九 立身国七草郷・黒葛貴之 隠れ家
深く、ゆっくりと呼吸をする。
あわてず、乱さず、均等に。
その数を頭の中で数えながら、黒葛貴之は鉄砲に弾薬を装填した。
巣口から炸薬を注ぎ入れ、小布を当てた弾丸を押し入れる。次いで槊杖を銃身に挿し、弾薬を薬室まで衝き込む。
火皿の穴に口薬を盛り、火蓋を閉じる。燃える火縄の先端を火挟みに取りつけ、目標を見定めて火蓋を切る。
構え、狙い――撃つ。
晴れた早朝の中庭に轟音が響きわたり、三十間向こうに立つ標的の鉄板が揺れた。
ここまでで呼吸四つ。
間を置かず、最初から手順を繰り返す。
一定の呼吸に合わせて装填。狙い――撃つ。
貴之はもう小半刻近くこれを続けていた。二、三十発も撃つと銃身に煤が溜まって命中精度が落ちるので、すでに二度銃を取り替えている。
すぐ傍に小姓の唐木田智次や近習の玉県景綱、警護筆頭の柳浦重益らが控えているが、彼らとはひとことも言葉を交わさなかった。その存在すらも半ば忘れて、ただ黙々と装填して撃つ動作を反復する。
だが、ちょうど六十発目を撃ったあたりで、ふと背後の気配に気を取られた。
今いるのは中庭の奧、松の林が囲むゆるやかな丘に設けられた射場だ。広い芝地と、庭の境界になっている八間堀を挟んだ向こうに、盛り土の壁を背にして射撃用の的をいくつか立ててある。
射場の手前には防柵を置き、射撃中に万一にも人が立ち入ることのないよう番士に見張らせているが、どうやら誰かがそこへやって来たらしい。
脇にいる従者の戸来慎吾に鉄砲を渡して振り返ると、防柵の手前で番士と問答をしている女たちが見えた。
「若」玉県景綱が様子を確認しながら言う。「三輪姫がおいでになられたようです」
「三輪?」
貴之は意外に思いながら、判断を仰ごうとこちらを向いた番士に手で合図をした。
「かまわん。入っていただけ」
大声で言うと、番士が柵をどけているあいだに唐木田智次が出迎えに行き、女たちを引き連れて戻ってきた。
「お邪魔してもよろしい?」
ふたりの侍女に挟まれている雷土三輪が、被衣の下から顔を覗かせて訊く。
「どうぞ」
何をしに来たのだろうと訝りながら、貴之は彼女が近づくのを見守った。
「最前からずっと射撃の音が聞こえていたので、近くで拝見しようと思って寄ってみたのです」
「鉄砲は怖くない?」
「ちっとも」
ひとつ年下の許婚は屈託ない表情でそう言い、松林の向こうに頂上を覗かせている築山のほうへ目をやった。
「来る途中に、あの山の頂からしばらく見ていました。貴之さまは、弾込めを始めてから撃つまでがとても速いのね。鉄砲がお得意なの?」
「十歳の時から砲術師について指南を受けてきましたので。普段は今日ほど撃ちませんが、装填動作だけは毎日繰り返し練習するようにしています」
説明しながら、なぜ速いとわかるのだろうと不思議に思う。
「どの弾を使っていらっしゃるの。三匁?」
「いや六匁」
ずいぶんと的確な質問だ。彼女は鉄砲のことをある程度知っているらしい。
「三輪どのは、鉄砲にお詳しいのか」
「実家の城で行われる鉄砲の調練を、小さいころからよく見学していました。何度か撃たせてもらったこともあります。弾込めは人任せでしたけど」
へえ、と少し感心して、貴之は慎吾から鉄砲を受け取った。
「じゃあ、撃ってみますか」
戯れに言ってみただけだが、三輪は大きな目を好奇心いっぱいに輝かせた。
「よろしいの?」
「いいですよ」
答えながら、うしろにいる者たちにちらりと目をやる。小姓というよりは幼友達の唐木田智次は、いいぞやれやれとけしかけるような表情をしていた。
巌に喩えられるほどたくましいくせに心配性の柳浦重益は、瞳に憂色を浮かべている。三輪についてきた侍女たちも、彼と不安を共有しているようだ。
安請け合いしたのはまずかったかな、と一瞬思ったが、すでにいいと言ってしまったのだから仕方がない。
「反動で転ぶといけないから、おれがうしろにつきます。それでもかまいませんか」
装填しながら問うと、三輪はにっこりしてうなずいた。
「もちろんです」その目は、会話しながらも淀みなく動いている貴之の手に釘づけだ。「ほんとうに、すごく手際がいいわ」
「反復練習の賜物で体が手順を覚え込んでいるから、よそ事を考えていても手が勝手に動きます。走りながらでも、目をつむっていても装填できますよ」
それは、砲術家の三代目伊地知宗達から徹底的に仕込まれたことだった。
戦場では一発撃ったあと、ゆったり構えて再装填している暇などない。敵の動きを見ながら時に進み、時に退き、時に身を隠し、その間も間断なく装填と発砲を繰り返せるよう、日ごろから腕を磨いておくことが重要だ。
「さあ、こっちへ」
装填を終えた鉄砲の銃身を軽くぬぐってから手招きすると、三輪は紗の被衣と打掛を脱いで侍女に渡し、身軽な小袖姿になって傍へ来た。
「わあ、大きい」鉄砲を両手で受け取り、子供っぽい感嘆の声を上げる。「前に使ったものよりもずっと重いわ」
「これは一貫目半ほどあります」
貴之は三輪を背後から抱え込み、彼女の腕に自分の手を添わせた。銃の重さや発砲の反動を、これでかなり肩代わりできるはずだ。
「的はよく見えますか」
「ええ」
三輪はうなずき、火蓋を切って銃床を頬に当てた。けっこう構えがさまになっている。
「狙いをつけたら、ゆっくりと引き金を引いて」
「はい」
大きく息を吸い、それを吐き終わると同時に彼女は発砲した。初心者は撃つまでにぐずぐずと迷いがちなものだが、決断が速い。
爆音が響くと同時に三輪の上体がうしろに弾かれ、貴之の腕にずしりと重みがかかった。片足を少し下げて踏ん張り、それをしっかり受け止める。
「お見事!」うしろで固唾を呑んでいた柳浦重益が大声で賞賛した。「的の中心を抜きましたぞ」
「当たったわ!」
三輪が笑顔で振り向く。
「まさか、こんなに上手だとは思わなかった」
貴之が本音を言うと、彼女はちょっとはにかむ素振りを見せた。
「腕を支えてくださったから、狙いがぶれませんでした」
「戦場に連れて行こうかな。おれが装填して、あなたに撃ってもらったほうが効率がよさそうだ」
冗談を言うと、その場にいた全員がほのぼのと笑った。
「でも、ご出陣なさっているあいだ、わたしは留守居の皆さまと一緒にお城を守らなければ。もし敵が来たら、さっきのように撃って追い返してやります」
明るくはきはきと威勢のいいことを言う彼女に、重益が好もしげな眼差しを向ける。
「これは頼もしい。若、三輪さまが城においでになれば、安心して戦に出られますな」
「そうだな」
貴之は苦笑して、まだ巣口から薄く煙を立ち上らせている銃を慎吾に渡した。
「ところで、ただ見に来られただけですか。ほかに何かご用があったのでは」
侍女に打掛を着せかけてもらっている三輪が、ちょっと意味ありげに微笑んだ。
「用というほどでもないのですけど――」
「なんです」
「貴之さまはいつもお忙しくて、ご一緒できる時があまりないでしょう。そのことを真木さまに申し上げたら、忙しそうに見せているだけだから遠慮せず邪魔をしに行きなさいとおっしゃったの」
母上め、なんてことを言うんだ。
一瞬むっとしかけたが、思い当たるふしがないでもないので不興は顔に出さなかった。
たしかに三輪が昨年秋に七草城へ来て以来、それやこれやに取り紛れさせてずっとほったらかしにしてしまっている。というのも、彼女とどんなふうに接すればいいのかよくわからず、自分なりにまだ少し戸惑っている部分があるからだ。
妹がいるので女の子には慣れているつもりだったが、同世代の許婚となるとやはり勝手が違う。いずれ妻にする相手だから、侍女や女中たちと同じように扱うわけにもいかないだろう。そんなことを考えているとだんだん面倒に思えてきて、結局なんとなく距離を置きがちになってしまうのだ。
だが彼女からすれば、無視をされているように感じていたのかもしれない。
互いに知り合う機会がもっと欲しいというなら、自分にはそれに応える義務がある。いや、そもそも彼女のほうからそんなことを言い出させるべきではなかった。
思いやりに欠けていたな――と考えながら、貴之は身形を整えた彼女に近づいた。
「では、今日はおれにつき合ってください」
被衣をふわりと揺らし、三輪が驚いた顔で見上げる。
「はい」
それでも迷いなくうなずいた彼女を、貴之は背に手を添えて射場の外へいざなった。
「青龍門に馬ひけ」
通りすがりに命じると、慎吾はすぐに脇道から厩のほうへ駆けていった。
「若、外出をなさるのですか」
「どちらへ」
「わたくしたちは、いかがすれば」
急いであとを追ってきながら、重益たちが口々に問う。おろおろしながら最後に訊いたのは、三輪の年かさの侍女のひとりだ。
貴之は歩きながら、肩ごしにうしろを見た。
「甲斐荘へ行く」
「また急にそんな」智次があきれ声を出す。「これから行って、どうなさるんです」
「ただ行って、帰るだけだ。いま出れば日暮れまでには戻ってこられるだろう。供もいらんが、ついて来たければ来ればいい」
あせり顔の侍女たちを、ちらりと見てつけ加える。
「馬に乗れるならな」
七草郷から真北へ五里ほど行ったところにある甲斐荘は、立身国最大河川中津留川の支流と、こんもりした山ふたつに挟まれた長閑で小さな郷だ。
今の時期にはさほど見どころもないが、春になるとこの集落を見下ろす丘は、色とりどりの花々に一面埋め尽くされる。夏は清流でアユやウナギ、ウグイなど種々の魚を釣ることができ、夜になれば蛍の舞いが目を楽しませる。晩秋には山という山、木という木がことごとく紅葉の錦繍に彩られる。
贅沢な話だが、貴之はそこに別邸をひとつ持っていた。十二歳の祝いに父から賜ったもので、元はかつて立州の国主代だった儲口守恒公の隠れ住まいだったらしい。
一見素朴な田舎家ふうの建物だが、芸能を催す舞台あり、外から川を引き込んだ釣殿ありと興趣の尽きない凝った設えで、前所有者の趣味嗜好を窺い知ることができる。
貴之はその別邸を、子供のころに川釣りの醍醐味を教えてくれた義助という独り身の老人に住み込みで管理させていた。足を運ぶのは年に何度かだが、いつ訪れても気持ちよく過ごせるよう抜かりなく整えてくれている。
常歩で馬を進めながら、彼は道々にそんなことを三輪に語って聞かせた。
彼女は鞍の前部に置いた厚い敷物の上に横座りをして、手綱を持つ貴之の腕の間に安定よく収まっている。
にわかに決めた外出だったが、警護筆頭の柳浦重益はさすがに心得たもので、わずかのあいだに馬廻衆四人を呼び集めて供回りに加えた。玉県景綱と馬に乗れない慎吾は城に残ったが、唐木田智次は同行している。
三輪の侍女は、美人だがきつい印象の希瀬という若い女がひとりだけついてきた。馬には乗れると言ったが、着替えてくるのを待つのも億劫だったので重益の馬に同乗させている。
「あの希瀬という侍女は、なんだか意地が悪そうですね」
貴之が率直に言うと、三輪は軽く彼を睨んだ。
「まあ、ひどい。希瀬はきれいだから、つんと冷たい感じがしますけれど、とても優しいのですよ。わたしにとっては、物心ついたころからずっと傍にいてくれた姉のような人です」
「そうなのか。歳はいくつ?」
「たしか二十一です」
「重益にどうかと思ったが、ちょっと離れすぎかな」
「重益さまというのは――」三輪は少し首を伸ばして、貴之の肩ごしに背後を見た。「希瀬を乗せてくださっている、あの巨きなかたね? まだお独りなのですか」
「もう三十七になるが、未だに嫁をもらう気配すらありません。あんな見た目だが、重益も心の優しい男なのですよ。おれは小さいころ彼にとても懐いていたし、たいそう可愛がってももらいました。六年子を迎えた時には彼を傅役にという話も出たんですが、残念ながらそれは母の反対で立ち消えに」
「なぜです」
「重益は隙あらばおれを甘やかすから絶対に駄目だと」
三輪はくすくす笑い、もう一度うしろに目をやった。
「いいかたなのですね」
「命を預けられる男です」
「重益さまは、柳浦家のかたでしょう。わたしの家と柳浦家には浅からぬ縁があるのをご存じ?」
「いや」
貴之は驚き、首をひねってうしろを見た。
「重益、雷土家と因縁があるのか」
「おや、若はご存じなかったか」
重益は厳つい顔をにやりとゆがめ、いたずらっぽい目をして言った。
「柳浦の祖先は、梵島を根城にしていた海賊でした。五百年ほど前に黒葛氏に討伐されるまでは、砥上水道や天龍灘のあたりを派手に荒らし回っていたのですよ。そのころ雷土氏と、海の覇権をめぐって争ったことが伝わっています」
「海賊——」長いつき合いなのに、その話は初耳だった。「柳浦の家紋が〈櫂井桁〉なのはその名残か」
「おっしゃるとおりです」
「おもしろいな。智次、おまえの家は?」
重益の斜め後ろで馬を進めている唐木田智次が、色黒な顔の中でひときわ目立つ胡桃のような目に退屈そうな色を浮かべる。
「うちには語るほどの歴史はありませんよ。足軽からの成り上がりで、若の傅役にしていただいた父直次が歴代当主の出世頭です」
「なら、おぬしはさらに気張って、その父を超える出世を果たさねばな」
重益にからかわれ、智次はげんなりしたように天を仰いだ。
「ご冗談を。息子のわたしが言うのもなんですが、父は出来が良すぎてとても敵いません」
貴之が「たしかに」と笑うと、彼は〝ほらね〟と言いたげに肩をすくめた。
唐木田直次は過去二度にわたって貴之の母真木を危難から救い、その功によって直参に取り立てられた元陪臣だ。
一度目には、貴之も危うく命を落としかけた敵の襲撃で母子を守って奮戦し、右脚に重い傷を負った。
その傷痕は今も腿に残っており、歩く時には足をわずかに引きずる。だが彼は、そんなことはまったく問題にならないほど腕が立ち、武芸全般で他者に抜きん出ていた。しかも聡明で見識が高い。
家格こそ低いが、父貴昭が彼を嫡子の傅役に抜擢した時に異を唱える者はひとりもいなかった。直次の長男である智次は、そのころから貴之の遊び相手として城に上がるようになり、今では小姓として仕えている。
このまま緊密で良好な関係が何代か続くようなら、いずれ唐木田家は黒葛家の支族のひとつに数えられるようになるだろう。一族を繁栄に導く土台を作った直次の嫡男として、智次には重益に言われたように立身栄達を目指す責務がある。
偉大な父の跡取りというのは、なかなかに難儀なものだ。その点で、貴之と智次には昔から相通ずるものがあった。
貴之自身も、いずれ父貴昭の跡を継ぐ者として、日々重圧を感じながら暮らしている。覚悟はできているが、それで気が楽になるというものでもない。
「あれは境界石?」
ふいに三輪が訊いた。指差した道の先には、人に似た形のずんぐりした石柱がある。その脇には年古りた桜の木が立ち、黒っぽい樹皮に覆われた太い枝を八方に大きく伸ばしていた。
「そうです。あの桜が咲いているといい眺めなんだが、今は時期がよくなかったな」
「でも気持ちのよいところですね。景色がとても広々としていて」
三輪は楽しそうに言って、まだ冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「甲斐荘に入ったらもう、じきに着きます」
「はい」
「くたびれましたか」
「まだ平気です」
「もしつらくなったら、おれに寄りかかるといい。妹の葉奈を前に乗せると、楽なのだと言ってよくそうしています」
こんな申し出は少し不作法だろうかとも思ったが、三輪は気分を害したふうもなく「では、お言葉に甘えて」と軽く体重を預けてきた。
「あらほんと、葉奈さまのおっしゃるとおりだわ。もっと早くに、こうさせていただけばよかった」
あっけらかんと言って、快活に笑う。許嫁同士とはいえ、男と体を触れ合わせることに何ら臆する様子も見せず、無邪気そのものだ。
まだ年若いせいか。それとも深窓に育つ姫君というのは、みなこう無頓着なものなのだろうか。
あるいは――彼女はおれを信用し、心を許してくれているのかもしれない。
そう思うと、胸の中に不思議な温かさが満ちてくるように感じられた。
「この時期においでなさるとは珍しい」
別邸を管理する義助老人は、貴之とその一行を庭に面した広い座敷に通しておいて、手早く茶菓の支度をしてきた。ふいの来訪にもかかわらず、少しもあわてていない。
「しかも、どこぞから姫君をさらって来られるとは」
「人聞きの悪いことを言うな。許婚の雷土三輪どのだ」
貴之が苦い顔で紹介すると、彼は三輪の前で両手をついて深く低頭しながら丁寧に挨拶をした。
「ようこそお運びくださりました。若さまより当館をお預かりしております、義助と申します」
「川釣りのお師匠だと伺いました」
三輪は気安く声をかけ、興味深げに彼を見つめた。
「貴之さまの釣りの腕前はいかが?」
「まずまずかと」
「そこは〝大したものです〟と持ち上げておけよ」
唐木田智次がすかさず指摘して一同を笑わせる。彼も義助とは懇意な間柄だ。
「高貴なおかたを前に、嘘など申せましょうや」
本気とも冗談ともつかない口調で言って、義助は漆器に盛った茶請けをすすめた。炒り豆に砂糖蜜をかけ、きな粉をまぶした豆菓子だ。
三輪がこだわりなくそれを口に運び、ぱっと顔を輝かせる。
「まあ、おいしい。あなたがお作りになったの」
「はい。お口に合いましたなら、ようございました」
「腹が減っているんだ」
貴之は自分も菓子をつまみながら言った。
「これもいいが、何かもっと食いごたえのあるものはないか」
「本日は、ごゆっくりなされますのか」
「いや、長居はできん」
飯が炊けるまで悠長に待っていたら、陽のあるうちに帰れなくなってしまう。
義助は小首を傾げながらちょっと考え、「なんぞ見つくろってまいりましょう」と台所へ下がった。智次も黙って立ち上がり、それに続く。手伝いがてら、念のために毒味役を務めるためだ。
貴之は警護衆をその場に残して三輪に邸内を見せて回り、最後に曲水のある庭を一望できる濡れ縁へと誘った。
庭先には午後の陽光が降り注ぎ、前栽の緑葉を明るく輝かせている。水際に枝を広げた梅の木では、気の早いウグイスがもうぎこちなくさえずり始めていた。
「居心地のいい館ですね」
少し眩しそうに目を細めながら、三輪は素朴な趣のある庭を見渡した。
「落ち着いた佇まいで、静かで」
「気に入った?」
「ええ、とても」
「よかった。ここはおれのとっておきの隠れ家なので、あなたに見せたかったんです」
そのあとは特に会話をするでもなく、ただ並んでしばらくのあいだ濡れ縁に座っていた。その何でもないひとときが意外なほど快かったので、智次に呼ばれた時には少しばかり名残惜しくすら思えたほどだ。
座敷へ戻ると、義助の心づくしの食事が並んでいた。
冷や飯の湯漬けと、よく漬かった大根と長芋の漬物。刻み昆布と大豆の甘辛い煮物。新鮮な川魚の干物は香ばしく焙り焼きされており、ふっくらした身は旨味たっぷりだった。
「残り物ばかりで……」と義助は恐縮していたが、急にやって来てこれだけ食べさせてもらえれば御の字だ。
三輪と侍女の希瀬は変に上品ぶることもなく、男たちに負けないぐらいの健啖ぶりを披露した。
黒葛家が支配する三皷、丈夫、立身の南部三州では、食べっぷりのいい女は好まれる。三輪たちの故郷である百鬼島は貴之には未知の土地だが、丈州の南に位置する島なので案外気質は似ているのかもしれない。
食事を終えて少し経つと、柳浦重益が遠慮がちに「若、そろそろ」と切り出した。警護役としては、なるべく足元が明るいうちに七草城の近くまで戻りたいのだろう。
ほんの半刻ほどのあわただしい滞在だったので、門前まで一行を見送りに出てきた義助はどことなく物足りないような顔をしていた。
「近いうちにまた来る」
馬の支度を待ちながらそう言ってやると、老人は目尻に皺を寄せた。
「はい。またおふたりで、おいでくださりませ。次はぜひ釣りなどご一緒に」
「そうしよう」
貴之はうなずき、隣に立つ三輪のほうを向いた。
「ここはおれの持ち物だから、今後はあなたも好きに使ってください。顔合わせも済んだので、おれ抜きで来ても義助がきちんと世話をしてくれます」
そんなことを言われるとは予想していなかったらしく、彼女は心底驚いた表情になった。
「それから、いまおれが寝起きしている西の館――あそこにも、いつでも出入りしてもらってかまいません。寛貴伯父にもらった猫が何匹かいるので、気が向いたら遊びに来るといい」
貴之は三輪が城へやって来た昨年秋に奧御殿を出て、庭園の西にある池の傍の瀟洒な館〈浴竜亭〉へ移っていた。多少の側仕えと女中、警護衆は置いているが、基本的にはひとりで気楽に住み暮らしている。
三輪を招いたことは一度もなかったが、彼女の立場を考えるなら、もっと早くに招待すべきだったと思う。
「よく知り合うためにも、これからはなるべく互いに行き交いするようにしましょう」
すぐに反応がないので何か的外れなことを言ったかと思ったが、三輪は彼の言葉をゆっくり呑み込むと、目元をなごませて喜びに頬をほんのり赤らめた。
「今までで、いちばん嬉しいお言葉です」
その口調と表情があまりに可愛らしかったので、貴之は衝動のままに身を屈めて彼女の唇に軽く口づけた。
「何をなさるの!」
次の瞬間、頬に素早い平手の一撃が飛んできた。パーンと高い音がして、目の前を火花が散る。
「帰りは重益さまに乗せていただきます」
憤然としながら歩き去る三輪を、呆気にとられて見送る貴之のうしろで、義助が深いため息をついた。そちらへ目をやれば、老人はやれやれと言いたげに首を振っている。
「ぶたれたぞ」
まだ衝撃にしびれたまま小声で訴えると、義助は気の毒そうな顔をした。
「若さま……もう少し、時と場所をお選びなされ」
彼の横では侍女の希瀬が袖で口元を隠し、必死に笑い声をこらえている。
「希瀬、三輪どのに嫌われた」
少し気落ちしながら言うと、彼女は思いがけず優しい笑顔で慰めてくれた。
「こんなことで、若さまを嫌ったりなどなさいません」
「だが腹を立てたから殴ったのだろう」
「いいえ、姫さまはちょっと驚かれただけですわ。すぐにご機嫌は直りますから、ご心配なく」
自信ありげに断言するので、ひとまず納得はしたものの、胸にもやもやとしたものが残った。
あれほど親しげに振る舞っていたくせに、軽く接吻したぐらいで殴るのか――と、帰りはひとりで乗ることになった愛馬に歩み寄りながら思う。
智次から手綱を受け取って顔を上げると、重益の馬にすでに同乗している三輪が斜にこちらを見ていた。目を合わせようとしたが、つんと横を向かれてしまう。
貴之はあきらめて馬にまたがり、街道へ向かいながらひそかに嘆息した。
やはり、女の相手をするのは難しい。
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