十 別役国小浦方郷・青藍 娼楼
〝おあし〟はお金。
〝がめついあま〟は欲深い女の人。
別役国小浦方郷、佛田宿の娼楼〈ふぶき屋〉に売られてから半月ほどで、青藍はそれまで耳にしたこともなかったさまざまな言葉の意味を覚えた。
もちろん、覚えたのはそれだけではない。
水汲みや掃除の仕方。衣類を洗って干す方法。竈焚きや炊飯、調理。
それまでは〝誰かがしてくれること〟だった日々の諸事が、〝自分がする仕事〟あるいは〝手伝うべきこと〟になったので、青藍は毎日必死になってそのやり方を学んだ。
一眞が青藍を売って得た金は、そのまま見世に対する彼女自身の〝借り〟になっており、働いて全額返済するまでは自由の身にはなれないのだという。
ちゃんと稼げる〝ほんとうの仕事〟をするにはまだ若すぎるので、その年になるまでは下働きとしてさまざまな雑用をするよう申しつけられていた。
〈ふぶき屋〉の主人は夫婦者で、奉公人たちは夫の駒吉を〝楼主〟、妻の芳を〝お内所さん〟と呼んでいる。
駒吉は瞼の腫れぼったい細い目をした大男で、青藍は彼のことが少し怖かったが、「怠けるな」「もっときびきび動け」と小言をいわれ「逆らうとぶつぞ」と脅されることはあっても、実際にぶたれたことは一度もなかった。
手が早いのは、細身で小柄な芳のほうだ。ちょっとでも彼女の機嫌を損ねると、すぐさま頬に平手打ちを食らった。まったく力加減をしてくれないので、踏ん張るのが遅れると吹っ飛ばされることもある。
だが青藍はじきに対処法を身につけた。ぶたれる前に逃げるのだ。
芳が怒るとすぐにわかる。瞼の二重がぐっと深くなり、眉間に皺が寄る。次いで小鼻がふくらんだら、それが逃げ出す合図だ。
できるだけ遠く――廊下の端か隣の部屋まで一目散に逃げておいて、大きな声で「ごめんなさい!」と謝り、彼女を立腹させた原因を速やかに解消するよう努める。
何か言って怒らせたなら口をつぐむ。仕事が遅くて怒らせたなら、大急ぎでそれを片づける。
一度殴り損ねると、たいてい芳は気勢を削がれて面倒くさくなるようだった。だが、たまに虫の居所が悪いと、見世じゅう追いかけ回してでも捕まえてひどく折檻することもある。
青藍は初めて彼女にぶたれた時、痛みではなく驚愕のあまり硬直してしまった。御山では何か悪さをして世話役の小祭宜に叱られることがあっても、体罰を加えられることは決してなかったからだ。
若巫女同士で喧嘩をすることもなくはないが、あってもせいぜい言い争いまでで、殴り合いに発展したりはしない。
だが〈ふぶき屋〉では、殴る、蹴る、突き飛ばすといった荒々しい行為を伴う諍いは日常茶飯事だった。といっても、この見世が特別なわけではなく、意思表示のために暴力を用いるのは世間ではごく普通のことらしい。
それもまた、青藍が下界で新たに学んだことだった。
佛田宿は、かつてはかなり栄えた宿場町だったそうだ。別州と御州をつなぐ主要な街道沿いにあり、年じゅう人の行き来が絶えなかったという。
だが三年前に肝心の街道が四里ほど北へ移されて以来、すっかり寂れてしまった。町を抜ける道は今では〝旧道〟と呼ばれ、関所を避けて山越えをしたいわけありの旅人などが主に使う裏街道になっている。
そのため町の治安は悪くなり、賭場や旅籠でのいざこざも多くなった。隙あらばぼったくろうとするあくどい見世も増えたので、勢い普通の旅人はほとんど寄りつかなくなり、廃れた雰囲気がいっそう強くなっている。
青藍の下働き仲間である治作老人は、その様子を「まるで火が消えたよう」と評した。おっとり優しい話し方をする彼は、先代主人のころから〈ふぶき屋〉に勤めている最古参の奉公人だ。
新参で世間知らずで、これまで一度も働いたことのなかった青藍に、もっとも辛抱強くいろいろなことを教えてくれたのは彼だった。
下働きはほかに五人いる。
女性の最年長は骨太でがっちりした体つきの粂。元は〈ふぶき屋〉の娼妓だったという三十代半ばの女で、箸が転げてもおもしろがるほどの笑い上戸だ。
最年少は美也という少女で、青藍よりひとつ年下だが、すでに一年近く勤めている先輩だった。彼女はいつも拗ねたように唇を尖らせていて、頻繁に嘘をつくし、過ちを咎められるとすぐ人のせいにする。他人の言うことを鵜呑みにしやすい青藍にとっては、つき合うのが少し難しい相手だった。
このほかに〈ふぶき屋〉には、客の案内や娼妓の世話をする〝男衆〟と呼ばれる奉公人が四人いる。その中でいちばん若いのは、右頬に大きな傷痕がある三太という名の青年だった。ほかの男衆は下働きになど目もくれないが、彼だけはよく青藍に声をかけてくれる。
「おれも始めは下働きだったんだぜ。姉貴がここへ売られた時に、一緒に来て奉公に入ったんだ」
そんな身の上話をしてくれたこともあった。彼の姉という人は娼妓になって二年働いたが、四年前の夏に体を壊して亡くなったらしい。三太は姉が見世に残した借金分も背負うことになったので、当分年季が明けることはないという。
頬の傷は一年半ほど前に負ったもので、見世で敵娼に乱暴を働いた客を取り押さえに行き、娼妓が髪に挿していた簪で切り裂かれたのだと話していた。
「冷え込む日には、今でもちくちく痛みやがる」
そう言って笑う彼は、顔に傷があることなどまったく気にしていないようだった。
少し気まぐれなところがあり、たまに邪険に扱われることもあったが、青藍は三太には漠然と信頼感を抱いている。
〝娼楼〟が何なのか、〝娼妓〟が夜ごとしている〝ほんとうの仕事〟とはどういうものなのか、青藍にはっきり教えてくれたのはじつは彼だ。
楼主や治作、粂などから説明されてもさっぱり想像が働かずに困惑していると、三太は「実際に見るのが手っ取り早いぜ」と言って、彼女に娼妓の仕事場をこっそり覗かせてくれた。
見世の二階の、寝具や行灯を入れてある道具部屋の隣は、屏風で仕切っただけの寝床が並ぶ割床だ。まだ贔屓筋があまりついておらず、個室を持っていない新前娼妓はそこで客の相手をすることになっている。
その夜は、千早という若い妓が割床の端で客を取っていた。
「そうっと見ろよ。声を出すな」
注意を与えてから、三太は青藍を道具部屋へ引き入れ、壁板の隙間から隣を覗かせてくれた。
行灯がぽつんと灯る薄暗い部屋の中、屏風を立てて仕切ったわずか三畳ほどの空間に、綿入りの薄い床が敷かれている。その上で、ぽってり腹の出た四十代ぐらいの客と千早がからみ合っていた。
むき出しの背中にぎらりと光る汗。荒い息づかい。時折もれる苦しそうな喘ぎ声。
客は彼女の体を大きな手で無遠慮になでまわし、胸の膨らみを掴んだり、犬のように首筋を噛んだり、両脚の間を覗き込んだりしたあと、上下に重なったまま腰を激しく前後に動かし始めた。
どれぐらいそれが続いただろうか。やがて客が、喉に何か詰まったような声を上げてぐったり伏臥すると、千早はふうと息をついて起き上がり、手早く身形を整えてすうっと部屋を出て行った。
「次の客のとこへ行ったな」
隣で三太が低く囁いた。
「どうだい。ちっとは、床入りのことがわかったかい」
しゃがんで壁板に目を押しつけていた青藍は、体をうしろに引いてゆっくり彼のほうを向き、茫然とした顔でうなずいた。
「床入りって、とっても……とっても」
目が回る。
最後まで言い切る前に気が遠くなり、青藍はその場でひっくり返ってしまった。
床入りを見て気絶したとみんなに笑われたことも、衝撃のあまり熱を出して二日間寝込んだことも、過ぎてみればべつにどうということもなかった。だが、あの夜見たようなことを、いずれ自分もしなければならないのだと思うと、青藍は不安のあまり暗澹たる思いに囚われてしまう。
「わたし、うまくできないかも」
ある日、土間の隅で竈焚きをしながら治作に打ち明けると、老人は少し困ったような顔をした。
「おやおや、よっぽど怖かったんだね。でもだいじょうぶだよ。大きくなったらできるようになるから」
「そうなの? どうやって、やり方を覚えるの?」
「自然とねえ、まあ、みんないつの間にか覚えるもんさ」
煮え切らない口調で言って治作は甕を覗き込み、「水が足らねえな」とつぶやきながら、そそくさと裏へ出ていった。朝たくさん汲んだ水が午前に尽きるはずはないので、きっと質問から逃げたかったのだろう。
たぶん彼にとって、これはちょっと決まりが悪い話題なのだ。そう青藍は考え、この件についてはいずれ三太にでも相談に乗ってもらおうと決めた。
割床を見せてくれた彼なら、おそらくあの仕事のことをもっと教えてくれるだろう。
そんなことを思いながら竈に薪をくべていると、うしろから「藍ちゃん」と呼ぶ声がした。厨の脇戸から顔を覗かせているのは、部屋持ち娼妓の月歌だ。
彼女は楼主が〝風変わり〟に分類している娼妓のひとりで、雪だるまにそっくりの、縦にも横にも転がりそうな体型をしている。
見世にはほかにも、ちょっと変わった特徴を持つ娼妓が何人かいた。
まったく見分けがつかないほどそっくりな双子の姉妹、菊野と松野はふたりひと組で客の相手をする。
小紫は顔つきは二十歳ぐらいだが、体の大きさはせいぜい六、七歳といったところだ。
〝異国渡り〟が売り文句の初音は、麦の穂の色の髪、晴れた夏空のような色の瞳をしている。
深雪はきれいな顔立ちと柔軟性に富んだしなやかな体を持っているが、両脚が腿の途中までしかない。
そういった妓たちを目当てに訪れる客は多く、彼女らはいわば〈ふぶき屋〉の目玉商品と言ってよかった。月歌もかなり人気があり、足しげく通ってくる馴染み客をたくさん持っている。
「ねえ藍ちゃん、なんか余り物でもないかえ。あたしゃ腹減っちまったんだよう」
厨にふらりと現れた彼女は、体を框にぎゅうっと押しつけながら甘え声で訴えた。
「じきにお午だから、もうちょっと辛抱してください」
傍に行ってなだめると、月歌は青藍の顔を厚ぼったい両手でふいに挟み込んだ。
「あれまあ、ほっぺが真っ赤っか」楽しげに頬をこねくり回す。「すっかり暖まって、搗きたての餅みたいだ」
「た、焚き口を覗いていたから」
力が強いので頭全体を振り回されたように感じ、開放されると少しくらくらした。
「お午まで待てねえよう。漬物の尻尾でもいいからさ」
そう言われても、厨の食べ物を青藍の一存で娼妓に与えることはできない。
見世で働き始めてすぐに、彼女は大事な決まり事を内所の芳から叩き込まれていた。
奉公人がこの見世で口にするもの、身につけるもの、使うものにはすべて値段がある。出される食事以外のものを食べたり、新しい衣類を手に入れたりしたいなら、対価を支払わなければならない。それは見世への借金に〝上乗せ〟され、どんどん積み上がっていく仕組みになっていた。
部屋持ちの娼妓ともなると、それなりの着物をそろえなければならないし、化粧品もたくさん使う。部屋に置く寝具や調度類、火鉢などの貸与料もかなりかかった。
月歌のように、しじゅう「腹が減った」と言って間食いばかりしていると、それもまた借金が嵩む原因になる。
金を出して男衆などに食べ物を買ってこさせるのは自由だが、見世の中の食物を主人に断りなく食べれば盗み食いだ。それを青藍が許したとなると、対価は彼女の借金に上乗せされてしまう。
だから青藍は心を鬼にして、きっぱりと言った。
「あと少ししたら、お膳を出しますから」
「ちぇっ、なんだい」
急に月歌の目つきが険しくなった。丸い顔がさらにぷうっと膨れる。
彼女は「ふん」と鼻を鳴らし、掌で青藍を小突いた。本人は軽くしたつもりだろうが、小柄な青藍にはかなりの打撃だ。よろけて転んだ拍子に、床で腰をしたたか打った。
「いけねえよ、月歌さん」
勝手口から声がした。治作だ。
老人は水桶を土間に下ろすと、駆け寄って青藍を助け起こしてくれた。
「小さい者にそんなことしちゃあ」
穏やかに窘められ、月歌がますます不機嫌顔になる。
「生意気だからさ。あたしがこんなに腹空かしてるんだ、菜っ葉の切れ端ぐらい、気持ちよく出してくれりゃいいじゃないか」
「許しておやりなさいよ。この子だって、のべつひもじい思いをしてるんだ」
それはほんとうだった。見世で出される食事はとても少ないし、一銭も持たない青藍には買い食いをすることもできない。
「厨の邪魔をしなけりゃ、それだけ昼飯が早く出る道理だ。あんたは賢いお人だからわかるでしょう、月歌さん。聞き分けよくして、部屋で待ってておくんなさい」
掠れた細い声で、あくまで優しく説かれ、ついに月歌は引き下がった。
「待てるのは、もうちょっとだけだよ」
彼女は左右の壁に腕肩を支えさせながら、よたよたと体の向きを変えた。
「飯の盛りがほかの妓より少なかったら、承知しないから」
くどくど言いながら去って行く彼女を、「はい、はい」と鷹揚にあしらっておいてから、治作は青藍を気づかった。
「災難だったなあ」
「ありがとう、治作さん」
まだ胸をどきどきさせながら、青藍は打ちつけた腰をそっとさすった。
少しは世間というものがわかってきた今でも、やはり暴力には慣れることができない。どんなに小さな暴力でも厭だった。振るうのも、振るわれるのも。
「さて、月歌さんが癇癪を起こす前に膳を出さにゃあ」
治作に促され、青藍は中断された竈焚きを続けた。食事が遅れると怒る娼妓は月歌だけではないので、ぐずぐずしていられない。
やがて大きな羽釜で米が炊き上がり、火にかけていた鍋の根菜もほどよく煮えた。板間の囲炉裏で魚を焙ったり、和えものを作ったりしていた粂たちもそろそろ支度を終えるようだ。
いくつもの脚付き膳が並べられ、青藍たちは手早く盛りつけをしていった。
真っ先に食事を出すのは、楼主の部屋と決まっている。二段重ねにした膳を青藍が運んでいくと、駒吉と芳が待ちかねて渋い顔をしていた。
「遅いじゃねえか」
楼主がこぼし、青藍は急いで頭を下げた。
「すみません」
それ以上何か言われる前にそそくさと退散し、彼女は配膳の手伝いに戻った。
座敷持ちの上級娼妓、部屋持ちの中堅娼妓、大部屋にいる新前の順にお膳を出していき、それが済んだら次は男衆の部屋へ運ぶ。
ひととおり出し終えたら、今度はお茶の用意だ。熱いのを各部屋へ届けて回り、食事を終えていればお膳を下げ、片付けまですべて終了すれば、ようやく下働きも食事をすることができた。
だが青藍は上級娼妓の白露の食事介助を命じられているので、たいてい仲間よりも食事にありつくのが遅くなる。
介助が必要なのは、彼女が全盲だからだ。
といっても、ほんとうは白露は必要なことは何でも自分でできた。だが〈ふぶき屋〉で一番人気の稼ぎ頭なので、楼主たちが大事に思って特別な気づかいをしているのだ。
二階の南にある二間続きの部屋へお膳を届けに行くと、白露は空気をひと嗅ぎして「大根と厚揚げの煮もの」とお菜を言い当て、青藍のほうを向いてにっこりした。
「当たりです」
思わず微笑みながら、畳に横座りした彼女の前に膳を下ろす。
「左奥に煮もの、右奥に青菜のごま和え、真ん中にヤマメの干物、右手前にお汁で、左手前がご飯です」
横に座って説明すると、白露はこくりとうなずいて箸を取った。食事が終わるまで傍にいることにはなっているが、青藍がすべきことはこれで終わりだ。
何日か前に芳から食事の介助をしろと初めて言いつけられた時には、口まで食べ物を運んであげないといけないのだと思ったが、そこまで白露は求めていなかった。
彼女もまた楼主が集めている〝風変わり〟な娼妓のひとりで、同性である青藍が見てもうっとりするほど端正な面立ちをしている。陽に当たったことがないかのように真っ白な肌は肌理が細かくすべすべとして、小さなしみひとつ見当たらなかった。
だが白露には両方の眼球がない。ただないのではなく、空洞になっている眼窩に、艶のある真っ黒な玉で作った〝入れ目〟をはめている。
長い睫毛に縁取られた、白目も瞳もない大きな黒い目を初めて見た時、青藍は危うく腰を抜かすところだった。それで彼女の美しさが損なわれているとは思わないが、あまりに不気味だ。しかし神秘的でもある。
彼女のふんわり柔らかい人柄や、どこか浮世離れした雰囲気に触れると、その異様な目のことはあまり気にならなくなった。
それでも、傍にいるとやはり視線は玉眼に引きつけられてしまう。怖いもの見たさもあるし、純粋にきれいだと思って惹かれる気持ちも強かった。
「藍さんは――」品のいい箸使いで黙々と食事をしていた白露が、ちょっと手を止めて言った。「わたくしの、この目がお好き?」
彼女は相手が誰であっても、この上なく丁寧な話し方をする。
「よく、じっと見つめていらっしゃるでしょう」
どうしてわかったのだろうと思い、青藍はちょっと怯んで首をすくめた。
「は、はい。すみません」
「咎めているのではございません。気に入ってくださっているのか、お訊ねしたかっただけ」
「目に玉をはめた神像みたいで、とても神々しいと思います」
白露は指の背を慎ましく口元に当て、ふふ、と笑みをもらした。
「そんなふうにおっしゃっていただけるなんて、嬉しゅうございます」
彼女はまた食事に戻り、手探りで干物の身を上手にほぐし始めた。
「藍さんは、御山にいらしたそうですね」
「はい」
「祭宜でいらっしゃるの?」
「あの……」言っていいのだろうか。「若巫女――でした」
「ああ」
つと顔を上げ、白露は見えないはずの目を青藍に向けた。
「それで得心いたしました。藍さんの霊気はほかのかたがたとは違うので、なぜかしらと不思議に思っておりましたの」
ずいぶんと突飛なことを言う。
「わたしの霊気」
「圧されるほど強く、それでいてとても心地よい……そんな、普通の人とは異なる霊気をまとっておられます」
この女性は、人の霊が発する気配を感じ取れるんだ。青藍はそう思い、彼女に対してそこはかとない畏怖の念を抱いた。
「お見世にいらしてからも」白露はほぐした魚をひと口食べて、また青藍を見た。「朝夕のおつとめ――祈唱は続けていらっしゃるの?」
「はい」
裏庭の片隅に古い小さな神祠があるのを見つけてから、青藍は毎日わずかではあるが時間をやりくりして通っていた。心ならずも降山してしまったが、今も天門神教の信徒であることに変わりはない。神に祈りを捧げるひとときは、激変した境遇に耐えるよすがともなっていた。
「よろしければ、今後はわたくしもご一緒させてくださいませんか。お客さまがいらっしゃることもございますので、毎回必ずとはまいりませんが」
「え? は、はい」
思いもよらない申し出に驚きながら、急いでうなずく。
「それから、お暇があるときに折々、教義のことなどもぜひお聞かせください。こんなお見世に祭宜がお見えになることはございませんし、わたくしは外の祭堂へ参ることも叶いませんから、若巫女さまでいらした藍さんに祈りの道へお導きいただければ幸いです」
「未熟ですが……わたしでよければ、いくらでもお話しします」
胸の中で小鳥が羽ばたくような、何か浮き立つような感覚をおぼえながら、青藍は少し上ずった声で言った。
役に立てる。
ほかのことはまだ何もうまくできないけど、それならちゃんとやれる。
久しぶりに、心の底から喜びが湧き上がってきた。それが体いっぱいにふくれ上がり、ふわふわとした高揚感に満たされる。
降山した自分には価値がなく、もうどこにも居場所がないように感じていたが、そうではなかったのかもしれない。
御山にはいられなくても、奉職者ではなくなっても、神に仕える者でいようとすることはできる。身の上が変わったからといって、無理に自分を変える必要はないのだ。
白露の言葉は、彼女にそう気づかせてくれた。
「白露さん、ありがとうございます」
見えないのを承知で頭を下げて感謝を表すと、白露は美しい目元を優しくなごませて微笑んだ。
「わたくしのほうこそ、お礼を申し上げます。藍さんのようなかたがこのお見世にいらしてくださって、ほんとうにようございました」
空のお膳を下げて部屋を出たあとも、まだ幸福感は続いていた。あまりに嬉しくて、なかなか気持ちが落ち着かない。
青藍は白露との会話を思い出しながら、雲を踏むような足取りで二階の長い廊下を歩いた。そうしながらも、もちろん両手はしっかり脚付き膳を支えている。もし落として食器を壊しでもしたら大ごとだ。
あと少しで階段にさしかかるというところで、手前の部屋から急に誰かが飛び出してきた。驚いた拍子に手元が怪しくなり、茶碗と皿が軽くぶつかる。
あぶない――あわてて足を止め、ついでに息も止めて姿勢を保つと、膳の上板からすべり落ちかけていた食器が寸前で止まった。
青藍に大しくじりをさせかけたのは、二階の端に自分の座敷を持っている夜斗と、部屋持ち娼妓の此糸だ。ふたりは廊下へもつれ出て、互いに掴みかかりながら激しく罵り合った。
「他人の間夫に手ェ出しやがって、この阿婆擦れ!」
「なに吐かす、手前の〝道具〟の具合がよくねえから乗り替えられんだよ」
目を血走らせて怒鳴り散らす此糸を、半笑いで夜斗がいなす。その美麗だがきつい切れ長の目には、嘲りの色がありありと浮かんでいた。
「だいたい、おいらが誘ったわけじゃねえ。おめえの間夫のほうから言い寄ってきやがったんだ」
ギーッという、壁板を爪で引っ掻く音のような声を立てて、逆上した此糸が殴りかかった。その腕を夜斗が横から掴み、ひねり上げて押さえつける。
華奢な見た目からは想像もつかないほどその力は強く、此糸はぴくりとも動くことができなくなった。
それもそのはずで、夜斗は女ではない。
男でありながら娼妓のように男客を悦ばせる、楼主自慢の〝風変わり〟組のひとりだった。
きわめて優れた容色の持ち主で、常連客のあいだでは白露と双璧をなす〈ふぶき屋〉二大美人のひとりと持て囃されているという。
実際、彼は女装しているわけではなく化粧も施さないのに、華麗に着飾った娼妓たちを素のままで凌ぐほど美しかった。
だが口が悪くて横柄、乱暴、さらに大の女ぎらいなので、まったく仲間と馴染むことができずにもめ事ばかり起こしている。「女と餓鬼は好かねえ」が口癖で、女であり子供でもある青藍などは出会ったその日から目の敵にされていた。
「放しとくれ! 腕が折れっちまうよ」
此糸が悲鳴にも似た声を張り上げ、食休みをしていた娼妓たちが周囲の部屋から次々に顔を覗かせた。その視線を一身に集めながら、夜斗が薄い唇に凄みのある笑みを浮かべる。
「二度と難癖つけてこねえように、ぶち折ってやらあ」
肘のところで逆に曲げられた此糸の腕が、みしりと不気味な音を立てた。
「だ、駄目!」
思わず飛び出しかけた青藍の肩を、うしろから誰かが押さえた。
「夜斗さん、そんなことをなさっちゃいけねえ」
渋い声で言ったのは、男衆の頭である九平次だった。体格のいい、岩石めいたごつごつ顔の三十男で、楼内でもめ事があるといつも真っ先に乗り出してくる。
彼はずいと前に出て、此糸の腕を押さえつけていた夜斗の手をそっと外した。
「此糸さんが怪我して稼げなくなったら、楼主はおもしろくねえでしょうよ」
静かに諭され、夜斗の目がぎらりと剣呑な光を帯びる。
「おいらがこの腐れ女の分まで稼いでやるさ」
「それでも、ふたりそろって稼ぐより多くはならねえ勘定だ。さ、いい子だから、腹の虫をおさめて部屋へお戻りなせえ」
「なめた口を利くんじゃねえ」
いらいらと言い返しているが、夜斗の声に先ほどまでの迫力はもうない。水を差されて頭が冷えたようだ。
彼は部屋へ入ろうと横を向き、戸口の近くにいた青藍にふと気づくと、片手で荒っぽく頭を押しやった。
「邪魔だ、餓鬼」
青藍の手の中でお膳が傾き、端のほうに引っかかっていた小鉢が落ちた。
かちゃん、と小さな音。
あわてて見下ろすと、小鉢は三つに割れていた。糸尻も欠けている。
彼女はため息をついて腰を落とし、震える手でひとつずつ欠片を拾い集めた。みじめさを感じながら顔を上げれば、廊下にはもう誰もいなくなっている。
これでまた借金が増えてしまった。それだけじゃなくて、今晩きっと楼主かお内所さんに折檻されるわ。
そう思うとふいに切なくなり、目に涙がにじんできた。どうして、こんなふうになってしまうのだろう。さっきまであんなに嬉しかったのに。
だが、白露の部屋でのことに思い至ると、また少し気持ちが上向いた。
くよくよするのはよそう。過ぎたことにこだわったり、自分を憐れんだりしたって何もいいことはないもの。
わたしにいまできることを精いっぱいしよう。そして、できることをひとつずつ増やしていこう。
だいじょうぶ、やれる。
「やっていけるわ」
青藍は自分に言い聞かせるようにそうつぶやくと、粗相を楼主に報告するために階下へ下りていった。
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