第97話 セイラの証言
三層――そこは樹海の中に口を開いた、濁った沼地だった。
少し明るくなり視界こそ広がったものの、枝葉の影からは猿や蛇が襲いかかり、足元の泥濘には毒蛇が潜む。しかも進路には毒沼が待ち受け、迂回は許されない。
極めつけは、紫の毒靄を吐き散らす巨大ヒル――ヴェノリーチ。
生きることそのものを拒むかのような、鬼畜の階層だ。
「レオ、この沼を越えたら【洗濯】を頼む……さすがに、堪えられぬ」
野営に慣れているリンですら顔をしかめ、弱音を吐く。
重荷を背負ったまま沈む足は、泥に絡め取られ一歩ごとに体力を削られていく。冒険者たちの動きは鈍り、沼地での戦いはまるで足枷をはめられたも同然。
体力の少ないリンにとっては地獄のような場所だった。
必然的に、前線を担うのは魔法師たちだった。
金証魔法師はもちろん、世継ぎたちまでもが、闇魔法を駆使しながら前へと進む。
「【闇鎖】!」
セカルズやサーディスが紡ぐ詠唱に応じ、闇の鎖が宙に描かれた魔法陣から伸びて蛇どもを縛り上げる。のたうつ体が絡め取られるや、ライゼルが間髪を入れず雷を走らせた。
「【雷連鎖】!」
四重の陣から奔った紫電は、【闇鎖】に拘束されたり、巻き付いている蛇だけでなく、枝上の群れを一瞬で焦げ跡へと変える。
そこに、ロックが手を翳す。
「【石乱杭】!」
泥底を突き破り、無数の岩槍が乱立する。沼に潜む魔物を串刺しにし、残骸が泡を立てて沈んでいく。
さらにフェイルが叫ぶ。
「【風絨毯】!」
空を滑る絨毯に身を預け、狭い樹海を縫うように疾走しながら、【風刃】を連射する。隣にはロザリオを乗せ、彼女の剣が絨毯に飛びかかろうとする魔物たちを斬り結ぶ。
しかし、それでも瘴気や毒牙に噛まれ、蝕まれていく。
そのたび、清澄な響きが全体を覆った。
「【範囲解毒】!」
「【範囲治癒】!」
セイラが四重を描けば、聖なる光が仲間たちを包み、毒を祓い、裂傷を閉じる。彼女の魔法陣が淡く輝くたび、皆の息が整い、戦線が崩壊することなく保たれるのだった。
注目すべきは、その魔法の持続時間である。
俺の【解毒】は発動の瞬間こそ毒を祓うが、一度きりの効能にすぎない。瘴気を吸い込むたび、毒沼に足を踏み入れるたび、何度でも詠唱し直さねばならない。
だが、セイラの【範囲解毒】は違った。発動と同時に澄んだ光が仲間たちを包み込み、その加護は十秒近くも持続する。瘴気を遮り、毒を寄せつけぬ聖域となるのだ。
それだけではない。【範囲治癒】もまた、ただ一瞬の癒しではなく、じわりと傷を閉じ続ける持続的な恩寵をもたらす。
――これはどういうことだ?
そういう魔法なのか、それとも別の要素か……。
だが、疑問を投げかける前に、俺もまた役割を果たさねばならない。
「**【氷結】**!」
毒沼に差し掛かった瞬間、詠唱とともに冷気が奔る。黒く濁った水面が瞬時に凍りつき、全員が安全に渡れる氷の橋へと変わった。
それは思わぬ副次効果を生んだ。ぬるりと忍び寄っていた毒蛇たちの動きが、氷の冷たさに触れた途端、著しく鈍る。
特に魔物でない蛇たちは、ほぼ身動きすら取れなくなった――変温動物の宿命なのかもしれない。レッサーサーペントでさえも氷を避けるように距離を取っていく。
「おい、お前……【氷結】まで使えるのか!? なんで今まで黙ってた!」
「す、すみません。毒沼がどれほど広がっているのか分からなかったので……」
魔力は有限。ならば無闇に氷を張るより、必要な場面に絞った方がいい。
問いただした冒険者も理にかなっていると判断したのか、それ以上は追及してこなかった。
――とはいえ、進軍中は息をつく暇さえない。
セイラに訊ねたいことは山ほどあったが、声をかけられたのは結局、沼地を突破した後だった。
夜営地となる四層への階段前、ようやく訪れた束の間の休息の時。
「セイラさん、少しお話を伺ってもよろしいですか?」
テントの設営を終えた隙を見計らって、彼女へと歩み寄る。
「話? ……銀貨一枚」
くっ……会話すら有料か。
だが今は情報と信頼を得る方が優先だ。
「分かりました――」
銀貨を一枚、掌に乗せて差し出す。
それを受け取ったセイラはわずかに口元を緩めた。
「まず、ファスク様が亡くなったときのことを教えてください」
俺の問いに、セイラは小首をかしげる。
「まず? ってことはいくつも質問があるの?」
「はい、そのつもりですが……」
「じゃあ、まとめて質問して。対価をもらえれば答えるわ」
マジか……どこまで守銭奴なんだよ。
「では……」
俺がまとめて問いを投げると、案の定さらなる金を要求された。
ここまで来たら後には引けない。言い値を払うと、セイラは満足げに笑みを浮かべ、饒舌に語り出した。
「ファスク様が亡くなった夜、魔法陣の前に最後までいたのは確かに私よ。けど、それを証明する者はいないわ……でもね、私にファスク様を殺せるはずがないの。何せあの場にいたのは、バックス辺境伯とその弟を除けば、迷宮都市でも最強と呼ばれる魔法師と冒険者たち。それにファスク様自身だって私より強い。誰かが目を覚ました瞬間、私は逆に殺されるわ。よほどの大金を積まれない限り、そんな命懸けの賭けはしない」
……つまり、金さえ積まれれば殺しも辞さないってことか。
それに辺境伯の弟も強い? これは意外な情報だ。
「それと、私の聖魔法が長く持続するのは――ギフト【反響】のおかげ。知っているでしょ? 魔法の効果を余韻のように響かせて持続させるギフト。私の場合は聖属性にしか効かないけど」
……そんなギフトがあるのか。
詳しく聞きたいが、どうせ追加料金を取られるのは目に見えている。今は核心だけ掴めれば十分だ。
「それから、【闇玉】が習得できるかって? 今回だけじゃ無理そうね。ただ、次の世継ぎを決める際にもう一度潜れるなら、そのときはあるかも。私は聖魔法の使い手であり、【反響】持ち。闇属性の適性もある。そんな私の需要は高いはずよ。次の世継ぎが早々に倒れる可能性だってある……そう遠くないうちに、もしかしたら、ね」
……ファスクの死をむしろ歓迎している節がある。
「次に狙われるのは誰か、だっけ? それはセカルズ様でしょうね。本音を言えばサーディスを狙ってほしいけど……誰がやったかまでは見当がつかないわ」
サーディスだけ呼び捨て……? あからさまに敬称を外したな。
何か因縁でもあるのか? ファスク殺害とは無関係だろうが、別の機会に探ってみる価値はありそうだ。
俺からの質問はひと通り終えた。
もちろん、まだ気になることは山ほどある。だが、まずは他の連中にも聞いて、それでも疑問が残るなら再びセイラに当たればいい。そう思って離れようとした矢先――予想外にも、今度は彼女の方から問いが投げかけられた。
「ねぇ? 一つ答えてくれたら、私も一つ質問に答えてあげる……どうしてあなた、さっきまで泥まみれだったのに、今は上から下までまるで新品みたいに綺麗なの?」
これは……リンに頼まれて【洗濯】を使ったおかげ。
しばし迷ったが、誰にも言わないでほしいと前置きしたうえで打ち明ける。
するとセイラは、驚くでもなく、むしろ当然といった顔で頷いた。
「安心して。誰にも言うわけないでしょう? 【洗濯】を使えるなんて知れ渡ったら、私の商売が成り立たなくなるもの。むしろ私からもお願い――黙っていてちょうだい」
……この通りだ。
だが、このしたたかな性格はある意味ありがたい。セイラにとって損にならない限り、彼女が俺たちに刃を向けることはないだろう……依頼されれば話は別だが。
「分かりました。質問の権利はまたの機会に取っておきます」
聞き込みをしていく中で、不明なことがあればセイラに訊くことにしよう。
彼女に別れを告げ、しっかりとした警備体制を敷き、眠りについた。




