83.Dear chaser
探偵が腰を落ちつけている下宿を訪れてから、五日がたった。
カメリアが作った夕食は思い出となり、だからこそ再訪する機会があると知っているアンナは、また食べたいと期待の色を日々つないでいく。
そんな少女が今いるのは、居候として身を置いているザックの屋敷。
奥まった廊下の先にある一室で、最も暗い場所。
かつて魔術研究に傾倒していた子爵が、晩年こもっていた不気味な書庫だ。
「見づらい」
二ヵ月前。アンナの手によって、初めて開放された子爵の書庫。
今となってはザックの部下たちによって調査と整理整頓が進み、復旧された照明によって、かつての暗闇は失われていて。
清掃も行き届き、ただ不気味だった書籍の山も厳かな雰囲気を持ちつつある。
亡くなったはずの子爵を形作っていた黒い煤も研究者に回収され、残ったのはアンナを迎え入れる本棚たちだけ。
「ねえ、こんな場所のどこが面白いの?」
ザックもいない。世話役のブリジットも、厳しさを見せるフィリップも。そして他の使用人たちも。
およそ人と呼べるのはアンナだけの世界で、少女は独り、書庫の奥にあるビューローとセットの椅子に座っていた。
亡き子爵が最期までいた場所。
そこで身を綺麗にされた書物たちを眺めているアンナは、ビューローの上へ置かれた白銀のハンドベルへ語りかけていく。
「スノードロップ」
『──面白くはないわ。ただ他より気が楽なの。偽物とはいえ、近い物が多いからかしら。貴女、どうせならここを自室にしなさい』
他者からすれば、ただの澄んだ音色。
しかしアンナの耳には、ハンドベルの旋律は雪を思わせる女性の声として聞こえていた。
「寝るところない」
『あの王子に改装を頼みなさい。もしくは私をここへ置いて、貴女だけ部屋に戻るの』
「私が管理するってザックと約束したから、置いていくのは駄目」
『なら選択肢は一つだけね。……それで、アンナ。彼の手がかりは見つかったの?』
重く暗い色に満ちる部屋の中で、ひと際目立つ白銀のハンドベル。
黒とは真逆。神々しさすらある意匠のそれは、教会のそれに通じている。
そんなスノードロップの隣にいるアンナは、浮くどころか溶けこんでいた。
冬に相応しい厚手の生地でできた黒のワンピースに、室内用のウールのアウター。
そして少女の手を飾る、一対の黒い手袋。
動いていなければ、場に合わせて作られた精巧な人形と思えるほど馴染んでいるアンナは、スノードロップの問いに対して身に着けている手袋を目にしながら答えていく。
「全然。この手袋の模写だけじゃ無理みたい」
アンナが手に着けられているのは、スノードロップに触れるときだけ作られる、黒い霧が圧縮してできた手袋。
スノードロップからすれば番によく似た人形のような物で、外見だけの偽物。
本来は自分と同じく純白だったと語る彼女にとって、異色は不満の一つだった。
『役に立たないわね。話を聞いてから、その偽物の作りが良くなったのは褒めてあげる。でも、肝心の手がかりにつながらないのなら、やっぱり私が動こうかしら』
「別にいいけど、あの人をどうにかできるの?」
『……はあ。本当、気に入らない。あの王子も、そして貴方もよ。聞いているの、怪人』
アンナとの会話では、約束事の進捗が芳しくないことへの不満はあっても、少女への敵意はなかった。
そんなスノードロップが警戒の色を強めた旋律を鳴らすと、並ぶ本棚たちの間から、一つの影が首を回していく。
返事代わりの軽快な笛の音。
黒い影は極彩色を描きだし、長い手足を持った人型の像を結ぶ。
アンナたちへ向けられるのは、道化の笑顔が彫られた不気味な仮面。
──巷で義賊と噂された魔笛の怪人。
彼はアンナの視線にも気がつくと、豊かな喜色を見せる足取りで少女へと近づいていく。
『彼を見つける約束、貴方だってしているのよ。それなのに好き勝手していて、手がかりの一つでも……って、少しは聞きなさいよ』
「えっと。持ってるそれ、クリスティーが作ったグラス? それをどうするの」
右手にはやや黒みの強い青のグラス。左手には、本棚から見つけたらしい何かの書物。
それを同時にアンナに見せつける怪人は、言葉を紡がず、意を汲み取ってくれるのを待っていた。
器用に左手だけで本のページをめくる怪人は、目当ての部分にたどり着いたのか、少女へおもむろに見せて、重ねてグラスを強調していく。
「飲み物の作り方だ。そうだね、それは飲み物を入れる物だよ。でも、そこに書いてあるの毒だと思う」
『そういうことじゃないわ、アンナ。あの人間が作った物を使って欲しいのよ、ソレは。わざわざ贈り物を届けるために来たの? 貴方』
ガラス職人の息子、クリスティー。
彼と兄弟同然に暮らしてきた怪人は、クリスティーが作ったグラスを手に屋敷へ訪れていた。
作った本人に断りを入れたかは不明、屋敷に入る許可を取ったのかも不明。
黒い霧とともに現れた彼だったが、アンナとスノードロップは特に気にすることなく、今を過ごしている。
そんな自由に生きている怪人だが、アンナの解釈には困ったように首を傾げ、スノードロップの音にはその通りとばかりに彼女へ顔を向けていた。
『都合のいい耳してるわね。出来は及第点、女性への贈り物としては……本人じゃないから、論外よ。というより、その子は直接じゃないと伝わらないって、今分かったでしょう』
「なんの話?」
『自分の口で好きと言えない男に、振り返ってもらう価値はないって話よ』
鳴っている音はスノードロップの一つだけ。
だというのに彼女と怪人は意思疎通を図れており、怪人に至ってはスノードロップの音が響いたのか、考えるように天井を見上げている。
アンナはそれを、疑問符を浮かべながら両者へ視線を行き来させていた。
『……もう。そんな話をしていたら、彼との思い出が浮かんできちゃったじゃない。聞きなさいよ、アンナ。あの人ったら、結構意地悪なの。言って欲しいこと分かってるくせに、とぼけたりするのよ? そう焦らしてくるのも愛しているのだけれど──』
「やっぱり、好きだから捜しているんだ」
『急になに当たり前のことを。私と彼は一緒にいたいの。いえ、いなきゃいけないの。それは貴女も分かっていることでしょう』
「好きな人と一緒じゃないと……うん、そうだね」
白銀のハンドベルは人を操る音色を奏でられる。
しかしそれは、番と彼女が語る純白の手袋がいなければ、人が人へ使うものとしては成立しない。
彼女が捜している彼を介さずに触れれば、毒が回るように人は彼女の歌に魅せられて、人形となってしまう。
人を操り動き回るのは、本意ではない。
だが手袋の彼とまた一緒になりたい想いが強いからこそ、先日の王子暗殺未遂事件が起きてしまった。
大切な人とずっと一緒にいたい気持ちは、アンナにもよく理解できる。
怪人もクリスティーを思い浮かべているのか、右手に持ったグラスを真剣に見つめていた。
『この点だけは同意して貰えるかしら。この屋敷の本当の主である、黒猫さん』
ずっと一緒にいたい人を思い浮かべているのは、何もこの三人だけではない。
そう告げるスノードロップが音を向けたのは、アンナが座る椅子の下。
そこにいたのは亡き子爵に飼われ、幽霊となっても屋敷に残り続けていた黒猫、プリムラだった。
「プリムラ、聞いてないみたい」
『いえ、聞いてるわ。今絶対、こっちに耳向けていたもの』
アンナ、スノードロップ、魔笛の怪人。
三人の視線が黒猫に集まるも、とうの本人は素知らぬ顔で丸くなっている。
この書庫を拠点として、屋敷の敷地内を庭としている幽霊の黒猫は、三者の圧など意にも介していなかった。
『もしかして昨夜、怒鳴ったのを根に持っているのかしら。あれはそっちが悪いんじゃない。私を玩具にしようとしたんだから』
「あれはわたしも、ちょっと怒ってるよ」
『な、何よ。深夜にいきなり私を殴って来たんだから、怒るのは当然でしょう』
「あれ、すごいうるさかった」
日付が変わったころ。暇を持て余したプリムラがスノードロップを叩き、屋敷全体に耳を裂く高温が鳴り響く。
そんな事件に恨みを向けるアンナは、音域を下げていくスノードロップへ半目を向けていた。
「プリムラも。あまり悪戯は──」
「こちらにいましたか、アンナ嬢。休憩は終わり。授業再開です」
次に足元で丸まっている幽霊の黒猫へ、ちょっとした文句を言おうとアンナが口を開きかける。
だがそんな口へ施錠を移し、代わりに開け放たれた書庫の扉からは、低く重みのある男性の声が歩いてきた。
均一な歩調に無駄のない足音。
それを連れてアンナの前に姿を見せたのは、この屋敷を預かる執事──フィリップ・ラルストンだった。




