれほど錬りに練った戦略も、人が実行する以上は常に齟齬そごや破綻が生じる危険性をはらんでいる。何ごとも想定通りには運ばないと心得ておくべきだ。

 だが今日のところは、ここまですべてがうまくいっている。父が強い大将だと言われているのは知っているが、これほどの戦術家だとは思ってもみなかった。

「焙烙玉攻撃の間合いは完璧でしたね。船からでは敵の動きを読みづらいでしょうに」

「上空から合図を送っている、天眼てんがん組との連携の賜物たまものだ。船の指揮官はあの偵察分隊を創った当人だから、そのあたりはうまくやるだろうと思っていた」

 父がさらりと言った言葉にはっとなった。

 天眼組を創った――それは叔父の博武ひろたけだ。では彼は船に乗り込んで、伏兵隊を采配しているのか。

「叔父御はあの船に?」

「そうだ。夕べ、とりなしでも一人前ひとりまえの働きぐらいはできるので使って欲しいと言ってきたから、おれの手勢を預けて下流に係留してある船を取りに行かせた。天翔てんしょう隊を率いる博武は機を見るにびん、用兵にもけたさむらい大将だ。地上戦でも期待以上の働きをするのは疑う余地もない」

 貴之はほっと胸をなで下ろしながら、肩ごしに振り向いた。背後で会話を聞いていた真境名まきな(りょう)が微笑んでいる。

 そら、案ずるに及ばずと申し上げたでしょう――と、きらりと輝く瞳が語っていた。

 相方を心配しようともしない冷たい人なのかと思ったが、どうやら違っていたようだ。彼女は父以上に叔父の能力を熟知し、絶対的な信頼感を抱いているのだろう。だからこそ、確信を持ってあんなふうに言えたのだ。

 体の奥底からぞくぞくと沸き立つものを感じ、貴之はぐっと顎を引いて父を上目づかいに見た。

「父上、そろそろおれも――」

「しばし待て」

 貴昭は戦況を俯瞰ふかんしながら、冷静な口調で言った。

「初撃でだいぶ倒しはしたが、旗本にはまだ相当の兵が温存されている守笹貫かみささぬき信康(のぶやす)は臆病な男だからな。手元にまとまった兵力があり、これ以上痛手をこうむらぬうちに、撤退することを考えるやもしれん」

百武ひゃくたけまで退いて、城にもるということですか」

「それもひとつの戦い方だ」

 父は鋭い眼差しを湿原の向こうに注いでいる。

「だが踏み留まり、総力戦を仕掛けてくる可能性もある。今回、信康は口うるさい親父どのから開放され、初めて総大将として戦陣に立ったのだ。よわい五十を過ぎて未だ家督も譲られず、鈍物どんぶつと陰口を叩かれる後嗣にも、それなりの意地はあろう」

 そこへ、ひとりの武者が丘の下から駆け上ってきて叫んだ。

「ご報告申し上げます。山側の敵、生き残り多数でことのほか精強。石迫いしさこ隊、見陰みかげ隊を退け、陣所へと迫っております」

「相わかった。綿矢わたや隊と真栄城まえしろ隊を向かわせよ」

 投石機の射程から外れていたあたりでは、無傷の敵がかなり残って奮戦しているようだ。もともと足場もそう悪くない場所だったので、多くの手勢をつれた騎馬武者がそちらへ集まっているのかもしれない。

 貴之がそんなふうに推し量っているあいだにも、次々と新たな報告が届けられる。

「正面の戦いは優勢」

「船団の伏兵隊が下船し、東側で参戦」

「中央東寄りで長柄隊が苦戦中」

「守笹貫旗本近くに石火矢の備えあり。三寸砲六門ほどか」

 朝、乱戦の中にいた時には情報の少なさに煩悶はんもんさせられたが、本陣にいる今はまるで情報の雨に打たれているかのようだ。貴之は聞いているだけで精いっぱいだが、父はどれも素早く判断して指示を下している。

 そうして半刻ほど経ったころ、上空で哨戒中の天眼組と、乱戦の中で敵情を探っている空閑くが忍びから相次いで報告が入った。

「本陣動く。控えの兵四万あまり、総繰り出しの模様」

「信康旗本、中央本道へ前進」

 ――きた。

 貴之は父と目を見交わした。

「意地がまさったか、周りに担ぎ出されたか……」

 貴昭は目を細めながらつぶやき、決然と顔を上げた。

「こちらも出るぞ。残る全兵力を投入し、この一撃にすべてを懸ける。真境名まきな隊と玉県たまかね隊は中央、紡車田つむだ隊、企元のりもと隊、小丹枝こにし隊は西へ向かえ。残りは旗本と共に西から回り込み、敵本隊の横腹を突く」

 矢継ぎ早に指示を飛ばし、彼は脇に控えている従者に命じた。

「馬ひけ」

 父上が前線へ――凝然とする息子に、貴昭が不敵な笑みを投げる。

「さあ行くぞ。しっかりついてこい」

「はい!」

 すかさずこたえてきびすを返すと、丘の下り口にいる慎吾しんごが見えた。早くも貴之の馬を引いてきている。

 貴昭、貴之父子とその馬廻うままわり衆、初陣の後見役の真栄城まえしろ修資(のぶもと)、さらに従者たちが一団となって陣所の出口へ向かう道すがら、多くの将兵が大将の姿を見て歓呼の声を上げた。

「御大将どのがご出馬じゃ」

「戦の神とも言われるおかただ。お守り代わりに、お姿を目に焼きつけておけ」

「いよいよお旗本が突撃か。これで信康も仕舞しまいだのう」

 もれ聞こえてくる言葉の端々(はしばし)から、黒葛つづら貴昭という大将への崇敬と絶大な信頼が感じ取れる。これから壮絶な白兵戦が始まるというのに、誰の目も希望と興奮に輝いていた。

 貴昭がそんな将士を馬上から見渡し、大きく声を張って言葉をかける。

「敵はこちらの二倍だが臆するな。各人がふたり倒せば済むことだ」

「そりゃあ容易たやすい」

 老兵がおどけて言い、どっと笑い声が上がった。

戦下手いくさべたの信康は数に頼るのみ。奇策秘策のたぐいはない。敵ことごとく蹴散らして、ただ一文字に前へと進み、守笹貫本陣を真っ二つに切り裂け」

 おう、と声をひとつに返し、兵たちの塊が右へ左へと分かれて動き出す。

 貴之たちもほどなく東側の木戸の前へ行き着き、旗本勢を先頭に隊伍を整えた。


法螺貝かい吹け。出陣!」

 総大将黒葛(つづら)貴昭(たかあき)の号令一下、開いた木戸から軍勢が躍り出た。貴之たかゆきの位置は旗本勢の後方。馬廻うままわりの防御陣に囲まれているのは朝と同じだ。

 再び足を踏み入れた湿原は、第一戦の終わりに見た時とはまた様変わりしていた。

 屍山しざん血河(けつが)とはこういう景色を言うのだろう。それもただの死体ではない。焙烙ほうろく玉に直撃されたとおぼしき者は、内から弾けたような無惨な有り様になり果ててていた。

 四肢が吹き飛んでいる者、腹に大穴が空いてはらわたがこぼれている者、頭が半分ない者、体じゅうに鉄菱かなびしを浴びている者もいる。

 轟音と共に撃ち出された鉄丸が飛来するだけの石火矢いしびやは、直接当たりでもしないかぎり野戦の場合さほど被害は受けない。だが、当たらずとも炸裂して、土器かわらけの破片と鉄菱を高速で広範囲にまき散らす焙烙玉は恐るべき武器だ。

 あらためてその威力を実感し、貴之は今さら肝が冷える思いを味わった。

 父上はいつ、どこからあんな武器を発想したのだろう。そう考えながら目をやると、父は自ら槍を取って騎馬武者と戦っていた。こちらも、ぼうっとしてはいられない。

 貴之は気を引き締め、目の前の戦いに集中した。あまりに人馬が入り乱れており、誰が敵で誰が味方か判別がつかないため、こちらへ向かってくる者だけを見定めて確実に倒していく。

 しばらく戦っていると、乱戦の中でひときわ目立つひとりの男に気づいた。

 柳浦なぎうら重益(しげます)をはるかにしのぐ巨漢。鉢金はちがねの下の目は細く、鼻は奇妙に細長い。右耳はわざとらしいほど大きく、左耳は完全に欠損している。

 雑然とした中で目についたのは、その特徴的な容貌の男が異様なほど強かったからだ。右手に大刀、左手に棍棒のようなものを持ち、不気味な薄笑いを終始顔に張りつけたままで暴れまわっている。

 貴之が見るかぎりでは、彼は長身の武者ばかりを特に選んで戦っているようだった。きょろきょろとあたりを見回し、背の高い者を見つけると、さっと向きを変えて猛然と打ちかかっていく。敵も味方も関係ないらしい。そうして斬り倒すか撲殺ぼくさつしたあと、かならずかぶと眉庇まびさしを掴んで頭を引き上げ、いちいち相手の顔を確認していた。

 誰か捜しているのか――。

 そう思いながら、貴之は腰に下げた馬上筒ばじょうづつを手探りした。少し遠いが、ここからなら悟られる前に撃てるかもしれない。なんとなく、あの男は放って置いてはいけない気がする。

 だが、いつの間にか馬を寄せてきていた重益しげますに、そっと手を押さえられた。

「おやめなさい」

「――重益」

「若が相手にされるような男ではありません」彼には珍しく、目に嫌悪感をにじませている。「かかわらぬほうがいい。目立つので誰かが討ち取るでしょう」

 あの男の振る舞いに、表情に、何か彼なりに感じるところがあるのだろう。死と隣り合わせの場所で、筆頭警護役の言葉に逆らうべきではない。

「わかった」

 貴之はうなずき、槍を握り直してまた先へ進み始めた。

 朝よりも視野が広がったようで、自分のいる位置が今回はなんとなくわかる。ひと合戦経験したことで肝が据わり、落ち着いていろいろ見られるようになったのだろう。それはいいことかもしれないが、今度はあれこれ目に入りすぎてどうしても気になってしまう。

 ほら、いまも向こうで旗本勢が――あれは……いったい何をしているのだろう。

 貴之は馬を止めた。横を進んでいた真栄城まえしろ修資(のぶもと)が、驚いたように振り返る。

「若、どうなさった」

 続いて重益にも何か言われたのはわかったが、言葉が耳に入ってこなかった。

 父を守りながら戦っていた旗本勢が、何かこの場にはそぐわない動きをしているように見える。怪訝けげんに思いながら見つめるうちに、数人が協力してその一角に突如陣幕を張り始めた。支え柱などないので、十人ほどの兵が布端を手で持ち上げ、柱の代わりを務めている。

 かろうじて山裾の斜面をうしろに背負ってはいるが、どう見ても本陣を置くのに相応ふさわしい場所とは思えなかった。そもそも、これを最後と突撃をかけている最中に陣を張ったりするだろうか。

 じわりと――額に汗が浮いた。

 にわかに動悸がして、耳の中の血管がどくどくと脈打つのが感じられる。

 貴之は手綱をぐっと握り、ものも言わずに駆け出した。馬廻衆の防御円をすり抜け、陣幕で囲われた場所を一目散に目指す。すぐそこに見えているのに、どういうわけかなかなか行き着かない。

 ようやくたどり着いた時には、即席の陣を守ろうとする者たちと、群がってきた敵兵とのあいだで激しい攻防が始まっていた。味方は敵を陣幕から遠ざけようとし、敵は陣幕の中へ斬り込もうと躍起やっきになっている。

 貴之は拍車をかけてその混戦の中を駆け抜け、できるだけ陣に近づいてから馬を飛び降りた。入口を守っている兵がすぐに彼と気づき、無言で中へ入るよう促す。

 重なった幕をかき分けて入っていくと、父の昔からの側近である花巌かざり利正(としまさ)が真っ先に目に入った。地面に膝をついて両手に泥草を掴み、肩を震わせて号泣している。

 その姿を見ただけで、すべてわかった気がした。

「父上は……」

 息を詰まらせながらつぶやくと、中にいた全員がはっとして振り返った。

 人垣が自然に分かれ、その向こうに隠されていたものが露わになる。

 誰かが供したらしい陣羽織を地面に敷き、その上にまっすぐ横たえられているのは、すでに事切れている父——黒葛つづら貴昭(たかあき)の体だった。

「父上」

 思わず呼びかけたが、むろん返事はない。

 貴之はゆっくり近づき、その傍らに膝をついて父の死に顔を覗き込んだ。頬に血飛沫ちしぶきが散ってはいるが、なぜだろう、不思議なほど穏やかな表情に見える。

 背後にいる父の近習きんじゅうたちが、濁った涙声で口々に事の次第を説明した。

 いわく、その敵兵――いや刺客は味方を装い、乱戦の中に忽然と現れたという。

「中央玉県(たまかね)勢より、ご報告申し上げたき儀がございます」

 背に負う小旗には、玉県家の〈五つじ玉〉紋。大刀、槍は持たず、帯びるのは脇差しのみ。

 誰の目にも使い番に見えた。

 支族の名を聞けば、下士雑兵はとりあえず道を空ける。

 それでも、これが陣所の内であれば、取り次ぎを通すことなく大将に近づくなどあり得なかった。だが前線の混乱の中では、形式上の細かい手順は省略されがちだ。

 刺客は貴昭の馬に寄り、地に片膝をついて何か言った。

 息を激しく乱しており、声が小さい。聞こえない。

「いま一度」

 貴昭が馬上から身を乗り出したその時、刺客は脇差しを抜いてまっすぐに突き上げた。

 右の首筋からどっと飛沫しぶく鮮血。

 咄嗟とっさに傷を手で押さえながら、貴昭はもう片方の手で刀を抜きざま、刺客の鼻柱を横に断ち割った。

 り倒れた刺客に、周りの者がわっと群がり刀槍でとどめを刺す。

 それを見届けた直後、貴昭はぐらりと傾いて馬の背からすべり、あわてて支え下ろした家臣らの囲む中で静かに最後の息を吐き終えた。

 末期まつごの言葉はなかったという。

 まだ父の顔から目を離せないまま、貴之は低く問いかけた。

「刺客と――玉県家に関係は」

「ないと思われます」答えたのは家老の柳浦なぎうら実重(さねしげ)だ。「戦場いくさばで拾い旗して、それを利用しただけかと。あとで死体を調べます」

「わかった。この場をどうすればいい」

 戸惑うような間のあと、陣幕の中にざわめきが満ちた。みな、それぞれ意見はあるようだが、統一された見解はないらしい。

 ともかく遺体の首級を敵に奪われぬよう、速やかに陣所へ運ぶべきだと主張する者。

 遺体はこの場に安置して兵に守らせ、攻撃を続けるべきだと主張する者。

 それらの声は聞こえているが、意味がきちんと頭に入ってこない。夢の中を彷徨さまよっているような気分だ。

「撤退……」

 誰かがつぶやいた言葉で、貴之は突然覚醒(かくせい)した。

「今ならまだ……」

 何を言う。撤退などあり得ない。

 かっと全身が熱くなり、顔に、体に、目に力が戻る。

「駄目だ」

 叫んで振り向くと、虚をかれたような顔の人々が見えた。いつの間に入ってきたのか、真栄城まえしろ修資(のぶもと)や柳浦重益(しげます)の姿もある。

 そのほかにも、貴之と同様に陣張りの様子を見とがめ、違和をおぼえたらしい武将たちが多く集まってきていた。

「撤退はない」

「お気持ちはわかりますが」

 柳浦実重が重い口調で言う。

「我らは大将を失ったのですぞ。朝の戦いで高閑者たかがわ元嘉(もとよし)を討ち、こちらは御屋形さまを討たれて五分と五分。いま退くなら、形の上では引き分けたことになります」

 引き分けなど。そんなものは望んでいない。

「父はこの一撃にすべてを懸けると言った。あとひと息――もう一歩で信康のぶやすの本陣に届くという局面で、むざむざと引き下がるわけにはいかん」

 そうだ、と誰かが言った。しかし、と躊躇ためらう声も上がる。

「急げば……」

 遠慮がちに言ったのは重益だった。

「御屋形さまの死が敵味方双方に伝わる前に、疾風しっぷう迅雷(じんらい)の勢いで敵本陣を攻め、信康を討ち取ることができるなら――」

 少し間を空け、四つ年上の兄実重の表情を窺う。

「勝利は我らの手に」

「だが、どうやって」

 実重は苛立たしげだ。

「たしかに我がほうが押してはいるものの、兵数は敵側のほうがはるかに多く、本陣の守りは側面、前面共にまだまだ堅い。あれを崩すには相当の時がかかるだろう」

 柳浦兄弟の言っていることは、どちらも正しい。貴之は唇を噛みながら、必死に考えをめぐらせた。

 何か手はないか。何か。

 あせる気持ちが増すばかりで妙案はひとつも出てこない。代わりに、かかわりがあるともないとも知れない、さまざまな言葉や場面が次々と頭に浮かんでくる。

〝敵兵は旗印をめがけ襲いかかってまいります〟

〝御大将どのにえらく似ておいでで〟

 こんな、とりとめのない思考は何の役にも立ちそうにない。ただ焦燥感がつのるばかりだ。

〝野戦が佳境に入ると旗本は手薄に〟

〝山の北東のふもとに抜ける――〟

 はっと息を呑み、貴之は弾かれたように立ち上がった。

〝電光のごときひらめき〟、そう教えてくれた父の声が脳裏に蘇る。

〝もっとも頼れるのは、いつだって一瞬のひらめきだ〟

 はい。

〝恐れるな〟

 はい――父上。

「敵本陣に背後から回り込める……道がある。兎耳とみ山の中に」

 感情を抑えながら言った貴之の言葉に、重益以外の全員が瞠目どうもくした。

「山の者しか知らぬ隠れ道だ。少し険しいが遠回りをすることなく、きわめて短時間で北東の麓に抜けることができる。出口は湿原の切れ目よりやや北寄り、農作地の南端あたりだ」

 俄然がぜん、みなの目の色が変わってくる。

「山を抜けてうしろから陣所へ入れば、混乱に乗じて本陣にもぐり込める。刺客にならい、拾い旗して味方を装うといいだろう」

「して、別働隊の人数はいかほど」

 合戦続行派のひとりが気忙きぜわしく訊いた。

「大勢で動くと目立って悟られるから、二十――いや、十かな。少数精鋭でいくしかない」

 我ながらひどいことを言っている。首尾よく目的を果たしたとしても、その十人が生きて戻れる保証はない。父を討った刺客がはなから死を決していたように、これも討ち死に覚悟でなければ務まらない役目だ。

 だから、おまえが行け――とは誰に向かっても言えない。

「わたしに行かせてください」

 真っ先に手を挙げたのは、花巌かざり利正(としまさ)だった。博武ひろたけ叔父と同世代の若々しい顔に、まだくっきりと涙の跡を残している。

「わたしもまいります」

 どこかで聞いたような静かな声。見れば家久来かぐらい龍史(たつふみ)の姿がそこにあった。最初からこの場にいたのだろうか。

 ふたりが名乗りを上げたのを機に、腕に覚えのある者たちが次々と挙手し、気づけば十人が出そろっていた。

 この人々を、おれの手で死地に送り込む……そう思うと氷を呑んだように体の芯が冷たくなったが、もう後戻りはできない。

「別働隊が動いているあいだ、おれは父のかぶとと陣羽織をつけ、馬印と指物さしものを掲げて敵を中央正面に引きつける」

 重益がぎょっとしたように目を見開き、青い顔になった。唇を引き結んで黙っているが、本心では「やめろ」と言いたいに違いない。

「大将が陣頭に立てば、味方もさらに士気を高めるだろう。だが父の替え玉に過ぎず、戦のことを何も知らぬおれに軍勢を采配することはできない」

 貴之は亡き父の重臣たちと向き合い、まっすぐに見つめながら言った。

「この場におられる諸将にお願い申し上げる。父の戦歴に傷を残すことなく今日の一戦を終わらせるため、どうかお力をお貸しいただきたい」

 消極派をうまく説き伏せられるか、助力してやろうと思ってもらえるかはわからない。だが、これがいま自分に言える精一杯の言葉だ。

「父が愛し、絶対の信を置いた皆さまがたを、この黒葛貴之も心よりたのみとしております」


 わずか十人の決死隊は、案内役の戸来とき慎吾(しんご)に導かれ、陣幕の奥の斜面をひそかに登って山中へと消えた。

 ふたつの遺体は人目につかぬよう布でくるみ、馬に乗せて陣所へと運ばれた。

 そして急ごしらえの本陣が解体された時、中から出てきたのは総大将黒葛(つづら)貴昭(たかあき)とその旗本勢――に見えたはずだ。

 貴之たかゆきは父のかぶとかぶり、父の血を吸った緋色ひいろの陣羽織をまとい、父の馬廻うままわり衆に囲まれていた。もともと顔は似ているとよく言われていたし、近ごろだいぶ背も伸びたので、遠目には別人とは気づかれないだろう。

 五百ほどの手勢が集結すると、彼は進路を変えて北東へ向かい、中央本道から一挙北進して、大規模な乱戦が展開されている只中に斬り込んだ。守笹貫かみささぬき信康(のぶやす)の本陣は見えないが、情報ではこの正面にいるらしい。

 声を発するとさすがにばれそうなので、貴之は天山てんざんにいるいとこの黒葛貴昌(たかまさ)から贈られた軍扇ぐんせんを抜き、戦いを采配する大将を演じた。実際は柳浦なぎうら実重(さねしげ)真栄城まえしろ修資(のぶもと)ら歴戦の勇士たちが指揮をり、戦況を見極めながら次々に指示を出している。

 決死隊のために時を稼ぎ、敵を正面に集中させて隙を作るのが最大の目的だが、あわよくばこのまま押し進んで本陣を攻めてしまいたいところだ。

 だが実重が言った通り、さすがに旗本の守りは堅かった。押せば退く、退けば押し戻るの繰り返しで、なかなか前へ進むことができない。

 あの十人と慎吾は、今ごろどのあたりだろう。もう敵陣へ侵入したか。それともまだ山中か。

 誰かがやり遂げてくれるだろうか。みな生きて――戻って来てくれるだろうか。

 胸が詰まり、思わずうつむいた貴之の腕を、誰かが横からぐっと掴んだ。柳浦重益(しげます)が傍に寄り、強い眼差しを向けている。

「しっかり。あともうひと頑張りです」

 貴之がうなずくと、彼は顔を上げて軍勢に発破をかけた。

「何しておるか、進め進めッ! 御屋形さまの御前で立身たつみ衆の武勇を示せ!」

 おう、と力強くいらえた集団の中から、ひときわ声も体も大きな男が満面の笑顔で振り返った。

「おおッ、御大将どのがご照覧とあらば勇気千倍じゃ! しばしお待ちを、今すぐわしが道を開いて――」

 あららぎ泰三(たいぞう)だった。

 まずい、と貴之が思った時にはもう遅く、絶句した彼はあんぐり口を開けたまま固まっていた。泰三は貴昭と貴之、双方の顔を間近で見て知っている。

 ここで「御大将どのの若さま」と今朝のように言われたら終わりだ。息子が父親に成りすますという詐術さじゅつが、敵も味方も巻き込む欺瞞ぎまんが、彼のひと言で水泡すいほうしてしまう。

 言うな。黙っていてくれ。

 祈るような思いで見つめていると、泰三がふっと顔をゆがめた。哀しそうに。泣きそうに。

 粗放に見えてさとい男らしく、咄嗟とっさに成りすましの意味に気づいたらしい。

 泰三はぶるんと荒っぽく首を振って再び笑顔になり、さっと前に向き直った。

江州こうしゅう兵ども、どけどけェ! 御大将どののお馬を邪魔するやつは、このわしが叩きのめしてくれるわッ!」

 太い腕で槍をぶん回し、立ちふさがる敵を次から次へと打ちのめしていく。その奮戦に鼓舞されたか、ほかの将兵もますます気合いの入った戦いぶりとなった。

 膠着こうちゃく状態だった戦線が、じりじりと押し上がっていく。

 本陣はまだか――まだ遠いのか。

 堅牢な護衛の輪をかいくぐって槍をつけにくる敵と戦いながら、貴之は何度も北のほうを見やった。

 絡み合い、揺れ動く群衆の頭の向こう。かすかに――見えた。

〈丸に三つ折れ笹〉。守笹貫かみささぬき家の旗印。

 残る距離は半町ほどか。信康のぶやすは中央本道を少し南進してきているようだ。彼のほうも馬に乗り、旗本に守られながら戦いを采配しているのかもしれない。

「見えるぞ、重益」

 小声で教えると、重益は巨体をぐいとひねってそちらを向き、腹の底から大音声だいおんじょうを響かせた。

「敵本陣はもうすぐそこだ! 者ども、今こそ全力で突き進み、信康の首をばりに行けッ!」

 負けじと大声で吠え返し、黒葛将士がそれぞれ目の前の敵に突進した。肉と革と鉄の壁がぶつかり合う音がして、空気が唸り、目にはっきり見えるほど敵前衛が後退する。その距離およそ三間あまり。

「ええい、押されるな! 戻せ戻せッ!」

 あわてた様子で敵側の騎馬武者が叫び、周りの兵はすぐさま下知げちに従おうとしたが、前進した黒葛軍は下がらない。

 貴之は馬上筒に手早く装填し、火縄を――と横を見て初めて、慎吾がいないことを思い出した。苦笑して重益の従者から一本もらい、火挟ひばさみに取りつける。

「止まるな、動け、前へ出よ!」

 わめき立てている騎馬武者に狙いをつけ、息を吐ききると同時に引き金を引いた。

 鉛玉が胴鎧どうよろいを突き抜けて右胸に当たり、武者が馬からどさりと落ちる。

 とたんに、その一角が大きく崩れた。密集した逃げづらい場所で狙い撃たれる恐怖からだろう、味方同士で押し合いになり、敵に対する備えがゆるんでいる。そこを逃さず黒葛将士が再び突撃し、今度は七間近い距離を一気に穿うがち抜いた。その猛烈な勢いに気圧けおされ、敵前衛がさらに下がる。

「いける。あと少し」

 貴之はつぶやき、次の弾を込めた。

 もう少しで本陣へ届く――。

 その時、彼の食い入るような視線の先で〈丸に三つ折れ笹〉紋の旗印がぐらつき、斜めにかしいでゆっくりと倒れた。

 入れ替わって立ったのは、見覚えのある浅黄あさぎ色の旗差物はたさしものだ。それを風にはためかせながら、中央本道の敵を押し分けるようにして、こちらへ粛々(しゅくしゅく)と進んでくる一団がある。

 前後左右を雑兵が固め、内側に鉄砲組、中心はすらりとした騎馬武者。

 戦う者たちの咆哮ほうこうんだ。剣戟けんげきも銃声も次第に収まり、張り詰めた静寂が急速に広がっていく。

 武者は周囲を埋め尽くした敵を気にする様子もなく、まっすぐやってきて二間ほど手前で馬を下りると、貴之に近寄ってうやうやしく礼を取った。

 決死隊に加わった家久来かぐらい龍史(たつふみ)だ。

 頬を斜めに走る傷から大量に出血し、肩に矢も受けているが、彼の端正な顔には会心の笑みが浮かんでいた。

「家久来龍史が約定やくじょう相果たし、守笹貫信康を討ち取りてそうろう

 朗々と口上を述べ、左手に掴んだ信康の首を高く掲げる。

 その瞬間、せきを切ったように喚声かんせいがほとばしった。

 歓喜の雄叫び。悲憤の絶叫。体の奥底から湧きだしてくる、何の意味ともつかない大声。それらすべてが混じり合って一帯にとどろきわたり、大地を震わし、遠い山々にまでこだましていく。

 貴之は骨まで響く嵐のような鳴動に包まれながら空を見上げ、想像していたのとはまるで違う切ない勝利の味を噛みしめた。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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