第28話 準備
「リン、迷宮に向かうのは、すべての魔法を【ストック】してからでいいか?」
「万全の体制で臨むに越したことはない。それで頼む」
さっき、グレスト男爵とギルドマスターに【風纏衣】と【土纏衣】を使ってしまったせいで、【ストック】に少し時間がかかる。それでも――後悔はしていない。
二人に力を示すことができた。それで十分だった。
出発はおそらく三日後。
それまでに、迷宮攻略の準備を整えておく必要がある。
まず向かったのは道具屋。
手に取ったのは、回復薬や解毒薬などの基本道具類。魔力が枯渇して【治癒】が使えなくなったときのための保険だ。
隣ではリンも、黙々と必要な物を選んでいる。
その姿を見て、ふと思いついて声をかけた。
「迷宮に潜るときや道中、もしよければリンの荷物は俺が持つよ……といっても【収納】の中に保管するだけだけど」
言い終えた瞬間、リンの顔がパッと明るくなった。
「おぉ! そうだな。そうしてくれると助かる! 服や寝袋がかさばってな、正直ちょっと苦労していたんだ」
笑った顔が、いつものきりっとした剣士の表情とは違って、どこか年相応の少女のように見えた。
眩しい笑顔にドギマギしつつ、会計を済まして外に出る。
次に向かったのは魔道具屋。
そこで、リンが目を引くような高価な買い物をした――それは、革製の小さな鞄だった。
俺が彼女の荷物を【収納】に入れると申し出たにもかかわらず、なぜ新たに鞄を買ったのか――その理由はすぐに分かった。
その鞄は、ヤマツキという魔物――鋭い嘴と突進力を持つキツツキのような獣の皮で作られていた。
素材自体が衝撃を吸収する性質を持っており、回復薬や解毒剤のように、瓶詰めされたアイテムを運ぶのに適しているのだという。
確かに、戦闘中や咄嗟の状況では、【収納】から取り出すより、手の届く場所に置いておいた方が迅速に対処できる。
しかも、俺に万が一があった場合、【収納】が使えない。
これはリンだけのためだけじゃない。
例えば――俺が戦闘中に【麻痺針】を喰らって、全身が動かなくなったとしよう。
その瞬間、【収納】の中に回復薬や解毒薬があったとしても、思うように取り出すことはできない。
そうなれば、俺自身は為す術がない。
だからこそ、リンがそれらをすぐに手の届く位置に持っていてくれる必要がある。
万が一に備えて――いや、それが本当に起きたときの命綱として。
もちろん、彼女自身が毒や傷を負ったときに、即座に使えるようにという意味もある。
そんなリンを横目に、俺もどれを買おうか迷っていた時――
「レオは法衣や外套は持っていないのか?」と、リンがふと訊ねてきた。
「うん、持ってないよ。ファジャスで買おうかとも思ったけど……つい、魔法書の方に気が向いちゃって」
苦笑まじりに答えると、リンは真剣な表情を見せる。
「迷宮の中には、寒暖差の激しい場所があると聞く。炎が吹き上がるような場所かと思えば、次の階層では吹雪が舞っていたりもするそうだ。防寒・防熱のためにも、一着くらい持っておいた方がいいとは思うが?」
「うーん……実際にどれくらい効果があるのか分からないしなぁ……」
俺が曖昧に答えると、リンは一歩、俺の前に出た。
「ん? じゃあ、私のを羽織ってみるか?」
そう言うと、彼女はためらいもなく、自分の外套を脱いで差し出してきた。
「え? あ、あぁ……ありがとう……」
手渡された新緑の外套は、ほんのりと温かかった。
ドクン、と胸が高鳴る。
「……どうした? 具合でも悪いのか?」
心配そうに覗き込んでくる彼女の声に、咄嗟に目をそらしながら答える。
「い、いや、大丈夫。ただちょっと、急に暑くなっただけ……かも」
それは、たぶん、体の内側が火照ってきたせいだ。
フローラル伯爵家の三女でもなく、ラベンダー侯爵家嫡男の婚約者でもないリンであれば――
そんな都合のいい想像を頭に浮かべてしまった自分を、心の中で叱る。
努めて平静を装いながら、リンの外套に袖を通す。
柔らかく身体を包み込んでくるその外套からは、彼女のぬくもりがまだ残っていて、フローラルと、ほんのりとした石鹸の香りがふわりと立ちのぼる。
胸の奥がざわめき、理性にひびが入るのが分かった。
「……うん、やっぱり、ちょっと大きいな」
とっさに言葉を口にして、慌てて外套を返す。
あのまま着続けていたら――
間違いなく、顔を埋めて匂いを嗅いでいたかもしれない。
まさか自分が、ここまで匂いフェチだったとは思ってもみなかった。
結局、店にある物を何枚か羽織ってみたが、肩は落ち、袖は指先まで隠れ、まるで子どもが親の服を借りているような有様だった。
リンも無言のまま何枚か外套を俺にあてがい、何度も首を傾げた。
やっぱり、俺にぴったりのサイズはないらしい。
観念して、衣料品店で実用的な防寒着を購入し、必要な備品と一緒に【収納】にしまい込む。
装備と道具を一通りそろえたあと、リンに頼んで剣術の稽古をつけてもらった。
俺が息を切らし、膝に手をついてゼェゼェ言っている一方で、リンはまるで涼風にでも当たっていたかのような顔をしていた。
何度か打ち合ってみたが、彼女は一度も息を乱さない。
相手が俺だと、体力を消費することもないということか。
いつか再会したとき、その涼しい顔をヒィヒィ言わせる……それを密かな目標とし、情報収集のため再びギルドへと足を運ぶ。
今日、偵察に出た連中が何かしらの情報を持ち帰っているかもしれない――そう踏んだからだ。
だが、その扉を開けた瞬間、ギルド内の空気がただならぬものだとすぐにわかった。
「だからよ! お前たちだけで、あの迷宮に行けるのかって聞いてんだよ!」
怒声がギルドの空気を切り裂いた。
その声の主は、先の大規模討伐で魔法師として参加していた男。
あの時、彼を含めた魔法師たちは、皆どこか傲慢な態度だった。だから印象に残っている。腰に短刀をぶら下がていた魔法師――それが、ベンダだった。
「……でも、バックスだったら冒険者を雇うのは魔法師だろ!?」
「それは管理された迷宮の話だ! こっちは違うって何度言わせるんだ、無能が!」
「だったら尚更だろうが! 取り分が二対八って、ベンダ! お前、ふざけてんのか!」
剣呑な空気が、あたりをピリつかせていた。
よく見れば、ベンダの法衣の胸元には銅の魔法陣の徽章。
その外縁の小穴はすべて、星を模したバッジで埋まっている。
銅証初段以上の魔法師。実力はある程度保証されているということ。
一方、彼に詰め寄っている二人の冒険者も、負けてはいない。
腰には剣、外套の襟には同じく銅製の徽章。
しかも、その徽章の穴もすべて埋まっていた。
言い争いの原因は、どうやら迷宮攻略後の報酬配分についてのようだ。
まだ迷宮に入ってもいないというのに、すでに戦利品の分け前でもめている。
まるで捕らぬ狸の皮算用……と思っていたが、実はこれ、普通のことらしい。
ふと周囲を見渡せば、他の冒険者たちも事前に取り分について話し合っている様子が目に入る。
ただし、こちらは揉めることもなく、落ち着いて協議している。
三人のように、怒鳴り声をあげてはいないだけに、余計にその不和が浮き彫りになっていた。
近くのテーブルで交わされていた冒険者たちの会話が、耳に飛び込んできた。
「だから魔法師ってやつは信用ならねぇんだよ。上から目線でこっちを見やがって」
「マジでな。迷宮に入って命張るのは俺たち前衛組なんだぜ? あいつら、ヤバくなったらすぐ逃げるくせによ」
「この前の大規模討伐もそうだったろ。負傷者はみんな冒険者。あいつらは遠くで手を翳してただけで、結局、俺たちよりも上等な褒美もらってたじゃねぇか。おかしいだろ、そんなの」
淡々と吐き出される不満の言葉が、妙に刺さった。
事実を指摘しているだけなのに、胸が、締めつけられるように痛くなる。
……魔法師って、こんなにも、嫌われているのか。
まぁ、あの態度を見ればそれにも納得だが。
その気まずい空気管の中、比較的平和なグループの輪にリンが近づく。
「すまない、少し迷宮のことで教えてほしいのだが……」
フードを取り、丁寧に問いかけると、冒険者たちの表情がほころぶ。
「え、あ、ああ……なんでも聞いてくれ」
「助かる。貴殿らは迷宮の中に入ったか?」
「ああ、入口まではな。今日のところは、実際に中まで潜ったのは一つのパーティだけ。俺たちは様子見ってところだ。たぶん、明日からが本番になるだろうな」
ってことは俺たちはそこまで出遅れてはいないのか。
「潜ってみての印象は? 難易度はどう読む?」
「そうだなぁ……オークだけしかいないのであれば、割と楽な部類かもしれん。今日潜ったパーティが、そのままクリアするんじゃないかって俺たちは予想してる」
「そんなに腕が立つのか?」
「詳しい情報はないけど、全員が銅証初段以上なのは確かだ。それに魔法師のほうが条件をかなり譲歩してたらしいんだ。四人で挑んで報酬はきっちり四等分。最奥で一カ月以上拘束されるって条件付きだけど、ダンジョンコアを持ち帰れば四人で大金貨一枚は確定。さらに魔石も合わせりゃ、破格の報酬。冒険者も必死になるさ」
……中には、ちゃんと話が通じる魔法師もいるらしい。
そんな風に思い始めたところで、隣の男が口を開いた。
「まぁ、その魔法師が聖系統の使い手だからこそ、って話なんだがな。だからボスを倒しても一カ月は迷宮に縛り付けられるってのも条件に入っている」
なるほど……。
最奥部で新しい魔法陣を見つけた時、魔法師がそれを修得できるまで、他のメンバーが付き添って待つ、というわけか。
とはいえ、大金貨一枚を四人で分けられるのなら、十分すぎるほどの見返りがある。
魔法師にとっても、新しい魔法を習得できるという意味で見逃せないチャンスのはずだ。報酬が多少減っても、釣り合いは取れている。
だが――ふと、ある疑問が浮かび、口にしていた。
「もし、その魔法陣が……魔法師がすでに習得しているものだった場合は?」
問い終えると同時に、男の口元に悪戯っぽい笑みが浮かんだ。
「それが一番ラッキーってやつよ。魔法師にとってはもう用はない。だからパーティごと、さっさと帰還。報酬はもちろん、約束通り四等分。こっちとしては願ったり叶ったりって話だ」
――なるほど、確かにそれは美味しい。
冒険者としては願ったり叶ったりといったところか。
ふと視線を巡らせると、さっきのベンダと呼ばれていた魔法師と冒険者たちはまだ激しく言い争っていた。ギルドの空気もどこか殺伐としている。
「リン、帰ろうか。あまり長居はしたくない」
「同感だ。貴重な情報、感謝する」
リンは胸元に手を添え、丁寧に一礼した。
その所作に倣い、俺も軽く頭を下げると、二人で静かにその場を後にした。




