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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第一章 乱世の若者たち
104/161

十二  別役国小浦方郷・街風一眞 誤算

 銀銭一枚で買い入れたものを、ふつう商売人は同じ値段で売ったりはしない。

 買う時にはさんざんけちをつけ、値切り倒して手に入れたものでも、手放すとなると美辞麗句を並べ立てて褒めそやし、少しでも値段を上乗せしてより高く売ろうとする。それがあきないというものだ。

 一眞かずまは〈ふぶき屋〉に金銭五枚で青藍せいらんを売ったが、同じ五枚で買い戻せるとは思っていなかった。

 楼主はまず、見世みせに彼女を置いていたあいだの経費かかりを取り戻そうとするだろう。さらに、今後青藍が娼妓しょうぎになって稼ぐと見込んでいた分もいくらか加えて、できるだけ利益を増やそうと考えるに違いない。

 だが一眞の懐には、もう一金十二銀しか残っていなかった。御山みやまへ戻れば金など使うこともないと思い、帰路に風呂付きの贅沢な宿に泊まったり、娼楼しょうろうに居続けしたりして散財したためだ。

 この元手をなんとかして六倍、可能であれば七倍ぐらいに増やしてからでなければ、佛田ふった宿(しゅく)へ舞い戻る意味はなかった。軽い財布を振り回してみせても、楼主ははなも引っかけないだろう。

 しばらくのあいだ、どこかの雇われ人になって稼ぐことはできる。御山で十二年も修練と労働に明け暮れる日々を過ごした身だ、働くことはさほど苦だとは思わない。

 だが一眞はいま急いでいた。七金近い大金を貯め終えるまで、悠長に腰を据えて勤める余裕などない。一刻も早く青藍を御山へ連れ帰り、自分に汚れ仕事をさせて切り捨てようとした連中にひと泡吹かせてやりたかった。そのためにはどんな手段を取ってでも、必要なだけの金を早急にかき集めなければならない。

 賭場とば賽子さいころに運命を託す――そんな考えもちらりと頭をよぎりはしたが、現実的ではないので実行には移さなかった。過去に少しだけ賭け事をやってみた経験を振り返ってみても、とうてい自分に博打ばくちの素質があるとは思えない。

 素質があると感じ、人からそう言われもするものは剣だけだ。

 戦うこと。斬ること。殺すこと。それなら、いつだってうまくやれる。貪欲に戦い、鮮やかに斬り、何のためらいも良心の呵責かしゃくもなく人を殺してきた。

 血のつながった親も殺したし、恩義を感じていた相手も、信頼を預けてくれた友も殺した。恨みも憎しみもなく、ただその時に自分が必要としていたもの――金を、刀を、馬を得るために通りすがりの誰かを襲い、抵抗されて殺したこともある。

 今さら上品ぶる気など毛頭なかった。金が必要なら、持っている者から奪えばいい。脅して素直に渡すなら見逃しもするが、刃向かう気配を見せれば手っ取り早く始末するつもりだった。

 そうして首尾よく青藍を買い戻し、あとは御山へ帰るだけという段になれば、巣を離れた獣さながらに張り詰めたこの気分も少しはほぐれるだろう。


 追いぎをすると決めた一眞かずまは、別役わかえ国を指して旅を続けながら街道筋で獲物を物色した。

 いいカモを見つけて財布なり巾着なりを奪い取ったあとは、しばらく道を変える。森や山中を抜ける裏街道。うらぶれた集落を貫く脇街道。そちらでひと仕事したら、また表街道へ戻る。

 手ごろな獲物は表街道のほうに多かった。軽く脅せばすぐ言いなりになる老人や、子供連れの女。道中差しを携帯してはいるが、使い方など知りもしない商人。彼らは財産よりも命を惜しむたぐいの連中だ。

 護衛代わりに若い奉公人などを連れていることもあるが、その護衛もたいていは主人と一緒になって震えているだけで、何のさわりにもならなかった。

 だが裏街道を行く者たちは違う。

 彼らの多くは表街道を堂々と歩けない事情を抱えた、いわゆるすねに傷持つ連中だ。自分のものは鼻紙一枚たりとも他人には渡したくないという強突ごうつく張りで、隙あらば逆に奪ってやろうと考えている。荒事あらごとには慣れていて、反撃してくることも少なくなかった。

 剣が使える者はまれだが、懐に呑んでいる匕首あいくちの振り回し方はみな心得ている。舐めてかかると痛い竹篦しっぺ返しを食らうことになるとわかっていたので、一眞は決して油断しなかった。追い剥ぎの真似事をしていて、裏街道でうっかり命を落とすなどご免だ。

 用心深く刻々と居場所を移しながら、これと思う相手を見つけては脅して奪うことを繰り返し――そうして十日も経つころには、胴巻きに隠し入れた銭貨は五金七銀にまで増えていた。これでようやく元値分だ。さらに上乗せ分を稼がねばならない。

 道程はすでになかばを過ぎており、御守みもり国の西南部を流れる大河明日(ぬくい)川のきわまで来ていた。ここから四日も歩けば別役国との国境くにざかいだ。

 数日ぶりの小雪がちらつく曇天の下、早朝に渡し舟を出させて川を越えた一眞は、人もまばらな街道で行き合った若い男から巾着を奪い取ったあと裏街道へ移動した。

 太いスギの木が乱立する森を抜け、西に見える低い山を越えていく道のようだ。

 森の中は空気が湿っぽく、少し暖かかった。木々の根方をうすく雪が覆っているが、道には積もっていないので歩きやすい。とはいえ、複雑に枝分かれした杉の巨木は、ぐねぐねとうねる根を八方へ長く伸ばしているので、それらに足を取られないよう気をつけなければならなかった。

 熊が冬眠から覚めるにはまだ早いが、まむしなどはそろそろい出してくるころだ。一眞は杖代わりの枝を一本拾い、下草の多い場所では行く手の地面をがさがさと突きながら進んだ。その震動を感知すれば、蛇は逃げていくだろう。

 厚い樹冠が邪魔をして空がよく見えないため、森に入ってどれぐらい経ったのかさっぱりわからなかったが、腹がいたのをひるごろと見極めて弁当を食べることにした。今朝、宿をつ前に作らせたものだ。

 倒木を見つけて腰を下ろし、竹の皮の包みを開いてみると、麦混じりの大きな握り飯が三つ入っていた。いい香りのするふきとう味噌が脇に添えられている。

 味噌をつけながら握り飯を食べ、水を飲んで少し休息したあと、一眞はまた林道を歩き出した。

 この裏街道では、まだひとりの旅人とも行き合っていない。獲物に出会う確率が低いようなら、早めに見切りをつけてほかの道へ回ってみるべきだろうか。そんなことを考えながら黙々と半刻ほど歩いたころ、しんと静まりかえっていた森の中に突如人声のようなものが短く響いた。

 なんと言ったのかはわからない。悲鳴か。あるいは笑い声だったのか。

 一眞は足を止め、辺りに目を配りながら聞き耳を立てた。

 無音。

 無音。

 さわさわと風が梢を吹き抜ける音。

 冬の森は、それまでと変わらずに静かだった。聞こえたと思った声は人のものではなく、鳥の地鳴きか何かだったのだろうか。

 再び歩き出そうとして――その足を下ろす。

 また聞こえた。女の悲鳴だ。かすかだが、今度は間違いない。

 森の奥で、同業者おなかまが旅人を襲っているのだろうか。ならば、かかわり合いにならないほうがいいだろう。何も聞かなかったことにして先を急ぐに限る。

 一度はそう思ったが、彼はふと気を変えて、声がしたほうへ向かった。

 犠牲者を助けようなどと、殊勝しゅしょうな考えを起こしたわけではない。襲っている側の人数と腕次第では、稼ぎを横取りできるかもしれないと気づいたのだ。

 卑劣なのはお互いさまなので、遠慮する必要はない。

 林道を外れ、木立をすり抜けるようにしながら奧へ入っていくと、せわしない息づかいと唸り声が近づいてきた。立ち並ぶ幹の隙間に人影が見える。

 薄汚い毛皮の胴衣を着た若い男がひとり。これは藪の脇に立って、にやにやしながら帯を締め直している。

 その足元に横たわる壮年の男は、どうやら死んでいるようだ。白髪交じりの髪が解けて、仰向いた顔に乱れかかっていた。

 さらに、若い男の仲間らしき赤ら顔の中年がひとり。これは地面に膝をつき、女を犯しながら首を絞めている最中だった。

 犠牲者は十代半ばの娘だ。傍で死んでいる男は父親なのかもしれない。

 娘は窒息しかけており、なんとか男から逃れるべく必死に抗っていた。だが顔に爪を立てようと伸ばした手は相手に届かず、力なく虚空こくうを引っいているだけだ。

「この女、往生際がわりィや」

 赤ら顔は毛皮の男を振り返って言い、ふたりで声を揃えて笑った。

はえェとこ済ませろ。ぼちぼち行こうぜ」

「待て待て、もうちょっと楽しませろ。いま、いい具合に締まって――」

 首をひねったまま話していた赤ら顔が、息を呑んで大きく目を見開いた。仲間の背後に忽然と現れた人影を見たからだ。

 立ち木を回り込んで毛皮の男に忍び寄った一眞は、最後の一歩で藪を飛び越えながら抜刀し、振り向きかけた相手の左頸部を素早く深く斬った。大量の鮮血が繁吹しぶき、ざっと音を立てて冬枯れの貧弱な下生えを濡らす。

 毛皮の男が声も上げずに崩れ落ちた時には、赤ら顔はもう立ち上がって山刀を構えていた。ゆるめたふんどしの脇から、情交の跡も生々しい一物いちもつが飛び出したままだ。

「なんだ、てめえ」

 男は口をゆがめ、吠えながら突進してきた。こちらは大刀を持っているのに、恐れている様子はない。

 勇気がある――が、蛮勇だ。

 厚みと重量のある山刀の刃には脅威を感じるが、持ち主の技量はお粗末なものだった。たくましい腕の力に任せて、ただ闇雲に振り回しているだけだ。

 それでも、もし当たれば刀を折られかねないので、一眞は間合いを広めに取ったままするすると横に移動した。それに釣られた男が動き、同じように立ち位置を変える。

 手ごろな大木が相手の背後に来たところで、一眞は一気に懐へ飛び込んだ。ぶつかる手前で膝を折り、足を滑らせながら右脇へ回り込む。

 横殴りに振られた山刀の幅広な刃が、ぶんと唸りを上げて頭上を通り過ぎ、勢いを止め損ねて木の幹に深く食い込んだ。

「くそっ!」

 赤ら顔がわめき、両手で山刀の柄を引っ張った。だが抜けない。

 恐慌をきたした目がこちらを見た瞬間、一眞は伸び上がりながら斜めに斬り上げた。左腿から鼠蹊そけい部、腹、胸へとひとつなぎに断ち割った切っ先が、最後に顎を真っ二つにしながら抜けていく。

「よく斬れる」

 思わずそうつぶやき、一眞はよろめき倒れた男の脇でまじまじと刀を見つめた。

 御山みやまで死んだ衛士えいし仲間から奪ったものだが、殺す気で人を斬ったのはこれが初めてだ。今までは出し惜しみをして、脅すために鯉口を切って見せたり、浅く傷をつけたりする程度にしか使っていなかった。

「掘り出し物だったな」

 刀身に軽くぬぐいをかけ、鞘に収める。

 せっかくの刃を傷ませてはもったいない、どこかで一度研ぎに出そう。そう思いながら振り返って見ると、陵辱りょうじょくされた娘が息を吹き返しかけていた。

 青ざめた顔にはどことなく幼さが残っているが、乱れた裾から覗く真っ白な太股ふとももは肉感的でなまめかしい。少女と女の中間あたりにいる年ごろと思えた。

 娘は眉間に皺を寄せて唸り、ため息をついて目を開いたが、まだ状況を把握できてはいないようだ。

 ぼんやりした顔のままゆっくりと上体を起こし、はだけられた胸元を無意識のようにかき合わせながら、彼女は死んでいる男たちを順繰りに見渡した。

 赤ら顔の男。毛皮の男。壮年の男。そして最後にその目が一眞の姿を捉えた時、娘は息を詰まらせながら金切り声を上げた。

 弾かれたように座り直して平伏し、激しく震えながら額を地面にりつける。

「お助け……お、お助けを……どうか命だけは……」

 懸命に懇願する声に混じって、ガチガチという噛み音が聞こえた。恐怖で歯の根が合わないのだろう。

「おれは、こいつらの仲間じゃない。ただの通りすがりだ」

 一眞が素っ気なく言うと、娘ははっと顔を上げた。まだ怯えているが、目つきはだいぶしっかりしてきている。

「じゃあ――助けて……くれたの」

「成り行きでな」

「あたしを殺さない?」

「殺す理由はない」

 娘は心底安堵したように脱力し、それからやにわに立ち上がると、倒れている男たちに駆け寄って足蹴にした。憤怒に顔をゆがめながら、血まみれの死骸を蹴って蹴って蹴りまくる。陵辱者ふたりだけではなく、あの壮年の男も容赦なく蹴っているのを見て、一眞は思わず唖然となった。

「おい、それは――おまえの親父じゃないのか」

 きつい目をして娘が振り向く。

「まさか。こいつ女衒ぜげん

 ぺっと唾を吐き捨て、彼女はむくろにさらにひと蹴り入れた。

「村を出てから毎晩、あたしをもてあそんでやがったんだ」

 親子連れの旅者ではなく、売られに行く娘と人買いが、途中で運悪くふたり組の悪党に出くわしたというのが事の真相だったらしい。

 親を殺された上に犯されたというなら二重の災難だが、死んだのが女衒であればむしろ清々したというところだろう。

「ねえ、あにさん」

 娘は急に声音をやわらげ、笑みを浮かべながら一眞に近寄った。

「旅の途中? どこ行くの」

「どこだっていいだろう」

 一眞はすっと身をかわし、三つの死骸の傍へ行くと手早く懐中を漁った。

 毛皮の男のほうは無銭だったが、赤ら顔の男は道中財布のほかに胴巻きも身につけている。財布には小銭しか入っていなかったが、袋を開くと銀銭が三十枚出てきた。

「これは、おまえにやる」

 財布を娘に放ってやり、次いで女衒の持ち物をあらためると、こちらも胴巻きに二金八銀を隠していた。予想外の大収穫だ。

 手持ちの金と合わせて八金二十銀。これだけあれば青藍せいらんを買い戻しに行ける。

 一眞は立ち上がり、女衒が懐に入れていた巾着も娘に渡してやった。わりに重いので、そこそこ路銀が入っているのだろう。

 娘は巾着を開けて中を覗き込み、不満そうな顔で彼のほうを見た。

「もっと分け前をおくれよ」

「命を拾っただけで儲けものだろう」

 歩き出そうとすると、娘は急いで走り寄り袖を掴んだ。

「待って。じゃあ、兄さんの行くとこへあたしも連れてってくれない」

「馬鹿を言うな」

 かまわずに藪を抜けて林道へ戻っていく彼を、娘はすかさず追ってきた。着物が乱れたままで、ゆるんだ合わせ目から胸の膨らみやはぎがちらちらと覗いているが、少しも頓着していない。むしろそれを見せつけようとしている雰囲気が窺えた。

「こんなとこに捨てて行かれたら、また悪いやつに襲われちゃうよ。今度こそ殺されるかも」

「しつこくすると、おれが殺す理由になるぞ」

 ただの脅しではなかったが、娘は本気にしていないようだ。

「嘘だ。兄さん、いい人だもの」

 小走りについて来ながら、ぺらぺらと言葉を並べ立てる。

「だって、あたしを助けてくれたし、お金もくれたし。あいつらみたいにただ乗りしようともしなかったじゃないか。おまけに、すっごく強いしさあ。あのふたり、兄さんがひとりでやっつけたんだろ。そんな強い人が、あたしみたいな弱い女を殺したりするはずないよ」

 本心なのか、びなのか。娘はさんざん一眞を持ち上げ、馴れ馴れしく腕を絡ませてきた。

「ねえ、いいだろう。連れてっておくれよ。あたしを連れてくと、きっといいことがあるよ」

「村へ帰れ」

「帰ったら、また親に売られちゃう」

 娘はぷうっと頬を膨らませた。そんな表情をすると急に子供っぽくなる。

「売られるばっかりじゃ、あたしには何の得もないじゃないか」

「なら、どうしたいんだ」

 根負けして訊くと、娘は嬉しそうに目を輝かせた。

「兄さんについてって、どっかよさそうな宿場に着いたら働き口を探す。飯盛めしもり女にでもなれば、とりあえず食うのと寝るとこには不自由しないだろ」

「なんだ、結局体を売るのか」

「人に売られるのと、自分で売るのとじゃ大違いだよ」

 呑み込みの悪い子供をさとすように言う。

「売られたら見世みせへの借金背負(しょ)って始めなきゃなんないけど、自分で自分を売ったお代はそっくりあたしのものになるじゃない」

 したたかなようでもあり、無邪気なようでもあり。どちらにせよ、油断のならない女なのは間違いない。

 一眞はかかわりを持ってしまったことを少し後悔しながら、いったん足を止めて娘をぞんざいに押しやった。

「くっつくのはやめろ」

「どうして」

「黙って聞け。おれは別役わかえ国の端にある佛田ふった宿(しゅく)へ向かうから、ひとり旅が不安だというならついて来ればいい。だがいいか、最初にはっきり言っておくが、何があろうと絶対におまえの面倒は見ないぞ。先を急ぐから、寝るのも飯もそこそこにしてひたすら歩く。おまえに歩調を合わせたりはしないし、後れたらそのまま置いていくからな」

「ついてけるよ」

「それから、もうひとつ」

 彼は目に力を込めて凄んだ。

「おれの懐を当てにするな。おまえのためには一銭たりとも出さないし、もし盗もうとしたら腕を斬り落とす。わかったか」

「わ、わかった……」

 さすがに気圧けおされた様子で娘がうなずく。それでも、ついてくるという決心は変わらないようだ。これだけ言ってやったらあきらめるかと思ったが、かなり頑固なたちらしい。

 おまけに並はずれた図々しさを持っており、いざ出かけようという段になって「体を洗いたい」などと言い出した。

「だって、さっきあいつらに――わかるだろ、ね?」

「先を急ぐと言っただろう」

 これ以上、足止めを食うのは真っ平だった。この広い森で水場を探して回るなど時間の無駄だ。

「戻って、連中が持ってる水筒の水で拭うなり何なりしろ」

「ここで待っててくれる」

「誰が待つか」

 一眞は言い捨てて先へ進んだ。

「林道をまっすぐ行くから、追いつきたいなら走れ」

「なんだい、けち」

 うしろで文句を言っているが足を止めず、振り向きもしなかった。もしこのままはぐれてしまえるなら、それはそれで儲けものだ。だが、ああいう抜け目のない女は、一度執着したものを簡単にのがしはしないだろう。

 案の定、小半刻ほど経って娘は追いついてきた。だいぶ走ったらしく、息が凍る寒さにもかかわらず汗を浮かべている。

「追っかけてるのがわかってるんだから、ちょっとぐらいゆっくり歩いてくれてもいいじゃない」

 一眞の顔を見るなり、彼女は口を尖らせてぶつぶつ言った。身形みなりを整え直して菅笠すげがさを被り、重そうな旅荷を背負っている。三つの死体を漁って、いろいろかき集めてきたのだろう。

 思慮が浅い――と、一眞は呆れた。

 女は体力がないので、普通は旅の荷物をできるだけ減らそうとするものだ。はち切れそうなほど膨らんだ風呂敷包みに、娘の浅薄さと強欲さがまざまざと表れているように思えた。

「持っていくのは必要なものだけにしろ」

「全部いるものだよ」

「これから山に入るんだぞ。そんなに担いで登れるのか」

「平気だってば」

 どうしようもない、頑迷がんめいな小娘だ。

 もうそれ以上何か言う気もなくなって、一眞は再び歩き出した。

 山裾にさしかかった道はゆるく傾斜して、少し先から急な上り坂が始まっている。林道は比較的歩きやすかったが、山を越える道は見たところかなりの隘路あいろのようだ。元は獣道だったものを人がさらに踏み分け、いつしか裏街道として使われるようになっていったのだろう。

 山を登り始めるとさすがに余裕がなくなったのか、娘は無駄口をかなくなった。背後から聞こえるのは荒い息づかいと、落ち葉の積もった地面を踏みしめる音だけだ。

 一眞は一定の歩度を保ち続け、ついて来られなくなった娘がしばしば姿を消しても気にも留めなかった。そのままいなくなってくれればいい、という思いも多少はあったかもしれない。

 だが娘はどれほど後れても、あとで必ず追いついてきた。根性があることだけは認めなければならないだろう。

 日があるうちにいただきを越えるつもりだったが、あと少しというところで空が暮れ始め、木々に囲まれた薄暗い細道がさらに暗くなった。足元が見えなくなってしまう前に、どこか寒気を避けて野営できる場所を探さねばならない。

 一眞は道をれて藪の中へ入っていき、少し奥まったところにある岩場を見つけた。低い崖の下に巨岩が露出して、兜の眉庇まびさしのように張り出している。下には横に細長く伸びた空間があり、そこにもぐり込めばうまく風を避けてひと晩過ごせそうだ。

 焚き火の支度を始めると、腰のあたりまである下草をかき分けながら娘がやって来た。どこかで転んだらしく、膝に土汚れをつけている。目はどんより曇って、疲労困憊(こんぱい)しているのが傍目はためにも明らかだった。

「ここで、野宿、するの」はあはあと息を切らしながら訊く。

「そうだ」

「あたしに寝床、貸してなんか、くれないよね。あにさん、しみったれだから」

 娘は嘆息し、倒れ込むように倒木の上に腰を下ろした。

「火に当たりたいなら銭よこせって言うんだろ」

 へろへろのくせに、口だけは減らないやつだ。

 一眞は軽いいら立ちをおぼえつつも、黙ってまきを拾い集めた。この季節、夜の山中は凍りつくほど冷え込むだろう。朝まで火を絶やさないようにしなければならない。

 焚き火が心地よく燃え上がるころには、周囲はもう真っ暗になっていた。どこか遠くで山鳥が低くさえずっている以外には、生き物が立てる音も気配も感じ取れない。

 ふと見ると、娘が倒木からずり落ちそうになりながら眠りこけていたので、近づいて揺り起こしてやった。

「おい、凍えて死ぬぞ。火のそばに行け」

 娘はどろんとした目で一眞を見上げ、それからはっとしたように立ち上がった。

「いいの? やった!」

 愛想笑いをして、跳ねるように焚き火に駆け寄っていく。

「兄さん、やっぱりいい人だね」

 倒木の周りに落ちていた枯れ枝を拾ってから戻ると、娘は岩の下に吹き寄せられていた乾いた落ち葉を集め、火の近くに敷き詰めて座っていた。

 横に下ろした風呂敷包みは、いつの間にか大きさが半分近くになっている。重さに耐えかねて、登り道で足を止めるたびに少しずつ中身を捨ててきたのだろう。

 一眞が見ているのに気づくと、彼女は何げないふりを装って荷物をうしろに押しやり、視線から隠そうとした。「だから言ったじゃないか」と言われるのがいやなのだろう。することが子供じみている。

 それぞれ手持ちの携帯食で簡単に食事をすませると、すぐに寝る体勢に入った。闇の中で起きていてもすることはないし、疲れてもいる。

 一眞は焚き火に背を向け、落ち葉の山に下半身をもぐらせて横になった。そうしていても寒くはあるが、眠れないほどではない。

 火の中で薪の水分が弾ける、ぱちぱちという音を聞きながら目をつむっていると、だんだん意識がぼんやりしてきた。

 すぐそこまできている眠りのをつかもうとして――かさり、という音に覚醒を促される。

 落ち葉をかさこそとかき分け、娘が足のほうから忍び寄ってきた。焚き火とのあいだの狭い空間にそっと入り込み、背中にぴたりと密着する。

 黙って様子を窺っていると、うしろから小袖の裾に手を差し入れてきた。

 胴巻きの中の金が狙いか。はっきり警告しておいたのに、馬鹿なやつだ。

 一眞は薄目を開け、懐に抱き込んでいる刀の鍔元を左手で軽く握った。本当に腕を斬り落とすまではしないにしても、胴巻きを解こうとするようなら手の甲に傷ぐらいは入れてやるつもりだ。

 だが、娘の手が目指したのは胴巻きではなく、股引ももひきの紐だった。右腰にある結び目を探り当てて解き、慣れた様子で合わせ目を押し広げ、するりと股間にすべり込んでくる。 

 ふんどしの布越しに、みだらで貪欲な指のうごめきが感じ取れた。

 首筋に熱い息がかかり、どこか獣じみた、むっとするような体臭がにおい立つ。

 その瞬間、いやな記憶が蘇った。

 親父をたらし込んだ、化粧臭い阿婆擦あばずれ。

 豊満だが、だらしなくゆるみかけた身体。水を詰め込んだ革袋を思わせる大きな乳房。ふとった蛆虫うじむしのような白い指。

 あのひとには内緒だよ――下半身をまさぐりながら耳に囁きかけてくる、ねっとり甘ったるい声。

 あたしがおまえを男にしてあげるから……。

 冷水を浴びせられたように、ぞっと全身が鳥肌立った。胸の奥から喉元へ酸っぱいものがり上がってくる。娘の手に刺激され、少し反応しかけていた陰茎がたちまちえた。

「やめろ」

 呻くように言うと、娘はさらに身体を押しつけながらくすくす笑った。

「連れてくと、いいことがあるって言っただろ、ね」

 濡れた唇がうなじに吸いついた。

 蛆虫。蛞蝓なめくじひる。ぬらりとした不快なもの。

 その連想に吐き気をおぼえながら、一眞は弾かれたように跳ね起きた。落ち葉が飛び散り、その何枚かがぽかんと口を開けた娘の上に舞い落ちる。

「おれに触るな」

 口を開くと嘔吐えずきそうになった。

「離れて寝ろ」

「なにさ――」

 鞘を払い、切っ先を左目に突きつけると、娘は言葉を呑み込んだ。何を言うつもりであれ、いまは聞く気分ではない。

「今度やったら、よせと言う前に刺す」

 まっすぐに見据えて宣言すると娘の顔が紅潮し、それから青くなった。反射的に湧き上がった怒りが、彼の本気を悟って恐れに変わったようだ。

 彼女は唇を噛んで元の場所に這い戻り、落ち葉の中にもぐり込んで丸くなった。こちらに向けた背中と肩がわなわな震えている。

 一眞はそれをにらみながら刀を鞘に収め、焚き火に薪を足してから再び横になった。まだ胸がむかむかしている。

 ささくれ立った気分はいつまでも静まらず、結局その夜はほとんど眠ることができなかった。


 翌日以降も娘は何ごともなかったかのようについてきて一眞かずまわずらわせたが、二度と誘惑しようとはしなかった。だが態度のほうは特に変わるわけでもなく、出会った日そのままに厚かましく馴れ馴れしいままだ。

 一眞は娘をほとんど無視し、終始素っ気なく扱っていたが、本人はたいして気にならないようだった。その図太さも、どことなくあの阿婆擦あばずれを思い出させる。

 ただ一緒にいるだけで少しずついら立ちがつのり、早く追い払ってしまいたい気持ちが極限まで高まったころ、ようやく一眞は佛田ふった宿(しゅく)の入口にたどり着いた。青藍せいらんを置き去りにしてから、ちょうどひと月経っている。

「ここが佛田宿だ」

 木戸を入りながら言うと、娘は片眼をしかめて値踏みするように通りを見渡した。表街道なら朝早く宿をつ旅人でごった返す時分だが、人通りはほとんどなく閑散としている。

「なんだか、ぱっとしない宿場だね」

「気に入らなきゃ、よそへ行け。ともかく、おれの目的地はここだ。あとはどうとでも好きにすればいい」

 そう言い捨てて歩き出すと、娘は焦りながら追ってきた。

「ちょ、ちょっと待ってよ。そんないきなり……何を急いでるの」

「つれてきてやったんだから、もうおれに用はないだろう」

「あたしは〝よさそうな宿場に着いたら〟って言ったんだ。こんなとこ、ちっともよくないよ」

「知るか」

 さらに足を速めたが、娘はしぶとくついてくる。

「ねえ、どこ行くの」

娼楼しょうろうだ。つきまとうと売り飛ばすぞ」

「なんだい、朝っぱらから女を買いに行こうっての」

 自分を抱かなかったくせに女郎は抱くのかと、文句のひとつも言いたげだ。

「おれは用事を済ませたら、すぐにこの宿場を出る。これ以上おまえには何も……」

 横目に娘をにらみながら言い、ふと前に視線を戻した瞬間、一眞は愕然として足を止めた。

 宿場の外れに近い、さらにうらぶれた一角。古びて傾いた無人のたなと、貧乏くさい旅籠はたごに挟まれた場所――そこにあるはずだった〈ふぶき屋〉がない。

 目がおかしくなったのかと思ったが、何度見直しても、あの不格好な二階建ての娼楼はどこにも見当たらなかった。

「まさか……」

 茫然とつぶやき、ぽっかり空いた土地に数歩近寄ってみると、少し奥まったところに寄せ集められた建物の残骸が見えてきた。

 ばらばらになった壁板や屋根の断片が、半分崩れた根太ねだの上にうずたかく積み上げられ、その中から何本かの柱がぬっと突き出ている。それらの木材はどれも黒くすすけ、焦げくさいにおいを放っていた。隣り合った二軒の建物も、横壁に煤をこびりかせている。

「焼けた――のか」

 信じられなかった。

「ここに、なんか用かい」

 焼け跡の前で佇んでいた一眞に、誰かがうしろから声をかけた。見れば、地回じまわりふうの男が用心深い顔つきをして立っている。

「いったい、〈ふぶき屋〉に何があったんだ」

「盗賊の集団に襲われたのさ。宿場の端っこだからな、真っ先に押し入られて、いちばんひどくやられたんだ。盗んで殺しただけじゃ飽き足らず、ついでに火までかけていきやがった」

「みんな死んだのか」

「大勢()られたよ。ちんけな見世みせだが、中にはわりといい娼妓おんなもいたのにな」

 肩をすくめてふうとため息をつき、男はちょっと心配そうに一眞の顔を覗き込んだ。

「おい、あんた、だいじょうぶか。ひどい顔色だぜ。誰か、なじみのでもいたのかい」

「いつ襲われた」

「二日前の夜だ」

 二日前。

 一眞は目の前が暗くなったような錯覚に陥り、わずかによろめいた。

 あと少し――ほんのちょっと早く着いていれば、青藍を救い出せたかもしれなかったのに。

たま送りの儀式がまだなんで、死んだ連中は全部、隣の空きだなに入れてある。ひどい有り様だが、なんなら見て行くかい。もし見分けられる妓がいるようなら教えてくれ。誰が誰やら、さっぱりわからんほど焼けちまってるんだ」

 促されるまま、一眞は横に経つ小さな建物の戸を開けた。

 焦げたにおいがつんと鼻を刺す。幸い気温が低いので、まだ腐臭は漂い始めていないようだ。

 遺体は土間と、その向こうの板間に並べて寝かせてあった。二十体以上もありそうだ。

 悪霊あくれいいて漂魄ひょうはくになった場合に備えてだろう、隣り合った遺体の手足を荒縄でひとまとめにくくり、動けないようにしてある。

 一眞は上にかけられたむしろをめくりながら、一つひとつ確かめていった。地回りが言ったとおり、どれもひどく焼け焦げていて目鼻の区別もつかない。わずかに燃え残った衣類や体型から、かろうじて男か女かが推測できる程度だ。

 褞袍どてらを着た大柄な男は、たぶん楼主だろう。その隣の細身の女は、帳場にいたあの内所ないしょかもしれない。

 焼けて黒くなった遺体の数々を丁寧に、黙々と確認し続けていた一眞の手が止まった。

 ひとつ、ほかとは明らかに大きさの違うものがある。

 筵の膨らみが薄く、端から覗く手足も短くて細かった。子供に違いない。

 慎重に近づいて筵を取り払うと、その下から現れたのは見覚えのある山吹色の小袖を着た少女の遺体だった。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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