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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第二章 血戦の果て
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十六  別役国北部・青藍 二頭団

 泊まりの客以外はみな帰り、奉公人もほぼとこについた暁八つごろ。

 青藍せいらんは名前を呼ばれた気がして目を覚ました。あるいは、誰かに揺り起こされたのかもしれない。

 煎餅せんべい布団の上にぼんやり起き上がった時にはもう、奉公人部屋の中は狂乱状態だった。

 悲鳴。叫び声。泣き声。どたどたと走り回り、つまづき、何かを蹴飛ばす音。真っ暗なので何も見えないが、みんながあわてふためいている様子ははっきりと感じ取れた。だが、何が起こっているのかは想像もつかない。

 戸惑いと恐怖に身を縮めながら、青藍はともかく着物だけは着ようと手を伸ばした。しかし、寝る前に脱いで枕上まくらがみに畳んでおいたはずの小袖がない。おろおろ手探りしていると、壁伝いに走っていた誰かに指先を踏まれた。

 痛い。怖い。みんな何をやっているの?

 涙ぐみながら床をって探し回り、ようやく手に触れた衣類とおぼしきものを広げてみる。

 自分の小袖とは手触りが違う気がするが、この際そんなことを言ってはいられない。暗闇の中、裏か表かも判然としないまま急いで袖を通し、近くに落ちていた長い紐を腰に結んだ。帯はとても見つけられそうにない。

 やっとひと息ついた瞬間、部屋の入口の板戸が乱暴に引き開けられた。

「おい、出ろ!」

 敷居(ぎわ)に仁王立ちして怒鳴ったのは、汚い風体ふうていをした見知らぬ男だった。右手に手燭てしょく、左手になたを持っている。

「さっさとしろ」

 刃物を振り回しながら男がかし、青藍たちを廊下の先の帳場へ連れて行って階段下に座らせた。二階から連れ下ろされたらしい娼妓しょうぎもすでに何人かいて、板間の隅に固まっている。

 見世みせの奧や二階からは、大勢が駆け回る足音や物を乱暴に打ち壊す音、耳を覆いたくなるほど悲痛な叫び声がひっきりなしに聞こえていた。誰かがひどい目に遭わされているようだ。

 おたなが襲われている――ここへきてようやく、青藍はそのことに思い至った。

「客と男どもは全部殺せ」

 誰かがふいに頭上でそう怒鳴り、彼女はすくみ上がりながら視線を向けた。階段の中ほどに中年男が立っていて、二階を見上げている。

「ひとりも生かすなよ。連れてく女は、若くて元気なのと綺麗なのだけにしろ」

 それから彼は一階へ下りてきて、集められた娼妓と奉公人たちを品定めするように見渡した。

「そこの餓鬼」

 びくりとして、青藍は体を硬直させた。怖くて顔を上げられない。

「うるせえぞ、黙れ」

 男が目を向けていたのは彼女ではなく、端のほうで丸まって号泣している下働き仲間の美也みやだった。青藍よりもひとつ年下で〝若くて元気〟だが、今は火がついたように泣きじゃくっている。

「黙れと言ってるんだ」

 中年男は美也の髪を鷲掴みにして板間の中央へ引きずり出した。恐ろしさと痛さのあまり、彼女の泣き声がますます高く大きくなる。

 舌打ちをひとつすると、男は手に持った短刀の刃で美也の喉を素早く二度突いた。ごぼごぼと音を立てて口から血をあふれさせながら、少女が床に倒れ込む。小さく一、二度痙攣(けいれん)すると、その体はすぐに動かなくなった。

 殺した――何もしていないのに。ただ泣いていただけなのに。

 青藍は驚愕のあまり声も立てられないまま、じっと背中を壁に張りつかせていた。少しでも動いたら、目障りだと責められて自分も美也のように殺される気がする。

 ややあって二階から男たちが下りてきた。また何人か娼妓を連れている。中年男が命じた通り、たくさんの上客を持っている美人ばかりだ。

 だが一番人気の白露しらつゆはいなかった。楼主に可愛がられていた〝風変わり〟組の大半は、帳場に集められた中には入っていない。しかし夜斗やとはいた。彼は実際は男だが、美形なので女だと思われているのだろう。

「こんなもんか」

 中年男があらためて見回し、仲間のほうを向く。

「上に、もっといるんじゃねえのか」

 問われた男が肩をすくめた。

つらがよくても脚がねえとか、くす玉みてえな図体のやつとか、へんてこなのは始末したぜ。連れてっても邪魔になるだけだろ」

「ふん、まあいい。そろそろ引き揚げの笛を鳴らせ」

 ひとりが竹でできた呼び子を吹いた。それに呼応するように、どこか遠くで同じ音が響き、さらに遠くでもう一度鳴る。

「女どもを縛れ。〈片眼〉と〈はえ〉は奥へ行って火を点けてこい」

 命じられたふたりは見世の奧へ消え、残りの仲間は女たちの腰に縄をかけ始めた。一本の長い縄で輪を作りながら、手早く全員をひとつなぎにしていく。

 青藍は誰よりも小さいので、おまけのように最後尾につながれた。転んで引きずられたくなければ、大人たちの足並みを乱さないよう必死でついていけということだろう。

「準備できたら行くぞ。ここにもすぐ火が回る。さあ出ろ、出ろ、急げ」

 うしろから追い立てられて戸口を出ながら、青藍は最後に一度だけ見世の中へ目をやった。血の海の中に倒れている、美也の小さな体がちらりと見える。

 その時になって初めて彼女は、死んだ少女が自分の小袖を取り違えて着ていることに気づいた。


 あれからひと月以上が経った。

 宿場を出て十日ほどは山中を移動しながら潜伏し、そのあと青藍せいらんたちはどこへ向かうのかも知らされないまま、ひたすら歩き続けている。食事は日に二度、どろどろした灰色のかゆか芋がらの浮いた味噌汁、かび臭い干し芋などを与えられるが、誰にとっても足りておらず、みんな常に腹をかせていた。

 見世みせから連れ出されたのは青藍も含めて十二人で、〝若くて元気〟にも〝綺麗〟にもあてはまらないと判断された者や、盲目の麗人白露(しらつゆ)のように身体不自由な者は全員あの夜に殺されてしまったらしい。

 道端で休憩などをしている時に、娼妓しょうぎたちがぽつりぽつりと語った内容を統合すると、最初の犠牲者は夜番をしていた男衆おとこし三太さんただったようだ。娼妓を守って顔に傷を負ったこともある勇敢な彼は、おそらく盗賊の襲撃にいち早く気づいて立ち向かっていったのだろう。

 世間知らずの青藍を、いつも何かと気にかけてくれた優しい三太。信仰心を共有しており、どこか深い部分でつながりを感じていた白露。そして仕事や生活のことを一つひとつ丁寧に教えてくれた、温和で親切な治作じさく老人。短いあいだではあったが、〈ふぶき屋〉での日々を分かち合った人たち。

 彼らのことを思い出すたびに、切なくて涙をこらえきれなくなる。

 だが、美也みやが無惨に殺されるのをの当たりにしていたので、青藍は決して声を上げて泣いたりはしなかった。盗賊たちの中でいちばん偉いらしい、あの中年男の近くでは特に振る舞いに注意している。

 彼は短足がに股の小男で、歳は三十代半ばごろと思われた。広い額、大きな口をしており、顔の下半分にびっしり無精髭を生やしている。色()せた灰色の小袖の上にくたびれたよろい草摺くさずりをつけ、腰に脇差しを差してはいるが、とうてい武士には見えなかった。

 仲間は彼のことを〈門番〉の旦那と呼んでいるが、何の門の番人なのかは定かではない。

 配下には〈ふぶき屋〉を襲撃した五人と、宿場のほかのたなを荒らした四人がおり、どこかは知らないが〝ねぐら〟に戻ればもっと多くの仲間がいるらしかった。

 その中でも門番ともっとも親しそうで、よく彼の傍にいるのが〈さい〉だ。痩せて背が高く、厳しい顔つきをしており、何かの骨でできているように見える賽子さいころをふたつ、いつも手に持ってもてあそんでいる。

 ほかに、顔の片側に布を巻きつけている〈片眼〉、しゃべる時に両手をみ合わせる癖がある〈はえ〉、大きな弓と矢筒を背負っている〈百中ひゃくちゅう〉などがおり、仲間同士はみなおかしな渾名あだなで互いを呼び合っていた。本名は口にしないきまりのようだ。

 襲撃の際に重い傷を負った男がひとりいて、彼だけが馬に乗せられていた。〈拳固げんこ〉と呼ばれるその大柄な若者は、どうやら門番のきょうだいらしい。

 門番は小さい女の子も平気で殺す冷酷な男だが、弟にはそれなりに愛情があるようで、次第に弱っていく彼を常に気づかっていた。

 拳固の傷は腹部の創傷で、布でぐるぐる巻きにして押さえているが、何度も出血を繰り返している。旅が始まったころは馬上で体を起こしていられたが、近ごろでは馬の背と首にぐったり伏していることが多い。夜は熱にうなされ、譫言うわごとを言うこともあった。早く療師りょうじに診せるべきだが、追っ手を警戒する彼らは街道や集落を慎重に避けているので、おそらくその機会はないだろう。

 門番はたびたび馬の傍に寄っては、「塒に着いたら〈薬屋〉が治してくれる。もうちっとの辛抱だぞ」と弟を励ましていた。

 彼が刺されるところを目撃したという娼妓の千早ちはやによると、やったのは男衆のかしらだった九平次くへいじらしい。彼は短刀を振るって盗賊たちと果敢に戦い、拳固を含む三人に傷を負わせたそうだ。

「九平次さんは強かったよ」

 ある夜、焚き火の傍にひとかたまりになって座らされ、微睡まどろんだりひそひそ話をしたりしていた時に、千早は少し涙ぐみながら言った。

「三太やほかの男衆もみんな、あたしたちを守るために必死で戦ってくれてさ」

「でも、結局みんなられちまったじゃないか」

 此糸このいとがそうつぶやいて嘆息し、みんなに背中を向けて膝を抱えている夜斗やとのほうをはすに見た。このふたりは日ごろから仲が悪く、何かというとつのを突き合わせてばかりいる。

「夜斗ォ、情無しのおまえでも、ちっとは悲しんでるかい。九平次に岡惚れしてやがったんだろ」

 過酷な旅で疲れ、薄汚れていてもなお美しい夜斗がけんのある眼差まなざしを此糸に向ける。だが、いつもならすぐに言い返す彼が、その時だけは何も言おうとしなかった。此糸の言葉は当たっていて、ほんとうに悲しんでいるのかもしれない。

 夜斗さんも九平次さんも男の人なのに――青藍は山中の獣道を黙々と歩きながら、あの夜聞いた話を思い出していた。男性が男性に〝岡惚れ〟――好きになるという意味だろう――することなどあるのだろうか。

 娼楼しょうろうで半月働いたとはいっても、男女の情や性愛についてはまだよくわからない。男性同士となるとなおさらだった。

 夜斗さんは女の人よりも美人だし、娼妓の仕事をしているけど、そのせいで物の見方も女の子のようになるのかしら……。

 考えにふけっていて足元への注意がおろそかになった青藍は、張り出していた木の根につまづいて転んだ。

「この愚図ぐず、何してやがる」

 たちまち飛んできた盗賊のひとりに、頭の天辺てっぺんにごつんと一発食らわされた。彼らは気短で荒っぽく、子供相手でもまったく容赦をしてくれない。

 一緒につながれている娼妓たちにもじろりとにらまれた。ただでさえ疲れているのに、お荷物に足を引っ張られてはたまらない、と言いたげだ。

「ご、ごめんなさい」

 目に入る全員にぺこぺこと頭を下げ、青藍はうつむいたまま再び歩き出した。先の見通しが暗くて気が晴れない時に何か失敗をすると、情けなくてますます落ち込んでしまう。

 傷だらけで血のにじんだ裸足の爪先を見ながら、前を行く人に遅れないよう必死に足を動かし続けていると、ふいに誰かが鼻先に大きな握り拳を突き出した。

 驚いて見上げれば、いつの間に寄ってきたのか、あのさいという男がすぐ隣を歩いている。

 彼は青藍の目の前で拳を開き、掌にひとつ乗せた乳白色の賽子さいころを見せた。それを両手で包み、何度か振り動かしてから再び片手に握り込んで、また彼女の前ににゅっと突き出す。

「何の目が出ると思う」

 唐突に訊かれ、青藍は混乱しながら必死に考えた。

 当てないと殴られるのかな。それとも――当てたら殴られる?

 答えるのは怖かったが、答えずにいるのもやはり怖い。しばらく迷ってから、彼女はおそるおそる数字をひとつ言ってみた。

「四?」

 賽はくるりと拳を返し、指を開いて中を見せた。賽子が四の目を上に向けている。

 彼はにやりとして、また先ほどと同じように手の中で賽子を振り動かした。

「次は」

 また当てろということらしい。

「……六」

 賽の手の中から、六の目を出した賽子が現れた。

 二度続けて当てても何もされなかったので少し安心したが、こうなると当てられなかった時のことが気にかかる。

 彼女の心中などおかまいなしに、賽はさらに三度、同じ方法で賽子当てをさせた。

 三度目は「一」。四度目は「五」。そして五度目は「二」。不思議なことにすべて的中し、さすがに怪しく思えてくる。

 自分は人には見えないものを見ることがあるが、隠された賽子の目を見通したりする力はない。こんなに続けざまに的中するのは、偶然を超えた何かが働いているからに違いない。

 そこではっと気づき、青藍は賽を上目づかいに見ながら小声で訊いた。

「出したい目を出せるの?」

 彼はふふ、と唇をすぼめて笑い、拳を握っては開くたびに〝一〟から〝六〟まで順繰りに違う目を出してみせた。

「すごい。どうやるの」

「敏感な手のひらと、この器用で長い指を使うのさ。あとは慣れ」

 賽はのんびりと答え、青藍から離れてぶらぶら前のほうへ歩いていった。先頭近くにいる門番が、肩ごしにこちらをじっと見ている。彼は賽が近づくと、不機嫌そうな顔で何か言った。「餓鬼にかまうな」かもしれない。

 いまの一幕が何だったのか、青藍にはよくわからなかった。ぶたれたり引っ張られたり、「立て、歩け、ぐずぐずするな」と命令をされる以外の盗賊との接触はこれが初めてだったので、まだ緊張で胸がどきどきしている。

 ほかの仲間に比べると賽の物腰や口ぶりは穏やかだが、微笑んでいても目が笑わないのでなんとなく恐ろしい。

 まだ賽か門番に見られているのではないかという気がして、青藍はそれから長いあいだ地面に視線を落としたままでいた。


 この日、険しい山道を登り続け、茜色と藍色に染め分けた空が樹冠を透かして西の方角に見え始めたころ、ついに盗賊と捕虜の一団は目的地に到着した。

 青藍せいらんが想像していた盗賊の〝ねぐら〟は、どこかの人里離れたところにある大きな一軒家だ。周りを鬱蒼うっそうとした林に囲まれ、誰かが知らずにたどり着くことなどなさそうな、ひっそり静かで秘密めいた場所。

 だが実際の塒は、山の中にぽっかり口を開けた洞窟だった。岩壁の途中、大人の頭ぐらいの高さに入口があり、そこまでは竹で作られた梯子はしごを使って登るようになっている。

 まず捕虜が登らされ、次に盗賊たち、最後に〈門番〉が弟を背負って登ってきた。〈拳固げんこ〉は兄の背で微動だにせず、ほとんど意識がないように見える。

「おう門番の。帰ったかい」

 入口まで迎えに出てきた新たな一団の中から、どことなくイタチに似た、首が長くて人なつこそうな目をした男が進み出た。

「〈飯綱いづな〉の」門番がむっつりとうなずき、仲間の手を借りて拳固を背から下ろす。「〈薬屋〉を呼んでくれ」

「拳固が怪我を? ひどいのか」

「ああ」

 負傷者は奥へ運ばれていき、盗賊たちが宿場で奪った物品もどこかへ持ち去られた。洞窟の中に、保管場所のようなものがあるのかもしれない。

「女どもはひとやへ押し込めとけ」

 飯綱が命じ、青藍たちはつながれたまま通路のひとつへ入らされた。周囲の壁や地面は乾いた白っぽい岩でできており、天井からは石の氷柱つららのようなものがいくつも垂れ下がっている。

 それを見上げて歩きながら、青藍は「いづな」と口の中で小さくつぶやいた。これまでに聞いたことのない言葉で、不思議な響きがある。

「イヅナは気の荒いイタチの妖怪だ」

 背後からふいに囁かれ、彼女は心底驚いて飛び上がった。振り向いて見れば、さいがうしろを歩いている。

「北のほうにいて、呪師じゅしが呪法に使ったりするっていうぜ。イイヅナとも呼ぶらしいな。まあ飯綱の旦那は妖怪じゃなくて、うちのかしらだが」

「門番の旦那――は違うの?」

 意外だったので、思わず訊いてしまった。

「頭がふたつあるんで、〈二頭にとう団〉さ」

 どうやらこの盗賊団には、首領がふたりいるらしい。御山みやまのように規律正しい場所でも、最高権力者の祭主さいしゅが複数いたら諸々うまくいかなそうなのに、無法集団にふたつの命令系統があって問題は起こらないのだろうか。

 だが、そんな質問をするのはさすがにはばかられる。青藍は口をつぐみ、前を行く娼妓しょうぎ初音はつねにぴったりついて通路を歩き続けた。

 塒が近づいてから急に親しげになったように思える賽には、少し気味悪さも感じている。賽子さいころを自在に操るあの器用さで、自分のことも思い通りにしようとしているのではないだろうか。

 御山を離れて三月みつき以上が経ち、多少なりとも世間を知り経験も積んだ青藍は、もう宮士ぐうし一眞かずまに手もなく騙されたころとは違う。他人に対する警戒心を身につけ、日々の言動にも用心するようになった。

 だが、今後はさらに気を引き締めなければならないだろう。ここは娼楼しょうろうよりもずっと危険な場所に違いないから。

 歩くうちに通路が広がり始め、やがて青藍たちは天井の高い大きな空間へ出た。そこの床はでこぼこしているがおおむね平らで、突き出し燭台が取りつけられた四方の岩壁には、いくつもの小穴や別の通路への入口がある。

 穴のひとつは開口部が広く、扉のついた頑丈そうな木製の格子こうしがはめ込まれていた。中はかなり奥行きがありそうだ。捕虜はその格子の前に一列で立たされ、これまでずっと結われたままだった腰縄をようやく解かれた。

「ずいぶん痩せちまったみてえだなあ」

 青藍の縄を解き、獄へ入れようと軽く二の腕を掴んだ賽が気の毒そうにつぶやく。

「おい〈餅屋〉と〈林檎りんご〉」彼は近くにいたふたりの若者を呼び、格子の中へ目をやりながら言った。「女どもにまともな飯を食わせろ。たっぷりとな。こんなにがりがりじゃそのうち病気になるし、売りに行っても安く買い叩かれちまう」

 美味しそうな名前をしたふたりは、命じられるとすぐに洞窟の奥へ走っていった。

「さあ、入って休んでな」

 賽に優しく背中を押され、青藍は腰を屈めて小さな扉から格子の内側に入った。中は暗く、床にわらが敷かれている。壁際のよさそうな場所はすでに娼妓たちに占められてしまっていたので、彼女はあきらめて格子に近いところに藁を寄せて居場所を作り、くたくたになった体を横たえた。

 餅屋と林檎が運んでくるはずの食物のことが頭の半分を占めているが、もう半分では賽が言った「売りに行く」という言葉について考えている。

 娼楼へ売られて盗賊にさらわれ、またどこかへ売られる――なんだか変な感じ。わたしを買うためにお金を出す人が、そんなに何人もいるのかしら。

〈ふぶき屋〉の楼主おやかたは、わたしの代金として一眞に四金を支払っていたけど、次もまた同じぐらいの値段で売れる? それとも二度目だから安くなる? 痩せていたら値引きされ、ふとっていたら高く売れるのなら、月歌つきうたさんを殺したりせずに連れてくればよかったのに……。

 そんなことを考えているうちに、彼女は抗いきれない睡魔に捕らわれ、眠りの底に落ちていった。


 仲間が多くの分捕ぶんどり品と共に戻ったことを祝って、その日〈二頭にとう団〉は夜が更けたあとも酒盛りをして騒いでいた。

 ひとやのある大空間は館でいえば大広間のようなものらしく、男たちはそこに車座になり、思い思いの格好で飲んだり食べたりしている。中央には大きな火がかれ、明々(あかあか)と燃える炎が周囲の壁にいくつもの黒い影を映し出していた。

 洞内に煙がこもらないところをみると、天井のどこかに通気のための穴がけられているようだ。

 酒宴の中心になっているのは〈飯綱いづな〉の旦那で、〈門番〉の旦那も気乗りしなさそうに加わってはいるが、たびたび座を外しては奥の穴へ消えていた。具合の悪い弟が気がかりで、様子を見に行っているのかもしれない。

 青藍せいらん格子こうしに肩をもたれさせて座り、盗賊たちの宴会をぼんやり眺めていた。久しぶりに腹いっぱい食べさせてもらったので、獄の中にいる娼妓しょうぎたちもみんな気怠けだるそうにしている。

〈餅屋〉と〈林檎りんご〉が用意してくれた食事は稗粥ひえがゆと、素焼きした川魚と根菜がたっぷり入った汁物で、こんな洞窟の中で調理されたとは思えないほど美味しかった。

 酒宴では獣肉が振る舞われており、それを物欲しげに見ている娼妓もいるが、青藍には魚と野菜のほうがずっと口に合う。というより、そもそも獣肉にはほとんど馴染みがなかった。

 御山みやまの奉職者は食べるために獣を殺さないし、自分のために殺された獣を食べることもしない。在家信者から狩りの獲物を献納された場合でも、食してはならない決まりになっている何種類かの動物は、死後の平安を祈る儀式を行うだけだった。

 食事のことは世話役の小祭宜しょうさいぎに任せきりだったのでよく覚えていないが、イヌ、ヘビ、クマ、キツネなど十種類ほどの生き物が禁忌きんきとされていたと思う。

 盗賊たちが旨そうに食べているのが何の肉かはわからないが、なんとなく、禁忌に触れる動物ではないかという気がした。焚き火で焼かれている分厚い肉片からは、快いとは言いがたい独特のにおいが立ちのぼっている。

 それでも――青藍は炎の中の肉を見つめながら思った。ほかの食べ物を何も与えられなくて、あれを食べろと言われたら……何日かは我慢できても、きっと最後には空腹に耐えきれなくなって食べてしまうわ。

 御山独特の暮らしを、御山の外でも続けることなどできない。下界には下界の暮らし方がある。青藍はそのことをすでに学んでおり、必死に順応しようとしていた。

 獣を食べなければ生きられないのなら、ほかのことと同様に、それもまた受け入れる努力をするだけだ。

 やがて食べ物が尽き、酒も大方飲み干されて宴会も終わりかと思われたころ、かなり酔いがまわっている様子の飯綱が立ち上がり、獄の扉を開けにきた。見張りを横にどかせて中腰で中を覗き込み、娼妓たちをじろじろ見回している。

 しばらくそうしたあと、彼は右端のほうにいた此糸このいとに目を留め、差し招いて外へ連れ出した。

 まさか殺されるのでは――と青藍は緊張したが、此糸本人はうんざり顔をしているだけで、特に怖がっているような様子はない。

 飯綱は焚き火の周りにいる仲間に目をやり、「遊んでいいが、逃がすな」と言った。「取り合いはやめろ。喧嘩するなよ」

 すぐにほかの男たちも立ち上がり、嬉しげな顔で獄に寄ってきた。疲れ切って眠っていた娼妓たちが揺り起こされ、ひとりまたひとりと連れ出されていく。

 金色の髪の初音はつねを引っ張り出そうとしている男を間近で見た青藍は、ようやく彼らが何をしようとしているか理解した。この表情には見覚えがある。娼楼しょうろうに通ってくるお客たちと目つきがそっくりだ。

 ふと気づけば、もう獄の中には自分も含めて三人しか残っていなかった。

 ひとりはここへ入れられてから旅の疲れがどっと出て、食事もせずにずっと眠り続けている花琴はなことだ。もうひとりは獄の奥のいちばん暗いところに寝そべっていて、どの娼妓なのかよくわからない。

 肩に誰かの手が触れ、青藍はぎょっとしながら振り返った。

 さいが格子の隙間から手を入れている。青藍は思わず身を引き、彼から少し距離を取った。

「おまえ、名前はなんていうんだ」

 愛想よく微笑んでいるが、やはり目は笑っていない。

「……あい

「染料の藍草の藍かい」

「そうです」

「歳は」

「十二」

「もっと小さいかと思ってた」

 賽は目を細め、格子にかけていた長い指をすっと引っ込めた。

「おれと遊ぼうぜ」

 何をして遊ぶのだろう。また賽子さいころ当て? それとも〈ふぶき屋〉の割床わりどこで行われていたようなこと? この場合は、どう考えても後者だ。

 青藍はうろたえながら、急いで言った。

「でもわたし、まだやり方を知らないの」

 見張りが驚いて振り返ったほど大きな声で、賽が哄笑こうしょうを響かせた。

「ぜんぶ、おれが教えてやるよ」

 誰かがあざけるように鼻を鳴らした。賽が笑みを消し、鋭い目をして獄の奥を見据える。

「いまわらったか」

 暗がりにいた娼妓が身を起こし、影からすうっと顔を出した。夜斗やとだ。

「なにが可笑おかしい」

「あんたさ」凄まれても、夜斗は少しも動じていない。「餓鬼とやりたがるやつは、意気地いくじなしか短小野郎って決まってんだよ。自分てめえに自信がねえから、本物の女には手が出せねえのさ」

 その挑発は、賽にはさほどこたえないようだった。

「おまえ、この子をかばおうってのか」

「馬鹿()かせ」

 夜斗が口をゆがめ、ぺっとつばを吐き捨てる。

「おいらを差し置いて、あの醜女ぶすどもやそんな餓鬼に目の色変えやがるてめえらにあきれ果ててんだ」

「たしかに、おまえは途轍とてつもない別嬪べっぴんだがな――」賽がにやつきながら言った。「残念ながら女じゃない。もう知ってるぜ」

「だから、なんだ」

「女がいるのに、男とやるって道理はねえだろう」

「男のツボを、誰よりよく知ってるのは同じ男だぜ。あんた女とやってて、体じゅうしびれてとろけちまうような思いを味わったことがあるかい」

 挑むように言い、夜斗は床に片手をついて前に身を乗り出した。黒くて長い睫毛まつげをしばたたかせ、上目づかいに賽を見つめながら、細く尖らせた舌先で上唇を横にゆっくりなぞる。

 賽がわずかに身じろぎして、小さく吐息をもらした。

性悪しょうわるめ……」

「度胸があるなら、試してみろよ」

 心動かされた様子を見せつつも、賽はまだ迷っているふうに青藍へ視線を移した。

「だがな、おれは初物が好きなんだ」

「初物の何がおもしれえんだよ」夜斗がせせら笑う。「いやがって痛がって、面倒くさいばっかじゃねえか」

「そこがいい」

 震え上がる青藍をよそに、夜斗が腹に落ちたという顔をした。

「痛めつけたいんだな」

 賽の唇に酷薄そうな笑みが浮かぶ。

「荒っぽいのは好きかい」

「こっちもやり返すぜ」

「よし、来い」

 夜斗がゆらりと立ち上がった。声も出せずに縮こまっている青藍の前を、すべるような足取りで横切っていく。

 そのまま彼女に一瞥も与えることなく獄を出て、彼は賽と共に洞窟の奥へと姿を消した。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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