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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第二章 血戦の果て
109/161

十七  江蒲国耶岐島郷・黒葛貴之 順(まつろ)わぬ民

「若は身勝手だ」

 援軍と共に耶岐島やぎしま陣へ向かうと告げた時、玉県たまかね景綱(かげつな)貴之たかゆきをそう責めた。

 由淵ゆぶち陣を発って四日が経ち、もうひとつ山を越えれば耶岐島(ごう)に入るというあたりまで来ているが、彼は未だに冷ややかな態度を崩そうとしない。

 二十歳はたちの景綱は黒葛つづら家の有力支族である玉県分家の嫡男で、二年前から貴之に仕えている近習きんじゅうのひとりだ。どちらかというと呑気な気質の男で、めったに何かにいきどおったりはしないが、今回はそうとう頭に来ているらしい。

 主人である貴之が何かをすると言えば、家来の自分たちはむろん可能なかぎり従う。耶岐島への救援部隊に加わること、それ自体はやぶさかではないし、必要なことだと理解もしている。だが決断する前に、近侍きんじに相談のひとつもなかったのはいかがなものか。

 そうはっきり口に出して言ったのは景綱だけだが、おそらく馬廻うままわり組の柳浦なぎうら重益(しげます)や小姓の唐木田からきだ智次(ともつぐ)らも腹の中では同じことを考えていただろう。

 貴之は昔から即断即決型で、重要な決定を直感的に下してしまうことが多い。目的を果たすための方法や道筋、成し遂げた結果がどうなるかを考えないわけではないが、思索する時間が人よりもずっと短いのだ。

 これまではおおむねそれでうまくいっていたが、六百人の七草さえくさ衆を動かすという大きな決定を独断で行ったのは、たしかに軽はずみだったかもしれない。意見を求められもしなかったことで、近侍の者たちは存在を軽んじられていると感じただろう。

 戦場へ向けて黙々と馬を進めながら貴之は深く反省し、景綱に謝罪する機会を窺っていた。重益や智次にはもう謝ったが、景綱はあれ以来、役目以外で彼と会話をしようとしない。

 案外、根に持つ男なのだな――貴之はそう思い、これまでよく知っているつもりだった彼の新たな一面に興味をおぼえていた。

 面倒くさいやつと感じないでもないが、何かを誤った時に歯に衣着せず叱ってくれる近侍は貴重だ。特に自分のような若造は、周りからおだてられ褒められてばかりいると、増長してどんどん阿呆になってしまう。

 いずれ七草城を継ぎ、立身たつみ国を治めることになるかもしれない身として、国を滅ぼしかねないような愚か者になるのは真っ平だった。

 そういう話をしたいとも思うが、なかなか切り出す機会が巡ってこない。

 馬上でちょっと体をひねり、うしろへ視線を投げてみると、隊列の中ほどにいる景綱が見えた。あちらが気づけば呼ぼうかと思ったが、何を考えているのかずっとうつむいていて顔を上げる気配がない。

 嘆息して鞍に座り直すと、隣で馬を進めている柳浦重益が苦笑をもらした。

「景綱を呼びますか」

「いや、いい」

「そんなに気になるなら、早く謝っておしまいなさい」

「そのつもりだが、ろくに目も合わせないんだ。こうまでわだかまりを引きずるやつとは知らなかった」

「今回のことは若が悪いのだから、仕方ありません」

 重益は貴之に甘い男だが、人一倍愛情を持っているがゆえに、言うべきことははっきりと言う。

「間をければ、そのぶんだけ余計にこじれますよ」

「わかった」貴之は手綱を絞り、馬首を返した。「今すぐ話してくる」

 隊列の脇を通って景綱のところまで行こうとして、彼はふと前方から猛然と駆けてくる人馬に気づいた。後方の守りに就いている護衛武者のようだ。

「どうした」

 大声で呼ばわると、武者は馬から飛び降りて貴之の傍へ走り寄り、さっと片膝をついた。

「小荷駄隊が襲われました」

「敵襲か」

「いえ、野伏のぶせりか盗賊のようです。人数はざっと六十あまり」

 激しく息を乱しながらも、彼ははっきりとした口調で端的に報告をした。

「川を渡る直前に両側から急襲され、先を行く隊列と切り離されました」

 少し前に幅五間ほどの浅い川を渡ったのを覚えている。小荷駄は積み荷を濡らさないよう慎重に渡河するので、その準備をしているあいだに囲まれたのだろう。

 貴之は顔を上げ、進軍中の軍勢を見やった。

 由解ゆげ勢六千の前軍と、真境名まきな勢八千の中軍は遥か先を順調に進んでいるはずだ。貴之ら七草勢が加わっているのは後軍の最後尾で、伯父黒葛寛貴(ひろたか)の手勢三千がその前を歩いている。指揮官は黒葛俊宗(としむね)だが後軍の先頭にいるので、うしろの騒ぎにはまだ気づいていないだろう。

 後方へ視線を戻す途中で、重益と目が合った。

「俊宗さまに」

「手遅れになる」貴之は首を振った。「父上から預かった軍兵を、着陣前に減らすわけにはいかん」

 小荷駄隊の守りに就かせているのは武者十、足軽三十。相手が野伏せり六十程度なら充分に渡り合えるだろうが、こんなところでいらぬ犠牲を出すのは極力避けたい。

 彼は大きく息を吸い、馬腹を蹴りながら軍勢に向かって叫んだ。

「荷駄を救いに行く。馬廻と鉄砲二十、来い。ほかは足並み乱さずこのまま進め」

 おうと声が上がり、即座に隊列から馬廻組と鉄砲組の一部が抜け出した。

 騎馬が前、歩行かちの鉄砲組がうしろにつき、道の端へけた隊列の脇を一散いっさんに駆け戻っていく。

 馬を走らせながら背後へ目をやった貴之は、馬廻組ではない者も数名ついて来ていることに気づいた。小姓の智次も、気難しげに眉をひそめた景綱もいる。

 きっと、ますます不機嫌になるな――と苦笑して前に向き直り、彼は馬の背に揺られながら鉄砲に弾丸を装填した。

 ともすれば弾みがちになる息を抑え、普段どおりの呼吸を意識する。

 火蓋ひぶたを閉じて手を横に出すと、馬のすぐ脇を走っている戸来とき慎吾(しんご)が着火した火縄をすかさず手のひらに載せた。まるで何十年も前から、同じ動作を繰り返し行ってきたかのように淀みがない。

 ややあって道の先に川が現れた。対岸では大勢が入り乱れている。荷駄の護衛組は奮戦しているが、やや劣勢に見えた。敵の人数が、聞いていた六十よりもいくらか多いようだ。引き返してくるまでに新手が出てきたのかもしれない。

「鉄砲十、前へ」

 貴之は鉄砲組十人を川辺に横並びさせると、残りの十人をそのうしろに立たせた。騎馬は二手に分かれて両脇につく。

「狙え」

 自分も銃を構えて狙いをつけながら、貴之は号令を発した。

「撃て!」

 二段構えの一陣が斉射し、川向こうの敵がばたばたと倒れた。貴之が撃った一発も、荷車に取り付いて略奪しようとしていた男に命中している。

 すぐさま二陣が前に出て、号令と共に再び斉射した。

「槍」手を伸ばすと、慎吾が槍の柄を握らせた。

 救援の到着に力づけられ、早くも味方は盛り返し始めている。逆に敵勢は算を乱し、恐慌をきたした一部は川向こうの森に逃げ込もうとしていた。あとひと押しで撃退できる。

「よし、蹴散らせッ!」

 貴之は腹の底から吠えると、拍車をかけて水に駆け入った。両脇に馬廻組、そのうしろに抜刀した鉄砲組がぴたりと続く。彼らはひとかたまりになって川を渡ると、対岸でぱっと四散し、それぞれ敵と見定めた相手に猛然と襲いかかった。

 まだ略奪をあきらめずに踏み留まっている野伏せりたちを追い回し、突き殺し、斬り倒す。乱戦になると敵もよく戦ったが、鉄砲で狙い撃たれた衝撃からまだ立ち直っておらず、冷静さを欠いて闇雲に暴れているだけの者も多かった。こうなっては、精強黒葛軍の敵ではない。

 貴之が槍でふたり仕留め、馬上でふと首をめぐらせた時には、もう戦いはほとんど終わっていた。

「若、荷駄は無事でした」

 ひと息ついたところで、柳浦重益が馬を寄せてきて報告した。自慢の得物である十文字槍の穂先が血にまみれ、物騒な輝きを放っている。

「負傷者はおりますが、重傷の者はいないようです」

「みな歩けそうか」

「だいじょうぶでしょう。すぐ川を渡らせますか」

「そうだな。後軍に追いつきたい」

 七草衆が襲撃を受けたことは、すでに俊宗に伝わっているはずだ。彼はどこかで軍を止めて、休息させながら続報を待っているだろう。

「支度をさせます」

 そう言って馬を行かせながら、重益は笑みをたたえて貴之を振り返った。

「初陣をすませてしまわれましたな」

 あ、そうか――。

 今さら気づき、貴之はほうけた顔になった。

 本来、初陣に臨む前にはみそぎを行い、戦勝を祈る儀式をしたり、本陣の幕内で〝神酒のこぼれ〟を飲んだりする。そういうものを全部すっ飛ばして、後見役すらつかないまま戦いに参加してしまった。

 いや、参加ではない。戦いを指揮したのだ。あらためて思うと、若輩の身で大それたことをしたとしか言いようがない。

 貴之はゆっくり馬を歩かせて水際みぎわへ向かい、そこに停められている荷車の脇で地面に降りた。何人かの足軽が協力して、積載物を固定する綱を締め直している。その傍らに、彼が最初に銃撃した野伏せりの死体が転がっていた。

 歳はまだ若い。十七、八歳だろうか。弾丸は右の胸を貫いており、口元に大量の血を噴いた痕跡が窺える。

 その顔をじっと見ていると、槍で殺したふたりの男の顔が浮かんできて重なった。

 初めてこの手であやめた人間たち――。

 自分に人が殺せるかどうか、これまで取り立てて考えたことはなかった。武門に産まれたなら戦場いくさばへ出るし、戦場へ出れば人を殺すのは当然のことだ。その時になってすくんだり迷ったりしないために、黒葛の子は幼いころから戦いに必要な技術と精神を叩き込まれて育つ。

 だから竦まなかった。迷わなかった。すべきことは何もかもわかっていて、考えるまでもなく体が動いた。

 三人殺したが、もちろん後悔はない。命令を下して大勢殺させたが、それも悔やんではいない。父の陣に着いて戦場へ出れば、さらに多くの命を奪うだろう。そのことを恐れてもいない。

 だが感慨はあった。足下に横たわる若者の死顔を、決して忘れることはないという確信がある。これは弱さなのだろうか。

 振り向くと慎吾が立っていた。まじろぎもしない彼の瞳に、自分の心の揺らぎが映っているように思える。

 貴之は目をらすことなく、しばらくそれを黙って見つめていた。


黒葛つづら俊宗(としむね)は山道の途中で後軍を停止させ、貴之たかゆきたちが戻ってくるのを待っていた。彼は祖父景貴(かげたか)の甥で父貴昭(たかあき)のいとこ、つまり貴之にとっては〝いとこ伯父〟にあたる。

 報告をすませたあと、貴之は俊宗が気をかせて呼んでおいてくれた療師りょうじを連れて後方へ戻り、負傷者の手当てに取りかからせた。

 幸い腕や脚を失った者はおらず、出血の多かった数人も少し休めばまた行軍を続けられそうだ。

 歩いて様子を見回っていた貴之は、道端の草むらにひとりで座っている玉県たまかね景綱(かげつな)を見つけた。彼は左腕に負傷したらしく、腕まくりをして自分で手当てをしている。

 貴之は傍に行き、隣に腰を下ろした。

「すまん、またやってしまった」

 謝罪して頭を下げると、景綱は鼻息とも苦笑ともつかぬものをもらした。

「いいですよ。別にもう、怒ってはいません。それに今回は、どう対応するか悠長に話し合っていたら、大勢の犠牲が出ていたでしょうしね」

「傷は深いのか。療師を呼ぼう」

「ほんのかすり傷です」

 肩をすくめてこちらを見た景綱が、眉をぴくりと上げる。

「若、怪我をしていますよ」

「どこに」

「左の頬です。手当てしましょう」

 教えられた場所をこすると、手の甲に少し血がついた。

野伏のぶせりに槍を突き込まれた時、避けきれずにかすったように思ったんだ。やっぱり触れていたな」

「お顔は大事になさってください。大将の器量の良ししは、兵の士気にも影響しますから」

「そうなのか」

「同じ仕えるなら、容色麗しい人のほうが嬉しいに決まっているでしょう」

 何を当たり前のことを、と言いたげにつぶやきながら景綱は貴之の傷を水で洗い、自分の傷にも使っていた膏薬こうやくを指に取って塗りつけた。

「おかしなにおいだ」

「これをつけると血がすぐ止まるし、痛まずまず、傷痕も残らないんです」

「何が入っている」

「若といえども、お教えできません。我が家の秘伝ですから」

 景綱は目を細めてにやりと笑い、容器の貝殻ごとほおの葉に包んで懐に仕舞った。

「動物の脂や黄蝋おうろう、樹液――そのほか諸々(もろもろ)を混ぜ合わせたものです。うちでは昔から作られてきたそうで、ほんとうによく効きますよ」

「玉県家が薬に明るいとは知らなかった」

 感心しながら言うと、景綱はちょっと複雑そうな表情になった。うっかり話したことを後悔しているようだ。

「なんだ、秘密か」

「いえ、そういうわけでは……」困ったように口ごもる。「ただ、家の者はこの話はあまりしたがりません。薬師やくしが下賤とさげすまれていた時代の名残なのです」

「祖先は薬師だったのか」

 柳浦なぎうら家は海賊上がりだというし、聞いてみなければわからないものだ。

「隠していたいのなら、誰にも言わない」

「そうしてください。わたしは気にしませんが、本家の者などはやたら神経質ですから」

 玉県家は黒葛家の支族の中では新参の立場で、武家社会が成立した当初からある古い家柄の花巌かざり家や真栄城まえしろ家に対抗心を抱いている節がある。前身を隠そうとするのは、そうした旧家に成り上がりの武家だと見下されたくないからだろう。

「そろそろ動き出すかな」

 景綱が隊列の前のほうに目をやり、腰を浮かせた。遠くで「出立しゅったつ」と叫ぶ声が聞こえ、それが後方に伝達されていく。

「馬に戻ろう」

 貴之も立ち上がり、ふたりで歩き出そうとした瞬間、山道の脇の斜面を何かが転がり落ちてきた。咄嗟とっさに受け止めてみれば、おかっぱ頭の小さな女の子だ。やぶを突き抜けてきたので、髪や体に落ち葉をいっぱいくっつけている。

 頭上でがさりと音がして、見上げると立ち木の間に若者の姿があった。女の子を追ってきたが、出てくるのを躊躇しているようだ。道に武装した侍が大勢居並んでいるせいだろう。

「何者だ」

 景綱が貴之を守るように前に出て、若者に問いかけた。相手は答えない。

 そうしているうちにも柳浦重益(しげます)やほかの馬廻うままわり衆が集まってきて、貴之から少女を用心深く引き離してしまった。

 若者は木の陰に半分隠れ、目だけをぎらぎら光らせている。彼は丈の短い薄汚れた小袖を雑に着て、荒縄を帯代わりにしており、腰に大きな山刀を差していた。

「この子は妹か? ともかくここへ来い」

 重益が少女を抱き上げて言うと、ようやく若者はしぶしぶ斜面を降りてきた。顔つきからして歳は貴之よりも四、五歳は上だと思われるが、体の大きさはほとんど変わらない。だが脚が太くがっしりしており、筋肉質で頑丈そうだ。

「おまえは、このあたりに住む乞食か」

 怯えた顔で身がまえていた若者が、景綱の言葉にむっと唇を尖らせる。

「乞食ではない」貴之は彼の一重まぶたと白目がちな双眸を見ながら言い、少し前に出て穏やかに訊いた。「山の者――〝まつろわぬ民〟だ。そうだろう?」

 若者がはっと目を見開く。

「順わぬ民」重益がつぶやき、腕の中の少女を見下ろした。「なるほど」

 納得した様子の彼とは裏腹に、景綱はまだよくわかっていない表情だ。

「なんです、それは」

「我々の祖先が来て聳城国たかしろのくにを建国する以前から、このあたりにいた者たち……先住者だ。どの国にも属さず主君を持たず、山林に隠れ住み、狩猟や採集をして暮らしている。生活習慣や仲間内で使う言葉も、おれたちとは少し違う」

 景綱がぽかんと口を開ける。

「そんなことを、よくご存じで」

「近郊の山を遊び場にして育ったから、おさな友達の何人かは山の者なんだ」

 貴之はしゃべりながら、重益に抱かれている女の子に近づいて右手を上げた。人差し指と中指を曲げて親指で押さえ、残りの二指を伸ばす。これは山の者が、互いに敵意がないことを確認し合う時の符丁だ。

 女の子はすぐに理解し、にっこりして自分も同じ符丁を返した。それを見ていた若者が、ようやくいくらか緊張をゆるめる。

「妹を返してくれ、あんた」

 ぶっきらぼうに頼む彼に、貴之は重益から受け取った女の子を返してやった。

「おれの名前は貴之だ」

「……ナセリ。こいつはトワ」

「この山の東側で大きな戦が始まる。しばらくは麓に近づかないほうがいいぞ」

「知ってる。二度、侍が山の道を調べに来た。最初はここの領主の家来。次はあれと同じ印の旗を持ったやつら」

 彼が指差したのは、黒葛家の家紋が描かれた幟旗のぼりばただった。

「ナセリ、道を調べに――」

 さらに話を続けようとしたところへ、誰かが駆け込んできた。

「前の隊列が行ってしまいました。早くお戻りを」

 おろおろと急かしたのは唐木田からきだ智次(ともつぐ)だ。

「置いて行かれますよ」

「わかった。景綱は戻って隊を先導しろ。もう少しナセリと話してから、すぐ追いかける、智次はおれたちの馬を列から出して、ここまで引いてきてくれ」

「心得ました」

 なんとなく釈然としない顔ながらも景綱は七草さえくさ衆を率いに行き、そのうしろを智次がついて行った。ややあって、隊列がゆっくりと動き出す。それを確認してから、貴之はあらためてナセリのほうを向いた。

「侍が調べに来たのは、馬が通れる道だな」

「そうだ」

「彼らはそれ以外の――山の者が使う隠れ道にも気づいたか?」

「いいや」

 貴之は手振りで彼を招き寄せてしゃがみ、地面の落ち葉を払いのけて土を露わにした。

「この山は、だいたいこんな形だろう」

 伯父の陣で見せてもらった絵図を思い出しながら、彼は枯れ枝で土の上に簡単な図を描いた。三日月を縦に引き伸ばしたような形をしていて、北の麓は耶岐島やぎしま城の縄張りの南端と接している。

「山の者の道はどこに通じてる? 何本か教えてくれないか」

 ナセリは眉間に皺を寄せ、疑うような目つきで貴之をじっと見た。

「おまえたちの暮らしを邪魔したりはしないと約束するし、もちろん礼もする。米か塩で。どうだ?」

 山の者にとって米や塩は貴重で、なかなか手に入らないことを貴之はよく知っている。案の定、そのひと言でナセリの目の色が変わった。

「米で」

「よし」

 合意したところで、ナセリは小石をいくつか拾い上げた。

「このすぐ上を通ってる道は、北へ行って曲がって西の麓に出る。ここだ」

 図の上に指で線を描き入れ、目印の石をそっと置く。そうして彼は、山の者が長い年月に自ら踏み分けて作り、彼らだけが知っている通り道を六本教えてくれた。

「この――山の北東の麓に抜ける道」

 貴之はその中で、特に気になった一本について訊いた。

「かなり険しいか」

「そうでもない。でも馬や車をいてたら、通るのは無理だ」

 腰を上げて考え込んだ貴之の顔を、重益が横から覗き込む。

「若、何をしようとなさっているのです」

「何だろう。ただ、山の者の隠れ道は便利だから、知っておくと役に立ちそうな気がするんだ」

 うまく説明できない。これもある種の直感だ。偶然この山に順わぬ民が住んでいると知った瞬間から、隠れ道のことがずっと頭の片隅にあった。

 使いどころはないかもしれないが、ここで情報を逃したことをあとで悔やんだりはしたくない。

 貴之はうしろを振り向いて従者の慎吾しんごの腕を掴み、前に引き出した。

「ナセリ、この男――慎吾を案内して、北東の麓に通じる隠れ道を教えてやってくれないか。その一本だけでいい。報酬は今ここでおれたちの手持ちの干飯ほしいいをあるだけ全部、それから案内のあとで、さっきの旗印がある陣所まで慎吾を送り届けてくれたら白米を一斗渡す」

〝白米一斗〟の威力は絶大だった。ナセリの頬が少し紅潮し、目が輝き始める。だが、すぐに信用して承諾するほど、彼も純朴ではない。

「騙さないって保証は?」

 貴之は右手の人差し指と中指を広げてはさみの形を作り、ナセリをまっすぐに見ながらその刃で自分の首を挟んだ。これも山の者が使う符丁で、約束をたがえたら〝首を差し出す〟という意味だ。非常に重い誓約であり、もし裏切れば山の者は本当に首をりに来る。

 貴之が彼らの流儀を心得ていることを確信すると、ナセリは取り引きを受け入れてくれた。

 重益らがすぐに腰兵糧こしびょうろうの干飯を集め始め、一升ほど入った小袋をナセリに手渡す。貴之は慎吾が持ち運んでいた自分の私物を受け取り、山歩きに備えて身軽にさせた。

「慎吾、頼んだぞ。陣所で待っている」

 肩に手を置いて言うと、慎吾は口をきゅっと引き締めてうなずいた。

 ナセリはトワを背負って、早くも斜面を登ろうとしている。貴之はさりげなく近づき、彼だけに聞こえるよう顔を寄せて囁いた。

「慎吾を無事に戻すと約束してくれるか。大事な友人なんだ」

 若者は黙って聞いたあと、目に力を込めて貴之をじっと見つめ、右手で〝切り首〟の符丁をしてみせた。


 尾根を越え、三日月形をした兎耳とみ山の東側へ出ると、夕暮れが迫る耶岐島やぎしま(ごう)の全容を一望することができた。

 このさと守笹貫かみささぬき家の筆頭支族、高閑者たかがわ家の所領だ。東に兎耳山、北に高閑者元嘉(もとよし)の居城である耶岐島城、西には南北を貫く磐鶴ばんつる川があり、山河の狭間には広大な農地と湿原が広がっている。

 右翼軍大将黒葛(つづら)貴昭(たかあき)は湿原の南端を陣所と定めて、最前線に逆茂木さかもぎをずらりと並べ、そのうしろに柴垣を巡らせていた。長さはじつに十町ほどもあるだろうか。防御陣の最奥には小高い丘があり、中央に広く陣幕を張って何本もの旗を立てている。この一角が本陣のようだ。

 南東に見える低い山に、わりに大きめの物見の砦らしきものがあるが、それは利用しないらしい。

 短期決戦でいくつもりだ――山を下って陣所へ入りながら、貴之たかゆきは父親の心算をそう推し量った。父上は、鯉登こいと(ごう)から来る中央本陣の救援部隊は間に合わないとみているのだな。

 簡単に突破できそうな柴垣、丸見えの本陣は、おそらく敵の攻め気を誘う罠だ。まんまと釣り出され、どっと寄せてきたところを邀撃ようげきしようというのだろう。

 今回は敵軍との兵力差が大きいので、寡兵かへいのこちらがうかうかと突出すれば呑み込まれてしまう。それは絶対に避けなければならない。

 貴之は七草さえくさ衆を適当な場所で待機させておき、柳浦なぎうら重益(しげます)だけを伴って本陣へ向かいながら、陣所の雰囲気をじっくり観察した。

 百武ひゃくたけ城から守笹貫信康(のぶやす)の軍勢六万が進発したしらせはもう伝わっているはずだが、将兵は意外に落ち着いているように見える。これまでに数多あまたの激戦を生き抜いてきた、その経験値の高さからくる余裕なのだろうか。

 むろん、決戦を前にして由淵ゆぶち陣から二万近い援軍が駆けつけ、そのことに新たな力を得たというのもあるだろう。

 丘の上の本陣に着いた貴之は、陣幕の入口にいる父の家来に声をかけた。

「着陣のご挨拶を」

 男はちらりと視線を上げ、すぐまた手元の帳面に落とした。顔見知りだが、まったく愛想なしだ。

「ご苦労に存ずる」事務的に言い、筆の先をぺろりとなめる。「ご姓名とお引き連れの兵数を伺おう」

 なるほど、陣中では形式が優先されるのだな――と思いながら、貴之は名乗りを上げた。

「黒葛貴之だ。七草衆六百を率いてまいった」

「つづら……」

 帳面に書きかけて、男がぎょっとしたように顔を上げる。

「わ、若さま?」

「なんだ、気づいていなかったのか。知らぬ顔をするのが陣中の作法というものなのかと」

 貴之が笑うと、彼は青くなって地面にひれ伏した。

「ご無礼いたしました。ここへおいでとは夢にも思わず」

「気にするな。入っていいか」

「どうぞ」

 重益を外に残し、幕を分けてひとりで中へ入ると、先に着いて挨拶をすませていた真境名まきな義家(よしいえ)由解ゆげ正虎(まさとら)、黒葛俊宗(としむね)の三人がこちらを見た。地面に敷かれた布の上には大きな陣立て図が広げられ、その向こうに父貴昭が立っている。

 武装の父を見るのは初めてではないが、戦陣にあっていっそう際立きわだつ彼の偉容に打たれ、貴之は自然に膝を折った。

「微力ながら、御陣で働かせていただくべくまかり越しました」

 すでに事の次第を俊宗らから聞いたのであろう父は、にこりともしない。

「誰が来てよいと言った」

 父のこんな威圧的な声を聞くのは久しぶりだ。貴之は少し首をすくめ、懐に入れていた封書を取り出した。

寛貴ひろたかさまより書状をお預かりしております」

 小姓を介して受け取った書状に貴昭はさっと目を通し、しかし厳しい表情は変えずに息子を見据えた。

「伯父に許可されたから、父の言葉にそむいてのこのこやって来たと? おまえのような子供がいても邪魔になるだけだ。すぐに由淵陣へ引き返せ」

 こんなふうにねつけられるのは想定内だ。

「帰りません」

「なら馬廻うままわり組と共に、南にある砦へ入れ。あそこからでも戦いの様子はつぶさに見て学べる。それも立派な初陣だ」

「いやです。それに、初陣は……もうすませてしまいました」

 ちょっと気まずさを感じながら白状すると、貴昭は驚いた様子もなく鼻を鳴らした。おそらく、その件ももう耳に入っているのだろう。

野伏のぶせりを何人か討伐したぐらいで図に乗るな。そんな戦いは、おまえが遊び仲間とする陣取りごっこと大差はない」

「まあ、まあ」

 真境名義家が、人のさそうな顔をして割って入った。

「そう、がみがみとおっしゃいますな貴昭さま。荷駄が襲われたと聞くや、躊躇なく鉄砲衆を引き連れて取って返し、とても初めてとは思えぬほど見事に戦いを采配なさったとか。頼もしいではありませんか」

 ここへ着くまでの半日ほどの行軍のあいだに、少々盛った話が口から口へ伝えられたらしい。

「いや、まさに」

 由解正虎もにこやかに加勢をする。

「由淵陣をつにあたり寛貴公をご説得なさった時も、じつに弁舌さわやか、話に筋が通っておいでで感心いたしました。お聞かせできなかったのが残念なほどです」

 少し間を置いて、黒葛俊宗も擁護に回った。

立身たつみ衆のため――と、言われました。ご自身が陣中にあることで、その存在と覚悟とが、戦いに臨む者たちの勇力につながればと。健気けなげなお心ではありませんか」

 有力武将ふたりと、年上のいとこから代わるがわるかれ、ようやく貴昭の顔つきがわずかにやわらぐ。それを見届けてから三人が幕内を出て行くと、彼は貴之に歩み寄って肩を掴んだ。強い力で引き起こし、間近に顔を突き合わせる。

「無駄死にはせぬと、兄上に約束したそうだな」

「しました」

「その約定、守れるか」

「守ります」貴之は即座に言った。「死ぬとしても、武門の子の死にざまはくあるべしと言われるような死に方をしてみせます」

 父はかすかに吐息をつき、口の中で何かつぶやいた。由淵陣で寛貴伯父が言ったのと同じ言葉――〝黒葛の子だな〟だろうか。いや、〝おれの子だな〟かもしれない。

「今のところ高閑者たかがわ軍に動きはないが、近日のうちに戦端が開かれるだろう。もはや、あまり時はないぞ。決して気をゆるめるな」

「はい」

「明朝、見回りがてら陣所を案内してやろう。陣屋に部屋を用意させるから、今夜はよく眠れ」

「ありがとうございます」

 父の元を辞した貴之は、重益とふたりで諸々の手配をしてから陣屋へ入った。このあたりの集落から接収したらしい二棟続きの大きな家だ。彼は割り当てられた部屋で具足を取り、ほかの武将たちと共に広間で夕餉を食べてからまた外へ出た。

 大潮の時期で、今夜は月はほとんど見えないが、満天に散りばめられた星が眩しいほど明るく輝いている。

 貴之は家の脇に積まれた薪束に座ると、まばゆい星影や兎耳とみ山の黒い稜線を眺めながら長く待ち、夜半近くにようやく戻ってきた慎吾しんごを迎えた。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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