八 江蒲国輪達郷・刀祢匡七郎 蛍
入軍から二年を経た夏、刀祢匡七郎は念願叶って三州天翔隊への転属を許された。しつこく提出し続けていた異動願いが、十八通目にしてようやく受理されたのだ。
だが半年間の訓練を受けて正式な隊士〈隼人〉にはなったものの、配属されたのは希望していた本隊ではなく、偵察分隊の〈天眼組〉だった。
組頭は黒葛家直参の侍で、名は荒城雅俊。勇猛で剣の腕前も悪くはないが、配下に目を配る気働きが欠けており、隊士たちからの信望はやや薄かった。「ひとりで勝手に戦う御仁」などと陰で揶揄されている。
この部隊の主な役割は、江州と三州の国境線を空から監視することだ。四騎がひと組になって二刻交替で上空を哨戒し、敵軍の侵犯に備えるのが最重要任務だが、前線での戦闘が激化した場合には応援部隊として駆り出されることもあるという話だった。
匡七郎はここでまた、ひとつの現実を思い知る。
たしかに戦の舞台は、地表から八里を経た空の高みへと移った。だが変わったのはそれだけで、地上にいた時と比べて自分の心持ちが大きく変化することはなかったのだ。
偵察分隊の仕事は、宇留賀隊にいた時よりも退屈に感じられた。天隼に乗ることは単純に楽しかったが、感情を高揚させてくれるものといえばそれだけだ。
期待していた応援要請がくるでもなく、ひたすら監視と哨戒の日々が続く中、匡七郎のもどかしさは日増しにつのり、心は次第に最前線へと惹きつけられていった。
現在の第一線は、江州南部の道明街道沿いにある。地上では黒葛寛貴率いる左翼軍と黒葛貴昭の右翼軍が連携し、守笹貫家の本拠である百武城の支城をひとつずつ攻め落としながら北進を続けていた。そして天上では立州天翔隊が中心となって、江州軍の後詰めが守る山上の城砦を次々に陥落させている。
黒葛家が擁する三つの天翔隊の中でも、立州の部隊は破格の強さだともっぱらの評判だった。
音に聞こえたその戦いぶりを見てみたい。最前線へ出たい。
事あるごとにそんな望みを口にする匡七郎を、隊の仲間たちはそろって「命知らず」と呼んだ。
熾烈を極める空中戦闘と、それに続く城砦突入、そして乱戦。その只中に飛び込んでいくことを考えただけでも、普通の人間なら身が竦む。
しかし匡七郎はそんな、身も竦むほどの戦の緊張感と戦慄を味わってみたかった。
決して、命が惜しくないわけではない。
だが彼は、振り向けばすぐそこに奈落がぽっかりと口を開けている戦場の恐ろしさを真の意味で理解するには、まだあまりに若すぎた。
匡七郎が待望の最前線へ出る機会をついに得たのは、転属からふた月が過ぎた令月初めのことだった。三州と立州の天翔隊による連携作戦が決まり、彼の所属する三州天眼組も参加することになったのだ。
道明街道と縄代街道の交差地点にある輪達砦を、総がかりで急襲して一気に攻め落とすという話だった。なんでもそこは、立州の部隊が要衝と見なしていた大規模城砦の最後のひとつで、守笹貫家の虎の子ともいえる後援部隊が入っているらしい。
天眼組の主な役目はいつも通りの偵察と伝令だが、戦闘の成り行きによっては、敵城砦に降りて斬り合いに加わることになるだろう。
早朝、津々路連峰に連なる福寿山の砦で簡単な作戦の説明を受けたあと、逸る心を抑えながら匡七郎は乗騎へ向かった。同僚の義照も、すぐあとを追って走ってくる。彼は禽に乗る際の匡七郎の相方だ。
非常に遠目の利く男で、禽を操るのもそこそこうまいが、剣技のほうとなると今ひとつ冴えがない。
「いよいよだな、匡七郎」
義照は騎乗する前、そう言って笑顔を見せた。普段から一緒にいることの多い彼は、前線へ出たいという匡七郎の思いをよく知っている。
匡七郎は力強くうなずき、義照の肩を軽く叩いた。
「ぬかるなよ。斬り合いになったら、背後への警戒を怠るな」
重要な砦をこれ以上失えない江州側は、決死の覚悟で応戦してくるはずだ。今回の戦いは、かなり苛烈なものになるだろう。
ぴりぴりと肌を刺すひさびさの緊張感をおぼえながら、匡七郎は思わず相方に警告を発した。義照は呑気な性質で、いささか警戒心に欠けるのだ。
「今日の敵はきっと手ごわいぞ」
「わかってるって」義照がにんまりして、後鞍にひらりとまたがる。「おれはおまえと違って前にも二度、前線に出てるんだ。そっちこそ、本隊の空戦の凄まじさを見て腰を抜かすなよ」
「少々のことで抜けるほどやわな腰じゃねえよ」
匡七郎は軽口を叩き、自分も素早く前鞍へとよじ登った。
朝五つから一刻ほどかけて、天眼組は輪達郷上空で偵察を行った。からりと晴れた寒い日で、視界はかなり良好だ。
山上に築かれた敵の砦は、入母屋造りの建物を基部とした三重の望楼型天守と、それに連なるふたつの平櫓で構成されていた。匡七郎が想像していたよりもずっと大きく、虎口前には防衛のための畝堀や出曲輪が配置されており、いかにも堅牢そうに見える。
だが樹木がすべて伐採された頂上付近はむき出しで、防柵や土塁の内側にいる兵の姿も禽の背から丸見えだった。新式の城や砦では空からの偵察や攻撃に備え、遮蔽のための樹木をある程度残すようになっているので、この砦は天翔隊のなかった古い時代に造られたものなのだろう。
ひととおり偵察と報告を終えたあと、天翔隊の本隊が午前に出陣するという報せが入り、彼らに続いて天眼組も砦に降りることとなった。
まず虎口前の馬出を制圧。その後、内側の出曲輪に侵入して敵を引きつけ、城内に攻め入った主力隊が離脱してくるまで戦うのだ。
目標の十五里手前で空中集合した匡七郎たちは主騎の合図を受け、六騎ひと組で三角形を作る〈千鳥〉の隊形を組んだ。この形のまま戦場となっている空域に近づき、一里手前で散開、輪達砦の馬出に各機着陸するという手筈になっている。
半刻ほど飛んで、前方に再び砦が見えてくると、匡七郎の胸はいやが上にも高鳴り始めた。
砦の上空には江州の天翔隊が厚い防御陣形を組んで展開しており、こちらの接近を阻んでいる。
「いくぞ、義照」
相方に短く声をかけ、匡七郎は右肩下がりに隊形から外れた。
「どこか抜けられる場所を見つけて着陸する。しっかり掴まってろ」
大きく弧を描いて禽を急上昇させ、敵の陣形を高い位置から見渡して防御の薄い場所を探す。すると、やや左寄りの場所に突如として〝穴〟が生じたのが見えた。
「あそこで何が起こってるんだと思う?」
首を傾げながら、後鞍に向かって問いかける。義照はそちらの方向を確認すると、声を弾ませて答えた。
「おまえがずっと見たがってたやつだよ」
「じゃあ、立州の——」
匡七郎は息を呑み、再びその場所へ視線を向けた。
遠いので細部まではっきりとは見えないが、敵騎から敵騎へと跳び移りながら戦っている斬り手がいる。名高い立州天翔隊の精鋭が敵部隊の防御陣を攻め、今まさに切り崩しているのだ。
「おい、あれ、ひとりでやってるのか」
「そうみたいだ。おっと、もう四騎――いや五騎も屠ったぞ。すごいな」
傍観しているあいだにも、敵の菱形陣形がみるみるうちに崩されていく。
その乱れた隊列の中に開いた空隙を、一騎の禽が目を瞠る速さで突き抜けていった。敵中に単身斬り込んでいたあの男を、相方の乗り手が拾ったのだろう。
続いて、整然と縦列編隊を組んだ立州天翔隊が〝穴〟めがけて突入していくのが見えた。さらにそのうしろから、畳みかけるように三州天翔隊が攻めかかる。
今や防御陣には、塞ぎようもないほどの大穴が空いていた。
「噂には聞いてたが、立天隊にはとんでもない手練れがいるなあ。お陰で味方は着陸し放題だ」
感心したように唸る義照の声を聞いて、はっと我に返った匡七郎は、すぐさま禽首を下げて〝穴〟への接近を試みた。城砦からの砲撃を予想していたが、撃ってくる気配はない。先着したあの立州の一騎が、手際よく砲手を片づけたのだろう。義照の言葉どおり、まさに〝着陸し放題〟の状態だ。
匡七郎は穴の中へ禽首をねじ込み、間隙をなんとか塞ごうとあわてる敵騎の横を斜めにすり抜けた。目指す馬出はもう目の前だ。
虎口前の土塁脇から、敵兵がわらわらと駆け出してくるのが見える。その連中の頭上に舞い降りて蹴散らし、彼は立ちこめる土煙の中に禽を降ろした。
「殺られるなよ」肩ごしに、義照に声をかける。
相方は口の端でにやりと笑うと、「おまえもな」と返してきた。これから先は、各々の戦いに集中するのみだ。
いち早く群がってくる敵兵を眼下に見据え、匡七郎はその只中へと飛び降りていった。
強い。手応えが違う。
幾人目かの敵兵と斬り結んだ瞬間、匡七郎は思わず腹の中でそうつぶやいた。
相手は厳めしい顔つきをした壮年の男だ。彼が叩きつけてくる斬撃を受け止めるたびに、槍を握る両手にびりびりとしびれが走る。重そうな野太刀を軽々と振るい、火のように激しく斬り込んでくる敵に戦いを支配されて、匡七郎はしばしのあいだ翻弄されるがままとなった。
大雑把に見える振りだが、意外に付け入る隙が見当たらない。このまま戦いが長引けば、こちらが不利になるばかりだ。
骨に響く一撃を槍の柄で真正面に受けながら、匡七郎はふっと息を吐いた。両腕に漲らせていた力がわずかに抜ける。押し合いの均衡が破れ、男が重心をほんの少しだけぐらつかせた。
ここだ——匡七郎は息を詰めて左足を踏ん張ると、相手の刀身を渾身の力で跳ね上げた。同時に大きく後ろへ下がり、素早く槍を手繰り込む。
男はそれを見て、野太刀を正眼に構え直した。次に来る突きを捉えて外へ逸らし、すかさず反撃する心づもりだろう。
匡七郎は相手を見据えながら、まっすぐに突き込んでいった。穂先が刀身とぶつかり、甲高く軋る。その音を合図に、添え手を槍から放した。
突き手の指もゆるめ、手のひらの中で柄を滑らせながら、足を止めることなく相手の懐まで一気に飛び込んでいく。
思惑を外された男が驚愕に目を見開いた瞬間、匡七郎は左手で抜いた短刀を彼の顎下に深く突き立てた。
野太刀を握ったまま、男が仰向けにどっと倒れ込む。
匡七郎は鼻の下に浮いた汗を袖でぬぐうと、すでに事切れた骸の上に屈み込んで首から短刀を引き抜き、小さく悪態をついた。
「ああ、くそ」息が切れる。
こんなのが、まだほかに何人もいるんだろうか。
彼は呼吸を整えながら、味方と敵が入り交じって激しい乱戦を繰り広げている馬出を見渡した。たしかにここには、今まで見てきたのとは違う景色がある。
今日の敵はきっと手ごわいと言ったのは自分だったか、それとも義照か。
そんな思いが心をよぎるに任せながら、匡七郎は槍を握り直すと、手近にいる敵兵に向かって駆け出した。
禽を降りる時に別れて以来、相方の姿を一度も目にしていないのが少し気になっている。だが前線は初めてではないと言っていたことだし、きっとうまくやっているだろう。
雑念を振り払い、彼は目の前の戦いに集中した。斬っても斬っても、敵は次から次へと湧いて出てくるようだ。血と脂にまみれた得物の刃先が、あっという間になまくらになっていく。そのたびに、地面に転がる亡骸の手から刀や槍をむしり取って持ち替えた。
ひとり、またひとりと倒すごとに疲労が蓄積するのとは裏腹に、精神はどこまでも限りなく澄み切っていくように感じられる。何人斬り倒したか、もはや数えることすらままならなくなるころには、匡七郎の身体は己の意思を超越して動くようになっていた。
ただ無心に敵を突き、斬り、薙ぎ払う。強者と相対してひやりとする瞬間もあり、大小さまざまな傷も負ったが、ここで命を落とすかもしれないという懸念すら浮かばなかった。
再び思考が戻ってきたのは、六本目の得物を物色していた時のことだ。
右手のほうで誰かが撃った弾丸が、刀を拾い上げようと伸ばした匡七郎の指先をかすめ、同時に張り詰めていた意識の中枢をも貫いていった。
びりっとした傷み。しびれ。
驚きに息を呑むと、それまで気づいてすらいなかった音やにおいが、一気に現実感を伴って押し寄せてきた。周囲の色彩も、いきなり鮮やかさを増したようだ。たちまち目が眩み、全身から熱い汗がどっと噴き出した。体がずしりと重くなる。
匡七郎はふらつき、思わずその場に片膝をついた。
多くの足に踏み散らされ、大量の血を吸った地面が、みるみる目の前にせり上がってくる。
こんなところで気絶なんかしてたまるか――。
倒れ込みかけた体を手で支え、彼は目蓋をきつく瞑った。
気を抜くな。まだ戦いは終わってないぞ。そう己を叱咤し、再び立ち上がるための力を呼び起こそうとする。
その時、凄まじい殺気が後方から襲いかかってきた。うなじの毛がぞくりと逆立ち、無意識に体が反応する。
彼は地面に膝をついたまま、そこに転がっていた刀を引っ掴むと、振り向きざま横殴りに斬りつけた。
わずか二尺の間合いに敵。
滑らかに弧を描いた刃先が、その胴体に深々と食い込んでいく。
匡七郎は目で見るよりも早く、手のひらに伝わる感触で、ひとつの死線をからくも切り抜けたことを悟った。
かすかな呻き声をもらして、敵兵がどさりと地面に崩れ落ちる。
「あ、あぶな……かった……」
肩で大きく喘ぎながらつぶやき、彼は乱暴に口元をぬぐった。その手が激しく震えている。
動くのが一瞬遅かったら死んでいた。
思い返すだけで、冷水を浴びたような戦きが全身を走り抜ける。
動悸と呼吸が落ち着くまで少し待ってから、匡七郎はゆっくり立ち上がってあたりを見回した。
途方もなく長いあいだ戦闘が続いているように感じていたが、空の色合いを見れば、突入からまだそれほど時が経っていないことがわかる。しかし、どうやら戦いの行方はおおよそ定まりつつあるようだ。
敵兵の数は目に見えて減っている。虎口内の武者隠しから出てくる新手の姿もないようだ。主力隊が首尾良く天守と櫓の内部を制圧したのだろう。
この砦は最後には燃やすという話だったから、おそらく今ごろはその準備に入っているはずだ。
それを裏付けるように、どこかで大きな爆発音が上がり、突き上げるように地面が振動した。見上げれば、天守二階の武者窓からもくもくと黒い煙が上がり、格子の内側を炎が舐めている。じきに撤退の合図がかかる頃合いだ。
匡七郎は新たに手に入れた刀の柄をしっかりと握り、地面に転がる無数の骸を避けながら歩き出した。
虎口付近で、まだいくつか小競り合いが続いている。先攻部隊が出てくる前に、あそこをきれいにしておくか――そんなことを思いながら歩みを速めた時、視界の片隅に突如として敵兵が現れた。折り重なるように倒れた死体の陰に隠れて、こちらの接近を窺っていたのだ。
その手に火縄銃が見えた。
撃たれる――。
匡七郎は銃口が火を噴く瞬間、咄嗟に刀を投擲した。その切っ先が敵兵の胸板に突き立ったのを、見るのではなく手応えとして感じ取る。と同時に額の左側に凄まじい衝撃を受け、仰向けに後ろへ吹っ飛ばされた。なすすべもなく、破壊された防塁の残骸に背中から叩きつけられる。その衝撃で、肺から一気に空気が絞り出された。
顔が熱い……。目の前が真っ暗だ……。息が、苦しい……。
耳の中に鳴り響いていた甲高い残響が消えると、自分の心のつぶやきが聞こえてきた。冷静さを取り戻すために、まずは深呼吸をする。肺が再び新鮮な空気で満たされると、少し気持ちが落ち着いた。次に、ゆっくりと目蓋を開く。
炎上する城砦から立ちのぼる黒煙が風に吹き流され、灰色の長い帯になって幾筋も漂っており、その隙間に薄青い空が見えた。
「まだ……生きてるんだな」
声に出してみると、ようやくそう実感できた。いまも続けられている戦闘の音が、少し遠くに聞こえている。果たして、もう一度立ってあそこへ行けるだろうか。
匡七郎は仰向けに寝ころんだまま、ぎこちなく左腕を上げ、銃弾を撃ち込まれた額にそっと指先を触れさせた。
冷たく硬質な感触。
一瞬、露出した頭蓋骨に触れているのかと思って狼狽しかけたが、すぐにそれが出撃の際に巻いた鉢金であることに思い至った。金属の表面に滑らせた指が、深くへこんだ一点を探り当てる。
銃撃が斜め方向からだったことが幸いした。もし真正面から撃たれていたら、おそらくこの鉢金では防ぎきれなかっただろう。
子供のころから、形がいいとよく褒められていた額に穴が空かなくてよかった――ぼんやりとそんなことを考えながら、匡七郎は慎重に体を起こした。
銃弾を受けた部分に疼痛があるが、それ以上にいまは頭痛がひどい。防塁にぶち当たった背中にも、筋が攣ったような痛みがあった。だが、どうやら骨が折れるなどの重傷は負っていないらしい。
大きく息を吸い込み、匡七郎はそろそろと膝立ちになった。体を動かすとあちこちが痛むが、自由に動かせない箇所はとりあえずない。いちばん痛いのはやはり頭で、それを支える首にも少し違和感があった。
筋肉をほぐすように、頭を前後左右に傾けてみる。するとその時初めて、すぐ近くに部隊の仲間が倒れていることに気づいた。体を低くして這い寄り、脱力して地面に押しつけられたその顔を覗き込む。
相方の義照だった。
四肢をばらばらに投げ出し、俯せで倒れている彼の背中には、弾丸の貫通した穴が空いている。背後から狙い撃たれたに違いない。横へ傾けられたその顔は、「まさか」という驚愕の表情のまま凍りついている。
匡七郎は深く嘆息すると、血と汗で湿った手袋を外した。汚れた手のひらを袴でぬぐい、開いたままの目蓋をそっと閉じてやる。
「背中に気をつけろって言ったじゃねえか、馬鹿野郎……」
低くつぶやき、義照の肩を軽くなでると、匡七郎はゆっくり立ち上がった。
何をどうするという目的もないまま、ふらふらと前に歩き出す。しかし何歩か進んだところで強烈な目眩に襲われ、その場に崩れ落ちてしまった。
周囲の景色がゆらゆらと歪み、光と音が波のように満ち引きを繰り返している。
半覚醒状態で横たわりながら、どこか夢の中にも似たその景色を見つめるうち、匡七郎は安寧の暗闇へと引き込まれていった。
怒り狂う蛍の群れのように、大量の赤い火の粉が舞い飛んでいる。
祭りの終焉を思わせる、烈しくもどこか物寂しい光景だ。
匡七郎は虎口近くに造られた防塁の残骸に寄りかかって座り、ぼんやりとそれを眺めていた。
ずきずきする頭を土の壁にもたせかけたまま目だけで周囲を見回せば、仲間の無惨な亡骸が瓦礫や敵兵の死体に混じって点々と転がる、悪夢のような光景が飛び込んでくる。しかしそれを見ても、疲弊しきった心は動かなかった。
意識を失っていたのは、それほど長いあいだではなかったはずだ。目を覚ました時、空はまだ昼間の青さを留めていた。
しかし戦いはすでに終局を迎えており、あたりの様子も一変していた。
城砦の上空を舞い飛んでいた自軍の天隼は、戦いの側杖を喰らって墜落した数羽だけを残し、すっかり消え失せていた。燃え落ちる寸前の天守は断末魔の呻き声を上げているが、その中で戦闘が行われている様子はもはやない。
周囲に生きて動いている人影はひとつも見えず、味方はもちろん、わずかに生き残った敵兵も一様に撤退した後であることがわかった。
匡七郎が多数の骸が転がる中に倒れ、虚無の闇を流離っていたあいだに、引き揚げの合図がかかったのだろう。意識喪失に陥っていた自分の姿がさながら死体のようであり、そのため運悪く置き去りにされてしまったのであろうことは容易に想像ができた。
とはいえ、先に飛び立った仲間はまだそう遠くない空域にいるはずだ。いますぐに立ち上がって、飛べそうな禽を見つけて騎乗し、ここから離脱しなければならない。そしてみなの後を追って、一刻も早く砦へ帰投するのだ。理性はそう命じたが、体は動こうとしなかった。
あたりを支配する、奇妙なほどの静けさが心地いい。もう少しだけ、紅蓮の炎に包まれた天守を見つめ、吹きすさぶ風の音だけを聞きながらこの場所に留まっていたい。兵士としての境涯に立ち戻り、再びこの手に槍を握る前に、ほんのしばしの休息が欲しい。
そう思いながらふと遠くへ視線を向けた時、脇虎口からゆっくりと歩み出る人影が見えた。もう無人だと思っていたが、どうやら早計だったようだ。
人影はこちらに気づくと進路を変え、揺るぎない足どりで近づいてきた。
あれは味方か、それとも敵か。
腕も上がらないほどに疲れ果てていたが、再開されるかもしれない戦いに備えて、匡七郎は無意識に得物を手探りした。
もし敵なら、刺し違えてでもおれがあの首を獲ってやる――濁っていた双眸が瞬時に澄み、猛々しい輝きを迸らせる。
しかし目に宿った光は、すぐに薄れて消えていった。距離を詰めてきた相手が、黒葛家の天翔隊に特有の長袍をまとっていることに気づいたためだ。ちらりと覗く裏地が猩々緋なので、いずれかの部隊の隊長に違いない。
ほっとため息をつくと、漲らせた緊張感とともに、体から力がゆるゆると脱け出していくのを感じた。最後に残っていた気概を、いまの一瞬ですべて使い果たしてしまったような気がする。
それと同時に、無防備になった心が、言葉にならない寂寥感で満たされた。胸にこみ上げるのは、これまで敢えて感じまいとしていた哀惜の念だ。
立てた両膝のあいだに深く首をうなだれながら、彼はここで心ならずも命を落とした仲間を思い、彼らを残して行かねばならない現実の苦さを味わった。これが戦というものだとわかっていても、喉の奥に感じる苦みが和らぐわけではない。
その時、ふいに頭上から声が降ってきた。あの男がすぐ傍に立っている。
「砦はもう、じきに燃え落ちるぞ」何の感慨もなく事実を述べる、淡々とした口調だ。「ここにおると助からぬ」
「では、お早く離脱なさってください」
匡七郎はうつむいたまま、地面を見つめながらつぶやくように言った。
「わたしはいま少し留まります」
「なぜだ」
「仲間が大勢ここで逝ったので、せめてその御霊を送ってやりたいのです」
馬鹿なことを、と笑われるか叱責されるものと覚悟しながら、くぐもった声で答える。ところが、相手の反応はそのどちらとも違っていた。
「ここは地上よりもずっと天に近いのだ。死者の御霊は、疾うに空へ昇ったに違いない。居残っているのは、もはやおぬしだけだ」
意外な言葉と、いたわりを感じさせる柔らかな声に促されて、匡七郎は目の前に立つ脚の表面に視線を這わせながらゆっくり顔を上げた。
どこまで見上げても頭部に行き着かないかと思えるほど背の高い男だ。
堂々たる体躯を包む装束はあちこち煤け、おびただしい血に汚れている。しかし、そのほとんどは返り血のようだ。あの激しい乱戦の只中をほぼ無傷で切り抜けてきたらしい彼に、匡七郎は感銘を受けずにはいられなかった。
ようやく辿り着いた顔を、目を細めて凝視する。逆光になっているが、浅黒い肌色であることはわかった。彫りの深い精悍な顔立ちは、まさに峻厳そのもの。すべてを見透すような瞳が鋭く光を弾き返している。
その瞬間、鼓動が跳ね上がった。
どれほどの年月を経ようとも、この瞳を見紛うはずはない。
あわてて上体を起こすと、さらに動悸が激しくなった。息が詰まって、胸苦しくて、いまにも気が遠くなりそうだ。
一瞬でも目を離せば消えてしまうのではないかと怯えながら、匡七郎はただまっすぐに目の前の男を見つめ続けた。彼もまた、何も言わず静かに見つめ返してくる。
兵庫さま――。
再会の日までは口にすまいと心に決めていた名前。
六車兵庫さま――。
歓喜に震える胸の中でそっと唱えてみても、あれほどまでに慕い、憧れ、その面影を追い続けてきた人が手を伸ばせばすぐ届く場所に立ち、悠然とこちらを見下ろしているという事実が、まだうまく呑み込めなかった。
夢かもしれない。
あるいは幻か。
陥落した城砦に取り残され、半死半生で地面にひとり横たわったまま、泣きたくなるほど幸福な夢を見ているのだろうか。一瞬そんなことも思ったが、すぐにその考えを頭から振り払った。これほどの存在感が現実のものでないはずはない。
お名前を呼ばなければ。そして、再会を果たしたら言うつもりだった言葉を告げよう——そう思うが、声が出なかった。兵庫さま、とあのころのように呼びかけたいのに、驚愕と緊張のせいで張り付いた喉からは音を伴わない掠れた息がもれただけだ。
この瞬間を長いあいだずっと待っていたのに、いざ訪れてみると何ひとつ思うとおりには運ばなかった。
「おぬしの部隊の指揮者は」
先に沈黙を破ったのは兵庫のほうだった。
昔よりもさらに深みを増した声で、低く穏やかに問いかけてくる。あちらからも名前を呼ばれなかったことに少しがっかりしたものの、匡七郎はすぐに気を取り直して口を開いた。
「組頭は、荒城雅俊さまです」
「三州の天眼組だな」短くうなずき、素早く周囲に視線を投げる。「ここにおいでではないのか」
「おそらく、先に引き揚げられたものと」
「生き残りの兵を置いてか」
兵庫はため息混じりにつぶやくと、匡七郎のほうへ少し身を屈めた。
「では、おぬしの身柄をどう扱うかは、おれの裁量に任されたと思ってよいな」
どことなく、共謀をそそのかすような言い方だ。その口調に匡七郎は胸躍るものを感じた。
「はい、お任せいたします」一瞬の躊躇もなく答える。「何なりとお命じください」
「禽を操れるか」
「は」
「ならば立て。これより鉢呂砦へ帰投する」
端的で力強い命令の言葉が兵庫の口から発せられた瞬間、脱けきっていた力が四肢に蘇った。
「承知」
眦を決して強くはっきりとうなずき、匡七郎は即座に立ち上がった。すでに歩き出していた兵庫の背を見つめながら、足早にそのあとを追う。
吐き気を伴う頭痛が続いており、まだ動くのは無理だと体は悲鳴を上げたが、そんなことを気にかけてはいられないほどの昂ぶりに突き動かされていた。
ずいぶん髪を伸ばされたのだな——歩むにつれて長い黒髪が背に揺れるさまを見ながら、ひそかにそんなことを思う。鉢呂砦へ戻ると言ったから、所属先は立州天翔隊なのだろう。いつごろ隼人になられたのか。
長いあいだ餓え渇いていた好奇心が、一刻も早く彼のすべてを把握しようと貪欲に蠢いているのが感じられる。
そんな匡七郎の心中を知ってか知らずか、兵庫は一度も振り返ることなく歩いて開けた場所へ出ると、天隼を呼ぶ口笛を吹いた。
炎上する天守を回り込んで舞い降りてきた禽の胴には、ふたつの異なる形状の鞍が載せられている。前鞍と、連結された立ち鞍。本隊で使われているものだ。それを見て、匡七郎は思わず顔を曇らせた。
「もしや……飛行中、うしろへお立ちになるのですか」
「そうだ」
何を当たり前のことを訊くのか、と言いたげな視線から逃れるように、匡七郎は目を伏せた。
「天眼組の鞍は二座式なので、わたしは立ち鞍に人を乗せて飛ぶことには、その……あまり慣れていないのです」
役に立つ男だと、この世でいちばんそう思われたい人に、経験不足を白状するのはたまらなくつらかった。しかし兵庫のほうは、そんなことにはまるで頓着していないようだ。後驕の出っ張りを掴むと、彼はいかにも慣れた様子で身軽に立ち鞍へ飛び乗った。
「なに、そう容易くは振り落とされん」
あっけらかんと言われては、これ以上抗う余地もない。匡七郎は覚悟を決めた。
「急な挙動をせぬよう、できる限り気をつけます」
決然と言い、禽の首に巻かれた革紐に手をかける。
戦闘用も偵察用も、禽の操りかたはほぼ同じだ。匡七郎は前鞍に腰を下ろし、いつもどおり手際よく離陸の準備を整えていった。手綱を巻いて短めに調整する手の動きを、背後から兵庫の目が逐一追っている気がする。しかし、顔を上げてそれを確かめる心の余裕はなかった。
絶対に失敗できない。そんな言葉がふいに脳裏をよぎり、ますます肩に力が入る。
隊士になるための訓練中には、乗り手としての技量を高く評価されていた。我ながら浅ましいとは思うが、部隊で一、二を争うと言われる腕前を今こそ余すことなく兵庫の前で披露したい。普段どおりに禽を操ることさえできれば、傍に置いて使いたいと言ってもらえるのではないかと思っている。
しかしその一方で、他部隊からの兵員の引き抜きなどという面倒なことを強いてするほど、果たして自分に価値を見いだしてもらえるのだろうか、と柄にもない不安を感じてもいた。体は淀みなく動いているものの、頭の中はかなり混乱気味だ。
兵庫さまのほうは、いま何を考えておられるのだろう。
衝動に屈してほんの一瞬だけ肩ごしに見上げた目が、鋼のような鋭い瞳とぶつかる。あわてて視線を戻した頭上で、緊張のあまりまだまともに顔も見られないその人が、かすかに笑みをこぼした気配がした。
兵庫に誘導されながら、飛び続けること半刻あまり。
厚い雲海の向こうに、立州天翔隊の第一拠点である鉢呂砦がようやくその姿を見せた時、匡七郎は安堵のあまり危うく泣きそうになった。
手綱を握る両手には、もうほとんど力が残っていない。頭が割れそうな頭痛も、絶え間なく襲ってくる吐気もますますひどくなるばかりだ。座っているのに目眩がして、いまにも気が遠くなりそうだった。集中しようとすればするほど、苦痛はいや増していく。
だがそれも、もう少しの辛抱だ。
無事に着地して兵庫を降ろすことさえできれば、あとはどうなろうと構わない。
森の端の広場には先着した天隼がまだ何騎かかいて、禽籠へ戻される順番を待っていた。その脇の空いた場所へ舞い降りると、すぐに籠番衆が世話をしに駆け寄ってくる。
彼らに手綱を渡し、ひとまず役目を終えた匡七郎は、天を仰いで大きく息をついた。
なんとか成し遂げた——そんな思いを噛み締めながら、しばし虚脱する。
禽の首にそっと上体を預けて目を閉じると、拍動に合わせて頭全体が脈打っているのが感じられた。額に穴こそ空かなかったものの、やはりあの鉛弾を受けた痛手は大きかったらしい。
肩に何かが触れたのを感じて目を開けると、兵庫が横に立って顔を覗き込んでいた。
「よく持ち堪えたな。降りられるか」
手を貸して欲しいかと問われていることに気づき、匡七郎はあわてて首を振った。それほど無惨な状態に見えるのだろうか。
「わたしのことはお気づかいなく、どうぞお先に——」
言い終えるより早く、兵庫が背後から腕を回して彼の腰を抱えた。
「いらぬ痩せ我慢をするな」
静かに諭され、匡七郎は思わずうつむいてしまった。弱い者に優しいところは、昔と少しも変わっていない。だが、その優しさがいまはつらかった。動けるようになったら降りてこいと言って、置き去りにしてくれたほうがむしろ気は楽だ。
待ちこがれた再会をようやく果たしたというのに、不甲斐ないところばかりを見せてしまっていることが悔しくてならない。
しかし、そんな苦い思いに浸る間もなく、軽々と体を吊り上げられてしまった。
つい先ほどまで戦場で、おそらくは何十人もの敵兵を相手に斬り結んでいたはずの兵庫だが、彼は未だ充分な力をその腕に残しているようだ。
恐縮のあまり縮こまりながら、匡七郎は急いで地面に足を降ろした。不安定にふらつく体は、まだ右腕を掴んだままの兵庫の手に支えられている。
匡七郎はふと、彼の名を呼ぶなら今がまさにその好機であることに気づいた。
やや気後れしつつも、思い切って口を開き――
「兵庫さま」
しかし、そう呼んだのは匡七郎ではなかった。彼の声が喉を通り抜けるより早く、ほかの誰かが兵庫に呼びかけたのだ。兵庫は声の主を求めて視線を動かし、こちらへ向かってくる人物にうなずいて見せた。
「正信か」
「お帰りが遅いので、出迎えに一騎飛ばそうかと思っていたところでした」正信と呼ばれた大柄な男が朗らかに言う。「ご無事でよかった。そこにいるのは金晴ですか」
「いや」
兵庫の声の調子が微妙に変化したことに気づき、匡七郎は顔を上げた。彼の表情は少し物憂げだが、依然として穏やかなままだ。
「虎口へ駆け込む直前に狙い撃ちされ、逝った」
「それは残念なことでしたな」
彼らの会話から、匡七郎は帰路に乗った禽の本来の乗り手が戦場で命を落としたことを悟り、少なからぬ衝撃を受けた。だが、ふたりの淡々とした口調からは、感情の乱れや心の揺らぎはほとんど感じられない。彼はそこに、長年にわたり戦を生き抜いてきた者だけが持つ強さと狂気を垣間見た気がした。
このかたがたはきっと、おれなど及びもつかないほど多くのものを見てこられたのだ——。
そう思った瞬間、胸に青白い炎が灯った。
未だ知らぬその狂気の果てに、自分も辿り着きたい。兵として生きると決めた己の立つべき地平を、兵庫と共にあって見いだすことこそが望みだ。そのために、はるばるここまでやって来たのではなかったか。
〝兵庫さま、あなたのおそばで働かせてください〟
再会したら真っ先に言おうと思っていた言葉が、再び心の中に浮かび上がった。無意識に伸ばした手が、兵庫の上衣の袖をしっかりと掴む。だが声を出そうとしたとたん、突如として膝から力が脱けた。
あたりの景色が不気味に歪み、ぐるぐると回り始める。気力だけで補えるのは、どうやらここまでのようだ。
まずい——匡七郎は焦りつつ、訝しげに向けられた兵庫の目を覗き込んだ。早く言わなければ、また機会を逸してしまう。
しかし迫り来る闇に抗うすべもなく、彼はこの日二度目の意識喪失に陥って、兵庫の腕の中に倒れ込んでいった。
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