第74話 代償
ゆっくりと歩き出したザンクの目は、どこか虚ろだった。
だが、俺の姿を捉えた瞬間、その奥にかすかな意志の光が宿る。
「お、お前……レオ……か……?」
その声は低く、どこか苦しげで、喉を焼くような濁った声。
かつての威圧感は影を潜め、苦痛に歪んだ声音だった。
「ザンクさん。二日見ないうちに、ずいぶんバケモノじみた顔になってしまいましたね。大丈夫ですか?」
俺の声にザンクの顔には生気が戻り、
俺の皮肉にザンクが微かに唇を歪める。
「偉そうに……てめぇこそ、ずいぶん調子に乗るようになったじゃねぇか」
「おかげさまで。これもザンクさんの教育の賜物です。今度は僕が、あなたの中毒症状を治して差し上げますよ」
「何を言ってやがる。お前が一番の中毒者ってのはもう分かっているんだ。でもな、俺もお前と同じ新薬を手に入れた。これで条件は五分だ!」
そう言って、ザンクは腰の麻袋から赤黒い光を放つ含魔薬を取り出す。
ためらいなく口に放り込み、ぐっと奥歯で噛み砕いた。
瞬間、ザンクの筋肉が盛り上がり、皮膚の下で血管が暴れだす。
赤黒く染まる目が、俺を真正面から捉え――嗤った。
「ザンクさん、その薬、どこから手に入れたのですか?」
問いかけた声は空しく宙を消える。
返ってきたのは言葉ではない。赤く爛れた瞳がギラリと輝き、喉の奥から響くのは獣の唸り。
……クソッ、もう理性が飛んでやがる。
「リン! ザンクは俺がやる! 周囲の盗賊は任せた!」
「任せろ! こっちのことは気にするな!」
リンがすぐに身を翻し、盗賊たちの中へと駆けていく。
その背を見送る暇もなく、ザンクが吠えた。
獣の咆哮のような怒号と共に、巨大なクレイモアが振り上げられる!
「**【石撃】**!」
咄嗟に石の礫を撃ち出す。だが――
ザンクは一歩も止まらない。
飛んできた石を、ありえない速度で繰り出された拳で砕いた。
砕け散る石片。空気が爆ぜるような衝撃。
「……マジかよ。反則だろ、それは」
拳だけで魔法を粉砕するなんて、常軌を逸してる。
「グワァアアアアアアッ!!!」
野獣の咆哮――いや、もはや人の声ではない。
凶暴そのものの叫びを上げ、ザンクが突進してくる。
だが、たとえ新薬の力を得ていようと、【魔力増強】で底上げされた【風纏衣】には及ばない。
振り下ろされたクレイモアをギリギリで見切り、バックステップ。
深く抉れたえぐれた大地――
あれをまともに喰らえば、【石纏衣】すら持たない。
一瞬、脳裏に恐怖がよぎる。しかし、それを振り払うように詠唱。
「**【石破弾】**!」
放たれたのは、無数の人の顔ほどもある巨大な石塊。
ザンクは迫る岩弾を右手のクレイモアで叩き落とし、次いで左の拳を振り上げる……が、砕けたのは石ではなく、ザンクの拳!
骨が軋み、砕ける嫌な音が響く。
続けざまに襲い掛かる【石破弾】が、肩を、腕を、腹を、ザンクの肉体に容赦なく食い込んでいく!
「グォォォオオオ!!」
反応はしている。だが――あれは苦痛の叫びじゃない。
理性が壊れていく咆哮だ。
顔は真っ赤に紅潮し、浮き出た血管が脈打ち、
目は血走り、理性の灯を失いかけている。
しかし、体は正直だ。
ザンクの左腕はぶらりと垂れ下がり、右足は明らかに引きずっている。
あれだけの【石破弾】を受けたんだ。当然の反応だ。
(……今なら、やれる――!)
そう思い、間合いを詰めようとした、その瞬間。
ザンクがクレイモアを地面に突き立て、麻袋に手を伸ばす――
(まさか、もう一粒――!?)
「**【雷撃】**!」
飲まれる前に、感電させて止める……!
だが、直撃しても一瞬動きを止めるだけ。
ザンクは乱暴に複数粒の含魔薬を口に放り込んだ!
即座に、全身の傷がみるみる塞がっていく。
垂れていた左腕が持ち上がり、引きずっていた右足がしっかりと地を踏む。
「グゥ……アアァァァ……」
濁った目。
泡を吹きながら喉を鳴らし、口の端からよだれと血を垂らしながら嗤う。
皮膚はみるみる赤黒く腫れ上がり、
筋肉が音を立てて膨張し、骨格すら軋む音が響く。
人のかたちが壊れていく……
口は裂け、指は太く伸び、まるで魔獣の変身過程を見ているような、おぞましい進化。
含魔薬の過剰摂取――
(……マズい。こいつ、もう完全に人間じゃねぇ!)
それに……もう三分経ってしまう。
残り一分――撤退の判断が迫る。
横目でリンを見れば、ほとんどの盗賊はすでに制圧されていた。
しかも――
(……麻袋、すべて斬り落としてある!)
薬の補給手段を絶たれた盗賊団は、もはやリンに抗う術もない。
だったら、俺もここで――決める!
しかし、俺の魔力はもうほとんどない。
逃げながら魔法をばら撒こうにも【風纏衣】を唱える魔力が残っていない今、いつかは追いつかれてしまう。
で、あれば接近戦!
もとより、そのつもりだった。
ただ、それまでに少しでも削り切る!
自らに言い聞かせ、震える指先を握りしめる。
暴走するザンクが、唸り声と共に迫ってくる。
人のかたちを捨てた怪物。
だが、ここで怯めば、それこそ喰い尽くされる。
「**【氷結】!**」
地面を凍らせてザンクの踏ん張りを効かなくしてから、
「**【風撃】**!」
風の力で迫りくるザンクの勢いを削ぐ。
そこに魔法を連射!
「**【光矢】**!」
「**【闇矢】**!」
「**【毒矢】**!」
一射目の【光矢】はクレイモアで叩き落とされ、
二射目の【闇矢】は左手で掴み取る。
三射目の【毒矢】だけが、ザンクの首筋に浅く突き刺さった。
だが――ザンクは止まらない。
血が滲んでも無反応。
むしろ、血走った目に狂気を宿し、俺を真正面から睨みつけてくる。
距離、わずか十メートル!
「**【闇霧】**!」
漆黒の霧で視界を遮り、
「**【石壁】**!」
すかさず暗闇に石の壁を築く!
だが、それでもザンクは止まらない!
石壁を粉砕し、霧など眼中にないかのごとく突っ込んでくる!
まるで、五感すべてで俺の存在だけを追ってくるような――
ザンクの執念!
だが、その顔が一瞬だけ苦悶に歪む。
足取りも、わずかに乱れた。
(……毒が効き始めたか?)
それでももう間合いに入られていた。
雄叫びと共に、振りかぶられるクレイモア。
大気を裂く一閃を紙一重で回避!
が、その瞬間!
ドガァッ!
腹に、まるで大砲をぶち込まれたかのような衝撃!
「ぐはっ……!」
膝を折りたたんだ状態から繰り出された蹴りが、俺の腹部にめり込んだ。
【石纏衣】越しでも、衝撃は内臓に響くほどだった。
だが、踏みとどまった――この瞬間のために。
ザンクの足を抱え込む。絶対にこの足だけは離さない!
距離ゼロ――
俺に足を絡め取られたまま、ザンクはクレイモアを振り上げる。
だが――これこそが、最初から俺が狙っていた一手!
(ここしかない! ここで終わらせる!)
「お前の体を蝕む毒素……俺がすべて――洗い流してやるよッ!!!」
ザンクの足を抱きしめたまま、逃がさない。
この距離、この瞬間――放つ魔法はただ一つ!
「**【洗濯】**!!!」
炸裂する光。
四重の白い魔法陣が俺とザンクを包み込む。
膨張していた筋肉が音を立てて萎み、浮かび上がっていた血管が弾け、ザンクの体に纏わりついていた含魔薬の力が、一気に剥ぎ取られる――!
「ガ……ァァアアッ!!!?」
咆哮と共に、その体はバランスを崩し――
自らが振り上げていたクレイモアの重量に耐えきれず、逆に押しつぶされる。
「ぎゃぁぁぁあああ!!!」
含魔薬の効果が切れ、理性が戻ったことで、
今まで誤魔化していたダメージが一気に襲いかかる。
痛みに全身をのたうち回り、絶叫するザンク。
「だから言ったろ……見かけ倒しの体なんだからさ。ちゃんと養生しとけって」
荒く息を吐きながらも、勝利を確信する。
倒れたザンクのクレイモアを引き抜き、次いで腰の麻袋を押収。
そして、右手を翳す。
「**【闇鎖】**」
漆黒の鎖が地を這い、萎びたザンクの体をきつく締め上げる。
ついに悲鳴すら出せなくなったザンクは、がくりと意識を手放した。
――そして、いつの間にか隣に立っていたリンが微笑む。
「さすがだな。だが、レオの【洗濯】で苦しむ奴がいるとはな。私からすれば、あれは極上のご褒美なんだが?」
冗談とも本気ともつかぬその言葉に、俺は思わず苦笑を漏らす。
こうして、地を揺るがす激闘が、静かに幕を下ろした。




