84.Dear chaser(2)
光の程度によって青にも黒にもなる髪と、欲を感じさせないインディゴの瞳。
たたずまいは厳格な執事然としているフィリップと、アンナは視線を重ねていく。
どこか緩んでいた空気は、書庫本来の色へ深く染まっていき。
まだ目があっただけだというのに、アンナは背筋を伸ばして執事の言葉を待っていた。
「これは失礼を。ご来訪歓迎いたします、怪人殿。ヘブンスコール家の使いの方がいらっしゃるとは露知らず、ご挨拶が遅れたことを深くお詫びいたします。ところで、アンナ嬢がお相手をなされていたようですが。ご用件をお伺いしてもよろしいでしょうか」
スノードロップは鳴りやみ、プリムラは寝たまま。
フィリップの威圧感によって、アンナの口は強く結ばれてしまい、書庫の奥は静寂に包まれる。
そんな少女たちを一旦置いて、執事は来訪者である魔笛の怪人へ礼を尽くしていた。
ここへ訪れた用向きはなにか。
場合によっては主のザックへ話を通さなければならず、火急のものならば挨拶が遅れたことは失態となる。
事の比重を考えつつ、一挙手一投足を見逃すまいと怪人に視線を結ぼうとしたフィリップだったが、その固い意思はゆらりと避けられた。
「……消えましたか。アンナ嬢、何かご存じで?」
「このグラス、届けに来たんだって」
「グラスですか。ここへ来ていたということは、あて先は貴女ですね」
「うん、そうみたい」
フィリップの視線を避け、手にしたグラスと本はビューローへ置き、本人はそのまま風のように黒い霧となって書庫から消える。
一連の流れに区切りはなく、見事なまでの逃走にわずかな時間だが言葉を失ったフィリップは、残ったアンナから事情を聞いていく。
少女からすれば、怪人が現れてから消えるまでの様子を知っているのは、他に二人もいる。
スノードロップの音も、プリムラの姿もしっかりとアンナには捉えられているのに。
この場において自分だけが注目されるのは、アンナには不満に思えて仕方がなかった。
「詳しいことは戻りながらお聞きします」
終わりを告げた休憩時間。
もう少しだけとアンナは思うも、味方をしてくれやすい怪人はすでに去り、スノードロップは素知らぬ顔で音を静めている。
プリムラに関しては元々無関心なため、藁としてすがることもできない。
渋々とスノードロップを私室へ戻し、フィリップの背中に圧を感じながら後を追うアンナがついたのは、家具が全て壁側に寄せられ、余裕のある広さを見せる一室だった。
「なるほど。書庫にいたのはベルと手袋の載る資料がないか、探すためですか。そのための時間なら、いつでも作れましたよ」
「スノードロップが、ザックに借りを作りたくないって」
「だとしても、休憩時間では短いでしょうに」
不可思議な現象を引き起こす道具は魔術の範疇。
そういう物を集めた資料があるだろうか。そう考えて少女とスノードロップが一緒に書庫へ入ったのは、嘘ではない。
しかし休憩時間に探すことをアンナが了承したのは、これから行われる授業の続きに思うところがあるからだった。
「さて、書庫でのことはだいたい把握しました。これよりダンスの練習を再開します。準備はできてますね、アンナ嬢」
「できてなくても、やるんでしょう?」
「当然です。社交界において、貴女の恥は殿下の恥となる。それは許されないことだと、この屋敷へ来たときから言ってきたはずですが」
「動くの苦手」
「承知の上です。それでも形ぐらいにはしていただきます。よろしいですね」
社交界におけるダンス。スローワルツをはじめとした、地位ある男女の交流方法。
教会にいた頃ならば縁のない話だが、先月の男爵家によるパーティーで、アンナはアイザック王子のお気に入りとして貴族たちに噂されている。
となれば笑顔の仮面をかぶった彼らの前に、頻度は少ないとしても姿を現す機会はあるだろう。
そこで醜態をさらし続ければ、連れているザックたちの評判が落ちるのも必然。
それを危惧してフィリップが授業に力をいれているのは、アンナも分かっていた。
「さあ、手を」
しかし事情の理解は現状の不満を抑えられない。
フィリップが差しだした手を前にして、アンナは思わず半歩ほど下がってしまう。
どれだけ相手との身長差を考慮した全身を動きをしていても、低く怖い声音に穏やかさを混ぜても、目の前へ出された手の動きが流麗だとしても。
少女は執事を前にすると身を固めてしまう。
やらないといけないことだと分かっているから、アンナの手は差しだされた手に向かって動いていく。
しかし心が首輪をつけたのか、指先すら触れることなく少女の手は胸の前へ。
「まるで拾ったばかりの子猫だ」
空を切り、遠ざかっていく小さな手。
それを猟犬のごとく的確に追って掴み取ったフィリップは、一瞬肩を震わせたアンナの様子を淡々と例えていく。
主を支えることこそ執事の本懐。
そのためならば逃げようとする少女を捕まえ、無理にでも社交界の常識を教えこむことに躊躇はない。
だからこそ、半ば強引に自分の下へアンナを引き寄せ、始点とし、ダンスの流れにフィリップは移っていく。
「頭では理解しているのでしょう? なら後は、数をこなして覚えるだけです」
「分かってる。曲、かけないんだ」
「それ以前の問題です。ステップすらまともに踏めないのですから、まずは足の動きだけに集中してください。ほら、すぐつまずく」
「これはフィリップのせい」
ぎこちない動きを見せるアンナの両手は、瞬く間にフィリップとつながり、円状の動きに誘ってくる彼に合わせて、少女は遅れながらも足並みを揃えようとした。
しかしアンナは一つの円を描くことなく転びそうになり、空いての足を何度も踏み、挙句の果てには自分の両足を絡めて前のめりになり、フィリップの胸元へ顔をぶつける。
運動が苦手というアンナの事情を加味しても、誰もが目元を抑える状態だった。
「ごめん」
「構いません。これを無くすための練習です。ですがこの惨状は、ブリジットの教育の甘さが原因ですね」
「別に、ブリジットは悪くない」
「だと良いのですが。彼女は身内に対して甘くなるきらいがある。致し方のないことだとしても、今の貴女はいただけない」
アイザック王子の側を歩く淑女として、アンナは屋敷にやって来てから順々に教育を受けて来た。
座学は問題なく進んでいるが、ダンスをはじめとしてエスコートのされ方には多くの課題を残している。
それを自覚しているアンナではあるが、より実践的な指導としてフィリップが前に立つと、頭に書き写したはずの知識がうまく体に流れていかなかった。
怪しい風体によくなるザックにも、貴族のパーティーで見てきた紳士淑女にもなかった、フィリップへの感情。
怖いと一言で片づけられるものの、先日の殺人事件や黒い怪物たちへのものとも違う。
厳格な相手への苦手意識。体を巡る度に石化のような感覚を与える意思は、横へそらされたアンナの視線にも表れていた。
「もう一人の殿下は、貴女のことをどう思っているのか。お心を察しようなどと烏滸がましい考えですが、一端すら想像できない」
部屋を埋めるのは風の旋律と執事の指摘のみ。
アンナの視線は上にはいかず、言葉も胸の中へ落ちるだけ。
意識は足へ向いているはずなのに、足並みの乱れは時計の針の動きに合わせて進んでいく。
まるで、手をつながずに今と同じ踊りをしているように。
「──なら、僕の考えなら分かるかな。ラルストン」
こうなるからフィリップの授業からは遠ざかりたかった。
そんな本心を瞳を通して床にぶつけるアンナだったが、重く息もできない一室に吹きこんだ風が、そっと少女の背中をさする。
あらゆるリズムが止み、風の流れに沿って動いた二人の視線が捉えたのは、数日経ってもまだ包帯を巻いているザックの姿だった。




