十四 王生国天山・石動元博 花笑み
彼を見かけたのは偶然だった。
普段はあまり足を運ぶことのない、三の曲輪の北側。そちらには天山の麓から慶城の搦手口まで続く登山道があるが、南側の大手道や西側の八つ折れ道に比べると道幅が狭く勾配も急なので通る人は少ない。
石動元博も、ふだん上下の曲輪へ向かう際には大手道を使うことが多く、北の搦手道はそこにあることをただ知っているだけだった。
雪が降りしきる朝、めったに行かない場所へわざわざ徒歩で向かったのは、搦手道の下り口近くで人と会う約束があったからだ。
桃月半ばとはいっても天山はまだ冬まっただ中で、念入りに着ぶくれして雪よけの簑をまとっていても戸外はひどく寒かった。厚地の足袋と臑まである雪沓を履いているが、冷えは足元からじわじわと這い上ってくる。
元博は襟巻きで顔の下半分を覆い、笠を目深にかぶって黙々と道を急いだ。かなり早めに出てきたので待ち合わせに遅れる気づかいはないし、もし遅れても相手は必ず待っているが、こんな冷え込みのきつい日にそうはさせたくない。
ただ、足早に歩きつつも、尾行を警戒することは忘れなかった。どこかの屋敷角を急に曲がって裏路地へ入り、まっすぐ行くと見せてまた戻り、それを何度も繰り返して追っ手がいないことを確かめながら目的地へ近づいていく。
そうして裏道をくねくねと通り抜け、再び広い道に戻ったところで〝彼〟に気づいた。
大きな蛇の目傘をさしているので顔は判然としないが、洒落た羽織や袴の色柄に見覚えがある。
二十間ほど前方をひとり歩いているのは桔流家の家人、椹木彰久だった。
一瞬、自分の目的地に先回りされたのかと思ったが、まさかそれを知られているはずはない。ここで行き合ったのは、おそらくたまたまだろう。
そこまで考えてから、元博は道の脇の細い路地に飛び込んで笠を取り、土塀の角から少しだけ顔を出した。
彰久は歩調を変えることなく歩いている。気づかれてはいないようだ。
しばらく見ていると、ふいに彼が立ち止まった。視線を右に、次に左に向け、肩ごしにさっとうしろを振り向く。
息を呑みながら間一髪で顔を引っ込め、元博は土塀に背中を張りつかせた。どきん、どきんと大きな音を立てて鼓動が拍っている。
見られたかな……いや、だいじょうぶ。たぶん間に合った。
そう自分に言い聞かせて波立つ心を静め、再び塀の端からそろそろと片眼だけ覗かせる。
彰久の姿はない。消えてしまった。
少し狼狽しながら道へ出て、元博は彼が先ほどいたあたりまで進んでみた。曲輪道と呼ばれる広い大通りの右手には、道の内周に建つ屋敷群の奧のほうへ続いている路地がある。どうやら彰久はそちらへ入って行ったようだ。
わずかに逡巡したのち、彼は自分も路地へ足を踏み入れた。そうしたのは、彰久の態度がどこか、こそこそしているように感じたからだ。彼はこれから行く先を、誰にも知られたくないのではないかという気がする。
あとをつけて収穫があるとも思えないが、直感的にそうすべきだと感じた。
彰久には常日ごろ、自分や南部衆の動向をひそかに探られている。確証はないが、そうに違いないという実感がある。そのお返しという気持ちも多少はあったかもしれない。
路地の奥の山腹に近いあたりは、道が入り組んでごちゃごちゃしていた。表の曲輪道沿いに建ち並ぶ、桔流家をはじめとする名家や旧家の屋敷は広大豪壮なものばかりだが、裏手にある建物はそれに比べるとどれも小さめだ。敷地を囲う塀の一部が朽ちて、荒れた庭が外から垣間見えるような家もあった。
三の曲輪に屋敷を持てるのだから、そこそこ家格の高い武家には違いないが、彼らの台所事情はかなり苦しいのかもしれない。体面がすべてともいえる天山で、住まいに見栄を張れないのはきっと肩身が狭いだろう。
そんなことを考えながら、元博は雪の上に彰久がつけたとおぼしき跡を追った。裏路地はそう頻繁に除雪されないので、真新しい足跡はかなり目立つ。
慎重に痕跡を辿っていくと、やがて前方に再び彰久の姿を捉えることができた。
どこで合流したのか、いつの間にか連れができている。背の高い、あまり人相の良くない三十歳ぐらいの男だ。
鼠色の小袖に焦げ茶の袴、薄汚れた引廻し合羽をつけ、藍染めの手ぬぐいで頬被りをしたその男は牢人者のように見えた。明らかに、このあたりには似つかわしくない風体だ。
彰久と男は並んで細い脇道へ入っていき、どこかの家の裏木戸の前で止まった。中へ声をかけ、そのまま待っている。
元博が遠くの塀の陰から様子を窺っていると、しばらく経って内側から木戸が開き、若い男が体を半分覗かせた。彰久たちを中に引き入れながら、周囲をきょろきょろ見回して警戒している。
彼の顔がこちらを向いた瞬間、元博ははっと目を見開いた。知っている男だ。
三廻部家の直臣杵築家の子息で、名前はたしか正毅とかいった。亜矢姫がいつも五、六人引き連れている取り巻きの中によく交じっている。
三人が邸内に消えたあとも、元博は激しく心をかき乱されたまま佇んでいた。
いったい今、何を見たのだろう――。
椹木彰久と牢人者の組み合わせも不審だが、さらに亜矢姫の遊び仲間がそこに加わるとなると奇妙奇天烈としか言いようがない。彰久と正毅はどういう知り合いなのか。いや、それ以前に、彰久には亜矢と何かつながりがあるのだろうか。
亜矢は桔流和智の外孫、彰久は桔流家の家臣なので、それが接点だと言えなくもないが、元博はこれまでにふたりが言葉を交わすところを一度も見たことがなかった。
亜矢は桔流家の屋敷へ幼いころから気軽に出入りしていたし、最近も相変わらずふいに訪れては元博に剣術勝負を挑んできたりしている。だが黒葛勢が住み暮らす〈賞月邸〉でたまに顔を合わせることがあっても、彼女は彰久など目に留まりもしないふうだった。
もともと亜矢には、関心の持てない相手を黙殺する傾向がある。それで元博はずっと、彼女は彰久には興味を引かれないのだろうと思っていた。
しかし違ったのかもしれない。人前での接触を避けながら、裏で結託しているということは充分にあり得る。
かつて、騙し討ちをされたと嘘をついて貴昌を陥れようとした亜矢と、南部衆には一見好意的だが、兄博武から〝用心すべき〟と警告された人物像にぴたりと当てはまる彰久。その油断のならないふたりがどこかでつながっているかもしれないと思うと、たまらないほど胸がざわついた。
三人の男が人目を忍んで会っていたというだけで、よからぬことを企んでいると疑うのは早計に過ぎるかもしれないが、このまま見過ごすわけにはいかない気がする。
ともかく、亜矢姫と彰久どのの関係をあらためて調べてみよう――そう決心して、元博は人けのない路地を引き返した。
思いがけず時を費やしてしまったので、きっともう待ち合わせの相手は約束の場所に来ているに違いない。
路地から出た元博は曲輪道を渡り、三の曲輪の外周をぐるりと囲む土塀沿いの屋敷群に近づいた。こちらは内周よりも屋敷同士の距離が広めに取られ、建物の切れ目には天然の雑木林が残されていたり、物見櫓が配置されたりしている。
元博は曲輪道と搦手道が交わるところの近くまで行き、曲輪門の手前に建つ櫓のそばで足を止めた。今は昼間なので、櫓の上階に番士の姿はない。彼は周囲の様子を少し窺ってから、井桁に組まれた脚部の下へ潜り込み、突き当たりの土塀脇まで進んだ。
事前に聞かされていた通り、塀の下方に人ひとり抜けられるぐらいの穴がある。彼はもう一度背後を確認してから、雪と下草をかき分けて抜け穴に体を押し込んだ。
塀の外側は急な斜面で、鬱蒼とした雑木林が広がっている。足を滑らせないよう慎重に下っていくと、前方に見える雪をかぶったクマザサの茂みが揺れ、そこに身を隠して待っていた政茂が立ち上がった。
「すまない。少し遅れた」
「いえ、手前も先刻来たばかりです」
元博は茂みに足を踏み入れて近くまで行き、空閑忍びをじっと見つめた。地味な色合いの裁着袴をつけて脇差しを挿し、武家の奉公人らしく装っている。
「そういう姿は初めて見たな」
「連れ立って歩くところを元博さまのお知り合いに見られても、これなら従者か何かだと思ってもらえるでしょうから」
「たしかに。なかなか似合っているよ」
政茂はうっすら微笑み、元博が下りてきた斜面の上に目をやった。
「塀の穴は、すぐにわかりましたか」
「うん。櫓の下で目立たないし、下草でうまい具合に隠されていたから感心した。あれはいつ掘ったんだ」
「昨年の暮れに頭目から指令がまいりましたので、すぐに下調べを始め、表の稼業の合間に何度か通ってこしらえました」
空閑忍びの長である宗兵衛がよこした指令、それは「緊急時に貴昌君を天山よりお落としする手段を講じよ」というものだった。
いま下界で繰り広げられている黒葛家と守笹貫家の戦いは、おそらくあとひと月ほどで決着するだろう。その時に黒葛家が勝利していれば、大皇三廻部勝元は預かっていた人質を南部へ帰す――に違いないと元博は考えている。だが、その予想が外れる可能性もなくはない。
勝元があくまで貴昌をここに留めようとしたり、あり得ないとは思うが害そうとするような動きを見せたりした場合は即座に、かつ秘密裏に彼を逃亡させる。それが、ひとり息子を十二年間も天山に奪われていた、黒葛家の宗主禎俊の決断だった。
その際にはもちろん、曲輪門や大手道をはじめとする登山道は使えない。番所で足止めされるだろうし、ぐずぐずしていたら城から差し向けられた番士に捕まってしまう。
そこで元博と政茂は相談を重ね、通常とは異なる逃走経路を確保しておくことにした。
「ではこれから、ご案内いたします。万一に備え、図面などには書き記しておりませんので、この機にしっかりとご記憶ください」
「わかった」
政茂が先に立って斜面を下り始め、元博はすぐそれに続いた。雑木林を斜めに突っ切り、まずはひとつ下層の四の曲輪を目指す。
「行く手の木の幹にご注意ください」政茂が小さな声で言った。「高い位置に、一か所だけ目印をつけてあります」
元博は薄暗い中で目を凝らし、彼が言う〝目印〟を探した。
「どんな印なんだ」
「お教えしません。元博さまがお気づきになられるかどうかを知りたいので」
「ようし、見つけるぞ」
雑草と藪だらけの斜面を難儀して歩きながら、何かそれらしいものはないかと頭上に意識を集中する。
そうして、そろそろ斜面が尽きて下の道に出ると思われたあたりで、幹の太さがふた抱えほどもある大木の黒い樹皮に真新しい傷を見つけた。
三日月と、その弦の欠け際から内側へ続く稲妻に似た形。〈月に蝙蝠〉――空閑一族の家紋だ。
「蝙蝠がいた」
元博が囁いて指差すと、政茂は唇の端をちょっと上げた。
「さすが」
「近くの枝を払ってくれていたから、わかりやすかったよ」
目印の木の近くまで行き、政茂と元博は笹藪に身を沈めた。もう少し下りれば四の曲輪の中だ。
「ここから人けのない道に出られます。無人になっている武家屋敷の裏手で、すぐ横はずっと向こうまで切岸ですから、誰かに出くわすことはまずないでしょう」
藪から顔を出して雑木林の外の様子を少し窺い、ふたりは残りの斜面を滑って道に下り立った。
政茂の言葉どおり、そこは膝まで雪の積もった細道で、片脇には古びた板塀が高く聳え立っている。周囲に人影はなく、もう何日も、人はもちろん犬猫すら通っていないように見えた。
「どっちへ行く」
「塀に沿って左へ。切れ目で右の道へ入ります」
先導されて屋敷町の中を通り抜けながら、元博は道順を頭に叩き込むことに専念した。次に通るとき、正しく辿らなければ大通りへ出る位置がずれ、その先の順路もあやふやになってしまう。
やがて広い曲輪道へ出ると、政茂は通りの向かいに建つ物見櫓を指した。
「あの下に、次の抜け穴があります」
「三の曲輪から抜けた時は山の真北側にいたけど、今はかなり東寄りかな?」
「はい。良い方向感覚をお持ちで」
「生明城の中が迷路みたいだったから、小姓を一年務めているあいだに鍛えられたんだ。それに慶城の御殿内もだいぶ複雑だし」
連れ立って道を渡り、元博は櫓に近づいて見上げた。
「当然だけど、どの櫓も形が似ているなあ。さっきの屋敷町の出口を間違えないようにしないと」
「もし間違えてもご心配には及びません。ここにも印をつけてありますよ」
そう言われて脚部を子細に観察すると、柱の一本に先ほど見たのと同じ模様が彫られていた。人の背よりもかなり高い位置にあるので、知らない者はまず気づかないだろう。
「うん、これならだいじょうぶだ」
元博は微笑み、振り返って政茂を見た。
「つまり抜け穴の入口と、曲輪への出口で迷ったら印を探せということなんだな」
「そうしていただけば、確実に下層へ下りていくことができます」
櫓の下に潜り込んで穴を抜け、ふたりはまた雑木林の斜面を下った。先ほどと同じ斜め方向に進んでいるので、さらに山腹を回り込んで、次は南側へ出ることになりそうだ。
「追っ手を攪乱するため、ずっとぐるぐる回りながら下りていくのか? それだと、脱出までに時がかかりすぎるのでは」
「次の抜け穴から先は、経路はほぼ一直線です。もっとも危険なのは武士や番士が多い五の曲輪までですから。そこを過ぎれば警備はだいぶゆるくなりますし、町人や旅人の姿が増えるので、紛れ込んで逃げるのも容易になります」
よく考えているなと感心しながら、元博は頭上に注意を向けてまた目印を探した。
今は昼間なので、今日のように薄曇りでもなんとか視界を確保できているが、夜にここを通って逃げるのはどうも無理そうだ。歩くだけでも難儀だし、自分の手も見えないような暗闇の中で目印など見つけられるはずはない。
「危険かもしれないが、夜はどうしても明かりが必要だ」
「はい。逃走用のお荷物に、弓張り提灯をひとつ入れておかれたほうがいいでしょう」
「荷物……そうか、最低限の支度は事前にしておかないとな。いざという時に、引っ掴んですぐ逃げられるように」
「お荷物は桔流さまのお屋敷の外、曲輪道沿いのどこかに隠しておかれることをおすすめします」
「よさそうな場所を探すよ。外周の屋敷の間にある雑木林にでも埋めておこうかな」
視線を上げ、立ち木の上方を見回すと、少し先にある木の幹に印が見えた。
「あった、あった」
近づいて林の外へ目をやると、そこは五の曲輪の山腹沿いに広がる裏店街の一角だった。政茂が偽装で煙管を手入れする羅宇屋を営んでいる長屋も近くにあるはずだ。
「なるほど、ここへ出るのか」
「もし逃走の際に何かお困りになったら、手前のところへお立ち寄りください」
「そうしなくてすむよう願うよ。逃走中のわたしたちと接触したことを誰かに悟られたら、おぬしがまずい立場になる」
政茂が苦笑を浮かべる。「お優しいかただ」
そうかな、と肩をすくめて元博は路肩へ下りた。裏長屋のさらに裏側なので、ここも道を行く人影はまったくない。
「あとの経路は一直線だと言ったっけ?」
「そうです。この先は常に南を指して進むだけですから、目印を辿るのは難しくありません」
「じゃあ、案内はここまでか」
「はい。何かご不安な点はございますか」
「だいじょうぶだよ。わかりやすく説明してくれたから、もし若殿をわたし自身がご案内することになっても、きっとうまくやれると思う」
政茂は安堵の表情になり、長屋のほうへ目をやった。
「上へ戻られる前に、少しお寄りになりませんか。屋台のものになりますが、よろしければ昼餉でもご一緒に」
彼がこんなことを言い出すのは珍しい。元博は少し驚いたが、嬉しく思いながらうなずいた。
「うん、そうしよう。おぬしにちょっと話したいこともあるし」
元博が家に入って待っていると、少しして政茂が丼ふたつを手に戻った。やや厚めに切った鴨肉と、ぶつ切りの白ネギが入った熱い蕎麦だ。
「鴨蕎麦か。冬らしいなあ」
「この近所では、評判のいい屋台です」
箸をもらって、さっそくひと口すすり込んでみる。やや粗挽きの二八蕎麦は歯ごたえがあり、屋台のものとは思えないほど香りがしっかりとしていた。
「蕎麦もだけど、この汁がまたいいな」
鰹節の香気が立つ澄んだ汁は、こくがあってほんのり甘い。鴨肉からにじみ出た脂が表面にとろりと浮いていて、飲むとその旨味が口いっぱいに広がった。
「ああ旨い。それに腹の中が温まるよ。今日みたいな寒い日にはぴったりだ」
思わず破顔すると、政茂が慎み深い微笑で応えた。
「お気に召してようございました」
昼餉をすませたあと、元博は政茂が淹れてくれたお茶を飲みながら、三の曲輪で見かけた椹木彰久とふたりの男の密会について話した。
「牢人者はさておき、亜矢姫の取り巻きと会っていたというのがどうしても引っかかるんだ。考えすぎかな?」
「いえ……」伏し目がちに話を聞いていた政茂が、かすかに首を振る。「手前にも、その取り合わせはいささか奇妙に思えます」
「これまでずっと彰久どのの様子はそれとなく窺ってきたのに、どうしてあのつながりを見落としていたんだろう」
「それだけ慎重に隠していたということでは」
「あるいは、最近できたつながりなのか」
元博は政茂と顔を見合わせ、互いの目の中に憂慮の色を見て取った。
「人目を忍ぶように集まっていたこと自体が、何かやましいことをしているという証左に思える。それが我々にかかわることだと考える根拠はないが、今はようやく故郷へ帰れるかどうかという大事な時だ。用心するに越したことはない」
「おっしゃるとおりです」
政茂はすぐさまうなずき、強い眼差しを元博に向けた。
「調べましょう。杵築正毅という人物の身辺は手前が洗います」
「わたしは御殿奧の事情を知る人から、亜矢姫の交友関係について話を聞いてみるよ。彰久どののことも――少し本腰を入れて調べてみよう。同じ屋敷内に住んでいるんだから、留守の時を見計らって彼の役宅を探ったりできるかもしれないし」
政茂の瞳がわずかに陰る。
「くれぐれもご用心を」
「わかってる。うまく立ち回るよ」
空閑忍びと脱出経路の確認をした翌日、元博は三の曲輪の祭堂で白須美緒と待ち合わせをした。奧御殿で長く勤めてきた彼女は、今では大皇の次女沙弥姫の侍女のひとりに昇格している。
今日は通常の休みのほかに月に一度もらえる〝半休み〟の日で、午前の仕事を終えたら三の曲輪まで下りてくることになっていた。
祭堂で会うことにしたのは、天門神教の信徒であり、そのことを周囲にも知られている元博がもっとも足を運びやすい場所だからだ。日中なら桔流邸を出入りすることに制限はないが、いちおう人質身分なので私的な外出の場合は行き先と理由を訊ねられる。そういう時は「ちょっと祭堂まで」と言って出るのがいちばん無難だった。
もちろん、そのまま本来の目的地へ向かうこともあるが、元博はなるべく祭堂にも実際に立ち寄るようにしている。そうしておけば万一あとで誰かに詮索されたとしても、祭堂勤めの奉職者たちに「確かにいらっしゃいました」と証言してもらえるからだ。
少し風が強く、雪は降っていないが寒い日だったので、彼は本堂で参拝を済ませてから参道脇の森に入っていった。
手つかずの林床に堆積した落ち葉の甘いにおいに包まれ、本堂からかすかに聞こえてくる唱士の歌声に耳を傾けていると気持ちが安らぐ。
そうして静かに美緒が来るのを待ちながら、元博はしみじみと幸福感に浸っていた。
好きな人を待つ時間というのは、ほんとうに心嬉しく楽しいものだ。
天山へ来て十二年が経ち、今では勤めを離れてつき合える友人も男女を問わずそれなりにできたが、彼女ほど慕わしく思える人はほかにはいない。向こうも同じ気持ちでいてくれるのを感じはするものの、これまでふたりのあいだでそれをはっきりと言葉にしたことはなかった。
だが、今日こそはきちんと言わなければならない。ぐずぐずしていたら、何も伝えないままここを去ることになってしまう。
背後で、かさりと落ち葉を踏む音がした。待ち人が来たようだ。あまり自己主張をしない控え目な彼女は、遠くから大声で呼びかけたりはしない。
振り向くと、参道を外れて森へ入ってきた美緒が、風よけの被衣を引き下ろしながら微笑んだ。
「やあ、美緒どの」
「元博さま」
色白な頬が、寒さで少し紅潮している。
「お待たせしてすみません」
「わたしも来たばかりですよ」
元博は彼女に歩み寄り、背に軽く手を添えて森の出口へいざなった。
「ここは落ち着くけど、長く立っていると冷えるので、ちょっと歩きましょう。曲輪門近くの甘味茶屋へでも入りませんか」
連れ立って曲輪道をゆっくり歩きながら、元博は彼女の近況や仕事のことを聞いた。
毎年桃月も半ばになると、慶城の奉公人は翌月末に控えた観梅の宴の準備で忙しくなる。宴の前夜には二の曲輪御殿で内輪の酒宴を開くのが恒例になっており、美緒は二年前からその裏方を務める女中たちの監督役に任じられていた。
だが今年は、肝心の観梅会の日取りがなかなか決まらず、人選や食材の手配なども滞っているという。
「じつは今、陛下と真名さまがひどく揉めておられて……」
彼女が言うには、少し前に大皇夫妻は意見の相違から激しい口論になり、それ以来互いに顔を合わせるのも避けるようになったらしい。
三廻部勝元と妻の真名の不仲は昔からだが、今回の諍いはかなり深刻そうだ。夫妻の相談や合意が必要な行事が慶城にはたくさんあるのに、ふたりが頑として口を利こうともしないので、いろいろと棚上げになったままでみな困っているという。
「それは大変ですね」
「桔流和智さまが、たびたびご説得に当たられているようですが、おふたりとも頑固でいらっしゃるので」
そういえば、南部衆の後見役である和智公を、ここしばらく桔流邸内で見かけていない。きっと本曲輪御殿に日参して、勝元公や真名妃をなだめすかしているのだろう。
「竜虎相搏つ中に割って入って双方を御そうとするなら、和智さまは何になるべきなんでしょうね。獅子とかかな?」
「まあ、元博さま」
美緒は長い睫毛をしばたたかせ、袖を口元に当ててくすくす笑った。
二十代半ばを過ぎ、もう決して女として若くはない彼女だが、表情や仕草に少女の名残が時折垣間見えるのが可愛らしい。
「なんにせよ、早く仲直りをなさるといいですね」
「ええ、ほんとうに」
話しているうちに茶屋へ着き、見世の奧の小上がりに席を占めたふたりは、茶請けの黒豆煮をつまみながら熱い麦湯をすすった。
「元博さまのほうは、近ごろどんなご様子ですか?」
「わたしはいつも通り、代わり映えのない毎日です。ここしばらくは、亜矢姫が勝負を挑んで来られることもありませんしね」
笑っていいのかどうか悩むような表情を浮かべる美緒を見ながら、元博はさり気ない口調で続けた。
「そういえば昨日お使いに出た時に、屋敷町で意外な人たちを見かけましたよ」
「意外な人たち?」
「亜矢姫のお取り巻きに、杵築家の若いご子息がいらっしゃるでしょう」
美緒が「ああ」と思い当たった顔になる。
「正毅どのですね」
「そうそう、杵築正毅どのだ。あの人が、桔流家に仕える椹木彰久どのと仲良さげに連れ立っておられたんです」
「椹木というと――真名さまとご遠戚の?」
「血のつながりはないと聞いていますが、なんでも大皇妃陛下とご一緒に泉州の采華城で育たれたとか」
「ええ、真名さまが以前、いとこのひとりのようなものだとおっしゃっていました。そのご縁で、城での催しなどにはしばしば招いておられるようです」
「では彰久どのは、亜矢姫とも親しくなさっておられるのでしょうか。ご友人の正毅どのとああして会われるぐらいだから、当然姫君ご本人とも――」
「え、さあ……どうでしょう」
困惑の表情で美緒が小首を傾げる。
「姫君の周りで、彰久どのをお見かけしたことは一度もないと思います。わたしは亜矢姫さまのお側付きではないので、ただ知らないだけかもしれませんが」
「そうですか。では、姫君とは無関係なところでのご親交かな。なんとなく珍しい取り合わせに思えたので、つい詮索癖が出てしまいました」
元博は笑って話を終わらせ、麦湯を飲み干した。
「まだ、お時間はだいじょうぶですか?」
「はい」
茶屋を出た彼は、美緒を曲輪の西側にある〈空中露台〉へ連れて行った。雑木林の奧に張り出した岩棚で、下界の眺めを一望できる人気の場所だ。
といってもそれは夏場のことで、この時期にわざわざ風と雪にさらされに岩棚へ足を運ぶ人はあまりいない。
だからこそ好都合だった。あそこなら確実にふたりきりになれる。
「露台へ来られたことは?」
雑木林の中の小道を歩きながら訊くと、美緒はいつにも増して小さな声で答えた。
「話には何度か聞いていましたが、実際に来たことは一度もないのです。わたし、あの――高いところが少し苦手で」
しまった。まずかったかな。
「それは知らなかった。では、やめておきましょう」
「いえ」美緒は焦る元博の袖を掴み、真剣な面持ちで首を振った。「行ってみたいです。元博さまとご一緒なら怖くありません」
「ほんとうに?」
「落ちないように、つかまえていてくださるでしょう?」
「もちろんです」元博は笑って、彼女の手をそっと握った。「絶対に放しませんよ」
おっかなびっくりな彼女を促して雑木林を抜け、岩棚の中央まで進んだところで、元博は南の方角を指差した。
「遠すぎて、ここからはさすがに見えないけど、あちらにわたしの生まれ故郷があります」
「三鼓国の狩集郷――前に、そう教えてくださいましたね」
美緒はうなずき、そちらへ顔を向けた。
「どんなところなのですか」
「山がちな土地で、わたしが子供のころにはしょっちゅう山賊が出たりしていました。三州の中では北方にあたるので、海沿いの地域に比べると夏も過ごしやすかったように思います。城のすぐ近くに太い川があって、暑い時季にも冷たくて……兄たちとよく水遊びをしたなあ。ここではお見せする機会もありませんが、わたしは泳ぎはけっこう達者なんです」
「故郷を、さぞ恋しくお思いでしょうね」
「人生の半分をここで過ごしたから、天山も今では故郷のようなものですよ。でもやはり、望郷の念を感じないと言ったら嘘になります」
元博は体の向きを変え、彼女とまっすぐに向き合った。
「わたしは――おそらく、近いうちに南部へ帰ることになるでしょう」
美緒がはっと息を呑み、つないだままの手に少し力を込める。
「黒葛さまが戦でお勝ちになったら……」
「ええ。今度こそ大皇陛下からお許しが出るだろうと、わたしたちは考えています。しかし、もし許されなくとも、これ以上ここに留まるつもりはありません」
言外に匂わせた逃亡の意志を、美緒は正しく汲み取ったようだった。黒目がちの大きな瞳が不安そうに揺れている。元博は身を屈め、その瞳を覗き込みながら言った。
「美緒どの、わたしと一緒に南部へ来てくださいませんか」
覚悟は決めてきたし迷いもないが、それでも緊張のあまり心の臓が口から飛び出そうだ。頭に血が上ってくらくらする。
「ずっと、あなただけを心に想ってきました。どうか、わたしの妻になってください」
「はい」
それは短いが、聞き間違えようのない明確な返事だった。
にもかかわらず、うまく呑み込めない。
「あの――」
「はい」
「つまり……承諾ということですか」
「はい。元博さまの妻にしてください。どこへでもお供します」
恥じらいに頬を染め、喜びの涙で目をうるませながら、それでも彼女はかつてないほど決然とした口調で言った。
この女は待っていてくれた――約束の言葉ひとつあげられなかった長い年月、何も言わず、急かしもせず、ただひたむきに。
あらためてそう気づき、元博は胸苦しいほどに彼女を愛おしく感じた。
「もっと早く……気持ちをお伝えすることができなくて、申し訳ありません。あまりにも長くお待たせしてしまいました」
白い椿のつぼみがほころぶように、美緒が唇に優しい笑みを咲かせる。
「元博さまのお心を信じていましたから、お待ちしていたあいだも幸せでした」
その瞳からこぼれた涙を元博は指でそっとぬぐい、細い肩に両腕を回して抱き寄せた。驚きに一瞬身を固くした美緒がすぐに力を抜いて、甘えるように胸に頬を寄せる。
「なるべく早く若殿にお話しして、結婚の許可をいただきます。それから美緒どのの後見人の白須時貞どのに正式なお申し入れを――いや、その前にお父上の靖時どのにお伺いを立てるべきかな。あ、そうだ、奧勤めをなさっているのだから、大皇妃陛下からも許可をいただかないといけませんよね」
すっかり舞い上がって思いつくままにしゃべっていると、腕の中で美緒が小さく笑った。
「白須家は何ごとも本家の意向次第なので、伯父の許しさえ得られればだいじょうぶです。真名さまにはわたしのほうから」
「許してくださるでしょうか」
思わず不安をもらした彼の顔を間近に見上げ、美緒は自信ありげに言った。
「もちろんです。伯父夫婦も真名さまも、昔からずっと元博さまには好意的ですもの。それに、もし許してくださらなかったとしても、わたしはついて行きます」
それから彼女は、ふと思い出したように言葉を継いだ。
「あ――でも、もしかするとお許しをいただくまでもなく、お役目として南部へ行けることになるかもしれません」
元博は腕を少しゆるめ、意外なことを言い出した彼女をまじまじと見つめた。
「お役目、ですか?」
「はい。これは先ほどお話しした、両陛下の諍いと関係のあることですが……じつは大皇陛下は今、貴昌君と亜矢姫さまのご縁組みを考えておられて」
頭を棍棒で一撃されたような衝撃を感じ、元博は目を見開いたまま固まった。
「一方で大皇妃陛下は、貴昌さまにはぜひ二の姫の沙弥さまを、と。それで、近年なかったほどの激しい言い争いになってしまわれたのです」
ため息をつき、美緒が小さく首を振る。
「いずれは、どちらかが譲歩されて丸く収まるとは思いますが――」
「厭だ」
考える前に言葉が口を突いて出た。
「そんなのは厭だ。絶対に駄目だ」
美緒が顔を上げ、不安そうに身じろぎをする。
「たしかに、亜矢姫さまはいろいろと――難しいかたですから……。でも、沙弥さまなら? 姫さまは貴昌さまのことをとても慕っておられますし」
「どちらの姫君だろうと関係ない」
激しい口調や険しい表情が彼女を怯えさせているのを感じるが、どうしても自分を抑えられなかった。
「こんなにも長く若殿の自由を奪い続けてきた天山が、南部へ戻ってもなお何かを強いるなど、そんな――そんなこと、断じてあってはならないんです」
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