第98話 闇玉迷宮四層・五層
「だ、大丈夫か……レオ……わ、私が近くにいるから……あ、あんし――ひ、ひぃぃっ!!!」
突如、隣を歩いていたリンが俺にしがみついてきた。
皆の前でも平然と求愛行動を取るほど俺に夢中になった……わけではない。
四層に現れるアンデッド――スペクターのせいだ。
ここは、どこまでも続く闇に沈む墓地のフロア。
足元には砕けた墓標、風に揺れる枯れ枝。
不気味な静寂の中、目の前がふっと明滅し、次の瞬間には霧のようにスペクターが現れる。
リンは「何も怖くない、私がレオを護る」と口では言いながら、常に俺の腕や手を掴んでいる。指先には震えが伝わってきた。
「……リン、手を繋ぐか?」
普段だったら恥ずかしがって絶対に断られる提案も、今は違った。
「う、うむ……レオがそこまで言うのであれば……仕方ない……」
小さく息を整え、手汗を拭うと、彼女はがっちりと俺の手を握り返してきた。
ちなみに、俺だってアンデッドはあまり得意じゃない。
――ってか、アンデッドが得意な奴なんているわけがない。
……そう思っていたが、世の中には例外がいるらしい。
「あら? お二人さん?」
どこか余裕の笑みを浮かべて、聖魔法師のセイラがこちらを見た。
「私の近くにいれば、アンデッドはそう簡単に近寄ってこないわよ? 銀貨一人二枚のところを、二人で銀貨三枚におまけしてあげる」
――商魂たくましすぎる……。
だが、彼女の言葉に嘘はなかった。
どういうわけか、セイラの周囲だけはまるで清浄な空気に包まれている。
背筋を這う冷気が和らぐだけで、心臓の鼓動が幾分落ち着く。
仕方ない、ここは銀貨三枚で平穏を買うしかない。
気づけば、俺たちだけでなく、世継ぎ候補のほとんどと冒険者たちまでもが、セイラの庇護のもとに集まっていた。
そこだけが、闇の海の中に浮かぶ聖域のようだった。
だが、その輪の外にも動じぬ者たちがいた。
ライゼル、シャルロット、そしてフェイル。
三人は暗闇の中を平然と歩み、霧の奥から現れるスペクターを次々と屠っていく。
その様子を見て、サーディスが鼻で笑った。
「こういう時、蛮国出身者がいると助かるよな」
蛮国? そんな国があるのか?
気になって隣のリンに訊こうとしたが、彼女は俺の手を握りしめたまま、小刻みに震えている。とても会話どころではなさそうだ。
そのとき――
セイラが足を止め、振り返る。
そして、冷ややかな視線をサーディスに向けた。
「サーディス様? 私たちが気に食わないのであれば、無理に近づかなくても結構です」
その声音には、聖魔法師とは思えぬ棘があった。
「何ムキになってるんだ。冗談だって。なぁ、ロック?」
サーディスが軽く笑って言うと、護衛のロックが慇懃にうなずく。
「当然ですとも。サーディス様は常に平等を重んじられるお方……それはセイラ、お前もよく理解しているはずだろう?」
セイラとサーディス、そしてロックの間に、まるで目に見えるかのような火花が散った。
空気が張り詰め、息をするのも憚られるほどの緊張が場を支配する。
――気まずい。
本音を言えば、今すぐにでもこの場から逃げ出したかった。だが、皮肉なことに、ここがもっとも安全地帯であるのもまた事実だった。
仕方なく、息を潜めて彼らの後を追う。すると、思いのほか早く、視界の先に五層へと続く階段が見えてきた。
「ほ、ほらっ! か、階段が見えてきたぞ!」
リンの弾けるような声が、張り詰めた空気を一瞬で吹き飛ばす。
その声には安堵と、そして恐怖の残滓が入り混じっていた。
恐怖で涙を堪えていたのか、彼女の瞳はかすかに潤み、光を宿している。
通常なら、階段の手前で野営し、テントを張って休息を取るところだ。
だが――今回は違った。
四層に巣食う魔物たちは、音もなく幕をすり抜け、眠る者の首を刎ねるという。
さらに、テントの中でスペクターが湧き出る例もあるらしい。
そんな場所で眠れるはずもない。
俺たちは逃げるように階段を駆け下り、五層へと踏み入った。
そこは一転して、空気ががらりと変わる。
ぬかるんでいた足元は、いつの間にか硬質なレンガのような地面に変わり、天井には青白い苔や蔦が絡みついている。
果てしなく広大な空間のようで、壁は見えない。
黒曜石のように鈍く光る何かが、かすかな光を放ち、闇の底に幻想的な輝きを散らしていた。
「遺跡か……?」
思わず漏れた呟きに、フェイルがすぐ応じる。
「ここからでは見えんが、この階層は牢屋だ。正式には石牢フロア。【闇玉】迷宮の中でも、最も広大な領域を誇る。スペクターのように実体を持たぬ亡霊系は出ないが、代わりに現れるのはスケルトンナイトやスケルトンメイジ。さらに第三位階迷宮のボスクラスも出現する。気を抜けば一瞬で命を落とすぞ」
スケルトン――その単語が出た瞬間、リンがびくりと肩を震わせ、そっと俺の隣へ寄ってきた。そして小声で「護ってやる」と言いながら、俺の手をぎゅっと握る。
「まずは部屋の隅を目指すぞ。今夜はそこにテントを張る」
セカルズの号令が響く。
すぐに魔法師たちと冒険者が動き、後継者たちを囲むように陣を形成した。
ライゼルが先頭に立ち、闇の中をゆっくりと進んでいく。
光源は限られ、視界はぼんやりと揺らめくだけ。
そのため魔法師だけでなく、冒険者も使える者は【光明】を使う。
俺も火球をいくつか浮かばせ、視界を得る。
フェイルもライゼルの隣まで出て、【風詠】を唱える。
風が唸り、目に見えぬ流れが周囲を這う。
音を立てぬ索敵魔法が広がるたび、フェイルの視線が鋭く動く。
「右、五十メートル先に動体反応……スケルトン二体」
その言葉と同時に、シャルロットが剣を抜き、突撃。
そして次の瞬間、フェイルの表情が強張った。
「前方にサーペント! その後ろにゴーレム……! サーペントは俺たちを捕捉済みだ――来るぞッ!」
声が響くや否や、地の底を這うような低い唸りが起こり、闇の彼方からそれは現れた。
深紫の鱗に覆われた巨体――全長二十メートルを超える毒蛇。
それがコウモリのような薄膜の翼を広げ、まるで悪夢が滑空するように迫ってくる。
飛べる大蛇……!?
しかも厄介なのはその巨体だけではない。
「気をつけろ! 毒霧を吐くぞ!」
フェイルの警告と同時に、セカルズが叫ぶ。
「皆、酒だ! サーペントの口に酒瓶を投げ込め! 酒精が毒霧を中和する!」
俺たちを丸呑みしようと大きく口を開くサーペント。
それに対し、冒険者たちは酒瓶を取り出し、タイミングを合わせて投げる。
ガラスが砕け、液体が霧と共に弾け飛ぶ。
濃密なアルコールの香りが立ち込める中、サーペントは酒が回ったのかその巨体が地に激突し、床が鳴動する。
効果は覿面――しかし、戦いの代償はすぐに現れた。
「セイラ! うちの冒険者が毒霧を吸い込んだ! 【範囲解毒】を頼む!」
叫んだのは、つい先ほどまでセイラと火花を散らしていたロックだった。
しかし、意外なことにセイラは一瞬の迷いも見せず詠唱に入る。
「……了解。【範囲解毒】!」
四重の魔法陣が淡い白光を輝かせ、周囲の空気が一気に清められる。
毒に蝕まれていた冒険者たちの肌が、ゆっくりと血色を取り戻した。
が、戦闘はまだ終わりではない。
酩酊したようにのたうち回るサーペントの巨体が、床を震わせながら暴れ続けている。
それでも、冒険者たちの目にはもう恐れはなかった。
各々の体を基礎魔法の光が包み込む。
剣を握る手に魔力が流れ、金属が鳴くような音とともに、刀身が光を帯びる。
ロザミアの淡青色の刀身が輝き、シャルロットの漆黒の刀身も鈍く光を帯びる。
そこにリンも加わり、白い刀身も輝きを放つ。
三人だけではない。
他の冒険者たちの剣も、同じように光を宿していた。
――ゲルドの必殺技を、全員が体得していたのだ。
「【剣気斬り】」
号令のように同時に放たれたその一閃は、斬撃を飛ばすものではない。
刀身に宿した魔力を直に叩き込む――純粋なる一刀。
リンが言っていた。
斬撃を飛ばすだけの【剣気斬り】では威力は低い。
だが、直接叩き込むことで、斬撃の威力を数倍に跳ね上げるのだと。
何体かのサーペントを倒し終え、ようやく石牢フロアの壁が見えてきた。
それを見た瞬間、全身から緊張が抜けて、自然と息が漏れる。
「ふぅ……ようやく荷を下ろせるな……」
だが、その安堵の吐息を、セカルズの声が断ち切った。
「レオ、油断するな。レンガの隙間に毒蛇が潜むこともあるし、壁そのものがゴーレムに化けることもある。一時間かけて入念に調べても、なお見落とすことがある……【風詠】でも反応を拾えないことがあるんだ」
そう言い残すと、セカルズはフェイル、シャルロットを伴って、壁際の捜索に移った。レンガを一つ一つ叩き、魔力を通し、魔物を探る。決して警戒は怠らない。
ただ、他の者たちは疲れたのか、それとも体力の回復に努めているのかは分からないが、俺と同様に荷を下ろし、軽食を口にしたり、膝に手をつき休んだりしている。
そんな中、ふと一つの考えが浮かぶ。
「リン。【誘惑】をこの辺に撒いたら、潜んでいる魔物を炙り出せるんじゃないか?」
俺の提案に、リンは腕を組み、真剣な面持ちで考え込む。
「うむ……理屈としては正しい。だが――」
「大丈夫。スケルトンがたくさん現れたら俺が護ってやるって」
「なっ――!? 私がスケルトンを怖がるわけがなかろう!」
少しムキになったリンはその場で手を翳す。
「【誘惑】」
ハート形の四重魔法陣が輝き、淡いピンクの光が空気を満たす。
甘く妖しい粒子が舞い上がり、セカルズたちが捜索していたフロアの一角を包み込んだ。
刹那――
床のレンガの隙間から黒い影が弾けるように飛び出す。
毒蛇だ。リンの足元めがけて牙を剥く。
同時に、壁の奥で赤い光が二つ、ぽつりと灯る。
その光はやがて輪郭を持ち、硬い石肌が軋む音とともに――ゆっくりと、人の形をした巨体が姿を現した。
ゴーレム。
鈍く光る瞳がリンを見据え、低く地鳴りのような唸りを上げた。
すでに戦闘態勢に入っていたセカルズが、ためらうことなく詠唱に入る。
「【闇棺桶】!」
宙に描かれたのは、夜の闇よりも深い黒。
四重の陣が展開すると、そこから浮かび上がったのは、ゴーレムを優に飲み込むほどの巨大な棺。
重々しい蓋が開く音とともに、棺はうねる影のようにゴーレムへと伸び、突進してくる巨体をそのまま呑み込んだ。
「こ、この魔法は……?」
「対象者を閉じこめる魔法だ。蓋を開ければ外側からなら一方的に攻撃できるが、内側からはほとんど干渉できない。もっとも――攻撃があまりに強力なら、棺も壊れる。何事にも例外はあるがな」
第四位階ともなれば、やはり効果はとんでもないな。
「して、この先どうなされるのですか?」
「うむ……ファスクたちが健在だったころは、金証魔法師ブレンダが放つ【火爆】で吹き飛ばしていたのだがな……今は唱えられる者がいない。ゆえにライゼルに任せるほか……」
「セカルズ様、【火爆】であれば、僕も唱えられます。試してみてもいいですか?」
「な、なんと……! 【火爆】までも使えるというのか!?」
セカルズだけでなく、周囲の面々も一斉に目を見張る。
フェイルが一歩前へ出て頷いた。
「セカルズ様、ワイバーン討伐のときに私もこの目で確認しました。レオの【火爆】――あの威力は尋常ではありません。これまで見たどの【火爆】よりも、はるかに強大でした」
「な、何だと!? ブレンダのものよりもか!」
「はい……間違いなく」
その一言に、セカルズの表情が引き締まる。
わずかな静寂ののち、決断の声が響いた。
「……よかろう。ではレオに任せよう。ライゼル、【雷閃迅槍】の詠唱準備を。他の者たちも――最大火力の構えを取れ!」
あまり自分の力を示したくはない。
だが、【火爆】だけはフェイルの前で使ってしまっている。ここで出し惜しみすれば、逆に不審を招く。
一歩前に出て右手を翳し――
「**【火爆】**!」
一瞬にして三重魔法陣が描かれ、中心から放たれた火球が轟音とともに飛翔した。
着弾する――そう思った刹那、棺がまるで炎を誘うように開いた。
黒き棺は火球を呑み込み、すぐさま蓋を閉じる。
「――今だッ! 爆ぜろ!!!」
瞬間、棺の隙間から紅光が噴き上がる。
次いで――凄絶な爆発音。
漆黒の棺は内部から弾け飛び、炎の奔流が解き放たれた。
灼熱の衝撃波が押し寄せ、地面が波打つ。
灰と破片を巻き上げながら、ゴーレムだった物が宙を舞った。
熱が引いたあと、そこに残っていたのは――半ば融解した石の残骸と、赤く燻る焦げ跡だけだった。




